エンタープライズ (CV-6)

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USS Enterprise (CV-6)
艦歴
発注 1933年
起工 1934年7月16日
進水 1936年10月3日
就役 1938年5月12日
退役 1947年2月17日
その後 1960年5月解体
性能諸元(1943年 - 1945年)[1][2]
排水量 設計:20,000 t
建造(1943年):21,622 t
基準(1943年):24,128 t
常備(1943年):29,882 t
満載(1943年):32,060 t
長さ 全長(1943年):827 ft-5 in
水線長:761 ft
全幅(1943年):114 ft-2 in
水線幅(1943年):95 ft-5 in
吃水 満載(1943年):28 ft-4.50 in
飛行甲板 全長:802 ft
全幅:86 ft
機関 バブコック&ウィルコックス社製ボイラー 9基
パーソンズ蒸気タービン 4基4軸推進
出力 設計:120,000馬力
公試:120,517馬力
速度 設計:32.5ノット(37.4 mph, 60.2 km/h)
公試:33.65ノット
航続距離 15ノット/12,000海里(設計)
15ノット/10,400海里
20ノット/7,900海里
乗員 2,217名(1941年:艦船1,366名、航空851名)
2,919名(ピーク)
兵装 1945年:5インチ 単装砲 8門
ボフォース 40 mm 機関砲(連装 5基、4連装 11基)
エリコン 20 mm 連装機関砲 16基
搭載機 通常 80~90機
最大 96機
エレベーター 3基
カタパルト 1943年:飛行甲板 2基
装甲 舷側 122 mm
格納庫甲板 38 mm
司令塔 102 mm
1941年6月、開戦前のエンタープライズ。飛行甲板が板張りの木甲板であることが見受けられる。
1942年6月4日7時30分~40分、エンタープライズ艦上で発進準備中の第6雷撃隊TBD11機(ミッドウェー海戦)。
サンタ・クルーズ沖で日本海軍機の爆撃を受けるエンタープライズ(南太平洋海戦)。
1942年11月、ニューカレドニアのヌーメアにいるエンタープライズ
1944年2月、トラック島空襲から帰還した攻撃隊のF6F戦闘機を収容するエンタープライズ(ヘイルストーン作戦)。

エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)は、アメリカ海軍航空母艦ヨークタウン級航空母艦の2番艦。アメリカ海軍においてエンタープライズの名を受け継いだ艦としては七隻目にあたる。愛称はビッグ E。その外ラッキー E、グレイゴースト、ギャロッピングゴーストもある。

太平洋戦争開戦前に建造され、終戦まで無事に生き残った三隻の航空母艦のうちの一隻(他の二隻はサラトガレンジャー )であり、大戦中で最多の20の従軍星章(バトルスター)を得た。また空母として初めて大統領部隊感状を受賞、イギリス海軍から他国籍の海軍艦艇として唯一、英国海軍本部ペナントを受章するなど、第2次世界大戦でもっとも勲章を受けたアメリカ海軍の軍艦となった。 また、大戦を通して最も多く改装を受けた空母にもなった。

艦歴[編集]

1934年7月16日にニューポート・ニューズ造船所で起工され、1936年10月3日に海軍長官クロード・A・スワンソン夫人のルーリー・スワンソンによって命名、進水、1938年5月12日に初代艦長ニュートン・H・ホワイトジュニアの指揮下就役した。起工にあたっては日本側に通告をおこなっている。

就役後、エンタープライズはリオデジャネイロへの慣熟航海を始め、1939年4月まで東海岸からカリブ海で訓練を行った。その後太平洋へ配属となり、最初の母港はサンディエゴで、続いて真珠湾が母港となった。太平洋でエンタープライズは搭載航空団の訓練を行い、太平洋のアメリカ軍基地へ航空機の運搬を行った。1941年12月2日ウェーキ島への海兵隊第211戦闘航空団の輸送を完了した。そのまま12月7日ハワイ時間に、真珠湾に寄港する予定であったが、12月6日に重巡洋艦ノーザンプトンのスクリューが事故を起こし、潜水夫を降ろして修理作業を行ったため予定がずれ込んだ。 結果、日本海軍による真珠湾攻撃(現地時間12月7日)はエンタープライズが不在の港を攻撃する形になった。 真珠湾攻撃当日、普段エンタープライズが使用していたフォード島の F-11 埠頭は標的艦ユタが停泊していたが南雲機動部隊の攻撃隊により撃沈された。ユタの残骸は艦内に乗組員の遺体を閉じ込めたまま現在も真珠湾に現存する。

真珠湾攻撃でハワイを攻撃されたため、エンタープライズは真珠湾への入港を中止して日本海軍の艦隊を捜索したが発見できず、燃料補給のため攻撃の翌日の日没後、灯火管制下の真珠湾に帰投した。 真珠湾に帰還したエンタープライズ座乗のハルゼー中将は、他の損傷した戦艦群や格納庫の残骸を見た後、普段はエンタープライズがいる場所で横転しているユタを見て、複雑な表情を見せた上で次のようにつぶやいたという。「われわれが奴らを始末する前に、日本語地獄だけで話されるようになるだろう![3]

