時雨 (白露型駆逐艦)

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時雨
IJN DD Shigure in 1939.jpg
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 白露型駆逐艦
艦歴
発注 マル1計画
起工 1933年12月9日[1]
進水 1935年5月18日[1]
就役 1936年9月7日[1]
最後 1945年1月24日撃沈
除籍 1945年3月10日
要目
基準排水量 1,685トン
全長 111 m
最大幅 9.9 m
吃水 3.5 m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸
出力 42,000馬力
速力 34ノット
航続距離 18ノットで4,000海里
乗員 222名(昭和11年10月時)[2]
兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門
50口径12.7cm単装砲 1基1門
40mm単装機銃 2基
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(魚雷16本)
爆雷投射機2基
爆雷×16
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時雨(しぐれ)は、日本海軍駆逐艦白露型駆逐艦(白露型一等駆逐艦)の2番艦である[3]。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)時雨」に続いて2隻目。「雪風佐世保の時雨」と並び称された武勲艦でもあった[4]

概要[編集]

白露型駆逐艦2番艦・時雨は第27駆逐隊に所属して太平洋戦争の最前線で活動した。時雨が参加したおもな海戦および作戦は、珊瑚海海戦ミッドウェー海戦(攻略部隊主隊所属)、マキンの戦いガダルカナル島の戦い鼠輸送)、第三次ソロモン海戦(戦艦比叡救援)、ケ号作戦(牽制部隊)、ベラ湾夜戦第一次ベララベラ海戦第二次ベララベラ海戦ニュージョージア島の戦い(セ号作戦)、ブーゲンビル島沖海戦ラバウル空襲トラック島空襲渾作戦マリアナ沖海戦レイテ沖海戦(スリガオ海峡夜戦)、フィリピン方面輸送作戦(空母雲龍護衛)、ヒ87船団護衛(沈没時)。僚艦が次々に撃沈される中で幾度も生還したため『呉の雪風、佐世保の時雨』と呼ばれた。時雨について歴史学者サミュエル・モリソンは著書『モリソンの太平洋海戦史』の中で「幸運艦」[5]、「不滅艦『時雨』」[6]と表現している。戦争後半には『絶対に沈まない』という神話を持つに至った歴戦艦だったが[7]、1945年(昭和20年)1月24日、輸送船護衛中にマレー半島近海でアメリカ軍の潜水艦に撃沈された。

艦歴[編集]

白露型駆逐艦2番艦・時雨は、旧式化した峯風型駆逐艦羽風島風の代艦として建造された[8]浦賀船渠1933年(昭和8年)12月9日に起工[9]。12月15日、建造中の駆逐艦3隻にそれぞれ白露(シラツユ)時雨(シグレ)村雨(ムラサメ)の艦名が与えられた[10]。当時、有明・夕暮・白露・時雨・村雨・夕立・春雨は『有明型駆逐艦』に類別されていたが、諸事情により有明・夕暮は初春型駆逐艦に類別され、新たに『白露型駆逐艦』が新設されている[11]1935年(昭和10年)5月18日進水[12]1936年(昭和11年)9月7日に竣工[1]。横須賀鎮守府籍[13]

同年10月上旬、北海道で陸軍特別大演習が実施されるにあたり、昭和天皇は戦艦比叡を御召艦として横須賀から北海道へ向かう[14]。この時、竣工したばかりの白露型2隻(時雨、白露)は御召艦「比叡」の供奉艦に指定される[15]。2隻は9月24日(横須賀港)から9月26日室蘭市室蘭港まで同艦と天皇を警護した[16]。10月9日13時30分、天皇は小樽港より比叡に乗艦した[17]。10月10日8時35分函館港着、同日16時に函館市[18]。10月12日9時35分に横須賀へ帰着して天皇は比叡を退艦し、3隻(比叡、時雨、白露)は特別任務を無事に終えた[19]

この北海道行幸後も白露型2隻(時雨、白露)は比叡と行動を共にした。1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖で行われた昭和11年特別大演習観艦式(御召艦比叡、供奉艦鳥海、愛宕、足柄)に参加する。再び御召艦「比叡」の供奉艦となり、10月25日に神戸港に到着する[20]。26日、昭和天皇は広島県江田島海軍兵学校に行幸する事になり比叡から高雄型重巡洋艦2番艦愛宕に移乗、白露型2隻(時雨、白露)は引き続き供奉艦任務を務めた[21]。 海軍兵学校行幸を終えて神戸に帰着すると御召艦は愛宕から比叡に戻り、29日の観艦式当日を迎える[22]。観艦式終了後、白露型2隻(時雨、白露)は御召艦比叡と共に横須賀へ向かった[23]。10月30日、横須賀着[24]。11月1日、第9駆逐隊に編入され、12月1日に第一水雷戦隊所属となる。

1938年(昭和13年)12月1日の段階で、白露から五月雨までの白露型各艦は横須賀鎮守府に在籍[25]。さら初春型2隻・白露型2隻の計4隻(有明、夕暮、白露、時雨)で同鎮守府所属の第9駆逐隊を編制していた[26]。だが同年12月15日、4隻は佐世保鎮守府へ転籍し、第9駆逐隊は第27駆逐隊と改名された[27]。 開戦当初、白露型全10隻のうち8隻が第2駆逐隊(村雨夕立春雨五月雨)と第24駆逐隊(海風山風江風涼風)に所属し、1番艦白露と2番艦時雨のみ初春型駆逐艦2隻(有明夕暮)と共に第27駆逐隊を編成していた[28]

太平洋戦争緒戦[編集]

太平洋戦争開戦時には第一艦隊・第一水雷戦隊・第27駆逐隊(第1小隊《白露、時雨》、第2小隊《有明、夕暮》)に属し、柱島泊地に所在していた。12月上旬、山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する旗艦長門以下連合艦隊主力部隊(長門、陸奥、伊勢、日向、山城、扶桑、鳳翔)等の護衛艦として小笠原近海まで進出する。 1942年(昭和17年)1月15日、第27駆逐隊第1小隊(時雨、白露)は第九戦隊司令官岸福治少将の指揮下に入り、陸軍第二師団輸送船団の護衛を行う事になった[29]。護衛部隊は第九戦隊(大井北上)、第27駆逐隊第1小隊(白露、時雨)、第32駆逐隊(刈萱芙蓉朝顔)で構成されており[30]、27駆1小隊は第二護衛隊であった[31]。 1月18日、輸送船6隻と共に山口県門司を出発[32]。22日に台湾の基隆市に到着[33]、27日出港し29日馬公市[34]、31日の高雄着をもって第九戦隊の指揮下を離れた[35]。2月17日、第27駆逐隊1小隊(白露、時雨)は補充用の零式艦上戦闘機フィリピンミンダナオ島ダバオへ輸送する瑞鳳型航空母艦1番艦瑞鳳を護衛し横須賀を出港、3月2日に帰投した[36]

4月10日附で第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴。司令官原忠一少将)より駆逐艦2隻(陽炎型《秋雲》、吹雪型《》)が除かれ、4月18日より時雨以下第27駆逐隊は、五航戦の指揮下に入る[37]。また五航戦もポートモレスビー攻略準備のため、空母祥鳳、第五戦隊、第7駆逐隊と共に南洋部隊に編入された[38][39]。 翌日、第五航空戦隊はドーリットル空襲をおこなったアメリカ軍機動部隊(ホーネット、エンタープライズ)捕捉のため台湾の馬公より出撃するが、すぐにトラック泊地への回航を命じられた[40]

5月8日、第27駆逐隊(時雨《司令駆逐艦》、白露、有明、夕暮)は珊瑚海海戦に参加する。MO機動部隊(総指揮官高木武雄中将)は、本隊:第五戦隊(司令官高木武雄少将、妙高羽黒)・第7駆逐隊第1小隊()、航空部隊(指揮官原忠一少将):第五航空戦隊(司令官原忠一少将、瑞鶴翔鶴)・第27駆逐隊、補給部隊:(輸送艦東邦丸)及び第六戦隊第2小隊(重巡衣笠古鷹:5月7日MO機動部隊編入)という戦力で編制されていた[41]。 5月8日、27駆有明はインディスペンサブル礁に不時着した翔鶴偵察機を救助するため、MO機動部隊から分離していた[42]。護衛駆逐艦(時雨、白露、夕暮、曙、潮)は、重巡4隻(妙高、羽黒、衣笠、古鷹)と協力し、空母2隻(瑞鶴、翔鶴)を護衛してアメリカ軍機動部隊攻撃隊と交戦する。対空戦闘で翔鶴は大破炎上したが沈没には至らず、瑞鶴は無傷であった。3隻(空母《翔鶴》、駆逐艦《夕暮》)は共に日本本土へ向かう[43]。海戦後の本艦は不時着機の捜索に従事した[44]。この海戦でMO機動部隊は米空母レキシントンを撃沈、ヨークタウンを損傷後退させてアメリカ軍機動部隊を撃退したものの、多くのパイロットと艦載機を失い燃料も不足、ポートモレスビー攻略作戦は中止された[45]。 5月17日、第27駆逐隊はMO機動部隊の編制から外れ[46]、同時に第五戦隊の内地回航護衛を命ぜられている[47]。17日のトラック泊地出港直後、時雨は米潜水艦に対し砲撃と爆雷攻撃を行い、撃沈確実と報告している[48]。22日、呉帰港[49]

なお珊瑚海海戦の戦闘詳報(戦訓)には『(ハ)駆逐艦ハ母艦1隻ニ就キ少ク共2隻、航空機ノ攻撃ニ策応夜戦ヲ行フ為ニハ母艦1隻ニ付4隻ヲ必要ト認ム。第一次攻撃飛行機収容特ニ多数不時着機ノ為ニハ1艦ニ2隻ハ是非控1ヲ要スルヲ以テナリ。尚機動部隊ニ随伴スベキ駆逐艦ハ是非共航続距離ノ大ナルモノナルヲ要シ翔鶴級ト同等ヲ欲スルモ、已ヲ得ザレバ18節ノ6000浬程度トシ随伴行動中母艦補給ノ時機迄1回ニテ足ル如クスルヲ要ス』とある[50]

6月上旬のミッドウェー海戦では主力部隊護衛部隊として中途まで出撃した。 6月25日、第27駆逐隊司令は吉村真武大佐(7月20日より軽巡龍田艦長。後日、軽巡矢矧初代艦長等を歴任)から瀬戸山安秀大佐に交代[51]。 7月14日、艦隊の再編にともない第27駆逐隊は第四水雷戦隊(旗艦由良。司令官高間完少将)[52]に編入され、白露型駆逐艦4隻で編制された第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)、朝潮型駆逐艦3隻(朝雲夏雲峯雲)編制の第9駆逐隊と行動を共にする。

ガダルカナル島の戦い[編集]

8月11日、呉を出港し南方へ進出するとマーシャル諸島で活動する。8月17日、アメリカのノーチラスアルゴノートの2隻の潜水艦に輸送されたアメリカ軍海兵隊はギルバート諸島ブタリタリ(マキン環礁)へコマンド作戦を実施、奇襲上陸を敢行して日本軍守備隊を壊滅させた[53]。内南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)は、第27駆逐隊(時雨、白露)、哨戒艇36号、トラック第六根拠地連合陸戦隊に出撃を命じた[54]。 8月21日9時30分、第27駆逐隊はマキン島に到着して陸戦隊を上陸させ、別方面からも派遣された部隊と共同し、撤退に失敗していた海兵隊員若干名を捕虜とした[55]ヤルート環礁を出撃した第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)は輸送船2隻を護衛してギルバート諸島・アパママ島へ向かい、9月2日に同島を無血占領した[56]。 続いて27駆第1小隊(時雨、白露)と伊号第三十一潜水艦は、特別奇襲隊としてサンタクルーズ諸島ヌデニ島のアメリカ軍飛行艇基地砲撃を命じられた[57][58]。時雨、白露は9月9日にヤルートを出発し、12日夜ヌデニ島砲撃を敢行しようとするがアメリカ軍の警戒と暗雲のため湾内突入を断念、湾外より砲撃を実施した(時雨53発、白露39発、計92発)[58]。結局、湾内にアメリカ軍はいなかった事が飛行偵察により判明した[58]。15日に本隊へ合流[59][60]。9月21日、各艦(由良、時雨、白露)は前進部隊(第二艦隊)から分離、22日ショートランド泊地に進出した[61]。以後、ガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に10回従事した。

10月4日、第27駆逐隊司令瀬戸山安秀大佐(司令駆逐艦時雨)は駆逐艦4隻(時雨、白雪吹雪叢雲)をひきいてガ島輸送を実施した[62]。 10月7日朝、水上機母艦日進秋月型駆逐艦1番艦秋月による重火器輸送が実施されることになり、駆逐艦部隊(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)は護衛と輸送を兼ねて日進隊(日進、秋月)と共に出撃した[63]。だが天候不良により第十一航空艦隊による直衛戦闘機派遣が取りやめられ、日進・秋月は下令によりショートランド泊地へ戻る[63]。駆逐艦5隻(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)のみでガ島輸送を実施した[63]。10月10日、駆逐艦3隻(時雨、白露、天霧)はガ島輸送を実施、揚陸時に装載艇2隻を喪失した[64]

10月11-12日、日本海軍はサボ島沖海戦において4隻(重巡《古鷹》、駆逐艦3隻《吹雪、叢雲、夏雲》)が沈没、重巡青葉が大破、第六戦隊司令官五藤存知少将戦死という敗北を喫した[65]。10月12日午前2時、増援部隊(川内、由良、天霧、浦波、磯波、時雨、白露)はショートランド泊地を出撃し、損傷艦および日進隊救援のためガ島方面へ向かう[66]。午前9時以降、時雨以下各艦は第六戦隊及び日進隊(衣笠、日進、千歳、秋月、綾波)と合流、午後2時にショートランド泊地に帰投した[67]。なお第六戦隊を撃破して勝利したアメリカ艦隊も損傷・消耗してガ島海域から後退、この間隙をついて第三戦隊(司令官栗田健男少将/金剛榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃が実施された。

10月13日、輸送船6隻(笹子丸、埼戸丸、佐渡丸、九州丸、吾妻山丸、南海丸)と護衛艦(秋月《四水戦旗艦》、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明)による大規模輸送船団、増援部隊(川内《三水戦旗艦》、由良朝雲白雪)による『東京急行』、外南洋部隊(鳥海《第八艦隊旗艦》、衣笠天霧望月)によるヘンダーソン飛行場砲撃が実施される事になり、各隊はラバウルやショートランド泊地を出撃してガ島へ向かった[68]。だが金剛・榛名・鳥海・衣笠による飛行場砲撃でもヘンダーソン飛行場の機能を破壊することが出来ず、15日朝以降の空襲により輸送隊は輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)を喪失し、16日-17日の空襲とアメリカ軍艦艇による艦砲射撃により揚陸した軍需品・資材・兵器のすべてを喪失した[69]

10月16日、連合艦隊は水上機母艦(日進、千歳、千代田)による輸送を止め、軽巡洋艦及び駆逐艦での輸送を下令、日本陸軍ガ島総攻撃前の最後の輸送作戦とした[70]。これを受けて軽巡洋艦戦隊(川内、由良、龍田)と第四水雷戦隊(旗艦秋月)、同水雷戦隊第1小隊(第9駆逐隊《朝雲》、第11駆逐隊《白雪》、第6駆逐隊《暁、雷》)、第2小隊(第2駆逐隊《村雨、夕立、春雨、五月雨》)、第3小隊(第19駆逐隊《浦波、敷波、綾波》)、第4小隊(第27駆逐隊《時雨、白露、有明》)による輸送作戦(陸兵2159名、野砲6門、速射砲12門、軍需物資)が行われることになった[71][72]。 10月17日午前2時-4時に各隊は漸次ショートランド泊地を出撃すると、20時40分〜22時にかけてガダルカナル島に到着し軽巡戦隊はエスペランス岬にて、水雷戦隊はタサファロング岬にて揚陸に成功した[72]。またサボ島沖海戦で沈没した駆逐艦吹雪の乗組員8名を含む231名を救助した[73]。各隊が揚陸を行う間、白露型2隻(村雨、時雨)は揚陸作戦中の哨戒を担当したのち、ヘンダーソン飛行場に対し艦砲射撃を行った(時雨の発射弾数100発)[74]。帰途、由良がアメリカ潜水艦の雷撃により不発魚雷1本が命中するも増援部隊はそれ以上の被害を出すことなく10月18日9時30分にショートランド泊地に帰着した[75][72]

10月25日、陸軍第2回総攻撃に呼応して突撃隊(暁、雷、白露)、第二攻撃隊(秋月《旗艦》、由良、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》)がガダルカナル島砲撃に向かうが、アメリカ軍機の空襲により由良が沈没し秋月も中破、四水戦旗艦は村雨(のち朝雲)に変更された[76]。この時の時雨は甲増援隊(敷設艦津軽龍田、第27駆逐隊《時雨、有明》)に所属しており[77]、由良の沈没を受けてガ島への増援輸送は中止された。陸軍総攻撃も失敗したものの、呼応して発生した南太平洋海戦で連合艦隊は勝利、戦局は一時的に日本軍有利に傾いた[78]。 連合艦隊はガダルカナル島へ大規模な増援部隊を送り込むと同時に、最大の障害であるヘンダーソン飛行場を破壊すべく、再び戦艦による艦砲射撃を企図する。第十一戦隊(司令官阿部弘毅中将:戦艦比叡霧島)を基幹とする挺身攻撃隊が編成され、第四水雷戦隊もその中に組み込まれた。総攻撃を前にして、増援部隊は軽巡洋艦と駆逐艦を投入しての鼠輸送(東京急行)を敢行する。

10月29日、第27駆逐隊(時雨、有明)によるガ島輸送を実施したがアメリカ軍機3・魚雷艇6隻に迎撃されて交戦状態となる(魚雷艇2隻撃沈を報告)[79]。この揚陸作戦では、第十七軍参謀長と大前敏一外南洋部隊参謀と少量の物資を揚陸しただけに終わった[79]。 11月1日夜、甲増援隊(朝雲《四水戦旗艦》、天龍、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、白雪、暁、雷)、乙増援隊(満潮、浦波、敷波、綾波、望月)、第一攻撃隊(衣笠《三水戦司令官旗艦》、川内、天霧、初雪)は順次ショートランド泊地を出撃、ガ島へ向かう[80]。11月2日夜、揚陸地点での悪天候により装載艇多数を喪失、物資も一部揚陸できなかったが、作戦はおおむね成功した[80]。 11月4日深夜、甲増援隊(朝雲《旗艦》、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)、乙増援隊(浦波《三水戦旗艦》、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)はショートランドを出撃、5日夜の揚陸作戦は成功し被害もなかった[81]。本輸送作戦終了後、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を川内に変更、増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継ぎ、川内以下三水戦各艦をひきいてトラック泊地へ戻った[81]。 11月7日、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐指揮のもと、乙増援隊(朝雲《旗艦》、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮)によるガ島輸送を実施することになり、第四水雷戦隊旗艦は一時的に軽巡天龍となった[82]。乙増援隊の駆逐艦10隻は同日深夜にショートランド泊地を出撃、8日夜にガ島揚陸を成功させた[82]

本輸送作戦をもって第四水雷戦隊は外南洋部隊(第八艦隊)の指揮下を離れることになり、第十一戦隊(比叡、霧島)の護衛を命じられた[82]。第27駆逐隊(有明欠)の任務は、第十一戦隊が飛行場砲撃を行う際のガダルカナル島〜ラッセル諸島間の警戒である[83]。11月11日、第四水雷戦隊(朝雲、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、夕暮)はショートランド泊地を出撃し、洋上で挺身艦隊主力(比叡、霧島、長良、天津風、雪風、暁、雷、電、照月)と合同、ガダルカナル島へ向かった[84]。しかし日本海軍の動向を察知していたアメリカ海軍は事前に艦隊を配置しており、日米両軍の間で第三次ソロモン海戦が生起した。

第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)は駆逐艦2隻(夕立、暁)が沈没した第一夜戦には参加しなかった。その後、避退する戦艦霧島に合流して同行していたが、第十戦隊司令官(長良)より命令があり[85]、比叡救援のため反転した[86]。先に到着していた陽炎型8番艦雪風(第16駆逐隊)、秋月型2番艦照月(第61駆逐隊)と共に、第一夜戦で損傷を受け行動不能となった挺身艦隊旗艦/戦艦「比叡」を護衛する[87]。 日中、護衛艦艇はアメリカ軍機の攻撃により損傷を受けたが、深刻な損害を受けた艦はなかった[88]。時雨は艦長負傷、3番砲旋回手下士官1名戦死、軽傷兵1、機銃掃射による若干の損傷を報告した[89][90]。だが爆弾と魚雷命中により浸水の進んだ比叡は放棄せざるを得なくなった[91]。比叡乗組員退去後、雪風に移乗していた挺身艦隊指揮官/第十一戦隊司令官(阿部弘毅少将より「時雨」以下第27駆逐隊に比叡雷撃処分の命令が下った[92]。雪風は各艦に魚雷2本を準備するよう通達[93]。27駆司令艦時雨に処分が下令された直後[94]、『処分待て』の通達があった[95]。トラック泊地に停泊する戦艦大和山本五十六連合艦隊司令長官より14時40分発電『比叡処分するな』の命令があった為である[91][96]。その後第27駆逐隊司令部は、機銃掃射により誘爆の危険性があった魚雷4本を投棄したと報告している[97]。結局、駆逐艦5隻(雪風、時雨、白露、夕暮、照月)は比叡を放棄して避退、その後同海域に戻ると比叡の艦影はなく、沈没したものと推定された[98][91]。18日、27駆2隻(時雨、夕暮)と共にトラックに帰投し応急修理を受けた[99]。しばらくトラック泊地にて待機した。

11月29日、第27駆逐隊での僚艦である白露はニューギニア方面でのブナ輸送作戦において空襲により大破したためトラック泊地に戻って修理を受けた。

輸送・護衛任務[編集]

