芙蓉部隊

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芙蓉部隊(前2列目中央無帽の人物が美濃部)

芙蓉部隊(ふようぶたい)とは太平洋戦争末期における、日本海軍第一三一航空隊所属の3個飛行隊(戦闘八〇四飛行隊、戦闘八一二飛行隊、戦闘九〇一飛行隊)の通称である。関東海軍航空隊の指揮下にあったが、実質的に一三一空所属の美濃部正少佐が指揮を取っていた。芙蓉部隊は戦闘機隊とはいえ、沖縄方面の敵飛行場・艦船に対する爆撃、機動部隊に対する索敵を主体とし、特攻が主体になっていた当時において、夜襲戦法を用いて活躍した。芙蓉部隊所属の搭乗員は、フヨウの花の色である薄紅色マフラーを着用していた[1]

特徴[編集]

芙蓉部隊の作戦思想は「夜間戦闘機といえども対大型機局地邀撃に非ずして専ら侵攻企図を有せるものなり」であった。芙蓉部隊は夜間戦闘機(丙戦)における戦闘目的として「夜間特に黎明期銃爆撃に依り敵制空隊の漸減」を有し、基地航空部隊と機動部隊を目標にして訓練していたが、指揮官の美濃部が最も拘りを持っていた敵機動部隊に対する夜襲は、何度もその機会に恵まれながらも実現させることはできず、その鍛えられた夜間攻撃能力は、特攻援護のための敵飛行場に対する夜襲で活用された[2]

芙蓉部隊では夜間攻撃のために特別な訓練を行った。昼夜逆転生活を取り入れ、作戦の主体である夜間に身体をならすため「猫日課」と称して昼夜を逆転させた。午前0時に起床、1時に朝食、6時に昼食、11時に夕食、午後4時に夜食として、電灯使用を制限して夜目の強化を促した。夜間洋上航法訓練では、黎明-薄暮-夜間の順で定点着陸訓練から、太平洋へ出ての洋上航法通信訓練を行った。時間と燃料が十分にないため、指揮所に基地の立体模型を作って夜間の進入経路を覚えさせ、図上演習を繰り返し実施した。薄暮・夜間飛行訓練を行うときは可能な限り見学させ、「飛ばない飛行訓練」に努めて練度向上をはかった。座学も重視して、飛行作業の合間に講義が頻繁に行われた。特に雨天時は搭乗員を集めて集中的な講義を実施した。講義の内容は航法、通信、夜間の艦艇の見え方、攻撃方法などの戦術、飛行機の構造、機材等についてであった。芙蓉部隊が犠牲を伴いながらも攻撃を継続できたのは、藤枝基地という後方基地に置いて新人を訓練して、随時要員を交代させるというシステムを確立していたからであった[3]。パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功した。

艦上爆撃機彗星11型

芙蓉部隊は、当時持て余されていた急降下爆撃機彗星一一型、一二型などの水冷エンジン搭載型を集めて活用している[4]。なかでも彗星一二型は、ダイムラー・ベンツ社製水冷エンジンDB601Aをライセンス生産した当時最新鋭のエンジンであったアツタ三二型を採用していた。このエンジンは希少資源や最新工作機械設備が整わなかった日本においては生産・運用の面で手に余る代物であり、量産化の目処が立たず生産は遅れ、少数配備されても水冷エンジンに不慣れな整備員の経験不足もあって続出するエンジントラブルを解消できず、その稼働率は著しく低かった。このため、打開策として空冷型の金星六二型エンジンに換装された彗星三三型が量産されると、稼働率が低く戦力にならなかった彗星一二型は第一線の艦上爆撃機部隊の運用から外されることとなった。ただし水冷エンジン型彗星の基本性能は高く、美濃部は夜間に敵の弾幕を突破するためには高速軽快な機体が必要と考えていたので、水冷エンジン型の彗星に白羽の矢を立てた。水冷エンジン型彗星の危険度は十分に認識していたが、少々の犠牲は覚悟のうえの選択であり、美濃部の懸念通り、事故により多数の犠牲者を出すこととなってしまった[5]

美濃部は、扱いの難しい水冷型アツタ三二型エンジン整備のため製造元の愛知航空機に自ら出向き、整備員に直接指導してもらうため、熟練技術者を藤枝に派遣してもらうよう工場長に直談判している。愛知航空機側も自分らが開発した彗星の悪評に忸怩たる思いを抱いており、美濃部の依頼に対して熟練技術者の派遣を快諾している[6]。異例の工場技術者による整備の直接指導により芙蓉部隊の整備員の技術は向上し、稼動率を彗星80%、零戦90%にまで上昇させた[7]。アメリカ軍は戦後の調査で、太平洋戦争末期の日本軍に対し「適切な整備・修理システムの開発に、日本空軍が失敗した」と評し、当時の前線での日本軍の航空機稼働率について、実際は50%以下であったと分析していたが[8]、このように、満足に一定の機体を揃える事が出来ない当時の日本軍の中で、整備力に優れていた芙蓉部隊は突出した存在になっていた。 美濃部も機体の調子に常に気を配っており、芙蓉部隊隊員に「ちょっとでも身体の具合が悪いか、機材不調なら帰ってこい。なんど引き返してもいい」と常々言っており、決して無理はさせなかった一方で、ある日にエンジン不調という理由で帰ってきた機のエンジン音を聞き、美濃部は正常と判断すると、一度帰還した搭乗員を夜明け前の空に再び送り込んでいる。その搭乗員は任務を終えて無事に帰還することができたが、後に「あのときほど指揮官(美濃部)がうらめしく、怖かったことはない」と述べているなど厳しさも見せている[9]

水冷エンジン型彗星に目を付けたのは美濃部だけでなく、美濃部より先に三〇二空司令の小園安名大佐が、水冷エンジン型彗星の爆撃機らしからぬ高速性能を買って、彗星の操縦席の後部に斜銃を装備させて夜間戦闘機に改造し、B-29の迎撃に投入している[10]。のちに芙蓉部隊でも敵夜間戦闘機対策で、三〇二空に倣って斜銃装備の夜間戦闘機型彗星を作戦に投入している[11]

使用した爆弾でも、ロケット噴射により推進するロケット弾の仮称三式一番二八号爆弾、爆発し傘上に破片を降らせるクラスター爆弾三号爆弾、内蔵されている光電管が地上20mまで落下すると、光電管から発射された電光が地上に反射し、それを信管が受信し空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した[12]。これらの新兵器はまだ信頼性が低く、美濃部から部隊配備の申し出を受けた海軍航空技術廠は「実験段階で安全管理方式に未解決点がある」と正式配備を渋ったが、美濃部は「特攻まで出しているときに何が安全管理だ。多少の危険は覚悟のうえだ。」と強引に部隊配備を認めさせている[13]。なかでも新兵器三式一番二八号爆弾を芙蓉部隊は多用し、基地、艦船、敵夜間戦闘機など多様な任務で使用している。本来空戦用に作られたものだが、芙蓉部隊の熟練搭乗員であった河原政則中尉によれば「爆弾は当てにくいが、これはよく当たった」という[14]。芙蓉部隊は二八号爆弾のなかでも、対潜水艦用に外殻を厚くし炸薬量を増量している改良型を使用したが、それでも炸薬量はわずか850グラムに過ぎず、命中箇所次第では小型艇に致命傷を与えることが期待できる程度の威力しかなかった[15]

部隊の名称には富士山の別名“芙蓉峰”からとった芙蓉隊(のちに芙蓉部隊)が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐自身が命名したものであるが、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将の揮毫による隊旗まで作られた。最初は愛称のようなものだったが、菊水作戦に加わる頃には夜間攻撃を主とする部隊として知られるようになっていた[16]

歴史[編集]

編成まで[編集]

芙蓉部隊の着想は、1944年1月九三八空の零式水上偵察機が1機で夜間にニュージョージア島の米軍飛行場への爆撃に成功したことで、飛行隊長美濃部正が夜間襲撃のアイデアを得たことに始まる。すぐに美濃部は夜襲を司令部に提案して、トラック基地で部隊訓練を始めた。だが同年2月17日のトラック島空襲により機材が失われて計画は頓挫した。

1944年(昭和19年)2月、美濃部が軍令部零戦の補給を要望しに行った際、水上機部隊に零戦を補給することは認められなかったが、軍令部航空部員源田実中佐は美濃部の考えを支持し、代わりに零戦の新しい飛行隊を編成して、美濃部がその飛行隊長になれと言って取り計らってくれた[17]。美濃部によればその時源田中佐に「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言、夜襲飛行隊として艦隊所属の夜間戦闘機隊が編成されたのは、それ以降の事であるという[18]

源田の指示で、美濃部の希望通り、分隊長をはじめ水上機搭乗員を主体にした戦闘三一六飛行隊(零戦装備)が編成された。配属機は最新鋭機の零戦五二型甲を優先的に55機を配分されることとなった[19]。美濃部は「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」という特攻戦術を考案し、戦闘三一六飛行隊で敵機動部隊に対して実践するつもりで[20]、5月のサイパン島進出に備えて、美濃部自ら陣頭指揮をとって猛訓練を実施した。しかし、所属先である第三〇一海軍航空隊の八木勝利司令は、戦闘機はあくまでも空戦に使用すべきとして譲らず、作戦方針の相違により美濃部はサイパン島進出前に戦闘三一六飛行隊長を更迭された[21]

夜間戦闘機「月光」。 操縦席の後方に突き出しているのが「斜銃」

その後、美濃部は1944年5月25日付で第三〇二海軍航空隊に異動となったが、司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアに理解を示し、斜銃を搭載した夜間戦闘機月光で編成された第2飛行隊長に任命された。月光隊にはラバウルで小園の下で活躍した遠藤幸男大尉が分隊長として所属しており[22]、美濃部は小園の理解と支援のもとで、月光隊を遠藤に任せると、自分は零戦による夜襲部隊の編制に着手した。しかしマリアナ沖海戦で日本軍が惨敗し、1944年7月9日にサイパン島の戦いで日本軍守備隊が全滅しサイパン島がアメリカ軍に占領されると、翌10日には在任わずか1か月半で、第一五三海軍航空隊の戦闘九〇一飛行隊飛行隊長に異動となり、1944年9月にはフィリピンに派遣され[23]、零戦と月光を擁してフィリピンの戦いで戦った。三〇二空の月光は斜銃を操縦席後部に装備し、敵爆撃機を迎撃する運用をされていたが、アメリカ軍の艦載戦闘機多数が徘徊していたフィリピンの戦場ではこの月光の運用法は通用しなかったので、美濃部は今まで温め続けてきた夜襲戦術で月光を運用しようと考えて、戦闘九〇一の月光は斜銃を機体下部に装備し、地上や艦船を攻撃させることとしている[24]。しかし、戦果が上がらないまま[注 1][25][26][27][28]、損害が続出して、戦闘九〇一は消耗で内地での再建を余儀なくされた。戦闘九〇一は戦力再建のため第七五二航空隊に編入され、1944年11月15日内地に帰還したが、七五二空は陸上攻撃機主体の航空隊ですでに4つの飛行隊を抱え、夜間戦闘機隊である九〇一は専門外となるため編入はあくまでも形式的なもので、司令の菊岡徳次郎大佐は戦闘九〇一に関心を持たず、部隊の再建は先任の飛行隊長である美濃部に一任された[29]

藤枝基地[編集]

芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山

木更津基地は七五二空の他の飛行隊で満杯であったため、戦闘九〇一は飛行場探しから始めなければならなかったが、美濃部は自ら零戦に乗り飛行場を探して回った結果、整備途中の藤枝基地を訓練根拠地に決め、所属する第三航空艦隊司令長官寺岡の許可もとった[30]。部隊再建のため、編成や機材などは軍令部作戦課と美濃部が直接交渉することとなった。機材は零戦20機がすんなりと配備されたが、他の機体については、美濃部が希望したフィリピンで使い慣れた夜間戦闘機月光は生産中止、新鋭爆撃機銀河は少数しか配備できないが、艦上爆撃機彗星なら100機は準備できるとのことであった。当時の彗星は水冷式エンジンの複雑な構造で整備員に毛嫌いされ、故障も多く「殺人機」と陰口を叩かれ、その高速性能を生かす機会も少ないまま、各飛行場に放置されていたが、美濃部はこの彗星を主力機とすることに決めた[31]。 美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の整備員などの地上人員も人事局から厚遇された[32]。1945年1月に、フィリピンより撤退してきた戦闘八〇四(北東空)、八一二(第一三一航空隊)が藤枝に合流し、美濃部率いる戦闘九〇一を含めた3個飛行隊と整備隊を統合した独立飛行隊が編成され、関東海軍航空隊の指揮下に入った[33]

編制上の指揮官は関東空司令であったが、3個飛行隊の飛行隊長の中で最先任であった美濃部が実質的な指揮官となり、戦闘八一二の飛行隊長徳倉正志大尉が美濃部の副官的な役割を担い、戦闘八〇四の飛行隊長川畑栄一大尉が空中指揮を執ることとした。部隊名は美濃部が藤枝を見つけた日に、搭乗する零戦から見た富士山を思い出し、海軍兵学校の歌『江田島健児の歌』の2番の歌詞にもある富士山の別名芙蓉峰に因んで芙蓉部隊と名づけることとした。この部隊名は初めは通称のようなものであったが、後に正式な部隊名として使用されることとなっている[34]。副官の徳倉は芙蓉部隊の部隊名が決まると『芙蓉部隊の歌』という歌を作っている[35]

芙蓉部隊編成当初の装備は、彗星一二型40機、零戦五二型30機[36]。美濃部は藤枝基地で、芙蓉部隊隊員に徹底した夜間飛行訓練を行い、やっと離着陸ができるようになった経験の浅い搭乗員でも、往復約1,700㎞、約5時間にも及ぶ夜間飛行が可能となるまで鍛え上げた[37]。美濃部は訓練中に、「貴様ら、うまくやれないと、特攻隊に入れるぞ」と隊員に激を飛ばすこともあった[38]。猛訓練の成果は顕著に表れ、例えば戦闘九〇一飛行隊で夜間作戦を支障なくこなす操縦技術を有するA級操縦員は、1月の段階では芙蓉部隊のなかで、戦闘九〇一の28名の操縦員中たった3名に過ぎなかったが[39]、3月には下表の通りで、日本海軍航空隊の優秀搭乗員を集めたとされる第三四三海軍航空隊に比肩する高い練度を誇るようになっていた[40]

A級操縦員数 全操縦員数 A級操縦員比率
芙蓉部隊 34名 126名 26.9%
(うち戦闘九〇一飛行隊のみ) 15名 52名 28.8%
第三四三航空隊(剣部隊) 54名 227名 23.7%
第一、三、五航空艦隊平均 15.8%

硫黄島の戦い[編集]

芙蓉部隊が藤枝で再編成と訓練に明け暮れていたころ、レイモンド・スプルーアンス中将が率いる硫黄島攻略部隊の艦船900隻、艦載機1,200機、兵士10万人が、ウルシーサイパン島から硫黄島に向けて進撃を開始した。スプルーアンスの指揮下にある高速空母部隊の第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将は、硫黄島上陸に先立ち奇襲により日本軍の航空戦力を叩こうと計画して(ジャンボリー作戦)、日本軍に発見されないよう、艦載機を先行させて日本軍の哨戒艇や偵察機を排除しながら25ノットの高速航行し、日本軍に気づかれることなく東京から125マイル(約200㎞)、房総半島から60マイル(約100㎞)まで接近に成功した[41]。1945年2月16日の夜明けに悪天候下で艦載機の発艦を強行したおかげもあり、完全に奇襲に成功したアメリカ軍の艦載機は、1日中東京上空を乱舞し航空基地や工場施設を存分に叩いて、ほとんど日本軍からの反撃を受けず、32機の損失に対して350機の日本軍機の撃墜破を報告している(日本側の記録では陸海軍で150機の損失)[42]。2月10日に第五航空艦隊司令長官に就任したばかりの宇垣纏中将は、敵大艦隊が出撃したという情報を掴んでいながら、第三航空艦隊の索敵の不首尾で、ドーリットル空襲以来の敵機動部隊の日本本土への接近と、奇襲を許して大損害を被ったことを激怒し「遺憾千万と云うべし」と陣中日誌『戦藻録』に記述している[43]。藤枝基地からも第三航空艦隊司令部からの命令で、一式陸上攻撃機1機と芙蓉部隊から川副正夫少尉の零戦が索敵に出撃しているが、どちらも未帰還となっており[44]、川副は芙蓉部隊初の戦死者となった[45]。同日には硫黄島に対する艦砲射撃も開始された[46]

空襲の後、第三航空艦隊は索敵により第58任務部隊を房総半島沖で発見、指揮下の航空隊に攻撃を命じ、錬成途中であった芙蓉部隊においても徹夜で出撃準備が行われた。芙蓉部隊の出撃は翌17日となったが、美濃部はかねてより温めてきた対機動部隊戦術「敵空母を発見したら、飛行甲板に体当たりして搭載機の破壊と発艦の阻止、そして火炎で味方機に敵空母の位置を知らせる」という特攻戦術を実践する好機と考えて、この日出撃した内の1人鞭杲則少尉に「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしている[47]。河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと、特攻は本人の志願という建前であったのにも関わらず[48]、志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿の中にあり、美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者に「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じている。河原らは美濃部と基地司令の市川大佐とひとりひとり握手を交わして決死の出撃をしたが、敵艦隊を発見できずに引き返した[49]。引き返した芙蓉部隊機はアメリカ軍のF6F戦闘機とSB2C艦上爆撃機に追尾されており、芙蓉部隊機が着陸した直後に激しい爆撃と機銃掃射を加えてきた。爆弾や燃料を搭載したままであった彗星や零戦は次々と爆発炎上し、芙蓉部隊は彗星7機と零戦1機を破壊され搭乗員1名整備兵1名が戦死し、藤枝基地も指揮所、兵舎、格納庫が破壊される大損害を被った[50]帝都まで敵艦載機の侵入を許しながら、アメリカ軍機動部隊を攻撃すらできなかった芙蓉部隊を含む日本軍航空部隊について、美濃部は「特攻攻撃の戦術しか使えず、大本営は想像発表で誤魔化しているが、敵軍の実害はなし」と総括しているが[51]、アメリカ軍の司令官スプルーアンスも、2月19日に迫った硫黄島上陸に備えて2月17日にジャンボリー作戦を中止するまで、第58任務部隊を攻撃してきた日本軍機はおらず、また迎撃も消極的であったと感じて、激烈な抵抗を予想していた分、拍子抜けしている[52]

