秦郁彦

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秦 郁彦
人物情報
生誕 (1932-12-12) 1932年12月12日(89歳)
日本の旗 日本山口県防府市
出身校 東京大学(学士、博士)
学問
研究分野 日本近現代史
第二次世界大戦を中心とした日本軍事史
研究機関 防衛庁防衛研究所
防衛大学校
大蔵省財政史室
プリンストン大学
拓殖大学政経学部
千葉大学法経学部
日本大学法学部
学位 法学博士(東京大学)
主な受賞歴 菊池寛賞
毎日出版文化賞
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秦 郁彦(はた いくひこ、1932年昭和7年)12月12日 - )は、日本歴史家、元大蔵官僚。自身の専門は日本近現代史軍事史とする。拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学法学部教授を歴任[1]。学位は、法学博士東京大学・1974年)。

略歴[編集]

山口県防府市生まれ[2][3]。父は広島県広島市の出身で[4][5]、小学生までは郁彦の本籍地も広島の爆心地にあった[5]。このため自身は広島出身でもあると述べている[5]。父は鉄道省の技術官吏で、九州宮崎県出水鹿児島県)、若松福岡県北九州市)の順で機関区長をしたため、小学校を5回転校[4]太平洋戦争中に広島市に引っ越し、原爆投下の一年前に母の実家がある山口県防府市に移った[4][6]。父は戦時中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して終戦の1か月前に戦死した[4][7]

1951年、山口県多々良学園高校を卒業し、東京大学文科一類入学。進学振分法学部第3類(政治コース)へ進級。在学中は戦史や、清浦奎吾ら政治家の研究に没頭した。二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した[8][9]。当初の指導教官は丸山眞男だったが、この休学で丸山ゼミには入れず、岡義武に学んだ。

1955年の夏に国家公務員6級職採用試験を受験。行政職は採用が少なく、法学部でも第3類(政治コース)であったため、法律職では、終日、法律を勉強してきた連中に太刀打ちできないと考え、経済職を選択。近代経済学を独力で学び、試験に臨んでいた[10]1956年に東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。将来の転職も考え、通商産業省自治庁の内定を辞退し、大蔵省に入省した。朝日新聞の入社試験も受けたが、落第した[4]。入省同期に小粥正巳(初代日本政投銀総裁日本開銀総裁公取委委員長大蔵次官)、大橋宗夫(関税局長)など[11]。入省当初は学生時代の戦史研究の延長で出版社の仕事もしており、『別冊知性・秘められた昭和史』(河出書房、1956年)の刊行などに携わった。大蔵省では為替局調査課、中国財務局名古屋国税局で勤務したほか、経済企画庁経済研究所に出向。大蔵省や経企庁に半ば公認を受け、日本国際政治学会などでの研究活動と二足の草鞋だったと回想している[12][13]

1963年ハーバード大学1964年コロンビア大学にそれぞれ留学。1965年防衛庁防衛局に出向し、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を務めた。1969年8月に大蔵省へ復帰して、国有財産総括課長補佐として沖縄返還の事務を担当。1971年から1976年まで大蔵省財政史室長を務め、叢書「昭和財政史」(「大蔵省財政史室」 編として、東洋経済新報社から上梓された)の編纂責任者となり、自身もそのうちの一巻『アメリカの対日占領政策』を執筆した[14]。財政史室長を最後に大蔵省を退官した[1]

大蔵省を退官した後の5年間、読売新聞社の嘱託として、公開された外交文書の分析などに協力したこともある[15]

プリンストン大学大学院客員教授(1977年)、拓殖大学政経学部教授(1980年 - 1994年、依願退職)を経て、1994年千葉大学法経学部(法政経学部)教授に就任。1997年、千葉大学を定年で退官し、日本大学法学部教授に就任。2002年に日本大学退職後は同大学院法学研究科非常勤講師を2010年まで務めた[16]

研究・主張[編集]

軍事史学会の会員でたびたび同会で論文を発表、専攻は、日本の近現代史第二次世界大戦を中心とする日本の軍事史[要出典]とする。その他、昭和史に関する著作がある。自らについて「他人からは実証的である、とよく言われる」とする[3]

日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版された。同書は開戦に至る日本外交を描いている。

ジョン・W・ダワー『敗北を抱きしめて』、アルヴィン・D・クックス『ノモンハン』では共同研究者として、献辞で名が挙げられている。

南京事件[編集]

