坊ノ岬沖海戦

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坊ノ岬沖海戦
戦艦大和
第一波攻撃時ころと推定される大和の写真。後部に中型爆弾2による小火災を発生させている。被雷1を受けたが大和は水平を保っている。
戦争太平洋戦争
年月日1945年4月7日
場所:九州南方海域
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
伊藤整一中将
古村啓蔵少将
マーク・ミッチャー中将
戦力
戦艦大和
軽巡洋艦矢矧
駆逐艦 8隻
空母 7隻
軽空母 4隻
積載艦載機 約820機
実戦艦載機 386機
戦艦 6隻
巡洋艦 11隻
駆逐艦 30+隻
損害
戦艦大和
軽巡洋艦矢矧
駆逐艦 4隻
戦死 3,700名
艦載機損失 10機
戦死 12名
日本本土の戦い
大和の指揮官たち。1945年4月5日撮影
前列左から3番目が伊藤整一中将、右から3番目が第2艦隊参謀長森下信衛少将である。

坊ノ岬沖海戦(ぼうのみさきおきかいせん)は、1945年4月7日に沖縄へ水上特攻に向かう戦艦大和と護衛艦艇をアメリカ軍の空母艦載機が撃沈・撃退した海空戦。日本海軍が発動した天一号作戦の一環として第一遊撃部隊(戦艦大和と軽巡洋艦1隻・駆逐艦8隻の第二艦隊)は沖縄方面に出撃、アメリカ海軍第58任務部隊の空母艦載機が日本艦隊を迎撃した。日本海軍が立案・決行した最後の大型水上艦による攻撃でもあった。

日本艦隊の出撃経緯[編集]

太平洋戦争末期の1945年春、連合艦隊はすでに主力艦艇の多くを喪失していた。戦艦大和以下、生き残った主力艦艇や空母を中心とした新造艦艇の多くは燃料不足のため行動することができず、呉軍港などに繋がれていた[1]海龍震洋といった特攻兵器の生産が優先され、大型軍艦の修理は後回しにされた[2]。この方針に対し伊藤整一海軍中将は戦艦の修理を要請して井上成美海軍次官と対立した[3]。結果的に伊藤中将の要望が通り大和と榛名は呉工廠で、戦艦長門は横須賀で修理することが決定した[4]。その後、軍令部は燃料がなくなった戦艦を浮砲台として軍港に繋ぐ予定だったが、連合艦隊は1945年2月5日、第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした。そこで大和と矢矧の第二艦隊を残すことにした[5]

3月末、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は日本本土への上陸に向けた最終段階として沖縄諸島方面への進攻作戦を開始し、大艦隊が沖縄本島沖に集結した。これに対して日本軍は防衛のため天号作戦を発動、特攻作戦である菊水作戦に呼応する形で、海軍艦艇の東シナ海への出撃を検討する。ただし、菊水一号作戦は航空戦である。3月17日、連合艦隊はGF電令作第564号にて大和を含めた第一遊撃部隊に出撃準備を命じ、「航空攻撃有利なる場合、1YBは特令により出撃し敵攻略部隊を撃滅す。本作戦を天一号作戦と呼称す」を告げた[6]。26日、GF電令作第581号・583号にて、大和と矢矧以下第二水雷戦隊に対し、佐世保に回航して、同港前進待機が指示される[7]。第二艦隊を佐世保に進出させ、大和を中心として東シナ海を遊弋させることとした。三上作夫(連合艦隊作戦参謀)は「佐世保に大和がいることでアメリカ軍の脅威となり、アメリカ軍機動部隊が大和を目標として北上して来る。そこを基地航空隊が叩く作戦」と証言している[8]。これに対し宇垣纏中将は「小細工が通用するはずもなく笑止千万。内海待機が適当」と評した[9]

28日午前9時30分、大和で各駆逐戦隊指揮官や艦長が作戦打ち合わせを行う[10]関門海峡は27日にアメリカ軍が550トンもの機雷を投下したことにより封鎖されたため、豊後水道通過を選択した[11]。午後5時30分、第二艦隊(旗艦大和)は呉軍港を出港し佐世保へ向った[10]。呉出港時、全ての在艦艦艇が第二艦隊に対して汽笛と「総員帽振れ」で見送ったという[12]。しかし米機動部隊接近の報を受けて佐世保回航が延期され、周防灘で待機となる[13]。30日には呉軍港と広島湾も機雷で埋め尽くされ、呉に帰還することも困難となった。第二艦隊は宙に浮いた形となった[14]。3月29日、榛名の航海長を勤めていた茂木史朗中佐が新任航海長として大和に着任した[15]。前任者の津田弘明大佐は普通半日で終わる引継ぎを一週間かけて行った[16]。この点では大和の有賀幸作艦長、矢矧の原為一艦長も1944年12月の着任で、その後も燃料不足やドック入りのため満足な訓練が出来ず乗艦の操艦に熟練していなかった[17]。午後5時26分、駆逐艦が周防灘で触雷し、朝霜に曳航されて呉に向かう[18]。その後、響が自力航行可能となったため、朝霜は曳航を中止して第二艦隊に合流した[19]

4月1日、連合軍は沖縄本島への上陸を開始した。これに対する日本軍の菊水作戦の発動は4月6日と決定された。沖縄の日本陸軍や海軍陸戦隊は持久作戦を主張、内地の大本営や連合艦隊司令部は航空特攻や海上特攻を含めた総攻撃を主張し、日本軍の作戦方針は統一されていなかった[20]。第二水雷戦隊司令部はアメリカ軍の優勢を認めた上で、3つの選択肢を検討した[21]

  1. 航空作戦、地上作戦の展開に関わらず沖縄に突入し、最後の海戦を実施する。目的地到達前に壊滅必至[22]
  2. 好機到来迄極力日本海朝鮮南部方面に避退温存す[22]
  3. 陸揚可能兵器弾薬人員を揚陸、陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とす[22]

第二水雷戦隊は第3案を「最も有利なる案」として4月3日、第二艦隊司令部に意見具申する[23]。第二艦隊司令部は賛同の上で連合艦隊司令部に伝達した[23]。ところが伊藤中将は連合艦隊が航空部隊に総攻撃の準備命令が出されたことを知って意見具申を取りやめた[24]。大和をふくめた第二艦隊の出撃は、豊田副武連合艦隊司令長官海軍大将)の指揮下に立案された最後の水上作戦である。当時軍令部次長であった小沢治三郎中将は「積極的なのはいいが、それはもはや作戦と呼べるのか」と、連合艦隊参謀達に再考を促させたと言う[25]。小沢中将は「片道燃料分しか燃料供給せず」を通告したが、連合艦隊側は作戦決行を主張し、最終的に小沢中将も「豊田長官がそうしたいという決意ならよかろう」と了解を与えている[26]。豊田司令長官は戦史叢書に成功率50%以下の作戦と判断しつつ、沖縄軍の心情を考えて『しかし多少でも成功の算あらば、できることはなんでもしなければならぬ、という心持で決断したが、この決心をするには、私としては随分苦しい思いをしたものだ』と証言しているが、後述の訓示とは矛盾している[27]。この作戦は、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで、固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった[28]