翌日には周辺の哨戒行動のため出港した。そんな中、12月10日オアフ島南方海面で日本海軍の潜水艦伊70を艦載機が発見、撃沈する。これが太平洋戦争における最初の日本海軍の喪失艦艇であった。

日本軍がアメリカ領ウェーク島に侵攻(ウェーク島の戦い)すると、アメリカ海軍は空母サラトガにフランク・J・フレッチャー中将が座乗して第14任務部隊を編成、ウェーク島救援にあたることとなった。これに呼応し、エンタープライズ基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)は遊軍として哨戒と支援を行い、空母レキシントン基幹の第11任務部隊ウィルソン・ブラウン中将)は牽制攻撃のためジャルート環礁目指して12月14日出撃した[4]太平洋艦隊司令長官代理ウィリアム・パイ中将はウェーク島の取り扱いの方針について海軍作戦部長ハロルド・スターク大将と合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将に伺いを立てたところ、ウェーク島守備隊の士気を考慮したものの、「兵力の増強より撤退すべきだ」と指示された[5]。こうして、ウェーク島救援の動きは一気に終息に向かった。ウェーク島救援の本隊である第14任務部隊はもともと寄せ集め部隊で練度も十分でなく、12月23日の時点でウェーク島の北東約683キロ地点に達していたが、占領の報と相前後して引き返していった[6]

1942年1月11日、真珠湾を出港して南太平洋のアメリカ領サモアに向かう輸送船を護衛した。その後、空母ヨークタウンと合流して任務部隊を形成し、2月1日にマーシャル諸島ギルバート諸島の日本陸海軍の基地に奇襲攻撃を行い、任務部隊に随伴していた巡洋艦が艦砲射撃を行った(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。これらの爆撃と砲撃で日本陸海軍の港湾施設と飛行場、航空機に打撃を与え、艦船3隻を撃沈、8隻を撃破した。帰投中に攻撃を受けたが真珠湾に帰港すると修理を行い、ヨークタウンと分かれて単独で中部太平洋に出撃し、2月24日にウェーキ島を空襲、3月4日にはマーカス島(南鳥島)を重巡ソルトレイクシティとノーザンプトンの2隻の護衛のみで空襲した。日本軍は2月21日の攻撃で「エンタープライズ級空母」1隻を撃沈したと大本営発表を行っている[7]。 3月10日に真珠湾に帰投した。このとき12.7mm機銃を20mm機銃へと更新する改装が行われた。

4月8日ドーリットル空襲に向かう空母ホーネットの護衛につき、B-25爆撃機を飛行甲板に搭載して艦載機の発着できないホーネットに代わって航空掩護を行った。ホーネットは目標から400マイルで爆撃機を発進させる予定であった。しかし、4月18日、日本軍の特設監視艇に発見されたため、600マイルで爆撃機を発進させた。その間にエンタープライズは発見した16隻程度の日本の哨戒艇に片っ端から攻撃し多数を撃沈撃破した。両艦は撤退、4月25日に真珠湾に帰港した。 これら一連の日本軍領域内への危険な奇襲爆撃を短期間に連続して成功させたエンタープライズは本国のマスコミに度々大きく取り上げられ、指揮官のハルゼー提督と共に一躍有名になった。 度重なる米軍の敗北により、士気の下がった国民を鼓舞し、抗戦を諦めさせなかったという意味でもエンタープライズの果たした功績は大きいといえる。

ミッドウェー海戦[編集]

南太平洋の任務部隊を補強するため、エンタープライズは全速で珊瑚海に向かったが、珊瑚海海戦で日本海軍との戦闘は終結してしまい、エンタープライズは5月25日に真珠湾に帰港した。ミッドウェー諸島への日本海軍の来攻が察知され、エンタープライズはホーネットとスプルーアンス少将の指揮下に入り、「強力な戦術的妨害によって日本軍に最大の損害を課す」ため、5月28日、真珠湾を出撃した。また、30日にはフランク・フレッチャー少将指揮するヨークタウンも出撃した。

ミッドウェー海戦が生起すると、エンタープライズは赤城加賀を爆撃し、エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネットの艦載機は赤城、加賀、蒼龍飛龍など日本海軍の参加した空母全ての撃沈に成功する。エンタープライズの艦載機は甚大な損害を受けつつもまず赤城、加賀に損害を与え、これを撃沈に追い込み、飛龍の反撃によりヨークタウンが損傷するとヨークタウンの艦載機を収容し共同で飛龍を撃沈した。また6月6日にはやはりヨークタウン艦載機と共同で重巡三隈を撃沈した。同日に損害を受けてハワイに帰投途中のヨークタウンが伊168からの雷撃を受け放棄され、翌日早朝に沈没した。エンタープライズは6月13日、無事に真珠湾へ帰港する。

南太平洋戦線[編集]