硫黄島の戦いで、神風特攻隊「第二御盾隊」の特攻で撃沈された護衛空母ビスマーク・シー

ジャンボリー作戦で航空戦力を消耗した日本軍であったが、2月19日に硫黄島にアメリカ軍が上陸を開始すると、ようやくアメリカ軍艦隊への反撃を開始した[53]。2月17日の敵空襲の後始末に追われる芙蓉部隊内で、芙蓉部隊が反撃の第一陣として、第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻配置になるという噂が流れた。これは同じ彗星と零戦装備の第601海軍航空隊で第二御盾特別攻撃隊が編成されるという話を、隊員の誰かが勘違いして流布させたものと思われたが[54]、2月17日に美濃部が実際に特攻出撃を命じたこともあって、噂はまことしやかに広まって、芙蓉部隊隊員らは激情と不安を抑えきれず酒を飲みながら大騒ぎしたため、歓声が夜通し基地内に響き渡り、当直士官も制止できない有様となった[55]。美濃部は騒ぐ隊員らに「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と言明したので、騒ぎは一旦沈静化した[56]

予定通り第601海軍航空隊で編成された第二御盾隊は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が硫黄島を支援するため、硫黄島に出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) 英語版も大破させ、護衛空母ルンガ・ポイントLST-477 英語版を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団からも確認できたため、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「敵艦船に対する勇敢な特別攻撃により硫黄島守備隊員の士気は鼓舞された」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞し、ジャンボリー作戦で好き放題に暴れた第58任務部隊に対する報復ともなった[57]梅津美治郎陸軍参謀総長及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇上奏し、昭和天皇は硫黄島に対する特攻による再攻撃を軍に求めたが、二撃目を加えるほどの航空戦力は残っておらず、硫黄島への特攻出撃は一度きりで終わった[58]。芙蓉部隊も2月17日までの戦闘で、特攻まで命じながら敵艦と接触することもできずに航空機9機を損失し、残存機は零戦12機と彗星8機となっていたが、その中でも可動機はわずか零戦6機、彗星3機という、高い整備能力を誇る芙蓉部隊とは思えないような惨状で[59]、再出撃どころか翌月になるまで満足に訓練することもできず[60]、芙蓉部隊の初陣は惨敗に終わったが、このときの地上で多数の航空機を撃破された痛い経験が、後の芙蓉部隊最大の特徴となった基地のカモフラージュ方法や航空機の隠蔽方法の改善に活かされることとなった[61]

木更津会議[編集]

硫黄島の戦いに先立つ2月4日に、軍令部総長官邸にて研究会が開かれ、沖縄周辺に来攻することが予想されるアメリカ軍機動部隊の攻撃に対する話し合いがなされた。この時点で日本軍の航空兵力は不足しており、実用機と同時に練習機を特攻に加える案が提出される。このときの幹部の発言において、正攻法の爆撃や雷撃が殆ど命中していないことが説明されて、「この点で命中率のよい特攻を採るべきものと思う」「16隻の空母を攻撃するに約200機の特攻を要す」「練習生が練習機で特攻をやる方法の研究を要す」「『白菊』多数あり。これが戦力化を要す」との意見があった。これを下敷きに、2月中旬には練習航空隊から特攻部隊を編成する案がまとまった。攻撃力の主体を特攻に依存し、さらに練習機を投入すれば、航空戦力として計算できる機数は激増した。2月下旬の段階では、練習機による特攻は実施にほぼ決定されていた[62]

特攻投入を美濃部が批判した93式中間練習機(通称赤とんぼ)。しかし操縦性の高さから対潜哨戒など実戦任務にも投入され、1945年7月28日には特攻で駆逐艦1隻撃沈、2隻損傷の戦果も挙げている。

1945年2月下旬、木更津基地において、三航艦司令部は擁する9個航空隊の幹部を招集して沖縄戦の研究会を実施した。第三航空艦隊の参謀より、教育部隊を廃し、白菊や赤とんぼなどの練習機も含めた全員を特攻に投入するという説明があった[63]。研究会に参加していた美濃部は、会議参加者のなかでは一番の若輩にも関わらず「全力特攻と言いますが、特に速力の遅い練習機まで駆り出しても十重二十重のグラマンの防御網を突破することは不可能です。特攻のかけ声ばかりでは勝てません。敵の弾幕を突破するような手段を考えなければなりません。フィリピン戦では敵は300機の直援戦闘機を準備していました。今度も同じでしょう。」と説明した参謀に反論した[64]。意外な反論を受けたある参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけた。特攻以外に何の策も持たない司令部に激高した美濃部は、抗命罪も覚悟のうえで「今の若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも、死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点ばかりの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じて頂きたい」[65]、「私のところ(芙蓉部隊)では総飛行時間200時間の零戦パイロットでも皆夜間洋上進撃可能です。劣速の練習機が何千機進撃しようと、昼間ではバッタの如く落とされます」「2,000機の練習機を、(特攻に)狩り出す前に此処にいる古参パイロットが西から帝都に進入されたい、私が箱根上空で零戦で待ち受けます。一機でも進入出来ますか。艦隊司令部は、芙蓉部隊の若者達の必死の訓練を見て戴きたい」と反駁したという[66]。出典によっては、「2,000機の練習機を特攻に狩り出す前に赤とんぼまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」などと、美濃部自身の著作の記述よりも激しい言葉で、この会議に出席していた参謀や指揮官らを批判したとされている[67][68]

美濃部が反駁したとされる参謀は、出典によっては、当時の連合艦隊参謀長草鹿龍之介とされたり[69][70][注 2]、参謀長や主席参謀や単に参謀などと官職だけ記述され、具体的に人物を特定されていないことが多いが[71][72][73][74][75][76]、美濃部自身の著書『大正っ子の太平洋戦記』の記述では、連合艦隊主席参謀黒岩少将という人物で特定されている。美濃部は、黒岩なる人物が主張する「戦場も知らぬ狂人参謀の殺人戦法」に怒りを覚えたと強く批判しているが[77]、当時の連合艦隊参謀や日本海軍将官に黒岩なる人物は実在しない[78]。美濃部は著作で、黒岩なる人物は、各種特攻兵器開発を決定したときの軍令部第1部部長であったと記述しているが[79]、当時の軍令部第1部部長は黒岩なる人物ではなく中澤佑少将で[80]、中澤はこの会議があったとされる1945年2月には台湾海軍航空隊司令官として台湾におり、連合艦隊参謀としてこのような会議に出ることはありえない。この会議当時の連合艦隊主席参謀は神重徳大佐で、美濃部の著書での黒岩少将の死亡時の記述と神の死因は一致しているが(戦後に津軽海峡で事故死)[81]、しかし、美濃部の著書によれば、ミッドウェー海戦直後にすでに連合艦隊の参謀で、1944年初頭の特攻兵器開発決定時は、軍令部第1部部長であったとされる黒岩なる人物の経歴と、1944年7月に連合艦隊参謀に就任するまでは海軍省教育局第1課長であった神の経歴は一致しない[82]。また、特攻兵器開発決定当時の軍令部の面々を、軍令部総長嶋田繁太郎大将、軍令部次長伊藤整一中将、軍令部第1部部長黒岩少将、担当参謀源田大佐、特攻兵器桜花発案者大田正一特務少尉と、黒岩なる人物以外は実名を出し「殺人兵器、開発整備推進者」と名指しで非難・罵倒しているなど[83]、美濃部の著書では多数の海軍将官や高級士官が実名で登場し、名指しで激しく非難・罵倒されており、黒岩に該当する人物だけが偽名にされる理由は不明である[84]。また、この会議で黒岩なる人物が「敵沖縄進行の迎撃戦は、菊水作戦と呼称、全力特攻とする」との説明をしたとされているが[85]、『菊水作戦』という作戦名が初めて登場したのは、第1機動基地航空部隊(第五航空艦隊)4月3日発『1KFGB天信電令作第39号』のなかの「5.本作戦ヲ菊水1号作戦ト呼称ス」であり、2月に開催されたとされるこの会議時点では『菊水作戦』という作戦名は決まっていなかった[86]

この会議については、開催したのは三航艦司令部ではなく連合艦隊であり[87][注 3][88]、連合艦隊からの「いよいよ決定的段階に至ったので、次期作戦には実用機と練習機とを問わず、あげて全て特攻作戦に参加せしめる」との提示に対し、他の航空隊指揮官が反感を抱きつつも概ね支持していたが、美濃部だけが「当芙蓉部隊においても、死を恐れる搭乗員は一人もいません。しかし、一命をなげうって国に殉ずるためには、それだけの目的と意義を有する作戦に参加して死に甲斐のある戦い方をしたいと考えています。ところが、特攻作戦の実態は、敵の上空に到達する見通しすらつかないような若年搭乗員に未熟な攻撃を行わせ、必ずしも死に値する戦果をあげていないように思われます。これでは無駄な死であって有効な攻撃にならない。単なる精神力の空念仏では勝利を得ることも出来ず、心から喜んで前線に出撃することは出来ないのです。同じ死ぬなら有効な攻撃ができるという確算のある作戦計画を樹立していただきたい」と意見を述べた[89]。この会議には、台湾で特攻を推進していた神風特別攻撃隊の創始者である一航艦司令長官大西瀧治郎中将も出席していたが、大西は美濃部の意見を聞くと「美濃部少佐、君はここにいる指揮官のなかでは一番若いように思われるが、その若い指揮官が特攻を忌避する態度を示すようでは、皇国の前途は案じられるがどうかね?」と訊ねたのに対し[90]、美濃部が「いや、長官。私は特攻を拒否すると言っているのではありません。特攻の命令が下ればいつでも部下を出します、しかし、現在わが芙蓉部隊の現況をみるに、古い搭乗員は着艦訓練もとっくに終わり、夜間航法、夜間攻撃も可能です。しかし、若い搭乗員は、鹿児島から沖縄へゆく航法もろくに出来ない程度です。指揮官としては、ベテラン搭乗員は予定通り、夜間の進攻制圧と特攻の直援に使用し、若い搭乗員は今しばらく腕を磨かせたいと思うのです。」と特攻を推進する連合艦隊の方針に強い異議を唱えるわけではなく、芙蓉部隊の事情として特攻出撃を当面の間猶予して欲しいと要望している。その要望に対し連合艦隊参謀長の草鹿は納得したが、すでに部下を特攻に出していた航空隊指揮官らの反感のあるなかで、直属の上司となる三航艦司令長官寺岡も美濃部を支持した[91]。また、この会議に参席していた第五航空艦隊司令長官宇垣が、会議後に美濃部の肩を叩いて、「お前のやり方でやれ」と美濃部を支持したとする証言もあるが[92]、宇垣は2月14日に鹿屋に着任以来、硫黄島に来襲したアメリカ軍艦隊の迎撃などでずっと九州に滞在しており、木更津で2月下旬に開催されたとする会議に出席したという事実はない[93]

以上の通り出典によって、この木更津会議が開催された日[注 4]、主催者や出席者、参謀の説明内容、美濃部の主張内容、主張した相手方などが異なり、実際の会議の実態は不明確ではあるが[注 5][94]、この会議後に連合艦隊や第三航空艦隊司令部などが藤枝の芙蓉部隊の夜間訓練の様子を視察し、その視察結果や寺岡の支援もあって、芙蓉部隊は美濃部の希望通り、特攻編成からは除外された[95]。この芙蓉部隊の特攻除外が異例の判断であったと指摘されることもあるが[96]、沖縄戦における、海軍航空隊出撃機の延べ機数は、特攻機1,868機に対し、制空戦闘機3,118機、偵察機1,013機、通常攻撃機3,747機、通常作戦機合計7,878機(含芙蓉部隊)[97]、陸軍飛行隊も第六航空軍のみで、特攻機711機に対し、制空戦闘機612機、飛行場攻撃に重爆100機、双発軽爆撃機80機、襲撃機11機、戦闘爆撃機3機を出撃させているなど[98]、特攻機の延べ出撃数を大きく上回る通常作戦機が沖縄に出撃しており、芙蓉部隊のみが異例で特攻を免除されたというのは事実誤認である[注 6][99]。また、美濃部が自分の意見具申の結果、九三式中間練習機の沖縄への特攻出撃は見送られ、本土決戦のため拘置されたとも主張しているが[100]、7月28日に宮古島から沖縄に九三式中間練習機で編成された神風特攻隊「第三龍虎隊」が出撃し、駆逐艦キャラハン を撃沈、カシンヤング(駆逐艦) 英語版を大破させるなどの戦果を挙げており、事実とは異なる[101]

この会議のあとの3月5日に、会議での発言が海軍の人事局や連合艦隊に好感を抱かせたのか、美濃部は一三一航空隊の飛行長に命じられ、芙蓉部隊の3個飛行隊が順次一三一空所属に編入されていった。今までは、藤枝基地所属3個飛行隊の最先任飛行隊長という曖昧な立場で指揮をとっているに過ぎなかったが、航空隊飛行長の肩書がつくと、航空隊の飛行機と整備科の地上指揮をとれるので、これまでと比較すると格段に権限が強化されたことになり、実質的に芙蓉部隊の3個飛行隊の指揮官となった[102]

硫黄島の戦いがひと段落すると、アメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州地方の航空基地に攻撃をかけてきた。それを第五航空艦隊が迎撃し、激しい海空戦が繰り広げられた[103]。3月18日に開始されたこの九州沖航空戦で特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母フランクリンワスプが大破、エセックスが中破するなど多大な損害を被ったが、日本軍も初陣の特攻兵器桜花が全滅するなど航空兵力を激しく消耗した[104]。第五航空艦隊の稼働機数は作戦開始時の1/3以下の110機に激減しており、3航艦の支援なしには航空戦を戦えなくなっていた[105]。第三航空艦隊指揮下の芙蓉部隊にも索敵の任務が命じられ、3月18日から20日かけて彗星を索敵に出撃させたが、1機の彗星が未帰還で1機の彗星が離陸直後に墜落し4名の搭乗員を失っており[106]、芙蓉部隊は開隊してから特に成果を上げることもなく、11機の航空機を損失し7名の戦死者を出すという厳しい船出となった。

菊水作戦[編集]

上陸支援のため慶良間諸島にロケット弾で艦砲射撃をくわえるロケット中型揚陸艦、このなかのLSM(R)-190は後日特攻により沈没している

1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の可動戦力は、九州沖航空戦での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣の指揮下に入り[107]、芙蓉部隊が所属する第三航空艦隊にも、第五航空艦隊の指揮下で連合軍を迎え撃つため南九州各基地への進出命令が下った[108]。芙蓉部隊は、3月30日と31日の2日にわたり熟練した隊員らが、零戦15機と彗星25機に搭乗し、鹿児島県鹿屋基地へ進出した。引き続き訓練が必要な搭乗員らや予備戦力は藤枝基地に残り引き続き訓練を続けた。訓練拠点を維持することにより、藤枝で鍛え上げられた搭乗員と前線で消耗した搭乗員とを随時交代させるという、当時の日本軍としては他に例を見ないシステムを確立することができた[109]海軍省人事局や海軍航空本部も美濃部を支持し、若い優秀な搭乗員を優先的に芙蓉部隊に異動させている。そのため芙蓉部隊は補充人員が定員を大幅に上回ることとなり、指揮官の美濃部が新入隊員を把握できないほどであった[110]

美濃部は芙蓉部隊が到着した当時の状況を、第五航空艦隊は戦力が底をついており40機の芙蓉部隊の到着は大歓迎されたと記憶しているが[111]、司令官宇垣の陣中日誌戦藻録には、この日、芙蓉部隊に関する記述はなく[112]、実際は天一号作戦発令で、九州への航空戦力の増強が進められており、海軍だけで4月1日時点で300機[113]、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出していた[114]。さらに3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊第6航空軍などが連合艦隊の指揮下に入っており、陸軍作戦機1,835機も順次知覧などの九州各基地に集結中で、日本軍は陸海軍協同でかつてない航空戦力で連合軍を迎え撃つこととなった[115]。3月31日には、第五航空艦隊の宇垣、第三航空艦隊の寺岡両司令官以下の幕僚が集まり作戦会議を実施した後、宴会ですき焼きを食して気焔を挙げている[116]

3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた[117]。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)ディカーソン撃沈[118]、スプルーアンスが座乗していた第5艦隊旗艦重巡インディアナポリス[119]イギリス軍正規空母インディファティガブル[120]、護衛空母ウェーク・アイランド[121]が甚大な被害を受けて戦線離脱、戦艦ネバダウェストバージニアを含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合軍の損害は大きかった[122][123]。美濃部はこの沖縄戦序盤における特攻の戦果を「見るべき成果なし」と嘯いたが[124]、大きな損害を被ったアメリカ軍は「やがてきたる恐るべき戦術・・・特攻の不吉な前触れ」であったと評している[125]

1945年4月[編集]

一方で、芙蓉部隊は鹿屋に進出して以降、連日敵艦を求めて索敵攻撃に出撃しながら敵艦と接触することすらできていなかった。戦果を挙げることができずに焦る芙蓉部隊の隊員らの面には、やはり特攻を志願すべきではなかったのかとの憂色が濃くなりつつあった[126]。自らの主張により特攻を拒否したため、芙蓉部隊の動向が各部隊から注目されていると考えていた美濃部も[127]、芙蓉部隊は実効果が特攻を凌いでこそ、その存在が許されると戦果を焦っており[128]、4月4日に彗星で偵察攻撃に出撃した海軍兵学校卒の鈴木昌康中尉と坪井晴隆飛長が、佐多岬沖で敵味方不明の潜水艦を発見し急降下して接近したが、反撃も回避運動もしなかったので味方潜水艦と判断し、攻撃せずに帰投したとの報告を聞いた美濃部は「馬鹿もの!!この時期に味方の艦艇がうろうろしているはずがない。」と決めつけると、「なぜ接近して爆撃でなくとも銃撃しなかったか」とかつてないほどの剣幕で2人を叱責、罵倒した[129]。美濃部はのちにこの叱責は、江田島兵学校出の士官に対する躾けであったと著書に書いているが、鈴木は4月12日の出撃で、この時の叱責を気にして深入りし未帰還となっている[130]。4月5日には三式一番二八号ロケット爆弾が、彗星への搭載作業中に暴発して兵器整備員が負傷している。同日に同じ三式一番二八号ロケット爆弾を搭載して出撃した坪井と原敏夫中尉搭乗の彗星が、敵と接触できず鹿屋に帰還した際、ロケット弾を搭載したまま着陸を試みたところ、滑走路に不時着していた零戦に接触、ロケット弾が暴発して彗星と零戦が爆発炎上し、坪井と原は大火傷を負ってしまった。(原はその後死亡[131])三式一番二八号ロケット爆弾は、海軍航空技術廠が安全性に欠けると正式配備を躊躇しながらも、美濃部の決断で芙蓉部隊に配備することになったが[132]、海軍航空技術廠の懸念通り事故が続発し、美濃部は慌てて、この後、帰還する機には事故防止のため着陸前にロケット弾を投棄するように命じている[133]