当時、連合艦隊は神奈川県横浜市の日吉キャンパスにあった。草鹿龍之介連合艦隊参謀長は沖縄戦指導のため九州に出張中であった[29]。そこへ神重徳大佐が草鹿宛に電話をかけ、応対に出た作戦参謀三上作夫中佐に対し、第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定を伝える[30]。草鹿参謀長はいつの間にか作戦が決定されたことに憤慨したが[31]、断固とした反対姿勢は見せなかった。神大佐は第二艦隊参謀として大和に乗艦することを希望したが、高田利種参謀副長は却下した[32]

神連合艦隊主席参謀は、つねづね局地戦に大型艦をうまく使えるとの信念をもち、沖縄上陸戦の攻防にも参加させるべきと意見を抱いていた。サイパンの戦いでも、戦艦山城を突入、座礁させて砲台とする作戦を具申したことがある(そのときは中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下された[33])。沖縄への大和特攻は、主席参謀となった神大佐が発意し、草鹿参謀長の不在中に豊田連合艦隊司令長官に直接決裁をもとめ急遽の決定がなされた。神大佐が作戦参謀の三上作夫中佐に語ったこの作戦決定の理由は、以下のとおり。3月29日昭和天皇に対し及川古志郎軍令部総長が沖縄方面のアメリカ軍に対し特攻作戦を行うことを奏上した。これに対し昭和天皇は、「総攻撃は航空部隊だけか。海軍にはもう艦がないのか。海上部隊はないのか」と(三上中佐によれば一般的な)質問を行い、それに対して「海軍の全力を投じて作戦を行う」と及川軍令部総長が答えたことが決定の理由だという。なお、三上中佐によれば天皇の「お言葉」は参謀総長への直言か、神大佐が自分で付け加えた言葉かも定かでないらしい[34]

4月5日、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将は以下の命令を受けた。

  1. 「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ」[35][36]
  2. 「【電令作607号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍第十方面軍第三十二軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ」[35]
  3. 「第一遊撃部隊は海上特攻隊として8日黎明沖縄島に突入を目途し、急遽出撃準備を完成すべし」[23][37]

当初から、アメリカ軍の制空権下における航空機の援護のない水上部隊の特攻など失敗に終わることは目に見えていた。沖縄第三十二軍司令官牛島満陸軍中将は、海上特攻実行と陸軍総攻撃を求める機密電報を投げ捨てたという[38]米内光政海軍大臣は神に対し「成功したら奇蹟だ」と述べる[39]。これに対する神大佐の答えは「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方が良い」であった[40]。大和に華々しい最後を飾らせたいという考えは、神参謀だけでなく、海軍首脳の誰もが抱いていた可能性がある[41]。たとえば宇垣中将は作戦そのものには反対しつつも「(沖縄日本陸軍が総攻撃を行うので)決戦ならば之もよからん」と諦めており、草鹿龍之介参謀長も「いずれその最期を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所に」と述べている[42]。高田利種(連合艦隊参謀副長)も「大和を特攻に使わないで戦争に負けたら、次の日本は作れない」と考え、神大佐の提案に内心では賛成だったという[43]

能村(大和副長)によれば、午後の日課中に有賀艦長から特攻出撃命令書を受け取り、すぐに当直配置員を除く全乗組員2500名を大和前部一番主砲塔付近に整列させて特攻出撃を伝達した[44]。そして、第二艦隊に配属されたばかりの士官候補生や老兵・傷病兵を退艦させる[45]。特に第七十四期士官候補生達は4月3日夕刻に大和や矢矧に乗艦したばかりだった[46]。夜、酒保が開かれて宴会が行われ、有賀艦長も酒宴に加わった[47]。若手士官の居室で吉田満著『戦艦大和ノ最期』で描かれるような出来事があったかどうかについて、生還した士官達の証言は定まっていない[48]。伊藤長官は妻子に向け手紙を書いていた[49]。伊藤長官の息子は航空機搭乗員として特攻が予定されており、伊藤長官は副官に「息子は特攻だ。もう生きていても良いことがない」と語ったことがある[50]

大和とは別地点に停泊していた軽巡矢矧では、水上特攻命令受領を受けて第二水雷戦隊各駆逐艦艦長が集まり、古村啓蔵司令官のもとで会議が開かれた[51]。全員が驚き、駆逐艦初霜の酒匂雅三艦長は「豊田副武連合艦隊司令長官がなぜ陣頭指揮をしないのか」と憤慨したという[52]。他の駆逐隊司令や艦長も同意見であったが、大和での第二艦隊司令部作戦会議では伊藤長官が「この命令は我々に死所を与えたものである。死んでこいということである」と発言し、第二水雷戦隊各艦も命令に従い出撃準備に着手した[53]。この後、各艦で酒宴が開かれた[54]。駆逐隊司令や艦長達は矢矧の司令官公室で痛飲した[55]

4月6日午前6時、矢矧以下の第二水雷戦隊が徳山沖停泊中の大和に合流した[56]。当初、艦隊は片道分の燃料のみ(2000トン)を搭載予定となっていた[57]。だが「人が死ににゆくのに腹一杯食わさんでどうする」と各艦長が抗議、連合艦隊護衛総隊割り当て分の一部及び基地補給班が員数を集め、呉鎮守府に掛け合い、第二艦隊全ての艦艇の燃料を確保した[58]。徳山にある燃料タンクの底に残っていた帳簿外の重油までもかき集めたという[59]。また出撃しない駆逐艦から燃料と弾薬を出撃艦艇に移譲している[57]。各艦に補給された燃料は満タンの量ではなかったが、巡航速度であれば沖縄本島と呉との間を4往復は出来るだけの量はあったとされている[60]。詳細は、大和4000トン、矢矧1250、冬月900(佐世保到着時残量650)、涼月900(400)、磯風599、浜風599、雪風588(170)、朝霜599、霞540、初霜500(300)[61]。満州の大豆からとった油が混ざっているので馬力が2割下がったという雪風の機関長の異説もある[62]

この時、大和と第二水雷戦隊のために輸送船の護衛艦の燃料割り当てカットの電話を受けた海上護衛総司令部参謀だった大井篤大佐は「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と軍令部の海上物資輸送への理解度のなさに激怒したというエピソードが残されている[63]。最終的にこの燃料によって、残存艦が佐世保に帰還できたといわれる。

日本側はアメリカ軍の機動部隊が沖縄東方に存在することを前提に計画を立てていた。7日早朝大隅半島を通過し、沖縄突入は8日黎明を予定[64]。アメリカ機動部隊出現の場合は一旦計画を中止して北上し、基地航空兵力の特攻作戦成果を待って反転突入を企図した[64]。日本海軍の計画について古村二水戦司令官は『出撃時期と到着時期を固定してただ走れば、途中の壊滅は必至である』と回想した[65]

