日本の降伏

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1945年9月2日、USSミズーリ艦上でリチャード・サザランド中将が見守る中、日本の降伏文書に署名する重光葵外務大臣、右随行の加瀬俊一

日本の降伏(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)では、第二次世界大戦末期の日本による「ポツダム宣言」の受諾を経て、日本による降伏文書の署名に至る日本および日本の占領地の出来事を説明する。

ポツダム宣言受諾までの経緯[編集]

1944年(昭和19年)7月に東条内閣が倒れて以後、戦争終結への動きが具体化し始める。この時点でアメリカ軍の反攻による本土への空襲も時間の問題となっていた。1945年(昭和20年)2月には、近衛文麿元総理大臣を中心としたグループは、戦争の長期化がソビエト連邦軍による占領(“日本の赤化”)を招くと主張して、戦争の終結を主張する「近衛上奏文」を昭和天皇に進言した。しかし、昭和天皇はこれを却下し、後には工作を察知した憲兵隊により、吉田茂(後の首相)・岩淵辰雄殖田俊吉らいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕されている。そして軍部は「国体護持」を主張して戦争を継続した。

一方で、当時小磯内閣も本土決戦を進めながら、同時に和平工作を模索していた。1944年(昭和19年)に宇垣一成陸軍大臣を中国に派遣して蒋介石政権との和平交渉を打診した。そして、1945年(昭和20年)3月には南京国民政府高官でありながら既に蒋介石政権と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼している。だが、当時の重光葵外務大臣は繆斌を信用せず、小磯国昭総理大臣と対立して結果的に内閣総辞職につながった。

4月7日に成立した鈴木内閣の外務大臣東郷茂徳は、翌年4月には期限が切れるとは言え、未だに日ソ中立条約が有効であったソビエト社会主義共和国連邦を、仲介とした和平交渉を行おうとした。東郷自身はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が中立条約の終了時もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいるため、ソ連が和平の仲介すると言えば軍部もこれを拒めないこと、ソ連との交渉が破綻すれば日本が外交的に孤立して軍部も実質上の降伏となる和平条件を受け入れることになるという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使としてモスクワで、ノモンハン事件を処理しソ連との和平を実現させたという経験も背景にあったとされる。

5月の最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸海軍大臣・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)では、ソ連の参戦防止・中立確保のための交渉を行う合意を得た。当初はこれに戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸軍大臣が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」として反対したため、前記の2項目のみを目的とすることになった[1]。東郷は、元上司で元首相広田弘毅ヤコフ・マリクソ連大使と箱根などで会談させたが、具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言せず、はかばかしい成果は得られなかった。6月6日の最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルへキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されると、内大臣の木戸幸一と東郷、米内光政海軍大臣は、戦争の際限ない長期化を憂慮し、ソ連を通じた和平の斡旋へと動き出した[2]。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋をすみやかにおこなうよう政府首脳に要請した[3]。しかし東郷は広田・マリク会談に時間をかけすぎ、進展が見られなかった(広田はマリクとの最後の会談でソ連に和平斡旋の条件として、満州国の中立化などを提案している[4]が、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった[5])ことから、天皇は7月7日に親書を持った特使を派遣してはどうかと東郷に述べた[6]。東郷は近衛文麿に特使を依頼し、7月12日に近衛は天皇から正式に特使に任命された。外務省からはモスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[注 1]