不法な虐殺数を十数万から数十万とする大虐殺存在派と、不法殺害をゼロ乃至殆どないものとする大虐殺否定派(まぼろし派)の間に位置する、虐殺の存在を虐殺数数千から数万のオーダーで認める中間派(矮小化派、限定派とも)の立場に立つ。南京事件については自著『南京事件』において、日本軍の不法行為による犠牲者数を「3.8万-4.2万人」とし、以後も被虐殺者数は約4万人程度と推定している[17]2007年に出した同著の増補版では、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」と追記しており、週刊新潮2007年12月27日号では、「だいたい4万人」とコメントしている。秦のこの数に対して、歴史学者の吉田裕は、便衣兵(ゲリラ)・投降捕虜・不法殺害等の定義の問題を別にしても、①第九師団の敗残兵掃討戦に関しては殲滅数7千人を不法殺害に計上しながら他師団の掃討戦の殲滅数は計上した形跡がない、②スマイス調査による一般市民の推定死者数をより少ない推定である2.3万人に下方修正する根拠が示されていない、③下方修正した一般市民の推定死者数2.3万人にさらに1/2~1/3の割引率を書ける意味が不明であることを指摘している。とくに③の割引率は2.3万人全てが不法殺害ではなく、砲撃・銃撃に巻き込まれた市民も含まれているということであろうが、そもそもスマイス調査はそのような軍事行動による死者数と兵士の暴行による死者数を分けて推計値を出しているため、暴行による死者数を取るべきで、割引率をかける意味がないと指摘している[18]

百人斬り競争については、行ったとされる旧日本陸軍少尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で「投降した敵[19]」を斬ったと自ら公言していたことを、名簿を頼りに問合せ4人から回答を得て、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。志々目彰証言は「戦意を失って投降[注釈 1]した敵を斬[20]」ったと言っている。秦自身が語る捕虜の要件は「リーダーがいて、標識を制服につけていて、公然と兵器を携帯しているのが条件で、国際法上の待遇が受けられます」[21]。北之園陽徳は中国兵が綿服を着ていたと言っている[22]

慰安婦[編集]

慰安婦問題に対する態度・立場[編集]

日中戦争・太平洋戦争中の慰安婦について、「慰安婦は売春婦だ」との言い方で、性奴隷であったことを否定する立場をとる者の一人[23][24]。ただし、南方等で一部は強制的に監禁・強要された例も認めている。日本軍による「朝鮮半島において婦女子を(肉体的な暴力、物理的な実力で)強制連行慰安婦とした」ことについてはほぼ全面的に否定している。1999年、それまでの議論や様々な資料を広く参照し、おもに時代背景やその変化などから慰安所制度や慰安婦の実態を明らかにすることを試みたとする著書『慰安婦と戦場の性』を出版した。

米国の公立高校で使われている世界史教科書に、慰安婦問題について事実と異なる記述があるとして、米大手教育出版社「マグロウヒル」に訂正を求める声明を公表した日本の歴史家のメンバーの一人[25][26]

なお、このとき、秦は、当時海外に展開した日本軍の兵力は約100万人で、教科書に従い、慰安婦が20万人いたのであれば、20万人が1日5回サービスすると100万になるので、兵士たちは戦闘する暇なく、毎日慰安所に通わなければ計算が合わなくなると発言している[要出典]

また、2013年06月13日TBSラジオの「荻上チキ・Session-22」で、「歴史学の第一人者と考える『慰安婦問題』」で実証主義歴史学者の吉見義明と慰安婦問題について、対立する立場で討論した[27]

吉見義明・中央大名誉教授が、桜内文城(ふみき)前衆院議員に対し損害賠償などを求めて起こした裁判で、桜内側に立った証言を行った。この秦証言の内容に関しては、渡辺春巳が『秦郁彦証言とその非学問性』という論文で批判していた[28]

済州島での慰安婦狩り調査[編集]

1992年3月、済州島において慰安婦狩りをおこなったとする吉田証言について現地調査を行い、そのような事実は確認できず虚構と主張する[29]。ただし、済州島ではそもそも1948年以降、白色テロによる弾圧と殺戮が繰り返され、28万人いたとされる島民の内、2万数千人~8万人が殺害され、さらにその後も度々弾圧・殺害事件が繰り返されたため、恐怖にかられた島民が次々に島を離れ、一時は島民が3万人弱にまで減ったとも言われている[30]。(済州島四・三事件、済州島事件、四・三事件とも。)今田真人は、そのため当時のことを語れる人間がもはや居ないため、話しても迷惑する人間がいないから差支えないとして、吉田が済州島について話すことにしたと聞いたとする[31]。今田は、自身が裏付け証言が取れなかったというだけで秦が吉田証言をウソと断定する手法[31]、また、自身を棚に上げ他人を詐話師呼ばわりして人格を貶めることで、事実の実際の真偽とは関係なく証言の信憑性をなくそうとする秦の手法[31]を批判している。

秦は吉田に証言に関し、現地紙の許栄善記者から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と言われたとする[32]。しかし、韓国仁徳大学の講師である言語心理学者 吉方べきによれば、許栄善記者はその後会った他の取材者らに「自分は何人か(の島民)に話を聞いただけで、これが吉田氏の告白全てを否定する証拠のように扱われるのは不本意」と語ったとされ、さらに「記事が日本で予想外の注目を受け不自由な思いをしたため、これ以上関わりたくない」と吐露したとされる。一方で、遺族会の抗議に許栄善記者は従来の見方を引っ込めるしかなかったとの見方も韓国にあることを、吉方は伝えている。吉方によれば、許栄善からはインタビューに現在応じて貰えないものの、そもそもの記事の4年後の1993年に許栄善が慰安婦狩りについての署名記事を書いており、そこで吉田証言を取上げ、別に吉田証言を否定的に扱っていないという。また、吉方は、済州島で聞き取り調査を行ったことのある者は皆、済州島四・三事件の後遺症が強く、(秦郁彦のような)よそ者が聞いたからといって簡単に話すわけはないとするという。[33]