1942年(昭和17年)12月10日、横須賀からトラック泊地へ輸送任務を行う空母龍鳳より第四水雷戦隊に対し、今後の護衛駆逐艦について問い合わせがあった[100]。四水戦司令部は2隻(朝潮型《朝雲》、白露型《時雨》)を指定[101]。 12月12日、龍鳳は陽炎型10番艦時津風(第16駆逐隊)と共にトラックへ向けて航行中、アメリカの潜水艦の雷撃により損傷して横須賀に引き返した[102]。13日、四水戦2隻(朝雲、時雨)はトラック泊地を出撃、15日サイパン諸島北西で空母冲鷹、駆逐艦卯月と合流すると、18日にトラックへ帰投する[103]。21日、冲鷹を護衛してトラックを発ち26日午後1時、横須賀に到着した[104]。航海中の22日、海軍大臣より白露型駆逐艦及び初春型駆逐艦毘式四十粍機銃九六式二十五粍高角機銃に換装し、代償重量として予備魚雷2本を下すようにとの通達がなされた。[105]

1943年(昭和18年)1月2日、3隻(空母《冲鷹》、駆逐艦《朝雲、時雨》)は横須賀を出港し8日にトラック着、その後は各地への輸送任務に従事した[106]。 1月15日、「時雨」は輸送船3隻(帝洋丸、妙法丸、第一眞盛丸)を護衛してトラック泊地を出撃[107]。1月19日、米潜水艦ソードフィッシュの雷撃で妙法丸が沈没した[108]。救援のため駆逐艦秋月と敷設艦初鷹がショートランド泊地より現場に急行するが、秋月がアメリカの潜水艦ノーチラスから雷撃されて大破、長期離脱を余儀なくされた[107]。帝洋丸、第一眞洋丸は21日夜、ブーゲンビル島に到着した[107]

1月下旬、ガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦に関し、警戒隊:重巡洋艦4隻(愛宕高雄羽黒妙高)、戦艦2隻(金剛榛名)、軽巡洋艦3隻(長良神通阿賀野)、空母2隻(隼鷹瑞鳳)、駆逐艦6隻(朝雲、五月雨、時雨、陽炎大波敷波)として参加する[109][110]。ケ号作戦実施部隊に編入された朝雲・五月雨を除き、アメリカ軍と交戦することなく2月9日になってトラックへ帰投。 2月15日、第三戦隊(金剛、榛名)と共にトラックを出発、20日に佐世保へ帰投すると船体整備を行う[111]。 3月8日、山雲初代駆逐艦長・天津風初代駆逐艦長を務めた原為一大佐が第27駆逐隊司令として「時雨」に着任する。修理後、時雨は3月13日に佐世保を出発し、21日トラック着[112]。 哨戒や輸送任務に従事した後、4月16日トラック発、21-25日横須賀滞在、大鷹型空母2隻(雲鷹、冲鷹)を護衛して30日にトラックへ戻る[113]。 5月6日、長良より一時的に第四水雷戦隊旗艦任務を引き継ぐ[114]。8-9日、時雨は内地へ向かう戦艦大和、第五戦隊、空母2隻(雲鷹、冲鷹)の前路対潜哨戒を行い、トラック泊地へ戻った[115][116]

5月17日、第27駆逐隊(時雨、有明)、第61駆逐隊(初月、凉月)、第24駆逐隊(海風)は、連合艦隊旗艦/戦艦武蔵・第三戦隊(金剛、榛名)・第八戦隊(利根、筑摩)・第二航空戦隊(飛鷹)を護衛して17日にトラック発、22日に横須賀到着[117][118]。この時、武蔵には古賀峯一連合艦隊司令長官が座乗しており、さらに海軍甲事件(4月19日)で戦死した山本五十六元帥の遺骨が安置されていた。横須賀到着後、一旦木更津に移動したのち、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)、巡洋艦(最上大淀)等と共に横須賀から西日本へと向かう[119]。 6月2日、鹿児島にて第一航空戦隊基地物件を揚陸すると佐世保に向かい、同地で艦橋前部に機銃の増備を行うことになった(前年12月の命令に依る)[120]。だが全工事を終わらせることが出来ず、部品のみを搭載して残工事は横須賀海軍工廠もしくはトラック泊地の工作艦明石で行うよう通達がなされた[121]。佐世保から横須賀への移動中、「時雨」は潮岬沖で米潜水艦らしきものに爆雷34個を投射、概ね撃沈したものと報告した[122]。 横須賀到着後、「時雨」は機関部の蒸気漏洩部の検査と修理を行う必要があり、第二航空戦隊(飛鷹)の護衛艦から外れた[123]。 6月10日14時、3隻(空母《飛鷹》、駆逐艦《夕暮、有明》)は横須賀を出港したが、同日18時53分(出港から約5時間後)に米潜水艦の雷撃で「飛鷹」は大破、軽巡五十鈴に曳航され横須賀へ戻った[124][125]

6月16日、修理を終えた時雨は第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第二航空戦隊(龍鳳)、駆逐艦部隊(第16駆逐隊《雪風》、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第24駆逐隊《涼風》、夕雲型《清波》、秋月型《新月》)等と共に横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した[125][126]。 トラック到着と同時に陽炎型2隻(雪風、浜風)が一時的に第四水雷戦隊の指揮下に入り、本艦と共にナウル島輸送任務を担当する[127][128]。24日、第三次輸送隊(時雨、駆潜艇/ch28号、秋葉山丸)はトラックを出港[129]。航海中の27日、トラックへ帰還中の3隻(長良、雪風、浜風)とすれ違う[130]。29日ナウル島着[131]。輸送任務を終えてトラック泊地へ向かった[132]。帰途、B-24の爆撃を受けたが被害はなく、7月3日に帰投した[129]

7月1日、第2駆逐隊は解隊[133]。第四水雷戦隊(旗艦長良)は第27駆逐隊が1番隊、五月雨が四水戦2番隊という区分となる[134]。その後、2隻(長良、時雨)は第二航空戦隊飛行隊要員(隼鷹、龍鳳[135])のマーシャル諸島撤収ならびにラバウル輸送任務に従事した[136]。 ルオット輸送(7月11日)、カビエン輸送(7月15日)、ラバウル輸送(7月16日)、ブカ輸送(7月17日)と各地を航海する[137]。7月13日にはアメリカ潜水艦に対し爆雷12個を投射した[138]。7月15日、カビエン入泊中に長良が磁気機雷に接触して小破した[139]。 時雨単艦によるブカ輸送を終えたのち、合流後の各艦(長良、夕張、時雨、有明)はトラック泊地へ向かう[140]。7月19日、トラック帰投[141]。同日をもって第四水雷戦隊は解隊され、時雨以下各艦はそのまま第二水雷戦隊に編入された[142][143]

ソロモン海の戦い[編集]

1943年(昭和18年)7月12日のコロンバンガラ島沖海戦で日本海軍は勝利したものの第二水雷戦隊旗艦神通が沈没、同水雷戦隊司令部も二水戦司令官伊崎俊二少将を含めて全滅してしまった。そこで第四水雷戦隊司令部(司令官高間完少将、参謀、司令部職員)と兵力がそのまま第二水雷戦隊司令部に転用され、第二水雷戦隊旗艦も長良となった[144]。時雨も第二水雷戦隊所属となった。新たに第31駆逐隊(大波、長波、巻波、清波)、第24駆逐隊(涼風、江風、海風)、夕雲型9番艦玉波、島風型島風が僚艦となったが、これらの艦は北方から南方まで各方面の作戦に従事しており、部隊編成通りに一同が揃うことはなかった[145]。例えば時雨加入時において島風長波五月雨はアリューシャン方面に投入されてキスカ島撤退作戦に参加している。さらに7月20日の時点で、第七戦隊(司令官西村祥治少将:熊野鈴谷鳥海)及び第三水雷戦隊(川内、雪風、浜風)と共に行動していた第27駆逐隊僚艦夕暮コロンバンガラ輸送作戦中に空襲を受け沈没[146]、救援に向かった夕雲型8番艦「清波」も沈没した[147]。第二水雷戦隊及び第27駆逐隊も戦力を消耗していった。

第2水雷戦隊編入後、第27駆逐隊(時雨、有明)は7月23日トラック出発、25日にラバウル到着後、有明は第30駆逐隊三日月と共にニューブリテン島ツルブへの輸送作戦に従事した[148]。だが27日に座礁、翌日の空襲により2隻とも沈没した[149][148]。 一方、時雨は第4駆逐隊(萩風、嵐)とレカタ輸送作戦に従事[150][151]。続いてコロンバンガラ輸送作戦などに従事し、8月には輸送作戦に13回参加した。7月31日-8月1日の輸送作戦では、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮のもと輸送隊(萩風、時雨)、警戒隊(第11駆逐隊《天霧》)という編成で参加、ブイン及びコロンバンガラ島輸送任務を成功させた[152][153]。アメリカ軍は魚雷艇15隻を投入して迎撃したが逆に撃退され、ジョン・F・ケネディ中尉(後のアメリカ大統領)が艇長を務める魚雷艇PT-109英語版」は天霧に衝突され沈没した[154]。天霧の損傷は軽微であったが、修理のため白露型9番艦江風(第24駆逐隊)と任務を交代した。

8月4日、ニュージョージア島の戦局はアメリカ軍が優勢に立ち、弱体化した日本軍南東支隊はムンダ飛行場を放棄した。第8方面軍は南東支隊を増強すべく、増援部隊と軍需品を搭載した輸送隊の派遣を決定した[155]。第三水雷戦隊旗艦(軽巡川内)がブイン輸送を、第4駆逐隊(萩風、嵐)及び江風がコロンバンガラ輸送を担当し、時雨は第4駆逐隊警戒隊となった[156]。日本側駆逐艦はレーダーを搭載していなかったのに対し、アメリカ軍側駆逐艦はレーダーを装備し、また日中は連合軍航空隊の、夜間はアメリカ軍魚雷艇の支援を受けることが出来た[157]。 8月6日、視界4km以下という闇夜の中で、日本軍輸送隊は単縦陣・速力30ノットで南下していた[158]。この時、アメリカ軍第31.2任務群の駆逐艦6隻はレーダーで捕捉した輸送隊に対し魚雷24本を発射しており、日本側3隻(萩風、嵐、江風)は何も出来ぬまま撃沈され、日本軍陸軍兵800名以上、日本軍駆逐艦乗組員700名以上が戦死した[159]。単縦陣最後尾の時雨は27駆逐隊司令原為一大佐の判断で面舵を取ったため雷撃を躱し生き残った[160]。魚雷8本を発射したあと戦場を避退、次発魚雷を装填し30分後に戻ってきたがアメリカ艦隊を発見できず『状況極メテ我ニ不利ナルヲ以テ』戦場を離脱[161]。のちの入渠整備で、時雨の舵に60cmほどの穴が開いている事が判明した[162]。 その後、時雨はブイン輸送隊(川内)と合流してラバウルに帰投した[163]。海戦後、米駆逐艦1隻大破を報告しているが、実際の戦果はなかった[164][165]。 消耗した駆逐艦を補うべく数隻が補充され、8日8日と14日に第17駆逐隊(磯風浜風)が外南洋部隊に編入された[166]。8月15日の時点で、「時雨」は外南洋部隊増援部隊・駆逐隊3番隊(指揮官第27駆司令:時雨、漣、松風)に所属していた[167]

第17駆逐隊(磯風、浜風)が時雨の僚艦になった頃、戦局は新たな展開を迎えていた[168]。ニュージョージア島を巡る攻防戦で勝利しつつあったアメリカ軍だが、損害も少なくなかった。コロンバンガラ島の攻略にはさらなる犠牲と時間が必要と予想されたため、コロンバンガラ島を飛ばしてベララベラ島の攻略を決定、8月15日に上陸を開始した[169]。アメリカ軍の作戦は日本軍に衝撃を与えた。ベララベラ島の占領とアメリカ軍飛行場建設・基地化は、コロンバンガラ島への輸送ルートを遮断されると同時に、ブーゲンビル島やショートランド諸島が直接の脅威に曝されることを意味したからである[170]。第七戦隊(鈴谷)以下重巡洋艦部隊の出撃は見送られ[171]、水雷戦隊や大発動艇による輸送作戦が立案された[168]。 8月17日、第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐直率のもと、駆逐艦4隻(漣《旗艦》、浜風、磯風、時雨)はラバウルを出港し、ベララベラ島北東で輸送部隊(陸軍兵約290名、海軍兵約130名)と合流した[172]。21時16分、三水戦は浜風に搭載された電波探知機によりアメリカ艦隊の存在を探知、一方的奇襲を受けるベラ湾夜戦の再来を避けることが出来た[173]。ところがアメリカ軍機の夜間爆撃を回避するため散開したところ、アメリカ軍第41駆逐群の駆逐艦4隻(日本側は巡洋艦4隻・駆逐艦2隻と判断)と遭遇し砲雷撃戦となる[174]。三水戦は2回にわたって魚雷発射を行い、23時40分には戦闘を打ち切ってラバウルへ向かった[175]。各艦が軽微な損傷を受け磯風乗組員2名軽傷という日本側被害に対し、戦果報告は『大型駆逐艦又ハ巡洋艦1隻轟沈(雷撃)駆逐艦2隻に命中弾各数発を興フ』というものであった[176]。巡洋艦撃沈は時雨の功績と認定され『功績顕著ナリ』と賞賛されている[177]。しかし、実際はアメリカ側に被害は生じていなかった[168]。一方、日本軍輸送部隊はアメリカ軍第41駆逐艦群により第5号駆潜特務艇・第12号駆潜特務艇・大発1隻が沈没し、艦載水雷艇1隻が座礁放棄されている[168]。それ以外の部隊は揚陸に成功した[168]

8月22日より、駆逐艦4隻(時雨、浜風、磯風、漣)は第七聯合特別陸戦隊(サンタイサベル島のレカタ撤退及びブイン転進作戦「E作戦」[178])に従事するが、アメリカ軍機の妨害や敵艦隊の動向不明によりラバウルへ撤退した[168]。 8月25日からの第2次作戦では、3隻(軽巡《川内》、駆逐艦《漣、松風》)を牽制陽動部隊とし、駆逐艦3隻(時雨、浜風、磯風)で輸送作戦を再開、レカタ到着後陸戦隊の収容に成功する[179][168]。帰路、アメリカ軍陸上爆撃機の断続的な空襲を受け「浜風」が損傷したものの、時雨以下各艦はラバウルに帰着した[180]。 続いて8月30日から9月1日にかけて、時雨・松風・磯風は三次にわたるツルブ輸送作戦に従事する[181]。 その後、時雨は10日ほどラバウルに停泊して訓練に従事した[182]。 9月20日〜21日、ラバウルブカ島輸送任務に従事[183]。 この際輸送した武器弾薬の中には前装式の旧式砲があり、目撃した乗組員は唖然としたという[184]。 10月1日附をもって旧第2駆逐隊の白露型5番艦五月雨が第27駆逐隊に編入された[185]。また10月15日には初春型2隻(夕暮、有明)が第27駆逐隊から除籍された[186]

9月下旬、日本海軍はコロンバンガラ島からの撤収およびブーゲンビル島への転進を企図する「セ号作戦」を発動[187]。9月28日、第27駆逐隊(時雨、五月雨)は第一次転進作戦警戒隊としてセ号作戦に参加する[188]。ラバウル在泊のほとんどの駆逐艦を投入しての作戦であり、出港後、第27駆逐隊に磯風が合流、この3隻(時雨、五月雨、磯風)で第一夜襲隊となった[189]。警戒隊(第一夜襲隊)はアメリカ艦隊と遭遇しなかったが、大発動艇による輸送隊はアメリカ軍駆逐艦隊に襲撃され、第一次撤退作戦成功の代償として少なからぬ損害を受けた[190]。第八艦隊は第二次機動決行延期を決定したものの、機動舟艇部隊指揮官芳村正義陸軍少将は「撤退機会は今しかない」と具申、9月30日に第二次撤収決行の作戦命令を下達した[191]。 10月1日、第一次作戦の3隻(磯風、時雨、五月雨)に望月を加えて第二次転進作戦を実施[192]。アメリカ軍水上艦艇(駆逐艦6隻及び魚雷艇部隊[193])が日本軍大発動艇部隊と入り乱れてしまい、充分な掩護をする事ができなかったという[194]。 続いて日本側駆逐艦3隻(磯風、時雨、五月雨)はアメリカの駆逐艦ウォーラー、イートン、コニイ、ラルフ・タルボット、テイラー、テリィ等と交戦、アメリカ駆逐艦群によって舟艇隊に被害が出た[195]。その後、時雨達は三水戦司令官率いる駆逐艦9隻と合流、人員の揚搭作業を行ったのち、3日にラバウルへ帰還した[196]。9月26日から10月2日かけて実施された二度の撤収作戦により、約12000名の将兵が脱出に成功した。機動舟艇部隊の戦死者は170名で、作戦人員の15%に及んだ[197]

コロンバンガラ島撤退作戦は成功した。これによりベララベラ島を維持する必要がなくなった為、鶴屋好夫陸軍大尉を指揮官とするホラニウ基地守備隊約600名をブインへ撤収させることになった[198]。第八艦隊の撤退方針に対し、上級司令部の南東方面艦隊(第十一航空艦隊)は作戦延期を指導、第八艦隊参謀長がラバウルに飛んで懇願した結果、鶴屋部隊の撤退許可がおりる[199]。10月6日早朝、第三水雷戦隊司令官伊集院少将指揮下の駆逐艦隊(秋雲《三水戦司令官旗艦》、風雲夕雲、磯風、時雨、五月雨)はラバウルを出撃して、ベララベラ島へ向かった[200]。また収容隊もブインを出撃して同島北西海岸マルカナ湾へ向かった。 23時前後、第三水雷戦隊はアメリカ軍第4駆逐部隊(セルフリッジ《フランク・R・ウォーカー大佐座乗》、シュバリエ、オバノン)と遭遇して第二次ベララベラ海戦が生起[200]。この海戦により日本側は夕雲が沈没、アメリカ軍はシュバリエが沈没・セルフリッジ、オバノンも大破という損害を出した[200]。また増援として到着したアメリカ軍第42駆逐群(ラルフ・タルボット、テイラー、ラ・ヴァレット)がアメリカ軍第4駆逐部隊の救援に奔走したため、日本軍収容隊は鶴屋部隊全員の撤収に成功している[201]。 10月8日、ニューブリテン島西端ツルブへ第27駆逐隊(時雨、五月雨)は陸兵・軍需品の輸送揚陸を行う[202]。揚搭作業終了後に湾外へ出たところアメリカ軍魚雷艇部隊の襲撃を受けたが撃退に成功、「時雨」の砲撃で魚雷艇1隻が転覆したという[203]。 10月24日、弟27駆逐隊(時雨、五月雨、白露)はニューブリテン島イボキへの輸送任務に従事、「時雨」は爆撃を受け軽微の損傷を受けた[204][205]。 同時期、ニューブリテン島イボキやジャキノットへの輸送作戦に従事していた望月(第30駆逐隊)が爆撃を受け沈没、皐月(第22駆逐隊)が座礁して損傷、卯月(第30駆逐隊)がアメリカ艦隊の砲撃を受け小破するなど、第三水雷戦隊も戦力を消耗していった。

11月1日、アメリカ軍がブーゲンビル島に上陸してブーゲンビル島の戦いが始まる。この日の出撃は8隻(重巡《妙高、羽黒》、軽巡《川内》、駆逐艦《文月、水無月、時雨、五月雨、白露》)だったが、連合国軍輸送船団から30浬程まで接近しつつも敵艦隊を発見できず、ラバウルへ帰投した[206]タロキナに新飛行場を建設しようとしたアメリカ軍に対し、日本軍は逆上陸を敢行すべく行動を開始、連合襲撃部隊が編成される[207]。だが逆上陸の見込みはなくなり、輸送隊は連合襲撃隊から分離してラバウルへ戻った[208]。連合襲撃部隊はアメリカ軍輸送船団を攻撃すべく進撃した。 11月2日、アメリカ軍第39任務部隊との夜戦に参加した日本艦艇(連合襲撃部隊)は主隊(妙高羽黒)、第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)、第二警戒隊(軽巡洋艦阿賀野、駆逐艦《長波初風若月》)であった[209]。 襲撃部隊指揮官/第五戦隊司令官大森仙太郎少将の指揮は稚拙で、真っ先に敵艦隊発見を報じた時雨(0045)に対し、第五戦隊(妙高、羽黒)の砲撃開始は26分後の1時16分である[210]。さらに戦闘で日米双方とも衝突事故が発生した。まず時雨は旗艦川内(被弾炎上中)と衝突しかけた。続いて五月雨と時雨が衝突コースに入り五月雨が面舵で回避、そこへ白露が直進してきたため、両艦の衝突事故に至った[211]。また別に妙高と初風が衝突、米駆逐艦2隻(スペンスとサッチャー)が衝突している。本海戦で2隻(軽巡《川内》、駆逐艦《初風》))が沈没、各艦(羽黒、白露、五月雨)が損傷した[209]。第27駆逐隊は雷撃により大型駆逐艦2隻撃沈と認定されたが[212]、この雷撃によるアメリカ軍の損害は駆逐艦フートの艦尾大破だけであった[209]。兵器弾薬燃料を消耗し、艦も乗組員も疲弊した第27駆逐隊はラバウルに帰投した。一方、海戦に勝利したアメリカ艦隊も日中に空襲を受ける事を懸念し、追撃を断念して退避していった[213]