アメリカ海軍の対応[編集]

アメリカ海軍は、「マジック」極東情報が行った日本軍の暗号電報の傍受と解読と、F-13(B-29の偵察機型)の空中偵察により「大和」出撃についてほぼ全容を把握していた[66]。 4月3日菊水一号作戦発動を「天信電令作第39号」の解読により察知し、 4月4日の「GF電令作第601号電番」などにより突入の日が6日であること、 4月5日には「第一遊撃部隊が6日に徳山で燃料を補給すべし」との連合艦隊司令長官の指令を、 4月6日には天一号作戦部隊発の沖縄特別根拠地隊宛の「GF電令作第607号電番」解読により第二遊撃部隊が海上特攻隊であること、 さらに「GF電令作第611号電番」により大和以下8隻の駆逐艦と矢矧であることを、 そして、あらかじめ6日夕刻ごろに艦隊が豊後水道を出撃せよとの連合艦隊の命令まで解読しており、潜水艦に「敵艦隊が被害を受けて引き返すことのないよう」魚雷発射を禁止して、哨戒配置につかせていた。また、F13(偵察型のB29)による偵察で、午前9時30分に呉西方を行動中の駆逐艦6隻と大型艦の行動を捕捉し、6日の日没後にはついに豊後水道通過時に艦隊は米潜水艦SS295「ハックルバック」がレーダーにより発見してして追跡、しばらくの間接触を保つことができた。これによりアメリカ艦隊は、暗号情報が正しいことを確認できた。

これらの情報から、アメリカ軍のアイスバーグ作戦指揮官レイモンド・スプルーアンス長官はモートン・デヨ少将の第54任務部隊(旧式戦艦部隊)に対し、カミカゼに備する機動部隊に代わり 日本艦隊が日本本土の基地に後退できない、かつ九州の日本軍機の援護を受けられない南方まで誘い出し大和を撃沈せよと命じた。海戦は4月7日の夜間に予定されており、優勢な大和に対して、アメリカ戦艦は数とレーダー射撃の正確さにより勝利できると考えたのである。 第54任務部隊の士気は大いに上がったが、機動部隊指揮官のマーク・ミッチャー中将は、戦艦に対する航空機の優位性を証明できる最良の機会として闘志を燃やし[67]、機動部隊に「カミカゼに備えよ」という命令が出ていたため、三個の空母部隊を大和への攻撃が可能な九州より最も遠い海域に集結させた。

両軍戦力[編集]

日本海軍[編集]

日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。出撃した部隊は以下の編制であった。参加兵力は計4,329名。平均年齢は27歳であったという[68]

  • 第1遊撃部隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)
    • 第1航空戦隊
    • 第2水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)
      • 軽巡洋艦矢矧(艦長:原為一大佐):沈没。被雷7本、直撃弾12発。戦死446、戦傷133名。
        ※矢矧に座乗していた第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は、ともに生還。
      • 第41駆逐隊(司令:吉田正義大佐)
        • 冬月(艦長:山名寛雄中佐):帰還。中破。直撃弾2発(不発)。戦死12、戦傷12名。
        • 涼月(艦長:平山敏夫中佐):帰還。大破、艦首部に直撃弾を受け大破。後進で佐世保に帰還。戦死57、戦傷34名。
      • 第17駆逐隊(司令:新谷喜一大佐)
        • 磯風(艦長:前田実穂中佐):至近弾により機関室浸水。航行不能になり処分。戦死20、戦傷54名。
        • 浜風(艦長:前川万衛中佐):沈没。被雷1本、直撃弾1発。被弾で航行不能になった後、被雷し轟沈。戦死100、戦傷45名。
        • 雪風(艦長:寺内正道中佐):帰還。至近弾のみ。ロケット弾の直撃を受けるものの不発に終わる(帰還後判明)。損傷無し。戦死3、戦傷15名。
      • 第21駆逐隊(司令:小滝久雄大佐)
        • 朝霜(艦長:杉原与四郎中佐):機関故障を起こし艦隊より落伍、正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発信後連絡が途絶えた。撃沈されたものと推定。隊司令及び艦長以下326名全員が戦死した。
        • 初霜(艦長:酒匂雅三少佐):帰還。至近弾のみ。損傷無し。戦傷2名のみ。
        • (艦長:松本正平少佐):直撃弾2発。うち1発が機関室を直撃、破壊。航行不能により処分した。戦死17、戦傷47名。
  • 対潜掃討隊(瀬戸内海離脱後、命令により反転帰還)
    • 第31戦隊(司令官:鶴岡信道少将)
      • 花月(艦長:東日出夫中佐)
      • 第43駆逐隊(司令:作間英邇大佐)
        • (艦長:岩淵悟郎少佐)
        • (艦長:石塚栄少佐)

アメリカ海軍[編集]

戦闘[編集]

出撃[編集]

日本陸海軍は、4月6-7日にかけて300機近くの特攻機を投入した。飛行技術の練度不足や興奮などの諸条件により小型艦艇を目標にした特攻機が多く[70]、駆逐艦2隻、掃海艇1隻、揚陸艇1隻、貨物船2隻撃沈・駆逐艦8隻がなんらかの損傷を受けた[71]。沖縄の第三十二軍は撃沈(戦艦2、艦種不詳2、大型3、小型2)、撃破(戦艦1、炎上駆逐艦1、輸送船6、小型2、艦種不詳9)を報告した[72]。東京のラジオは、米戦艦2隻、巡洋艦3隻、小型艦船57隻撃沈、米空母5隻を含む61隻を撃破したと報じた[71]宇垣纏第五航空艦隊司令官は特攻出撃が充分な戦果をあげたと判断している[73]

4月6日、豊田連合艦隊長官は第二艦隊に対し「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正に此の一撃に在り、茲に特に海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは帝国海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を後昆に伝へんとするに外ならず、各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅し以て皇国無窮の礎を確立すべし」と電報訓示する[74]

九州の鹿島(第五航空艦隊)に出張して宇垣中将と共に特攻出撃を見守っていた草鹿参謀長と三上参謀は、東京から第二艦隊出撃計画が豊田連合艦隊長官の決裁を受けたという連絡を受けた[75]。「きまってから参謀長の意見はどうですかもないもんだ」と憤慨しつつ、草鹿参謀長は水上機に乗って大和を訪れた[76]。大和内部にある長官公室での打ち合せでは、伊藤長官は作戦に納得しなかった。だが、既に陸軍の総攻撃が計画されていると三上参謀が告げると、伊藤長官は作戦を了承した[77]。草鹿参謀長の「一億総特攻の魁となって頂きたい」という言葉も要因だったとされる[78]。一方で、草鹿参謀長の回想録には特に言及がない。伊藤長官は「途中で沖縄到達の見込みがなくなった場合はどうするか」と質問し、草鹿参謀長は「貴方に一存する」と答えると、伊藤長官は喜色満面となって「わかった。安心してくれ、気もせいせいした」と返答したという[79]海軍兵学校時代の草鹿参謀長は伊藤長官の後輩であり、草鹿参謀長は「何かにつけて下級生をかばう良き先輩であり、訣別の辞を伝えにいかなくてはならぬ破目になったことは皮肉な巡り合わせ」と述べている[80]。なお高田利種(連合艦隊参謀副長)は、草鹿参謀長が大和特攻作戦をむしろ熱心に主導したと断言しているが、「何時出撃するかを知らされなかった」可能性はあるとしている[81]