秦自身の証言も、「済州島の城山浦に貝ボタン工場が4~5箇所あったとされるが、老人クラブで5人ほどの貝ボタン工場出身の老人と話し合って吉田証言が虚言らしいと確認した」としていたものが[32]、後になると「城山浦の貝ボタン工場を訪れ、近くの老人に話を聞いた」に変化している[34]

その他、西野瑠美子がその著作で、当時下関市警察にいた吉田と面識のある人物に、労務報告会で済州島に慰安婦狩出しに行ったという話を聞いた事があるかと尋ねたところ、「いやぁ、ないね。(略)しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」と回答され、さらに、下関の大坪からも在日の朝鮮人女性を集めたようですがと尋ねたところ、「(略)やったかもしれん。やったとしたら、特高でしょうなぁ。県の特高の出張所が下関署内にありましたから」と書いていること[35]を、秦が自身の著書では、西野留美子は済州島の慰安婦狩りについて、「吉田と面識のある元警察官から『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」という風に書き、特高の可能性の部分については引用すらしていない等、内容を自己の主張に都合の良いように編集して、歪めていることを、今田真人、林博史、前田朗らから指摘されている[36]

その他[編集]

フィリピンでは問題はレイプが主体とし、軍末端では組織的に女性を監禁して、いわば私設慰安所を設けていた例を報告、一方で、募集すればいくらでも人が集まったとし[37]、女性を慰安婦として募集した事例を記す[38]

2007年3月5日首相安倍晋三参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている[39]

一方で、その著書で、慰安婦が強制的に集められたのではない証拠として、シンガポールにおいて、軍が慰安婦を募集すると「次々と応募し」「トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた」という総山少尉の回想録を引用している[40]ものの、実際には、原文では、すぐ後に、次々と何人も相手にしなければならないという、彼女らが想像もしていなかった大変な激務が待ちうけていたため、体が持たないと前を押さえてしゃがみこみ、悲鳴をあげて拒否しようとした慰安婦が、手足を寝台に縛りつけられ、続けさせられたこと、それをいたたまれずに逃げ帰った部下から聞いた話が続いているのだが、秦はこれらの部分はカットし、彼女らが性交を強要される奴隷状態にあったことを伏せたことを、林博史から批判されている[41]

2014年、政府による「河野談話」の検証チームのメンバーとなる[42]

2015年2月23日、産経新聞付朝刊の「正論」欄で「大弁護団抱える植村訴訟の争点」と題する論考を発表し、その中で朝日新聞記者だった植村隆について「植村氏は訴訟までの約1年、被告ばかりか日本メディアの取材を拒否し、手記も公表していない」と事実ではない記述をした[43]。産経新聞は2015年6月8日付朝刊7面でこの記載は誤りとし「植村氏は複数の日本メディアの取材に応じており、手記も発表しています。産経新聞のインタビューの申し込みには応じませんでした。訂正しておわびします」と誤報を認めた記事を掲載した[44]

『慰安婦と戦場の性』英語版をアメリカの出版社から刊行する準備を進めている[45]

バーガミニ評[編集]

デビッド・バーガミニ英語版の『天皇の陰謀』についてウソや初歩的ミスが多いと批判した。秦は、1965年、米留学から帰って来た際に、来日中の知人クローリー博士からバーガミニを紹介され、ノートを貸す等協力したが、同書について「田中上奏文」や「シオン議定書」と並べて偽書と評している[46]

「マレーシア虐殺報道の奇々怪々」[編集]

1992年秦郁彦が取材で入手した関係資料によるとして、1991年3月『マラヤの日本軍』を刊行した高嶋伸欣・林博史の連名で中国新聞編集局長あてに、前年から連載されていた御田重宝解説委員(当時)の「BC級戦犯」の中の『マラヤの日本軍』の引用ぶりが不当な誹謗・中傷、多数の事実誤認・歪曲と偏見があり、歴史の捏造にあたるとの抗議があったとする[47]。中国新聞社は社内で調査委員会を作り、点検した結果、御田は改竄を否定したが、1,150箇所の異同があり、社内の調査委員会の点検結果、引用ルールの逸脱や一方的な記述、推測による描写があったこと、執筆者に思い込みや決めつけがあったにもかかわらず社内のチェックが十分ではなかったと1991同年10月発表していた[48]

中国新聞自体は既に1991年6月には、著者の意図に反する引用ミス・事実誤認があったこと、読者からも同様な指摘があったことを認め、既に確認できた分については訂正したこと、残りについても今後調査を進める旨、回答していた。また、高嶋・林からは、「華人が虐殺告発を始めたのは日本に補償を求めるという即物的な華僑らしい即物的な動機」と連載には民族蔑視的なことが書かれているが記録碑の建立費用を要求しているだけ、連載が旧軍人の証言やその日記等の加害者側の資料に偏っていることが指摘されていた。[49]