11月5日、ラバウルに進出していた遊撃部隊(第二艦隊主力・司令長官栗田健男中将/旗艦愛宕)以下重巡洋艦7隻(愛宕、高雄摩耶鳥海《ラバウルには到着せず》、鈴谷最上筑摩)、軽巡能代以下第二水雷戦隊各艦、軽巡阿賀野以下第十戦隊各艦はアメリカ軍第38任務部隊の空襲を受ける。沈没艦こそなかったものの愛宕を筆頭に大損害を被った[214]。五月雨下士官によれば、重巡洋艦群はラバウルに到着したばかりで同地の様子を全く知らず、空襲にも慣れておらず、狼狽して絶好の目標になっていたと回想している[215]。時雨は撃墜7機を報告[216]。一連の戦闘とタロキナ飛行場建設により、ニューギニア方面での制空権・制海権は完全にアメリカ軍のものとなった。 6日、軽巡夕張と共にブカ島輸送作戦を命じられるが[217]、時雨は舵故障を起こしてしまう[218]。航行に重大な影響は出ず、7日にブカ島輸送任務は成功した[219]。 8日、トラック泊地にむけ輸送船2隻(御嶽山丸、東京丸)を護衛しつつラバウルを出港するが、その航海中も空襲を受けて対空戦闘を行った[220]。 このとき普通なら回避運動を行うところを直進して敵機の裏をかいたという[221]。 9日をもって、第27駆逐隊は日本への帰投を命じられる[222]。10日、輸送船団が北緯04度06分 東経150度17分 / 北緯4.100度 東経150.283度 / 4.100; 150.283のトラック南南西210km地点付近を航行中、東京丸がアメリカの潜水艦スキャンプから雷撃された。東京丸は右舷機関室と4番船倉の中間に魚雷1本が命中し、航行不能となってしまう。時雨は東京丸の救難を行い、1345には時雨の内火艇に東京丸に搭載されていた爆雷8個を移載される。その後、前述のように日本への帰投を命じられていたため、救援に来た駆逐艦初月と入れ替わるようにしてトラックへ向かい、11日に到着している。東京丸はその後、初月に曳航されるものの右舷への傾斜が著しいため曳航が断念され初月と僚船御嶽山丸が見守る中、12日1455に沈没した。 東京丸が沈没した12日、弟27駆逐隊(時雨、白露)は第五戦隊(妙高、羽黒)と共にトラックを出港して本土へ向かい、17日に佐世保に入港した[223]

11月30日、第27駆逐隊(時雨、白露、五月雨)に旧第2駆逐隊所属の白露型5番艦春雨が編入された[224]。27駆は定数4隻を回復した。また第一次ベララベラ海戦第二次ベララベラ海戦と戦った時雨の活躍は昭和天皇にも報告された[225]。入渠整備修理中に人事異動があり、時雨駆逐艦長は西野繁少佐に変わった[226]。また第二水雷戦隊司令官も12月15日附で高間完少将から早川幹夫少将に交代[227]。高間少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任した[228][229]

12月18日、時雨の整備修理が完成した[230]。19日、佐世保を出港し呉に移動、戊号輸送作戦に参加する[231]。戊第二号輸送部隊(重巡《妙高、羽黒、利根》、第27駆逐隊《時雨、白露》)は陸軍兵士と軍需物資を搭載、24日内地発予定であった[231]。ところが22日、時雨の機関部に異状が発生したため原司令は白露を先行して出発させる事にした[232]。23日、戊二号輸送部隊は呉を出発[233]。連合艦隊司令部は時雨に出港するよう下令した[234]。 第五戦隊に合同後の24日19時28分、時雨は無燈火の漁船(國吉丸)と衝突事故を起こした[235]。時雨は損傷により12ノット以上を出せなくなり、呉に引き返した[236]。被害は軽微であり、1日で修理完了[237]。なお、白露は戊二号輸送部隊としてそのままトラック泊地へ向かい、時雨の代艦として夕雲型11番艦藤波(第32駆逐隊)が編入されている[231][238]

12月29日、第27駆逐隊司令は原為一大佐から白濱政七大佐に交代した[239]。 同日、燧灘で第十一水雷戦隊に春雨(第27駆逐隊)が合同した[240][241]。 駆逐艦4隻(白露型駆逐艦2隻《時雨、春雨》、夕雲型駆逐艦2隻《沖波朝霜》)は扶桑型戦艦2番艦山城を護衛して呉を出発[242]、31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した[243][244]

1944年(昭和19年)1月4日、 同日、燧灘にて第27駆逐隊僚艦/姉妹艦春雨、戦艦山城と合流、山城の横須賀回航を護衛した[245]。12月31日15時30分、横須賀着[246]

昭和19年の戦い[編集]

1944年(昭和19年)1月3日、第27駆(時雨、春雨)は給糧艦伊良湖を護衛して横須賀を出港[247]。夕雲型2隻(沖波、朝霜)は時雨等と別れて内海西部に戻った[248][249]。 第27駆逐隊は11日にトラック泊地に到着、12日附で遊撃部隊警戒隊に復帰[250]。1月19日、第27駆(時雨、春雨)は油槽船富士山丸・神国丸船団を護衛してトラック発[251]。25日、浮上潜水艦発見攻撃して撃沈確実と報告[252]。27日、インドネシアのタラカン島[253]。29日同地発、31日ボルネオ島バリクパパン[254]。 2月3日、油槽船3隻(富士山丸、神国丸、天城山丸)を護衛してバリクパパンを出港[255]。13日、アメリカの潜水艦パーミットと遭遇し、爆雷攻撃によりパーミットに損傷を与えて追い払った[256]。14日、トラック泊地に到着する[257]

2月17日、トラック泊地は米空母9隻、戦艦6隻を基幹とする第50任務部隊(司令官レイモンド・スプルーアンス中将:旗艦「ニュージャージー」)の襲撃を受けた[258]。戦艦武蔵以下主力艦隊を退避させていたにも関わらず、警戒態勢を緩めていた日本軍は一方的に攻撃され、大損害を受けた(海軍T事件[259]。立ち寄った高級将校(軍令部伊藤整一次長、陸軍参謀服部卓四郎瀬島龍三等)をトラック泊地防衛責任者/小林仁第四艦隊司令長官以下四艦隊司令部が接待していた為という説もある[260]零式艦上戦闘機200機以上が離陸できないまま地上で破壊された。制空権を掌握したアメリカ軍の空襲や潜水艦の襲撃により、トラック泊地に停泊もしくは近海にいた巡洋艦3隻(那珂阿賀野香取)、駆逐艦(舞風文月)、特務艦秋津洲明石宗谷赤城丸以下多数の艦船が次々に損傷し、あるいは撃沈されていた。第27駆逐隊(時雨、春雨)が東南アジアから護衛した富士山丸・神国丸・天城山丸も撃沈された[261]。4215船団(香取、舞風)に至っては、スプルーアンス中将自らが座乗指揮するアイオワ級戦艦2隻(ニュージャージーアイオワ)以下アメリカ軍水上艦隊の砲撃によって沈められている[262]。 第27駆逐隊(時雨、春雨)は空襲警報を受けて4時30分に急速出港、4215船団(香取、舞風、野分、赤城丸)と同じくトラック環礁北水道を通過して外洋に出たが、その最中に空襲を受けた[263]。アメリカ軍機約45機と交戦[263]。時雨は『内火艇命中弾1、至近弾銃撃ニ依リ相當ノ被害アリ、一番(魚雷)聯管大破、1・2番砲(主砲)被弾一部使用不能、二缶使用不能、爆雷庫浸水其ノ他船体各部被弾破孔、戦死21名重軽傷者45名』という被害を出し『船体ノ振動大ニシテ運転ニ不安アリ』、最大発揮速力25ノットとなる[264][265]。かろうじて西方に退避した27駆(時雨、春雨)に対し、同じくトラックからの脱出に成功した工作艦明石の護衛任務が与えられるが、中破している時雨にその余裕はなかった[263][266]。 春雨と分離した時雨は24日パラオに到着した[267]パラオで重巡妙高(第五戦隊)に接舷、応急修理を受けた[268]。25日、第27駆逐隊司令駆逐艦は「春雨」に変更された[269]。3月中旬、佐世保に帰投して4月12日まで修理工事を受ける。

5月11日、佐伯港から第三航空戦隊を護衛してタウイタウイに入港。第27駆逐隊は戦艦扶桑・第5戦隊(妙高、羽黒)・第16戦隊(青葉鬼怒)・第10駆逐隊(風雲朝雲)等と共に海上機動第2旅団のビアク島輸送作戦「渾作戦」に参加する[270]。1943年(昭和18年)以来、各地に分散して行動していた第27駆逐隊はようやく定数4隻(春雨、時雨、五月雨、白露)で行動することになった[271]。 6月2-3日、扶桑以下各艦はダバオを出港[272]。だがすぐに豊田副武連合艦隊司令長官より渾作戦一時中止命令が出される[273]。空母2隻を含むアメリカ軍機動部隊出現の情報があったからだが、これは誤報であった。ソロンに立ち寄ったのち、第16戦隊(青葉、鬼怒)と分離[274]。アンボンで補給を行った後、ソロンへ戻った[275]

6月7日23時、輸送隊3隻は各艦陸軍兵約200名(合計約600名、時雨207名)の移乗、物資搭載完了[276]。6月8日午前3時、ビアク島増援のため、陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波、浦波、春雨、時雨、白露、五月雨)はソロンを出発[277]。輸送隊は大発動艇を曳航していた[278]。 輸送隊は輸送隊と警戒隊に分割され、敷波・浦波・時雨が輸送隊、春雨・白露・五月雨が警戒隊に任命されていた[279]。 12時20分、渾作戦部隊はアメリカ軍B-25爆撃機及びP-38戦闘機の襲撃を受ける[280]。時雨は主砲23発・機銃弾1250発を消費、負傷1名という被害を出し[281]、他艦は五月雨の魚雷発射管附近に爆弾1発が命中(不発)[282]、白露は機銃掃射で戦死4名・重軽傷5名を出した[283]。 さらに第27駆司令駆逐艦にして姉妹艦春雨が撃沈され、白浜第27駆司令も戦死してしまう[284]。乗組員は白露・五月雨に救助された[285]。この対空戦闘で時雨はB-25爆撃機4機撃墜を報告、25mm機銃に相当な高評価を与えた上で「B-25ノ超低空爆撃敢テ恐ルルニ足ラズト言フベシ」と自信を見せている[286]

春雨の喪失後と駆逐隊司令戦死後も、各艦(時雨、白露、五月雨、敷波、浦波)はビアク島への進撃を続けた[287]。その後、偵察機より米戦艦4隻・巡洋艦4隻の強力な水上艦隊が待ち受けているとの情報を得る[288]。夜間22時10分、日本艦隊は警戒隊(白露、五月雨)がやや先行し、輸送隊(敷波、浦波、時雨)が単縦陣となって続行していた[289]。22時50分になって巡洋艦1隻・駆逐艦5-6隻[290]のアメリカ軍水上艦隊(実際は重巡洋艦1、軽巡洋艦2、駆逐艦14)を発見、避退行動に移るが追撃を受けて時雨は射撃目標となってしまった[291]。時雨は砲撃を行い[292]、同時に魚雷8本[293]、白露も魚雷8本を発射して応戦した[294]。五月雨も魚雷を全て発射している[295]。しかしアメリカ艦隊に被害はなかった。一方「時雨」は主砲12.7cm通常弾143発、九三式魚雷三型改五8本を発射して巡洋艦1隻に被害を与えたと報告[296][297]。一番砲塔と2番機銃座や船体各部に命中弾3発があり、戦死者7名、重軽傷者15を出した[298]。船体に命中した6インチ砲弾は爆発せず貫通して大穴を開けたのみであった[299]。 なお時雨の関係者はアメリカ軍のレーダー射撃について高く評価し、重大な関心を寄せている[300]。同時に「敵トノ真面目ナル交戦ヲ避ケ避退運動中ノ陣形ハ単縦陣ハ不可ナリ、今日単縦陣ナレガ故ニ敵ノ電探射撃ノ左右精度ヲ増加セル傾向アリ、梯陣等ガ適当ナルベシ」と提言し、レーダー全盛時代の戦術を模索していた[301]。しかし戦場で得られた所見を艦隊全体に共有する時間的余裕もないまま、1944年10月25日レイテ冲海戦スリガオ海峡夜戦に参加することになった。のちに時雨航海長が九州川棚の水上特攻ボート震洋基地に立ち寄った時も、時雨航海長は日米の技術格差について語っている[7]

ビアク島沖で被弾しながらも離脱に成功した時雨は、6月10日サワラナ島泊地に到着、重巡青葉から補給を受け、陸兵を敷波に移積した[302]。第十六戦隊(青葉、鬼怒)と共にハルマヘラ島バチアン泊地へ移動、「青葉」に横付して応急修理を受ける[303]。白露と共にダバオ移動後はタンカー日栄丸より燃料補給を受けた[304]。翌日には第17駆浜風より魚雷弾薬の補給を受ける[305]。魚雷5本を浜風より移載し[306]、小沢機動部隊より第一補給部隊護衛任務を受領した[307]。 6月14日、駆逐艦5隻(浜風秋霜、時雨、白露)は機動部隊補給部隊(日栄丸、国洋丸、清洋丸)を護衛してダバオを出港した[308]。15日、白露型1番艦白露(第27駆逐隊)がタンカー清洋丸と衝突[309]、時雨の目前で爆沈した[310]。白露乗組員は浜風に救助された[311]。 6月16日午前中、時雨以下第一補給部隊は第1戦隊(大和、武蔵、長門)・第2水雷戦隊(能代、島風等)・第10戦隊(矢矧、第17駆等)と合同、午後には小沢機動部隊本隊(第一航空戦隊、第二航空戦隊、第三航空戦隊)と合同した[312]

マリアナ沖海戦[編集]

6月17日、機動部隊旗艦(大鳳)からの下令により駆逐艦3隻(時雨、浜風、秋霜)は小沢機動部隊乙部隊(第二航空戦隊主力:空母《隼鷹飛鷹龍鳳》、戦艦《長門》、重巡洋艦《最上》)への編入を命じられた[313]。 6月19-20日、マリアナ沖海戦に参加する[314]。19日、小沢機動部隊本隊の空母2隻(大鳳、翔鶴)がアメリカ潜水艦の雷撃により沈没した。6月20日、小沢機動部隊甲部隊、乙部隊、燃料補給部隊は同一海面に集結し混乱[315]。17時30分、小沢機動部隊・前衛艦隊・補給部隊はアメリカ軍空母艦載機の襲撃を受けた[316]。時雨は龍鳳の直衛に就き、龍鳳を護衛した[317]。爆撃を受けたが回避[318]。続いて龍鳳に向かうTBFアベンジャーを砲撃して雷撃を阻止、さらに投下された魚雷2本を艦尾至近距離で回避した[319]。空襲終了後炎上する空母飛鷹の救援に向かったが[320]、飛鷹は大爆発を起こして沈没した[321]

海戦敗北後、燃料の消耗が激しい各艦(時雨、浜風、秋霜、早霜、満潮)は艦隊主力に先んじて沖縄の中城湾へ向かう[322]。22日、燃料不足となった時雨は駆逐艦2隻(満潮早霜)から洋上燃料補給を受けている[323]。6月23日9時50分中城湾到着、利根型重巡2番艦筑摩(第七戦隊)から燃料補給を受けた[324]。また浜風から時雨に白露遭難者が移乗した[325]。同日午後、護衛隊(浜風、秋霜、早霜、時雨、五月雨)は第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)を護衛して沖縄を出港[326]。24日、豊後水道で第七戦隊や他の駆逐艦と別れ、27駆(時雨、五月雨)は佐世保へ向かった[327]。戦艦榛名の護衛任務も与えられた[328]。25日13時30分、3隻(榛名、時雨、五月雨)は佐世保に帰港した[329]。損傷箇所の修理と並行して、レーダーの機能強化を行う[330]。6月30日、大高一太郎大佐が第27駆逐隊司令として「時雨」に着任した[331]

7月4日、佐世保を出港して呉に回航、戦艦長門に横付して燃料補給を行った[332]。9日、最上型重巡洋艦利根型重巡洋艦の第七戦隊直衛として豊後水道を出撃[333]。中城湾に寄港して第一戦隊、第四戦隊、第二水雷戦隊と合流、第27駆(時雨、五月雨)は第一戦隊(司令官宇垣纏中将:大和武蔵)の直衛を任じられた[334]。この航海の最中、暴風雨に遭遇して五月雨が一時行方不明となり、利根に発見されて艦隊に連れ戻されている。 7月16日、第一戦隊と共にリンガ泊地に到着した[335]。18日-19日、大和に横付して暴風雨時に受けた損傷を修理する[336]。その後、リンガ泊地で訓練に従事。27日-28日、夜間雷撃訓練で発射した魚雷1本の行方がわからなくなり、半日捜索したが見つけられず「失踪セルモノ」と報告している[337]。 8月1日、五月雨と共にシンガポール(昭南)へ回航、修理と整備を行い哨信儀室を新設する[338]

8月7日、第十六戦隊(巡洋艦《青葉鬼怒》、第19駆逐隊浦波)及び軽巡洋艦名取はマニラ〜パラオ間の緊急輸送命令(邦人引き揚げ)を受けた[339]。 第27駆逐隊(時雨、五月雨)は第十六戦隊(旗艦青葉)の指揮下に入りマニラを出港。これ以降、時雨は青葉に横付けしての燃料補給の機会が増える[340]。11日、マニラ軍港到着[341]。15日朝マニラを出発し、夕刻ソルソゴン州に到着[342]。翌日2隻(青葉、浦波)と分離、3隻(軽巡《鬼怒》、27駆《時雨、五月雨》)はパラオへ向かう[343]。パラオ輸送隊は軽巡鬼怒を中心に、五月雨が鬼怒左舷110度1.5km、時雨が鬼怒右舷110度1.5kmという陣形で外洋を航行していた[344]

しかし8月18日午前1時15分、五月雨がパラオ近海で座礁、火災も発生して深刻な損傷を受けた[345]。鬼怒・時雨は一旦五月雨を残置してパラオへ向かい、残留邦人移乗作業を急いだ[346][347]。18時50分、2隻は再び五月雨座礁現場に戻ると潜水用具を移積、21時をもって現場を離れた[348]。 同日、時雨達と同じくフィリピン〜パラオ輸送任務に従事じていた軽巡名取がサマール島沖にてアメリカ潜水艦の雷撃で撃沈された。19日、日本軍航空隊が内火艇やカッターボートに乗る名取生存者を発見、鬼怒・時雨・浦波・等に対し救助命令が出される[349]。各艦(鬼怒、時雨、浦波、竹)は名取生存者を捜索したが発見できず、「時雨」はセブ島へ向かった[350][351]。22日のセブ島到着をもって第十六戦隊の指揮下を離れた[352][353]。24日、「時雨」は単艦でセブを出港、25日マニラ着[354]。 この頃、五月雨の離礁作業は難航していた[355]。8月26日18時30分、米潜水艦バットフィッシュ (USS Batfish, SS/AGSS-310)の雷撃が五月雨の右舷中部に命中し、大破した五月雨の船体は断裂した。これをもって五月雨は放棄され、艦長以下乗組員は駆逐艦竹に救助された[356]。五月雨沈没により、のべ6隻(時雨、白露、夕暮、有明、五月雨、春雨)が所属した第27駆逐隊は時雨1隻を残して全没した[28]。また10隻建造された白露型駆逐艦(第2駆逐隊・第24駆逐隊)も、この時点で時雨1隻を残して全隻沈没している[28]

8月28日、時雨はマニラを出港、コロン島コロン湾の調査を行ったのち、リンガ泊地へ向かった[357]。9月はほぼ全期間リンガ泊地もしくはシンガポールに停泊して、訓練・整備作業に従事した[358]

レイテ沖海戦[編集]

1944年(昭和19年)10月10日、五月雨の除籍と共に第27駆逐隊は解隊された[359]。 10月下旬の捷一号作戦に、本艦は司令官西村祥治中将(兼第二戦隊司令官)指揮する第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊。戦艦《山城扶桑》、重巡洋艦《最上》、第4駆逐隊《満潮山雲朝雲》、及び時雨)に所属していた[360][361]。時雨はレイテ沖海戦・スリガオ海峡海戦に参加した西村艦隊7隻の中で唯一生還することになった艦艇である。戦闘経過は以下の通り。

10月21日、時雨はブルネイ湾に到着、西野繁(時雨駆逐艦長)は戦艦山城(第二戦隊旗艦)に赴き、西村祥治中将から作戦について説明を受けた[362][363]。時雨は第27駆逐隊としての参加であるため第4駆逐隊の指揮下にはなく、あくまで西村中将の直率という立場である[364]。 10月22日午前8時、栗田艦隊はブルネイを出撃[361]。同日15時30分、西村艦隊はブルネイを出撃した[365]。 10月24日、西村艦隊はアメリカ軍機動部隊攻撃隊27機に襲撃された[366]。西村艦隊は旗艦(山城)を中心とした輪形陣を形成しており、山城前方に最上、山城後方に扶桑、山城右舷に満潮・朝雲、山城左舷に山雲・時雨が配置されていたという[367]。この空襲で時雨は機銃掃射とロケット弾攻撃を受け、一番砲塔に命中弾があったが艦全体の損害は軽微であった。この時の損傷を西野(時雨艦長)は後年の回想では負傷者1名で戦死者はいなかったと回想している[368]が、一方で当時纏められ、西野も作成に関わっている「駆逐艦時雨戦闘詳報」[369]や、戦後間もない昭和21年に第二復員省(旧海軍省)で作成された西野本人の記述による「1YB第三部隊比島沖海戦経過概要」[370]では多くの死傷者出ている事が記載されている。最上通信兵は時雨に火柱が上がるのを見て『時雨たいした事ないなあ』と戦闘詳報の原稿に記録している[371]。時雨以外では山城・扶桑・最上に直撃弾や至近弾があったが、戦闘航行に影響のある艦はなかった[372][361]

18時15分日没、39隻の魚雷艇を配備したアメリカ軍に対し[373]、西村司令官は最上・山雲・朝雲・満潮に先行してスリガオ海峡に配置されたアメリカ軍魚雷艇を掃討するよう命じ、自身は時雨・山城・扶桑と共に掃討隊後方を進んだ[374][375]。この後、アメリカ軍魚雷艇群は西村艦隊を襲撃するが、全く戦果を上げられずに撃退された[376]。時雨は魚雷艇PT152に主砲弾1発を命中させて損傷を与えた[377]。先行部隊(最上、満潮、朝雲、山雲)と本隊(山城、扶桑、時雨)は再び合流した[373]

