芙蓉部隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
芙蓉部隊(前2列目中央無帽の人物が美濃部)

芙蓉部隊(ふようぶたい)とは太平洋戦争末期における、日本海軍第131航空隊所属の3個飛行隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)の通称である。関東海軍航空隊の指揮下にあったが、実質的に131空所属の美濃部正少佐が指揮を取っていた。芙蓉部隊は戦闘機隊とはいえ、沖縄方面の敵飛行場・艦船に対する爆撃、機動部隊に対する索敵を主体とし、特攻が主体になっていた当時において、夜襲戦法を用いて活躍した。

特徴[編集]

芙蓉部隊の作戦思想は「夜間戦闘機といえども対大型機局地邀撃に非ずして専ら侵攻企図を有せるものなり」であった。芙蓉部隊は夜間戦闘機(丙戦)における戦闘目的として「夜間特に黎明期銃爆撃に依り敵制空隊の漸減」を有し、基地航空部隊と機動部隊を目標にして訓練していたが、機動部隊に対して実施する機会は一度もなかった[1]

芙蓉部隊では夜間攻撃のために特別な訓練を行った。昼夜逆転生活を取り入れ、作戦の主体である夜間に身体をならすため「猫日課」と称して昼夜を逆転させた。午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食として、電灯使用を制限して夜目の強化を促した。夜間洋上航法訓練では、黎明-薄暮-夜間の順で定点着陸訓練から、太平洋へ出ての洋上航法通信訓練を行った。時間と燃料が十分にないため、指揮所に基地の立体模型を作って夜間の進入経路を覚えさせ、図上演習を繰り返し実施した。薄暮・夜間飛行訓練を行うときは可能な限り見学させ、「飛ばない飛行訓練」に努めて練度向上をはかった。座学も重視して、飛行作業の合間に講義が頻繁に行われた。特に雨天時は搭乗員を集めて集中的な講義を実施した。講義の内容は航法、通信、夜間の艦艇の見え方、攻撃方法などの戦術、飛行機の構造、機材等についてであった。芙蓉部隊が犠牲を伴いながらも攻撃を継続できたのは、藤枝基地という後方基地に置いて新人を訓練して、随時要員を交代させるというシステムを確立していたからであった[2]。パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功した。

芙蓉部隊の整備員、兵器員も零戦は90%、彗星は80%の出動可能態勢を維持していた[3]

芙蓉部隊は、当時持て余されていた急降下爆撃機彗星一二型を集めて活用している。彗星一二型は、ダイムラー・ベンツ社製水冷エンジンDB601Aをライセンス生産した当時最新鋭のエンジンであったアツタ32型を採用していた。このエンジンは希少資源や最新工作機械設備が整わなかった日本においては生産・運用の面で手に余る代物であり、量産化の目処が立たず生産は遅れ、少数配備されても水冷エンジンに不慣れな整備員の経験不足もあって続出するエンジントラブルを解消できず、その稼働率は著しく低かった。このため、打開策として空冷型の金星62型エンジンに換装された彗星三三型が量産されると、稼働率が低く戦力にならなかった彗星一二型は第一線の艦上爆撃機部隊の運用から外されることとなった。ただし彗星一二型の基本性能は高く、高速での夜間飛行も難なくこなしたため、そこに目をつけた美濃部少佐はさっそく自らの部隊で運用を開始した。美濃部少佐は、扱いの難しい水冷型アツタ32型エンジン整備のため徳倉大尉以下の整備担当者を製造元の愛知航空機へ派遣するなど彗星の整備方法を習熟させ、稼動率を彗星80%、零戦90%にまで上昇させた。徳倉大尉らは、廃棄される予定だった彗星の残骸から部品を取り、新しく彗星を作ることもした。結果、満足に一定の機体を揃える事が出来ない日本の中では突出した存在になっていた。美濃部も機体の調子に常に気を配っており、芙蓉部隊隊員に「ちょっとでも身体の具合が悪いか、機材不調なら帰ってこい。なんど引き返してもいい」と常々言っており、決して無理はさせなかった一方で、ある日にエンジン不調という理由で帰ってきた機のエンジン音を聞き、美濃部は正常と判断すると、一度帰還した搭乗員を夜明け前の空に再び送り込んでいる。その搭乗員は任務を終えて無事に帰還することができたが、後に「あのときほど指揮官(美濃部)がうらめしく、怖かったことはない」と述べているなど厳しさも見せている[4]

武装でも対地・対空用の仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)や、空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した。三式一番二八号爆弾(ロケット弾)に至っては、制式採用前の時点で、「暴発の危険性がある」との造兵側の意見にも関わらず、「特攻まで出るこの時期、ある程度の危険は仕方ない」として部隊に導入している。

芙蓉部隊は、基本的に空戦は行わないために斜銃は使用せず、代わりに翼下に「三式一番二八号爆弾(ロケット弾)」4発を装備して基地、艦船への攻撃に使った。本来空戦用に作られたものだが、河原政則中尉によれば「爆弾は当てにくいが、これはよく当たった」という[5]

部隊の名称には富士山の別名“芙蓉峰”からとった芙蓉隊(のちに芙蓉部隊)が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐自身が命名したものであるが、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将の揮毫による隊旗まで作られた。最初は愛称のようなものだったが、菊水作戦に加わる頃には夜間攻撃を主とする部隊として知られるようになっていた[6]

歴史[編集]

編成まで[編集]

芙蓉部隊の着想は、1944年1月938空の零式水上偵察機が1機で夜間にニュージョージア島の米軍飛行場への爆撃に成功したことで、飛行隊長美濃部正が夜間襲撃のアイデアを得たことに始まる。すぐに美濃部は夜襲を司令部に提案して、トラック基地で部隊訓練を始めた。だが同年2月17日のトラック島空襲により機材が失われて計画は頓挫した。

1944年(昭和19年)2月、美濃部が軍令部零戦の補給を要望しに行った際、水上機部隊に零戦を補給することは認められなかったが、軍令部航空部員源田実中佐は美濃部の考えを支持し、代わりに零戦の新しい飛行隊を編成して、美濃部がその飛行隊長になれと言って取り計らってくれた[7]。美濃部によればその時源田中佐に「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言、夜襲飛行隊として艦隊所属の夜間戦闘機隊が編成されたのは、それ以降の事であるという[8]

美濃部の希望通り、分隊長をはじめ水上機搭乗員を主体にした戦闘316飛行隊(零戦装備)が編成されたが、所属先である301空の八木勝利司令に防空で消耗された。302空で再建を開始。司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアに理解を示した。戦闘901飛行隊の飛行隊長として153空に異動して9月から比島方面で活動する。同じ153空の夜間戦闘機部隊である戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊とともに活動していたが、戦果が上がらないまま、損害が続出して、戦闘901は消耗で内地での再建を余儀なくされた。752空に異動して1944年11月15日内地に帰還したが、752空はすでに4つの飛行隊を抱え、攻撃機による夜襲部隊の再建中であるため、美濃部の戦闘機による夜襲には通じていないということもあり、比島再進出のための再建は131空で行うこととなった。

藤枝基地[編集]

芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山

部隊再建のための飛行場を探していた美濃部は藤枝基地を訓練根拠地に決めた。部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材は、零戦を装備、また美濃部は銀河が少数しかそろわないことを知り、数がそろう彗星を希望した。美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された[9]。こうして、1945年1月、戦闘804(彗星一二型)、812(彗星一二型)、901(彗星一二型、零戦五二型)の3個飛行隊と整備隊を統合した独立飛行隊が編成され、関東海軍航空隊の指揮下に入った。編制上の指揮官は関東空司令であったが、実質的な指揮官は美濃部となった。整備隊は131空整備班と関東空整備班で編制。2月1日比島から帰還した戦闘804(北東空)、812(131空)が比島より帰還して合流[10] 芙蓉部隊編成当初の装備は、彗星12型40機、零戦52型30機[11]。美濃部は藤枝基地で、芙蓉部隊隊員に徹底した夜間飛行訓練を行い、やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、往復約1,700㎞、約5時間にも及ぶ夜間飛行が可能となるまで鍛え上げた[12]。美濃部は訓練中に、「貴様ら、うまくやれないと、特攻隊に入れるぞ」と隊員に激を飛ばすこともあった[13]

2月4日、軍令部総長官邸にて研究会が開かれ、沖縄周辺に来攻することが予想されるアメリカ軍機動部隊の攻撃に対する話し合いがなされた。この時点で日本軍の航空兵力は不足しており、実用機と同時に練習機を特攻に加える案が提出される。このときの幹部の発言において、正攻法の爆撃や雷撃が殆ど命中していないことが説明されて、「この点で命中率のよい特攻を採るべきものと思う」「16隻の空母を攻撃するに約200機の特攻を要す」「練習生が練習機で特攻をやる方法の研究を要す」「『白菊』多数あり。これが戦力化を要す」との意見があった。これを下敷きに、2月中旬には練習航空隊から特攻部隊を編成する案がまとまった。攻撃力の主体を特攻に依存し、さらに練習機を投入すれば、航空戦力として計算できる機数は激増した。2月下旬の段階では、特攻は実施にほぼ決定されていた[14]

1945年2月下旬、木更津基地において、三航艦司令部は擁する9個航空隊の幹部を招集して沖縄戦の研究会を実施した。軍令部の方針で練習機の投入などが決まっており、三航艦は特攻を主体とするという説明があった。研究会に参加していた美濃部は、劣速の練習機を投入しても敵戦闘機の多重の防御陣を突破することは不可能であると反論した。意外な反論を受けたある参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけたが、美濃部は「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と反駁したという[15]

ただ、この会議については、開催したのは三航艦司令部ではなく連合艦隊であり、連合艦隊からの「いよいよ決定的段階に至ったので、次期作戦には実用機と練習機とを問わず、あげて全て特攻作戦に参加せしめる」との提示に対し、他の航空隊指揮官が反感を抱きつつも概ね支持していたが、美濃部だけが「当芙蓉部隊においても、死を恐れる搭乗員は一人もいません。しかし、一命をなげうって国に殉ずるためには、それだけの目的と意義を有する作戦に参加して死に甲斐のある戦い方をしたいと考えています。ところが、特攻作戦の実態は、敵の上空に到達する見通しすらつかないような若年搭乗員に未熟な攻撃を行わせ、必ずしも死に値する戦果をあげていないように思われます。これでは無駄な死であって有効な攻撃にならない。単なる精神力の空念仏では勝利を得ることも出来ず、心から喜んで前線に出撃することは出来ないのです。同じ死ぬなら有効な攻撃ができるという確算のある作戦計画を樹立していただきたい」と意見を述べた[16]。この会議には、台湾で特攻を推進していた神風特別攻撃隊の創始者である一航艦司令長官大西瀧治郎中将も出席していたが、大西は美濃部の意見を聞くと「美濃部少佐、君はここにいる指揮官のなかでは一番若いように思われるが、その若い指揮官が特攻を忌避する態度を示すようでは、皇国の前途は案じられるがどうかね?」と訊ねたのに対し[17]、美濃部が「いや、長官。私は特攻を拒否すると言っているのではありません。特攻の命令が下ればいつでも部下を出します、しかし、現在わが芙蓉部隊の現況をみるに、古い搭乗員は着艦訓練もとっくに終わり、夜間航法、夜間攻撃も可能です。しかし、若い搭乗員は、鹿児島から沖縄へゆく航法もろくに出来ない程度です。指揮官としては、ベテラン搭乗員は予定通り、夜間の進攻制圧と特攻の直援に使用し、若い搭乗員は今しばらく腕を磨かせたいと思うのです。」と要望している。その要望に対し連合艦隊参謀長の草鹿龍之介は納得したが、すでに部下を特攻に出していた航空隊指揮官らの反感のあるなかで、直属の上司となる三航艦司令長官寺岡も美濃部を支持したため、芙蓉部隊は美濃部の主張通り、特攻に参加せず、通常航空作戦に従事することとなった[18]。以上の通り、出典によって会議の出席者、美濃部の主張内容、主張した相手方が異なる。

硫黄島の戦い[編集]

木更津での会議で特攻を拒否した美濃部であったが、硫黄島の戦いで侵攻してきたアメリカ軍機動部隊を迎撃するため、1945年2月17日の出撃で美濃部は部下に特攻を指示して、別盃が交わされている。本土に来襲する機動部隊に対して用意された「未明に索敵機が空母を発見すると、位置を通報した後、飛行甲板に体当たりして発艦を不能として攻撃力を奪う。その後の夜明け時、索敵機の知らせた地点に到着した第二波以降が通常攻撃を反復する」という戦法だった。鞭杲則少尉の記憶では「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」という命令で、搭載機の破壊、また突入による火災で位置を知らせるという戦法だった。どちらにしろ必死の特攻を前提とした戦法だったが、この時に敵は見つからなかった為、特攻攻撃は無かった[19]

侵攻してきたアメリカ軍機動部隊の艦載機の攻撃で、特攻出撃予定であった他の部隊の彗星の消耗が激しく、同じ彗星装備の芙蓉部隊が第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻配置になるという噂が流れ隊員らは動揺した。2月17日に特攻に等しい決死攻撃を命じた美濃部ではあったが「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と隊員らに言明し、部隊の雰囲気が明るくなった[20]。第二御盾隊は第六〇一海軍航空隊で編成されることとなり、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が硫黄島を支援するため、硫黄島に出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) 英語版も大破させ、護衛空母ルンガ・ポイントLST-477 英語版を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団からも確認できたため、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電している[21]梅津美治郎陸軍参謀総長及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇上奏し、昭和天皇は硫黄島に対する特攻による再攻撃を軍に求めたが、硫黄島への特攻は攻撃側の負担も大きいため、一度きりで終わった[22]

木更津基地での発言が、連合艦隊や三航艦の寺岡に好感を抱かせたのか、3月5日に美濃部は、最先任飛行隊長という立場で実質的に指揮官を務めていた3個飛行隊の飛行長に任じられた。飛行長の肩書がつくと、航空隊の飛行機と整備科の地上指揮をとれるので、これまでと比較すると格段に権限が強化されたことになった[23]

硫黄島の戦いがひと段落すると、アメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州地方の航空基地に攻撃をかけてきた。それを司令官宇垣纏中将率いる第五航空艦隊が迎撃し、激しい海空戦が繰り広げられた[24]。3月18日に開始されたこの九州沖航空戦で特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母フランクリンワスプが大破、エセックスが中破するなど多大な損害を被ったが、日本軍も初陣の特攻兵器桜花が全滅するなど航空兵力を激しく消耗した[25]。5航艦の稼働機数は作戦開始時の1/3以下の110機に激減しており、3航艦の支援なしには航空戦を戦えなくなっていた[26]。3航艦指揮下の芙蓉部隊にも索敵の任務が命じられ、3月18日から20日かけて彗星を索敵に出撃させたが、1機の彗星が未帰還で1機の彗星が離陸直後に墜落し4名の搭乗員を失っている[27]