大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦菊水一号作戦を発令[134]、大量の特攻機を出撃させると同時に戦艦大和による海上特攻を敢行した。芙蓉部隊に第五航空艦隊司令部から、海上特攻する戦艦大和の護衛の打診があったが、美濃部は「夜間戦闘機隊を昼間の護衛に使うなんて無意味ですし、不可能です。」と拒否している[135]。大和の護衛を拒否した芙蓉部隊は、特攻機と共同で敵艦船攻撃のため、4月6日午前3時鹿屋を出撃し、出撃した15機中で彗星6機と零戦4機が沖縄本島に到達した。全行程が2,000km弱にも達する、レーダー装備も電波誘導もない中での困難な長距離夜間飛行であり、ここにきてようやく芙蓉部隊は今までの訓練成果を遺憾なく発揮することができた[136]

沖縄に到達した芙蓉部隊機は、大和の海上特攻を支援のため空母攻撃を目標としていたが発見できなかったので、伊江島付近に遊弋中の十数隻の艦隊に突入し、巡洋艦に仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)を発射し3発命中、零戦が大型輸送艦に九九式二〇ミリ機銃を数百発撃ちこみ大火災を起こさせたと報告しており(該当するアメリカ軍側被害報告はなし[注 7][137])、ようやく戦果を挙げることができた芙蓉部隊隊員らは胸をなでおろしたが[138]、護衛の零戦2機が迎撃してきた敵戦闘機と空戦になり撃墜された[139]。菊水一号作戦で日本軍は355機の特攻機をつぎ込んで[140]、戦艦2隻轟沈を含む69隻撃沈破という驚異的な戦果を挙げたと報じたが、実際は駆逐艦3隻、重砲の大口径砲弾7,600トンを満載したビクトリー型弾薬輸送船 英語版2隻[141]戦車揚陸艦1隻撃沈、正規空母ハンコック、戦艦メリーランド大破などの34隻撃沈破であった[142][143]。日本軍の戦果報告は過大ではあったが、実際にも連合軍に多大な損害を与えたことには変わりなく、この成功に気をよくした日本軍は、引き続き敵機動部隊への特攻攻撃にのめり込んでいくことになった[144]

芙蓉部隊の夜間攻撃に立ちはだかったF6Fの夜間戦闘機型F6F-3N。

アメリカ軍は沖縄本島上陸直後に、日本軍が設営した北飛行場(読谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を確保すると、ただちに航空隊を展開した。菊水一号作戦中の4月8日には、アメリカ海兵隊の航空隊がF4Uコルセア3個航空隊とレーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“夜間戦闘機型ヘルキャット”1個航空隊の合計109機の戦闘機を展開させて早速上空哨戒にあたらせてる。その後も順次航空戦力と対空火器の強化が進んでおり、芙蓉部隊を含む日本軍航空隊の最大の障害となりつつあった[145]。そのため大本営は沖縄に侵攻してきた艦船に加えて、アメリカ軍の航空基地も攻撃目標とし、第三二軍重砲隊の八九式十五糎加農砲により航空基地に制圧砲撃を加えるとともに[146]、4月12日に発令した菊水二号作戦では、芙蓉部隊は陸軍第六航空軍の重爆撃機と協力してアメリカ軍航空基地攻撃を命じられた。これ以降、芙蓉部隊の主要目標は海上の艦船から一転して地上の飛行場となっていく[147]

4月12日の芙蓉部隊の出撃は、第32軍独立重砲兵第百大隊第二中隊の八九式十五糎加農砲2門が、中飛行場を砲撃し大火柱を生じさせ[148]、陸軍飛行隊の四式重爆撃機8機による爆撃も成功した後で(陸軍重爆の爆撃により地上機4機炎上、1機爆砕、直径100m高さ300mの大爆発を含む爆発3か所、火災3か所を報告[149])、迎撃のために出撃したF4UコルセアとF6F-5Nが待ち構えており、芙蓉部隊機は飛行場を攻撃することすらできず次々と撃墜された。飯田上飛曹の彗星が唯一、北飛行場への投弾に成功したが、美濃部が信頼していた名飛行隊長川畑栄一大尉の彗星もF4Uコルセアに撃墜されて、川畑が戦死するなど、6機が未帰還となり8名が戦死・行方不明となった[150]。しかし川畑機を操縦していた陶三郎飛曹長は墜落する彗星からパラシュート降下して無事であり、沖縄南部で住民に保護されていたが、終戦を聞くと捕虜にならないようにするため、増槽を改造して作った小舟で沖縄を脱出、1946年7月にかつての指揮官であった美濃部宅を訪れて美濃部を驚かせている[151]。他にも、帰還した1機が基地に辿りつけず海没、電波欺瞞紙散布任務に出撃した彗星2機も未帰還となったが、そのうちの1機は4月4日に美濃部に叱責された鈴木の搭乗機であった[152]。この日、出撃した11機中(故障等で引き返した機は除く)生還した機はたった2機で、戦闘八〇四の飛行隊長川畑を含む熟練搭乗員13名と、彗星6機零戦3機を一度に失ったが、これは芙蓉部隊の全作戦中で最大の損害となり、芙蓉部隊は戦力が回復するまで、激しい損失を被る夜襲から、一時的に敵機動部隊の索敵を主任務とせざるを得なくなった[153]

4月15日の白昼に、沖縄を出撃したアメリカ軍戦闘機80機が鹿屋に来襲し、迎撃のため離陸しようとした紫電2機が撃墜され、地上で10機が撃破されたが、笠ノ原航空基地から出撃した零戦36機が迎撃し、アメリカ軍戦闘機1機を撃墜した。菊水3号作戦はこの来襲したアメリカ軍戦闘機の追撃という形で開始され、九州から零戦10機と陸軍戦闘機11機、台湾からは5機の海軍の陸攻が出撃、嘉手納の中飛行場、読谷村の北飛行場を陸海軍協同で襲撃したが、薄暮の中で全機が完全奇襲に成功して、銃爆撃で両飛行場を制圧している[154]。夜間には九州から海軍の陸攻8機と陸軍の重爆4機、台湾から海軍の月光3機と天山4機が出撃し、夜間爆撃に成功している[155][156]。芙蓉部隊は12日に受けた大損害により、この陸海軍協同の大規模なアメリカ軍航空基地への夜襲には参加できなかったが、同日に、戦死した川畑に代わる戦闘八〇四の新飛行隊長の石田貞彦大尉らが搭乗する彗星12機と零戦4機が藤枝から進出し、戦力が回復している[157]。芙蓉部隊は海軍省人事局に厚遇され、若い優秀な搭乗員を優先的に異動させてもらっていたが、機体についても補充は順調であり、この後も消耗のたびに戦力の補充が優先的に行われた。戦局が悪化し日本軍全体の航空戦力が枯渇していくなかでも、芙蓉部隊は岩川と藤枝で、編制定数彗星72機、零戦20機を超える数の機数を維持しており、終戦時には120機を超える機数の補充が発令されていたほどであった。美濃部は芙蓉部隊を厚遇してくれた海軍省人事局、海軍航空本部、補給廠、第五航空艦隊司令宇垣らを「芙蓉部隊作戦の理解と応援者」と称して感謝している[158]

戦力が整った芙蓉部隊は、4月16日に敵航空基地への夜間攻撃を行うこととなり、中飛行場、北飛行場の攻撃に出撃したが、4月12日の大損害を教訓として、アメリカ軍の夜間戦闘機が待機していると推定される空域を大きく迂回し、午前4時20分、滑走路を銃撃し250kg爆弾を投下することに成功した。うち照沼光二中尉が搭乗した零戦は、機関砲弾が尽きるまで飛行場を銃撃したのちに、沖合のアメリカ軍艦艇に体当たりをはかり未帰還となった。指揮官の美濃部が「特攻に参加せず」と宣言しても、戦局がひっ迫するなかで、若い搭乗員が特攻によって国に殉じようという気持ちを遮ることはできなかった[159]。 4月下旬になると、美濃部はソロモンで罹患したマラリアがぶり返して、寝たきりになることも多くなっていた[160]。指揮官が体調不良の中で、芙蓉部隊は4月20日から26日にかけて、計5回延べ38機を敵艦隊への索敵に出撃しているが、敵艦隊を発見することはできなかった。敵機との交戦もなかったが、索敵に出撃したうち故障で引き返した機体はわずか2機のみで、芙蓉部隊の高い整備能力を実証することとなった[161]。目立った成果を上げることができない芙蓉部隊に対し、陸軍の重爆撃機は順調に戦果を重ね、4月20日~22日に延べ8機の陸軍重爆の夜間爆撃で、北・中飛行場に大火災3か所、炎上27か所、誘爆6か所、地上機3機撃破を報告しているが、未帰還機は0であった。(被弾機1機が着陸時に大破)[162]

1945年中に沖縄でアメリカ軍が整備した飛行場

海軍が敵空母部隊を撃滅に固執してきた結果、沖縄の敵航空基地は本格的な活動を開始し、敵航空基地の制圧が天号作戦の遂行を左右する真に重大な問題となっていた。陸軍は引き続き、第6航空軍隷下の飛行第110戦隊と飛行60戦隊の重爆撃機をもって、敵航空基地攻撃に全力を尽くすこととしたが[163]、海軍に対しての陸軍の不満は高まっていた。そのため、4月27日から開始された菊水四号作戦では、海軍も空母部隊に固執せず、輸送船団とアメリカ軍航空基地を主要攻撃目標とすることとした[164]。作戦開始に先立つ4月24日に第五航空艦隊司令部で開催された陸海軍合同会議で、美濃部は「沖縄では地上軍が玉砕反撃に出ようとしています。勝負は別として最後の力をいま一度出すべきです。兵力がないのなら、芙蓉部隊だけでも全力攻撃をかけます」と発言すると、第6航空軍の副参謀長青木喬少将も「君の所が出るなら、第6航空軍もいま一度攻撃をかけよう」と同調し、海軍航空隊では芙蓉部隊が主力となって、陸軍と協同で敵航空基地攻撃を行うこととなった[165]。芙蓉部隊は27日夜から28日早朝にかけ、第一次から第六次までの波状攻撃を行った。これは逐次戦力をくり出して、一晩中、敵を休ませないという美濃部考案の戦法で、川中島の戦いで上杉軍がおこなった『車懸りの陣』を彷彿とさせた[166]

午後7時34分出撃した第一次攻撃隊彗星3機中2機が北飛行場に250kg爆弾を投下し全機生還。第二次攻撃隊零戦2機は艦船を銃撃、1機未帰還。第三次攻撃隊は4機中3機が引き返した。単機攻撃を続行した彗星は中飛行場を爆撃するが、被弾して鹿児島湾に不時着し乗員は生還した。第四次攻撃隊は午後10時から8機出撃、敵夜戦の警戒を突破した5機が中飛行場、北飛行場、伊江島飛行場を爆撃、1機未帰還。第五次攻撃隊零戦6機は午前0時25分出撃。1機は引き返したものの慶良間列島で舟艇を銃撃し、飛行艇を撃破し、未帰還が1機。第六次攻撃隊彗星12機中10機が攻撃目標の飛行場に光電管爆弾と250kg爆弾を投下、未帰還は2機。4月27日は合計35機が出撃し、彗星3機と零戦2機が未帰還となり黒川中尉ら9名が戦死した[167]。この損害は4月12日に次ぐ大きなものではあったが、殆ど目的の敵航空基地に攻撃すらできなかった4月12日と比べると、17機が爆撃・銃撃に成功したと報告しており、美濃部が考案した戦法が奏功した形となった[168]。芙蓉部隊と協力し敵航空基地を夜間攻撃した陸軍重爆撃機も、合計7機全機が攻撃に成功し、1か所大火災、他5か所炎上の戦果を報告し、敵夜間戦闘機に追撃されながら全機無事に帰還した[169]

4月28日夜にも三次にわたり17機が出撃している。うち彗星4機は不調により引き返した。一次攻撃隊は爆撃に成功し全機生還、第二次攻撃隊零戦4機中2機が未帰還。第三次攻撃隊の彗星は1機が被弾し不時着した。4月29日から30日の夜襲は美濃部が考案した、敵夜間戦闘機を電波欺瞞紙と偽通信でおびき出し、おびき出された敵夜間戦闘機が燃料切れになり、降着すると思われる3時間後を狙って飛行場を攻撃する作戦を実施した。電波欺瞞紙は錫箔のロールから偵察員自らが切り出して作製したもので、各機10本ずつを風防の取っ手にぶら下げて出撃した[170]。この日出撃した14機のうち電波欺瞞紙投下機を除く9機が突入した。沖縄上空は煙霧が漂い視界不良だったものの、彗星1機が北飛行場に投弾成功したほか、飛行艇泊地を襲撃し銃撃で飛行艇1機とテント1を炎上せしめた[171]。出撃機のなかで本多一飛曹の零戦が不意に空母と遭遇、本多はそのまま特攻しようとも思ったが考え直して、飛行甲板にロケット弾を発射、他の大型艦を機銃で銃撃しながら脱出し、激しい対空砲火で多数の被弾あったが無事に生還している[172]。これが芙蓉部隊機による唯一の空母攻撃報告となった。(該当のアメリカ側空母の被害記録なし[137])。菊水四号作戦は芙蓉部隊の正念場の戦いとなった。4月27日~4月30日の出撃で芙蓉部隊は延べ66機が出撃し、43機が攻撃を実施、7機が未帰還、4機が大破・海没するなど航空機損失11機、搭乗員戦死・未帰還13名にも上ったが、[173]美濃部はこの成功で、敵航空基地制圧に相当の自信を持つに至り、第五航空艦隊司令部に詳細な戦訓を報告しており[174]、芙蓉部隊の海軍航空隊内での存在感は高まっていった[175]

その戦訓で美濃部は以下の分析と提言を行っている[176]

  • 夜間戦闘機の使命は夜間の制空であり、零戦夜間戦闘機の必要性は敵基地への奇襲兵力として絶対必要である
  • 零戦夜間戦闘機の搭乗員の育成は、彗星夜間戦闘機搭乗員の育成より遥かに困難であるが、夜間戦闘機の準備を今から行っておかなければ、2~3か月後に敵基地制圧で必ずや悲鳴を挙げる時期が来る
  • 芙蓉部隊は沖縄往復のみを目的とする特殊航法を採用したので、4月中は彗星延べ93機、零戦延べ60機出撃したにも関わらず、機位を失って未帰還となったのは零戦1機のみであり、それも燃料不足の不時着であった
  • 彗星夜間戦闘機の兵術的価値は絶大である、速力は列国戦闘機と遜色なく、爆装しても沖縄までの航続距離は十分で夜間飛行の操縦性も良好であった
  • 零戦夜間戦闘機隊は夜間単機攻撃を敢行したので彗星に比べて損害が多かった、超低空銃撃のため対空砲火による損害や、航続距離が彗星と比べ短かったことが原因として考えられる
  • 従来は2~3年かかる夜間航法を、芙蓉部隊においては、錬成2か月、飛行時間わずか180時間で可能としており、従来の教育制度を再検討すべきである、特に徹底した地上教育を重視すべきである
  • 菊水作戦の特徴としては、小型機により敵基地の夜間制圧が計画的に実施可能となったことで、これは従来の戦場と極めて大きな差異を生じている、芙蓉部隊が夜間戦闘機と接触したのは菊水2号作戦のわずか1日で、菊水3号作戦のように夜間戦闘機30機あれば敵夜間戦闘機を完全に封殺できる

しかし、この後の戦況は美濃部の分析より遥かに急な展開で、2~3か月後どころか翌5月には順次増強された大量の敵夜間戦闘機により[177]芙蓉部隊は苦しめられることになっていく[178]

1945年5月[編集]

芙蓉部隊を苦しめたアメリカ軍対空火器の内のひとつ、M1 90mm高射砲

5月3日、沖縄本島の第32軍八原博通高級参謀の反対にも関わらず、牛島満司令官の決断により総攻撃を開始した[179]第五航空艦隊司令官宇垣纏中将はその援護のため、九州及び台湾の陸海軍全航空戦力を投入することを決定し[180]、同日菊水五号作戦を発令した。芙蓉部隊は三次に分けて18機出撃したものの連日の作戦による酷使、被弾損傷がたたり、発進中止と引き返しが多発した。沖縄本島にようやく到達した8機も激しい対空砲火による被弾もあり、飛行場に投弾できたのはわずか1機で、大沢少尉、宮本上飛曹の二式艦上偵察機が鹿屋近郊まで帰還しながら墜落し両名とも戦死した[181]。陸軍爆撃隊は重爆撃機9機と双発軽爆撃機10機で飛行場夜間爆撃を敢行し、火災5か所、爆発5か所の戦果を挙げ、飛行場制圧の目的を達したと報告し、その後の出撃した陸海軍の特攻隊の援護の役割を果たしている[182]。 5月5日0時の出撃は悪天候のため14機中10機が引き返したが、彗星4機が北飛行場と伊江島飛行場を爆撃、未帰還は1機。宇垣より全力出撃の命令ありながら、機体の不調で引き返す機が続出し効果が上がらない芙蓉部隊は、翌6日は天候が回復したのにも関わらず、機体整備に終日費やすこととなり、搭乗員らはバレーボールなどを楽しみ気分転換をおこなった[183]。中途からの帰還機が多いのは陸軍飛行隊も同様で、5月4日に制空隊と通常攻撃隊62機が出撃したが、そのうち1/3がエンジン不調などで引き返しており、第6航空軍司令官菅原道大中将は頭を痛めている[184]

