芙蓉部隊

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芙蓉部隊(前2列目中央無帽の人物が美濃部)

芙蓉部隊(ふようぶたい)とは太平洋戦争末期における、日本海軍第131航空隊所属の3個飛行隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)の通称である。関東海軍航空隊の指揮下にあったが、実質的に131空所属の美濃部正少佐が指揮を取っていた。芙蓉部隊は戦闘機隊とはいえ、沖縄方面の敵飛行場・艦船に対する爆撃、機動部隊に対する索敵を主体とし、特攻が主体になっていた当時において、夜襲戦法を用いて活躍した。

特徴[ソースを編集]

芙蓉部隊の作戦思想は「夜間戦闘機といえども対大型機局地邀撃に非ずして専ら侵攻企図を有せるものなり」であった。芙蓉部隊は夜間戦闘機(丙戦)における戦闘目的として「夜間特に黎明期銃爆撃に依り敵制空隊の漸減」を有し、基地航空部隊と機動部隊を目標にして訓練していたが、機動部隊に対して実施する機会は一度もなかった[1]

芙蓉部隊では夜間攻撃のために特別な訓練を行った。昼夜逆転生活を取り入れ、作戦の主体である夜間に身体をならすため「猫日課」と称して昼夜を逆転させた。午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食として、電灯使用を制限して夜目の強化を促した。夜間洋上航法訓練では、黎明-薄暮-夜間の順で定点着陸訓練から、太平洋へ出ての洋上航法通信訓練を行った。時間と燃料が十分にないため、指揮所に基地の立体模型を作って夜間の進入経路を覚えさせ、図上演習を繰り返し実施した。薄暮・夜間飛行訓練を行うときは可能な限り見学させ、「飛ばない飛行訓練」に努めて練度向上をはかった。座学も重視して、飛行作業の合間に講義が頻繁に行われた。特に雨天時は搭乗員を集めて集中的な講義を実施した。講義の内容は航法、通信、夜間の艦艇の見え方、攻撃方法などの戦術、飛行機の構造、機材等についてであった。芙蓉部隊が犠牲を伴いながらも攻撃を継続できたのは、藤枝基地という後方基地に置いて新人を訓練して、随時要員を交代させるというシステムを確立していたからであった[2]。パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功した。

芙蓉部隊の整備員、兵器員も零戦は90%、彗星は80%の出動可能態勢を維持していた[3]

芙蓉部隊は、当時持て余されていた急降下爆撃機彗星一二型を集めて活用している。彗星一二型は、ダイムラー・ベンツ社製水冷エンジンDB601Aをライセンス生産した当時最新鋭のエンジンであったアツタ32型を採用していた。このエンジンは希少資源や最新工作機械設備が整わなかった日本においては生産・運用の面で手に余る代物であり、量産化の目処が立たず生産は遅れ、少数配備されても水冷エンジンに不慣れな整備員の経験不足もあって続出するエンジントラブルを解消できず、その稼働率は著しく低かった。このため、打開策として空冷型の金星62型エンジンに換装された彗星三三型が量産されると、稼働率が低く戦力にならなかった彗星一二型は第一線の艦上爆撃機部隊の運用から外されることとなった。ただし彗星一二型の基本性能は高く、高速での夜間飛行も難なくこなしたため、そこに目をつけた美濃部少佐はさっそく自らの部隊で運用を開始した。美濃部少佐は、扱いの難しい水冷型アツタ32型エンジン整備のため徳倉大尉以下の整備担当者を製造元の愛知航空機へ派遣するなど彗星の整備方法を習熟させ、稼動率を彗星80%、零戦90%にまで上昇させた。徳倉大尉らは、廃棄される予定だった彗星の残骸から部品を取り、新しく彗星を作ることもした。結果、満足に一定の機体を揃える事が出来ない日本の中では突出した存在になっていた。

武装でも対地・対空用の仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)や、空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した。三式一番二八号爆弾(ロケット弾)に至っては、制式採用前の時点で、「暴発の危険性がある」との造兵側の意見にも関わらず、「特攻まで出るこの時期、ある程度の危険は仕方ない」として部隊に導入している。