10月25日1時35分、西村艦隊はスリガオ海峡突入に向けた陣形を形成、先頭から満潮・朝雲・満潮、後方4kmに山城・扶桑・最上が続行し、山城右75度1.5kmに山雲、山城左75度1.5kmに時雨が占位することになった[378]。西野(時雨)艦長は当夜の天候について、曇っている上に靄が立ち込め非常に暗く「あんなに視界の悪い夜は珍しかった」と回想している[379]。2時56分、時雨は右前方に複数のアメリカ軍駆逐艦を発見[380]。西村司令官は探照灯による照射攻撃を命じ、同時に満潮-朝雲-山雲-時雨-山城-扶桑-最上の単縦陣を令する[381]。 効果的な射撃用レーダーを持たない西村艦隊は煙幕を展開する米駆逐艦の水雷戦隊に対し、有効な射撃を行えなかった[382]。だがアメリカ軍の水雷戦隊はレーダーを駆使して多数の魚雷を発射した。時雨に命中しかけた魚雷もあったが幸運にも艦底を通過していった[383][384]。しかし西村艦隊の被害は甚大であった[385]。扶桑は被雷して航行不能となり落伍したあと爆沈(艦体分断)[386]、満潮と山雲が被雷して沈没、朝雲も艦首を喪失して戦闘不能、健在艦は3隻(戦艦《山城》、重巡《最上》、駆逐艦《時雨》)だけになった[387][388]。山城にも魚雷1本が命中していた[385]

なお時雨及び西野中佐(時雨駆逐艦長)は沈没した扶桑型戦艦を山城、健在艦を扶桑と錯覚して戦闘を続けていた[389][390]。このため古村啓蔵(元扶桑艦長)のように、山城が先に沈没して健在の扶桑及び阪匡身少将(扶桑艦長)が残存艦(扶桑、最上、時雨)を指揮した…とする回想や文献もある[391]

時雨は26ノットで電探回避行動を行ったため僚艦を見失って孤立し、被雷落伍した山城(実際は扶桑)を捜索したが発見できず、続いて健在の扶桑(実際は山城)と最上を発見すると、この二艦の前に出るべく北へ増速した[392]。山城より『われ魚雷受く各艦われにかまわず突進せよ』の信号を受信した最上からも、同艦左前方を進撃する時雨を確認している[393]

その残存する3隻に対し、オルデンドルフ提督率いる米戦艦6隻、巡洋艦8隻は丁字戦法にて待ち受けていた[394]。アメリカ艦隊の圧倒的な戦力差の前に山城・最上・時雨は為す術がなかった[395][396]。西村艦隊からアメリカ艦隊へ行われた砲撃は、軽巡デンバー、コロンビアに何度か夾叉弾があったものの、命中弾は一弾もなかった[397]。山城は砲撃により戦闘不能になったところを米駆逐艦に雷撃され、4時19分に転覆して沈没[398][396]。 最上も多数の命中弾を受けて速力も低下し、大火災となった[396]。艦長以下幹部が多数戦死、酸素魚雷4本を発射して反転離脱を試みた[399]。 時雨は扶桑(実際は山城)や第二戦隊司令部(西村司令官)に対し今後の指示を求めたが返答はなく[400]、アメリカ艦隊の集中砲火に曝されていた。渾作戦参加時にアメリカ軍巡洋艦部隊の追撃を受けた時の経験から、独自の回避行動を実施する[401]。8インチ砲弾1発が艦後部に命中し燃料タンクを貫通するも不発であった[402]。 だが大口径砲の至近弾により時雨は跳び上がっては海面に叩きつけられるという状態となって、艦橋のジャイロコンパスや無線機等の諸器械は振動で破損、船体各所に亀裂や破孔が生じた[403]。西野の判断により時雨は反転・避退行動を開始[404]、最上の傍を通過して南下を開始する[405]。ところが二つに分断され炎上する扶桑の附近で舵が故障する[406][407]。約30分間漂泊しつつ修理を行い、応急操舵可能となって南下を再開した[408]

4時30分、時雨は北上する妙高型重巡洋艦2隻(那智足柄)、軽巡阿武隈(この時点で被雷落伍中)、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《》、第18駆逐隊《不知火》)から成る第二遊撃部隊(通称志摩艦隊、指揮官志摩清英中将/第五艦隊司令長官)と遭遇する[409]。西野以下時雨側は志摩艦隊が後続している事を全く知らず、不審に思い『ワレ、シグレ、ナニカ』と信号[410]。艦名を問い合わせる[411]。すると「ワレ那智」の返答があり、志摩長官は「那智ノ後ニ就ケ」と信号する[412]。時雨は舵故障中と返答して南下を続けた[413][414]。 戦後、時雨の西野艦長は「(時雨は)第二遊撃部隊(志摩艦隊)が後に続いている事を知らなかった。志摩艦隊に続行しなかったのは、志摩長官の指揮下になかったからだ。志摩長官は西村艦隊の戦闘をよくわかっていると思った。炎上中の扶桑や最上や本艦(時雨)を見れば状況は明らかだから、特に通報しなかった」と回想している[415]。この後、志摩長官は旗艦那智と最上が衝突したことや、戦場の状況が全くわからない事、圧倒的戦力差等を考慮し、スリガオ海峡に突入することなく反転する[416]。4時40分、時雨は再び志摩艦隊と遭遇[417]、同艦隊に合流するよう命じられたが、舵故障中の時雨は続行できなかった[416]。5時30分、直接操舵可能となる[418]。 この後、最上はアメリカ艦隊に砲撃された上にアメリカ軍機の空襲を受けて航行不能となり、随伴していた曙によって雷撃処分された[419]。艦首を失って退避していた朝雲は追撃してきた軽巡デンバー、コロンビア及び米駆逐艦3隻に捕捉され、7時21分に撃沈された[420]。西村艦隊は時雨1隻を残して全滅した[421]。10時18分、時雨は以下の電文を栗田健男第一遊撃部隊指揮官/第二艦隊司令長官に打電した。

第三部隊ハ〇一三〇「スリガオ」南口通過、〇三五五「ヒブソン」島ニ至ル間ニ於テ有力ナル敵艦隊(戦艦×4 巡洋艦×5 駆逐艦×5以上ト推定)ト最後迄各艦奮戦セシモ、我ノ他砲雷撃ヲ受ケ沈没(4dgノ一艦不確實)セリ。本艦最後迄戦場ニ在リシモ遂ニ一艦トナリ。

旦敵ハ巧ニ島影ヲ利用分散配備ヲ取リ電測ヲ極度利用リアル為敵情ヲ明ニシ得ズ。一応戦場ヲ避退後図ヲ計ルベク南下中、舵取機械故障一時人力操舵ヲ以ッテ航行セリ。応急処置ニ依リ補助舵取機械ノミ使用可能トナリタルモ尚操舵不如意ニ付「コロン」湾ニ回航、船体被害ト共ニ応急修理ヲ妙高ニ依頼ス。至近爆弾命中弾、敵戦艦主砲ノ至近弾ニ依リ船重油「タンク」(容量九〇頓)艦底外鈑及機械室船水線下ニ破口亀裂、舟右軸室艦底二十米ノ亀裂、轉輪羅針儀破損セシ他、人員船体兵器ニ被害アルモ戦斗航海ニ差支ナシ。

爾後ノ行動ニ関シ指令ヲ乞フ。

— 発:時雨駆逐艦長 時雨機密第二五一〇一八番電[422]

一旦コロン湾に向かうが、B-24爆撃機に攻撃された為、ブルネイに向かった[423]。27日17時、ブルネイに入港[424]。一連の戦闘で時雨は主砲計241発(通常弾88発、三式弾36発、時限弾117発)、機銃7930発を発射し、戦死2名・重軽傷18名を出した[425]。また戦闘詳報の戦訓所見の冒頭には『我ト同勢力以上ノ敵泊地ニ夜間突入スルハ勝算ナシ』と記載されている[426]。レイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦は、西村艦隊の戦艦2隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦3隻を喪失しながらアメリカ軍に与えた損害はほとんどないという、『海戦史上最も凄惨たる敗北の一つとなった』[427]。山城生存者は約10名、扶桑生存者は約10名[428]。山雲生存者は3名、満潮生存者は4名、朝雲生存者は5名と記録されている[429]

萬栄丸沈没[編集]

スリガオ海峡夜戦からの生還後、時雨は第二水雷戦隊所属艦としてフィリピン方面で活動した。10月31日0630、特設運送船(給油船)で1TM型戦時標準タンカーの雄鳳丸(飯野海運、5,068トン)、同萬栄丸(日東汽船、5,226トン)、海軍配当船の八鉱丸(日本油槽船、10,023トン)、給糧艦早埼からなる船団を海防艦2隻(千振、第19号)、第34号駆潜艇と共に護衛してブルネイを出港し、同日1930にボルネオ島ミリに到着した。11月6日、海防艦2隻(千振、第19号)と共に萬栄丸を護衛してミリを出港、マニラへ向かった[430]。当時、萬栄丸は重油7,000トンを搭載しており[431]、11月9日にマニラに到着して重油を揚陸する予定だった。だがマニラ到着寸前の11月8日1時33分、船団は米潜水艦グロウラー (USS Growler, SS-215)のレーダーにより発見される。当時、グロウラーはレーダーの不調に悩まされていた[432]。グロウラーは米潜水艦ハードヘッド (USS Hardhead, SS-365)、ヘイク (USS Hake, SS-256)の2隻とともにウルフパックを組んでおり、2隻に船団を発見したと報告し、呼び寄せた。3隻は浮上したまま船団に接近。1時42分にはハードヘッドのレーダーも1隻の大型船と2隻の小型船を探知した[433]。グロウラーは船団の左側から、へイクとハードヘッドは船団の右側からと、船団をはさみ込む形で攻撃を行おうとした。2時53分、ハードヘッドはグロウラーのいる位置と思しき辺りから「恐らく雷撃のような音」や得体が知れない爆発音を聴取[434]。また、船団がコースを変えたことを探知した。2時57分から59分にかけても爆発音を3度聴取し[434]、これ以降グロウラーとは音信不通となった。この攻撃で、時雨と千振、19号は歴戦のアメリカ潜水艦グロウラーを撃沈した。3時59分、ハードヘッドは艦尾発射管から魚雷を4本発射。魚雷は全て萬栄丸に命中した。大音響と共に大きな水柱と火柱が萬栄丸を包み込み、それが消えた時にはすでに萬栄丸は海上からその姿を消していた[435]。当時の天候は曇りで、さらに真夜中であったことから生存者の捜索ができず[436]、萬栄丸では船員36名全員が戦死した。萬栄丸の沈没地点は北緯13度30分 東経119度25分 / 北緯13.500度 東経119.417度 / 13.500; 119.417カラミアン諸島ブスアンガ島沖と記録された。萬栄丸が轟沈したため海防艦2隻はミリに反転し、時雨はマニラに入港した。

11月10日、空母隼鷹、軽巡木曾、第30駆逐隊(夕月卯月)からなる小艦隊が『緊急輸送作戦』のためマニラに入港した[437]。ブルネイに立ち寄った際に、レイテ沖海戦で損傷した利根型1番艦「利根」も隼鷹隊に同行していた[438]。 木曾は同日附で第五艦隊・第一水雷戦隊に編入されマニラで待機することになり、隼鷹隊と分離した。一方で時雨は内地で本格的な修理を受けるため、隼鷹護衛として輸送艦隊に同行、11月12日11時マニラを出港する[439]。時雨以下隼鷹隊がマニラを去った翌日、同湾に停泊していた軽巡木曾、駆逐艦複数隻(秋霜初春沖波)はアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲により沈没もしくは大破着底した。15日、輸送艦隊はアメリカの潜水艦バーブから雷撃されたが、5隻とも無事であった。16日、日本近海で各艦は分離し、それぞれの所属母港へ帰投した[440]

ヒ87船団[編集]

11月15日附で時雨は第1水雷戦隊・第21駆逐隊(司令艦:初霜、《初春、註11月13日沈没》)に編入された[441]。11月16日、時雨は佐世保に到着、入渠して整備修理を行う[442]。 11月20日附で第一水雷戦隊は解隊、残存艦は第二水雷戦隊に吸収されることになり、時雨は第二水雷戦隊に復帰した。 12月12日に修理完成、13日-14日、佐世保を出港し呉へ移動[443]雲龍型航空母艦1番艦雲龍艦長(小西要人大佐)の指揮下に入ると、17日より第52駆逐隊()と共に「雲龍」護衛任務に就く[444]。「雲龍」は航空機を搭載しておらず陸軍兵や軍需物資、特攻機「桜花」等を搭載した輸送艦としてフィリピンのマニラに向かった[445]。それまで『緊急輸送任務』に従事していた隼鷹は12月9日にアメリカの潜水艦シーデビルもしくはレッドフィッシュから雷撃されて大破・行動不能となっており、桜花輸送任務に従事できなかった。

12月18日、海防艦22号は雲龍の前路哨戒を実施したが、1隻で米潜水艦の複数のウルフパックを掃討するなど不可能だった[446]。19日16時30分頃、時雨は空母雲龍の左斜め前方1.5kmを航行していた[447]。直後、雲龍が宮古島近海でアメリカの潜水艦レッドフィッシュ(USS Redfish, SS/AGSS-395)の雷撃で撃沈された[448]。対潜戦闘の後、舵故障を起こした時雨は佐世保に向かった[449]。このため東南アジア方面で活動していた第二水雷戦隊本隊と合流できず、礼号作戦に参加できなかった[450]。22日、佐世保に帰還[451]。27日、修理完成[452]。28日、ヒ87船団護衛のため佐世保を出港、門司に回航される[453]

12月下旬、時雨は空母龍鳳(桜花搭載)およびヒ87船団の護衛に就く。同行する第17駆逐隊(雪風《司令駆逐艦》、浜風磯風)はかつてソロモン海で時雨と共に戦った歴戦の駆逐艦達だった。だが、11月中旬に護衛していた金剛型戦艦1番艦金剛と17駆司令駆逐艦浦風がアメリカの潜水艦シーライオンIIの雷撃で撃沈され、11月29日には護衛対象の空母信濃がアメリカの潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃で沈没[454]。 当初の計画では、軽巡矢矧(艦長原為一大佐)と時雨はカムラン湾附近までヒ87船団と同行し、その後は東南アジアで行動中の第二水雷戦隊各艦と合流する予定であった[455]。龍鳳と第17駆逐隊が台湾で内地に引き返す事は既定方針であった[456]。 ところが矢矧より「乗員の基礎訓練が必要」との具申があり、結局連合艦隊は矢矧のヒ87船団同行を中止した[457][458]。 さらに「雪風」で機関故障が見つかり、検査・修理のため作戦実施直前に船団から離脱、第17駆司令駆逐艦は浜風に変更された[459][460]

12月31日、ヒ87船団は本土を離れる[461]。米潜水艦を警戒して沿岸海域を航海し、朝鮮半島西岸から黄海を経て大陸沿岸を南下、台湾へ向かった。1945年(昭和20年)1月3日、アメリカ軍機動部隊第38任務部隊の台湾空襲が開始され、船団は舟山群島北方泊地へ退避した[462]。さらに泊地周辺でも空襲の気配があった為、4隻(龍鳳、時雨、浜風、磯風)に退避命令が出た[463]。4日12時過ぎ、龍鳳以下は船団を離脱して嵊泗列島の泗礁山泊地に向かった[464]。4隻は約1日避退したのち、6日11時にヒ87船団本隊と合流する[465]。 7日11時27分、船団はアメリカ潜水艦に襲撃されてタンカー宗像丸が損傷を受けた[466]。13時、4隻(龍鳳、時雨、浜風、磯風)は船団から先行するよう命じられ、先に台湾の基隆へ向かう[467]。基隆到着をもって時雨・浜風・磯風は龍鳳護衛任務を終え、龍鳳と分離して船団護衛に戻る[468]。だが3隻はしばらく宗像丸の護衛に従事したため、先行した船団主力に追いつけなかった。 翌8日、濃霧のため中港泊地に停泊中だった浜風とタンカーの海邦丸が衝突、第17駆司令駆逐艦は磯風に変更され、損傷した浜風は馬公に回航された[469]。時雨・磯風は神威と海邦丸を護衛したのち、19時30分高雄市に到着した[470]。高雄滞在中にアメリカ第38任務部隊艦載機の空襲を受けて船団に被害が出るが、時雨に被害はなかった。ここでヒ87船団は編制替を行い、磯風は基隆に引き返すと空母龍鳳及びタモ35船団護衛として日本本土に戻った[471]

1月10日、磯風と分離した時雨は引き続きヒ87船団を護衛する。15-16日、ヒ87船団は香港で再びアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受け、特務艦神威が大破、タンカー4隻が沈没するなど大きな損害を出した[472]。アメリカ機動部隊跳梁を前に大船団を航行させると危険と判断した上層部は、ヒ87船団を二つに分割する[473]。 時雨はヒ87A船団に所属し、海防艦干珠《旗艦》・三宅海防艦13号および1TM型戦時標準タンカーの「さらわく丸」(三菱汽船、5,135トン)と海南島楡林港を目指すことになった[474]。当時、26隻建造された1TM型戦時標準タンカーはさらわく丸と新潮丸以外の24隻がすでに戦没しており、新潮丸も21日に高雄にて空爆を受けて戦没する。 1月17日夜、ヒ87A船団は香港を出発、19日に海南島楡林港で第7護衛船団司令部が下船し[475]、以後は干珠艦長指揮下にシンガポール(昭南)を目指した[476]。20日19時楡林港を出港、接岸南下航路をとっていたが、22日になってアメリカ軍の哨戒機に発見されてしまう[477]

沈没[編集]

1945年(昭和20年)1月24日早朝、時雨以下ヒ87A船団はタイランド湾マレー半島東岸を速力12ノットで航行していた[478]。船団はさわらく丸を中心に、さわらく丸の前方1.5kmに旗艦干珠、さわらく丸の左舷(右舷)1.5kmに時雨(三宅)、さわらく丸後方1.5kmに海防艦13号が配置されていた。アメリカ軍によれば、潜水艦ブラックフィンUSS Blackfin, SS-322)とベスゴ (USS Besugo, SS/AGSS-321)が潜んでおり、既にヒ87A船団を狙っていた。また同海域はアメリカ潜水艦の跳梁する難所としてシンガポール方面の日本軍は航行しないよう心得ていたのだが、ヒ87A船団はその事を知らされていなかった[479]。 午前7時前、水深60m、風速4m、波浪小、雲量10、視界3000m、気温28度という条件で時雨は左舷4460mに電探反応を認める[480]。まず船団に潜水艦警報を出そうとしたが電話は通じず、『本艦電探射撃照明射撃施設完備相當ノ練度アリテ自信アリタリ』という時雨は電探射撃を実行すべく、『肉眼で確認した敵潜水艦』を目標として7時3分に面舵転舵[481]。この運動により、時雨の左舷前方に位置していたブラックフィンに絶好の射点を与えることになった。時雨に迫る2本の雷跡を発見した者もいたが[482]、錯覚や連絡不備により艦幹部の判断を変えるには至らなかった。艦長達は、電探で捕捉した艦首方向の敵B潜水艦(ブラックフィン)と[483]、肉眼でとらえたとされる敵A潜水艦を混同していたのである[484]。ブラックフィンは歴戦の駆逐艦である時雨を撃沈するという大戦果をあげる事になった[485]

7時4分、時雨は左30度に魚雷を発見して面舵回避を開始、この魚雷は艦尾をかすめたという[486]。1分後、4本確認された魚雷のうち魚雷1本が時雨の左舷後部に命中した[487]。急激に傾斜した為、ただちに総員上甲板が下令された[488]。7時10分総員退去、艦中央部で前後に分断された「時雨」は7時15分に沈没した[489]。 三宅によれば、船団最後尾にいた時雨は敵浮上潜水艦攻撃に反転したあと消息をたち、海防艦が後をおいかけると既に沈没していたという[490]。 干珠・海防艦13号は制圧射撃を行ったが効果なく、8時15-17分にはアメリカの潜水艦ベスゴの雷撃によりさわらく丸が雷撃され損傷したが、沈没の恐れはなかった[490][491]。干珠はさわらく丸を護衛してシンガポールへ向かい、海防艦13号・三宅が時雨乗組員の救助にあたった[492]。沈没地点北緯06度00分 東経103度45分 / 北緯6.000度 東経103.750度 / 6.000; 103.750[493]。戦死者は准士官以上2名(内1名便乗者)・下士官兵36名、重傷者は下士官兵8名、軽傷者は下士官兵9名[494]。時雨戦闘詳報では最終ページで以下の戦訓を掲載している[495]

『警戒艦艇ハ自艦及他艦ノ万一ノ場合ニ備エテ救難用応急要具(救命筏円材縄梯子等)ヲ平常ヨリ整備シ置クヲ可トス。万一ノ際人的資源ノ無為損耗極減ノ為此等ノ處置ヲ取リ置クハ至當ト認ム。最近搭載短艇ノ局限ヲ計リツツアル時尚此ノ要アリ。本艦今回救命筏約20(内緊急揚搭作業用桟橋兼用ノモノ7)ヲ用意シ 応急用円材ヲ上甲板各所ニ分散結止シ置キタルガ人的無為消耗ノ極メテ少カリシ一因タルモノト認メラル。|時逐艦時雨戦闘詳報 昭和二十年一月二十四日「グレートレダン」島沖對潜戦闘』