菊水六号作戦で、大本営は敵航空基地制圧のため、特攻機桜花を滑走路に突入させ大穴をあけて使用不能に追い込むといった奇策を講じることとし[185]、5月10日夜間から翌日黎明にかけて、芙蓉部隊彗星10機、海軍一式陸上攻撃機14機、瑞雲6機[186]、陸軍重爆撃機6機[187]、が数段の構えで中・北飛行場を爆撃、最後に桜花が滑走路に突入後、陸軍四式戦闘機疾風15機が銃撃して敵飛行場制圧を図る計画であった[188]。この作戦で、芙蓉部隊は出撃した全機が生還したが、滑走路に命中弾を与えたのはわずか1機に終わった[189]。芙蓉部隊と共同攻撃を行った陸軍の重爆撃機と海軍の陸上攻撃機は爆撃に成功し(未帰還陸軍重爆撃機1機)、北飛行場に9か所の火災を発生させ、中飛行場滑走路全部に有効な命中弾を与えたという戦果報告を行っているが、肝心の桜花は敵戦闘機の妨害のため射出できず[190]、疾風による飛行場銃撃も十分な効果を挙げることなく作戦は失敗した[191]

昨日の攻撃で十分な成果を挙げることができなかった美濃部は、爆撃の効果をあげるため、10機の彗星を時間差で異方向から突入させて敵航空基地の防御網を混乱させ、使用爆弾も接地後直ちに爆発する瞬発信管と、一定時間経過後爆発する時限信管を混合し飛行場制圧の効果を上げるという新戦法を考案した。5月11日に新戦法を実践するため10機の彗星を出撃させたが、天候不良と故障機続出で失敗に終わり、彗星1機が不調で墜落し白井中尉、松木一飛曹が戦死したのに対して、成果はたった1機が中飛行場に投弾できたに過ぎなかった[192]。5月12日は種子島、屋久島の南に配置されたレーダーピケット艦の索敵攻撃を実施したが、敵ピケット艦隊とは接触できなかった代わりに彗星1機が敵潜水艦を発見して爆撃した。搭乗員は多量の油が浮くのを確認、おおむね撃沈確実と報告している[193]。(該当のアメリカ側潜水艦の被害記録なし[137]

芙蓉部隊による爆撃が十分な効果を上げられなくなった原因としては、故障や損傷により引き返す機が増加したのに加えて、菊水作戦当初は美濃部考案の作戦計画の通り、芙蓉部隊の零戦と彗星は、夜間、黎明に超低空で敵基地に接近、零戦は機銃で敵地上機を掃射し、彗星は超低空から三式一番二八号ロケット爆弾などを使用した必中爆撃を目指していたが[194]、実戦は美濃部の目論見通りとはならず、敵対空砲火により多大な損害を被ったことにより、損害に対して効果が乏しい零戦による敵航空基地攻撃を断念し[195]、彗星による急降下爆撃も、敵対空砲火の有効射撃圏2,000m以内での爆撃を諦めて、一部の決死隊が低空進入して敵対空砲火を引き付けているうちに、主力は高度4,000mで敵基地周辺に侵入後急降下し、高度3,000mで投弾するという戦術に切り替えざるを得ず[196]、投弾高度が高すぎることにより、爆撃精度が低下したことが考えられた。日本海軍航空隊の急降下爆撃の投弾高度については、海軍航空隊搭乗員の教育、訓練を担当していた横須賀海軍航空隊による「800m以上(の投弾)にては命中率著しく低下する」という急降下爆撃の投弾高度の分析をもとに[197]海軍航空本部は「(急降下爆撃)基準投下高度を700mとし、本高度をもって訓練するを適当と認む」と、急降下爆撃基準投弾高度を700mと定め[198]、さらに太平洋戦争に突入すると、それまでの戦訓により「高度2,000mから角度45度以上の急降下で突入、高度400mで投弾」と理想的な投弾高度を引き下げたのに対し[199]、敵の対空砲火を避けるためとはいえ、芙蓉部隊の投弾高度は明らかに高すぎた。アメリカ海軍においても急降下爆撃の投弾高度は1,000ft(304m)から2,000ft(609m)とされていた[200][201]。超低空からの必中攻撃で多くの未帰還機を出した4月中と比べると、3,000mからの爆撃が主となった5月以降は、芙蓉部隊機の出撃機数に対する損失率は減少しており、美濃部の対策が奏功することとなったが[202]、3,000mからの投弾では、海軍航空本部や横須賀海軍航空隊の分析通り正確な爆撃は困難で、命中率が高い三式一番二八号ロケット爆弾は射程500mに過ぎず、高高度からの爆撃には使用できなかった[203]

特攻機が命中した直後の空母エンタープライズ

5月13日、旗艦の空母バンカーヒルが菊水六号作戦で出撃した特攻機により沈没寸前の深刻な損傷で脱落し、旗艦を空母エンタープライズへ移した第58任務部隊司令ミッチャーは、これ以上の特攻機による艦艇の損失を防ぐため、高速空母部隊を北上させて艦載機による九州の特攻機基地攻撃を行った[204]。エンタープライズには夜間戦闘機で編成されたVT(N)-90飛行隊が配備されており、エンタープライズから出撃した夜間戦闘機隊は夜通し日本軍航空基地周囲を哨戒飛行し、日本軍機を発見すると追い回したため[205]、芙蓉部隊の出撃は妨げられた。しかし、美濃部は、硫黄島の戦いのときと同様に、かねてから考案していた対敵機動部隊戦術を実践する好機と考え、上空に張り付いているエンタープライズの夜間戦闘機の目を盗んで、偵察任務の彗星を6機を発進させることに成功した[206]。偵察任務の彗星のなかで甘利洋司少尉機が敵空母を発見したが、位置を打電した直後にF6Fに撃墜された。甘利はミッドウェー海戦で重巡洋艦利根零式水上偵察機4号機で「敵らしきもの10隻見ゆ」と敵機動部隊発見の打電をした偵察員であったが、戦争中に2度も「空母発見」の再重要電を送信し海中に没することとなった[207]。しかし、芙蓉部隊はこの貴重な情報を活かすことができず、爆装した彗星2機零戦3機を攻撃隊として再び夜間戦闘機の目を盗んで出撃させたが、彗星2機は発進後にエンタープライズのF6F-5Nに発見され、うち1機は佐世保まで敵夜間戦闘機に追い回され、福岡まで退避して雁の巣福岡第一飛行場に燃料不足で不時着して大破し、残り1機も搭載しているロケット弾を投棄して退避を余儀なくされた。零戦3機は無事に出撃できたが、敵空母に接触することができず空しく帰還している[208]

第五航空艦隊司令官宇垣は、第58任務部隊を攻撃するため、5月14日黎明に500㎏爆弾を搭載した零戦の特攻機28機を出撃させたが、その中の6機が第58任務部隊を発見し突入した[209]。その中の富安俊助中尉操縦の零戦が、エンタープライズに雲を利用しながら巧みに接近し雲中から様子をうかがっていたが、エンタープライズが左に変針したのを確認すると、雲底から突如として現れ、曲技飛行のスプリットSマニューバで背面飛行のまま40~50度の急角度で急降下し飛行甲板上の前部エレベーターに突入した[210]。500㎏爆弾は5層の甲板を貫通し最下層で炸裂し、前部エレベーターの残骸は空中130mに吹き上げられた[211]。火災も発生したが弾薬や燃料の誘爆はなかったので13分後に鎮火した。しかし、エレベーター部分に大穴があき、飛行甲板は歪み、もはや飛行機の発着は不可能な程の深刻なダメージを被った為、16日に修理のためにアメリカに回航されそのまま終戦まで復帰することはなかった。ミッチャーはバンカーヒルに続いて旗艦エンタープライズを特攻で破壊されることとなり、旗艦を空母ランドルフへ移さざるを得なくなった[212]

岩川基地[編集]

第58任務部隊は旗艦のエンタープライズが撃破されると、沖縄方面に引き返したが、特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、B-29を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用したため[213]、鹿屋は連日B-29から激しい爆撃を加えられ[214]、沖縄から出撃したB-24などの爆撃機や、硫黄島から出撃したP-51などの戦闘機からも激しい攻撃を受けるようになったので[215]、第五航空艦隊は大型機を後方に下げて、小型機を分散配置しており、九州に接近してきた第58任務部隊に対して、強力な反撃を加えることができなかった[216]。同様な経過を辿った3月17日からの九州沖航空戦では、第五航空艦隊の全力反撃により5隻の空母を撃破するという戦果を挙げていたが(日本軍は空母5戦艦2重巡1不詳1轟撃沈と判断[217])、今回は反撃力の不足から、戦果はエンタープライズ1隻撃破に終わり(日本軍は特空母1炎上と判断[218])、第五航空艦隊司令部は、このままでは九州の日本軍航空基地に反撃力がないとアメリカ軍に見透かされ、本土侵攻の時期が早まりかねないと危機感を抱くこととなった[219]

第五航空艦隊の宮崎隆先任参謀は、今回の戦闘経過を分析して以下の所見を述べている[220]

  • 今回の敵機動部隊補足攻撃の成果があがらなかったのは、敵機動部隊の発見が遅れて、しかも九州方面に来襲する可能性は低いと判断したことと、我が航空兵力が分散後退配備されており、集中使用が困難であった
  • 我が戦力が分散していたので、戦果も挙がらなかったが、損害も少なかった
  • 兵力の分散配備を改め、第1戦法必成上2段配備の必要があると認めて、兵力の配備基準を定める

宮崎の所見に基づき、第五航空艦隊は5月15日付で以下の兵力の配置換えを命じた[221]

  1. 昼間索敵隊 彩雲は鹿屋と松山 紫電は鹿屋
  2. 夜間哨戒機 飛行艇は詫間 陸攻は大部と美保と一部鹿屋
  3. 夜間攻撃隊 銀河と四式重爆撃機飛龍(海軍指揮下で運用)は美保と大分又は大村
  4. 夜間戦闘機隊(芙蓉部隊を含む) 岩川または志布志
  5. その他 従前通り

美濃部はこの命令が出る前の5月9日に、小川次雄大尉と岩川海軍航空基地の下見をしており[注 8][222][223][224]、5月中旬に第五航空艦隊司令部の命令通り、芙蓉部隊を鹿屋から約27㎞に離れた岩川に移動させることとした[225]。岩川基地周辺には、530町歩(約526ヘクタール)の広大な海軍用地があったが、そのうち400町歩を飛行場偽装と食糧増産を兼ねて農民に無償貸与し、70町歩を滑走路などの飛行場施設や道路などに使用した[226]。美濃部は、藤枝基地で一挙に7機を空襲で撃破されたことなど、今までの経験を活かして岩川基地を完璧な秘密基地とするつもりであった。広大な農地の中に所在する飛行場に、日中は常に作業員10名ほどを配置して、滑走路に牛を放牧したり、移動式の小屋4棟と移動式の樹木10数本を設置したり、草を刈って滑走路に散布するなどの徹底した牧場に見せかけるカモフラージュをした。さらに機体は着陸後ガソリンを抜き、林の中に引き込んだ上、樹枝で偽装を施した[227]。偽装用の樹枝や葉は日にちが経つと枯れて変色し、常に青々とした新鮮なものを準備するため、付近の農民に2万円を支払って収集を依頼するほどの拘りようであった[228]。夜間の灯火管制にも細心の注意を払い、離着陸を誘導する係員には指向性カンテラを持たせて離着陸機を誘導したが、味方を識別するため、あらかじめ飛行高度と進入方向を定めておき、それ以外の高度や方向からはカンテラの光が見えないように工夫した[229]。緊急用の不時着基地として使用されていた岩川基地を、秘密基地とするには大規模な造成工事が必要であり、この工事は開隊したばかりの第3214設営隊があたったが、配属されていた朝鮮から徴用されてきた土工が酷使されることとなった[230]。付近の住民も協力的で、滑走路の偽装作業を積極的に手伝っている[231]。付近住民とのふれあいで芙蓉部隊隊員を一番喜ばせたのが末吉高等女学校の女学生との交流であり、手作りの日の丸の鉢巻きのプレゼントを受けたりしている[232]

将校クラブとして芙蓉部隊員が利用することになった岩川近郊の開業医院の川崎邸で[注 9][233]、芙蓉部隊の黒川上等兵曹が川崎の妻女に対して「搭乗員のマフラーをフヨウの花の色に染めてほしい」と依頼している。妻女は歌人で花の色にも詳しかったことから、フヨウの花は白と薄紅色があるので薄紅色に染色しようと提案するなど[234]、黒川の依頼を快諾しボランティアでマフラーの染色を請け負っている。数が大量であったため妻女ひとりではさばききれず、東京から疎開してきていた長女(夫は大本営参謀)や医院の看護婦までが手伝った[235]。芙蓉部隊搭乗員の首で風にたなびくフヨウの花の色のマフラーは、夜目にも美しく見えたという[236]

岩川基地に移動後、芙蓉部隊は零戦6機と彗星15機が補充され戦力も充実した。また、岩川基地には、美濃部が批判したとされる練習機白菊西条海軍航空隊)の特攻機も進出しているが、小型の零戦や彗星と比較するとひとまわり大きい白菊は秘匿困難で、まずは洞窟に秘匿したが落盤があったため、仕方なく地上に分散して配置している[237]。西条空の特攻隊員の一部の者は戦争の成り行きを憂いて、自分らが無駄死にになると、大酒を飲んで荒れる者もあったが、美濃部は自分の直接の部下ではない特攻隊員に対しても、その心を鎮めるために、「酒を飲んだり、暴れたりすることによって、安らかに死と対決することはできない。特攻と否とにかかわらず、我々は全員、死から逃れられない時期がやってきた」と話して聞かせている[238]。芙蓉部隊隊員は、西条空の特攻隊員らが酒に酔って寝ている時も座学や地上演習に勤しみ、士気は終戦まで極めて旺盛であった。隊の雰囲気も良好で笑いが絶えなかったという[239]

岩川に移動した芙蓉部隊に、5月15日付けの辞令で、美濃部の海軍兵学校で2期後輩にあたる座光寺一好少佐が着任することとなったが、美濃部の待遇については発令がなかったので、この異動の意図を訝しんだ美濃部は、第五航空艦隊司令部に辞令の意図を確認した。第五航空艦隊司令部からは「君はマラリアで弱っているから、しばらく休め」という答えが返ってきたため、美濃部は病気を理由に自分を外し芙蓉部隊で特攻を推進させる気ではと疑った[240]。しかしこの辞令は、美濃部がソロモンで罹患していたマラリアのぶり返しで、時折40度の高熱で人事不省になるなど[241]、床に臥すことが多くなっていることを知り、作戦に支障が出ることを懸念した第五航空艦隊司令部が交代要員を望み[242]、人事局も美濃部がマラリアで疲労していることをかねてから気にかけており[243]、座光寺に転勤命令を出したというのが真相であった[244]。その配慮を知らなかった美濃部は思い余って、食事改善のときと同じように、第五航空艦隊司令官の宇垣に直談判し、引き続き岩川で指揮を執るのは美濃部であるということを再確認してもらった。座光寺は美濃部の要請を受け入れ副官格として藤枝で訓練の指揮を執ることとなった[245]

岩川への移動当初は、岩川基地管轄の九州海軍航空隊により、特攻の西条空に対し、芙蓉部隊は「特攻隊ではないから」という理由で、食事の質に大きな差を付けられていた。美濃部はその食事の差を見ると「全海軍が心を合わせ、火の玉になって沖縄戦に臨んでいるのではないのか」と海軍の一員としての誇りが揺らぎ激高した勢いで[246]、管轄の九州海軍航空隊を飛び越えて、第五航空艦隊司令部に食事内容改善の要求を行っている[247]。第五航空艦隊は美濃部の要求を受けると佐世保鎮守府に調査を依頼、鎮守府の調査団が岩川で調査を行うと、ほどなく潜水艦乗組員用の最高級の食材を満載した貨物列車が岩川駅に到着した。その貨物目録のなかには牛肉の大和煮、紅鮭、サンマ、イカ、ニンジン、ゴボウなどの罐詰やコーヒーや紅茶といった嗜好品の他に[248]、当時の日本では超贅沢品であったコンビーフも大量に送られてきた。また、官給品の食糧の他にも自給自足を標榜していた芙蓉部隊には、周囲の農家から大量の農産品の差し入れがあった。差し入れ品のなかには、当時貴重であった鶏卵の他に、牛一頭という豪快な差し入れもあり、ステーキにしてみんなで舌鼓を打つなど[249]、陸軍飛行隊の特攻隊振武隊では、一汁一菜の粗食の兵食に耐えている特攻隊員もいるなかで[250]、芙蓉部隊は美濃部の要求により、戦時中とは思えない様な豊かな食生活となった。

義烈空挺隊突入時の読谷飛行場(日本軍呼称北飛行場)下のF4UコルセアはVMF-311の所属機

菊水六号作戦までの芙蓉部隊を含む日本陸海軍航空機によるアメリカ軍航空基地に対する夜間攻撃は、度々、大爆発や大火災などの戦果報告はあっているものの、飛行場機能に支障をきたす様な損害を与えることはできていなかった[251]。この頃には、海兵隊は夜間戦闘機を含む戦闘航空隊15、爆撃航空隊2、アメリカ陸軍飛行隊は、P-61“ブラックウィドー”を装備した夜間戦闘機隊を含む戦闘航空隊10、爆撃航空隊16を沖縄本島や伊江島の航空基地に進出させており、戦力は充実する一方であった[252]。海兵隊の夜間戦闘機を含む戦闘機部隊は、沖縄の航空基地から出撃すると、フランク(四式戦闘機)やジャック(雷電)などの日本軍新鋭機の護衛戦闘機を制しながら、多数の特攻機を撃墜していた[253]

大本営は、第32軍の沖縄南部への撤退と特攻作戦の援護のため、残された航空戦力を集中してアメリカ軍航空基地を攻撃することとし、5月24日に開始された菊水七号作戦では陸軍の義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦(義号作戦)を決行した[254]参謀本部は、義烈空挺隊輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入を命じ[255]、海軍の宇垣は義号作戦を援護するため、一式陸上攻撃機17機、銀河13機[256]、それに護衛として夜間戦闘機12機(芙蓉部隊以外の所属機)の投入を決定した[257]。義号作戦とそれに伴う夜間爆撃は、過去最大規模での沖縄のアメリカ軍航空基地への夜間攻撃となった。宇垣はより爆撃効果をあげるため、爆撃機に時限爆弾を搭載させて出撃させている[258]。事前に陸軍大臣の阿南惟幾大将や参謀本部第1部長宮崎周一中将が鹿児島に来訪するなど、沖縄戦最大規模の敵航空基地への夜間攻撃となる本作戦に大本営も大きな期待を寄せていたが[259]、今まで海軍航空隊の航空基地攻撃の主軸であった芙蓉部隊は、24日は岩川基地に部隊全員が移動を終えたばかりの日で、竣工式や今後の作戦会議などが開催されており、この攻撃には参加していない。美濃部は鹿屋からの移動で疲労した隊員を労って按摩の手配をし[260]、夜には美濃部の提案で蛍狩りを楽しみながら酒宴を張って転居祝いをするなど、周囲の喧騒をよそに、5月15日~24日までの岩川基地への移動日は芙蓉部隊にとっていい骨休めとなった[261]