その後、大和にて各戦隊司令官、艦長が集合した[82]。そこで草鹿参謀長による作戦説明と[83]、伊藤長官による訓示が行われた[84]。草鹿参謀長が「沖縄に乗り上げて陸戦隊になって欲しい」と告げると、第二艦隊将校から「陸戦武器がないじゃないか」と疑問がぶつけられた[85]古村啓蔵司令官によれば、草鹿参謀長の「一億総特攻の先駆け」はこの将校会議で出た発言である[86]。結局、伊藤長官が反論や不満を抑える形となり、艦長達は命令に従った[87]。伊藤長官は1人上機嫌だったという証言も残されている[88]。15時20分、大和以下、第二艦隊は徳山沖を出撃した[89]。16時10分、伊藤長官は麾下の艦艇に対し出撃に際しての訓示を発する[90]

神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ

伊藤整一第二艦隊司令長官

このように悲壮なる決意をもって第二艦隊は出撃したのである。だが、沖縄の第三十二軍は八原博通作戦参謀を中心に持久作戦を主張、大本営の沖縄飛行場攻撃命令・8日総攻撃要請にも応じなかった[91]。海上特攻を思いとどまるよう牛島軍司令官は発信、「大本営機密戦争日誌」によれば『皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ』とである[92]。夕刻、大和甲板では総員が集合し、訓示の後「各自の故郷に向かって挨拶せよ」との命令が出た[93]。矢矧の原艦長は、「生きて帰ることをためらってはならない」と乗組員に説明していた[94]。夜間、第二水雷戦隊は大和を目標とした雷撃訓練を行う[95]。第二水雷戦隊は新編成以降燃料不足のため、4月6日まで一度も総合訓練を行ったことがなかった[96]。連合艦隊の命令により、佐伯航空隊の零式水上偵察機14機と、呉防備戦隊の海防艦志賀、第194海防艦が第二艦隊の前方を進んだ[97]。豊後水道で対潜掃討隊と分離した後、艦隊は一路沖縄本島への進路を取る。20時20分頃、都井岬南方30海里の地点に配備されていたアメリカ軍のスレッドフィン (USS Threadfin, SS-410) とハックルバック」(USS Hackleback, SS-295) の2隻の潜水艦は豊後水道を南へ向かう日本艦隊を発見し、アメリカ艦隊へ日本艦隊の出撃を通報した。両艦には魚雷攻撃禁止命令が出ていた。これは中途半端な損害を与えて内地に戻られるのを避けたためである[98]。ただし、ハックルバックは駆逐艦を狙って魚雷を装填したが、接近されたために発射のチャンスを失った[99]。一方、大和の艦内では乗組員に汁粉が出た[100]

4月7日午前6時、日本艦隊は大隅半島を通過し外洋へ出ると、沖縄本島へ向かった[101]。この時、大和は唯一搭載していた零式水上偵察機を発進させている[102]。陸上航空部隊からは次々の特攻機突入の報告が入り、「正規空母3隻、特設空母1隻、戦艦1隻撃破」という誤戦果や[90]、7日午前4時には「敵機動部隊大打撃。空母を含む数隻撃沈確実、敵艦隊大混乱」との誤報を受取っている[103]。日本艦隊は大和を中心とし、その周りを1,500メートルずつ離れて矢矧と8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、20ノットで進んだ[101]

護衛駆逐艦のうち朝霜は午前7時に機関故障を起こして速力が12ノットとなり、艦隊から落伍した[104]。台湾で停泊中に爆撃を受けて損傷してから、機関の調子が悪かったのである[105]。大和の零式水上偵察機は、異状排気を起こして速力を低下させる朝霜を目撃している[106]。その後、大和の所属機は矢矧の所属機に哨戒をひきついで鹿児島県の指宿基地に向かった[107]。8時15分、矢矧からも水上偵察機1機が射出されており、午前9時ごろ指宿基地に到着した[108]。8時、昭和天皇が伊勢神宮に高松宮宣仁親王を御代として差遣したとの連絡が入る[109]

午前11時、朝霜が第二艦隊の視界外に脱落した[110]。同時刻、大和のレーダーがアメリカ軍編隊を探知する[111]。それから間もなく艦隊は小型艦艇3隻「大島輸送隊」(輸送艦第146号、駆潜艇49号、第17号駆潜艇)とすれ違った[112]。大島輸送隊は、奄美大島への強行輸送任務を成功した後の帰路であった[113]。第二水雷戦隊は12時19分視認距離で遭遇[114][115]、大和は12時22分、45km先に発見としている[116]。輸送艦146号の丹羽正之大尉(輸送隊指揮官)は駆逐艦浜風での勤務経験があり、大和に対して無線で答礼すると「有難ウ、ワレ期待ニ応エントス」という返礼があった[117]。同時刻、佐世保へ向かう海防艦屋代も第二艦隊とすれ違い[118]、第二艦隊の無線電報を受信している[119]。記録によれば屋代は佐世保に在泊となっているが、大和を目撃したという乗組員の証言もある[119]

日本軍の航空掩護[編集]

鹿屋基地では、第二艦隊の上空援護を巡って第五航空艦隊司令官宇垣纏中将と草鹿龍之介連合艦隊参謀長の間にやりとりがあった[120]。宇垣中将は唐突に決まった作戦に反対しつつ「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対し、第二艦隊掩護命令を出した[121]。第二艦隊は5機から10機の零式艦上戦闘機(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告[122]。ただし、アメリカ軍の記録によると8時15分から正午すぎの空襲に至るまで、F6Fヘルキャット偵察隊やマーチン・マリナー飛行艇が第二艦隊上空に留まって監視任務を続行している。大和も8時40分にヘルキャット7機を確認したが[123]、日本軍機との間で空戦が起こった記録はない。一方で、矢矧に乗艦した機関将校は第二艦隊上空を通過する特攻機を目撃している[124]

阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、阿部中尉の所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った[125]。阿部中尉の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した[126]。戦闘三一二飛行隊(笹ノ原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し[127]、三五二空(大村基地)からは零戦隊/甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた[128]。美濃部正少佐が指揮する芙蓉部隊(特攻を行わない夜戦部隊)にも第五航空艦隊から大和掩護要請があったが、美濃部少佐は夜間戦闘部隊に制空戦闘は出来ないと断っている[129]。このように宇垣中将の第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行った事は確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった[130]