ヒ87A船団の3隻(干珠、三宅、さわらく丸)は1月26日に羽黒・足柄・妙高・大淀等が停泊するシンガポールに到着した[490]。 時雨は3月10日附で帝国駆逐艦籍から除籍された[496]。尚、時雨の沈没をもって白露型駆逐艦全10隻は全て喪失し、艦艇類別等級表から削除された[497]。また時雨喪失後の第21駆逐隊は駆逐艦3隻(初春型《初霜》、夕雲型《朝霜》、満潮型《》)の3隻編制となった[498]。 3月19日、ヒ88J船団に参加してシンガポールを出港したさらわく丸は触雷し、沈没を防ぐために座礁したものの21日に沈没した。さらわく丸の沈没により1TM型戦時標準タンカー全26隻はこれまた全て喪失した。それから間もない4月7日坊ノ岬沖海戦(戦艦大和沖縄水上特攻作戦)に於いて時雨のかつての僚艦である不知火型2隻(磯風、浜風)が沈没した。第21駆逐隊僚艦(朝霜、霞)も沈没し、終戦直前に「初霜」も大破着底して喪われた。『呉の雪風、佐世保の時雨』と謳われた雪風のみが初春型駆逐艦、白露型駆逐艦、朝潮型駆逐艦陽炎型駆逐艦夕雲型駆逐艦の中で1隻のみ生き残り、太平洋戦争の終結を見届けた。

現在、時雨の船体はマレー半島コタバルの東方150km地点付近、水深55mの地点で沈んでいるのが確認されており、ダイビングスポットになっているほか、地元漁師にとっては漁礁代わりになっており漁網でカバーされている。艦体は2つに分断されており、艦首側は右舷側に横転した状態で、艦尾側は艦首側から10mほど離れた場所で正立した状態で沈んでいる。艦首側は海底に叩きつけられたのか酷く損傷しているものの艦尾側は原型をとどめている。

機銃増備の状況[編集]

1944年12月の時雨艦型図

『日本駆逐艦物語』によると戦没約1月前の機銃の状況は、25mm3連装3基、同連装1基、同単装15基、13mm単装4基。後部2番単装主砲は撤去、前部右舷の予備魚雷格納函も撤去され、短艇の一部も陸揚げされていた。水測兵器は九三式水中聴音機と探信儀を装備し、探信儀には水流覆いが着けられていた。また前マストに22号電探13号電探を1基ずつ装備していた。

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』303-304頁による。

艤装員長[編集]

  1. 杉野修一 少佐:1935年8月26日 -

艦長[編集]

  1. 杉野修一 少佐:1936年9月7日 - 1936年12月1日
  2. 横井稔 少佐:1936年12月1日 - 1938年12月15日[499]
  3. 緒方友兄 少佐:1938年12月15日 - 1939年3月20日[500]
  4. (兼)浜中脩一 少佐:1939年3月20日[500] - 1939年4月1日[501]
  5. 金田清之 少佐:1939年4月1日 - 1941年9月1日[502]
  6. 瀬尾昇 少佐:1941年9月1日 -
  7. 山上亀三雄 少佐:1942年11月20日 -
  8. 西野繁 少佐:1943年12月8日 -
  9. 荻原学 少佐:1944年12月1日 -

時雨のプラスチックモデルキット[編集]

  • 1/700 特シリーズNo.81日本海軍駆逐艦 白露型 時雨・五月雨(フジミ模型) 2013年6月14日発売
  • 1/700 日本海軍駆逐艦 時雨 入渠セット(ピットロード) 2013年12月20日発売
  • 1/700 特シリーズ SPOT No.39 日本海軍駆逐艦 時雨・雪風 幸運艦セット(フジミ模型) 2014年7月26日発売
  • 1/700 特シリーズ No.98 日本海軍駆逐艦 時雨・雪風 幸運艦セット(フジミ模型) 2017年9月発売

脚注[編集]