エンタープライズはオーバーホールのため1ヶ月の間、真珠湾でドックに入った。この時期にミッドウェー海戦で壊滅したデバステーター雷撃機が新鋭のアベンジャー雷撃機に更新された。その後、予定されていた8月7日から始まるソロモン諸島方面での反攻作戦を支援するため、エンタープライズは7月15日に出撃した。8月7日にエンタープライズは空母サラトガとワスプと共にガダルカナルを爆撃し上陸を支援した。海上補給ラインの警戒と防空に従事していたが、8月24日に日本海軍の空母部隊がソロモン諸島の北方から襲来し、東部ソロモン海戦(第二次ソロモン海戦)が生起する。この海戦ではエンタープライズが索敵を、僚艦のサラトガが攻撃を担当した。また、エンタープライズには開戦以来、初めての戦艦である戦艦ノースカロライナが護衛に付いた。エンタープライズの索敵機2機は日本空母翔鶴を発見し通報、奇襲をかけるが至近弾に終わった。空母サラトガの艦載機が空母龍驤を撃沈するも、翔鶴からの攻撃でエンタープライズは直撃弾3発を受けて中破。だがダメージコントロールにより火災が消火され、甲板も修復、1時間以内に艦載機の発着艦が可能となった。その後後退し9月10日から真珠湾で本格的な修理が行われた。 既に開戦から一貫してエンタープライズの航空隊として活躍してきた第6航空群一連の戦いで消耗し、ガダルカナル防衛のため空母ワスプやヘンダーソン飛行場へ派遣され半壊していたためこのときエンタープライズには新設の第10航空群が搭載された。その戦闘機隊はヨークタウンで活躍したジミー・フラットレー少佐に率いられ"グリム・リーパーズ"の呼び名と共に名を馳せることとなる。また、改装によりボフォース40mm4連装機関砲が搭載された。10月16日には再び南太平洋に向けて出撃した。

10月26日、エンタープライズはサンタ・クルーズ諸島沖海戦(南太平洋海戦)に参加。ホーネットと半年振りの任務部隊を編成する。この海戦でもエンタープライズは索敵を担当し、サラトガに変わりホーネットが攻撃を担当した。エンタープライズの索敵機は日本空母を発見し、そのうち2機は瑞鳳を奇襲、1発の225キロ爆弾を命中させ離脱に追い込んだ。この情報を元に米軍は攻撃隊を発進させる。エンタープライズの攻撃隊は瑞鳳の攻撃隊の奇襲を受けて、増槽を投棄したため燃料が足りず、日本空母までたどり着けなかったために重巡筑摩を中破させたに留まった。また、不時着したエンタープライズ雷撃機の投棄した魚雷が、製造元の怠慢による欠陥で「いつものように」正常に航走せず円を描いて、救助にきた味方駆逐艦ポーターを直撃してしまい、撃沈してしまうという事故が起こった。1機の第10戦闘機隊のワイルドキャットが魚雷を破壊しようと機銃掃射したものの失敗している。一方、ホーネットの攻撃隊は翔鶴を大破させた。だがホーネットは日本海軍の集中攻撃で航行不能に陥り、エンタープライズも攻撃を受ける。4波にわたる攻撃で爆弾23発、魚雷9本がエンタープライズに向けて投下されたが魚雷9本は全て回避。また、損傷を受け、操艦困難になった僚艦の駆逐艦スミスと戦艦サウスダコタに衝突されそうになったが回避に成功した。この時スミスは日本軍機の体当たりで艦前部に大火災が発生していたがサウスダコタの艦尾の波に突っ込み、消火に成功している。だが爆弾2発の命中弾と至近弾2発により中破した。この攻撃でレーダーが故障したため、ウィリアムスという大尉が空襲中にマストに上りアンテナに体を縛り付けてレーダーの修理を成功させた。また、至近弾の衝撃で第2エレベーターが下がりきったまま故障(その後修理に成功したが今度は第1エレベーターが至近弾の影響で故障し動かなくなった)、飛行甲板に巨大な穴が空いている状況で発着艦は困難だった。だがエンタープライズはまず13機の艦載機をエスピリトゥサントに飛ばし、自身の航空隊とホーネットの艦載機を収容。第1エレベーターが動かなくなり第2,3エレベーターの上にも艦載機が乗っており、総合95機を積載したエンタープライズは発着艦不能で戦線を離脱することになった。乗組員は断腸の思いで煙を上げ、停止して放棄された姉妹艦ホーネットを見続けたという(その後ホーネットは更に日本空母からの攻撃を引き受けて、雷撃処分が決定され、魚雷を撃ち込まれるが沈没せず、今度は5インチ砲台400発近くが撃ち込まれるがやはり沈没せず、日本軍が接近したため処分を中止され、結局日本軍の駆逐艦から酸素魚雷3本を撃ち込まれようやく沈没した)。この時までに、8月31日にソロモン諸島海域で哨戒していたサラトガが潜水艦の雷撃による推進系統の被害で戦線から離脱し、9月15日にはワスプが潜水艦の雷撃に沈没していた。ソロモン諸島海域、更に言えば太平洋戦域においてアメリカ海軍は稼動可能な空母が一時的にゼロになってしまった。そのことをとって、アメリカ海軍ではこの日を史上最悪の海軍記念日と呼んでいる。

...そして1隻の応急修理された航空母艦があった。(...And then there was one patched-up carrier.)