中と北の両飛行場には、6回にも及ぶ陸海軍の重爆撃機と陸上攻撃機による夜間爆撃を加えたのち[262]、義烈空挺隊員が搭乗する九七式重爆撃機6機が北飛行場、2機が中飛行場に強行着陸をはかったが、7機が対空砲火により撃墜され、残り1機が北飛行場滑走路上への胴体着陸に成功した。胴体着陸した機体の中から10名~11名の完全武装の空挺隊員が飛び出してくると、アメリカ軍と激しい銃撃戦をしながら、地上にあるアメリカ軍航空機に手榴弾と焼夷弾を投げつけ、燃料集積所を破壊した。激しい戦闘により、アメリカ軍機9機が破壊炎上、29機が損傷、70,000ガロンのガソリンが焼き払われ、アメリカ兵20名が死傷したが空挺隊員は翌朝までに全員戦死した。北飛行場は修理のため翌朝8時まで使用不可となった。帰還した陸軍の重爆撃機搭乗員は、読谷飛行場が大混乱に陥り、次から次にアメリカ軍航空機が炎上していたと報告しているが[263]、重爆撃機搭乗員の報告を裏付けるように、アメリカ軍従軍記者もこの読谷飛行場の状況を「地獄さながらの混乱」と記述している[264]。中飛行場も打撃を被っており、第五航空艦隊司令部は、嘉手納飛行場は使用できないので沖合の空母に着艦せよというアメリカ軍の無線を傍受している[265]。また北飛行場で対空砲火で撃墜された重爆撃機のうちの1機が高射砲に激突し、アメリカ軍海兵隊員8名が巻き添えとなって戦死した[266]

ようやく日本軍は、一時的な効果とは言え、今まで芙蓉部隊や陸軍の重爆撃機でできなかったアメリカ軍飛行場機能に支障が出る規模の打撃を与えることに成功した。アメリカ軍もこの予想外のコマンド攻撃に衝撃を受けており[267]米国戦略爆撃調査団報告書において「連合軍飛行場への自殺(特攻)攻撃」と紹介され「相当な成果をあげた」と評価されるなど[268]、主要な軍の公式戦史、報告書、アメリカ軍機関紙星条旗新聞従軍記者の報告、司令官レベルの将官の伝記などに詳細に記述されている[269][270][271][272][273][274][275]。陸海軍の爆撃機は伊江島の飛行場も爆撃し、ここでも60名のアメリカ兵が死傷するなど大きな損害を与えている[276][注 10]

芙蓉部隊の新基地岩川からの初出撃は、陸軍飛行隊の義烈空挺隊や爆撃機などがアメリカ軍航空基地に大きな打撃を与えた翌日の5月25日となった。空は曇天で夜間攻撃には絶好であり、敵機動部隊の索敵と攻撃のために彗星15機と零戦4機が屋久島南方200マイルに出撃した[277]。出撃する隊員の前にはぼたもちの他に、硫黄島の戦いで美濃部が特攻を命じた時と同じように別杯が並んでいた。美濃部は別杯を前にした搭乗員らに「攻撃はすべて命令した通り、諸君らの健闘を祈る。」と発破をかけたが[278]、美濃部が考案した対機動部隊の攻撃法とは、「黎明銃爆特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の)甲板上に滑り込んで、甲板上の敵艦載機を履き落とす」という特攻作戦であり[279]、実質的な特攻出撃を命じられた初陣の搭乗員らは、出されたぼたもちに手を付ける気になれず出撃した[280]。この日は敵艦を発見することができず全機帰還することとなり、義号作戦の敵飛行場制圧の効果を活かすことはできなかったが、夜明け前の着陸となったのにも関わらず初陣の搭乗員も含めて全機無事に着陸することができ、新基地岩川が十分使用できると実証できたのが唯一の収穫となった。翌5月27日未明には前夜に引き続き敵機動部隊への索敵攻撃と上空哨戒のほかに対潜掃討という多様な任務を帯びて彗星8機と零戦4機が出撃。機動部隊索敵攻撃の彗星は昨日に引き続き敵艦を発見できず帰還、その中で機位を失ったと思われる彗星1機が未帰還となった。潜水艦攻撃任務の零戦4機は、上田一飛曹の零戦が浮上中の敵潜水艦を発見、芙蓉部隊の零戦は爆装することはないため、上田は急速潜航する潜水艦に向けて20ミリ機銃を撃ちこんだが、海中の潜水艦に対して機銃で致命傷を与えることは無理であり、海中深く潜航する潜水艦に対して打つ手はなかった[281]

芙蓉部隊の彗星とともに沖縄のアメリカ軍飛行場を爆撃し続けた九九式双発軽爆撃機、陸軍飛行隊最後の沖縄のアメリカ軍飛行場爆撃をしたのも本機

菊水八号作戦は5月27日から開始された。28日、悪天候を押して芙蓉部隊の彗星2機が沖縄に到達、1機が三十一号光電管爆弾を北飛行場に投下、全機生還した。5月下旬には、すでに沖縄戦は末期的状況に入りつつあり[282]、連合艦隊の指揮下で特攻や敵航空基地攻撃を行ってきた陸軍飛行隊第6航空軍が、すでに沖縄への航空作戦に予定以上の航空兵力を投入し、これ以上沖縄に航空兵力を投入しても、兵力を無駄に消耗するのみと判断して、連合艦隊司令長官が豊田副武大将から小沢治三郎中将に交代した際を見計らって連合艦隊の指揮下から脱して、決号作戦準備のため航空戦力の温存を図ることにした[283]。5月28日に芙蓉部隊と時を同じくして、第6航空軍は伊江島飛行場を4機の双発軽爆撃機で攻撃したが、これが陸軍による沖縄の敵航空基地への最後の航空攻撃となり、この後は陸軍重爆撃機は効果の薄い敵航空基地攻撃を諦めて、沖縄の地上部隊へ補給物資の空中投下任務を命じられている[284]。この空中投下により沖縄の地上部隊の手元に届いた補給物資は少なかったが、兵士らにわずかではあるが希望を与える効果はあったという[285]。現実的判断で沖縄に見切りをつけた陸軍に対し、艦船のほとんどを失った海軍は、地上戦が中心となる本土決戦には消極的で、沖縄での航空決戦を継続していくこととしている[286]。このころには、沖縄での航空決戦を主導してきた軍令部1部長兼大本営海軍部参謀富岡定俊少将も、「沖縄でアメリカ軍に大打撃を与えて和平交渉の場に引きずり出す」という沖縄航空決戦による「一撃講和」は困難になったとは認識していたが、敵の消耗を企図する出血作戦として、枯渇していた航空戦力では効果の薄い特攻、通常攻撃による艦船攻撃、敵航空基地攻撃に航空戦力を投入し続けることとした[287]。芙蓉部隊も未帰還機が増える一方でありながら、この後も海軍の方針に従って沖縄への出撃を継続している[288]

1945年6月[編集]

5月31日に芙蓉部隊は後方の藤枝基地から彗星9機と零戦2機の補充を受け、戦力は彗星37機、零戦16機と充実した。藤枝から着任する隊員は、熱海温泉でゆっくり静養などをしたのちに岩川に進出してきているが、前線で疲労困憊しながら連日戦っている他の日本陸海軍航空隊搭乗員と比較すると、芙蓉部隊は搭乗員が例外的な待遇を受けられる航空隊であった[289]。戦力が充実した芙蓉部隊は、美濃部の独断により6月1日付で機構改革を行った。従来の戦闘八〇四、八一二、九〇一という飛行隊の枠を撤廃し、彗星隊を『坂東隊』『相模隊』『時宗隊』に再編成し、零戦隊を『人龍隊』に統合している[290]。6月に入って沖縄は梅雨入りし天候はすぐれなかったが、天候がわずかに回復した6月3日に菊水九号作戦が発令された[291]。芙蓉部隊も3日~8日に索敵出撃したが、すべて空振りに終わったのに対して、離着陸時にぬかるむ滑走路に脚をとられて彗星1と零戦1が大破してしまった[292]。6月8日未明、部隊は彗星10機で伊江島飛行場にむけ出撃、故障や天候の悪化による帰還機が続出し、突入できたのはわずか4機であったが、戦果として三か所に火の手が上がったとの報告があった。美濃部はその報告を聞いて「燃料集積所に命中したのではないか」と推定している。6月9日には彗星10機中6機が到達、F6F-5Nの迎撃をかわして光電管爆弾を投下した。誘爆を確認したものの、彗星3機が対空砲火で撃墜されるという大きな損害を被った[293]。6月10日夜、夜間制空に7機が出撃、うち1機の彗星夜戦(一二戊型)が米軍の夜戦P-61を発見した。反航戦で撃ちあった後に離脱し、同航戦に持ち込んだのち、斜銃による撃墜を報告した(アメリカ軍の記録では、同日のP-61損失は戦闘・非戦闘いずれもなし[294])。この出撃では1機大破、1機が未帰還となった。

6月21日、菊水十号作戦が発動され、芙蓉部隊は白菊と零式観測機が行う夜間特攻の援護のため、伊江島飛行場を10機の彗星で攻撃する計画であったが、天候悪化で出撃できたのは6機に止まり、沖縄まで進撃できたのはたった3機であった。引き返した中で米倉稔上飛曹・恩田善雄一飛曹搭乗機が志布志湾に墜落、伊江島に達した島崎上飛曹・千々松中尉搭乗機はP-61に撃墜され、2機の彗星を失なうなど特攻機支援は失敗に終わった[295]。芙蓉部隊は撃退されたが、特攻機白菊は、 リパン(艦隊曳航船)英語版中型揚陸艦 LSM-59に曳航された駆逐艦バリーを攻撃し、バリーと[296]LSM-59に命中した。LSM-59は直ちに沈没し10名のアメリカ兵が死傷した。白菊1機が命中したバリーも翌日の6月22日に沈没した[297]。 また、付近にいたLSM-213にも命中し、13名の死傷者を生じさせ、これを大破除籍に追い込むなど[298]、練習機白菊での特攻は美濃部から「昼間なら何千機進撃してもバッタのように叩き落とされる」と酷評されていたが、美濃部が、芙蓉部隊だけが成し遂げた世界戦史上例を見ない離れ業と胸を張っていた、レーダーや電波誘導のない目視での大距離夜間攻撃を[299]、訓練を十分に受けていない訓練生が白菊で成し遂げて戦果を挙げている[注 11][300]。アメリカ軍も、通常は戦力とはならない未熟な搭乗員が操縦する練習機が、困難なはずの夜間攻撃で戦果を挙げていることに対して警戒を強めていた[301]

6月22日未明に零戦6機が索敵攻撃には出撃したが、敵を発見できずに帰還した。これが、芙蓉部隊の菊水作戦における最後の出撃となった[302]

本土決戦準備[編集]

フィリピンから沖縄に進出し芙蓉部隊とも戦った第548夜間戦闘機隊のP-61“レディオブザダーク”機、同機はアメリカ軍における第二次世界大戦最後の撃墜(陸軍の一式戦と二式単戦)をした機体

6月23日未明に、第32軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇中将が、沖縄南部の摩文仁の司令部壕内で自決し、沖縄における日本軍の組織的な抵抗は終わった[303]。3ヶ月間で特攻機1,895機[304]通常作戦機1,112機[305]を失った天号作戦は終わったが、小規模な特攻と芙蓉部隊の沖縄に対する夜間爆撃は続行された[306]

6月25日にも21日と同様に、前回失敗した夜間特攻の援護のため芙蓉部隊は全力出撃。特攻隊の突入を援護するため、14機が敵夜戦哨戒し各飛行場の陽動攻撃を行った。このうち5機の彗星が光電管爆弾と60kg爆弾を飛行場に投下し、海兵隊のF6Fと陸軍のP-61の夜間戦闘機数機が追尾してきたが、それらを振り切って全機生還することができた[307]。特攻機は不調により引き返した機を除き十数機が突入したが[308]、今回は芙蓉部隊の陽動の甲斐なく戦果はなかった[309]

1945年7月[編集]

7月2日に台湾から出撃した陸攻2機が、伊江島飛行場を夜間爆撃して大火災4か所の戦果を報告し無事に帰還した。台湾の第七六五海軍航空隊は、所属の陸攻と月光にて芙蓉部隊と同様に沖縄のアメリカ軍航空基地を夜間攻撃してきたが、航空戦力の枯渇によりこの7月2日が最後の航空基地攻撃となった[310]。陸軍飛行隊はすでに5月28日でアメリカ軍航空基地攻撃を止めており[311]、7月3日以降、沖縄アメリカ軍航空基地へは芙蓉部隊のみが攻撃を継続することとなったが、日本軍の攻撃が手控えになったことより、沖縄のアメリカ軍航空兵力の増強は加速化し、マリアナや硫黄島から飛来するアメリカ軍機も含めて、日本本土へのアメリカ軍機の来襲はほぼ連日の日課となった。特に7月10日以降は空前の激しさで、7月の約1か月間で日本本土に来襲したアメリカ軍機は延べ20,000機を数えるに至っている[312]

芙蓉部隊は天候の悪化が一段落した7月3日午前1時、彗星8機と護衛の零戦6機で対夜戦哨戒と伊江島飛行場爆撃を実施した。しかし、この時期になると各飛行場に海兵隊のF6F-5Nと陸軍のP-61が配備されており、有効射撃圏外の高空からの爆撃で、対空火器からの損害を軽減させていた芙蓉部隊であったが、夜間戦闘機が大きな障害となっていた。この攻撃も夜間戦闘機に阻まれて攻撃に失敗、彗星2機が未帰還となった。敵夜間戦闘機に苦戦する芙蓉部隊は7月4日と5日に夜間戦闘機制圧作戦を行うこととし、4日には彗星4機と零戦3機が、18試6番27号ロケット爆弾や28号ロケット爆弾といった、空対空爆弾である三号爆弾ロケット爆弾化した新兵器を装備し出撃したが、夜間戦闘機と遭遇することなく帰還した。翌5日には零戦3機は引き続き夜間戦闘機制圧に出撃したが、彗星4機は艦船攻撃任務のために斜銃を装備せずに出撃した。すると、皮肉にもP-61は艦船攻撃任務の彗星と遭遇し、彗星は艦船攻撃用に装備していた18試6番27号ロケット爆弾をP-61に発射し、戦果を確認できないままに退避した[313]。強力な火力と邀撃レーダーを装備するP-61の攻撃力は日本軍機を遥かに凌駕し、第418夜間戦闘機航空隊 英語版のメジャー.C.スミス少佐のようにP-61のみで5機の日本機を撃墜したエースもおり、日本軍機にとっては非常に難敵であったが[314]、芙蓉部隊機がP-61との遭遇回数に比して撃墜される機が少なかったのは、大型で機動が緩慢なP-61に対して、高速での蛇行や急降下し回避するなどの急機動を駆使したからであった[315]

7月15日夜に悪天候を冒して6機が出撃したが会敵せず、18日に10機が出撃するも、夜戦と故障、悪天候に阻まれ、3機のみが沖縄に到達した。うち北飛行場へ光電管爆弾を投下した彗星は、2か所の炎上確認を報告したが、彗星2機が未帰還となった。帰還した彗星のうち、川口次男上飛曹、池田秀一上飛曹の搭乗機は、着陸時にぬかるんだ滑走路で車輪がめり込んで損傷し、池田が負傷した[316]。秘匿性には秀でていた岩川基地であったが、肝心の滑走路は軟弱地盤に近くの菱田川からすくってきた砂利を押し固めただけのもので、雨が降るとぬかるみ[317]、もともと主脚が弱いのが欠点とされていた彗星[318]多数が離着陸時に大破して失われている。アメリカ軍は、日本軍航空戦略に対する評価で「日本軍の飛行場が粗末なものであったことも、作戦中の損失率を高くした要因のひとつであった。日本軍は連合軍ほどには舗装滑走路を重要視していなかった」「日本本土でさえ、陸軍飛行場で舗装滑走路をもっていたのは全体の50%にも達していなかった」と未舗装の粗末な滑走路が、日本軍航空戦力の大きな制約要因になったと分析しているが[319]、岩川基地もアメリカ軍がいうところの「粗末なもの」の一つであった。

7月23日、第五航空艦隊司令官宇垣が岩川基地を視察に訪れる。白菊特攻隊の西条空司令土井大佐も西条空の半数の白菊(50機)を率いてこの地にあったが、宇垣は美濃部より基地の状況について説明を受けている[注 12][320]。宇垣は、基地の巧みな秘匿状況に感心し、芙蓉部隊の活躍を褒め、美濃部の統率も高く評価している一方で、中型機の白菊が地上に分散して置かれていることには懸念を示している[321]。美濃部は夜間戦闘機の活用を宇垣に訴えた。宇垣も昼間に制空権を確保できない現状を鑑み「同意を表する所なり」としている[322]。宇垣は第五航空艦隊の特攻兵力が枯渇し、練習機や水上機といった機体まで特攻に出撃させていたにも関わらず、芙蓉部隊には優先的に彗星や零戦といった第一線機を補充することを許可したり、芙蓉部隊の食事の改善の手配をしたり、座光寺着任時には美濃部の直談判に応え、美濃部の地位を保障する辞令を発令するなど、美濃部に様々な支援を行っているが[注 13][323]、美濃部自身には、何度も出頭し宇垣と面談しているのに、やさしい言葉ひとつかけてもらったこともないという記憶しなかった[324]。岩川基地の視察は、宇垣と美濃部がお互いに乗馬が得意であったので、馬に乗って巡回したが、を並べて会話しているうちに、美濃部は宇垣が父親が息子を案ずるように語り掛けてくれていると感じ胸が熱くなっている。宇垣は美濃部に「この辺は米軍上陸の矢面となろう。この地は君に委ねる。多くの部下を抱えて大変だろうが、よろしく頼む。もう再び会うことはないかもしれんなぁ」と語りかけたのに対して、美濃部はようやく宇垣が芙蓉部隊を高く評価していたことを認識し[325]、宇垣の思いやりが心の奥までしみこみ「ご心配をおかけします。未熟者ですが精いっぱいやります」と答えるのが精一杯であった[326]。宇垣は、3月21日に神風特別攻撃隊 梓隊銀河24機のウルシーへの出撃を見送った際に[注 14]「吾も亦何時かは彼等若人の跡追ふものと覚悟しあるに因る」と、必ずあとから行くと心に決めていた[327]