  1. ^ a b c d #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『時雨|(艦諸元略)|浦賀船渠會社|8-12-9|10-5-18|11-9-7|(兵装略)』
  2. ^ #時雨第156号の2人員の件通知p.13『時雨/士官7 特務士官2 准士官3 下士官57 兵153』
  3. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風』
  4. ^ 原為一『帝国海軍の最後』124.137頁、#日本海軍艦艇写真集17駆逐艦40頁
  5. ^ #モリソンの太平洋海戦史238頁
  6. ^ #モリソンの太平洋海戦史241頁
  7. ^ a b #終わりなき海軍37頁
  8. ^ #昭和9年度海軍予算査定資料pp.15-16『昭和六年補充計畫被代艦調|驅逐艦|時雨|1400|羽風/1215内745|島風/1215内840|(略)』
  9. ^ #第4364号白露時雨p.2
  10. ^ #達昭和8年12月pp.11-12『達百四十九號 艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻掃海艇一隻左ノ通命名ス|昭和八年十二月十五日 海軍大臣大角岑生|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造 白露シラツユ|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 時雨シグレ|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 村雨ムラサメ|潜水艦 三菱造船株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第七十二潜水艦|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第七十三潜水艦|掃海艇 株式會社大阪鉄工所ニ於テ建造 第十七號掃海艇』
  11. ^ #駆逐艦戦隊103-106頁『艦艇類別等級とは』
  12. ^ #第1126号 艦船工事概括表認許の件p.2
  13. ^ #日本海軍艦艇写真集17駆逐艦44頁
  14. ^ #北海道行幸の際の海軍儀礼、行動等に関する件(2)p.1
  15. ^ #時雨第156号の2人員の件通知p.44、#北海道行幸の際の海軍儀礼、行動等に関する件(2)p.10
  16. ^ #北海道行幸並に陸軍特別大演習関係事項の件p.7
  17. ^ #北海道行幸並に陸軍特別大演習関係事項の件p.17
  18. ^ #北海道行幸並に陸軍特別大演習関係事項の件p.20-21
  19. ^ #北海道行幸並に陸軍特別大演習関係事項の件p.25『比叡・時雨・白露 〇九三〇時横須賀着 天皇陛下ニハ長途ノ御公開ヲ終ヘセラレ天機益々麗シク拝セラレル 一〇三五時御退艦遊バサレ茲ニ無事北海道行幸特別任務ヲ終了セリ』
  20. ^ #昭和十一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌p.34『囁き交わす歓びの会話の瞬間にゆらめく和泉灘の金波をかき分けて、神戸港の防波堤に近づく比叡の英姿、仰ぎみる檣頭高く錦旗は、今ぞはためく、続くは供奉艦の時雨、白露その時突如海面をどよもす二十一発の皇禮砲は鳥海、愛宕、足柄の各艦から発せられ…』
  21. ^ #昭和十一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌p.36『かくて八時御召艦愛宕は抜錨、供奉の駆逐艦白露、時雨を従へ、第一航路関門を経て御出講、この時連合艦隊旗艦長門が放つ皇禮砲第一発に続いて、各戦隊毎に二十一発の皇禮砲を発し…』
  22. ^ #昭和十一年海軍特別大演習観艦式神戸市記念誌pp.39-45
  23. ^ #和11年特別大演習観艦式賜饌艦設備に関する件 訓令中改正の件(1)p.8,13『午後2時40分、御召艦横須賀ニ向ケ出港ス。駆逐艦時雨、白露ハ賜饌後御召艦附近ニ待機シ御召艦出港ノ際供奉ス』
  24. ^ #昭和11年C儀制 巻12(1)p.5
  25. ^ #艦艇特務艦本籍別一覧表(昭和12年12月1日)p.4『驅逐艦|横須賀鎮守府|(略)有明、夕暮、白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨(略)』
  26. ^ #駆逐隊編制(昭和12年12月1日)p.7『驅逐隊編制』
  27. ^ #駆逐隊編制(昭和13年12月5日)p.4『驅逐隊編制』
  28. ^ a b c #軍艦華麗なる生涯48頁
  29. ^ #S1612九戦隊日誌(1)p.10『15日/一.連合艦隊電令作第43号ニ依リ呉ニ於テ第二師団輸送船団護衛作戦準備ヲ開始ス 二.本護衛任務ニ関シ第二十七駆逐隊(二小隊欠)、第三十二駆逐隊ヲシテ當戦隊司令官ノ指揮ヲ受ケシメラル』
  30. ^ #戦隊行動調書p.9『1.15 陸軍輸送船団護衛隊(将旗9S) 9S(将旗大井、北上) 27dg(白露、時雨)、32dg(芙蓉、刈萱、朝顔) 1.16〜1.31 門司高雄間陸軍船団(約32隻)護衛』
  31. ^ #S1612九戦隊日誌(1)pp.24,29『各部隊ノ任務行動/第二護衛隊 27dg第1小隊 指揮官27dg司令 第二輸送船隊(六隻)ノ直接護衛』
  32. ^ #S1612九戦隊日誌(1)p.11『18日/第27駆逐隊(2小隊欠)及輸送船6隻(第二次船団)六連冲発』
  33. ^ #S1612九戦隊日誌(1)p.11『22日/第二次船団 基隆着』
  34. ^ #S1612九戦隊日誌(1)p.22『29日/27dg馬公着』
  35. ^ #S1612九戦隊日誌(1)p.22『31日/一.上及27dg第1小隊、輸送船七隻ノ直接護衛(馬公高雄間)ヲ行フ 二.護衛任務ヲ無事終了ス 任務終了ニ付27dg第1小隊ニ対スル指揮ヲ解ク』
  36. ^ #空母瑞鳳生涯51頁
  37. ^ #S1704五航戦日誌(1)p.4『4月10日附 秋雲、朧ハ五航戦ヨリ除カル/4月18日以降二十七駆五航戦司令官ノ指揮下ニ入ル』
  38. ^ #S1704五航戦日誌(1)p.8『18日以降機動部隊ヨリ除カレMO作戦参加ノ為南洋部隊ニ編入二十七駆本職ノ指揮下ニ入ル』
  39. ^ #S1703五戦隊日誌(3)pp.5,19『GF電令作第112号ヲ以テ4月18日附5S(那智欠)、5Sf、祥鳳、27dg、7dg 南洋部隊編入ヲ発令セラル』
  40. ^ #S1704五航戦日誌(1)p.9『19日1200補給完了直ニ五航戦二十七駆ヲ率ヒ馬公出撃機動部隊トノ会合点ニ向ケ急行ス…』
  41. ^ #MO機動部隊詳報(1)p.5『MO機動部隊ノ指揮官並ニ兵力』
  42. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)278頁
  43. ^ #MO機動部隊詳報(1)p.42『5月9日1230(翔鶴夕暮漣横須賀回航の件)』
  44. ^ #S1703五戦隊日誌(5)p.29『(略)補給及不時着捜索ニ引続キ従事ス』
  45. ^ #S1703五戦隊日誌(6)pp.19-20
  46. ^ #MO機動部隊詳報(1)p.25『17日5S、27dgハ南洋部隊ヨリ除カレMO機動部隊ノ編制ヲ解カル』
  47. ^ #MO機動部隊詳報(3)p.26『5月17日1515/5S(那智欠)27dgヲ南洋部隊ヨリ除カレ5S(那智欠)ハ前進部隊ニ27dgハ警戒部隊ニ編入セラレ27dgハ5S内地着迄5S司令官ノ指揮ヲ承クルコトニ発令セラル』
  48. ^ #S1703五戦隊日誌(3)p.25『5S前方ノ直衛駆逐艦時雨ハ至近距離(約2000米)ニ浮上同行スル敵潜水艦(「ボニータ」型)1隻ヲ認メ之ヲ砲撃命中弾(四斉射中三回命中)ヲ浴セ且ツ潜没後爆雷攻撃2回ヲ加ヘ有効ナル攻撃ヲナセリ、撃沈確実ト認ム』
  49. ^ #S1703五戦隊日誌(3)p.27『5月22日早朝豊後水道ニ入リ27dg直衛任務ヲ解キ之ヲ先行セシメ同日午後呉ニ入泊セリ』
  50. ^ #MO機動部隊詳報(3)p.63『戦訓並所見』より
  51. ^ 昭和17年6月25日(発令6月25日付)海軍辞令公報(部内限)第889号 p.24』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  52. ^ 昭和17年6月20日(発令6月20日付)海軍辞令公報(部内限)第886号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  53. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)109頁『米海兵隊のマキン島への上陸』
  54. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)113頁『マキンへの奇襲上陸に対する措置』
  55. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)122-123頁『第二十七駆逐隊及び「哨三十六号」による進出』
  56. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)143頁『アパママ島攻略』
  57. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)149頁『前進、機動各隊の「ガ」島北東海面への進出』
  58. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦120-121頁『ヌデニ島敵飛行艇基地攻撃』
  59. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)154頁『「ガ」島飛行場総攻撃の支援態勢と総攻撃の失敗』
  60. ^ #S170601五戦隊日誌(3)p.21『特別奇襲隊ハ12日「ヌデニ」島「ブラシオサ」湾敵飛行艇基地攻撃実施、15日其ノ編制ヲ解カレ本隊ニ合同』
  61. ^ #戦史叢書83ガ島戦143頁
  62. ^ #戦史叢書83ガ島戦181頁
  63. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦182-183頁『八日の日進輸送』
  64. ^ #戦史叢書83ガ島戦188頁
  65. ^ #図説太平洋海戦史第2巻208頁
  66. ^ #戦史叢書83ガ島戦200頁(戦史叢書では夕霧とするが、夕霧は呉で修理中。出撃艦は天霧)
  67. ^ #図説太平洋海戦史第2巻212頁
  68. ^ #戦史叢書83ガ島戦217-218頁
  69. ^ #戦史叢書83ガ島戦220-221頁
  70. ^ #戦史叢書83ガ島戦222頁『輸送計画の変更』
  71. ^ #S1709四水戦詳報(5)pp.3-4,13『10月16日聯合艦隊ヨリノ指令ニ依リ日進、千歳ノ輸送ハ取止メラレ千代田ノ進出モ亦延期トナレルヲ以テ増援部隊ヲ軽巡戦隊(川内、由良、龍田)、水雷戦隊(秋月、7dg、11dg、6dg、2dg、19dg、27dg)ニ分ケ第四水雷戦隊司令官ハ水雷戦隊ヲ指揮スルコトトナレリ』
  72. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦224-225頁『十七日の輸送』
  73. ^ #S1709四水戦詳報(5)p.23『18日1120 4sd司令官→3sd司令官/昨夜「タサハロング」ニ於テ収容セル人員左ノ通 海軍32内重傷13(准士官1)軽傷8(吹雪航海長)、陸軍100内将校2重傷10軽傷49、吾妻丸船員33(船長)内軽傷5 陸軍輸送船員66内重傷7軽傷29 計231』
  74. ^ #S1709四水戦詳報(5)p.6『村雨、時雨ハ適時哨区ヲ撤シ2210予定ノ如ク陸上砲撃ヲ実施ス(発射弾数 村雨60発時雨100発)』
  75. ^ #S1709四水戦詳報(5)p.7『18日0400「エスペランス」隊ニ進及合同ス。0455軽巡戦隊ニ対シ左斜前約1粁ヨリ敵潜水艦ノ雷撃(発射雷数3)アリ、内1由良ノ左舷前部清水タンクニ命中セルモ不爆ニシテ大ナル損害ナク0930増援部隊全部RX区ニ帰着セリ。』
  76. ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.9-10『26日0000将旗ヲ村雨ニ移揚シ…』
  77. ^ #戦史叢書83ガ島戦246頁
  78. ^ #S1710四水戦日誌(1)pp.3-4『(略)陸軍第18軍ノ大部ヲ同島揚陸ニ成功陸軍部隊ノ大ナル自信ノ下ニ24日「ガ」島第二回総攻撃ヲ実施セラレタルモ遂ニ成功スルニ至ラズ更ニ後図ヲ策スルコトトナレリ(略)』
  79. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦333-334頁『二十九日の輸送』
  80. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦344-347頁『十一月二日の輸送』
  81. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦347-350頁『五日の輸送』
  82. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦351-353頁『八日の輸送』
  83. ^ #S1710四水雷詳報(1)p.8『27dgハ前進部隊電令作第71号ニ依リZ-2日2200RXE出撃南方航路ヲ経テZ-1日2100迄ニ「ガダルカナル」「ラッセル」島間ニ進出同方面ヨリ来襲スルコトアルベキ敵ノ阻止撃攘ニ任ジ11Sノ「ガダルカナル」飛行場射撃終了後之ニ合同ス』
  84. ^ #S1711四水戦日誌(4)pp.43-44『四.参考(1)麾下艦船部隊ノ行動』
  85. ^ #S1710四水雷詳報(2)p.16『13日0309 10S司令官→照月27dg/比叡0300「サボ」島ノ西5浬操航不自由ナリ至急之ガ救援ニ赴ケ』
  86. ^ #S1710四水雷詳報(1)p.15『27dgハ「ガ」島「ラッセル」島間予定哨区ニアリテ警戒中2348 11Sノ砲戦シツツアルヲ認メ0020集結(順番号単縦陣)0030哨区ヲ撤シ11Sニ合同スル如ク行動中0135令ニ依リ北方ニ退避ス。0200霧島ニ合同シコレニ続行中0345十S司令官ノ令ニ依リ反転(「ラモス」島ノ60度15浬)比叡ノ救援ニ向ヘリ』
  87. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.14『0600頃ヨリ27dg(有明欠)照月相次デ来着 雪風ト共ニ比叡ノ周囲約3粁圏ヲ旋回警戒セシム』
  88. ^ #S1710四水雷詳報(1)p.17『0545現場着11S司令官ノ指揮ヲ受ケ之ガ警戒ニ任ジツツ敵艦爆・雷撃機・戦闘機ト間断ナク交戦、1300頃ヨリ比叡乗員ノ収容ヲ開始1520収容ヲ終ル 此ノ間敵戦闘機ノ銃撃ニ依リ時雨、白露、夕暮ニ若干ノ被害アリ』
  89. ^ #S1710四水雷詳報(2)p.29『13日1944 27dg司令→4sd司令/27dg機密第1318323番電 当隊比叡警戒任務中敵機銃撃ニ依ル被害左ノ通リ 但シ戦闘航海ニ差支ナシ出シ得ル最大速力編隊全力29節…』
  90. ^ #S1710四水雷詳報(4)p.36『(二)13日比叡救援中ノ被害 時雨:一、二番重油タンク其ノ他外舷甲板機銃被弾破孔多数 白露:二番連管1、六番重油タンク機械室外鈑小破孔 夕暮:後部電信室火災送信機使用不能』
  91. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦374-375頁
  92. ^ #第十一戦隊日誌(5)pp.17-18『1600人員ノ収容ヲ終リ将ニ27dgヲシテ處分セシメントスルトキGF長官ヨリノ電令ニ依リ處分ヲ取止メ比叡ヲ監視シツツ更ニ状況ヲ具申處分方電接セリ』
  93. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.35『13日1407雪風司令官→艦/比叡処分ノ為各艦魚雷2本ヲ用意シヲケ』
  94. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.40『13日1550 11S司令官→27dg司令/二十七駆逐隊司令ハ比叡ニ対シ雷撃処分セヨ』
  95. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.40『11月13日1631 11S司令官→時雨/11S司令官→宛27dg 處分待テ』
  96. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.40『11月13日1638 GF長官→各隊/GF機密第131440番電 比叡處分スルナ』
  97. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.40『11月13日1753 27dg→2F長官他/27dg機密131832番電 二番連管魚雷機室ニ被弾2個噴出引火危険ニ瀕シタル為魚雷4本投棄ス(後略)』
  98. ^ #第十一戦隊日誌(5)p.18『(略)同艦ハ沈没セルモノト推定シ2330捜索ヲ止メ前進部隊ニ合同スル如ク行動ス』
  99. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.59『時雨夕暮1200トラック着(旭東丸日栄丸)護衛』
  100. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.11『10日0930竜鳳→4sd/発竜鳳艦長 AdBキデ091410番電ニ依ル貴隊派遣駆逐艦右至急知ラサレ度(略)』
  101. ^ #S1712四水戦日誌(2)pp.12-13『10日1622将旗4sd→各艦/4sd電令作第1号 AdB電令作第90号ニ依ル4sdノ2艦ヲ朝雲 時雨ニ指定 9dg司令ハ朝雲時雨ヲ率ヒ12日以後便宜「トラック」発 14日1200地点ヤカワ41ニテ竜鳳 冲鷹ニ合同シ「トラック」迄之ガ護衛ニ任ズ』
  102. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)216-217頁『航空母艦による航空機輸送』
  103. ^ #S1712四水戦日誌(1)p.13『…朝雲時雨ハ9dg司令之ヲ率ヒ沖鷹警戒任務ノ為13日1530「トラック」出撃15日1445「サイパン」北西海面ニテ沖鷹卯月ニ合同、18日0750「トラック」着…』
  104. ^ #S1712四水戦日誌(1)p.13『…更ニAdB電令作第90号4sd電令作第1号ニ依リGF電令作第405号ニ依ル輸送任務ニ従事スル沖鷹警戒任務ノ為21日1024「トラック」発26日1250横須賀着。』
  105. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.41『22日1620大臣→佐鎮長官/部下工廠ヲシテ時機ヲ得次第 若葉 初霜 有明 夕暮 白露 時雨ノ40粍機銃ヲ在庫ノ25粍2連装一型改二(二型改)ト換装 之ガ代償重量トシテ予備魚雷2、及同格納庫ヲ撤去セシムベシ。工事及所要兵器ノ詳細ニ関シテハ海軍艦政本部長ヲシテ直接所要ノ向ニ通牒セシム。』
  106. ^ #S1712四水戦日誌(3)pp.12,73『時雨ハ自15日至23日間AdB電令作第120号ニ依ル「トラック」至ショートランド間A船団輸送任務ニ従事 24日2sd司令官ノ指揮下ニ入ラシメル(AdB電令作第131号)』-『麾下艦船部隊ノ行動』
  107. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦518-519頁『六号輸送(第六師団のボーゲンビル島進出)』
  108. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)272頁『六号輸送の護衛』
  109. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.59『2月1日 各艦(隊)現状 長良朝雲時雨五月雨AdB主隊ト共ニ「ケ」号作戦ニ従事出撃中』
  110. ^ #戦史叢書83ガ島戦552頁
  111. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.9『時雨ハ15日将旗3Sノ指揮下ニ入リ内地回航部隊ノ警戒ニ任ジ「トラック」発 20日佐世保着 尓後同地ニ在リテ船体ノ整備ニ任ズ』
  112. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.7『時雨ハ佐世保ニ於テ修理整備ヲ完成シ13日同地発 途中15日 山霧丸及辰南丸ニ合同之ガ護衛ニ任ジツツ「トラック」ニ回航 21日「トラック」着
  113. ^ #S1712四水戦日誌(6)p.46『(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  114. ^ #S1805四水戦日誌(1)p.4『6日一時将旗ヲ時雨ニ移揚シ…』
  115. ^ #S1805四水戦日誌(1)p.5『8日内地回航部隊(5S大和雲鷹冲鷹)「トラック」出撃時27dg(時雨)ハAdB信令第265号ニ依リ其ノ前路対潜掃蕩任務ニ従事シタル後9日「トラック帰投』
  116. ^ #S1805四水戦日誌(1)p.22『7日将旗5S→各艦/5S信令第83号 一.回航部隊ハ明8日1430北水道出撃(航路ハ大和機密第5号ノ6ノ通)ノ予定。27駆(時雨)初月ハ1000出港北水道外敵潜掃蕩ヲ実施シタル後同水道ノ外ニ於テ回航部隊ニ合同スベシ。二.明八日0700各艦航海長 妙高ニ参集スベシ』
  117. ^ #S1805四水戦日誌(1)pp.6,33『27dg(時雨、有明)ハ前記任務ノ後17日GF電令作第564号ニ依リGF主隊ニ編入セラレ内地回航部隊(1S(大和欠)3S、8S、2sf(隼鷹欠))直衛任務ニ従事「トラック」発 22日横須賀着』
  118. ^ #S1805四水戦日誌(1)p.59『四参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動 第四水雷戦隊』
  119. ^ #S1805四水戦日誌(1)p.6『27dg(白露欠)22日GF電令作第565号ニ依リKdBニ編入 横須賀及木更津方面ニ行動 31日 1sf最上大淀ト共ニ内海西部ニ向ケ横須賀発』
  120. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.8『行動概要左ノ如シ。27dg(白露欠)ハ前月下旬引続キKdBニ編入前月31日1sf大淀最上直衛トナリ横須賀発内海西部ニ向ヒツツアリシガ引続キ1sf基地物件ノ輸送ニ任ジ2日0130 27dg(時雨、夕暮)ハ鹿児島ニ有明ハ0100古江ニ夫々入港右物件揚陸後佐世保ニ回航1500佐世保着同地ニ於テ艦橋前機銃増備其ノ他船体旗艦兵器整備ニ任ジタル後6日佐世保発8日横須賀着…』
  121. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.22『7日1415 27dg→明石他/当隊(時雨、白露)被害ニ鑑ミ前25mm機銃増設工事ハ期間不足ノ為佐工廠ニ於テ架台各部ノ部分品ノミ制作其他内令ニ依ル機銃共各艦ニ搭載ノコトニ取計ハレ度 残工事ハ横工廠(自6月8日至6月10日)及明石ニ於テ施行方取計ハレ度』
  122. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.23『8日1002 27dg→各隊/時雨7日1945潮岬ノ77度65浬ニ於テ敵潜ラシキモノヲ探知攻撃(投射爆雷30)セシニ異様ニ大ナル爆発状況ヲ呈シ(略)更ニ其ノ直上ニ爆雷4個投射セリ。爾後時雨、有明、夕暮ノ3隻ニテ附近一帯ヲ探信相当スルモ反響ナシ効果概ネ確実ト認ム(略)』
  123. ^ #S1805四水戦日誌(2)pp.24-25『8日1728将旗27dg→各隊/時雨左舷巡航タービン操縦弁内部漏洩、右舷巡航タービン車室蒸気漏洩部及蒸気安全弁漏洩部検査修理ノ為約四日間ヲ要スル現状ニ鑑ミGF電令作第587号ニ依ル駆逐艦2隻ヲ有明夕暮ニ指定致度』
  124. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.85『有明、夕暮1400トラックニ向ケ横須賀発(2sf(隼鷹欠)護衛)途中、飛鷹遭難ノ為横須賀ニ引返ス』
  125. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)341頁『「飛鷹」の損傷と第二航空戦隊等のトラック進出』
  126. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.9『15日27dg(時雨)GF電令作第590号AdB電令作第218号ニ依リAdBニ復帰、16日27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ将旗3Sノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)2sf(龍鳳)五十鈴雲鷹冲鷹、7dg、16dg(雪風)浜風谷風凉風清波新月等ト共ニ横須賀発、21日「トラック」着(将旗)2sfノ指揮ヲ解カル爾後27dg(時雨)ハ前記「ナウル」輸送任務ニ従事』
  127. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.81『麾下艦船部隊ノ行動』
  128. ^ #S1805四水戦日誌(2)pp.6-7『横二特及兵器弾薬糧食等ノ「ナウル」輸送ヲ命ゼラレ本行動中UNB指揮官ノ指揮ヲ受ケUNB信電令作第4号ノ要領ニ依リ第一次輸送隊(五十鈴、浜風、谷風)22日0405、第二次輸送隊(4Sd(長良)16dg(雪風))23日0900、第三次輸送隊(27dg(時雨)、Ch28、秋葉山丸)24日1000夫々「トラック」発』
  129. ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)369頁『横二特のナウル進出』
  130. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.90『27日 一.0500長良雪風浜風ト時雨秋葉山丸Ch28右反抗ニテ航過ス』
  131. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.7『第三次輸送隊ハ29日0430「ナウル」着30日1100揚陸後27dg(時雨)ハAdB電令作第232号ニ依リ単独同地発「トラック」ニ回航ス』
  132. ^ #S1805四水戦日誌(2)p.91『30日 27dg(時雨)ナウル輸送物件揚陸完了AdB電令作第232号ニ依リ急速トラック回航ス』
  133. ^ #内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  134. ^ #S1805四水戦日誌(3)pp.24,30『7月1日2dg解隊、五月雨ハ4sdニ編入、春雨ハ4sdヨリ除カレ艦隊区分ヲ変更 27dgヲ1番隊トシ五月雨ヲ2番隊トス』
  135. ^ #S1805四水戦日誌(4)pp.37-38『隼鷹飛行機隊及隼鷹龍鳳基地員ノ進出ニ関シ左ノ通定ム(後略)』
  136. ^ #S1805四水戦日誌(4)p.4『(略)隼鷹派遣隊ノ「マーシャル」撤収並ニ2sf飛行機隊ノ「ラボール」方面進出ノ為4sd(長良、時雨)ハ之ガ輸送ニ協力シ併セテ22sf用糧食ノ「ルオット」輸送ヲ実施ス。長良及時雨ハ航続力ノ関係上初メ計画セラレタル「トラック」「ルオット」「ラボール」間ヲ直航スルヲ変更シ「ルオット」ニ於テ22sfノ糧食陸揚ゲ及隼鷹派遣隊ノ収容ヲ終ラバ一旦「トラック」ニ帰投燃料補給後「ラボール」方面ノ輸送ヲ実施スルコトトナレリ』
  137. ^ #S1805四水戦日誌(3)p.79『麾下艦船部隊ノ行動』
  138. ^ #S1805四水戦日誌(3)p.84『13日時雨0450 270度方向約2粁ニ敵潜望鏡ラシキモノ発見之ヲ攻撃(爆雷12個)効果不明 4sd(長良27dg(時雨))「トラック」着、直ニ燃料補給搭載人員物件ノ一部変更等ヲ行フ』
  139. ^ #S1805四水戦日誌(3)pp.85-86『15日4sd(長良(時雨))「カビエン」着 長良ハ湾内ニ入泊直ニ基地人員物件ヲ揚陸 時雨ヲ以テ礁外ノ警戒ニ任ゼシムルト共ニ長良内火艇1隻(爆雷搭載)ヲ水道外ニ派出対潜警戒ニ任ゼシム 1450長良右舷艦尾ニ於テ磁気機雷ラシキモノ爆発横付中ノ大発1隻大破沈没艇長行方不明 長良ニモ軽小ナル損害アリ重傷者小数アリシモ戦闘航海ニ支障ナシ 1730「ラボール」ニ向ケ出撃ス』
  140. ^ #S1805四水戦日誌(3)pp.86『17日 有明0515「ラボール」着 4sd(長良、有明)1300「トラック」ニ向ケ「ラボール」発 27dg(時雨)早朝「ブカ」南飛行場着基地人員物件揚陸後出港 1507 4sd(長良有明)夕張ニ合同「トラック」ニ回航ス
  141. ^ #S1805四水戦日誌(3)pp.87『19日4sd(長良27dg(時雨有明))「トラック」帰投輸送及護衛任務ヲ終了ス』
  142. ^ #戦隊行動調書p.43『719 長良 KdBニ編入 720 解隊2sdニ編入』
  143. ^ #S1805四水戦日誌(3)pp.87-88『4sd(長良)KdBニ、27dg(白露欠)ヲNTBニ夫々編入セラル(GF電令作第638号AdB電令作第246号) 4sdハ7月20日附2sdニ編入ノコトトナリ本日誌本日ヲ以テ終了ス』
  144. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.26『7月20日旧4sd(19日附解隊)兵力(長良、27dg、五月雨)ヲ2sdニ編入旗艦ヲ長良ニ指定セラレ、又4sd司令官高間少将以下職員全部2sd職員ニ転捕セラレ同日将旗ヲ長良ニ掲揚ス』
  145. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.65『麾下艦艦部隊ノ行動』
  146. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.31『夕暮 NTBニ編入同方面作戦中7月19日夜「フロンバンガラ」沖ニ於テ敵有力部隊(水上艦艇及飛行機)ト交戦20日0115壮烈ナル最後ヲ遂グ』
  147. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.28『清波 NTBニ編入中ニシテ7月19日「コロンバンガラ」島沖夜戦ニ於テ敵ト交戦、沈没セル夕暮ノ救助ニ向ヒ20日0230以後消息ヲ絶チ、壮烈ナル最後ヲ遂グ』
  148. ^ a b #戦史叢書96ガ島撤収後250頁
  149. ^ #S1806二水戦日誌(1)pp.56-58『30日0927将旗30dg→各隊/「ツルブ」作戦輸送戦闘概報(略)1350敵B-25約210機来襲之ト交戦 1410撃退セルモ両艦共ニ被害アリ 有明命中弾ニ依リ1440遂ニ沈没セリ』
  150. ^ #S1806二水戦日誌(1)p.79『25日 27dg(時雨)ラボール発「レカタ」ニ向ケ陸兵輸送』
  151. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後254頁『外南洋部隊の作戦』
  152. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後259-261頁『外南洋部隊の作戦』
  153. ^ #S1709第八日誌(8)pp.41-43『増援部隊(イ)兵力部署 指揮官/第4駆逐隊司令 輸送隊/4dg(萩風、嵐)、27dg(時雨) 任務:一.人員物件輸送 二.敵艦隊撃滅。警戒隊/11dg(天霧) 任務:輸送隊警戒』
  154. ^ #モリソンの太平洋海戦史234頁
  155. ^ #ソロモン海「セ」号作戦126頁
  156. ^ #S1709第八日誌(8)p.44『(イ)兵力部署 ブイン輸送隊/3sd 川内。コロンバンガラ輸送隊/4dg(萩風、嵐)江風。警戒隊/27dg(時雨)』
  157. ^ #駆逐艦隊悲劇の記録124頁
  158. ^ #S1709第八日誌(8)p.46『(2)「コロンバンガラ」輸送部隊 川内ト分離後「ボーゲンビル」島東側ヲ南下「ベラ」海湾ヨリ「コロンバンガラ」泊地ニ向ケ萩風嵐江風時雨ノ順ニ単縦陣針路180度速力30節ニテ航行中…』
  159. ^ #ソロモン海「セ」号作戦126-127頁
  160. ^ 原為一『帝国海軍の最後』復刻新版100頁
  161. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)p.20『時雨ハ敵艦隊ニ対シ直ニ魚雷ヲ発射シ敵魚雷ヲ回避シツツ一旦反転北上約30分ニシテ次発装填ヲ了シ反転現場ニ向ヒタルモ敵飛行機ノ爆撃ヲ認ムルノミニシテ敵艦影ガ島影ニ隠シ得ズ…』
  162. ^ #撃沈戦記221頁
  163. ^ #S1709第八日誌(8)pp.46-47『時雨ハ魚雷発射(8本)後戦場ヲ離脱概ネ逆航路ヲ経テ「ラバウル」ニ引返ス。途中増援部隊指揮官ヨリ川内ニ合同ノ命ヲ受ケ0080川内ニ合同7日1430「ラバウル」ニ帰投セリ。』
  164. ^ #S1709第八日誌(8)p.47『(ハ)戦果 駆逐艦1隻大破(時雨ノ魚雷ニ依ル) 被害:萩風・嵐・江風沈没』
  165. ^ #モリソンの太平洋海戦史236頁
  166. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)p.7『軍隊区分 南東方面部隊外南洋部隊増援部隊 (ハ)8月8日附 磯風ZOBニ編入/(ニ)8月14日附 17dg(浜風)ZOBニ編入』
  167. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)pp.7-8『(ホ)8月15日附駆逐隊ノ項ヲ左ノ取改ム 駆逐隊三番隊/27駆司令 (1)時雨(2)漣(3)松風』
  168. ^ a b c d e f g #戦史叢書96ガ島撤収後267-269頁
  169. ^ #ソロモン海「セ」号作戦133頁
  170. ^ #モリソンの太平洋海戦史237頁
  171. ^ #S1704七戦隊日誌(7)p.50『8月15日敵有力ナル部隊「ヴェララベラ」島南方「ビロア」附近ニ上陸セラルヲ以テ直ン出撃2時間待機トナシ更ニ外南洋部隊電令作第477号作戦(陸軍部隊ノ「ヴェララベラ」島進出)実施ニ応ズルタメ日没時迄ニ作戦準備完成待機シタルモ翌16日ニ至リ右作戦ノ中止サレ又敵ノ「ヴェララベラ」島ヨリ更ニ西方ニ対シ遽ニ侵攻スルノ企図ヲ有セザルモノト判断シタルヲ以テ8月17日出撃4時間待機ニ復セリ』
  172. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)p.22『夜戦部隊[3sd司令官直率将旗漣、17dg(浜風、磯風)27dg(時雨)]8月17日0300「ラバウル」出撃「ボーゲンビル」島東側ヲ南下1700「ルッセル」島300浬圏ヲ通過シ「ボーゲンビル」海峡通過2100「ベララベラ」島北東ニ於テ輸送部隊ニ追及同隊ノ東側並ニ前路警戒スル如ク機宜行動ス』
  173. ^ #S1808三水戦詳報(1)p.15『2116/浜風ヨリ敵電探ラシキモノ210度方向ニ探知スト報アリ』
  174. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)p.22『当時我部隊ハ敵機ト交戦中ニシテ各艦3乃至6粁間ニ散右高速運動中ナリシヲ以テ集結意ノ如クナラズ各艦単独発射セルト敵ノ大回避ニ依リ効果ナシ』
  175. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)pp.22-23『2259左舷反航ニテ漣発砲尓後彼我砲戦開始引続キ第二次発射2330迄之ト交戦(射距離8乃至5粁)友軍水上機隊戦闘参加ヲ得撃退2340戦場離脱「ショートランド」島南下ヲ経テ18日1330「ラバウル」帰着』
  176. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)p.23『(四)戦果(1)/(ホ)損害』
  177. ^ #S1808三水戦詳報(1)p.30『第六.功績 敵機ノ執拗ナル攻撃ト敵有力部隊ノ反撃トヲ撃攘シテ友軍部隊ヲ全員予定地点ニ揚陸セシメ本作戦目的ヲ達成セリ。特ニ漣ガ15000米ノ距離ニ於テ敵艦隊ヲ露見シ第二十七駆逐隊(時雨)ガ敵中型巡洋艦(又ハ大型駆逐艦)一隻ヲ轟沈シタルハ功績顕著ナリ。』
  178. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(3)p.33『一.作戦目的 第七聯合特別陸戦隊ノ大部ヲ「レカタ」ヨリ「ブイン」ニ転進輸送スルニ在リ』
  179. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)287頁
  180. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)p.26『1510敵大型機9機来襲約1時間半ニ渉リ之ト交戦撃退セルモ各艦燃料不足遂ニ浜風損傷(1634大型機9機ノ編隊爆撃ニヨル至近弾最大速力平水18節)ノ状況ニ鑑ミ「ブイン」回航ヲ取止メ尓後0300頃断続的ノ敵機ノ触接ヲ受ケツツ0515「ラバウル」ニ帰着』
  181. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(2)pp.13-14、#昭和18年7月〜3水戦日誌(4)p.6『回次揚搭期日指揮官及兵力 一次:8月30日/27dg司令/27dg(時雨)・松風。二次:8月31日/17dg司令/17dg(磯風)。三次:9月1日/第一次ニ同ジ』
  182. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.13『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  183. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(4)p.11『9月20日1416「ブカ」第一次輸送隊(指揮官27dg司令兵力27dg《時雨》松風)「ラバウル」発。2250同隊「ブカ」着。2314同隊揚搭終了同地発。0620同隊「ラバウル」帰着異状ナシ』
  184. ^ #帝国海軍の最後93頁
  185. ^ #内令昭和18年10月(1)p.11『内令第二千三十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、五月雨」ヲ加フ|第三十二驅逐隊ノ項中「早波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ』
  186. ^ #内令昭和18年10月(4)p.8『内令第二千百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第四驅逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一駆逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル』
  187. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後289頁『「セ」号作戦』
  188. ^ #S1712四水戦日誌(3)pp.7-8,96『第27駆逐隊(時雨) (中略) 20日「ラバウル」発「ブカ」陸兵輸送21日「ラバウル」帰着、28日「コロンバンガラ」転進部隊輸送援護ノ為「ラバウル」発29日「ラバウル」帰着、爾後同在泊待機訓練ニ従事』-『28日 27dg(時雨)「コロンバンガラ」転進作戦ノ為「ラバウル」発 五月雨「コロンバンガラ」転進作戦ノ為「ラバウル」発』
  189. ^ #須藤.五月雨226頁
  190. ^ #ソロモン海「セ」号作戦202頁
  191. ^ #ソロモン海「セ」号作戦203頁
  192. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.8『第27駆逐隊(時雨) NTB「ラバウル」ニ在リ 1日セ号作戦第二次部隊トシテ「ラバウル」出撃第二次作戦従事続イテ第三次作戦ニ従事何レモ成功、3日「ラバウル」着(後略)』
  193. ^ #ソロモン海「セ」号作戦207頁
  194. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.19『4日1243SYB→各隊/STB戦闘概報第2号セ号作戦其ノ2 一.1日夜第二次舟艇隊ノ「コ」島進出支援ノ為17駆(磯風)27駆(時雨五月雨)30駆(望月)ヲシテ17駆司令指揮ノ下ニ出撃セシム、同隊0300「ラバウル」出撃概ネ9月28日ニ準ジ作戦ス。2030以後我舟艇隊敵水上部隊ノ来襲ヲ受ケ交戦スルヲ認メタルモ敵ハ舟艇隊ヲ楯トシテ巧ニ行動攻撃ノ機会ヲ得ズ2000頃ヨリ終始敵機ノ攻撃ヲ受ケシ上一時情況我ニ不利ナリシヲ以テ2140帰途ニ就ク(以下略)』
  195. ^ #ソロモン海「セ」号作戦211頁
  196. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.20『4日1243SYB→各隊/二.「コ」島第二次転進部隊ノ収容及舟艇隊支援ノ為本戦隊余ノ駆逐艦9隻ヲ率h2日0230及0400ノ2回ニ分ケ「ラバウル」出撃同夜敵水上部隊トノ会敵ヲ予期途中17駆(磯風)27駆(時雨五月雨)ヲ合同(中略)27駆(時雨五月雨)1800「ボーゲンビル」海峡南口ニ於テ分離「ベララベラ」北方ニ至リ揚搭後1900反転(燃料在庫額ノ関係上)3日1130「ラバウル」着(以下略)』
  197. ^ #ソロモン海「セ」号作戦212頁
  198. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後304-305頁『ベララベラ島所在部隊の撤退』
  199. ^ #ソロモン海「セ」号作戦219頁
  200. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後307-308頁『ベララベラ島沖夜戦』
  201. ^ #ソロモン海「セ」号作戦221頁
  202. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後330頁『十月上旬作戦輸送』
  203. ^ #須藤.五月雨235頁
  204. ^ #昭和18年7月〜3水戦日誌(4)p.67『二.被害(イ)望月 爆撃ヲ受ケ沈没、戦死少尉1名(缶部指揮官)下士官兵9、重傷下士官兵3軽傷下士官兵20|(ロ)皐月 海図未載ノ暗礁ニ触レ両舷推進器翼破損安全最大速力約16節、入渠修理ヲ要ス|(ハ)時雨 至近爆弾ニ依リ軽微ナル損傷ヲ受ク|(ニ)卯月(10月31日敵大巡ノ砲撃ニヨル)左舷前部ニ小破孔3(何レモ長サ10糎幅5糎以下)』
  205. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後331頁『十月下旬作戦輸送』
  206. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後386-388頁『水上部隊の第一回出撃-敵を逸す』
  207. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後388-390頁『タロキナへの逆上陸輸送計画の生起』
  208. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後390頁『第二回出撃-輸送隊の反転帰投』
  209. ^ a b c #戦史叢書96ガ島撤収後391-394頁『ボーゲンビル島沖海戦・その一』
  210. ^ #図説太平洋海戦史第3巻66-67頁
  211. ^ #須藤.五月雨243頁
  212. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.13『(5)27駆(時雨、白露、五月雨) 敵輸送船断護衛艦隊撃滅ノ為31日出撃「モノ」島西方附近ニ達スルモ敵ヲ見ズ反転帰着、午後連合SYB第一警戒隊トシテ再度出撃「ブーゲンビル」島沖海戦参加、2日0045頃敵発見27駆ノ発射ニヨリ敵大型駆逐艦2隻轟沈、同時刻頃白露・五月雨触接(略)同日敵大編隊来襲時雨B-25 14機撃墜ス』
  213. ^ #モリソンの太平洋海戦史244頁
  214. ^ #モリソンの太平洋海戦史245頁
  215. ^ #須藤.五月雨256頁
  216. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.13『5日対空戦闘ニ依リ時雨艦爆7機撃墜』
  217. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.34『6日1600夕張→各隊/ブカ輸送隊「ラバウル」発』
  218. ^ #S1806二水戦日誌(5)pp.34-35『6日1413時雨→10S/1413出港可能ノ見込|1500同右|1530舵故障復旧ノ見込』-『10S→時雨/特令アル迄夕張ト行動ヲ共ニセヨ』
  219. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.41『7日0125夕張→各隊/「ブカ」輸送隊揚搭完了帰途ニ就ク』