海軍少将 トーマス・C・キンケイド

10月30日、エンタープライズは真珠湾には戻らず、11月11日までニューカレドニアヌーメアで応急修理を実施した。しかし、ガダルカナル島の守りが危険な状態に陥ったため、工作艦ヴェスタル(USS Vestal, AR-4)の修理要員を載せたまま急行、第三次ソロモン海戦に参加した。この時のエンタープライズの状況は、第1エレベーターが故障を懸念して使用不可、着艦エリアの甲板が膨張して着艦が困難、艦前部の隔壁が破壊されており水密が効かない、というものだった。だがこのような状況で13日にエンタープライズの艦載機はヘンダーソン飛行場の航空機と共同で戦艦比叡の離脱を妨害して撃沈に追い込み、14日に巡洋艦衣笠を撃沈、鳥海と五十鈴、摩耶に損害を与えた。摩耶については被弾したエンタープライズ所属のドーントレスの体当たりにより損傷を受けている。また同日中にガタルカナルに接近した日本軍輸送船団11隻中6隻を撃沈、1隻を後退に追い込んだ。その日の夜には戦艦同士の砲撃戦にアメリカ側が辛うじて勝利した。翌日15日に座礁させられた残りの輸送船4隻も破壊した。11月16日、海戦終結後エンタープライズはヌーメアに寄港して修理を行い、12月4日にを終えて活動を再開した。

1943年1月29日、レンネル島沖海戦で日本海軍基地航空隊の攻撃に晒されている味方艦隊の直掩を行ったが高速を発揮する1式陸攻をワイルドキャット戦闘機は捉えられず味方対空砲火を冒してまで追撃したが損傷して曳航中の重巡洋艦シカゴが撃沈され、保護に失敗した。が日本軍機11機のうち7機を撃墜した。この頃になるとサラトガの修理も終わり、イギリス空母の一時的な借用の目処もたち、エンタープライズが唯一の稼働空母、といった状況からは抜け出しつつあった。5月1日にエスピリトゥ・サント島に出港し、5月8日に真珠湾に帰港した。5月27日に訓練中だったエンタープライズは太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将からアメリカ海軍空母で初の大統領感状(プレジデンタル・ユニット・サイテーション)を授与された。ちょうどこの頃、捕虜となっていた豊田穣海軍中尉が特別許可を得てエンタープライズを見学した[8]。豊田は航空機を天井に吊るして搭載機を増やすという方法に感心している[9]。米軍も、空母搭乗員だった豊田にエンタープライズを見学させ、日米双方の空母について何気なく雑談することで、日本軍空母の情報を得ようとしていたのである[10]

中部太平洋戦線[編集]

エンタープライズは本格的な修理と改装が必要であった。7月20日ワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所で広範囲に渡る修理が行われた。ヨークタウン級空母に共通して魚雷攻撃に脆弱なことが開戦後に判明していたため、修理に併行して水雷防御改善の為のバルジの取り付け工事が行われた。他にも新型のカタパルトやCIC、ディーゼル消火ポンプ、スプリンクラー等の設置や対空砲の増設、アイスクリーム製造機の更新が行われた。また、この時期に新型のヘルキャット戦闘機が導入導入された。

エンタープライズは11月に戦線復帰し、11月19日から21日まで、ウェーキ島空襲に加わった軽空母ベロー・ウッドと10月に太平洋に回航されたモンテレーらとラドフォード少将指揮する第2群(第50任務部隊)を編成し、ギルバート諸島マキンに上陸する海兵隊の支援を行い、ガルヴァニック作戦に従事した(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。26日の夜間には日本海軍基地航空隊の攻撃を受けた際、エンタープライズは世界で初めてレーダーを使用しての夜間迎撃に成功する(ギルバート諸島沖航空戦)。12月4日マーシャル諸島クェゼリン(環礁)の基地に打撃を与えた。その日の夜にエンタープライズは日本軍第752航空隊の攻撃を受けた。この752航空隊は敵の対空砲火を目標に夜間雷撃を行う、車懸かり竜巻戦法、という攻撃を行おうとしていたがエンタープライズ以下の任務群は発砲せずに切り抜けた。だがレキシントン以下の別の任務群は発砲しレキシントンは被害を受けた。12月9日に真珠湾へ帰港した。エンタープライズは第58任務部隊(高速空母機動部隊)に加わって1944年1月29日から2月3日までマーシャル諸島上陸支援を行い、2月17日にはアメリカ軍のマーシャル諸島占領を易しくするためトラック島空襲を行った。この攻撃でトラック島に所在する基地機能と輸送船、航空機を破壊し、日本海軍の南太平洋、中部太平洋への進出力を奪った。この時、世界で初めてのレーダーを使用しての艦載機による夜間爆撃がエンタープライズ雷撃隊12機によって行われた。

その後、エンタープライズは任務部隊を脱退して2月20日ヤルート(環礁)を空襲して上陸を支援し、マジュロ(環礁)を経由してエスピリトゥ・サント島に向かった。3月15日、第1群(第36任務部隊)に加わってビスマルク諸島のエミラウ島上陸支援にあたり、第58任務部隊に再び参加して12日間に渡ってカロリン諸島西部のヤップ、ウルシー、ウォレアイとパラオ諸島を空襲した(パラオ大空襲)。このパラオへの攻撃の最中の3月30日にエンタープライズは魚雷1本を被雷したが不発だった。マジュロで一週間の補給と休養の後、第58任務部隊は4月14日にニューギニア島北岸のホーランディア上陸を支援し、4月29日には再度トラック島を空襲した。 なお、4月28日にあるエンタープライズの少尉のミスにより第58任務部隊の旗艦であるレキシントンに衝突しかけたが辛うじて回避したという一幕もあった。 4月30日にはトラックからの激しい対空砲火でエンタープライズの航空機が多数撃墜されたが戦艦ノースカロライナの水上機と潜水艦タングによって7名全員が救助された。