沖縄戦[編集]

1945年3月26日、連合軍が慶良間諸島に上陸を開始し、沖縄戦が開始された。この戦いに於ける日本軍上層部の航空運用方針はただ一つ、「特攻による敵水上部隊への打撃」であった。

3月30日と31日、芙蓉部隊のうちで熟練した隊員らが、零戦15機と彗星25機に搭乗し、鹿児島県鹿屋基地へ進出した。引き続き訓練が必要な搭乗員らや予備戦力は藤枝基地に残り、4月に芙蓉部隊に着任した座光寺一好少佐が指揮をとることとなった[28]。訓練拠点を維持することにより、藤枝で鍛え上げられた搭乗員と前線で消耗した搭乗員とを随時交代させるという、当時の日本軍としては他に例を見ないシステムを確立することができた[29]

4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始すると、大本営は4月6日に菊水一号作戦を発令、芙蓉部隊は、午前3時鹿屋を出撃、彗星6機と零戦4機が沖縄本島に到達する。作戦行程は往復1,400km以上の飛行(レーダーをごまかすなどの途中変針などを含めれば1,700km程度)が要求されるもので、さらに往路は暗闇であった。黎明に嘉手納海岸周辺の輸送船巡洋艦を攻撃、仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)の命中と銃撃成功を報告している。(該当するアメリカ軍側被害報告はなし[注 1][30])未帰還機は出撃15機中2機。

芙蓉部隊の夜間攻撃に立ちはだかったF6Fの夜間戦闘機型F6F-3N。

アメリカ軍は沖縄本島上陸直後に、日本軍が設営した北飛行場と中飛行場(嘉手納飛行場)を確保すると、ただちに航空隊を展開した。菊水一号作戦中の4月8日には、アメリカ海兵隊の航空隊がF4Uコルセア3個航空隊とレーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”1個航空隊の合計109機の戦闘機を展開させて早速上空哨戒にあたらせてる。その後も順次航空戦力と対空火器の強化が進んでおり、芙蓉部隊を含む日本軍航空隊の最大の障害となりつつあった[31]。そのため大本営は沖縄に侵攻してきた艦船に加えて、アメリカ軍の航空基地も攻撃目標とし、4月12日に発令した菊水二号作戦では、芙蓉部隊は陸軍航空隊第6航空軍の重爆撃機と協力してアメリカ軍航空基地攻撃を命じられた。海軍航空隊の中で航空基地攻撃を命じられたのは芙蓉部隊だけであり、これ以降、芙蓉部隊の主要目標は海上の艦船から一転して地上の飛行場となった[32]

4月12日の出撃は、陸軍航空隊の四式重爆撃機8機による爆撃が成功した後で、迎撃のために出撃したF4UコルセアとF6F-5Nが待ち構えており、芙蓉部隊機は飛行場を攻撃することすらできず次々と撃墜された。飯田上飛曹の彗星が唯一、北飛行場への投弾に成功したが、美濃部が信頼していた名飛行隊長川畑栄一大尉の彗星もF4Uコルセアに撃墜されて、川畑が戦死するなど、6機が未帰還となり8名が戦死・行方不明となった[33]。しかし川畑機を操縦していた陶三郎飛曹長は墜落する彗星からパラシュート降下して無事であり、沖縄南部で住民に保護されていたが、終戦を聞くと捕虜にならないようにするため、増槽を改造して作った小舟で沖縄を脱出、1946年7月にかつての指揮官であった美濃部宅を訪れて美濃部を驚かせている[34]。他にも、帰還した1機が基地に辿りつけず海没、電波欺瞞紙散布任務に出撃した彗星2機も未帰還となり、この日、出撃した11機中(故障等で引き返した機は除く)生還した機はたった2機で9機を失ったが、これは芙蓉部隊の全作戦中で最大の損害となった。川畑を含む熟練搭乗員13名と彗星6機零戦3機を一度に失った芙蓉部隊は戦力が回復するまで、激しい損失を被る夜襲から、一時的に敵機動部隊の索敵を主任務とせざるを得なくなった[35]

4月16日、菊水三号作戦では、敵航空基地への夜間攻撃を行うこととなり、嘉手納の中飛行場、読谷村の北飛行場の攻撃に出撃したが、4月12日の大損害を教訓として、アメリカ軍の夜間戦闘機が待機していると推定される空域を大きく迂回し、午前4時20分、滑走路を銃撃し250kg爆弾を投下することに成功した。うち照沼光二中尉が搭乗した零戦は、機関砲弾が尽きるまで飛行場を銃撃したのちに撃墜されたが、未帰還は照沼機の1機のみであった[36]

沖縄戦の半月間でパイロットの1/3を失った部隊に彗星12機、零戦4機が補充され、熟練整備員10名も追加される。

4月20日、部隊編制上の指揮官が一三一空司令となる[37]。4月20日から26日にかけて延べ38機を索敵に出撃させているが、うち故障で引き返した機体は2機のみ。また、菊水四号作戦までに15機補充される。

4月27日からの菊水四号作戦では、敵空母部隊を目標としてきた海軍に対し輸送艦隊を目標としてきた陸軍の不満が高まってきたこともあり、海軍も空母部隊に固執せず、沖縄周辺の艦船とアメリカ軍航空基地を攻撃目標とすることとした。美濃部は戦力が補充された芙蓉部隊で、敵航空基地に全力攻撃をかけると第5航空艦隊司令部に宣言し、航空基地攻撃は芙蓉部隊が主力を務めることになった。27日夜から28日早朝にかけ、第一次から第六次までの波状攻撃を行った。これは逐次戦力をくり出して、一晩中、敵を休ませないという美濃部考案の戦法で『車がかり』戦法と名付けられた[38]

午後7時34分出撃した第一次攻撃隊彗星3機中2機が北飛行場に250kg爆弾を投下し全機生還。第二次攻撃隊零戦2機は艦船を銃撃、1機未帰還。第三次攻撃隊は4機中3機が引き返した。単機攻撃を続行した彗星は中飛行場を爆撃するが、被弾して鹿児島湾に不時着し乗員は生還した。第四次攻撃隊は午後10時から8機出撃、敵夜戦の警戒を突破した5機が中飛行場、北飛行場、伊江島飛行場を爆撃、1機未帰還。第五次攻撃隊零戦6機は午前0時25分出撃。1機は引き返したものの慶良間列島で舟艇を銃撃し、飛行艇を撃破し、未帰還が1機。第六次攻撃隊彗星12機中10機が攻撃目標の飛行場に光電管爆弾と250kg爆弾を投下、未帰還は2機。4月27日は合計35機が出撃し、彗星3機と零戦2機が未帰還となり黒川中尉ら9名が戦死した[39]。この損害は4月12日に次ぐ大きなものではあったが、殆ど目的の敵航空基地に攻撃すらできなかった4月12日と比べると、17機が爆撃・銃撃に成功したと報告しており、美濃部が考案した戦法が奏功した形となった[40]

4月28日夜にも三次にわたり17機が出撃している。うち彗星4機は不調により引き返した。一次攻撃隊は爆撃に成功し全機生還、第二次攻撃隊零戦4機中2機が未帰還。第三次攻撃隊の彗星は1機が被弾し不時着した。4月29日から30日の夜襲では、おびき出した敵夜戦の燃料切れを狙って飛行場を攻撃した。出撃した14機は欺瞞紙を撒いたのち9機が突入した。沖縄上空は煙霧が漂い視界不良だったものの投弾、彗星1機が北飛行場を爆撃したほか、零戦が空母を攻撃した(該当のアメリカ側空母の被害記録なし[30])。