アメリカ軍攻撃隊発進[編集]

一方、アメリカ軍の偵察機は日本艦隊を追跡した。8時15分、3機のF6Fヘルキャット索敵隊(ウィリアム・エスツス中尉)が大和を発見した[131]。8時23分、空母エセックスのジャック・ライオンズ少尉隊も第二艦隊に接触し、大和は沖縄へ向かっていると報告した[131]。ミッチャー中将は付近のヘルキャット16機に接触を続けるよう命じる。ミッチャー中将は攻撃隊が飛行する距離が長いことを考慮し、不時着回収機として「空飛ぶ象」と呼ばれたマーチン飛行艇を配置することにした[132]。その他の支援艦艇も、航空攻撃が失敗に終わった場合に備えて日本艦隊阻止のため集結した。8時40分、日本艦隊もヘルキャット隊を発見する[133]。10時、日本艦隊は西に向きを変え撤退するように見せかけたが、11時30分に沖縄本島へ向けて進路を変えた。

アメリカ軍はさらにマーチン・マリナー飛行艇2機(VPB-21哨戒飛行隊)を投入した。ディック・シムズ大尉は小型船3隻の船団と、大和を中心とした第二艦隊を発見[134]。シムズ大尉は大和の後部砲塔から射撃され、レーダー妨害用の錫箔を捲いて雲に入った[134]。宮本砲術参謀は10時17分に46cm主砲三式弾一斉射発射を記録[135]。11時14分(アメリカ軍の記録11時37分)にもヘルキャット6機に一斉射した[136]

大和の出撃を察知し、沖縄諸島攻略の任に当たっていたアメリカ第5艦隊司令長官のスプルーアンス大将は迎撃を命令 、沖縄本島周辺に艦砲射撃任務を遂行中だったモートン・デヨ司令官率いる第3戦艦隊の3隻(アイダホ、ニューメキシコ、テネシー)と第4戦艦隊の3隻(ウェストバージニア、メリーランド、コロラド)、巡洋艦7隻(バーミングハム、モービル、ビロクシー、サンフランシスコ、ミネアポリス、タスカルーザ、ポートランド)、駆逐艦21隻を任務から外して迎撃準備を行わせた。艦隊の進路が不明なため、最終的にミッチャー中将の第58機動部隊による航空攻撃を許可した。実際には、ミッチャーはスプルーアンス大将の命令を受ける前に攻撃隊を発進させている[137]

10時ごろ、奄美群島近海に位置していた空母サン・ジャシント、ベニントン、ホーネット(CV-12)、ベローウッド、エセックス、バターン、バンカーヒル、キャボット、ハンコックからのF6Fヘルキャット戦闘機とF4Uコルセア戦闘機132、SB2Cヘルダイバー爆撃機50、TBF/TBMアベンジャー雷撃機98が発進した。戦闘機はロケット弾を装備するか、250kg爆弾2個を搭載して出撃した[138]。280機はすぐ第二艦隊に向かったが、ハンコックから発進した53機は道に迷った[137]。10時45分、イントレピッド、ラングレー、ヨークタウン(CV-10)から106機が発進した[137]。少なくとも3機が事故で墜落するか、故障で引き返した[139]。この時点で、はじめてミッチャー中将はスプルーアンス大将に対し第二艦隊を攻撃することを通知し、「貴官がやられますか?それともこちらでやりますか?」と報告した[137]。そのスプルーアンス大将は、アメリカ海軍史上最も短い作戦命令「貴官が やつらを やれ」(You Take Them)を伝えた[140][138]

第1波攻撃[編集]

アメリカ軍艦載機部隊ヘルダイバーによる大和(中央左)への攻撃の開始
艦載機の攻撃を受け、回避行動を取る大和。
魚雷と爆撃による猛攻を受ける矢矧
大和の爆発

日本艦隊には第五航空艦隊所属の予備機の零戦20機が直掩として付随したが、九州近海で陸上基地に帰還した。天候は雨雲が1000メートル程度、風速10メートル、視界は8キロ以下であった。大和の主砲を除いて光学照準式の高射指揮装置と時限信管式の対空砲しかない日本艦隊の防空砲火側には極めて不利であり、「攻撃隊にはもってこいの天候」とする意見がある[141]。大和の艦橋にいた森下信衛第二艦隊参謀長も悪天候により対空砲火の効果と威力が低下したと回想している[142]。反面、大和が煙幕を展開すれば簡易型のレーダーを装備(雷撃機と攻撃機の電信席に装備)していても空中衝突の危険が大きく攻撃不能の可能性があったとするアメリカ軍パイロットや、大和主砲方位盤射手村田大尉の意見など評価が分かれる[143]。2時間かけて到着したアメリカ軍の攻撃隊は雲の上で日本艦隊の対空攻撃の射撃を受けずに、攻撃を行うために日本艦隊を取り囲むことができた反面、目標の進路や速度を目視において確認するためには一旦雲の下に下りなければならなかった。

第1波の攻撃隊は12時32分に攻撃を開始した。ベニントンのエドモンド・コンラッド大尉は、矢矧、磯風、初霜、冬月が増速し、大和が中央、残る艦が護衛という光景を見た[144]。日本艦隊は速度を24ノット、続いて最大戦速として回避行動を開始し、対空戦闘を始める[114]。この時の駆逐艦配置については、著作によって差異がある[145]。しかし回避行動によって輪形陣はすぐに崩れてしまった。たとえば雷撃機を回避しようと大和が右に転舵したため、輪形陣先頭にいた矢矧は大和の左舷4000-5000mに引き離されている[146]。 さらに大和の46cm主砲三式弾による砲撃は、角度が足らず、アメリカ軍機編隊の下方で炸裂した[147]。大和は近距離の敵機に対して24門の高角砲や約150門の機銃等の対空火器を装備していたが、日本軍生還者が「凄まじい」と表現するアメリカ軍機の雷撃・爆撃・銃撃の同時攻撃を阻止するには至らなかった[148]。まず、ベニントンの第82爆撃中隊11機が大和の攻撃を開始した[149]。雷撃機は転覆を狙うため大和の左舷に攻撃を集中したとされるが、特に拘っておらず、機会があり次第、左右同時雷撃を行っている[150]。12時45分、駆逐艦浜風が被弾して航行不能となった[114]。12時46分、矢矧の右舷機関部にベニントン隊の放った魚雷が命中した[151]。これにより機関部員は全滅し、矢矧は航行不能となった[152]。第1波の攻撃で大和には爆弾2発と魚雷推定1本(森下参謀長2-3本、アメリカ軍主張8本)が命中した[153]。左舷への傾斜は右舷への注水で回復したが、爆弾の命中により後部艦橋と後部副砲が破壊され、火災が発生した[116]。また、この攻撃で12時48分に浜風が爆沈した[154]。13時8分には涼月が前部に爆弾の直撃を受け大破、落伍した[155]。さらに、機関の故障で艦隊から落伍していた朝霜も大和以下に対する空襲の開始直前にサンジャシントの飛行隊14機[156]、もしくはバンカーヒルの飛行隊10機に攻撃された[157]。魚雷2本が艦橋右舷下と機械室に命中、大爆発を起こして朝霜は沈没した[158]。最後の電信は12時21分であった[159]。アメリカ軍の攻撃隊は、朝霜をピケット艦と判断している[144]