秦によれば、このくらいの表記の問題はありうることで、高嶋・林の主張はあら捜しか言いがかりのレベルであり、これを問題にすれば、秦自身も含めほとんどの物書きや出版社は改竄者の汚名を着ることになるとし、その上で、高嶋・林にもこの種の表記の問題はあり、むしろ密度は彼らの方が高いと主張している[46]。なお、秦が指摘する、中国新聞の誤りとして取り上げられたものの例を見る限り、あら捜しのレベルにも思えるが、本当にそういった内容だけに尽きるのかは、秦の著述内容自体では不明である。もともと御田記者の連載は、郷土出身部隊のBC級戦犯に問われた者を中心にその悲劇を取上げており、その性質上彼らの弁明を紹介・擁護するものになりがちであるが、林によれば、その連載内容が(林の原著で)書いていないことをさも書いてあるかのようにしている、全く違う時期の出来事をもってきて同時期のことであるかのように見せる、括弧を使って引用文であるかのように書いている場合に語句や文節を落したり書き換えたりして、その結果、違う意味になっていることがあまりに多いとする[50]。また、「高嶋・林が証言者の粛月嬌14歳の年が9歳となっていることを、読者に証言の信憑性に疑問を持たせかねないとして特筆大書すべき問題点としているくらいだから、後は押して知るべし」と、秦は主張している[46]。しかし、これは、御田が引用した証言のまとめ部分で原文が14歳となっている部分をわざわざ削っておきながら、別のところで証言者をことさら9歳と事実と違う形で紹介し、さらに別の箇所ではまた別の6歳の子供の証言を子供であるから信憑性を疑うべきであるかのようなことを述べている事から、意図的に行ったのではないかと、林側が疑ったものである[50]

渡部昇一との論争[編集]

南京虐殺4万人説を取る秦は、南京虐殺ゼロ説を主張する田中正明と座談会でやり合ったことがあり、雑誌『正論』の連載の中で、渡部昇一が田中正明の『”南京大虐殺”の虚構』に推薦文を寄せていることに触れた際に、渡部があまりに田中を誉めていることを不快に感じて「この人は出世作の『ドイツ参謀本部』で、写真ぐるみワルター・ゲルリッツのHistory of German General Staffを大幅借用したぐらいだから、盗用や改ざんには理解があるのかもしれない」と書いた。秦自身は、大幅借用とは書いたが、盗用や剽窃とは一線を画した表現に自制したという。渡部は、その8年後に秦の『昭和史の謎を追う』でこの件を知ったとして、反論の論文を書いた。これに対し、秦は、本が出た直後にゲルリッツが種本だと気づいていた、自分だけでなく、その頃に何人かのドイツ近現代史研究者の間で半ば公然とそう語られていたとした。[51]

秦によれば、渡部の反論は、秦は歴史専門家としては失格という主張が内容の半分を占め、肝腎のゲルリッツ利用の実情は全体の一割だったとする。秦は、渡辺の著述について借用したと思われる箇所をあげて、「大幅無断借用」と断じ、渡辺自身はこの著書を素人のダンナ芸としているのでアラ探しするのもバカバカしいとしながら、素人だからといってマナーが悪くなりがちだが、著作権をまもる責任はプロもアマも区別はない、写真の制約はさらに厳しく、出所の明示だけでなく著作権者の許諾が必要と主張した。[51] (実際には写真の場合は、1956年までに発行または制作のものは日本では全て著作権が切れている[52]。)

田中正明の松井大将陣中日記改ざん問題との関連[編集]

なお、秦によれば、田中正明が犯した松井大将陣中日記改ざん問題について、渡部は1989年に刊行した『日本史から見た日本人・昭和編』で田中正明を弁護し、さらに「田中氏のもののほかでは、阿羅健一氏や板倉由明氏らの調査活動に共感を持つ」(p.389)と渡部が誉めていたので、秦は、田中の改竄を調べ上げて最初に雑誌に発表したのは板倉であり、渡部は田中対板倉の叩き合いを知らないのかと失笑したとしたとする[51]

実際には、この改竄発見自体は、他ならぬ秦郁彦本人が、南京虐殺の有無をめぐって田中正明と対立したことから、中央公論社の『歴史と人物』編集部に田中正明の出した松井大将陣中日記を調べてみないかと話を持ち込み、横山編集長が話に乗って編集部関係者で調べたところ、松井石根大将(南京攻略戦総司令官)の陣中日誌等の改竄を発見、発覚したものである[53]

中村粲との論争[編集]

また、秦郁彦は、日清戦争時の旅順虐殺事件も乃木旅団長の関与を巡って、対談で中村粲と論争になり、秦によれば、1990年雑誌『自由』の6月号で中村は秦が京大全共闘出身の左翼論客やアメリカ人学者を誘って自分を叩く陰謀を企てたが実現しなかったと書き、対して秦は10月号で両人について心当たりがないから名前を出せ、白昼夢をみたのではないかと反論、12月号で中村は、第三者を巻き込みたくないので名前を出すのは遠慮する、(しかし)こんな具体的で複雑な白昼夢を見ることなどあるか、と躱して此の件は終わったという[51]