  220. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.43『7日1426NTF→各隊/27dg(時雨)ハ11月8日「ラボール」発「トラック」ニ回航整備修理ニ従事スベシ|右回航中八根司令官ノ協議ニ応ジ船団護衛ニ協力スベシ』-『時雨タナ1750 対空戦闘消耗弾薬主砲30機銃169 戦果被害ナシ』
  221. ^ #帝国海軍の最後146頁
  222. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.45『9日1735GF→各隊/一.YB指揮官ハ左ノ隊、艦ヲシテ所属軍港ニ回航修理整備ニ従事セシムベシ 愛宕高雄、5S、27dg、磯風|二.KdB指揮官ハ翔鶴ヲシテYB指揮官ノ指揮ヲ受ケ横須賀ニ回航セシムベシ(略)|三.YB指揮官ハ島風、玉波ヲシテ横須賀ニ回航部隊ノ警戒ニ任ゼシムベシ|四.磯風ハ内地着以後KdBニ復帰ス』
  223. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.14『6日白露「トラック」ニ向ケ発、同日時雨D作戦参加予定ノ所舵故障ノ為遅レ「ブカ」島転進作戦ニ参加7日帰着(略)時雨8日修理ノ為御嶽山丸、東京丸ヲ護衛「トラック」ニ向ケ護送中敵機ト交戦、11日着、12日時雨・白露5Sノ直衛トシテ佐世保ニ向ケ「トラック」発、時雨17日、白露18日佐世保着、20日入渠爾後待機整備』
  224. ^ #内令昭和18年11月(6)p.21『内令第二千五百二十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十一月三十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「五月雨」ノ下ニ「、春雨」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「卯月」ノ下ニ「、夕月」ヲ加フ』
  225. ^ 原為一『帝国海軍の最後』122頁
  226. ^ #佐藤 艦長(文庫)233頁
  227. ^ 昭和18年12月17日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1283号 p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  228. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.20『司令官高間完少将 補十一水戦司令官、12月16日退任/早川幹夫少将 12月16日着任』
  229. ^ #S1812十一水戦(1)p.7『(イ)主要職員氏名』
  230. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.40『19日1030→艦本総務部長/佐工廠総務部長/白露、時雨18日工事完成セリ』
  231. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)525-527頁『戊号輸送』
  232. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.49『22日1727将旗27dg→各隊/時雨蒸気補助調整装置故障使用不能ナリ 応急修理セシモ結果不能戦闘ニ支障アリ。修理ニ5日ヲ要ス、白露ハ5S利根ト行動ヲ共ニセシム』
  233. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.49『23日10155S→各隊/5S、利根、白露、12月23日0800「トラック」ニ向ケ呉発』
  234. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.49『24日0742GF→各隊/時雨ハ通常航海ニ差支ナキ限リ直ニ出港、戊二号輸送部隊ニ合同セヨ』
  235. ^ #S1812二水戦日誌(1)pp.15-16『24日5S利根ト共ニ「トラック」ニ向ケ発 25日1928魚船國吉丸ト触衝小被害アリ 命ニ依リ呉ニ引返シ修理ニ従事』
  236. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.50『24日2145将旗27dg→各隊/時雨、5S直衛トシテ警戒航行中1928豊後水道附近ニ於テ無燈ノ大型漁船ト触衝左舷水線上ニ数個所ノ跳出及亀裂ヲ生ジ12節以上ノ速力ニ堪ヘズ修理ノ為(?)ニ同航ス。相手船人員機関異状ナシ損害軽微』
  237. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.54『25日1425将旗27dg→各隊/時雨発電機修理完成セリ。触衝ニ依ル被害(左舷10、11番ビーム間水線上ニ現状(?)25糎ノ亀裂広(?)兵員室左舷窓1箇破損)アリ26日中ニ修理完成27日出撃可能ノ見込|宛 GF2F参謀長 行動ニ関シ指令ヲ得度』』
  238. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.14『(藤波)25日GF電令作第872号ニ依リ戊二号輸送部隊ニ編入セラル』
  239. ^ #S1812二水戦日誌(1)pp.15-16『(12月13日艦長交代 新艦長海軍少佐西野繁)|29日司令交代(海軍大佐 白濱政七)』
  240. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『(春雨)横須賀ニ於テ修理中ノ所十日修理工事完成/十六日訓練ノ爲内海西部ニ向ケ横須賀発(途中假泊)十九日桂島着二十八日迄諸訓練ニ従事/二十九日燧灘ニ於テ山城時雨ニ合同以下27dg(時雨)ニ仝ジ』
  241. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『27dg(時雨)(略)二十九日司令交代(海軍大佐白濱政七)呉発山城春雨ニ合同燧灘假泊/三十日春雨ト共ニ山城護衛假泊地発/三十一日横須賀着』
  242. ^ #S1812十一水戦(1)p.37『三十日〇八一五山城艦長(宛略)山城時雨春雨沖波朝霜横須賀ニ向ケ内海西部発〇六三〇』
  243. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.73『三十一(天候略)27dg(時雨春雨)一五三〇横須賀着|27dg(時雨春雨)山城ヲ護衛横須賀着』
  244. ^ #S1812十一水戦(1)p.46『三一日(天候略)山城朝霜沖波時雨横須賀着』
  245. ^ #S1812二水戦日誌(1)pp.16,60『29日司令交代、呉発山城春雨ニ合同燧灘仮泊|30日春雨ト共ニ山城護衛仮泊地発|31日横須賀着』-『30日0815山城→各隊/山城時雨春雨、横須賀ニ向ケ内海西部発0630』
  246. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.21『31日1536山城→各隊/山城時雨春雨横須賀着1530』
  247. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.31『11日0900将旗27dg→各隊/27dg(時雨、春雨)伊良湖「トラック」着』
  248. ^ #S1812十一水戦(1)p.68『四(天候略)沖波朝霜内海西部ニ向ケ日一〇〇〇横須賀発』
  249. ^ #S1812十一水戦(1)p.55『四日一〇〇〇沖波(宛略)沖波朝霜内海西部ニ向ケ横須賀発』-『五日一九〇二11sd司令官(宛略)沖波朝霜内海西部着』
  250. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.32『12日将旗YB/27dg(時雨、春雨)ヲYB警戒隊ニ編入ス』
  251. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.81『19日、27dg(時雨春雨)0525「トラック」発』-『27dg神国丸富士山丸護衛「タラカン」ニ向ケ「トラック」発』
  252. ^ #S1812二水戦日誌(3)pp.82-83『25日、27dg(時雨、春雨)富士山丸船団護衛中0015約1粁ニ浮上潜水艦ヲ発見攻撃(略)敵潜水艦撃沈確実』
  253. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.68『27日将旗27dg→1715各隊/「タラカン」着』
  254. ^ #S1812二水戦日誌(3)pp.13,18『(4)27dg(時雨、春雨)』-『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  255. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.11,43『27dg(時雨、春雨)「バリツクパパン」在泊中3日富士山丸神国丸天城山丸ヲ護衛同地発、10日燃料補給ノ為「ウルシ」仮泊翌11日同地発』
  256. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.11,45『13日2050頃敵浮上潜水艦発見爆雷攻撃ヲ為スモ効果不明』
  257. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.25,45『14日1500将旗27dg→各隊/27dg(時雨春雨)追風富士山丸神国丸天城山丸「トラック」着』
  258. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)625-626頁『米軍の作戦』
  259. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)627頁『「T事件」の調査』
  260. ^ #須藤.五月雨260頁
  261. ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)621頁『トラックの空襲による被害』
  262. ^ #モリソンの太平洋海戦史268頁
  263. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)624頁『第二十七駆逐隊の戦闘状況』
  264. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.11『17日「トラック」空襲警報ニ依リ0430出港、0530ヨリ0800ノ間ニ敵艦爆45機ト交戦左ノ戦果(被害)アリ|撃墜6機(内不確実1)(内火艇ニ命中弾アリ至近弾及銃撃ニ依リ人員兵器共1/2被害ヲ受ク。春雨被害軽微』
  265. ^ #S1812二水戦日誌(4)pp.25-26,47『17日0820将旗27dg→2F、「カロリン」方面防備部隊/時雨0754被弾主砲全部不能1缶室大破 出シ得ル最大速力25節、人員被害司令負傷其ノ他多数 西方ニ退避中』-『1015/時雨2番砲発射2番1缶使用不能爆雷庫浸水 戦死下士官兵5 准士官以上1下士官兵30(略)』-『1340/春雨ハ「トラック」西方附近ヲ機宜行動明石ノ行動分明セバ之ニ合同シ同艦長ノ指揮ヲ受ケ之ガ護衛ニ任ズベシ。時雨ハ軍区官不在重傷者多数船体ノ振動極メテ大ニシテ運転ニ不安アリ「パラオ」ニ先行ス』
  266. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.11,25『YB命令ニ依リ明石船団護衛ノ命アリタルモ人員船体共至急処置ヲ要スルモノアリ、時雨ノミ「パラオ」ニ先行24日「パラオ」着』-『17日1624YB→各隊/27dgハ為シ得レバ明石船団ヲ護衛「パラオ」ニ回航スベシ』
  267. ^ #S1812二水戦日誌(4)pp.5,11『春雨ハ燃料不足ノ為途中「メレヨン」ニ入泊待機21日明石船団ニ合同護衛シ24日「パラオ」着。爾後両艦トモ「パラオ」ニ在リテ待機』
  268. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.48『2月19日27dg(時雨)1150「パラオ」着|20日27dg(時雨)妙高ニ横付船体応急修理ニ従事』
  269. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.50『25日27dg司令駆逐艦ヲ春雨ニ変更』
  270. ^ #戦隊行動調書p.5『昭和19年5月30日渾作戦部隊 5S、27dg、扶桑、10dg、MD回航』
  271. ^ #駆逐艦戦隊226頁
  272. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.52-53『月日所在及任務行動ノ概要』
  273. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.19『6月3日2250GF長官→各隊/GF電令作第115号 渾作戦ヲ一時中止ス 各隊左ニ依リ行動セヨ|一.5S及間接護衛隊ハ原隊ニ復帰セヨ 二.輸送隊(27dgヲ含ム)ハ「ソロン」入泊シ機ヲ見テ渾作戦ヲ再興セヨ』
  274. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.5『6月5日0630(ソロン)出港 青葉鬼怒ト分離「アンボン」ニ向フ』
  275. ^ #須藤.五月雨270頁
  276. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.5-6『6月7日1830「ソロン」湾入港 陸兵弾薬輸送物件搭載(陸兵約200名) 2200同右終了』
  277. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.6『6月8日0300「ソロン」出撃』
  278. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.27『渾作戦部隊ハ海上機動第二旅団ノ大部ヲ駆逐隊ヲ以テ「ビアク」島ニ反覆輸送セントシ、先ヅ第一回輸送トシテ同部隊一ヶ大隊「ソロン」ヨリ「ビアク」ニ強行輸送ヲ帰途ス、十九駆逐隊時雨ヲ輸送隊トシ陸兵各約200名及物件満載二十七駆(時雨欠)ヲ警戒隊トシ上陸用舟艇トシテ各駆逐艦トモ大發1ヲ曳航、6月8日0300「ソロン」發「ツオゲルコップ」半島北岸数十浬沖ヲ東航同日2300「ビアク」島「コリム」湾着ノ計画ナリキ|経過|斯クテ本艦ハ予定通リ「ソロン」ニ於テ陸兵207名及物件ヲ搭載6月8日0300輸送隊3番艦トシテ警戒隊ニ引続キ出港概ネ予定航路ヲ取ツツ一路「ビアク」島ニ航進セリ、当時天候半晴針路110度速力18節』
  279. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.22-23『6月6日機密渾作戦部隊命令作第2号(略)二.第一次輸送 編制区分 輸送隊/本職/19dg、時雨/輸送敵艦艇撃滅|警戒隊/27dg司令/27dg(時雨欠)/警戒敵艦艇撃滅』
  280. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.6『1220敵機B-25約20機P-38約30機東方ヨリ来襲之ト交戦撃退ス』
  281. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.40『(ロ)被害 艦内各部機銃貫通七ヶ所 軽傷1(砲術長海軍大尉江本義男)|(ハ)消耗弾薬 12.7糎砲三式弾19 時限弾4 25粍機銃1250』
  282. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.8『8日1237/不発爆弾1聯管ノ舟左ヨリ舟右ニ貫通経500粍破孔ヲ生ズ、13粍機銃弾貫通孔多数、負傷2名』
  283. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.17『被害一.人員:戦死4重軽傷5 二.兵器:発煙器破壊 三.船體:機銃弾ニ依ル破孔十数個』
  284. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.6『春雨敵機ノ超低空爆撃ヲ受ケ沈没、乗員百数十名救助セラル(司令海軍大佐白浜政七、外戦死) 二.戦果 撃墜B-25確実4機』
  285. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.39『1315 白露五月雨、春雨ノ乗員救助ニ向フ。本艦ハ附近ニ在リテ警戒』
  286. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.43『我25粍機銃ノ威力ハ絶対的ニシテ射弾指導適切ナラバ来襲敵機ハ悉ク撃墜可能ナリ、現ニ本艦ニ来襲セル4機ハ何レモ撃墜シ更ニ突入姿勢ニアリタル2機ハ本艦ヲ避ケタリ(以下略)』
  287. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.4『6月4日0300輸送隊三番艦トシテ警戒隊ニ引続キ出港、昼間B-25ノ強襲ニ会ヒ春雨1隻沈没セルモ屈セズ概ネ予定航路ヲ保チツツ進撃セリ』
  288. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.24『8日1342B哨区偵察機→各隊/空母ヲ含マザル的部隊見ユ其ノ基幹兵力ハB×4、C×4、d×約8 基地ノ183度366浬(略)』
  289. ^ #S1906第27駆日誌(3)pp.4-5『2210 敷波ヨリ警戒隊宛「先ニ行ケ」ノ令アリ、警戒隊(白露五月雨)先行ス。輸送隊単縦陣』
  290. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.24『8日2235敷波→渾部隊/敵ハC×1 d×5ナルモノノ如シ』
  291. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.6『2325敵我ニ猛烈ナル電探集中射撃ヲ開始ス』
  292. ^ #S1906第27駆日誌(2)p.12『8日2328/(五月雨から見て)時雨盛ニ応戦 砲撃ス』
  293. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.7『2326魚雷戦(発射雷数4)ヲ行フ、2327砲戦開始、0027打方止ム、0105魚雷戦(発射雷数4)、0130敵ト離脱』
  294. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.24『8日2245白露→渾部隊/我発射セリ発射雷数8本』
  295. ^ #須藤.五月雨277頁
  296. ^ #佐藤 艦長(文庫)239頁
  297. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.12『五.戦果及被害消耗兵器等(イ)戦果 敵巡洋艦ニ主砲五斉射命中弾ヲ観測セリ、爾後敵ハ急激ニ変針シ砲力衰ヘ追撃ヲ断念セシ点ヨリシテ効果アリシモノト認ム (ロ)被害(省略) (ハ)消耗兵器』
  298. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.59『戦闘ノ概要並ニ傷病者発生ノ概要|6月8日「ビワク」島沖海戦ハ陸兵揚搭ノ目的ヲ以テ「ソロン」ヲ出港「ビワク」ニ向ヒタルモ本行動ハ敵ノ窺知スルトコロトナリ敵ハ戦艦巡洋艦駆逐艦ヲ以テ我ヲ迎撃此処ニ彼我ノ衝突ヲ見タリ。本戦闘ハ夜間ノ砲撃戦ニシテ2250敵艦隊発見ヨリ彼我ハ約三時間ニ亘リ主砲ヲ以テ相対特セリ。敵艦隊ハ砲弾ヲ本艦ニ集中セルモノノ如ク極メテ熾烈ナル攻撃ヲ受ケタリ飛来セル砲弾ハ1番砲塔後部左舷及ビ2番機銃座ニ落下セリ。一番砲塔後部左舷ニ落下セシ砲弾ハ片ハ砲塔ヲ貫キ戦死3名重傷者1名軽傷者3名ヲ出セリ。2番機銃座ニ落下セシ砲弾ハ機銃座ヲ貫キ即死3名重傷者死1名軽傷者7名ヲ出セリ』
  299. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.15『一番砲左舷ニ上甲板ヨリ左舷側ニ貫通セル15.5糎砲弾1発盲弾ナリ』
  300. ^ #S1906第27駆日誌(3)pp.15-16『所見(イ)敵水上艦艇用ノ電探能力ハ極メテ大ニシテ我電探ノ及バザル距離ヨリ射撃ヲ開始シ来リ弾着精度亦極メテ良好ナリカクテハ暗夜狭視界時ノ戦闘ニ於テ敵ニ機先ヲ制セラレ敵ヲシテ「アウトレンヂ」ノ利ヲ得シムベク我電探能力向上ハ今日戦闘ノ最大緊急眼目ナリト認ム。更ニ電探射撃電測法ニ関シ急速研究ノ要アリ』
  301. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.16『(ロ)敵電探射撃ノ射弾精度極メテ良好ナルモ被弾運動適切ニ行ハルレバ相当程度回避可能ナリ (ハ)…』
  302. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.7『6月10日0320「サラワナ」島西側泊地ニ入泊、青葉ニ横付燃料補給、補給量114噸、輸送人員物件ヲ敷波ニ移載ス。0900出港「バチアン」泊地ニ向フ青葉鬼怒同行』
  303. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.8『11日0117「バチアン」泊地入泊青葉ニ横付燃料補給補給量114噸。1120青葉ニ横付被害箇所応急修理。1630出港ダバオニ向フ白露同行』
  304. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.8『12日1445「ダバオ」入港、日栄丸ニ横付燃料補給、補給量174噸、生糧品搭載』
  305. ^ #日栄丸日誌(2)白露遭難p.20『6月13日KDB→各隊/(略)三.浜風ハ時雨ニ対シ魚雷(定数ノ半数以内)弾薬適宜ヲ供給スベシ』
  306. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.8『13日 魚雷(5本)搭載(浜風ヨリ移載) KdB電令作第17号受領(第一補給部隊護衛任務)』
  307. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.28『13日1704KdB指揮官→各艦/KdB電令作第17号 一.(略) 二.時雨秋霜ハ第一補給部隊指揮官ノ指揮ヲ受ケ特令アル迄同隊ノ護衛ニ任ズベシ』
  308. ^ #日栄丸日誌(3)白露遭難p.7『6月14日0330第一補給部隊A点ニ向ケ「ダバオ」出港(給油船-日栄丸國洋丸清洋丸)(護衛艦-浜風響白露時雨秋霜)』
  309. ^ #佐藤 艦長(文庫)240頁
  310. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.9『0240白露清洋丸ト觸衝白露大爆発、0243白露沈没浜風救助ニ赴ク』
  311. ^ #日栄丸日誌(3)白露遭難p.44『五.處置 直ニ方向燈及電話ニテ警戒艦ヲ呼ベド容易ニ通ゼズ 0250頃浜風ト通ジ救難ニ赴カシメ爾余ノ隊ハ行動ヲ続行セリ』
  312. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.10『16日0900 1S、5S、2sd、10Sト合同 0925洋上補給開始 1615 1sf、2sf、3S、4S等ト合同』
  313. ^ #日栄丸日誌(2)白露遭難p.29『6月17日大鳳→「KDB」日栄丸/一.浜風ヲ乙部隊ニ編入ス、時雨秋霜浜風ハ1700以降各部隊ニ復帰スベシ(略)』
  314. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.52-53『月日所在及任務行動ノ概要-乙部隊編入(第二攻撃隊護衛)南太平洋6月20日敵機ト交戦』
  315. ^ #日栄丸日誌(2)白露遭難pp.30-31『6月20日熊野→日栄丸/補給部隊ガ艦隊ノ前方ニ占位スルハ不適當ナリト思フ御参考迄/手旗0820』
  316. ^ #あ号作戦戦時日誌(1)p.35『1700/20日1730ヨリ約一時間ニ亙リ1sf 2sf YB 及補給部隊ハ敵機ノ空襲ヲ受ク』
  317. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.22『龍鳳飛行機発進之ニ随伴ス』
  318. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.20『1746 敵飛行機本艦ニ急降下ニテ突込ム 舟右後部ニ爆弾2.3ヶ投下ス、被害ナシ』
  319. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.20『1757 舟右ニ敵雷撃機8機竜鳳ニ対シ雷撃姿勢ニテ突込ミツツアルヲ本艦対空射撃ニ依リ撃攘ス 雷撃ヲ受ケ面舵一杯ニテ回避ス(浅深度魚雷2本船舟尾舵至近ノ距離ヲ通過ス)』
  320. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.11『20日1817対空戦闘終結、敵機機銃弾ニ依ル小破孔。飛鷹火災ナルヲ救援ニ赴ク』
  321. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.11『20日1926飛鷹大爆発沈没、駆逐艦浜波秋霜早霜満潮飛鷹乗員救助ス』
  322. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.12『21日 中城湾ニ向フ(浜風秋霜早霜満潮同航)』
  323. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.12『22日0720満潮早霜ヨリ燃料漂泊補給ヲナス』
  324. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.12『23日0950中城湾入泊 筑摩ニ横付燃料補給 補給量100噸』
  325. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.52-53『中城湾入港浜風ヨリ白露遭難者141名便乗佐世保ニ向ケ回航』
  326. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.12『23日1440出港 1537七S直衛ニ就ク(浜風秋霜早霜時雨五月雨直衛)』
  327. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.13『24日1620豊後水道ニ入ル 1820七Sト分離佐世保ニ向フ五月雨同行』
  328. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.32『24日KdB指揮官→各隊/2F長官ハ榛名時雨五月雨ヲ佐世保ニ回航シ急速損傷部修理ニ従事セシムベシ』
  329. ^ #須藤.五月雨281頁
  330. ^ #S1906第27駆日誌(1)pp.35-36『改造修理新設/対空用電探室/着工19-6-25|二番25粍三連装機銃/破壊使用不能/撤去シ応急工作ニ依リ25粍単装機銃2基新設』
  331. ^ #S1906第27駆日誌(1)p.16『主要職員:司令/海軍大佐 大島一太郎(6月30日着任)』
  332. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.29『7月4日0950佐世保出港呉回航、2145呉入港 長門ニ横付燃料補給』
  333. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.30『7月9日0715豊後水道出撃(7S直衛トナル)』
  334. ^ #S1906第27駆日誌(3)pp.30-31『7月10日1815リンガニ向ケ中城湾発(1S直衛トナル)4S、7S、1S、2Sd同行』
  335. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.32『7月16日0530 7S、4Sト分離 リンガ泊地ニ向フ 1556「リンガ」泊地入泊地』
  336. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.33『7月18日1630大和左舷ニ横付。回航中荒天ニ依リ破損セル箇所修理→19日0800修理開始、1630修理終了、1702横付ヲ離シ指定錨地ニ就ク』
  337. ^ #S1906第27駆日誌(3)p.36『7月27日夜間雷撃ニ於テ實射セル魚雷1本1300迄捜索セルモ発見シ得ズ失踪セルモノト認メラル』
  338. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.5,29『8月1日0800出港 工事修理ノ為昭南回航五月雨同行 1515入港』
  339. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)pp.47,60『8月7日16S《(将旗)青葉鬼怒19駆(浦波)》及27駆(時雨五月雨)NSB電令作第525号ニ依リ「マニラ」ニ向ケ昭南発|27駆ヲ16S司令官ノ作戦指揮下ニ入ラシメラル』-『8月7日0950YB→各隊/YB電令第79号 27dg(時雨五月雨)ハ16S司令官ノ指揮ヲ受ケ同隊及名取ノ「マニラ」ヨリ「パラヲ」ニ対スル緊急輸送ノ護衛ニ任ズベシ』
  340. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.7『9日1015ブルネイ湾入港、青葉ニ横付燃料補給、1800ブルネー湾出港』
  341. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.7『11日1433マニラ軍港入港』
  342. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.8『15日マニラ商港0830出港、1930ソルソゴン湾入港』
  343. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.49『8月15日 16S《青葉、19駆(浦波)》及鬼怒27駆ハ夫々NSB電令作第544号及第541号ニ依リ「マニラ」「セブ」間及「マニラ」「パラオ」間輸送任務ノ為0530「マニラ」発同日夕刻「ソルソゴン」湾ニ假泊燃料補給ノ上翌日朝発各目的地ニ向フ|「ソルソゴン」湾仮泊中青葉ヨリ鬼怒及27駆ニ対シ燃料ヲ補給ス』
  344. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.3『翌16日0630鬼怒時雨ト共ニ16Sト分離仮泊地発1030サンベルナルヂノ海峡北水道ヲ通過後鬼怒直衛トナリPPニ向フ針路75度速力24節、直衛配備鬼怒艦長所定 五月雨(時雨)鬼怒ノ左(右)110度1.5km(後略)』
  345. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.25『8月18日五月雨→0128鬼怒時雨/我浅瀬ニ乗セリ』-『鬼怒0340/鬼怒時雨ハ現任務ヲ続行ス、五月雨ハ極力船体ノ安全ヲ保テパラオヨリ救難船派遣請求シアリ』
  346. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.49『8月18日 一.0116五月雨「ガルアングル」島(「パラオ」諸島西方珊瑚礁ニ坐礁ス|二.鬼怒27駆(時雨)「パラオ」着揚搭作業終了後「セブ」ニ向ケ発|三.浦波ハNSB電令作第551号ニ依リ名取護衛救助ノ為「セブ」発|鬼怒27駆(時雨)ハ急速揚搭終了後在留引揚邦人ヲ乗艦セシム』
  347. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)pp.34-36,77『21日0921鬼怒艦長→各隊/(中略)三.「パラオ」ヨリノ輸送人員物件左ノ通リ|鬼怒人員843名内女子供724名捕虜2名物件二十五番八号爆弾外若干|時雨 軍人軍属約200名』
  348. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.30『18日2036鬼怒艦長→各隊/五月雨ノ現状ハ同艦発信電ノ通ニテ相當重大ナリ差當リ潜水要員排水ポンプ等ヲ供給シ置ケリ、現場ニハ掃海艇1隻駆潜艇1隻アリ、駆潜艇ノ横付等ニ依リ重量物ヲ移積シツツアルモ至急大発ノ回航方配慮ヲ得度又「パラオ」揚兵器モ搭載シアリ度等重量物ノ運搬ニ関シテモ手配セラレ度。鬼怒時雨2100発セブニ回航ス然ルベク配慮ヲ乞フ』
  349. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.32『19日2106 NSB指揮官→各隊/一.1035「レガスピー」ノ100度350浬ニ漂流中内火艇「カッター」人員等ヲ飛行機ニ依リ発見|二.鬼怒隊浦波ハ之ヲ捜索救助スベシ|三.「レガスピー」及「タクロバン」基地ノ飛行機ハ明早朝右捜索及対潜警戒ニ協力スベシ』
  350. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.10『20日浦波・竹ト合同名取遭難者救助ニ向フ。発見シ得ズセブニ向フ』
  351. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.34『20日1930NSB指揮官→各隊/一.鬼怒隊浦波竹ハ2000迄ニ手掛リヲ得ザレバ一応捜索ヲ打切リ「セブ」ニ回航セヨ(後略)』
  352. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.10『22日1220セブ・オホン桟橋横付補給、1550セブ港ニ転錨』
  353. ^ #S1907十六戦隊日誌(1)p.50『8月22日 鬼怒、27駆(時雨)「セブ」着 當部隊ノNSB電令作第541号及第544号ニ依ル任務ヲ了ス|27駆ニ対スル16S司令官ノ作戦指揮ヲ解カル』
  354. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.11『24日16戦隊ノ麾下ヲ離ル、0950出港マニラ回航、1950ソルソゴン湾仮泊/25日ソルソゴン湾0500出港、1730マニラ入港』
  355. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.47『26日1044GKF電令第438号/竹ハ五月雨救難ノ望ミ無ケレバ出来得レバ同艦乗組員ヲ収容シ帰投スベシ』
  356. ^ #S1906第27駆日誌(5)p.43『26日2350軍艦旗ヲ降下 艦長退艦 竹ニ乗艦ス』
  357. ^ #S1906第27駆日誌(4)p.12,27『28日0630出港、1855コロン湾入港コロン湾調査』-『19日2038第一遊撃部隊指揮官→27駆司令/第27駆逐隊(時雨)ハ現任務終了次第マニラニ回航2艦隊司令部用哨信儀部品ヲ搭載帰途「コロン」湾泊地状況ヲ調査ノ上「リンガ」泊地ニ帰投スベシ』-『30日0800コロン湾出港、リンガ回航』
  358. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.23『月日所在及任務行動ノ概要』
  359. ^ #内令(秘)昭和19年10月(2)pp.35-36『内令第一一六二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十月十日 海軍大臣|第十九驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十七驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「、夕凪」ヲ削ル|第四十三驅逐隊ノ項中「松、」ヲ削リ槇ノ下ニ「、桐」ヲ加フ』
  360. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか126頁
  361. ^ a b c #戦艦十二隻(2014)329頁『西村艦隊の大黒柱として』
  362. ^ #軍艦華麗なる生涯46頁「『時雨』は単艦になってしまったから、主力ではなくワシのほうにいてくれ。後方部隊だけれど、よろしく頼む。ただ今度の戦は敵の輸送部隊を撃滅するのが主目的だから、小さい艦の一隻や二隻、追いかける必要はない。こっちを攻撃してきた奴はやっつけてもいいが、深追いする必要はないからそのつもりで……」
  363. ^ #軍艦華麗なる生涯46頁「よくわかりました司令官。『時雨』は火の玉となって突入します」
  364. ^ #軍艦華麗なる生涯49頁
  365. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか128頁
  366. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか195頁
  367. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.16
  368. ^ #佐藤 艦長(文庫)243頁
  369. ^ #レイテ時雨詳報p.42『(ロ)被害(二)兵器(1)砲術科(ロ)一番砲天蓋 被弾破孔一』、#レイテ時雨詳報pp.49-50『対空戦闘 (ニ)機銃弾ノ破孔ハ案外大ナルモノナリ(中略)徹甲弾及瞬発式ノ弾丸アリ。前者ハ外鈑(径粍)ヲ優ニ貫通シ水線下ニ破孔ヲ生ゼシメ甚ダ油断ナラヌ代物ニシテ後者ハ断片極メテ小片ニ四散シ人員ヲ多数殺傷ス。一発ノ弾丸砲塔天蓋ニ命中炸裂シ9名ノ死傷者(何レモ即時戦闘不能トナル)ヲ出セリ』
  370. ^ 表題#捷1号作戦2YB作戦経過概要p.16『時雨一番砲塔ニ手榴弾ノ如キ小型B命中砲員ノ大半死傷』
  371. ^ #完本太平洋戦争下93頁
  372. ^ #完本太平洋戦争下87頁
  373. ^ a b #戦艦十二隻(2014)330-331頁『敵ながら天晴れのT字戦法』
  374. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか235頁
  375. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.16『20時24分頃最上4dg先行SogodBay附近ノ偵察ヲ命ゼラレテ出発ス。時雨ハ山城ノ先頭ニ占位ス』
  376. ^ #軍艦華麗なる生涯50頁
  377. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか236頁
  378. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか237頁、#レイテ時雨詳報p.8
  379. ^ #軍艦華麗なる生涯51頁
  380. ^ #レイテ時雨詳報p.9『0256/「ディナガット」島側ニ敵駆逐艦3隻以上発見』
  381. ^ #捷号作戦はなぜ失敗したのか239頁
  382. ^ #捷1号作戦2YB作戦経過概要p.18『之ン対シテハ殆ド射撃セラレズ(時雨電探射撃分離不能、照明弾射撃ヲ下命シタルモ時間ヲ要セリ)』
  383. ^ #レイテ時雨詳報p.9『0333/雷跡三本艦底通過』
  384. ^ #佐藤 艦長(文庫)245頁
  385. ^ a b #戦艦十二隻(2014)331-332頁『扶桑にむけた集中砲火』
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  455. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.47-48『19日1103GF/聯合艦隊電令第576号 一.龍鳳第17駆逐隊ハ龍鳳艦長之ヲ指揮シ24日頃呉発台湾方面作戦輸送ニ従事スベシ』-『21日1741GF/聯合艦隊電令電令579号 一.龍鳳矢矧第17駆逐隊ハ台湾方面作戦輸送ヲ実施スベシ。右作戦輸送ノ行動ニ関シテハ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ承ケ輸送物件ハ内地ニ於テハ大海戦力補給部ノ指定、台湾方面ニ於テハ高警長官ノ指定ニ依ル|二.矢矧時雨ハ龍鳳隊ノ船団(30日頃門司発)同行「カムラン」方面ニ進出、第二水雷戦隊ニ合同スベシ。右進出中矢矧時雨ハ新浜発ヨリ「カムラン」附近迄ノ行動ニ関シ海上護衛司令長官ノ指揮ヲ受クベシ』
  456. ^ #S1911二水戦日誌(1)pp.48-49『24日1258GEB/一.龍鳳第17駆逐隊ハ台湾方面作戦輸送ノ行動ニ関シ第一海上護衛部隊指揮官ノ指揮ヲ受クベシ。矢矧時雨ハ内地発ヨリ「カムラン湾」着迄ノ行動ニ関シ第一海上護衛部隊指揮官ノ指揮ヲ受クベシ。|二.第一海上護衛部隊指揮官ハ龍鳳第17駆逐隊、矢矧、時雨ヲヒ87船団ニ加入台湾方面ニ進出セシメタル後龍鳳第17駆逐隊ハ最近高速船団ニテ内地ニ帰投セシムベシ|三.龍鳳矢矧第17駆逐隊時雨ハ29日0700迄ニ門司ニ集合スベシ』
  457. ^ #S1911第17駆日誌(2)p.18『矢矧251510/本艦今朝補充交代(40%以上)ニ伴ヒ是非基礎訓練ヲ必要トスルニ付29日早朝門司集合今ノ事ニ御配慮ヲ得度シ』-『GF261145/GF電令作第579号中矢矧ヲ削除ス、矢矧ハ1月中旬迄内海西部ニアリテ訓練ン整備ヲ実施スベシ』
  458. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.11『一応矢矧時雨ノ南方進出合同ヲ予定セラシモ前者ハ訓練未成ノ為1月中旬迄内海西部ニ於テ訓練ノコトトナリ後者ノミ12月31日ヒ87船団護衛六連発(略)』
  459. ^ #S1911第17駆日誌(2)p.8『三.30日雪風蒸気管亀裂ノ為呉ニ回航|四.司令駆逐艦ヲ浜風ニ変更』
  460. ^ #S1911第17駆日誌(2)p.19『17dg司令官301740/準備出来次第司令駆逐艦ヲ浜風ニ変更シ艦船番号序ヲ浜風磯風雪風トス』-『雪風202320→17dg神威龍鳳時雨旗風磯風/検査ノ結果亀裂ニ非ザル模様ナルモ現状ニテハ使用不能、応急修理上一昼夜以上ヲ要スル見込ミ、明日呉ニ回航(一軸運転)修理ノ事トス』
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  463. ^ #S1904第7護衛船団(3)p.28『1月4日1140頃現地錨地南方90浬附近ニテ敵機ト交戦中ノ商船アリトノ報ニ接シ竜鳳ヲ十七駆逐隊時雨ヲシテ護衛セシメ泗礁山方面ニ避退セシム』
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  478. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.33『位置:北緯6度0分東経103度45分、距離50浬 水深60米附近』
  479. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.58『本船被雷地点附近ハ数日来数回ニ亘リ敵潜水艦跳梁セル海面ニシテ昭南方面部隊ニ於テハ避航海面ト心得アリシモ本艦及ビ同行ノ護衛船何レモ此等ヲ承知シアラズ…』
  480. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.34『電探左36度ニ感アリテヨリ(左36度4460米感度5)(略)』
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  482. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.37『四番機銃ハ〇二於テ雷跡ヲ左110度及150度ニ30秒ヲ置イテ各1本発見シアルモ艦橋ニ通ゼズ』
  483. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.36『其ノ左26度3640西60ト近對勢ニテ感アリタル(潜水艦)艦橋ニテ(潜水艦)ヲ発見シタル為連絡不充分トシテ艦長ニ到達シアラズ』
  484. ^ #S1906第27駆日誌(6)pp.35,39『(2)其ノ後ノ調査ニ依ル敵潜水艦行動図ノ概要別紙第一ノ如くニシテ更ニ舟首方向ニ他ノB潜水艦アリ本艦ハ之ニ依リ雷撃サレタルコト判断セリ。電探ノ捕捉セルハ別紙第三電測記録ニ依リB潜水艦ニシテ見張眼鏡ノ捕捉セルハ別個ノA潜水艦ナリシコト確実ナリ』-『二番見張りニテ発見セル敵潜水艦ノ運動(註)敵潜水艦ヲ認メシハ二番見張ノミ』
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  491. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.52『24日1117干珠/0710時雨被雷沈没附近近距離ニ海13浮上潜水艦発見砲撃後爆雷攻撃ヲ加フ|0742現状南方8000米ニ於テ干珠浮上潜水艦発見砲撃ノ後爆雷攻撃ヲ行ヒ0817さわらく丸被雷、干珠射点附近攻撃重油多量湧後反復攻撃』
  492. ^ #S1906第27駆日誌(6)p.52『24日1117干珠/1030三宅海十三ヲシテ制圧並ニ救助ニ任ゼシメさわらく丸ノ護衛ニ就ク、敵潜2隻以上存在確実、時雨生存者…』
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  498. ^ #秘海軍公報昭和20年3月(2)p.15『内令第二二一號 驅逐隊編制中左ノ取改定セラル|昭和二十年三月十日 海軍大臣|第七驅逐隊ノ項中、霞ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初霜、時雨、朝霜」ヲ「初霜、朝霜、霞」ニ改ム|第四十三驅逐隊ノ項中「梅、」ヲ削ル|第五十二驅逐隊ノ項中「樅、」ヲ削ル』
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参考文献[編集]