菊水五号作戦では5月3日から出撃を開始した。三次に分けて18機出撃したものの連日の作戦による酷使、被弾損傷がたたり、発進中止と引き返しが多発した。沖縄本島に到達した8機は銃爆撃に成功し、未帰還は1機。5月5日0時の出撃は悪天候のため14機中10機が引き返したが、彗星4機が北飛行場と伊江島飛行場を爆撃、未帰還は1機。7日未明には7機が出撃、北飛行場への25番三号爆弾の投下に成功し全機生還した。

菊水六号作戦では、5月8日に予定されていた出撃は悪天候のため中止された。5月10日は彗星2機が北飛行場滑走路を爆撃し全機生還。5月11日、天候不良をついて彗星3機が飛行場を攻撃し1発命中。5月12日は種子島、屋久島の南に配置されたレーダーピケット艦の索敵攻撃を実施した。彗星が駆逐艦のかわりに敵潜水艦を発見して爆撃した。搭乗員は多量の油が浮くのを確認、おおむね撃沈確実と報告している。(該当のアメリカ側潜水艦の被害記録なし[30]

5月13日、旗艦の空母バンカーヒルが菊水六号作戦で出撃した特攻機により沈没寸前の深刻な損傷で脱落し、旗艦を空母エンタープライズへ移した第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将は、これ以上の特攻機による艦艇の損失を防ぐため、高速空母部隊を北上させて艦載機による九州の特攻機基地攻撃を行った[41]。エンタープライズには夜間戦闘機で編成されたVT(N)-90飛行隊が配備されており、エンタープライズから出撃した夜間戦闘機隊は夜通し日本軍航空基地周囲を哨戒飛行し、日本軍機を発見すると追い回したため[42]、芙蓉部隊の出撃は妨げられた。しかし、美濃部はかねてから考案していた、夜明け前に艦載機を発艦前の空母を襲撃し、艦載機を甲板上で撃破するといった作戦を実現する好機と考え、上空に張り付いているエンタープライズの夜間戦闘機の目を盗んで、偵察任務の彗星を6機を発進させることに成功した[43]。偵察任務の彗星のなかで甘利洋司少尉機が敵空母を発見したが、位置を打電した直後にF6Fに撃墜された。甘利はミッドウェー海戦で重巡洋艦利根零式水上偵察機4号機で「敵らしきもの10隻見ゆ」と敵機動部隊発見の打電をした偵察員であったが、戦争中に2度も「空母発見」の再重要電を送信し海中に没することとなった[44]。しかし、芙蓉部隊はこの貴重な情報を活かすことができず、爆装した彗星2機零戦3機を攻撃隊として再び夜間戦闘機の目を盗んで出撃させたが、彗星2機は発進後にF6F-5Nに発見され、2機とも追い回されて1機は不時着し大破した。零戦3機は無事に出撃できたが、敵空母に接触することができず空しく帰還している[45]

特攻機が命中した直後の空母エンタープライズ

第五航空艦隊司令官宇垣纏中将は、第58任務部隊を攻撃するため、5月14日黎明に500㎏爆弾を搭載した零戦の特攻機28機を出撃させたが、その中の6機が第58任務部隊を発見し突入した[46]。その中の富安俊助中尉操縦の零戦が、エンタープライズに雲を利用しながら巧みに接近し雲中から様子をうかがっていたが、エンタープライズが左に変針したのを確認すると、雲底から突如として現れ、曲技飛行のスプリットSマニューバで背面飛行のまま40~50度の急角度で急降下し飛行甲板上の前部エレベーターに突入した[47]。500㎏爆弾は5層の甲板を貫通し最下層で炸裂し、前部エレベーターの残骸は空中130mに吹き上げられた[48]。火災も発生したが弾薬や燃料の誘爆はなかったので13分後に鎮火した。しかし、エレベーター部分に大穴があき、飛行甲板は歪み、もはや飛行機の発着は不可能な程の深刻なダメージを被った為、16日に修理のためにアメリカに回航されそのまま終戦まで復帰することはなかった。ミッチャーはバンカーヒルに続いて旗艦エンタープライズを特攻で破壊されることとなり、旗艦を空母ランドルフへ移さざるを得なくなった[49]

エンタープライズの夜間戦闘機隊は特攻機に撃退されたが、芙蓉部隊の基地の鹿屋がB-29による爆撃や、P-51や艦載機による激しい攻撃を受け、整備員の戦死者がでるなど身動きがとりにくくなったため、芙蓉部隊は美濃部の発案で5月中旬に鹿児島県の岩川基地に移動した[50]。岩川基地周辺には、530町歩(約526ヘクタール)の広大な海軍用地があったが、そのうち400町歩を飛行場偽装と食糧増産を兼ねて農民に無償貸与している[51]。広大な農地の中に所在する飛行場に、日中は常に作業員10名ほどを配置して、滑走路に牛を放牧したり、移動式の小屋を設置したり、草を刈って滑走路に散布するなどの徹底したカモフラージュをしていた為、一度も空襲を受けず、部隊は敵機の攻撃による機材の消耗を免れることができた。さらに機体は着陸後ガソリンを抜き、林の中に引き込んだ上、樹枝で偽装を施した。付近の住民も協力的で、滑走路の偽装作業を積極的に手伝い、牛肉・鶏卵といった農作物を隊に届けて、食糧の自給自足の手助けをしている[52]

また、岩川基地には、美濃部が批判したとされる練習機白菊西条海軍航空隊)の特攻機も進出しているが、小型の零戦や彗星と比較するとひとまわり大きい白菊は秘匿困難で、まずは洞窟に秘匿したが落盤があったため、仕方なく地上に分散して配置している[53]。岩川基地に移動後、芙蓉部隊は零戦6機と彗星15機が補充され戦力も充実した。

菊水六号作戦までの芙蓉部隊を含む日本陸海軍航空機によるアメリカ軍航空基地に対する夜間攻撃は、時折り爆弾投下に成功する程度で、飛行場機能に支障をきたす様な損害を与えることはできていなかった[54]。この頃には、海兵隊は夜間戦闘機を含む戦闘航空隊15、爆撃航空隊2、アメリカ陸軍航空隊は、P-61“ブラックウィドー”を装備した夜間戦闘機隊を含む戦闘航空隊10、爆撃航空隊16を沖縄本島や伊江島の航空基地に進出させており、戦力は充実する一方であった[55]。海兵隊の夜間戦闘機を含む戦闘機部隊は、沖縄の航空基地から出撃すると、フランク(四式戦闘機)やジャック(雷電)などの日本軍新鋭機の護衛戦闘機を制しながら、多数の特攻機を撃墜していた[56]。打つ手のない日本軍は、特攻機桜花をアメリカ軍航空基地の滑走路に突入させ、大穴をあけて使用不能に追い込むといった奇策を講じ、桜花と母機の一式陸上攻撃機2機が出撃させたが、攻撃できずに帰還している[57]