『慰安婦と戦場の性』をめぐって[編集]

前田朗は、『慰安婦と戦場の性』の322ページに掲げられた「国連の人権機構」という組織図が前田のオリジナル図を無断盗用したものであるとして、秦を批判した[54][55]

南雲和夫は、しばしば写真に出典が記されておらず、著作権法はともかくとして、モラルとして問題だと批判した[56]

その他[編集]

  • 秦自ら別格大物クラスの偽書とする田中上奏文(田中義一首相が天皇に中国ひいては世界の征服を献策したとされる上奏文)について、1993年3月出版の『昭和史の謎を追う』(上巻)では、1986年10月台北で開催された蒋介石生誕記念の学術シンポジウムでも、1991年5月東京で開催されたノモンハンに関する学術シンポジウムでも台湾、旧ソ連の研究者らは田中上奏文を本物と主張していたと、追記している[57]。ところが、1999年12月に文庫本化された同著では、どういう都合があったのか、これを削除し、代わりに追記した内容を、「王家楨(田中上奏文の発掘公開に関係した人物)は1984年に死去した」との記述に差し替えている[58]
  • 東條英機は、仮に東京裁判の代わりに日本人による裁判が設けられていたとしても、当時の法律に則りチャハル作戦における捕虜殺害、憲兵を用いた弾圧等を罪状として有罪となっただろうと著作『現代史の争点』で主張している。また、昭和天皇靖国神社に参拝しないようになった理由は「A級戦犯合祀」であると主張して、首相三木武夫の「私的参拝発言」原因説を唱える岡崎久彦渡部昇一櫻井よしこらを『諸君!』誌上や産経新聞「正論」欄で批判している[要出典]
  • 張作霖爆殺事件に関しては、一次史料に基づく先行研究に依拠して河本大作大佐を中心とする日本陸軍の犯行であることは明らかであるとし、「張作霖爆殺はコミンテルンの仕業」との説を陰謀論にすぎないと批判している。この説はユン・チュアンとジャン・ハリディの共著「マオー誰も知らなかった毛沢東」の第16章の本文中の中として日本で初めて紹介された。「ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると」と日本に紹介された。典拠はその注の注としてGRU(ソ連赤軍情報総局)資料をもとに書かれたコルパキディアとポルホロフの共著「GRU帝国」であるとされていた。「マオ」では簡略に扱われていた記述であったが日本では「(もしこの話が本当なら)20世紀の国際関係氏は根本的に見直しを迫られる」松原隆一郎(朝日新聞2006/1/15 書評) 「日本人読者があっと驚くような文書…。もしこれが事実であれば、日本の近代史も多少修正を余儀なくされるのではないか」猪木武徳(文藝春秋2006年2月号 書評) 「もし「マオ」の論証通りであるとすればーつまり張作霖を爆殺したのは日本軍でなかった〜とすれば、この一点だけで、きわめて大きな歴史の書き換えが必要となる」中西輝政(諸君! 2006年3月号) [59]など反響を巻き起こした。しかし産經新聞モスクワ支局長の内藤泰明記者の取材に、この説を最初に主張したドミトリー・プロホロフは「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書を根拠としているわけではない」としたうえで、関係者の回想録や公開文書を「総合し分析」して書いたもので「ソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と説明したという。同記事にコメントした藤岡信勝は「失敗した1回目の作戦の内容は詳しく語られているのに、"成功"した2回目の実行行為に関しては極めて抽象的」と評した[60]。秦は「張本人が、あっさりと伝聞と推論の産物と自認したのだから騒ぎは決着しそうなものだ」とした[61]
  • 司馬遼太郎に関しては、秦は『昭和史の秘話を追う』にて戦前昭和期(特に旧日本軍)に対する司馬の言説を「新司馬史観」「司馬神話」などとして批判・否定している。また戦後においては、旧日本軍の批判を行うことは圧倒的な大義名分が備わっていたために、司馬の言説を盲信したマスコミや評論家が子引き・孫引きを行い、世間に伝播した結果「新司馬史観」は大きな権威を持って受容される結果となり、旧日本軍の戦車も参謀も将軍も全て劣悪だった、という自虐的イメージが広く定着してしまい歴史学者も逆らうことが困難だったとしている[62]
  • 家永三郎を「変節組」と批判し[要出典]家永教科書裁判においては、国側証人として出廷した。
  • 1990年12月号の文藝春秋において公表された「昭和天皇独白録」について、翌月号の座談会で伊藤隆児島襄半藤一利とこの資料の評価を行った。秦は、「独白録」は昭和天皇の戦犯訴追を回避するためにGHQに提出することを念頭に作られた弁明書であり英語版も存在するはずであると主張し、政治的な背景を持たない率直な内輪話の記録に過ぎないとする伊藤、児島と対立した。伊藤は「秦さんのいう英語版が出てきたらカブトを脱ぎますがね(笑)」、児島は「せいぜい秦さんにお探しいただきましょう(笑)」とコメントしている。後に英語版が実際に発見されている[63]
  • 2006年7月に日本経済新聞社紙上で、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に強い不快感を示した記述が含まれる富田メモの存在が報道された。秦はこの真偽を評価する研究委員会委員をつとめ、このメモが本物であると認定した[要出典]
  • 選択的夫婦別姓制度導入に否定的[64]