第2波・第3波攻撃[編集]

13時20分から14時15分の間に第2波と第3波の攻撃隊が来襲した。攻撃隊はエセックスのハーモン・アター中佐が指揮している[160]。攻撃は大和に集中した。爆弾は艦上構造物に損害を与え、対空射撃能力が低下した。魚雷はほとんどが左舷に命中していたが、特に意図はなく、大和が左旋回を繰り返していたため左舷を狙いやすかったからだった[161]。アメリカ軍は第2波、第3波攻撃で魚雷命中29本を主張[162]。艦は傾き転覆の危機が迫った。13時25分、通信施設を破壊された大和は、随伴する初霜に通信代行を依頼する[163]。13時33分、右舷の機関室とボイラー室に注水がおこなわれた。この際、機関科兵員に命令が伝わらず水にのまれたと一部の書物には記載されているが[164]、注水作業を瞬時に行うことは不可能であり、退避する時間は十分にあったと能村副長は証言している[165]。右舷の機関の喪失と多量の浸水のため、大和の速度は10ノットに低下した。低速で進む大和は雷撃機の格好の目標となり、航行能力を削ぐために舵や船尾に攻撃は集中した。この間、13時25分には霞が直撃弾2発、至近弾1発を受けて缶室に浸水、航行不能となり落伍[166]。第一波攻撃で航行不能となっていた矢矧にはさらに複数の魚雷と爆弾が命中し、14時5分に沈没した[167]。古村二水戦司令官および第二水雷戦隊司令部移乗のため矢矧に接舷を試みていた磯風も攻撃を受けて機械室に浸水、やがて航行不能となった[168]

14時10-17分、ヨークタウン(CV-10)の雷撃隊による右舷への複数魚雷命中が致命打となり、大和の傾斜は急速に大きくなった。戦闘詳報では魚雷10本・爆弾5発、森下参謀長は魚雷命中15本・爆弾命中数十発、アメリカ軍第58任務部隊は魚雷13-14本・爆弾5発以上、アメリカ軍攻撃隊は合計魚雷30-35本・爆弾38発が命中したと記録している[169]。大和の沈没が避けられないことを知らされ、伊藤中将は作戦の中止を命じた[170]。その一方で森下参謀長によれば、伊藤長官は「駆逐艦冬月は大和に横付けせよ」「大和は沖縄まで到達不能。幕僚は駆逐艦に移乗して沖縄へ先行せよ」と命じ、自分は大和と運命を共にすべく艦橋下の長官控室に降りていったという[171]有賀幸作艦長(大佐)は退艦を拒否して艦に残った[172]。総員退去命令が出て間もない14時20分、大和は転覆を開始、4時23分、完全に転覆すると大爆発を起こした[173]。この爆発は弾薬庫の誘爆または、機関室の水蒸気爆発によるものと考えられている[174]。大和の沈没地点は北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067であった[175]

帰投[編集]

アメリカ軍機の撤退と同時に、各艦は脱出者の救助を開始した。駆逐艦冬月の吉田正義大佐(第四一駆逐隊司令)は先任指揮官が自分であると判断、15時52分に連合艦隊司令長官・軍令部総長・海軍大臣にあて「1141より数次にわたり、敵艦上機大編隊の攻撃を受け、大和、矢矧、磯風沈没、浜風、涼月、霞航行不能、その他各艦多少損害あり、冬月、初霜、雪風を以って生存者を救助の後、再起を図らんとす」と発信した[176]。16時39分、第1遊撃部隊指揮官に対し、乗員救助の上佐世保への帰投が命ぜられた(受信は17時50分)[177]。17時20分に初霜に救助された古村司令官は作戦継続の電報を起案していたが、暗号翻訳中に作戦中止命令を受信、特攻作戦の中止に至った[178]。この海戦で日本側は、大和、矢矧、浜風が撃沈され、霞は航行不能となり冬月に処分された[179]。磯風は自力で北方に向かったが航行不能となり、雪風による曳航を試みる[180]。だが初霜からの下令で放棄が決まり、午後10時40分雪風に処分された[181]。また機関故障により単独行動中の朝霜も撃沈され、駆逐隊司令部を含め全員が戦死した[182]。涼月は艦首を失ったが後進で佐世保に帰還したものの、ドック内部で擱座した[183]。被害の少なかった冬月、雪風、初霜の3隻の駆逐艦は大和の生存者280名、矢矧の生存者555名と磯風、浜風、霞の生存者800名以上、1706名(戦闘詳報)を救助したが、推定3,721名がこの戦いで戦死した[184]。また大和沈没後に五航艦の戦闘303飛行隊が坊ノ岬260度100キロ付近の海面でF4Uコルセア戦闘機3機を撃墜したと報告している[185]

アメリカ軍機の多くは日本側からの対空砲火を受け損傷を負い、5機が撃墜され、原因不明の墜落が1機。被弾損傷機が52機で、内5機が経済的修理不能として海上投棄され、実質的損失は12機であった。乗員の内何人かは水上機や潜水艦に救助された。アメリカ軍の戦死行方不明は合計13名であった[186]。大戦を通じてアメリカ軍などの連合軍が行ってきた沈没船生存者への機銃掃射はこのときも現出し、古村啓蔵吉田満をはじめ多くの第二艦隊生存者が、このときアメリカ軍機の機銃掃射を受けたと証言している[187]

なお、アメリカ海軍は沖縄での特攻機による艦艇の被害は一切報道せず(レイテ以来「カミカゼ」には完全な報道管制がひかれていた)、大和とその他の艦の撃沈についてのみアメリカ陸軍記念日の司令長官ニミッツ提督の演説として、太平洋の全部隊にむけ放送した[188]。日本軍に対しては、大和撃沈の宣伝ビラをまいている[189]。その後、日本占領後の1945年(昭和20年)12月9日より開始されたラジオ番組『眞相はかうだ』において、GHQは坊ノ岬沖海戦および大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。

時系列[編集]