芙蓉部隊は、基本的に空戦は行わないために斜銃は使用せず、代わりに翼下に「三式一番二八号爆弾(ロケット弾)」4発を装備して基地、艦船への攻撃に使った。本来空戦用に作られたものだが、河原政則中尉によれば「爆弾は当てにくいが、これはよく当たった」という[4]

部隊の名称には富士山の別名“芙蓉峰”からとった芙蓉隊(のちに芙蓉部隊)が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐自身が命名したものであるが、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将の揮毫による隊旗まで作られた。最初は愛称のようなものだったが、菊水作戦に加わる頃には夜間攻撃を主とする部隊として知られるようになっていた[5]

歴史[ソースを編集]

編成まで[ソースを編集]

芙蓉部隊の着想は、1944年1月938空の零式水上偵察機が1機で夜間にニュージョージア島の米軍飛行場への爆撃に成功したことで、飛行隊長美濃部正が夜間襲撃のアイデアを得たことに始まる。すぐに美濃部は夜襲を司令部に提案して、トラック基地で部隊訓練を始めた。だが同年2月17日のトラック島空襲により機材が失われて計画は頓挫した。

1944年(昭和19年)2月、美濃部が軍令部零戦の補給を要望しに行った際、水上機部隊に零戦を補給することは認められなかったが、軍令部航空部員源田実中佐は美濃部の考えを支持し、代わりに零戦の新しい飛行隊を編成して、美濃部がその飛行隊長になれと言って取り計らってくれた[6]。美濃部によればその時源田中佐に「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言、夜襲飛行隊として艦隊所属の夜間戦闘機隊が編成されたのは、それ以降の事であるという[7]

美濃部の希望通り、分隊長をはじめ水上機搭乗員を主体にした戦闘316飛行隊(零戦装備)が編成されたが、所属先である301空の八木勝利司令に防空で消耗された。302空で再建を開始。司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアに理解を示した。戦闘901飛行隊の飛行隊長として153空に異動して9月から比島方面で活動する。同じ153空の夜間戦闘機部隊である戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊とともに活動していたが、戦果が上がらないまま、損害が続出して、戦闘901は消耗で内地での再建を余儀なくされた。752空に異動して1944年11月15日内地に帰還したが、752空はすでに4つの飛行隊を抱え、攻撃機による夜襲部隊の再建中であるため、美濃部の戦闘機による夜襲には通じていないということもあり、比島再進出のための再建は131空で行うこととなった。

藤枝基地[ソースを編集]

芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山

部隊再建のための飛行場を探していた美濃部は藤枝基地を訓練根拠地に決めた。部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材は、零戦を装備、また美濃部は銀河が少数しかそろわないことを知り、数がそろう彗星を希望した。美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された[8]。こうして、1945年1月、戦闘804(彗星一二型)、812(彗星一二型)、901(彗星一二型、零戦五二型)の3個飛行隊と整備隊を統合した独立飛行隊が編成され、関東海軍航空隊の指揮下に入った。編制上の指揮官は関東空司令であったが、実質的な指揮官は美濃部となった。整備隊は131空整備班と関東空整備班で編制。2月1日比島から帰還した戦闘804(北東空)、812(131空)が比島より帰還して合流[9]。 芙蓉部隊編成当初の装備は、彗星12型40機、零戦52型30機[10]

1945年2月17日の出撃で美濃部は部下に特攻を指示して、別盃が交わされている。本土に来襲する機動部隊に対して用意された「未明に索敵機が空母を発見すると、位置を通報した後、飛行甲板に体当たりして発艦を不能として攻撃力を奪う。その後の夜明け時、索敵機の知らせた地点に到着した第二波以降が通常攻撃を反復する」という戦法だった。鞭杲則少尉の記憶では「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」という命令で、搭載機の破壊、また突入による火災で位置を知らせるという戦法だった。どちらにしろ必死の特攻を前提とした戦法だったが、この時に敵は見つからなかった為、特攻攻撃は無かった[11]