大本営は、アメリカ軍航空基地の機能を一時的にも停止させて特攻の援護をするべく、5月24日に開始された菊水七号作戦では陸軍の義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦(義号作戦)を実施した。5機の九七式重爆撃機に分乗した空挺部隊が読谷飛行場に突入したが、アメリカ軍の激しい対空砲火に4機が撃墜され、残り1機が滑走路上に胴体着陸に成功した[58]。機体の中から10名~11名の完全武装の空挺隊員が飛び出してくると、滑走路上の航空機に手榴弾や爆雷を投げつけ、アメリカ軍守備隊と激しい銃撃戦を行なった[59]。空挺部隊は全員戦死したが、アメリカ軍も20名が死傷し、33機の航空機が完全撃破か損傷を受け、ドラム缶600本70,000ガロンの航空燃料が焼失し、飛行場は丸一日使用不能となった。陸軍の爆撃機は伊江島の飛行場も爆撃し、ここでも60名のアメリカ兵が死傷するなど大きな損害を与えている[60]

芙蓉部隊の新基地岩川からの初出撃は、陸軍航空隊の義烈空挺隊や爆撃機などがアメリカ軍航空基地に相応の打撃を与えた翌日の5月25日となった。空は曇天で夜間攻撃には絶好であり、敵機動部隊の索敵と攻撃のために彗星15機と零戦4機が屋久島南方200マイルに出撃した[61]。出撃前に、出撃する搭乗員らに別れの杯とぼたもちが出され、美濃部が発破をかけたが、初陣の搭乗員らはぼたもちに手を付ける気になれず出撃した[62]。しかし、この日は敵艦を発見することができず全機帰還することとなったが、夜明け前の着陸となったのにも関わらず初陣の搭乗員も含めて全機無事に着陸することができ、新基地岩川が十分使用できると実証できたのが収穫となった。翌5月27日未明には前夜に引き続き敵機動部隊への索敵攻撃と上空哨戒のほかに対潜掃討という多様な任務を帯びて彗星8機と零戦4機が出撃。機動部隊索敵攻撃の彗星は昨日に引き続き敵艦を発見できず帰還、その中で機位を失ったと思われる彗星1機が未帰還となった。潜水艦攻撃任務の零戦4機は、上田一飛曹の零戦が浮上中の敵潜水艦を発見、芙蓉部隊の零戦は爆装することはないため、上田は急速潜航する潜水艦に向けて九九式二〇ミリ機銃を撃ちこんだが、海中の潜水艦に対して機銃で致命傷を与えることは無理であり、海中深く潜航する潜水艦に対して打つ手はなかった[63]

菊水八号作戦は5月27日から開始された。28日、悪天候を押して芙蓉部隊の彗星2機が沖縄に到達、1機が三十一号光電管爆弾を北飛行場に投下、全機生還した。5月31日、部隊は後方の藤枝基地から彗星9機と零戦2機の補充を受け、戦力は彗星37機、零戦16機となった。

6月以降は沖縄が梅雨に入り、悪天候のため菊水九号作戦は6月7日まで延期された。6月8日未明、部隊は彗星10機で伊江島飛行場を爆撃、悪天候をついて4機が突入し250kg爆弾を投下。三か所に火の手が上がり、燃料集積所に命中したと推定されるほど激しく炎上した。6月9日には彗星10機中6機が到達、敵夜戦の追及をかわして光電管爆弾を投下した。誘爆を確認したものの、彗星2機が未帰還となった。6月10日夜、夜間制空に7機が出撃、うち1機の彗星夜戦(一二戊型)が米軍の夜戦P-61を発見した。反航戦で撃ちあった後に離脱し、同航戦に持ち込んだのち、斜銃による撃墜を報告した(アメリカ軍の記録では、同日のP-61損失は戦闘・非戦闘いずれもなし[64])。この出撃では1機大破、1機が未帰還となった。

6月21日、菊水十号作戦が発動され、部隊は16機を出撃させた。沖縄上空は一面雲が張り詰める悪天候であり、雲上からの爆撃を余儀なくされた。この攻撃では1機が不時着し、2機が未帰還となった。6月22日、菊水作戦は終了した。

沖縄戦後[編集]

フィリピンから沖縄に進出し芙蓉部隊とも戦った第548夜間戦闘機隊のP-61“レディオブザダーク”機、同機はアメリカ軍における第二次世界大戦最後の撃墜(陸軍の一式戦と二式単戦)をした機体

6月23日未明に、第32軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇中将が、沖縄南部の摩文仁の司令部壕内で自決し、沖縄における日本軍の組織的な抵抗は終わった[65]。3ヶ月間で特攻機1,895機[66]通常作戦機1,112機[67]を失った天号作戦は終わったが、小規模な特攻と芙蓉部隊の沖縄に対する夜間爆撃は続行された[68]

6月25日、白菊と零式観測機が行う夜間特攻の援護のため芙蓉部隊は出撃。特攻隊の突入を援護するため、14機が敵夜戦哨戒し各飛行場の陽動攻撃を行った。このうち5機の彗星が光電管爆弾と60kg爆弾を飛行場に投下し、海兵隊のF6Fと陸軍のP-61の夜間戦闘機数機が追尾してきたが、それらを振り切って全機生還することができた[69]。特攻機は不調により引き返した機を除き十数機が突入したが[70]、芙蓉部隊の陽動の甲斐なく戦果はなかった[71]

芙蓉部隊は天候の悪化が一段落した7月3日午前1時、彗星8機と護衛の零戦6機で対夜戦哨戒と伊江島飛行場爆撃を実施した。しかし、この時期になると各飛行場に海兵隊のF6F-5Nと陸軍のP-61が配備されており、芙蓉部隊の最大の障害は対空火器から夜間戦闘機になっていた。この攻撃も夜間戦闘機に阻まれて攻撃に失敗、彗星2機が未帰還となった。敵夜間戦闘機に苦戦する芙蓉部隊は7月4日と5日に夜間戦闘機制圧作戦を行うこととし、4日には彗星4機と零戦3機が、18試6番27号ロケット爆弾や28号ロケット爆弾といった、空対空爆弾である三号爆弾ロケット爆弾化した新兵器を装備し出撃したが、夜間戦闘機と遭遇することなく帰還した。翌5日には零戦3機は引き続き夜間戦闘機制圧に出撃したが、彗星4機は艦船攻撃任務のために斜銃を装備せずに出撃した。すると、皮肉にもP-61は艦船攻撃任務の彗星と遭遇し、彗星は艦船攻撃用に装備していた18試6番27号ロケット爆弾をP-61に発射し、戦果を確認できないままに退避した[72]。強力な火力と邀撃レーダーを装備するP-61の攻撃力は日本軍機を遥かに凌駕し、第418夜間戦闘機航空隊 英語版のメジャー.C.スミス少佐のようにP-61のみで5機の日本機を撃墜したエースもおり、日本軍機にとっては非常に難敵であったが[73]、芙蓉部隊機がP-61との遭遇回数に比して撃墜される機が少なかったのは、高速で蛇行、急降下し回避するなどの急機動を駆使したからであった[74]

7月15日夜に悪天候を冒して6機が出撃したが会敵せず、18日に10機が出撃するも、夜戦と故障、悪天候に阻まれ、3機のみが沖縄に到達した。うち北飛行場へ光電管爆弾を投下した彗星は、2か所の炎上確認を報告した。この攻撃では彗星2機が未帰還となった。23日と25日に潜水艦攻撃を実施。出撃した零戦が潜水艦を発見、銃撃を加えて小破を報告した(23日、25日両日に該当のアメリカ側潜水艦の被害記録なし[30])。