評価[編集]

肯定
  • 嶋津格は、秦の著書『慰安婦と戦場の性』の裏表紙で「このような結論を導くに際して、秦は、自らが国内外にわたって収集、調査した資料を駆使する歴史学的態度を堅持している。そして、その結果生まれた本書は、総合性の上で、既存の類書の水準を超えた、「慰安婦」及び「慰安婦問題」の百科全書ともいうべき力作になった。これでやっと、冷静な遠近法の中で慰安婦問題を語る土壌が作られたのではないか」との賛辞を寄せている[65]
  • 池井優は、秦の著書『日中戦争史』および『軍ファシズム運動史』を、この分野における古典的名著であると評価した[66]
  • チャルマーズ・ジョンソンは、秦の『日中戦争史』を「1930年代の日本の対中政策に関する最も徹底した研究」と評した[67]
  • 佐々木隆は、東京大学出版会より刊行した『日本陸海軍総合事典』を日本近代史・軍事史研究必携の事典と評価した[68]
  • アメリカの軍事史家であるエドワード・J・ドレアは、「日本軍事史研究の長老」と評する[69]。そして、秦の著書を研究や精度、解釈のモデルであると指摘する[70]
  • 中国研究を専門とするヨーク大学ジョシュア・A・フォーゲルは、「40年以上にわたって日本の戦争に関する優れた研究を発表してきた著名な学者」と評価する[71]
  • ワイオミング大学講師の山本昌弘は、「日本近代史研究で日本を代表する学者」と評価している[72]
  • 伊藤之雄は、中曽根康弘が、内閣が一致して決めたことには、憲法上天皇には拒否権がなく、自動的に裁可したと誤解しているのも1989年の研究水準に照らすと無理はないとして、「たとえば、高い実証能力を持つ歴史研究者の秦郁彦ですら、1984年に公刊された著作で、次のように述べている」と記している[73]。また太平洋戦争の終結は、広島への原爆投下ソ連の参戦のどちら(もしくは両方)が主要因なのかは研究者でも見解が一致していないが、両方がないと終戦にもっていけなかったという秦郁彦の聞き取りは当を得ている、とも述べている[74]
  • 奈良岡聰智は、「私の好きな中公新書3冊 現代の古典を読む」において、秦郁彦の『南京事件 増補版「虐殺」の構造』(中公新書)を挙げて、「膨大な一次史料に基づいて実証的に虐殺の背景に迫っており、その堅牢な実証は他の追随を許さない」「いかなる立場に立つにせよ、本書を読むことなくしてこの事件について語ることはできない」と評している[75]
  • 北岡伸一は、自身が日本側座長を務めた「日中歴史共同研究」報告書を秦が概ねフェアとコメントしていることについて、さすが日本近代史研究の第一人者と評している[76]
否定
  • 林博史は、『慰安婦と戦場の性』における資料の引用に際して、出典を示していないものがある、数値を誤っている、証言の一部分だけを抜き取って都合よく引用している、などとして批判している[77]
  • 永井和は、1998年になって自由主義史観を教材対象とするときにこの問題を調べ始め、この問題の中心はいわゆる広義の強制の責任問題であり、それを『もっぱら「強制連行」の有無を争う』ことに絞ろうとする自由主義史観派が対立の因であり、それに実証的な立場のはずの学者(秦)が協力的だったと批判している[78]
  • 前田朗は、上記著作には国連組織への初歩的な間違いや憶測に基づいている記述が多いとも述べ、秦の手法に対して方法論的な疑問を提示している[79]。これに対する秦の反論が「前田朗氏への反論」(『戦争責任研究』 2000年夏季)。
  • 堀和生は、秦の発言である「(慰安婦は)日本兵士の月給の75倍」「軍司令官や総理大臣より高い」収入を得ていたとの評価は、「過度な単純化ではなく事実認識としてまったく間違っている」と批判している[80]
その他

受賞歴[編集]

その他[編集]

  • 両切りの缶入りピースを愛好する喫煙者である[81]。『愛煙家通信』に寄稿[82]するなど、禁煙や喫煙規制への批判・抗議活動にも参加している。

著書[編集]

単著[編集]