彗星を主体にした特攻部隊で消耗があり、同じ彗星装備の芙蓉部隊が第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻配置になるという噂が流れたが、美濃部は「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と否定して部隊には安心感が漂った[12]

1945年3月15日戦闘804が131空に編入[13]

沖縄戦[ソースを編集]

1945年3月、沖縄戦が開始された。この戦いに於ける日本軍上層部の航空運用方針はただ一つ、「特攻による敵水上部隊への打撃」であった。

沖縄戦に先立つ2月4日、軍令部総長官邸にて研究会が開かれ、沖縄周辺に来攻することが予想されるアメリカ軍機動部隊の攻撃に対する話し合いがなされた。この時点で日本軍の航空兵力は不足しており、実用機と同時に練習機を特攻に加える案が提出される。このときの幹部の発言において「行けばたいてい命中す」「練習生が練習機で特攻をやる方法の研究を要す」「『白菊』多数あり。これが戦力化を要す」との意見があった。これを下敷きに、2月中旬には練習航空隊から特攻部隊を編成する案がまとまった。攻撃力の主体を特攻に依存し、さらに練習機を投入すれば、航空戦力として計算できる機数は激増した。2月下旬の段階では、特攻は実施にほぼ決定されていた。

1945年2月下旬、木更津基地において、三航艦司令部は擁する9個航空隊の幹部を招集して沖縄戦の研究会を実施した。軍令部の方針で練習機の投入などが決まっており、三航艦は特攻を主体とするという説明があった。研究会に参加していた美濃部は、劣速の練習機を投入しても敵戦闘機の多重の防御陣を突破することは不可能であると反論した。意外な反論を受けたある参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけたが、美濃部は「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と反駁したという[14]

3月30日と31日、部隊は鹿児島県鹿屋基地へ進出した。

4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始する。

4月6日、菊水一号作戦では、午前3時鹿屋を出撃、彗星6機と零戦4機が沖縄本島に到達する。作戦行程は往復1,400km以上の飛行(レーダーをごまかすなどの途中変針などを含めれば1,700km程度)が要求されるもので、さらに往路は暗闇であった。黎明に嘉手納海岸周辺の輸送船巡洋艦を攻撃、仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)の命中と銃撃成功を報告している。未帰還機は出撃15機中2機。

4月12日、菊水二号作戦では、アメリカ軍に占領された嘉手納飛行場の攻撃に出撃、滑走路の爆撃には成功したが出撃16機出中9機喪失。さらに未明から早朝にかけて索敵に従事し、レーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”の攻撃を受けるも全機生還。

4月16日、菊水三号作戦では、アメリカ軍に占領された嘉手納の中飛行場、読谷村の北飛行場の攻撃に出撃。午前4時20分、滑走路を銃撃し250kg爆弾を投下。未帰還1機。

沖縄戦の半月間でパイロットの1/3を失った部隊に彗星12機、零戦4機が補充され、熟練整備員10名も追加される。

4月20日、部隊編制上の指揮官が一三一空司令となる[15]。4月20日から26日にかけて延べ38機を索敵に出撃させているが、うち故障で引き返した機体は2機のみ。また、菊水四号作戦までに15機補充される。

1945年、アメリカ軍が夜間爆撃に対して行った、読谷飛行場の対空防御砲火。

4月27日からの菊水四号作戦では、部隊は主力を務めた。27日夜から28日早朝にかけ、第一次から第六次までの波状攻撃を行った。出撃機数は35機。午後7時34分出撃した第一次攻撃隊彗星3機中2機が北飛行場に250kg爆弾を投下し全機生還。第二次攻撃隊零戦2機は艦船を銃撃、1機未帰還。第三次攻撃隊は4機中3機が引き返した。単機攻撃を続行した彗星は中飛行場を爆撃するが、被弾して鹿児島湾に不時着し乗員は生還した。第四次攻撃隊は午後10時から8機出撃、敵夜戦の警戒を突破した5機が中飛行場、北飛行場、伊江島飛行場を爆撃、1機未帰還。第五次攻撃隊零戦6機は午前0時25分出撃。1機は引き返したものの慶良間列島で舟艇を銃撃し、飛行艇を撃破し、未帰還が1機。第六次攻撃隊彗星12機中10機が攻撃目標の飛行場に光電管爆弾と250kg爆弾を投下、未帰還は2機。