宇垣の視察後の7月23日と25日にも芙蓉部隊は敵機動部隊の索敵攻撃に出撃したが、敵機動部隊を発見することはできなかった。帰路に大野実中尉の零戦が潜水艦の潜望鏡を発見し、僚機とともに急速潜航する潜水艦に機銃掃射し損傷させたと報告したのが唯一の戦果となった[328]。(23日、25日両日に該当のアメリカ側潜水艦の被害記録なし[137])。

7月28日、芙蓉部隊は29機を投入し、北飛行場と伊江島飛行場爆撃、敵夜戦哨戒、潜水艦攻撃を実施した。飛行場爆撃任務11機のうち、彗星5機が敵夜間戦闘機の哨戒をすり抜けたが、うち爆撃できたのは4機で、光電管爆弾を滑走路に命中させて4か所の炎上を報告した。残る1機は対空砲火で被弾し爆撃できず帰還、着陸に失敗し大破している。6機は天候不良や機体不調により引き返し、うち5機が天候や残燃料の問題で岩川ではなく鹿屋に着陸したが、敵夜間戦闘機の襲撃で3機を撃破されている[329]。翌7月29日には11機で敵機動部隊索敵攻撃、3機で伊江島攻撃を実施したが、雲が低くまで垂れこめ視界不良であったため、全機帰還することとなった。そのうち佐久間秀明中尉、長山舜一二飛曹が搭乗する彗星は、視界を失い洋上に不時着した。操縦していた長山は行方不明となったが、偵察員の佐久間は岸まで泳いで生還し、美濃部からは「お前、足あるか?」と冗談で迎え入れられた。ほかにも1機が着陸時に大破、この日も攻撃することもなく2機を失い[330]、28日~29日の2日間で十分な成果も挙げないまま合計6機の彗星を失っている。7月末には芸能慰問団が岩川を訪れ、落語漫才寸劇を披露したが、戦局の重圧に押しつぶされた隊員らの顔に笑顔はなく、その様子を見た美濃部は、勝算なき戦いで部下を犠牲にする無意味さ罪深さを実感し、自分の軍隊指揮の限界を思い知らされている[331]。美濃部自身も、7月上旬に岩川に視察に訪れた実兄の軍令部参謀太田守少佐から、総理大臣鈴木貫太郎らが終戦交渉を極秘裏に進めているという話を聞いて考えが大きくぐらついていた[332]

1945年8月[編集]

実兄の話や部下の様子を見て「誰かにたすけてほしい」との弱気も心に抬頭していた美濃部ではあったが[333]、宇垣と同様に、これまで戦死していった多数の部下を「いずれ後からいく、それまで待ってくれ」と送り出しており[334]、戦争が最終局面に至った8月に入っても引き続いて、悪天候でなければ沖縄飛行場攻撃、対潜掃討、索敵に十数機を出撃させていた。索敵任務中の彗星の夜戦が、鹿児島から霧島方向に侵攻中のB-24 3機とPB4Y-2 1機の編隊と遭遇し、25番の三号爆弾を投下、重爆3機の撃墜を報告している。美濃部は岩川基地秘匿のため、芙蓉部隊所属機に本土に侵攻する敵機の迎撃を禁じており[335]、芙蓉部隊所属機による爆撃機の撃墜報告はこの一例のみとなった[336]。(芙蓉部隊の公式戦闘詳報にはこの記録なく[337]、アメリカ軍の記録でも、1945年8月中に日本本土上空で撃墜されたB-24の記録はなし[338][339])8月8日にはアメリカ軍航空基地攻撃に出撃した彗星のうちで、清水武明少尉・中野増雄上飛曹の搭乗機が「伊江島飛行場、大火災」と打電したのち未帰還となり、中飛行場に爆弾を命中させた深堀三郎上飛曹・浜名今朝二飛曹機は岩川まで帰還したが、霧のため着陸に失敗し台地に激突し、計2機の彗星が失われた[340]

芙蓉部隊の主力機機彗星一二型が爆撃する瞬間の連続写真、ただしこれは芙蓉部隊以外の機が1944年4月に空母レキシントン (CV-16)を攻撃したときのもの

終戦直前の8月12日にも、芙蓉部隊は沖縄敵航空基地攻撃に出撃しており、藤井健三中尉と鈴木晃二上飛曹搭乗の彗星1機が伊江島飛行場を攻撃したが、すでにアメリカ軍は芙蓉部隊の細々とした夜間飛行場攻撃を脅威とは考えておらず、アメリカ軍飛行場は灯火管制もせずに全面的に照明をともしており眩いばかりであった。藤井と鈴木は「向こうはあかあかと電気をつけているのに、こちらはコソ泥のように攻撃にいくのか」「なめやがって」と憤りを覚えながら急降下して250㎏爆弾を投下したが、軽く見られたのか対空砲火すらまばらであった[341]

特攻もこの頃には芙蓉部隊と同様に夜間攻撃が主体となっており、終戦直前のこの時期で来襲する特攻機の機数は激減していたが、アメリカ軍艦隊は警戒を緩めておらず緊張感が持続しており[342]、アメリカ海軍水兵は夜間に絶え間なく続く戦闘配置命令でほとんど夜寝ることができず疲労困憊していた[343]。同じ12日には、芙蓉部隊と同様に特攻ではなく通常攻撃任務に従事してきた海軍航空隊第九三一海軍航空隊の天山4機が20時45分に、バックナー湾に停泊している戦艦ペンシルベニアに夜間攻撃をしかけて魚雷を命中させている。ペンシルベニアは艦尾に30フィートの大穴があき、上甲板に海面が迫る程大量に浸水し、3つのスクリューのうち2つが破壊されるという深刻な損傷を被った[344][345]。また20名の戦死者と10名の負傷者が出たが、負傷者の中には第1戦艦戦隊司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将も含まれていた[346]。的確なダメージ・コントロールで沈没は逃れたが、沖縄戦における通常攻撃機での夜間攻撃最大の戦果となった。翌13日には夜間攻撃の特攻機が、同じくバックナー湾に停泊中の攻撃輸送艦 ラグランジ英語版 に命中、ラグランジは大破し、101名の死傷者を出す甚大な損害を被っている[347]。特攻機に対する夜間攻撃対策としてアメリカ軍は各艦艇に、灯火管制と煙幕の展張を命じており、また、夜間の特攻機はアメリカ軍の対空機銃から発射される曳光弾を辿ってアメリカ軍艦艇を攻撃してくるため、各艦個別の対空射撃を禁止するほどの徹底ぶりだった[348]

8月14日にも芙蓉部隊は4機の彗星が沖縄に出撃したが、雲が厚く、ようやく雲の切れ間を発見して降下すると、飛行場ではなく物資の揚陸地点であった。彗星は揚陸地点の物資の山に250㎏爆弾を投下し帰還したが、1機が未帰還であった。(未帰還機搭乗員の官姓名不明)この彗星が芙蓉部隊最後の未帰還機となった[349]

美濃部は戦後に、決号作戦本土決戦)準備を進める軍に対して、軍高官は「もはや戦いの名目もない狂者の戦」を続けるよりは全員切腹して天皇にお詫びすべきであった、と強く非難の思いを抱いていたと回想しているが[350]、沖縄での敗戦が明らかとなっていた時点では、軍命は重く逆らえなかったとして、『芙蓉部隊決号作戦計画』という最後の玉砕作戦を考案している。その作戦計画によれば、24機が最後の敵機動部隊に特攻出撃するが、特攻機の搭乗割には主立った士官、准士官、夜襲に熟練した下士官・兵搭乗員を、本人には知らせることなく指名しており、空中指揮は美濃部自身がとるつもりだった[351]。『芙蓉部隊決号作戦計画』の内容は、美濃部に率いられる24機の特攻機が「敵は上陸前に、必ず機動部隊の猛攻を加えてくる。まず、爆装の索敵攻撃隊を出して敵艦隊を捕捉する。その通報を受けてやはり爆装の攻撃隊が発進し、爆弾を海面でスキップさせて敵艦の舷側にぶつける肉薄の反跳爆撃を敢行したのち、全弾を撃ちつくして艦艇に突入。空母がいて甲板上に飛行機がならんでいれば、滑りこんで誘爆で破壊する」と特攻攻撃を敢行し[352]、そして残された整備兵などの地上要員については、第五航空艦隊からの日向市富高への撤退命令を美濃部は「笑止」と一笑に付し、「基地に地雷や空雷(航空機用の爆弾やロケット弾を樹上にぶら下げたもの[353])を敷設し、敵が上陸すれば一兵たりとも後退戦法はとらず、最後は付近住民を道連れにして、全員が敷設した地雷、空雷で自爆し敵上陸軍と刺し違える」という特攻と自爆作戦であった[354][注 15][355]

終戦[編集]

玉音放送後に特攻出撃した第五航空艦隊司令官宇垣纏中将、乗機は芙蓉部隊主力機彗星一二型の水冷エンジンから空冷エンジンに換装された彗星43型

1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を伝える昭和天皇の玉音放送が放送され、多くの国民や兵士が終戦を知った。芙蓉部隊は岩川と藤枝で対応が分かれ、藤枝では指揮官の座光寺が全隊員に放送を聞くように命令し、隊員は指揮所前に集合して放送を聞いている。岩川は藤枝のように統率がとれておらず、指揮所前に整列して放送を聞いた隊員がいた一方で[356]、指揮官の美濃部は一部搭乗員と図上演習をしており放送を聞いていなかった[357]。美濃部は玉音放送の内容を新聞電報で知ったが、本当に終戦が昭和天皇の意思であったのか疑っていた[358]。そのような状況で、懇意にしていた三〇二空司令小園が、玉音放送後に全軍に打電した「赤魔の謀略に翻弄されたる重臣閣僚等は、上聖明を覆い奉りて、前古未曽有の詔勅の渙発を拝す」「日本は神国なり、絶対不敗なり、必勝の信念に燃ゆる我等実施部隊員が、現態勢を確保して、醜敵の撃滅に団結一致せば、必勝は絶対に疑いなし、各位の同意を望む」との徹底抗戦決起を促す檄文[359]を受信すると、「やはり思った通りだ!この詔勅は陛下のご本意ではないのだ」と小園の檄文を妄信し、「三〇二空が立つのなら呼応する」という電文を全軍に向けて打たせている[360]。その後、全搭乗員を集めると「座して神州が汚されるのを見るより、むしろ武人の節を全うして死のう。指揮官の意思に従う者はついてこい!」と訓示している[361]。情勢を冷静に見極めていた副官の徳倉は、徹底抗戦を主張する美濃部を「(抗戦は)止めた方がいいですよ、もうアカンでしょう。」と諫めたが[362]、「指揮官は相談相手すらいない孤独なもの」と考えていた美濃部が聞き入れることはなかった[363]。その後も第五航空艦隊司令部からは何の指示もなく、美濃部は「頼りにならぬ司令部」と非難しているが[364]玉音放送後、美濃部を評価・支援してきた第五航空艦隊司令の宇垣は、中津留達雄大尉以下11機の彗星を連れて終戦後の私兵特攻に出撃し死亡しており、第五航空艦隊司令部も混乱を極めていたのを美濃部が知る由もなかった[365]

玉音放送後も第五航空艦隊隷下の各部隊は自衛警戒を主とする作戦を継続した。徹底抗戦を決心した美濃部は、8月16日に高知海軍航空隊が発した「南方に敵機動部隊らしきもの見ゆ」との報を受けると、戦闘準備した彗星12機、零戦8機を出撃させたが、敵艦隊は発見できなかった[366]。この敵艦隊発見は誤報であったが、芙蓉部隊と同様にこの報告を受けて出撃準備をしていた宿毛基地の特攻艇第一二八震洋隊で爆発事故が発生し、23隻の震洋が誘爆、特攻隊員26名、基地隊員111名の合計137名が爆死した。爆発の威力は凄まじく、兵舎として利用していた民家4軒は全壊、周囲の十数戸の民家も爆風で傾いていた[367]。この誤報の責任を重く感じた高知空司令の加藤秀吉大佐は、副官らが自決しないよう軍刀や拳銃を取り上げたにも関わらず、井戸に飛び込んで自決してしまった[368]。芙蓉部隊は17日にも20機の彗星と零戦を戦闘準備させたうえで、南九州沖に索敵攻撃に出撃させているが、この日もアメリカ軍との接触はなく全機無事に帰還している[369]。終戦の詔勅が出ているにも関わらず出撃を命じたことについて美濃部は、第五航空艦隊などの上級司令部からの指示がないなかで、捕虜や降伏の方法についての定めがない日本軍の戦陣訓の伝統に縛られたせいであったと著書に記述している[370]

藤枝においても、8月17日に三〇二空の戦闘機が決起を促すビラを撒いていき、岩川の芙蓉部隊員同様に隊員らのなかに抗戦の空気が流れつつあったが、指揮官の座光寺はそんな隊員らの様子を見て、士官らを士官室に集めるや拳銃を上に向けて2~3発発射し「ともかく戦争に負けた。このさい軽挙妄動は禁物である。連合軍がどのような措置をとるかは分からないが、子孫にわれわれの精神を受け継がせよ。きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と訓示した。この座光寺の強い意志で、藤枝の芙蓉部隊隊員らは岩川の本隊より先に終戦を受け入れ、復員作業を開始している[371]

第五航空艦隊の司令官は宇垣が私兵特攻で死亡後、前連合艦隊参謀長の草鹿が後任となり、8月17日に正式に補職された。第五航空艦隊には連合艦隊から参謀副長菊池朝三少将が、終戦の詔勅が出たいきさつを説明にきたが、第五航空艦隊幕僚らは納得しなかったため、草鹿は第五航空艦隊参謀長の横井俊之少将に、直接、東京の海軍省まで事情を聞きに行かせて、第五航空艦隊幕僚や現場指揮官に説明させることにし、横井が東京から戻って来る8月18日に、草鹿は美濃部ら現場指揮官を司令部に招集した[372]。このときに美濃部は大恩ある宇垣が特攻、フィリピンで美濃部を評価してくれた大西が割腹自決したことを知って愕然としている[373]。他にも、特攻に関係した将官・高級士官の自決が相次ぎ、陸軍航空本部長寺本熊市中将が「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決、他にも前第4航空軍参謀長で陸軍航空審査部総務部長隈部正美少将[374]航空総軍兵器本部の小林巌大佐、練習機『白菊』特攻隊指揮官、高知海軍航空隊司令加藤秀吉大佐など、航空関係だけで58名が自決がしており[375]、前海軍次官で終戦時軍事審議官だった井上成美大将は、戦後に続いた将官・高級士官の自殺を「責任の地位にある者が自殺するのは、当人の自己の生涯は飾れ満足かも知れないが、これが自殺流行の風潮となり、誰も今後のことを顧みなくなるのは国家の大きな損失である」と憂いている[376]

8月18日、美濃部は自分で零戦を操縦して大分の第五航空艦隊司令部に出頭した。横井は集まった美濃部ら部隊指揮官らに、海軍省で聞いてきた詔勅が出たいきさつを説明した。特に横井が「自分はいかになろうとも国民の命を助けたい。」との昭和天皇の御前会議での発言を朗読すると、それまでいきり立っていた指揮官らもがっくりと頭を垂れて、すすり泣きやむせび泣く声が室内に充満した[377]。草鹿は、横井が一通り説明を終わると「いったん陛下が戦争をやめよ、といわれれば私はそれに向かって全力をあげざるを得ない。われわれは戦うも戦わざるもひとつに大命のままである。」「自らの思うところに従い行動するということならば、まずこのわたしを血祭りにあげて、しかるのちことをあげよ。いけないと思ったら即座にやれ。」と身を挺して諭した[注 16][378][379][380][381][382]。すると、草鹿の説得を聞いたある若手士官が「長官のお話によって、われわれはのぼせがすっかりさめました。私にも数十人の部下がおりますが、私がかならずまちがいのないように掌握いたしますから、その点どうか安心ください。」と申し出て、ほかの参加者も同意した。草鹿は会議参加者に酒をふるまい、みんなで乾杯して大きな混乱もなく会議は散会となった[383]。常に指揮官先頭を標榜し、沖縄戦では全力決戦死闘で指揮官である自らも先頭に立って散華し、天皇や国民に詫びるべきと決心していた美濃部ではあったが[384]、草鹿と横井の説得で他の指揮官同様に抗戦を諦め、岩川に帰り隊員に抗戦断念を告げたが、出発前からコロッと態度が変わった美濃部を見た抗戦を焚きつけられていた隊員からは[385]「今さらそんなこと言われても・・・」「戦わせてください、死ぬ覚悟はできているんです」と猛烈な突き上げを受けることとなった。美濃部は騒ぐ隊員らを大喝で鎮めると、泣きながら日本の軍隊は天皇陛下の軍隊であると説得し、最後は「陛下の御聖断が下された以上、その聖慮に沿い、矛を納める・・・あくまで戦わんとする者は私を斬っていけ」と草鹿が美濃部らを諭したときと同じように身を挺して隊員をなだめた[386]

美濃部は、この第五航空艦隊の会議に勅使として参加していた軍事審議官井上から、会議後にひとりだけ呼ばれて、直々に「君の部隊はこれまでよく戦った。今になって降伏とは腹にすえかねよう。しかし、聖断が下った今、若い者が多く大変であろうが自重してもらいたい」と声をかけられたと記憶しているが[387][注 17][388]、井上は終戦直後の8月16日の昼から米内光政の海軍大臣留任のため、軍事参議院で意見調整するなど奔走したのちも、東京の海軍省と[389]起居していた水交社を往復し[390]、8月21日には、緑十字機マニラに飛び、ダグラス・マッカーサー司令部と終戦事務処理の打ち合わせしてきた杉田主馬書記官から海軍省内で報告を受けており、大分で開催された第五航空艦隊の8月18日の会議に井上が参席していたという事実はない[391][注 18][392]。井上が九州入りしたのは、終戦事務を進めていた第五航空艦隊で一部混乱が生じていたことを懸念した海軍大臣米内が、井上に9月10日付官房第409号で第五航空艦隊の査閲を命じる訓令を出してからであり[393]、井上はこの訓令により、空路で九州入りすることにしたが、すでに日本の空は進駐軍の管制下で、飛行許可を取るため進駐軍に接収された横須賀基地に出向いて、井上自らが得意のキングズイングリッシュで手続きを済ませている[394]。井上は9月14日に海軍の零式輸送機で第五航空艦隊司令部のある大分に飛び[395]、その後24日まで松山、美保を廻り、終戦事務の査閲を行っている[396]。査閲のさいに井上は美濃部ら各指揮官と面談し、統制ある終戦処理を推進して帝国海軍の有終の美を飾るよう説いている[397]