  • 『日中戦争史』(河出書房新社、1961年、増訂版1972年、復刻新版2011年/原書房(新装版)、1979年)
  • 『軍ファシズム運動史――3月事件から2・26後まで』(河出書房新社、1962年、増訂版1972年、復刻新版2012年/原書房(新装版)、1980年)
  • 『実録第二次世界大戦――運命の瞬間』(桃源社、1968年)
  • 『太平洋国際関係史―日米および日露危機の系譜 1900-1935』(福村出版、1972年)
  • 『昭和財政史 終戦から講和まで(3) アメリカの対日占領政策』(大蔵省財政史室編、東洋経済新報社、1976年)
  • 『太平洋戦争六大決戦―なぜ日本は敗れたか』(読売新聞社、1976年)
    • 『実録太平洋戦争―六大決戦、なぜ日本は敗れたか』(光風社出版、1984年/光風社選書、1995年)
    • 『太平洋戦争六大決戦』(中公文庫(全2巻)、1998年)
  • 『史録日本再軍備』(文藝春秋、1976年)
  • 『八月十五日の空―日本空軍の最後』(文藝春秋、1978年/文春文庫、1995年)
  • 『太平洋戦争航空史話』(各:全2巻、冬樹社、1980年/光風社出版、1984年/中公文庫、1995年)
  • 『昭和史の軍人たち』(文藝春秋、1982年/文春文庫、1987年/文春学藝ライブラリー、2016年)
  • 『官僚の研究―不滅のパワー・1868-1983』(講談社、1983年/講談社学術文庫、2022年)
  • 『裕仁天皇 五つの決断』(講談社、1984年)/『昭和天皇 五つの決断』(文春文庫、1994年)
  • 『実録第二次世界大戦―運命を変えた、六大決戦』(光風社出版、1984年/光風社選書、1995年)
    • 『第二次世界大戦―鋼鉄の激突』(中公文庫、1998年)
  • 『昭和史を縦走する―柳条溝事件から教科書問題まで』(グラフ社、1984年)
  • 『南京事件―「虐殺」の構造』(中公新書、1986年、増補版2007年)
  • 『第二次大戦航空史話』(各:全3巻、光風社出版、1986年/中公文庫、1996年)
  • 『昭和史の謎を追う』(各:全2巻、文藝春秋、1993年/文春文庫、1999年)
  • 盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年)
  • 『日本人捕虜―白村江からシベリア抑留まで』(原書房、1998年/中公文庫(上下)、2014年)
  • 『現代史の争点』(文藝春秋、1998年/文春文庫、2001年)
  • 『現代史の光と影―南京事件から嫌煙権論争まで』(グラフ社、1998年)
  • 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年)
  • 『なぜ日本は敗れたのか―太平洋戦争六大決戦を検証する』(洋泉社新書y、2001年)
  • 『現代史の対決』(文藝春秋、2003年/文春文庫、2005年)
  • 旧制高校物語』(文春新書、2003年)
  • 漱石文学のモデルたち』(講談社、2004年/中公文庫、2013年)
  • 『歪められる日本現代史』(PHP研究所、2006年)
  • 『統帥権と帝国陸海軍の時代』(平凡社新書、2006年)
  • 『現代史の虚実―沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム』(文藝春秋、2008年)
  • 『靖国神社の祭神たち』(新潮選書、2010年)
  • 『病気の日本近代史 幕末から平成まで』(文藝春秋、2011年)
  • 『昭和史の秘話を追う』(PHP研究所、2012年)
  • 『陰謀史観』(新潮新書、2012年)
  • 『明と暗のノモンハン戦史』(PHP研究所、2014年)
  • 『旧日本陸海軍の生態学 組織・戦闘・事件』(中央公論新社[中公選書]、2014年)
  • 『慰安婦問題の決算 現代史の深淵』(PHP研究所、2016年)
  • 『病気の日本近代史 幕末からコロナ禍まで』(小学館新書、2021年)

共著[編集]

  • 袖井林二郎)『日本占領秘史 下』(朝日新聞社、1977年、ハヤカワ文庫、1986年)
  • 坂本多加雄半藤一利保阪正康)『昭和史の論点』(文春新書、2000年)
  • 半藤一利・横山恵一)『太平洋戦争―日本海軍戦場の教訓』(PHP研究所、2001年、PHP文庫、2003年)
  • (半藤一利・横山恵一・戸高一成)『歴代海軍大将全覧』(中公新書ラクレ、2005年)
  • (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 明治編』(中公新書ラクレ、2009年)
  • (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 大正編』(中公新書ラクレ、2009年)
  • (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 満州事変・支那事変期』(中公新書ラクレ、2010年)
  • (半藤一利・原剛・横山恵一)『歴代陸軍大将全覧 昭和篇 太平洋戦争期』(中公新書ラクレ、2010年)
  • (伊沢保穂)『日本海軍戦闘機隊-戦歴と航空隊史話』(大日本絵画、2010年)
  • (半藤一利・保阪正康・井上亮)『「BC級裁判」を読む』(日本経済新聞出版社、2010年、日経ビジネス人文庫、2015年)
  • (半藤一利・原剛・松本健一・戸高一成)『徹底検証 日清・日露戦争』(文春新書、2011年)
  • (半藤一利・戸高一成)『連合艦隊・戦艦12隻を探偵する』(PHP研究所、2011年)
  • (聞き手 笹森春樹)『実証史学への道 一歴史家の回想』(中央公論新社、2018年)

編著[編集]