4月28日夜にも三次にわたり17機が出撃している。うち彗星4機は不調により引き返した。一次攻撃隊は爆撃に成功し全機生還、第二次攻撃隊零戦4機中2機が未帰還。第三次攻撃隊の彗星は1機が被弾し不時着した。4月29日から30日の夜襲では、おびき出した敵夜戦の燃料切れを狙って飛行場を攻撃した。出撃した14機は欺瞞紙を撒いたのち9機が突入した。沖縄上空は煙霧が漂い視界不良だったものの投弾、彗星1機が北飛行場を爆撃したほか、零戦が空母を攻撃した。

菊水五号作戦では5月3日から出撃を開始した。三次に分けて18機出撃したものの連日の作戦による酷使、被弾損傷がたたり、発進中止と引き返しが多発した。沖縄本島に到達した8機は銃爆撃に成功し、未帰還は1機。5月5日0時の出撃は悪天候のため14機中10機が引き返したが、彗星4機が北飛行場と伊江島飛行場を爆撃、未帰還は1機。7日未明には7機が出撃、北飛行場への25番三号爆弾の投下に成功し全機生還した。

菊水六号作戦では、5月8日に予定されていた出撃は悪天候のため中止された。5月10日は彗星2機が北飛行場滑走路を爆撃し全機生還。5月11日、天候不良をついて彗星3機が飛行場を攻撃し1発命中。5月12日は種子島、屋久島の南に配置されたレーダーピケット艦の索敵攻撃を実施した。彗星が駆逐艦のかわりに敵潜水艦を発見して爆撃した。搭乗員は多量の油が浮くのを確認、おおむね撃沈確実と報告している。さらに敵夜戦が出現し、空母が接近していると考えられたため、11機を索敵と攻撃に出撃させた。しかし、F6F夜戦の迎撃により彗星1機が未帰還、さらに1機が墜落事故を起こして大破した。翌日も空母攻撃を企図して索敵を行うが、夜戦に阻まれ1機が撃墜された。

その後も攻撃は継続するが、アメリカ軍が夜襲部隊への対策としてF6F夜戦を配備したため攻撃の継続は困難になり、また鹿屋が激しい攻撃を受けるようになったため、5月中旬に鹿児島県の岩川基地に移動した。さらに零戦6機と彗星15機が補充された。岩川基地は、滑走路に昼間のあいだ牛を放牧したり、移動式の小屋を設置して牧場に見せかける等の徹底したカモフラージュをしていた為、一度も空襲を受けず、部隊は敵機の攻撃による機材の消耗を免れることができた。さらに機体は着陸後ガソリンを抜き、林の中に引き込んだ上、樹枝で偽装を施した。

芙蓉部隊は菊水七号作戦に参加、5月25日の未明に出撃し、機動部隊の索敵と攻撃に当たった。270キロ~560キロの索敵線を設定したうえで夜間進出したものの、この出撃では敵を発見できず、全機生還した。5月27日未明には対潜掃討を実施。零戦が敵潜水艦を発見し銃撃した。機位を失ったと思われる彗星1機が未帰還となっている。

菊水八号作戦は5月27日から開始された。28日、悪天候を押して芙蓉部隊の彗星2機が沖縄に到達、1機が三十一号光電管爆弾を北飛行場に投下、全機生還した。5月31日、部隊は後方の藤枝基地から彗星9機と零戦2機の補充を受け、戦力は彗星37機、零戦16機となった。