6月6日、エンタープライズは第3群(第58任務部隊)の旗艦となってマリアナ諸島攻略支援のため、マジュロを出撃した。第58任務部隊は6月11日からサイパン、グアム、ロタを空襲して、6月15日に始まった上陸を支援した。この時第58任務部隊の指揮官であるマーク・ミッチャーからエンタープライズ航空隊に直接「敵の忌まわしい喉を切り裂け」というメッセージが送られた。 この日から任務部隊は日本軍から激しい航空攻撃を受け、エンタープライズも味方艦の対空砲火の誤射で僅かな損傷を受けた。が敵機からの爆撃、雷撃は全て回避に成功した。マリアナ沖海戦では日本海軍の空母から発進した攻撃隊を撃退するだけでなく、日本海軍艦隊にも被害を与え、第58任務部隊はマリアナ諸島近海を離れず上陸部隊を援護した。 マリアナ沖海戦が始まった18日、エンタープライズ艦内では饒舌なトム・ハミルトン副長の演説が行われていた。

「ジャップに太平洋の半分をくれてやろう、海の底半分を」

エンタープライズは他艦同様、防空に従事する一方で索敵も行っていた。そして20日の午後3時ごろにエンタープライズの索敵機4機が遂に、撤退しつつある日本艦隊を発見、通報した。この情報をもとにミッチャーは追撃を決断、攻撃隊を差し向けた。エンタープライズは空母龍鳳、隼鷹、飛鷹を攻撃し、損害を与えた。既に暗くなり、視界の悪い中での攻撃で戦果は大きくなく、その後の夜間着艦で事故により多くの機体を失ったが、日本軍が以後、満足な機動部隊を編成する余力を失わせた。 更に21日にかつてトラックで夜間レーダー爆撃を成功させたエンタープライズの第10雷撃隊が日本艦隊への夜間攻撃を行う予定だったが中止され、第10雷撃隊では落胆が広がった。だが翌日に夜間索敵でエンタープライズの索敵機が再び日本艦隊を発見、更なる追撃が検討された。だが日本艦隊との距離が離れすぎたこと、燃料補給に時間がかかったこと、そもそもサイパンの占領が目的である等のことから追撃は取り止めになった。

エンタープライズは7月5日までマリアナ諸島近海に留まっていたが、整備と休養のため真珠湾に帰港した。

フィリピン海戦線[編集]

エンタープライズは8月24日には戦線復帰し、第38任務部隊に所属して8月31日から9月2日にかけてカロリン諸島西部と火山列島の小笠原諸島を空襲した。

10月7日、エンタープライズはパラオ諸島攻略を終えた第38任務部隊の空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッド、サン・ジャシントらと第4群を編成し、10日から20日にかけて沖縄台湾フィリピンを空襲した。これらの連続的空襲で日本陸海軍の航空機を壊滅させ、港湾施設とそこに停泊する艦船に打撃を与えた。また、反撃してきた日本陸海軍の基地航空隊を返り討ちにした(台湾沖航空戦)。

10月20日にアメリカ軍はレイテ島に上陸し、日本海軍艦隊の突入から上陸部隊を守るためにアメリカ艦隊は日本軍と激しく戦った。エンタープライズの所属する第4群は24日にスールー海で西村艦隊の扶桑型戦艦2隻に損害を与え、同日シブヤン海に艦載機を送って戦艦武蔵の撃沈に貢献した(レイテ沖海戦)。また、エンガノ岬沖では小沢中将指揮の空母部隊を攻撃し、エンタープライズは瑞鳳を共同で撃沈した。エンタープライズはアメリカ海軍において唯一この海戦で日本の3艦隊に攻撃を加えた艦になった。第38任務部隊はサマール島沖とレイテ島沖で10月末まで警戒を続け、補給のためウルシー泊地に帰還した。エンタープライズは11月、フィリピンのマニラ周辺とヤップを空襲した。この一連の攻撃でエンタープライズの艦載機が偶然森に隠された大量の日本軍機を発見(当人は列車を攻撃するのが夢で列車を捜索中に日本軍機を発見したらしい)して、破壊する戦果を挙げた。11月11日には日本軍の多号作戦の第3次作戦中の輸送船団を爆撃、共同で駆逐艦3、輸送船1を撃沈した。エンタープライズ攻撃隊の報告ではこの駆逐艦3隻について「1隻は激しく炎上して沈没、1隻は転覆して沈没、1隻は艦首を喪失して停止」とあるためそれぞれ、若竹、長波、浜波の3隻の駆逐艦を撃沈したと思われる。12月6日に真珠湾に帰港した。

5月14日、神風攻撃を受けて前部エレベーターが損傷し、死傷者13名を出した。戦艦ワシントンから撮影。
6月、ピュージェット・サウンド海軍工廠に到着したエンタープライズ。
カリフォルニア州アラメダ海軍基地に停泊するエンタープライズ(手前から2番目)。

硫黄島・沖縄戦[編集]

