メリーランド (戦艦)

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USS Maryland - Jul 1922 Moving Picture Age.jpg
竣工当時のメリーランド(1922年)。
艦歴
発注 1916年12月5日
起工 1917年4月24日
進水 1920年3月20日
就役 1921年7月21日
退役 1947年4月3日
その後 スクラップとして売却
性能諸元
排水量 基準:32,500トン
満載:33,590トン
全長 190.20m
全幅 32.92m
吃水 9.07m
機関 蒸気タービン 4軸:
28,900 shp (22 MW)
最大速 21ノット
乗員 士官・兵員:1,080名
兵装 45口径40.6cm砲:8門
51口径12.7cm砲:8門
38口径12.7cm砲:8門
56口径40mm対空砲:36門
70口径20mm対空砲:43門

メリーランド (USS Maryland, BB-46) は、アメリカ海軍戦艦コロラド級の2番艦である。同級では唯一ワシントン海軍軍縮条約までに竣工した。艦名はアメリカ合衆国7番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては3隻目にあたる。名前の上では2番艦だが上記の通り最初に竣工したためネームシップと見なされることがある。

愛称は「メリー」(Mary)、「ファイティング・メリー」(Fighting Mary)、「オールド・メリー」(Old Mary)[1]

艦歴[編集]

近代化改装後のメリーランド

メリーランドは1917年4月24日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で起工し、1920年3月20日にE・ブルック・リー夫人(メリーランド州監査役の妻)によって命名、進水し、1921年7月21日に初代艦長C・F・プレストン大佐の指揮下就役した。真珠湾攻撃の際には、内側に係留されていたために魚雷攻撃はうけず、2発の爆弾が命中しただけだった。1発は艦首部分に命中し、3.7 m x 6.1 m の破孔を形成した。2発目は10番フレーム付近に命中し、この爆発により浸水が発生し船体が前部方向に1.5m沈下した[2]。メリーランドの外側にいたオクラホマは日本軍機の攻撃により転覆し、オクラホマから脱出した乗員はメリーランドに移って対空射撃を行った。日本軍の攻撃が終わったあとは、周囲の損傷艦の消火活動や救援活動を行った。メリーランドの修理は、ピュージェット・サウンド海軍造船所で行われた。

真珠湾に入港したメリーランド。艦首部に魚雷による損傷個所が見える 1944年7月10日撮影

以後メリーランドはタラワの戦いクェゼリンの戦いサイパンの戦いに参加。サイパンでの艦砲射撃は6月14日05:45から開始され、まずガラパンを砲撃して、砲台や陣地、小型ボート、トーチカ、弾薬庫を破壊した。つづいてタナパグに対して砲撃を行った[3]。6月22日、一式陸上攻撃機による攻撃を受け、右艦首に魚雷1本が命中する。メリーランドは応急修理のために15分後にはエニウェトク環礁への退避を開始し、真珠湾で修理を受けた。艦首に大破孔が出来たために、これらの行程中メリーランドは後進で移動した[4]。2隻の駆逐艦が退避するメリーランドを護衛した。2名がこの攻撃で死亡した。

1944年10月にはレイテ島の戦いのため第7艦隊に属し、スリガオ海峡海戦では戦艦山城以下の撃沈に貢献。しかし11月29日、陸軍特別攻撃隊靖国隊一式戦「隼」が突入し主砲塔に命中、大破炎上、31人が死亡し30人が負傷した。メリーランドは修理のため12月18日に真珠湾に帰還した。

1945年8月に撮影されたメリーランド

メリーランドは沖縄戦のため1945年3月初頭に復帰し16日にウルシー環礁に到着、モートン・デヨ少将の第54任務部隊に所属した。日本海軍が戦艦大和を旗艦とする沖縄上陸作戦、菊水作戦が実施されようとしていた。レイモンド・スプルーアンス大将とデヨ少将は、大和に対する、恐らくはこの戦争における最後の艦隊決戦を望んでいた上に、第54任務部隊に加わっている大勢の士官たちもまた大和との対決を望んでいた。そのため、大和との「会敵が予想される直前」、メリーランドに右舷から250キロ爆弾を装備した特攻機が突入し3番砲塔の天蓋部分に命中して大規模な火災が発生した。20mmの機銃座は破壊され、第3砲塔も使用不能に陥った。10人が死亡し、37人が負傷し、6人が行方不明になった。メリーランドの艦長も乗員たちも、大和との対決を望んで戦列を離れようとせず、デヨ少将から報告を求められた際に、「戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠した。しかし、メリーランドがこの特攻機の攻撃を受けたのは4月7日の夕方であり、すなわち大和は坊ノ岬沖海戦で沈没した後であった。メリーランドの艦長や乗員、並びにその上官であるデヨ少将らは、この特攻攻撃の後に、大和がマーク・ミッチャー中将指揮下の第58任務部隊によって沈められていたことを知ることになる。

メリーランドは、4月14日に沖縄を離れ、グアムと真珠湾を経由して、ピュージェット・サウンド海軍造船所で3番主砲塔の修理とオーバーホールを受けた。10門の主砲は寿命を迎えていたために全て交換されたが、作業は8月までかかりメリーランドが再び戦場に戻ることは無かった。

終戦後、マジック・カーペット作戦でアメリカ西海岸と真珠湾の間を5回航海し、8,000人以上の軍人を米国に送り返した。1947年4月3日にブレマートンで退役し、 1959年7月8日にカリフォルニア州オークランドで、スクラップとして売却されのちに解体された。

栄典[編集]

メリーランドは第二次世界大戦の戦功により7個の従軍星章を受章した[5]

出典[編集]

  1. ^ Ship Nicknames”. www.zuzuray.com. 2019年4月29日閲覧。
  2. ^ Wallin, Homer N. (1968). Pearl Harbor: Why, How, Fleet Salvage and Final Appraisal. Washington, D.C: Department of the Navy. ISBN 0-89875-565-4. OCLC 51673398 
  3. ^ Vreeken, Fred R. (1997). USS Maryland (BB-47). Paducah, Kentucky: Turner Publishing Company
  4. ^ USS Maryland (BB-46), 1921-1959
  5. ^ Maryland III (Battleship No. 46)”. DANFS. 2019年4月29日閲覧。

同型艦[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]