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  • 佐藤和正 『軍艦 華麗なる生涯』 光人社、1986年8月。ISBN 4-7698-0319-2
    • 第2章 主力の犠牲 駆逐艦時雨スリガオに単艦行動す
  • 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社NF文庫、1993年ISBN 47698-2009-7
    • 空隙と盲点 <駆逐艦時雨艦長・西野繁中佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦艦長、馬公警備府副官兼参謀、時雨艦長、駆逐艦夏月艦長)
  • 佐藤静夫 『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4
  • 重本俊一ほか 『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』 潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8
  • 須藤幸助 『駆逐艦五月雨』 朝日ソノラマ、1988年1月。ISBN 4-257-17097-2
  • 種子島洋二 『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』 光人社、2003年9月。ISBN 4-7698-2394-0
  • 寺内正道ほか 『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』 潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0
    • 戦史研究家村井至『太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第2巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年7月。ISBN 4-7698-0710-4
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 豊田穣 『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』 光人社NF文庫、2004年(原著1983年)。ISBN 978-4-7698-2027-7
  • 永井喜之・木俣滋郎 「第2部 第二次大戦/日本軍編(11)駆逐艦萩風、嵐、江風」『新戦史シリーズ 撃沈戦記』 朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8
  • チェスター・ニミッツ/E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
  • 原為一『帝国海軍の最後』(河出書房、1962)78-150頁。
    第27駆逐隊司令として1943年3月8日から12月5日まで時雨に乗艦。
  • 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』(光人社、1993年)ISBN 4-7698-0611-6
  • 文藝春秋編 『完本・太平洋戦争(上)』 文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345920-0
    • 原為一『酸素魚雷ベラ・ラベラ沖の血闘』
  • 文藝春秋編 『完本・太平洋戦争(下)』 文藝春秋、1991年12月。ISBN 4-16-345930-8
    • 吉田俊雄『レイテ沖海戦の全貌』/江崎寿人(海軍主計大尉、山城主計長)『戦艦・山城の生存者わずか十名なり』/西川昭美(最上通信兵)『重巡最上血染めの戦闘詳報』
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』 朝雲新聞社、1971年9月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 朝雲新聞社、1973年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』 朝雲新聞社、1975年8月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』 朝雲新聞社、1976年8月。
  • 堀元美 『連合艦隊の生涯』 朝日ソノラマ文庫、1983年6月。ISBN 4-257-17028-X
  • 松浦敬紀編著 「野村証券株式会社副社長田淵節也(海軍少尉)“マル四艇から落ちる夢”」『若い世代へ伝えたい残したい 終りなき海軍』 文化社、1978年6月。
  • 雑誌「丸」編集部 『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』 光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6
  • 丸編集部編 『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』 光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6
    • 元「最上」高角砲指揮官・海軍大尉輿石辯『西村部隊「最上」スリガオ海峡の死闘』
  • サミュエル・モリソン大谷内一夫訳 『モリソンの太平洋海戦史』 光人社、2003年8月。ISBN 4-7698-1098-9
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和財政史資料第5号第22冊(国立公文書館)/昭和9年度海軍予算査定資料』。Ref.A09050137200。
    • 『昭和8年達完/12月』。Ref.C12070097600。
    • 『昭和18年7~8月 内令3巻/昭和18年7月(1)』。Ref.C12070178900。
    • 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。Ref.C12070181100。
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    • 『昭和18年11~12月 内令 5巻/昭和18年11月(6)』。Ref.C12070182500。
    • 『昭和19年9月~12月秘海軍公報 号外/10月(2)』。Ref.C12070497400。
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    • 『第5668号 8.12.26 鈴谷、時雨、伊号第72』。Ref.C05110624500。
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    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。
  • 太平洋戦争緒戦
    • 『昭和16年12月1日~昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030049200。
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    • 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030043300。
    • 『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030043400。
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    • 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/1.経過』。Ref.C13120037200。
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030729000。
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    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030729200。
    • 『昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030729300。
    • 『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030040400。
    • 『昭和17年6月1日~昭和17年11月30日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030044100。
  • ガダルカナル島攻防戦
    • 『昭和17年9月25日~昭和17年11月9日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。Ref.C08030113300。
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    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030113800。
    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030113900。
    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030114000。
    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030114100。
    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030114200。
    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030114300。
    • 『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030114700。
    • 『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030114800。
    • 『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030114900。
    • 『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030115000。
    • 『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030115100。
    • 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030051800。
    • 『昭和17年7月14日~昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030051900。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030115400。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030115500。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030115600。
    • 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030115700。
  • 時雨輸送任務
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030116000。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030116100。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030116200。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030116300。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030116400。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030116500。
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030116900。
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030117000。
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030117100。
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030117200。
    • 『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030117300。
  • ソロモン海の戦い
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101000。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030101100。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030101200。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030101300。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030101400。
    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030101500。
    • 『昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030047800。
    • 『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(8)』。Ref.C08030023200。
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030105800。
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030105900。
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030106000。
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030106100。
    • 『昭和18年7月1日~昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030106200。
    • 『昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(1)』。Ref.C08030726100。
    • 『昭和18年8月 第3水雷戦隊戦闘詳報 ホラニュー輸送支援作戦.ベララベラ沖海戦(2)』。Ref.C08030726200。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030044900。
    • 『昭和17年12月1日~昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030045000。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030126800。
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    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101800。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030101900。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030102000。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030102100。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030148200。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030148300。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030148400。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030148500。
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    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030102500。
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関連項目[編集]