12月24日、エンタープライズは夜間戦闘機の運行訓練を開始した。また、小規模の改装(着艦誘導灯の設置など)を受け、エンタープライズは夜間空母へと生まれ変わった。この時期にエンタープライズは第90夜間航空隊航空隊を搭載した。夜間航空隊のため急降下爆撃機は全て下ろし、レーダーを装備したヘルキャット戦闘機とアベンジャー雷撃機を55機程度搭載していた(ヘルキャット34、アベンジャー21)。この第90夜間航空隊は、かつて夜間攻撃を成功させた第10航空隊の主力を引き継いでいた(12名以上、エンタープライズの乗組員の顔馴染みがいた)。そもそも夜間空母の必要性を提唱していたのがかつてトラックでの夜間攻撃を画策した第10雷撃隊隊長のビル・マーティン中佐で、彼は夜間空母に改装されたエンタープライズに第90航空隊指揮官として帰って来た。 夜間空母の任務は夜間防空、夜間爆撃、夜間索敵等の夜間作戦が主要で、敵地攻撃に際しては、敵地まで他の通常空母の任務群と行動を共にして、敵地が近くなると先頭に立って夜間に敵基地の機能を破壊する、というものだった。それ以外で、昼間にも防空を行わなければならないこともあった。そのため乗組員は暇さえあれば昼寝が推奨された。

この当時の夜間航空戦闘は、母艦からおよその敵の位置に誘導され、その後自機のレーダーで敵を発見、攻撃を仕掛ける時には夜間適合視認装置の補助をもって直接、目視で確認する必要があった。そのため敵の曳光弾や自機の機銃やロケット弾の発射で目が眩む事が多かった。中でも厄介なのは地上攻撃を行う際に敵から照射されるレーダー連動のサーチライトだった。夜間空母のパイロット達は、チャフや電波妨害装置を用いてこれらに対応した。

1945年1月、第38任務部隊の第5群に加わり既に夜間空母として活動していた軽空母インディペンデンスと合流した。この第38任務部隊への参加についてはエンタープライズに、指揮官のハルゼー提督から個人的に歓迎の電文が送られた。ルソン島近海に進出し、南シナ海における日本本土と蘭印の海上補給ラインを遮断、掌握に協力してウルシーに帰還した。2月10日、第58任務部隊に戻った。そのときにはインディペンデンスが修理のために後退し、夜間空母へと改装されたサラトガに入れ替わっていた。2月16日から東京空襲や硫黄島の攻略を目的としたデタッチメント作戦に参加(硫黄島の戦い)した。東京攻撃に際しては夜間戦闘機が多くのエレクトロニック兵器を搭載した電子戦機として、敵のレーダー基地の位置の特定などでも活躍した。硫黄島攻略の際は、日夜問わず第58任務部隊の防空を担当した。21日にサラトガが神風の突入で大破、戦線を離脱すると、エンタープライズは唯一の作戦可能な夜間空母になり、単艦で数多くの任務をこなす必要がでてきた。23日の午後4時から、1週間以上にも及ぶ連続した作戦を開始した。エンタープライズでは乗組員にローテーションを組ませて艦を不眠不休に保って艦載機を運用、174時間に渡って硫黄島に上陸した海兵隊を援護した。その間、エンタープライズの上空哨戒機が2機以下になることはなかった。

3月15日、同任務部隊はウルシーを出撃して沖縄攻略を目的としたアイスバーグ作戦に先立って、主に九州に展開する日本陸海軍の飛行場と日本本土から海上輸送による沖縄救援を防止するため日本海に展開する輸送船を攻撃した。その間、エンタープライズは防空に専念していたが、3月18日に、日本海軍機一機(艦上爆撃機・彗星三三型と推測される)の奇襲爆撃により500キロ爆弾の直撃を受け、不発弾だったものの損傷を受け、3月20日には対空戦闘中に直援艦の誤射を受けた40ミリ機銃が爆発、破片が甲板に整列していた艦載機を直撃。その後次々と艦載機に引火、機銃弾の誘爆が起こり大火災が発生した。炎がアイランドを舐め、さらに格納庫甲板にまで迫ったが消火ホースで水のカーテンを作ったり、過熱した爆弾を消火泡で満たしたエレベーターで飛行甲板にあげるなど、的確にダメージコントロールが行われ、1時間以内に火災は鎮火された。(CICや通常の無線チャンネルが機能しなくなっていたが、その間にも味方艦からのVHF無線で敵機の位置情報を得て対空戦闘を続けていた)だが火災により司令塔たるアイランドの設備を喪失したためウルシーに帰還して6日間修理を行った。