  • 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(戦前期官僚制研究会編、東京大学出版会、1981年)
  • 『世界諸国の制度・組織・人事 1840-1987』(東京大学出版会、1988年。増補版2001年)-2000年までを追加した
  • 『真珠湾燃える(上・下)』(原書房、1988年)
  • 『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年。第二版2005年)
  • 『ゼロ戦20番勝負』(PHP研究所[PHP文庫]、1999年)
  • 『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)
  • 『検証・真珠湾の謎と真実-ルーズベルトは知っていたか 』(PHP研究所、2001年)
  • 『太平洋戦争のif「イフ」-絶対不敗は可能だったか?』(グラフ社、2002年/中公文庫、2010年)
  • 『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)
  • 『昭和史20の争点 日本人の常識』(文藝春秋、2003年/文春文庫、2006年)
  • 『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(PHP研究所、2009年)
  • 『20世紀の世界航空戦史 第1次世界大戦から湾岸戦争まで』(潮書房光人新社、2021年)

共編著[編集]

  • 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編『太平洋戦争への道 第4巻 日中戦争 下』(朝日新聞社、1963年)
  • 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部編『太平洋戦争への道 第6巻 南方進出』(朝日新聞社、1963年)
  • 三宅正樹藤村道生義井博)『昭和史の軍部と政治(全5巻)』(第一法規出版、1983年)

監修[編集]

  • 『連合艦隊海空戦戦闘詳報(全18巻・別巻2巻)』(アテネ書房、1996年)
  • 『別冊宝島 日本史再検証真珠湾攻撃』(責任編集:宝島社、2016年)

共監修・共著[編集]

訳書[編集]

  • デイヴィッド・カーン『暗号戦争』(共訳、早川書房、1968年/ハヤカワ文庫、1978年)
  • ウォルター・ロード『南太平洋の勇者たち――ソロモン諜報戦』(早川書房、1981年)

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 個々の兵員が武器を捨て,敵権力に服するのが投降で、司令官の間で「降伏規約」を結び,兵員等の引渡し,武装解除等を取り決めるが降伏山本七平少尉は特使として米軍との交渉に応じ、数十人規模で降伏して在フィリピン米軍に降った。
出典
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  4. ^ a b c d e “時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(4)国鉄マンだった父 戦死”. 読売新聞朝刊. (2017年3月18日). http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170317-118-OYTPT50374/list_JIDAINOSHOGENSHA%2509%25E5%25AE%259F%25E8%25A8%25BC%25E5%258F%25B2%25E5%25AD%25A6%25E3%2581%25B8%25E3%2581%25AE%25E9%2581%2593%25E3%2580%2580%25E7%25A7%25A6%25E9%2583%2581%25E5%25BD%25A6_0 
  5. ^ a b c 『慰安婦問題の決算 現代史の深淵』PHP研究所、2016年、200-202頁。ISBN 9784569830070 
  6. ^ “時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(5)あだ討ちの心情消えた”. 読売新聞朝刊. (2017年3月20日). http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170319-118-OYTPT50286/list_JIDAINOSHOGENSHA%2509%25E5%25AE%259F%25E8%25A8%25BC%25E5%258F%25B2%25E5%25AD%25A6%25E3%2581%25B8%25E3%2581%25AE%25E9%2581%2593%25E3%2580%2580%25E7%25A7%25A6%25E9%2583%2581%25E5%25BD%25A6_0 
  7. ^ 『現代史の争点』文春文庫、2001年。ISBN 4167453061 
  8. ^ 『現代史の虚実』
  9. ^ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(7)白眉 丸山真男の分析力『読売新聞』朝刊2017年3月22日
  10. ^ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(12)公務員試験 独学で挑む『読売新聞』朝刊2017年3月29日
  11. ^ 秦郁彦編『日本官僚制総合事典 1868-2000』(東京大学出版会、2001年)巻末年度別各省キャリア官僚入省者一覧
  12. ^ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(13)旅館から車で初登庁『読売新聞』朝刊2017年3月30日
  13. ^ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(14)歴史の女神に魅入られて『読売新聞』朝刊2017年3月31日
  14. ^ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(20)沖縄返還と財政史編纂『読売新聞』朝刊2017年4月11日
  15. ^ 時代の証言者/実証史学への道・秦郁彦(23)「天皇退位せず」の特ダネ『読売新聞』朝刊2017年4月15日
  16. ^ 奥付 『日本近現代人物履歴事典(第2版)』秦郁彦
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  20. ^ p.4 3月刊『中国』志々目彰 引用『政経研究』再録p.297『旧日本軍の生態学』秦郁彦
  21. ^ p.34 『南京「虐殺」研究の最前線』秦郁彦・東中野修道 展転社 2002年
  22. ^ 『政経研究』再録 p.302『旧日本軍の生態学』秦郁彦
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  76. ^ 外交フォーラム』2010年4月号、都市出版北岡伸一「『日中歴史共同研究』を振り返る」
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  81. ^ 日本の論点』文藝春秋1999
  82. ^ 異様な肺ガンの急増ぶり/秦郁彦(現代史家)『愛煙家通信』No.2
  83. ^ 文藝春秋 80周年記念出版 世界戦争犯罪事典
論文

関連項目[編集]