7月23日、第五航空艦隊司令官宇垣纏中将が岩川基地を視察に訪れる。白菊特攻隊の西条空司令土井大佐も西条空の半数の白菊(50機)を率いてこの地にあったが、宇垣は美濃部より基地の状況について説明を受けている[注 2][75]。宇垣は、基地の巧みな秘匿状況に感心し、芙蓉部隊の活躍を褒め、美濃部の統率も高く評価している一方で、中型機の白菊が地上に分散して置かれていることには懸念を示している[76]。美濃部は夜間戦闘機の活用を宇垣に訴えた。宇垣も昼間に制空権を確保できない現状を鑑み「同意を表する所なり」としている[77]。西条空の特攻隊員の一部の者は戦争の成り行きを憂いて、自分らが無駄死にになると、大酒を飲んで荒れる者もあったが、美濃部は自分の直接の部下ではない特攻隊員に対しても、その心を鎮めるために、「酒を飲んだり、暴れたりすることによって、安らかに死と対決することはできない。特攻と否とにかかわらず、我々は全員、死から逃れられない時期がやってきた」と話して聞かせている[78]。芙蓉部隊隊員は、西条空の特攻隊員らが酒に酔って寝ている時も座学や地上演習に勤しみ、士気は終戦まで極めて旺盛であった。隊の雰囲気も良好で笑いが絶えなかったという[79]

7月28日、芙蓉部隊は29機を投入し、北飛行場と伊江島飛行場爆撃、敵夜戦哨戒、潜水艦攻撃を実施した。爆撃任務14機のうち、敵夜戦の哨戒をすり抜けた彗星4機が投弾に成功、光電管爆弾を滑走路に命中させて4か所の炎上を報告した。また全機が生還した。翌7月29日には14機で索敵と伊江島攻撃を実施し、この出撃では1機が洋上に不時着し、1機が着陸時に大破した。

8月に入っても、芙蓉部隊は悪天候でなければ沖縄飛行場攻撃、対潜掃討、索敵に十数機を出撃させていた。日本上空を跳梁するアメリカ軍重爆撃機の迎撃もおこなっており、鹿児島から霧島方向に侵攻中のB-24 3機とPB4Y-2 1機の編隊を発見した彗星が、25番の三号爆弾を投下、重爆3機の撃墜を報告している。芙蓉部隊による重爆撃機の撃墜報告はこの一例のみとなった[80]。8月8日にはアメリカ軍航空基地攻撃に出撃した彗星のうちで、清水武明少尉・中野増雄の搭乗機が未帰還、深堀三郎上飛曹・浜名今朝二飛曹機は岩川まで帰還したが、霧のため着陸に失敗し台地に激突し、計2機の彗星が失われた[81]

芙蓉部隊の主要機「彗星」が爆撃する瞬間の連続写真、ただしこれは芙蓉部隊以外の機が1944年4月に空母レキシントン (CV-16)を攻撃したときのもの

戦争末期、美濃部は決号作戦本土決戦)に備えて、特攻による最終出撃に加わる24機分の編成表を作り上げた。搭乗割には主立った士官、准士官、夜襲に熟練した下士官・兵搭乗員の名を書きこんだ。空中指揮は美濃部自身がとるつもりだった。この特攻は「敵は上陸前に、必ず機動部隊の猛攻を加えてくる。まず、爆装の索敵攻撃隊を出して敵艦隊を捕捉する。その通報を受けてやはり爆装の攻撃隊が発進し、爆弾を海面でスキップさせて敵艦の舷側にぶつける肉薄の反跳爆撃を敢行したのち、全弾を撃ちつくして艦艇に突入。空母がいて甲板上に飛行機がならんでいれば、滑りこんで誘爆で破壊する」「基地に残った地上員からも決死隊を選択し、穴を掘って爆弾とともに入る。敵の陸上部隊が迫ってきたら残った施設に火を放ち、敵を安心させて呼びこんだところで、穴の中の決死隊が各自、爆弾の信管を叩いて大爆発を起こし、戦車や歩兵をまきぞえにする。そのほかの大多数の若い隊員は、基地を離れて一般市民にまぎれこみ、自分で運命を切り開いていく」という作戦だった[82]

8月12日には、芙蓉部隊ではないが、海軍航空隊第九三一海軍航空隊の天山4機が夕刻に出撃し、20時45分に、中城湾に停泊している戦艦ペンシルベニアに夜間攻撃をしかけて魚雷を命中させている。ペンシルベニアは艦尾に30フィートの大穴があき、上甲板に海面が迫る程大量に浸水し、3つのスクリューのうち2つが破壊されるという深刻な損傷を被った[83][84]。また20名の戦死者と10名の負傷者が出たが、負傷者の中には第1戦艦戦隊司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将も含まれていた[85]。的確なダメージ・コントロールで沈没は逃れたが、沖縄戦における通常攻撃機での夜間攻撃最大の戦果となった。芙蓉部隊も8月12日に藤井健三中尉と鈴木晃二上飛曹搭乗の彗星1機が伊江島飛行場を攻撃したが、すでに日本軍の夜間飛行場攻撃を脅威とは考えていなかったのか、伊江島飛行場は灯火管制も行わず、全面的に照明をともしており眩いばかりであった。藤井機は急降下して250㎏爆弾を投下したが、対空砲火すらまばらであった。8月14日にも4機の彗星が沖縄に出撃したが、雲が厚く、ようやく雲の切れ間を発見して降下すると、飛行場ではなく物資の揚陸地点であった。彗星は揚陸地点の物資の山に250㎏爆弾を投下し帰還したが、1機が未帰還であった。(未帰還機搭乗員の官姓名不明)この彗星が芙蓉部隊最後の未帰還機となった[86]

1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送を聞き、多くの兵士や国民は終戦を知った。玉音放送後、美濃部を評価してきた第5航空艦隊司令の宇垣が、中津留達雄大尉以下11機の彗星を連れて終戦後の私兵特攻に出撃し死亡した[87]。芙蓉部隊隊員は終戦に納得せずに抗戦の意気を見せ、美濃部も徹底抗戦を主張していた第三〇二海軍航空隊の小園に同調するつもりで、全軍に対して「302空が立つなら呼応する」という決起の打電をしたが、飛行隊長の徳倉正志大尉は美濃部を「(抗戦は)止めた方がいいですよ、もうアカンでしょう。」と諫めている[88]。藤枝基地の芙蓉部隊では、8月17日に302空の戦闘機が決起を促すビラを撒いていき、岩川の芙蓉部隊員同様に隊員らのなかに抗戦の空気が流れつつあったが、指揮官の座光寺はそんな隊員らの様子を見て、士官らを士官室に集めるや拳銃を上に向けて2~3発発射し「ともかく戦争に負けた。このさい軽挙妄動は禁物である。連合軍がどのような措置をとるかは分からないが、子孫にわれわれの精神を受け継がせよ。きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と訓示した。この座光寺の強い意志で、藤枝の芙蓉部隊隊員らは岩川の本隊より先に終戦を受け入れ、復員作業を開始している[89]

第五航空艦隊の司令官は宇垣が私兵特攻で死亡後、連合艦隊の会議で美濃部の特攻拒否の申し出に理解を示したことのある[90]前連合艦隊参謀長の草鹿が後任となったが、その草鹿は8月18日に艦隊司令部に美濃部ら航空隊指揮官を参集した。司令部には、血の気の多い前線指揮官を説得するため、東京から軍事審議官井上成美大将が派遣されており、美濃部は井上から直々に「芙蓉部隊は実によく戦った。それだけに今後の部隊統率も苦しかろうが、どうか早まったことをせず、隊員たちをなだめてもらいたい」と諭されると、美濃部も抗戦を諦めざるを得なくなった。美濃部は基地に帰ると隊員に部隊は陛下のものであると説得し、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と言ってなだめた[91]