草鹿らの説得で降伏を受け入れた芙蓉部隊に8月20日には司令部から復員の命令が届いたが、進駐軍に対する不穏な行動を抑止するため、「24時間以内に基地から2㎞圏外に離脱し、隊員はすみやかに復員せよ」という急なものであった。公共交通機関は麻痺状態にあり命令は実現困難であったので、美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可した。司令部の許可もなく、アメリカ軍への機体引き渡しの際にひともめすることが懸念されたが、これが美濃部にできる隊員らへの唯一のはなむけであった[398]。部隊の飛行機による復員は、特攻機桜花などで特攻作戦を推進した第七二一海軍航空隊(通称神雷部隊)などでも行われており、既に軍の組織は崩壊し、軍の規律もないに等しいことを現していた[399]。復員をする隊員らには、とりあえず1年間の生活費として200円が支給された[400]。 8月21日の朝に鹿屋に進出以来初めてとなる合同慰霊祭を開催、慰霊祭が終わった後で美濃部が最後の訓示を述べた。「この戦争は敗れた。だが10年たてば、ふたたび国を立てなおす可能性が出てくるかも知れない。この間、自重し、屈辱に耐えてがんばってもらいたい。10年ののち、ここにもう一度集まろう」、訓示の後、正午に零戦と彗星が引き出され発進準備を進めたが、皆がなかなか出発しようとしないなか、美濃部や残留者が「早くいけ」と急き立てた。美濃部は最後の1機が見えなくなるまで空に向けてゆっくりと帽子を振り続けた[401]。各機は通信機などの装備を外して、故郷が同じ方向の人間を乗れるだけ詰め込んで(本来2名乗りの彗星には4名搭乗)、最寄りの飛行場で順次降ろしながら、最後の搭乗員の最寄りの飛行場で機体を焼却する手筈となっていた[402]

美濃部は復員の零戦と彗星を見送ったのちに、残務整理のため残した十数名と、高千穂山中の農家の離れ家に1年分の武器、弾薬、食料等を運び込んでいる[403]。美濃部は草鹿らの説得で一旦は抗戦は諦めたとしながらも、進駐してきた進駐軍兵士が乱暴狼藉をはたらいたときには、この農家の邸宅の一角にある離れ家をアジトとして進駐軍に抵抗する計画であった。しかし、翌日に第五航空艦隊司令部が「第五航空艦隊幹部は原隊に復帰せよ」という命令を出したため、美濃部らはわずか1日でアジトを撤収させられ、進駐軍への抵抗を諦めて岩川に戻る羽目になった[404]。美濃部は復員の際に一部を除いて幹部士官まで復員させてしまっていたが、第五航空艦隊司令部が原隊復帰命令を連日ラジオ放送でも呼びかけたため、いったん故郷に帰った芙蓉部隊士官が慌てて岩川に引き返している[405]

戦後[編集]

第五航空艦隊司令官の草鹿は、総理大臣の東久邇宮稔彦王から鹿屋に進駐してくるアメリカ軍との折衝のため、鹿屋連絡委員会委員長に任じられた[406]。終戦間もない9月3日に、鹿屋に第5空軍副司令ノーマン.デルバート.シリン大佐[407]を団長とする先遣隊が到着し[408]、草鹿は他の委員会のメンバー(鹿屋連絡委員会は外務省、内務省、大蔵省等の主要官庁や鹿児島県庁からの出向者等で構成)と先遣隊を出迎えたが[409]、アメリカ軍からは真っ先に「カミカゼボーイはどうしているか?」と特攻隊員の動向を懸念するような質問があった。そこで草鹿が「カミカゼボーイは私が解散させた。・・・おれがやめろと一言いえば、ひとりもでてきはせぬから、その心配はいらぬ」と説明すると、アメリカ軍側は安心し、円滑に接収交渉が進んでいる[410]

岩川では、残った芙蓉部隊幹部らで接収準備を進めていたが、10月になって海軍より隊員らに給料20か月分を退職金として支払うように指示があった。しかし、復員時に新住所を把握できていなかった隊員も多く、退職金支給手続きが進まなかったので、美濃部はやむなく、解散した芙蓉部隊名で元隊員らに連絡先等の通知を求める新聞広告を出している[411]

進駐軍への岩川基地の引き渡しは、鹿屋からはかなり遅れて11月15日に行われた。40機以上の彗星と零戦を復員に使用したことは、日本国内では憲兵隊に注意を受けたのみで特に問題にはなっていなかったが、持病のマラリアに苦しみ、生きる目標がなくなっていた美濃部は[412]、彗星や零戦を復員に使用し四散させたことを進駐軍に咎められたら、接収係官を殺害し自分も自決しようと考えて、白装束のつもりで下着からワイシャツまですべて白無地のものを着用し、腰には斬りかかるための軍刀を下げてアメリカ軍大尉の接収係官に応対した[413]。しかし接収は美濃部が拍子抜けするほどスムーズに進み、岩川に残っていた損傷した彗星3機と零戦14機を引き渡した後に、美濃部は接収係官に、刺し違えるときに使用するつもりであった軍刀を差し出した。進駐軍は岩川を使用することはなく、飛行場は元の農地に戻り、秘密基地が存在したという事実も歴史のかなたに消えていった[414]

美濃部は戦後に、戦没者遺族対策や農業など職を転々としたのち、旧海軍の伝手を利用して航空自衛隊に入隊、空将まで昇進後退官し、日本電装学園学園長を61歳となる1976年まで勤めた[415]。その後、美濃部が終戦時に「10年後に集まろう」と呼びかけた岩川基地跡地に、1978年になって戦死した隊員を慰霊する「芙蓉之塔」が建立され、美濃部ら元隊員や関係者・遺族100名以上が集まって式典が開催された[416]。 芙蓉部隊の練成基地であった「藤枝基地」は「静浜基地」と改名され、航空自衛隊の初級操縦教育を行っている。1980年基地内に、元芙蓉部隊隊員一同により芙蓉部隊記念碑が建立された(1996年に黒御影石にて再建)。芙蓉の名は今も第11飛行教育団第2飛行教育隊のコールサイン「FUYO」として受け継がれている[417]

戦績[編集]

艦船攻撃[編集]

芙蓉部隊は終戦までに、出撃回数81回延べ786機が出撃、戦闘による未帰還機は零戦16機、彗星37機合計53機、出撃延べ機数に対する損失率は6.7%、死者105名[418]、敵を殆ど発見できなかった索敵任務を除き、飛行場攻撃や特攻機誘導などの戦闘任務だけでは、延べ341機の出撃で37機を喪失し損失率は10.9%となっている[419]。沖縄戦における同期間内の日本海軍の通常攻撃機(艦船、地上攻撃を含むすべての攻撃、爆撃機)で、記録の残っている2,148機の出撃に対する未帰還機数は231機で損失率は10.8%となっているが、この出撃機数のうちの大半は日中の出撃機であり、夜間攻撃の芙蓉部隊と比較するとより激烈な迎撃を受けていたが、芙蓉部隊の戦闘未帰還率はこの日本軍通常攻撃全体の未帰還率とほぼ同じ水準であった[420]。未帰還機数には含まれていない地上で撃破された機や離着陸時に大破した機を含めると、芙蓉部隊は岩川での部隊定数の70機(彗星45機、零戦25機)を超える機数を損失しており[421]、特攻隊に参加せずと宣言しながら決して少なくはない損害を被った[422]。また人的損失も大きく、美濃部が詳細を把握している彗星夜戦隊の搭乗員(岩川に配属された者のみ)は、全160名の搭乗員中戦死61名で戦死率は38%[423]、零戦夜戦隊に至っては詳細な人数は不明ながら戦死率は60%と非常な高率となっている[424]。芙蓉部隊の元整備兵慎田崇宏も、自分たちが大きな戦果をあげた代償で、ほかのどの部隊より大きな損害を被ったと述懐している[425]。大きな損害と引き換えに挙げた総合戦果は、潜水艦1隻撃沈[426](この戦果を挙げたとされる5月12日にアメリカ軍に該当の被害記録なし[137])、戦艦1隻撃破、巡洋艦1隻撃破、大型輸送船1隻撃破[427](戦艦撃破については芙蓉部隊の戦闘詳報には記録なく[428]、アメリカ軍にも該当の被害記録なし[注 19]。巡洋艦、大型輸送艦についても芙蓉部隊が撃破したと報告した4月6日にアメリカ軍に該当の被害記録なし[137])、敵機夜戦2機撃墜(うちP-61の1機は該当するアメリカ軍の損害記録なし[429])、飛行艇1機炎上、テント1個炎上を報告している[430]

以上の通り芙蓉部隊による艦船攻撃の戦果で、アメリカ軍の被害記録で確認できるものは一つもない。これは美濃部自身がソロモンでの夜間戦闘の戦果確認飛行で、敵艦隊を攻撃する友軍攻撃隊の様子を観察し、激しい弾幕の中で突入する搭乗員が、照明弾や曳光弾などの限られた光源しかなく、音も自機のエンジンの爆音でかき消された闇夜の戦闘の中での戦果確認は困難を極めることを痛感させられていたが[431]、美濃部はその困難な状況で判定した攻撃機の搭乗員による過大で不正確な戦果報告が、そのまま公式の戦果報告として採用されるのを批判的な目で見ておりながら[432]、芙蓉部隊の戦果判定も、攻撃隊搭乗員の戦果報告に基づいたためである[433]

沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[434]、その大部分は特攻による損害で[435]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[436]

飛行場攻撃[編集]

右がアメリカ軍飛行場砲撃に威力を発揮した八九式十五糎加農砲、4月16日で2門が破壊され一旦飛行場砲撃が中断されたが、4月20日に2門を再配置し4月下旬まで飛行場砲撃を続け、嘉手納飛行場に損害を与えている。

沖縄のアメリカ軍航空基地へは、芙蓉部隊が延べ293機(制空任務の零戦夜間戦闘機も含む)[437]、芙蓉部隊以外の海軍航空隊では、九州の各基地から延べ134機[438]、台湾の各基地から延べ88機の合計222機(爆撃機、攻撃機のみで戦闘機は含まず)、陸軍飛行隊の第6航空軍からは延べ194機(爆撃機、攻撃機、戦闘爆撃機のみで制空任務の戦闘機は含まず)[439]、合計延べ709機が夜間もしくは黎明攻撃を行っており、攻撃参加機数から見ると、芙蓉部隊が沖縄戦でのアメリカ軍航空基地夜襲の主力を担っていたことになる。

芙蓉部隊の攻撃により、アメリカ軍飛行場へ6回の大火災を発生させ[440][注 20][441]、中でも8月8日の伊江島飛行場攻撃では、美濃部は著書で、未帰還となった彗星1機の爆撃により「戦後米軍資料によれば揚陸直後の600機炎上」という大戦果を挙げたと主張しているが[442]、アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』では、義烈空挺隊による損害以外で、地上で撃破されたアメリカ軍航空機(アメリカ海軍・海兵隊航空機も含む)の記録はなく、伊江島飛行場がそのような大損害を被った記録もない[注 21][443][444][445]、伊江島飛行場に配備されていた第318戦闘機航空隊 英語版の戦闘記録でも、日本軍による空襲の記述があるのは、芙蓉部隊が休息していた5月24日の義号作戦に伴う空襲のみとなっている[446]

また、芙蓉部隊について調査し『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』を執筆した作家の渡辺洋二はその著書で、「芙蓉部隊の連続夜襲がどの程度、米軍にダメージを与えたか判然としない」としながらも、沖縄戦当時、嘉手納飛行場で作戦に従事していたアメリカ海兵隊航空隊VMF-322 英語版の戦時日誌の、4月27日に嘉手納飛行場が日本軍の砲撃によりF4U が1機大破、他3機損傷したという記録を、日本陸軍の砲撃によるものではなく芙蓉部隊の戦果と類推し[注 22][447]「芙蓉部隊と美濃部流戦法は確固たる足場を築くに至ったのだ」と評価しているが[448]、嘉手納飛行場の損害は、アメリカ海兵隊嘉手納基地の沖縄戦公式戦記においても「午前2時25分にカデナの飛行場が砲撃され、4つのテントが破壊され、海兵隊員1人が負傷した。砲撃は戦闘を妨害することはほとんどなかった。」と日本軍の砲撃による損害の記録のみであり[449]、アメリカ軍の記録上で嘉手納飛行場に芙蓉部隊が打撃を与えたという記録は確認できない。義烈空挺隊に攻撃されて、一時的とはいえ使用不能となる損害を被った読谷飛行場でも、沖縄戦当時に同飛行場で作戦に従事していたアメリカ海兵隊航空隊VMF-311 英語版の公式戦記において、日本軍による航空攻撃の記述があるのは義号作戦に伴う空襲と義烈空挺隊との戦闘のみであり、伊江島や嘉手納と同様に読谷飛行場でも芙蓉部隊の戦果は確認できない[450]

1945年1月にフィリピンで鹵獲されアメリカ軍にテストをうける彗星33型

芙蓉部隊の彗星による夜間飛行場攻撃が、アメリカ軍にとって特別な脅威となっていたという指摘がなされることもあるが[451][452][453][454]、沖縄戦におけるアメリカ陸軍公式戦史『United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle』やアメリカ海兵隊公式戦史『Okinawa: Victory in the Pacific』等の公式戦史や公式報告書、アメリカ軍指揮官クラスの軍人の回顧、従軍記者による報道等で、芙蓉部隊不参加の5月24日~5月25日の義号作戦と同作戦に伴う夜間爆撃以外で、日本軍航空機によるアメリカ軍飛行場への夜間攻撃についての記述はほとんどない上に[455][456][457][458][459][460][461][注 23][462]、アメリカ海軍が特攻機による夜間攻撃対策として、灯火管制などの警戒態勢を終戦まで洋上の艦船に維持させていたのに対し[463][464]、アメリカ軍航空基地は、ほぼ芙蓉部隊のみが攻撃するようになった大戦末期には、灯火管制すらしていないなどほとんど警戒をしておらず[465]、アメリカ軍が日本軍航空機による飛行場への夜間爆撃を特別に警戒していたという事実はなく[注 24][466][467][468][469]、さらに、その中で芙蓉部隊の彗星を個別に脅威と認識していたとは確認できない [注 25][470]。彗星は、フィリピンの戦いで、クラーク・フィールドがアメリカ軍によって奪還された際に、空冷エンジンの33型がほぼ無傷で鹵獲されており、鹵獲日本軍機をテストしていたTAIU 英語版により詳細に分析されているが[471]、アメリカにおける彗星の一般的な評価は、「高速で軽快な急降下爆撃機ながら、燃料タンクの防弾装備が不十分で脆弱」であった。しかし、急降下爆撃により、軽空母プリンストンを撃沈し[472]、正規空母フランクリン[473](アメリカ軍の記録上は“JUDY”とされているが、命中した爆弾は2発なので攻撃したのは銀河の可能性も高い[474])を大破したことや、特攻機専用型43型が製造されるなど、特攻機としても投入され、正規空母エセックス[475]、正規空母バンカーヒル(実際は零戦2機による[476])を大破するなど、飛行場爆撃ではなく対艦攻撃により、連合軍艦船に多大な損害を与えたことでも知られている[477][478][479][480][481][482]

結局、芙蓉部隊の彗星、海軍の陸上攻撃機、陸軍の重爆撃機などがアメリカ軍航空基地を攻撃し続けたが、アメリカ軍の記録に特筆されるような成果をあげたのは義烈空挺隊のみで、他は特に沖縄戦の戦局に寄与することはなく、沖縄のアメリカ軍航空基地は、特攻機の迎撃や地上戦への航空支援などで活躍し[483]、沖縄戦での連合軍の勝利に大きく貢献している[484]。嘉手納飛行場に配備されていた海兵隊の戦闘機隊は、特攻機を撃墜することにより多数のアメリカ兵の命を救ったとして『The Sweetheart of Okinawa(沖縄の恋人)』という愛称で呼ばれていたほどであった[485]。また、沖縄の飛行場より出撃したアメリカ軍の爆撃機や戦闘機は、我が物顔で南九州の日本軍飛行場、市街地、住宅などを攻撃したが、岩川基地の秘匿に腐心していた美濃部は、多数の戦闘機を擁しながら敵機の迎撃を禁じていた[486]。それまでの苦い経験により、美濃部は基地隠匿に関しては一切の妥協を排しており[487]、1945年8月6日にアメリカ軍戦闘機が岩川の市街地を襲撃し、岩川駅や覚照寺を機銃掃射し市民に多数の死傷者が生じたが、その時も美濃部は戦闘機搭乗員の迎撃出撃の懇願を却下し[488]、岩川基地に配備されていた四連装の九三式十三粍機銃2基には[489]、超低空で飛行してくる敵機にすら絶対に発砲するなと命令していた[490]。そのため、岩川基地は敵に発見されることなく、ついに終戦まで一回の爆撃も受けず、南九州の基地では唯一地上損害なしという快挙を成し遂げているが[491]、アメリカ軍機の空襲や機銃掃射を受けた住民らは、美濃部の作戦方針など知る由もないので「戦闘機隊なのになぜ上がらないのか」「逃げ隠れしているのか」と不満を抱かせることになった[492]。しかし、岩川が秘密基地であったからこそ、大規模な空襲を受けず、結果的に岩川を守った。という意見もある[493]

芙蓉部隊沖縄戦出撃一覧[編集]

芙蓉部隊が作成した報告書「芙蓉部隊天号作戦々史 自昭和20年2月1日至昭和20年8月末日」の「芙蓉部隊戦闘経過」による。二次資料も参照し記述された本文中の経過とは一部異なる部分もあり[494]