4月5日、エンタープライズは沖縄攻略を支援するため、ウルシーを出撃した(沖縄戦)。4月11日に特攻機の攻撃を受けた。左舷後部に突入しようとした特攻機を寸前で撃墜したものの破片が砲座を襲い、離れた爆弾がバルジの直下で爆発。バルジにより浸水は免れたが、対空レーダーが折れて甲板に落下するほどの衝撃が艦を襲い、船体各所で損害が発生した。また、至近特攻機によりカタパルト上で発艦準備中のだった無人のヘルキャットが炎上したがそのままカタパルトで射出し事なきを得た。エンタープライズは大きな損害を受けたが、そのまま任務を2日間継続、14日にウルシーに引き返した。喫水線下の損害であったが、工作艦ジェイソンの支援もあり16日で修理を終わらせた。修理後は沖縄沖で防空と夜間作戦に従事した。 その後、5月11日に第58任務部隊旗艦の空母バンカーヒルが神風の突入を受け、大破。戦場を離脱し、エンタープライズが第58任務部隊の旗艦を引き継いだ。 12日にはかねてより計画されていた、夜間の敵飛行場に対する効果的な(と思われる)攻撃戦術が試された。その戦術は日暮に小型焼夷弾、ロケット弾、機銃弾を満載した夜間爆撃隊を発艦、散開させ、暗くなると単機あるいは2機のペアで各地の飛行場を爆撃(この日エンタープライズの16機のアベンジャー雷撃機は九州の西は佐世保以南、東は佐伯以南の全ての飛行場、加えて各地、特に長崎と佐世保の海上交通、港を攻撃した)。敵飛行場施設に損害を与え、一晩中、上空を飛行し修復作業を妨害する。遅れて夜間戦闘機隊は夜明け前に敵飛行場に到達して爆撃隊と交代、薄明のなかを離陸しようとする敵機を攻撃して離陸を妨害、その後通常空母から発艦した攻撃隊に攻撃を引き継ぐ、というものだった。この攻撃戦術の効果は大きく、翌日に任務部隊に近づけた敵機は一機もいなかった。

5月14日、26機の日本機が飛来。6機が対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒機によって撃墜された。だが富安俊助中尉[11]搭乗の1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。そして午前6時56分、この1機がエンタープライズに向かって突撃してきた。エンタープライズは富安機を20分前からレーダーで認識していたが、富安機が雲に隠れるなどしたために、効果的な反撃が出来ずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けたときに富安機は満を持して緩降下攻撃を実施。エンタープライズは集中砲火を行なったが、富安機は機体を横滑りさせるなどして回避、オーバーシュートする寸前に艦の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から急降下し、前部エレベーターの後部に突入した。前部エレベーターは爆発によって400フィート(≒120m)上空まで吹き上げられた。これによりエンタープライズは大破炎上し、破孔からの浸水によって前部は2.2メートル沈下し、深刻な損傷を負った[12]。エンタープライズのダメージコントロール班は即座に行動し、17分で火災の延焼を食い止めて誘爆を阻止した。被弾から30分で火災は消火され、エンタープライズは対空戦闘を継続して更に2機を撃墜、速度を落とすことなく旗艦として任務部隊の配置を守り続けた。そのダメージコントロール能力の高さにミッチャー提督はエンタープライズのダメージコントロール班が「かつて見た中で最高の優秀さ」であったと賛辞を送っている。また、これだけの大爆発にもかかわらず当時第2エレベーターを使用中だったことと、爆弾が鋼材置き場で炸裂し、弾片が飛散しなかったという幸運から戦死者数は13名に留まった。だが飛行甲板の損傷により発着艦能力は麻痺し翌日ミッチャー提督をランドルフに移し、旗艦から外れた。そして16日に任務部隊を離脱した。富安中尉の遺体はエレベーターホールの下で発見され、アメリカ兵と同じように丁重に水葬された。 彼は海軍関係者から「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉を受けた。またこの時の機体の破片は後に、軍属の二級登録板金工だったノーマン・ザフトから富安中尉の家族に返還された。この日がエンタープライズにとっての最期の戦闘となった。

修理のためにエンタープライズは戦列を離脱し、ウルシー、パールハーバーを経由して本国へと向かった。パールハーバー入港時には"VICTORY"の"V"と"ENTERPRISE"の"E"の文字を作ったアベンジャー雷撃機の編隊に歓迎された。6月7日、ピュージェット・サウンド海軍工廠に到着。8月15日の終戦時には第6番埠頭に停泊していた。

太平洋戦争中の主な活動一覧[編集]

1941年(昭和16年)

  • 11月28日 - 海兵隊第211戦闘航空団を積載してウェーキ島に向かって真珠湾から出発。
  • 12月2日 - ウェーキ島への海兵隊第211戦闘航空団の輸送を完了。
  • 12月7日 - 気象悪化で到着遅延。予定より遅れた帰還中、真珠湾攻撃でハワイを攻撃されたため、エンタープライズは真珠湾への入港を中止して日本海軍の艦隊を捜索したが発見できず、燃料補給のため真珠湾に帰港したが翌日には周辺の哨戒行動のため出港した。
  • 12月10日 - オアフ島南方海面で日本海軍の潜水艦伊70を艦載機が発見、撃沈する。

1942年(昭和17年)

1943年(昭和18年)

※ 9月に新型のエセックス級空母エセックスヨークタウンが初めて実戦に参加、以後エセックス級空母は続々就役し、アメリカの空母戦力は大幅に増強された。

1944年(昭和19年)

※ 第90夜間戦闘飛行隊(VF(N)-90)と第90夜間攻撃飛行隊(VT(N)-90)で編成した第90夜間飛行団(Night Air Group 90)が配置。1945年5月まで夜間作戦を遂行した。

1945年(昭和20年)

戦後[編集]