8月20日には司令部から復員の命令が届いたが、進駐軍に対する不穏な行動を抑止するため、「24時間以内に基地から2㎞圏外に離脱し、隊員はすみやかに復員せよ」という急なものであった。公共交通機関は麻痺状態にあり命令は実現困難であったので、美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可した。司令部の許可もなく、アメリカ軍への機体引き渡しの際にひともめすることが懸念されたが、これが美濃部にできる隊員らへの唯一のはなむけであった[92]。部隊の飛行機による復員は、特攻機桜花などで特攻作戦を推進した第七二一海軍航空隊(通称神雷部隊)などでも行われており、既に軍の組織は崩壊し、軍の規律もないに等しいことを現していた[93]。 8月21日の朝に鹿屋に進出以来初めてとなる合同慰霊祭を開催、慰霊祭が終わった後で美濃部が最後の訓示を述べた。「この戦争は敗れた。だが10年たてば、ふたたび国を立てなおす可能性が出てくるかも知れない。この間、自重し、屈辱に耐えてがんばってもらいたい。10年ののち、ここにもう一度集まろう」、訓示の後、正午に零戦と彗星が引き出され発進準備を進めたが、皆がなかなか出発しようとしないなか、美濃部や残留者が「早くいけ」と急き立てた。美濃部は最後の1機が見えなくなるまで空に向けてゆっくりと帽子を振り続けた[94]

芙蓉部隊は終戦までに、出撃回数81回延べ786機が出撃、未帰還機43機、死者103名、戦死者は89名と特攻隊に参加せずと宣言しながら決して少なくはない損害を被った[95]。総合戦果は、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破[96](ただし沖縄戦でのアメリカ軍に通常航空攻撃による該当の被害記録なし[30])、空母群発見4回、敵機夜戦2機撃墜(うちP-61の1機は該当するアメリカ軍の損害記録なし[97])を報告している[98]

芙蓉部隊がもっとも力を注いだアメリカ軍航空基地への夜襲について、芙蓉部隊は飛行場大火災6回(伊江島飛行場では600機の航空機の大半を焼く)などの多大な戦果を挙げたと報じられているが[99][注 3][100]、アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』で伊江島飛行場がそのような大損害を被った記録はない[注 4][101][102]。また、芙蓉部隊について調査し『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』を執筆した作家の渡辺洋二はその著書で、「芙蓉部隊の連続夜襲がどの程度、米軍にダメージを与えたか判然としない」としながらも、沖縄戦当時、嘉手納飛行場で作戦に従事していたアメリカ海兵隊航空隊VMA-322 英語版の戦時日誌の、4月27日に嘉手納飛行場が日本軍の砲撃によりF4U が1機大破、他3機損傷したという記録を、日本陸軍の砲撃によるものではなく芙蓉部隊の戦果と類推し「芙蓉部隊と美濃部流戦法は確固たる足場を築くに至ったのだ」と評価しているが[103]、嘉手納飛行場の損害は、アメリカ海兵隊嘉手納基地の公式ウェブサイト上の記録でも「午前2時25分にカデナの飛行場が砲撃され、4つのテントが破壊され、海兵隊員1人が負傷した。砲撃は戦闘を妨害することはほとんどなかった。」と日本軍の砲撃による損害の記録のみであり[104]、伊江島飛行場と同様に、アメリカ軍の記録上で嘉手納飛行場に芙蓉部隊が打撃を与えたという記録は確認できない。また、アメリカ陸軍の公式戦史では、義烈空挺隊による損害以外で地上で撃破されたアメリカ軍航空機の記録はない[105]

結局、芙蓉部隊や陸軍の重爆撃機や義烈空挺隊などがアメリカ軍航空基地を攻撃し続けたが、飛行場機能に長期間支障をきたす様な打撃を与えることはできず、沖縄近海の連合軍艦船を攻撃した特攻機が、沖縄本島や伊江島から出撃した海兵隊や陸軍航空隊の戦闘機隊に多数撃墜された。嘉手納飛行場に配備されていた海兵隊の戦闘機隊は、特攻機を撃墜することにより多数のアメリカ兵の命を救ったとして『The Sweetheart of Okinawa(沖縄の恋人)』という愛称で呼ばれていたほどであった[106]。それでも沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[107]、その大部分は特攻による損害で[108]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなった[109]

戦後[編集]

美濃部が「10年後に集まろう」と呼びかけた岩川基地の跡地に、終戦後33年経過した1978年になって戦死した隊員を慰霊する「芙蓉之塔」が建立され、美濃部ら元隊員や関係者・遺族100名以上が集まって式典が開催された[110]。 芙蓉部隊の練成基地であった「藤枝基地」は「静浜基地」と改名され、航空自衛隊の初級操縦教育を行っている。1980年基地内に、元芙蓉部隊隊員一同により芙蓉部隊記念碑が建立された(1996年に黒御影石にて再建)。芙蓉の名は今も第11飛行教育団第2飛行教育隊のコールサイン「FUYO」として受け継がれている[111]

テレビ愛知では2005年5月、放送ドキュメンタリー『芙蓉部隊、特攻せず ~戦後60年目の証言~』を放送。同年6月にはテレビ東京でも放送された。劇団グーフィー&メリーゴーランドでは、芙蓉部隊をテーマにした作品『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』を定期的に上演しており、静岡新聞南日本新聞では複数に渡り、同作品の公演記事を掲載。2007年8月にはNHK鹿児島放送局で特集番組が組まれた。

落語家桂竹丸鹿屋市出身)は「飛ばなかった特攻隊~岩川基地」と題した新作落語を披露している。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同日に航空通常攻撃で損傷したのは、いずれも水平爆撃による駆逐艦タウシグ(DD-746)と高速掃海艇ハーディング(DMS-28)の2隻のみ
  2. ^ 宇垣は美濃部の名前を簑部と誤って書いている
  3. ^ ただし、芙蓉部隊戦闘詳報では、成果(戦果)の欄に4月12日、4月16日の2日のみ『大火災』の記述あり、時事通信社の記事が、飛行場大火災6回の記述について何を出典としたかは不明
  4. ^ 伊江島のアメリカ軍航空基地の損害がアメリカ陸軍の公式戦史に登場するのは、5月24日~5月25日の空襲により60名死傷者が出たという記録であるが、芙蓉部隊は5月24日は補充戦力到着で出撃なし、翌25日は未明から合計22機で機動部隊攻撃に出撃したが敵艦隊を発見できず帰還しているので芙蓉部隊の戦果ではない。

出典[編集]