6月以降は沖縄が梅雨に入り、悪天候のため菊水九号作戦は6月7日まで延期された。6月8日未明、部隊は彗星10機で伊江島飛行場を爆撃、悪天候をついて4機が突入し250kg爆弾を投下。三か所に火の手が上がり、燃料集積所に命中したと推定されるほど激しく炎上した。6月9日には彗星10機中6機が到達、敵夜戦の追及をかわして光電管爆弾を投下した。誘爆を確認したものの、彗星2機が未帰還となった。6月10日夜、夜間制空に7機が出撃、うち1機の彗星夜戦(一二戊型)が米軍の夜戦P-61“ブラックウィドー”を発見した。反航戦で撃ちあった後に離脱し、同航戦に持ち込んだのち、斜め銃による撃墜を報告した。この出撃では1機大破、1機が未帰還となった。

6月21日、菊水十号作戦が発動され、部隊は16機を出撃させた。沖縄上空は一面雲が張り詰める悪天候であり、雲上からの爆撃を余儀なくされた。この攻撃では1機が不時着し、2機が未帰還となった。6月22日、菊水作戦は終了した。

沖縄戦後[ソースを編集]

沖縄戦後も芙蓉部隊の沖縄に対する夜間爆撃は続行された。

6月25日、白菊と零式観測機が行う夜間特攻の援護のため芙蓉部隊は出撃。14機が敵夜戦哨戒、各飛行場の陽動攻撃に従事した。このうち5機の彗星が光電管爆弾と60kg爆弾を飛行場に投下し、夜戦の追尾を振り切って全機生還した。

芙蓉部隊は天候の悪化が一段落した7月3日午前1時、彗星14機で対夜戦哨戒と伊江島飛行場爆撃を実施した。しかしこの攻撃は敵夜戦に阻まれ、2機が未帰還となった。7月4日と5日に対夜戦攻撃を実施、会敵するも戦果を得なかった。また撃墜される機が少なかったのは、高速で蛇行、急降下する日本機を追うにはP61は大柄すぎて機動力に欠け、F6Fは1人の操縦手がレーダー操作と操縦と照準を兼ねて飛行するには負担が多すぎたためである。

7月15日夜に悪天候を冒して6機が出撃したが会敵せず、18日に10機が出撃するも、夜戦と故障、悪天候に阻まれ、3機のみが沖縄に到達した。うち北飛行場へ光電管爆弾を投下した彗星は、2か所の炎上確認を報告した。この攻撃では彗星2機が未帰還となった。23日と25日に潜水艦攻撃を実施。出撃した零戦が潜水艦を発見、銃撃を加えて小破を報告した。

7月23日、第五航空艦隊司令官宇垣纏中将が視察に訪れる。特攻を主戦法としていた宇垣だが、基地の巧みな秘匿状況に感心し、芙蓉部隊の活躍を褒め、美濃部の統率も高く評価している[16]。美濃部は夜間戦闘機の活用を宇垣に訴え、宇垣も「同意を表する所なり」としているが[17]、もはや日本軍の戦力は枯渇していた。

7月28日、芙蓉部隊は29機を投入し、北飛行場と伊江島飛行場爆撃、敵夜戦哨戒、潜水艦攻撃を実施した。爆撃任務14機のうち、敵夜戦の哨戒をすり抜けた彗星4機が投弾に成功、光電管爆弾を滑走路に命中させて4か所の炎上を報告した。また全機が生還した。翌7月29日には14機で索敵と伊江島攻撃を実施し、この出撃では1機が洋上に不時着し、1機が着陸時に大破した。

8月中の芙蓉部隊の出撃記録は残っていないが、悪天候でなければ沖縄飛行場攻撃、対潜掃討、索敵に十数機を出撃させていた。鹿児島に進行中の敵重爆4機編隊を発見した彗星が、25番の三号爆弾を投下、重爆3機の撃墜を報告している。8月8日に彗星2機が失われた。12日と14日にも沖縄飛行場爆撃が実施された。14日夜の出撃で彗星1機が未帰還となった。