4月5日 13:59 第1遊撃部隊に出撃準備下令。
4月6日 15:20 第1遊撃部隊が徳山沖を出撃。
19:45 第1警戒航行序列(対潜序列)。
20:20 磯風が敵潜水艦らしきものを発見、第二艦隊、米潜に発見される。
4月7日 06:00 第3警戒航行序列(対空序列)を取る。
06:30 大和が唯一搭載していた零式水上偵察機、本土に帰還。
06:57 朝霜(第21駆逐隊司令座乗)が機関故障のため随伴不能となり艦隊より離脱。
06:30頃-10:00頃 第5航空艦隊所属の零戦部隊による艦隊上空直衛が交代で実施される。
08:15頃 矢矧、水上偵察機を発進、本土に帰還。第1遊撃部隊、アメリカ軍の飛行艇2機に発見される。その後、艦隊は、アメリカ高速空母機動部隊から攻撃隊に先駆けて出撃したF6F戦闘機、F4U戦闘機計10数機の接触を受けながら、偽装航路を中止し、沖縄に向けて南下する。
10:00-10:30 奄美群島近海に展開していたアメリカ海軍第58機動部隊から、作戦機約400機からなる攻撃隊が、第1次攻撃隊と第2次攻撃隊とに分かれて、相次いで出撃する。
11:35頃 大和に搭載された対空電探が、約100キロの距離にいるアメリカ軍艦上機の大編隊の接近を探知する。
12:10 落伍した朝霜より、「ワレ敵機ト交戦中」との無電が入る。
12:15 大和以下の各艦が総員対空戦闘配置を完了する。第二艦隊、大島輸送隊をすれ違う。
12:21 朝霜より「九十度方向ヨリ敵機三十数機ヲ探知ス」との無電連絡が入る。この後、連絡途絶。この直後に沈没した。
12:32 敵攻撃隊の大編隊が雲間から降下し、第1遊撃部隊上空へ殺到し始める。第一次空襲が始まる。
12:34 大和以下の各艦が対空戦闘開始。
12:41 大和の後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅。
12:45 大和の左舷前部に魚雷1発命中。
12:47 浜風、轟沈。矢矧、航行不能。
13:00 第一次空襲終了。
13:08 涼月、前部砲塔付近に爆弾命中、大破。
13:22 敵機群第二波約50機来襲。
13:25 霞、爆弾2発命中、航行不能。
大和、初霜に通信代行を依頼。
13:33 第二次空襲始まる。
大和の左舷に魚雷3本が命中。大和の副舵が取舵のまま故障。
大和、涼月と衝突しかける[190]。13:45、舵中央で固定。
13:56 磯風、矢矧の救援中に被弾・航行不能。
14:05 矢矧、沈没。
14:20 大和、左舷に傾斜20度、総員最上甲板が命ぜられる。
伊藤長官が長官室に向かう。
14:23 大和、沈没(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。
14:23 伊藤中将の戦死により第1遊撃部隊指揮権を先任指揮官の古村少将が承継(この時点で漂流中)。
14:40 アメリカ軍の攻撃が終了。
16:39 作戦中止が下命される。
16:57 霞、沈没(砲雷撃により処分)。
17:42 初霜が古村少将(第2水雷戦隊司令官)を救助。
22:40 磯風、雪風の砲雷撃により処分。
4月8日 冬月、雪風、初霜及び涼月が佐世保軍港に帰投。

その後に与えた影響[編集]

大和の沈没により、第二艦隊は作戦を中止し帰投した。第二水雷戦隊の戦闘詳報は、事前の打ち合わせもなく急遽決定した特攻作戦を厳しく批判している[191]。「軍艦大和戦闘詳報」には、「戦況逼迫せる場合は兎に角焦燥感にかられ、計画準備に余裕なきを常とするも、特攻兵器は別として、今後残存駆逐艦等を以てこの種の特攻作戦に成功を期せんが為には慎重に計画を進め、事前の準備を可及的綿密に行うの要あり。『思いつき』作戦は精鋭部隊(艦船)をもみすみす徒死せしむるに過ぎず」との記載がある[192]。矢矧に乗艦していた機関参謀は、戦後「世に不沈艦なるものなし。事前の準備なくして戦勝非ず」と述懐した[193]太平洋戦争を通じて大和と関わった宇垣中将は、「戦藻録」で『嗚呼!』と嘆き『全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る所無き無暴の挙と云はずとして何ぞや』と記して日本海軍上層部を批判している[194]。大和の沖縄突入は天候や航路の選定、各隊の協力および中央と現地の意志疎通が図られていれば可能だったとみられるが『佐世保回航も突然なら、特攻の指令も突然であり、その間に関連した方策の指示など聞いていない。これでは作戦が成立するはずもなく』(第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将)であった[195]。なお4月9日から11日まで沖縄周辺は低気圧に覆われており、大和が特攻するならこの時期であった[196]。7月3日、小沢連合艦隊司令長官は『沖縄海上特攻艦隊ハ昭和二十年四月初旬、海上特攻隊トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ帝国海軍ノ伝統ト、我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揮シ、艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士、皇国護持ノ大義ニ殉ズ。報国ノ至誠心肝ヲ貫キ忠烈万世ニ燦タリ。仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス』という感状を授与した[197]

後にこの海戦は、日本海軍の水上戦闘艦艇の壊滅と終焉を意味するものとして広く認識されている。鈴木貫太郎首相は、大和沈没8時間後の親任式でこの情報を聞き、内閣全員が降伏を現実のものとして受け止めたという[198]。これ以降、水上部隊による攻撃作戦は極度の燃料不足のために行われず、長門(4月20日に予備艦となる)を筆頭に伊勢、日向、榛名など残存主力艦は海軍の方針により浮砲台として係留された。その後、アメリカ艦載機による空襲で長門を除き大破着底し、長門も7月末の爆撃後に武装を主砲以外全て陸上に移設しほぼ戦闘能力を失った。坊ノ岬作戦に参加する事も計画された長門と軽巡酒匂は戦後にアメリカ軍に引き渡された後、核実験クロスロード作戦)でビキニ環礁において原爆実験により沈没した。

坊ノ岬沖海戦を題材とした作品[編集]

文学[編集]

映画[編集]

テレビ[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • 『どこに眠る戦艦大和』(NHK 1980年) - 当時大和の沈没位置は不明であった。そのため、磁気探知により海底の巨大な鋼鉄を発見したが、テレビカメラによる探査は天候悪化のため行えなかった[199]

ドラマ[編集]

脚注[編集]