出撃日 任務 出撃機 損失[注 26] 戦果 備考
1945年3月30日 鹿屋基地移動  彗星3機 零戦2機 なし 藤枝基地から鹿屋基地に進出
1945年3月31日 鹿屋基地移動 合計25機 彗星1機 藤枝基地から鹿屋基地に進出
1945年4月4日 沖縄東方索敵攻撃 彗星8 零戦4 なし なし
1945年4月6日 上陸地点への銃爆撃による敵陣の攪乱 彗星8 零戦6 零戦2機 巡洋艦に3発ロケット弾命中 輸送艦1炎上 同日、アメリカ軍に該当被害記録なし[137]
1945年4月8日 奄美大島東索敵攻撃 彗星8 零戦6 なし 天候不良のため4機帰還、敵発見できず
1945年4月12日 北・中飛行場銃爆撃・敵戦闘機制圧 彗星14 零戦8 彗星3 零戦3 大火災炎上3か所
1945年4月14日 特攻機誘導 彗星2 彗星2 喜界島に敵発見
1945年4月15日 陸軍特攻機誘導 彗星1 彗星1 陸軍特攻機突入確認
1945年4月16日 北・中飛行場銃爆撃による早朝制空 彗星12 零戦4 零戦1 大火災7か所
1945年4月17日 奄美大島東方索敵攻撃 彗星12 零戦3 なし 敵夜間戦闘機と遭遇するも敵艦発見できず
1945年4月20日 喜界島南方索敵攻撃 彗星12 なし 敵発見できず
1945年4月22日 喜界島南方索敵攻撃 彗星8 零戦4 なし 敵発見できず
1945年4月25日 九州南東方索敵攻撃 彗星4 零戦4 零戦1 敵空母発見
1945年4月27日 喜界島東南方索敵攻撃 彗星6 零戦6 なし 敵発見できず
1945年4月28日 終夜飛行場銃爆撃による夜間早朝制空 彗星20 零戦8 零戦1 4か所炎上
1945年4月29日 終夜飛行場銃爆撃による夜間早朝制空 彗星12 零戦6 彗星1 零戦1 彗星の偵察員1名機上戦死 中飛行場4か所炎上 慶良間飛行場飛行艇1機炎上テント1炎上 アメリカ軍の記録では中飛行場(嘉手納飛行場)の被害は陸軍の砲撃によるもの[495][496]
1945年4月30日 終夜飛行場銃爆撃による夜間早朝制空 彗星12 零戦4 彗星4 零戦1 伊江島飛行場炎上1か所
1945年5月3日 沖縄飛行場攻撃 彗星6 なし なし
1945年5月4日 沖縄飛行場攻撃 彗星8 彗星2 北飛行場炎上2か所
1945年5月5日 沖縄飛行場攻撃 彗星6 なし 不明
1945年5月6日 沖縄飛行場攻撃 彗星6 なし 不明
1945年5月7日 索敵攻撃 彗星8 なし 敵発見できず
1945年5月9日 列島線索敵攻撃 彗星10 零戦2 なし 敵発見できず
1945年5月10日 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 彗星10 零戦4 なし 炎上2か所 夜間戦闘機撃墜1
1945年5月12日 列島線索敵攻撃 彗星10 零戦2 彗星1 潜水艦撃沈1 同日、アメリカ軍に該当被害記録なし[137]
1945年5月13日 敵夜間戦闘機鹿屋上空跳梁・付近海域索敵攻撃 彗星12 彗星1 佐多岬沖に敵機動部隊発見
1945年5月14日 敵夜間戦闘機鹿屋上空跳梁・付近海域索敵攻撃 彗星8 零戦2 彗星2 なし
1945年5月24日 列島線東方索敵攻撃 彗星10 零戦4 なし 敵発見できず 5月15日~5月24日まで岩川基地への移動。24日の出撃は午前2時で、日中は移動最終日で説明会などが開催されている[497]
1945年5月25日 列島戦を含む東西索敵攻撃 彗星10 零戦8 なし 敵発見できず
1945年5月26日 列島線索敵攻撃 彗星4 零戦4 彗星1 敵発見できず
1945年5月27日 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 彗星12 零戦6 なし 炎上3か所 
1945年5月28日 列島線索敵攻撃 彗星8 零戦6 なし 敵発見できず
1945年5月29日 列島線索敵攻撃 彗星8 なし 敵発見できず
1945年5月30日 列島線索敵攻撃 彗星4 なし 敵発見できず
1945年6月2日 列島戦を含む東方索敵攻撃 彗星8 零戦6 なし 敵発見できず
1945年6月6日 索敵攻撃 彗星8 零戦5 なし 潜望鏡発見銃撃 同日、アメリカ軍に該当被害記録なし[137]
1945年6月8日 沖縄飛行場攻撃・索敵攻撃 彗星5 零戦6 なし 伊江島炎上2か所
1945年6月9日 沖縄北飛行場攻撃・索敵攻撃 彗星10 零戦5 彗星3 不明
1945年6月10日 沖縄飛行場攻撃・敵夜間戦闘機掃討 彗星6 零戦4 彗星1 夜間戦闘機撃墜1  同日、アメリカ軍記録に夜間戦闘機損失の記録なし[498]
1945年6月21日 沖縄飛行場攻撃 彗星8 零戦2 彗星1 零戦1 炎上1か所
1945年6月22日 沖縄飛行場攻撃・索敵攻撃 彗星6 零戦6 彗星2 敵発見できず
1945年6月25日 沖縄飛行場攻撃 彗星8 零戦5 なし なし
1945年7月3日 伊江島飛行場攻撃・奄美大島上空制圧 彗星8 零戦5 なし 炎上2か所
1945年7月5日 列島線索敵攻撃 彗星4 零戦4 なし 敵発見できず
1945年7月18日 列島線東方索敵攻撃 彗星12 零戦6 なし 敵発見できず
1945年7月19日 沖縄攻撃・奄美大島上空制圧 彗星10 零戦10 彗星2 なし
1945年7月25日 敵機動部隊索敵攻撃 彗星9 零戦12 なし なし
1945年7月27日 沖縄飛行場攻撃 彗星16 なし 炎上5か所
1945年7月28日 九州南方索敵攻撃 彗星4 零戦12 なし なし
1945年7月29日 沖縄飛行場攻撃・南東海面索敵攻撃 彗星6 零戦6 なし 炎上3か所
1945年7月30日 対潜水艦掃討 零戦6 なし なし
1945年8月1日 沖縄飛行場攻撃・対潜水艦掃討 彗星12 零戦4 なし なし
1945年8月5日 対潜水艦掃討 彗星8 零戦4 なし なし
1945年8月6日 東海敵機動部隊索敵攻撃 彗星6 零戦6 なし なし
1945年8月7日 対潜水艦掃討 彗星6 零戦4 なし なし
1945年8月9日 沖縄飛行場攻撃 彗星7 彗星2 伊江島大火災 中飛行場炎上1か所 この時に伊江島でアメリカ軍航空機を600機など多数炎上させたと報じられることもあるが[499]、アメリカ軍沖縄戦公式報告書に伊江島飛行場がその様な大被害を受けたという記録はなく[500]、沖縄戦で航空攻撃により地上で撃破されたアメリカ軍航空機の記録は、義烈空挺隊に撃破されたもののみである[501]
1945年8月11日 列島線南東索敵 彗星6 零戦4 なし なし
1945年8月13日 索敵攻撃 彗星8 零戦6 なし 敵発見できず
1945年8月16日 南九州沖索敵攻撃 彗星12 零戦8 なし なし
1945年8月17日 南九州沖索敵攻撃 彗星12 零戦8 なし なし

関連する作品[編集]

舞台[編集]

  • 『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』劇団グーフィー&メリーゴーランドが2018年時点で定期的に上演中、劇団主催の久世恭弘がホノルルマラソン参加のため、ハワイオアフ島のホテルに滞在した際に、見流していた真珠湾攻撃メモリアルデーに因んだ太平洋戦争に関する特番の退役軍人の戦友会での雑談の中で、『JUDY』という単語が何回も出てきたのに強い印象を受けて、『JUDY』が彗星艦上爆撃機のアメリカ軍のコードネームであったことを調べ、彗星をきっかけにして芙蓉部隊の存在を知り衝撃を受けたため、舞台化したいと考えて、3年がかりで芙蓉部隊関係者らからの取材も交えて完成させている[502]静岡新聞南日本新聞では複数に渡り、同作品の公演記事を掲載。2007年8月にはNHK鹿児島放送局で特集番組が組まれた[503]
  • 『BIRDMEN』劇団エイトビート上演、プロデューサー勝山康晴静岡市民文化会館が主催している静岡オリジナルの舞台の一つとして2017年に上演された[504]

ドキュメンタリー番組[編集]

落語[編集]

小説[編集]

  • 永遠の0』登場人物の語りで登場する。その登場人物は「自衛隊を悪とする進歩的ジャーナリストが、戦後に自衛隊の幹部となった美濃部を褒め称えるのを憚ったので、芙蓉部隊の知名度は日本国内ではさほどではなく、むしろ海外で高く評価されている」と主張している[506]

漫画[編集]

  • 『明けの彗星』滝沢聖峰著、航空戦記短編集の中の一作、芙蓉部隊の部隊名も美濃部ら実在の人物も登場しないフィクション仕立てとなっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 美濃部は1944年11月にセブ島に進出してアメリカ軍のPTボート狩りに注力し、11月初めの1週間でPTボート6隻を撃沈して、PTボートを完全に制圧したと主張しているが、1944年11月初旬のアメリカ軍の被害記録によれば、11月6日にPT-320が1隻だけが日本軍の攻撃で撃沈されているが、これは水平爆撃の爆弾が命中して全損したもので写真も現存しており、機銃掃射による撃沈と美濃部が主張している戦闘九〇一飛行隊の戦果ではない。また、10月26日にPT-132、27日にPT-523がいずれも急降下爆撃による被弾で損傷し、13人が戦死し従軍記者を含む多数が負傷しているが、これも九〇一飛行隊がPTボート狩りを始める前の損害で爆撃による損傷なので、銃撃による戦果を主張する九〇一飛行隊の戦果ではない。
  2. ^ ただし草鹿の著書『連合艦隊参謀長の回想』にこの会議の記述はない
  3. ^ 美濃部自身も著書『大正っ子の太平洋戦記』では連合艦隊主催の会議と記述している
  4. ^ 美濃部自身の著作やその著作に基づき記述された書籍では“2月末”、芙蓉部隊について調査した作家の渡辺洋二の著作『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』によれば“2月下旬”、海軍兵学校卒で元海軍航空隊艦上爆撃機搭乗員であり、美濃部や海軍関係者に直接取材した作家豊田穣の著作『われ特攻に参加せず』によれば“硫黄島にアメリカ軍が上陸した頃”、イギリス軍の従軍記者時代に、空母フォーミダブルで取材中に特攻で負傷した経験を持ち特攻について詳細な調査をした、元ロイター通信東京支局長デニス・ウォーナーの著書『ドキュメント 神風』によれば“3月はじめ”などと異なっている上に、具体的な日にちを特定できている出典はない。
  5. ^ 美濃部は自分の著書の記述について「戦時のメモは残っておらず、記憶だけを頼りに書いてる。間違いがあれば修正願いたい」と自認しており、記憶違いの可能性もある
  6. ^ 実例としては、芙蓉部隊最大の出撃となった4月27日(零戦8機 彗星20機 合計28機出撃)には、芙蓉部隊以外の通常航空作戦機として、芙蓉部隊と同じ飛行場攻撃に天山艦上攻撃機4機、陸軍重爆撃機5機、艦船攻撃に26機、偵察・哨戒3機、合計38機(除偵察機35機)が出撃している。
  7. ^ 同日に航空通常攻撃で損傷したのは、いずれも水平爆撃による駆逐艦タウシグ(DD-746)と高速掃海艇ハーディング(DMS-28)の2隻のみ
  8. ^ 美濃部の著書や著書に基づいて記述された出典よれば、鹿屋への空襲激化により、基地移動の必要性を痛感した美濃部が自ら候補地を物色して、不時着飛行場であった岩川に白羽の矢を立て、美濃部主導で岩川移動を第五航空艦隊に認めさせた。としているが、戦史叢書によれば、戦力分散による反撃力低下を問題視した第五航空艦隊宮崎先任参謀の提言により、第五航空艦隊司令部が主導で行った戦力の再配置の一環で芙蓉部隊の岩川移動が命じられた。となっている
  9. ^ 軍の後援者が兵士に対して自宅を開放しており、兵士は後援者宅で自由に休息でき、食事なども提供されていた。このような後援者の自宅を兵士はクラブや下宿と呼んでいた。
  10. ^ 沖縄戦の陸軍、海兵隊、アメリカ陸軍航空軍戦略爆撃隊(後のアメリカ空軍)などの沖縄戦公式戦史・報告書で、沖縄戦でアメリカ軍飛行場に対する空爆の記述があるのは、5月24日~25日の陸海重爆撃機・海軍陸上攻撃機による嘉手納飛行場・読谷飛行場への空襲、それに続く義烈空挺隊の突入と、同時におこなわれた伊江島への空襲であり、嘉手納と読谷へは7回の空襲のうち3回が成功し3回目の成功が義烈空挺隊の突入であると記述されている
  11. ^ 1945年5月28日に駆逐艦ドレクスラーも白菊2機の特攻で沈没している。
  12. ^ 宇垣は美濃部の名前を簑部と誤って書いている
  13. ^ 宇垣は美濃部の芙蓉部隊指揮官地位保全の申し出に対して「岩川基地指揮官を芙蓉部隊岩川派遣隊指揮官に指定す」(天航空部隊命令第45号)という、一部関係者にしか理解不能な辞令を発令し、引き続き美濃部が岩川の芙蓉部隊の指揮官であることを保障している。
  14. ^ 梓隊は1機の銀河が突入に成功し正規空母 ランドルフを中破させている。
  15. ^ 美濃部の著書では、基地に残される地上要員について、志願者を募り決死隊を編成、決死隊は穴を掘って爆弾とともに入り、敵の陸上部隊が迫ってきたら火のついたガソリン缶や地雷と空雷で抵抗し、最後は爆弾で特攻し敵戦車と刺し違える。そのほかの大多数の若い隊員に対しては、美濃部が軍命に背いて解隊命令を出し基地を離れさせて自由義勇軍とし、故郷に帰るか、市民に紛れてゲリラ戦を展開するか、各人の判断に委ねるつもりであったとしている
  16. ^ 美濃部の著書や美濃部の著書に基づいた出典には、この会議での草鹿の発言の記述はなく、第五航空艦隊司令長官となった草鹿と美濃部の初面談は、この会議後に一旦上京した草鹿が再度鹿屋入りした8月27日であり、その際に草鹿から「勝ち戦の時には誰でも勇敢に戦う。負け戦に冷静に対処し得るのが真の勇者だ。寂しいことだ」と鹿屋の混乱について嘆かれたとしている。草鹿が鹿屋入りした8月27日という日にちは草鹿の著書とも整合するが、草鹿の著書には美濃部の記述はない。
  17. ^ 境克彦の著書『特攻セズー美濃部正の生涯』の記述では、美濃部に会議後話しかけた人物は、井上ではなく第五航空艦隊参謀長横井俊之少将で、かけた言葉は「君の部隊はこれまで実によく戦った。若い者が多くて大変だろうが、早まったことをせず、部隊をなだめてほしい。自重してもらいたい。」と美濃部自身が井上からかけられたとする言葉と若干内容が違っている。
  18. ^ 美濃部は自分の著書の記述について「戦時のメモは残っておらず、記憶だけを頼りに書いてる。間違いがあれば修正願いたい」と自認しており、記憶違いの可能性もある
  19. ^ 沖縄戦で特攻機以外に損傷させられた戦艦は、8月12日に第九三一海軍航空隊所属の天山による夜間雷撃で大破したペンシルベニアのみ
  20. ^ ただし、芙蓉部隊戦闘詳報では、成果(戦果)の欄に4月12日、4月16日、8月9日の3日のみ『大火災』の記述あり、時事通信社の記事が、飛行場大火災6回の記述について何を出典としたかは不明
  21. ^ 伊江島のアメリカ軍航空基地の損害がアメリカ陸軍の公式戦史に登場するのは、5月24日~5月25日の空襲により60名死傷者が出たという記録であるが、芙蓉部隊はこの飛行場攻撃には参加していないので芙蓉部隊の戦果ではない。
  22. ^ 『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』で、嘉手納飛行場への攻撃が、砲撃ではなく芙蓉部隊の爆撃によるものだったとしたのは、4月27日~28日の段階で、第32軍のカノン砲は飛行場砲撃を止めていたことがその根拠としているが、戦史叢書によれば、第32軍は4月6日から飛行場砲撃任務を継続し4月16日に全滅した独立重砲兵第百大隊第2中隊に代えて、4月20日に北・中(読谷・嘉手納)飛行場砲撃のため、十五糎加農砲2門を幸地に、高射砲2門を棚原に配置して4月下旬まで飛行場への砲撃を継続している。
  23. ^ アメリカ海兵隊公式報告書『Okinawa: Victory in the Pacific』では、「4月中に嘉手納と読谷の両飛行場に、航空機と滑走路を破壊するための砲撃と爆撃が煩雑に行われた」という記述があるが、夜間攻撃なのか、損害は生じたのかなどの詳細の記述はない
  24. ^ アメリカ軍は義烈空挺隊により大きな損害を被ったことにより、日本軍の空挺特攻を特別に警戒しており、マリアナ諸島のアメリカ軍航空基地に対する空挺特攻作戦剣号作戦の作戦機が三沢基地に集結しているという情報を入手すると、8月9日と10日に艦載機で三沢基地を爆撃し、輸送機や陸上攻撃機多数が撃破されて、剣号作戦は実施できなくなっている。
  25. ^ 芙蓉部隊をテーマにした舞台『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』を上演している劇団グーフィー&メリーゴーランドの主催久世恭弘は、真珠湾攻撃日の12月8日にハワイのテレビ番組にて放送されていた、太平洋戦争に関する退役軍人の座談会で「ゼロ(零戦)ではないしつこい機体が夜間に飛来していた」「その機体を恐れていた兵士がいた」「JUDYというコードネーム」という証言を部分部分聞き、話の繋がりが見えなかったが興味を持ったので、帰国して調査しJUDYが彗星のコードネームであること、彗星を糸口にして芙蓉部隊と美濃部のことを知って衝撃を受けたと語っている。
  26. ^ 未帰還となった機数で、不時着や着陸失敗で破壊された機や地上で撃破された機は計上されていない。

出典[編集]

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外部リンク[編集]