  1. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  2. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  3. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  4. ^ 渡辺洋二 2003, p. 192
  5. ^ 渡辺洋二『日本本土防空戦』徳間書店240頁
  6. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  7. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 39-40
  8. ^ 柳田邦男『零戦よもやま物語』光人社214頁
  9. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 60-62
  10. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  11. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  12. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  13. ^ ウォーナー 1982a, p. 260
  14. ^ 渡辺洋二 2003, p. 101
  15. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 104-108
  16. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.626
  17. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.636
  18. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.645
  19. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 82-83
  20. ^ 渡辺洋二 2003, p. 86
  21. ^ ウォーナー 1982a, p. 348
  22. ^ 大島隆之 2016, 電子版, 位置No.2003
  23. ^ 渡辺洋二 2003, p. 110
  24. ^ ウォーナー 1982a, p. 360
  25. ^ 菅原 2015, p. 245
  26. ^ 渡辺洋二 2003, p. 121
  27. ^ 渡辺洋二 2003, p. 123
  28. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  29. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  30. ^ a b c d e U.S. Naval Chronology Of W.W.II, 1945” (英語). 2018年1月24日閲覧。
  31. ^ 渡辺洋二 2003, p. 152
  32. ^ 渡辺洋二 2003, p. 153
  33. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.766
  34. ^ 渡辺洋二 2003, p. 182
  35. ^ 渡辺洋二 2003, p. 159
  36. ^ 渡辺洋二 2003, p. 164
  37. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  38. ^ 渡辺洋二 2003, p. 179
  39. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.777
  40. ^ 渡辺洋二 2003, p. 182
  41. ^ 菅原 2015, p. 253
  42. ^ USS ENTERPRISE CV-6 The Most Decorated Ship Of The Second World War VT(N)-90 SQUADRON HISTORY - May 1945
  43. ^ 渡辺洋二 2003, p. 204
  44. ^ 渡辺洋二 2003, p. 206
  45. ^ 渡辺洋二 2003, p. 207
  46. ^ 宇垣 1953b, p. 239
  47. ^ 菅原 2015, p. 255
  48. ^ 原 2006, p. 228
  49. ^ 菅原 2015, p. 256
  50. ^ 渡辺洋二 2003, p. 208
  51. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  52. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.784
  53. ^ 宇垣纏 1953, p. 268
  54. ^ United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle (1947) , p. 362.
  55. ^ THE FINAL CAMPAIGN:Marines in the Victory on Okinawa(1996) , p. 24.
  56. ^ THE FINAL CAMPAIGN:Marines in the Victory on Okinawa(1996) , p. 24.
  57. ^ #戦藻録(九版)237頁
  58. ^ 米国陸軍省 1997, p. 398
  59. ^ ボールドウィン 1967, p. 433
  60. ^ 米国陸軍省 1997, p. 399
  61. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.797
  62. ^ 渡辺洋二 2003, p. 220
  63. ^ 渡辺洋二 2003, p. 222
  64. ^ Jeff Kolln 2008, p. 141
  65. ^ 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』, p. 437.
  66. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 179
  67. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 171
  68. ^ 渡辺洋二 2003, p. 244
  69. ^ 渡辺洋二 2003, p. 245
  70. ^ 宇垣纏 1953, p. 258
  71. ^ ウォーナー 1982b, pp. 294-359
  72. ^ 渡辺洋二 2003, p. 250
  73. ^ Wartime Service of Northrop P-61 Black Widow
  74. ^ 渡辺洋二 2003, p. 232
  75. ^ 宇垣纏 1953, p. 268
  76. ^ #戦藻録(九版)541頁
  77. ^ #戦藻録(九版)542頁
  78. ^ ウォーナー 1982b, p. 181
  79. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  80. ^ 渡辺洋二 2003, p. 269
  81. ^ 渡辺洋二 2003, p. 271
  82. ^ 渡辺洋二 2003, p. 267
  83. ^ NavSource Online: Battleship Photo ArchiveBB-38 USS PENNSYLVANIA
  84. ^ USS Pennsylvania, (BB-38)
  85. ^ Oldendorf, Jesse Bartlett (1887-1974)
  86. ^ 渡辺洋二 2003, p. 272
  87. ^ 豊田穣 1979, 電子版, 位置No.2923
  88. ^ 渡辺洋二 2003, p. 275
  89. ^ 渡辺洋二 2003, p. 276
  90. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.645
  91. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 278-280
  92. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 279
  93. ^ 最後の証言 2013, p. 43
  94. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 280
  95. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.797
  96. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  97. ^ Jeff Kolln 2008, p. 141
  98. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html
  99. ^ “「特攻拒否」貫いた芙蓉部隊”. 時事通信社. (2015年8月26日). https://www.jiji.com/jc/v4?id=fuyou201508a0001 2018年2月17日閲覧。 
  100. ^ アジア歴史センター「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日 第3航空艦隊131航空隊芙蓉部隊」
  101. ^ United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle (1947) , p. 362.
  102. ^ 渡辺洋二 2003, pp. 216-222
  103. ^ 渡辺洋二 2003, p. 191
  104. ^ The Sweetheart of Okinawa: Kadena's Corsair squadron
  105. ^ United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle (1947) , p. 489.
  106. ^ The Sweetheart of Okinawa: Kadena's Corsair squadron
  107. ^ アレン・ボーマー 1995, p. 147.
  108. ^ マッカーサー 1964, p. 356.
  109. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 100.
  110. ^ 豊田穣 1980, 電子版, 位置No.510
  111. ^ 航空自衛隊静浜基地 http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/sub/fuyo_rekishi.html

参考文献[編集]

  • 宇垣纏著、成瀬恭発行人 『戦藻録』 原書房、1968年
  • 宇垣纏著 『戦藻録後編』 日本出版協同、1953年ASIN B000JBADFW
  • 渡辺洋二 『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』 光人社〈光人社NF文庫〉、2003年ISBN 4769824041
  • 神坂次郎『特攻 若者たちへの鎮魂歌』(PHP文庫、2006年) ISBN 4-569-66657-4
  • 芸文社『マスターモデラーズ』Vol.10  「美濃部正少佐と海軍芙蓉部隊」
  • プレジデント社『プレジデント』1992年8月号  保阪正康「反骨の指揮官 「我が部隊特攻せず」」
  • 豊田穣 『海軍特別攻撃隊 特攻戦記』 集英社〈集英社文庫〉、1980年ASIN B00LG93LIM
  • 豊田穣 『出撃』 集英社〈集英社文庫〉、1979年ASIN B00LG93LA0
  • 菅原完 『知られざる太平洋戦争秘話 無名戦士たちの隠された史実を探る』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2015年ISBN 4769828829
  • 八原博通 『沖縄決戦 高級参謀の手記』 中公文庫プレミアム、2015年ISBN 4122061180
  • 米国陸軍省(編) 『沖縄:日米最後の戦闘』 外間正四郎(訳)、光人社、1997年ISBN 4769821522
  • 大島隆之 『特攻 なぜ拡大したのか』 幻冬舎2016年ISBN 978-4344029699
  • 特攻 最後の証言制作委員会 『特攻 最後の証言』 文藝春秋〈文春文庫〉、2013年ISBN 4167838893
  • ハンソン・ボールドウィン 『勝利と敗北 第二次世界大戦の記録』 木村忠雄(訳)、朝日新聞社、1967年ASIN B000JA83Y6
  • ダグラス・マッカーサー; 津島一夫 訳 『マッカーサー大戦回顧録』 中央公論新社〈中公文庫(改版)〉、2014年ISBN 9784122059771 
  • トーマス・アレン、ノーマン・ボーマー 『日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌』 栗山洋児(訳)、光人社、1995年ISBN 4769807236
  • 『JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡』 米国戦略爆撃調査団 編纂、大谷内和夫(訳)、光人社、1996年ISBN 4769807686
  • デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』上、時事通信社、1982aASIN B000J7NKMO
  • デニス・ウォーナー 『ドキュメント神風』下、時事通信社、1982bASIN B000J7NKMO
  • Kolln, Jeff (2008). Northrop's Night Hunter: The P-61 Black Widow. Specialty Pr Pub & Wholesalers. ISBN 978-1580071222. 
  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。

外部リンク[編集]