  1. ^ #大和と日本人204-205頁
  2. ^ #海の武将148頁、#秋元記録234頁
  3. ^ #大和と武蔵246頁
  4. ^ #秋元記録234頁
  5. ^ #原/吉田満13頁「作戦準備 特攻作戦策定責任の所在 軍令部作戦課野村実大尉の証言」
  6. ^ #第2水雷詳報(1)pp.59-60、#第2水雷詳報(3)p.7
  7. ^ #第2水雷詳報(1)p.64、#第2水雷詳報(2)p.4、#大和と日本人206頁
  8. ^ #原/吉田満17頁
  9. ^ #蝦名 特攻機387-388頁、#原/吉田満18頁
  10. ^ a b #第2水雷詳報(1)p.74
  11. ^ #原/吉田満16頁
  12. ^ #阿部特攻129頁
  13. ^ #第2水雷詳報(2)pp.5,65-66、#大和と日本人206頁
  14. ^ #大和と武蔵248頁
  15. ^ #原/吉田満22頁
  16. ^ #大和 艦長289頁、#阿部特攻40頁
  17. ^ #矢矧海戦記339頁、#栗原証言96頁
  18. ^ #証言田口57頁、「第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)」p.9、#第2水雷詳報(1)p.75
  19. ^ #証言田口58-59頁、#第2水雷詳報(1)p.75
  20. ^ #戦藻録(九版)486頁、#大和と武蔵245頁
  21. ^ #第2水雷詳報(2)p.6、#阿部特攻21頁
  22. ^ a b c #第2水雷詳報(2)p.6
  23. ^ a b c #第2水雷詳報(2)p.7
  24. ^ #阿部特攻21頁、#海の武将150頁
  25. ^ 『日本連合艦隊』成美堂書刊、#海の武将81頁
  26. ^ #原/吉田満57頁。小沢(防衛庁戦史)談、大前敏一(軍令部参謀)談。
  27. ^ #大和と日本人209頁
  28. ^ #スパー運命113-114頁
  29. ^ #大和と日本人208頁
  30. ^ #原真相135-136頁、#大和と日本人208頁
  31. ^ #草鹿回想355頁
  32. ^ #原真相137頁
  33. ^ 『海軍中将 中澤佑』142頁
  34. ^ #原真相136頁
  35. ^ a b #第2水雷詳報(1)p.77
  36. ^ #第2水雷詳報(3)p.12-13
  37. ^ #第2水雷詳報(3)p.14-15
  38. ^ #スパー運命129頁
  39. ^ #スパー運命127頁
  40. ^ #スパー運命128頁
  41. ^ #阿部特攻33-35頁、#原/吉田満58頁
  42. ^ #栗原証言63頁、#戦藻録(九版)486頁、#草鹿回想355頁
  43. ^ #原/吉田満63頁
  44. ^ #原/吉田満26-27頁、#栗原証言71-72頁
  45. ^ #スパー運命123-124頁、#原/吉田満36-41頁
  46. ^ #千早インタビュー55頁
  47. ^ #栗原証言74-75頁、#スパー運命125頁
  48. ^ #阿部特攻27頁、中尾大三(中尉、高射砲長付)は「特に目につくような言動もなく」としている。
  49. ^ #スパー運命173頁
  50. ^ #大和に捧ぐ85頁、石田恒夫(伊藤副官)談。
  51. ^ #海の武将82頁、#阿部特攻78頁
  52. ^ #阿部特攻78頁
  53. ^ #海の武将83頁
  54. ^ #阿部特攻79頁、#田口証言113頁
  55. ^ #海の武将151頁
  56. ^ #第2水雷詳報(1)p.77、#海の武将84頁
  57. ^ a b #第2水雷詳報(2)p.12
  58. ^ #海の武将84頁、#原/吉田満43-44頁、小林儀作(連合艦隊機関参謀)談。
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文献[編集]

主要文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030566400「昭和20年4月6日~昭20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報」
    • Ref.C08030749900「軍艦矢矧艦歴等 (附機関参謀大迫吉二氏沈没当時の回想記)」
    • Ref.C08030103000 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
    • Ref.C08030103100 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
    • Ref.C08030103200 『昭和20年2月1日~昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
    • Ref.C08030147700「昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(8)」
    • Ref.C08030147800「昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)」

参考文献[編集]

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  • 倉橋友二郎 『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』 徳間書店、1967年6月。 著者は涼月砲術長として本海戦に参加。
  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
  • 鈴木明山本明 『秘録・謀略宣伝ビラ 太平洋戦争の"紙の爆弾"』 講談社、1977年12月。
  • 草鹿龍之介 『連合艦隊参謀長の回想』 光和堂、1979年ISBN 4-87538-039-9
  • 古村啓蔵回想録刊行会編 『海の武将-古村啓蔵回想録』 原書房、1982年2月。ISBN 4-562-01216-1
  • 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫、1983年) ISBN 4-16-730603-4
  • 猪瀬直樹監修 『目撃者が語る昭和史 ミッドウェー海戦から玉砕戦へ 第7巻 太平洋戦争II』 新人物往来社、1989年9月。ISBN 4-404-01657-3
    • 当時第二艦隊参謀長・元海軍少将 森下信衛「帝国海軍最後の突撃」
  • 宮川正ほか 『証言昭和の戦記*リバイバル戦記コレクション憤怒をこめて絶望の海を渡れ』 光人社、1990年ISBN 4-7698-0497-0
    • 宮川正『憤怒をこめて絶望の海を渡れ "不死鳥"の異名をとった駆逐艦「響」激闘一代記
    • 田口康生(雪風航海長/砲術長)『愛しの「雪風」わが忘れざる駆逐艦海の真剣勝負に勝ちぬいた曳航の武勲艦の記録
  • 立花譲 『帝国海軍士官になった日系二世』 築地書館、1994年 坊の岬海戦当時「矢矧」通信士官。
  • 千早正隆 『元連合艦隊参謀の太平洋戦争 千早正隆インタビュー 東京ブックレット17』 東京新聞出版局、1995年8月。ISBN 4-8083-0544-5 千早は本海戦時の連合艦隊参謀。他、候補生退艦者のインタビュー収録。
  • 外山三郎 『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2 著者は海軍少佐、防衛大学教授等。
  • 生出寿 『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官』 光人社NF文庫、1996年
  • 池田清 『最後の巡洋艦・矢矧』 新人物往来社、1998年ISBN 4404026927
  • 坪井平次 『戦艦大和の最後 元戦艦大和高角砲員』 光人社、1999年ISBN 4-7698-0195-5
  • 井上理二 『駆逐艦磯風と三人の特年兵』 光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2C0095。
  • テレビ朝日出版部編 『戦艦大和 海底探査全記録』、1999年ISBN 4-88131-236-7
  • 駆逐艦雪風手記編集委員会 『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』 駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。
  • 蝦名賢造 『最後の特攻機 覆面の総指揮官 宇垣纏』 中央公論新社、2000年7月。ISBN 4-12-203677-1
  • 大井篤 『海上護衛戦』 学研M文庫、2001年ISBN 4-05-901040-5
  • 吉田俊雄 『大和と武蔵 その歴史的意味を問い直す』 PHP研究所、2004年8月。ISBN 4-569-63462-1
  • 戸高一成 『戦艦大和に捧ぐ』 PHP研究所2007年
  • 永沢道雄 『戦艦大和と日本人 戦艦大和とは日本人にとって何なのか』 光人社、2007年8月。ISBN 978-4-7698-1354-5
  • 秋元健治 『戦艦大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録』 現代書館、2008年ISBN 978-4-7684-6976-7
  • 手塚正己 『軍艦武藏 下巻』 新潮文庫、2009年
    下巻(2009年版)に駆逐艦「浜風」沈没時の情況と証言を掲載。
  • 井川聡 『軍艦「矢矧」海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争』 光人社、2010年ISBN 978-4-7698-1479-5

外部リンク[編集]