終戦後、損傷を回復したエンタープライズは10月17日に1,000人のアメリカ軍復員兵を真珠湾からニューヨーク州ニューヨークに輸送した。また、マジック・カーペット作戦と呼ばれる復員任務に従事し、エンタープライズは11月と12月に2度ニューヨークとイギリスのサザンプトンを往復した。このときにはエンタープライズは乗組員の他に5000名を乗せられるように改造されており、一連の輸送任務で約11,000人をアメリカ本土に運んだ。 11月23日にサザンプトンに停泊中にエンタープライズはアメリカ海軍艦艇で初めてイギリス海軍大臣の公式訪問者を受け、イギリス海軍艦艇以外で初めて英国海軍本部ペナントを受章した。

エンタープライズは1946年1月18日モスボール(不活性化)のため、ニューヨーク海軍工廠に入渠して、翌年の1947年2月17日に除籍となった。ウィリアム・ハルゼーらが記念博物館としてエンタープライズを保存するため、いくつかの運動を実施したが資金は集まらず、リプセット社にスクラップとして売却された。それでもヨークタウン級空母の特徴である三脚マストがアメリカ海軍士官学校に新設されるフットボールスタジアムに取り入れるため保存されたが関係者を納得させるには十分ではなかった。 1958年6月22日にマストが切断され、その後8月にニューヨークのブルックリンからニュージャージーのカーニーの解体所へ最後の航海が行われた。1960年5月、エンタープライズは完全に解体された。

その代わりとして世界初の原子力空母CVN-65にエンタープライズの名が「ビッグE」の愛称と共に受け継がれた。 なお、エンタープライズの錨がワシントン海軍工廠内に保存されており、工廠内の海軍博物館とともに一般人も見学可能である。

展示されているエンタープライズの船尾プレート

叙勲[編集]

1945年10月10日に艦首から撮影されたエンタープライズ。
Silver star
Silver star
Silver star
Silver star
大統領部隊感状
(Presidential Unit Citation)
海軍部隊褒賞
(Navy Unit Commendation)
米国防衛従軍メダル
(American Defense Service Medal)
米国従軍メダル
(American Campaign Medal)
アジア太平洋従軍メダル
およびバトルスター20個
(Asiatic-Pacific Campaign Medal
with twenty stars)
第二次世界大戦戦勝メダル
(World War II Victory Medal)
フィリピン大統領部隊感状
(Philippine Presidential Unit Citation)
フィリピン解放メダル
(Philippine Liberation Medal)
英国海軍本部ペナント
(British Admiralty Pennant)

脚注[編集]

  1. ^ U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History、p. 392
  2. ^ http://cv6.org/ship/big_e.htm#dimensions
  3. ^ ポッター, 41ページ
  4. ^ 『戦史叢書38』193ページ
  5. ^ 『戦史叢書38』203ページ
  6. ^ 石橋、244ページ
  7. ^ 「写真週報212号」p.5
  8. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』100頁「エンタープライズ見学記」
  9. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』105頁
  10. ^ 豊田穣『空母「信濃」の生涯』108頁
  11. ^ 筑波海軍航空隊所属、当時22歳。500キロ爆弾で爆装した零式艦上戦闘機に搭乗していた。この日、鹿屋基地から出撃した。
  12. ^ 乗組員から永らく“トイ・ザミ”と呼ばれていた、この機の搭乗員は、後の調査で第六筑波隊の富安俊助中尉(予備13期)である事が判明した。菅原完「空母エンタープライズに突入した「トミ・ザイ」を追え」 潮書房『丸』2010年7月号 No.711 p151~p159。筑波空・友の会公式サイト青春の証 筑波海軍航空隊 の富安俊助中尉の記事も参照。
  13. ^ エドワード 上巻 P.70
  14. ^ エドワード 上巻 P.82
  15. ^ エドワード 上巻 P.207
  16. ^ エドワード 上巻 P.249
  17. ^ エドワード 上巻 P.275
  18. ^ エドワード 下巻 P.9
  19. ^ エドワード 下巻 P.100
  20. ^ エドワード 下巻 P.113
  21. ^ エドワード 下巻 P.212
  22. ^ エドワード 下巻 P.281
  23. ^ エドワード 下巻 P.294
  24. ^ エドワード 下巻 P.303
  25. ^ エドワード 下巻 P.311
  26. ^ エドワード 下巻 p.325 p.334
  27. ^ エドワード 下巻 P.342
  28. ^ エドワード 下巻 P.347
  29. ^ エドワード 下巻 P.349

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • Ref.C05110622200「第265号 9.8.6 米国航空母艦エンタ-プライイズ起工に関する細目事項通知の件」
    • Ref.A06031080700「写真週報212号」
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 豊田穣『空母「信濃」の生涯 巨大空母悲劇の終焉』(光人社NF文庫、2000年) ISBN 4-7698-2275-8
     著者は海軍中尉。1943年4月、捕虜。収容中に空母「エンタープライズ」を見学。
  • エドワード・P・スタッフォード 著\井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E』上、下(元就出版社、2007年)
ISBN 978-4-86106-157-8、下 ISBN 978-4-86106-158-5
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • イアン・トール 著\村上和久 訳『太平洋の試練』上、(文藝春秋社、2013年)
ISBN 978-4-16-376420-7
  • Friedman, Norman (1983). U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-739-9. 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]