戦争末期、美濃部は決号作戦本土決戦)に備えて、特攻による最終出撃に加わる24機分の編成表を作り上げた。搭乗割には主立った士官、准士官、夜襲に熟練した下士官・兵搭乗員の名を書きこんだ。空中指揮は美濃部自身がとるつもりだった。この特攻は「敵は上陸前に、必ず機動部隊の猛攻を加えてくる。まず、爆装の索敵攻撃隊を出して敵艦隊を捕捉する。その通報を受けてやはり爆装の攻撃隊が発進し、爆弾を海面でスキップさせて敵艦の舷側にぶつける肉薄の反跳爆撃を敢行したのち、全弾を撃ちつくして艦艇に突入。空母がいて甲板上に飛行機がならんでいれば、滑りこんで誘爆で破壊する」「基地に残った地上員からも決死隊を選択し、穴を掘って爆弾とともに入る。敵の陸上部隊が迫ってきたら残った施設に火を放ち、敵を安心させて呼びこんだところで、穴の中の決死隊が各自、爆弾の信管を叩いて大爆発を起こし、戦車や歩兵をまきぞえにする。そのほかの大多数の若い隊員は、基地を離れて一般市民にまぎれこみ、自分で運命を切り開いていく」という作戦だった[18]

1945年8月15日、芙蓉部隊は終戦を迎えた。隊員は終戦に納得せずに抗戦の意気を見せたが、艦隊司令部で美濃部は井上成美大将になだめられ、部下を説得するように言われた。美濃部は基地に帰ると隊員に部隊は陛下のものであると説得し、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と言ってなだめた[19]。その後、美濃部から「日本もまたいつか復興することもあるかもしれない。その時はまたここで会おう」という訓示が行われた[20]。美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可した。この飛行機による復員で、美濃部は後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」と釈明し不問となっている。

芙蓉部隊は終戦までに、出撃回数81回延べ786機が出撃、未帰還機43機、死者103名、戦死者は89名。総合戦果は、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破、飛行場大火災6回、空母群発見4回、敵機夜戦2機撃墜を報告している[21]

戦後[ソースを編集]

芙蓉部隊の練成基地であった「藤枝基地」は「静浜基地」と改名され、航空自衛隊の初級操縦教育を行っている。1980年基地内に、元芙蓉部隊隊員一同により芙蓉部隊記念碑が建立された(1996年に黒御影石にて再建)。芙蓉の名は今も第11飛行教育団第2飛行教育隊のコールサイン「FUYO」として受け継がれている[22]

テレビ愛知では2005年5月、放送ドキュメンタリー『芙蓉部隊、特攻せず ~戦後60年目の証言~』を放送。同年6月にはテレビ東京でも放送された。劇団グーフィー&メリーゴーランドでは、芙蓉部隊をテーマにした作品『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』を定期的に上演しており、静岡新聞南日本新聞では複数に渡り、同作品の公演記事を掲載。2007年8月にはNHK鹿児島放送局で特集番組が組まれた。

落語家桂竹丸鹿屋市出身)は「飛ばなかった特攻隊~岩川基地」と題した新作落語を披露している。

脚注[ソースを編集]

  1. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  2. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/fuyo.html
  3. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/fuyo.html
  4. ^ 渡辺洋二『日本本土防空戦』徳間書店240頁
  5. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/fuyo.html
  6. ^ 『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』39-40頁
  7. ^ 柳田邦男『零戦よもやま物語』光人社214頁
  8. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫60-62頁
  9. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  10. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/fuyo.html
  11. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫82-83頁
  12. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫86頁
  13. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  14. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫104-108頁
  15. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  16. ^ #戦藻録(九版)541頁
  17. ^ #戦藻録(九版)542頁
  18. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫267頁
  19. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫278頁
  20. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫280頁
  21. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/fuyo.html
  22. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/fuyo.html

参考文献[ソースを編集]

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
  • 渡辺洋二『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』(光人社NF文庫、2008年新装版) ISBN 978-4-7698-2404-6
  • 神坂次郎『特攻 若者たちへの鎮魂歌』(PHP文庫、2006年) ISBN 4-569-66657-4
  • 芸文社『マスターモデラーズ』Vol.10  「美濃部正少佐と海軍芙蓉部隊」
  • プレジデント社『プレジデント』1992年8月号  保阪正康「反骨の指揮官 「我が部隊特攻せず」」

外部リンク[ソースを編集]