しかし、すでにソビエト連邦は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談で、ドイツ降伏から3ヶ月以内の対日宣戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスの陸海軍駐在武官からソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[8]、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐からシベリア鉄道における兵力の極東方面への移動が関東軍総司令部に報告されたり[9]していたが、これらの情報は軍・外務省の間で共有されなかったり、希望的観測のもとに軽視される結果となった。7月のポツダム会談では近衛特使の件を、アメリカ・イギリスに暴露した上で両国と協議してソ連対日宣戦布告まで、日本政府の照会を放置する事に決定した上でポツダム宣言に同意した。一方、日本政府はソ連の仲介を期待して「ノーコメント」とする方針を取り[10]8月の広島・への原子爆弾投下、ソ連の対日宣戦を回避することはできなかった。ソ連の参戦は、その仲介に最後の希望を託していた日本政府に大きな影響を与えた[11]。そしてポツダム宣言受諾へ踏み切らせるきっかけとなった[11]。ところが8月9日、最高戦争指導部会議では、ポツダム宣言が要求している無条件降伏は問題とならず、天皇の地位の保障(「国体護持」)を条件につけようとする東郷外相の案と、その他に「自主的な武装解除」・「日本の手になる戦争犯罪人の処罰」・「連合軍の占領に対する制限」などの条件をつけようとする軍部の案が対立した[11]。この日、長崎に2発目の原子爆弾が投下され、さらに10数万人の死傷者が生まれた[11]。同日深夜に開かれた御前会議でも両案が対立したが、ついに天皇の裁断によって、外相案すなわち天皇の地位の保障だけを条件につけることが決定された[11]。翌8月10日に「天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾する日本の申し入れが、ラジオと中立国を介して行われた[11]。これに対して、アメリカ国務長官ジェームズ・F・バーンズからのいわゆる「バーンズ回答」において、「降伏のときより天皇および日本国政府の国家統治の権限は(中略)連合国最高指揮官に従属するものとす。最終の日本の統治形態は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定せらるべきものとす」との回答を通告してきた[12]。8月12日この回答を知った軍部や平沼枢密院議長は、これでは国体護持の保障はないとし、再照会と、もしそれでも保障が得られないときは戦争を継続すべきことを主張した[12]。対立が再び蒸し返され、天皇は動揺した[12]。しかしこのとき、連合軍の回答にもられたアメリカの真意は、暗に日本の申し入れを認めたものがというアメリカの新聞情報がはいり、受諾論が盛り返した[12]。8月14日、再度の御前会議で、天皇の決定によって無条件降伏が決まった[12]。もはや戦争の将来には一縷の望みもない段階にありながら「国体護持」をめぐってこれだけ紛糾したのは、天皇の地位の保持がいかに戦争指導部(政府中枢)にとって重要であったかということを示す[12]。そしてこの1週間の間にも、空襲はつづいており被害は増えていった[12]

「玉音放送」[編集]

8月15日正午の天皇自身のラジオ放送(いわゆる「玉音放送」)にて「戦争終結の勅書が流され、突如降伏を知らされた[12]。この勅書の内容は、今回の戦争終結のために「非常の措置を以て時局収拾」にあたったとして「聖断」により戦争終結を行った事実を強調し、戦争終結に到った原因を「戦局必ずしも好転」しなかった点に求め、戦局の悪化と日本の敗北という事実に必ずしも正面から向き合うものでなかった[13]。日本が降伏を受け入れる要因として、敵の「残虐なる爆弾」(原子爆弾)により多くの死傷者を出し、このまま戦争を継続すれば日本民族の滅亡と、人類文明の破滅を招来するおそれがあり、これを聖断によって救ったというと勅書はいう[14]。さらに勅書は、今回の戦争を「仰々(そもそも)帝国臣民の康寧(こうねい)を図り万邦共栄の楽を偕(とも)にする」ことと、「帝国の自存と東亜の安定を庶幾する」ことにあったと位置づけ、日本の自立とアジアの安定を願うという「大東亜共栄圏」の建設を企図した事業の一環だという[14]。そこには降伏の文字はまったく使用されず、侵略の事実も、敗北の結果も、深刻な反省も一切見られない[14]。そして、聖断による戦争終結の結果、「朕は茲々に国体を護持し得て忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し」「神州の不滅」を信じて国家再建にあたるべきであるとされた[14]。ここでも「国体護持」「神州不滅」が金科玉条のように使用されている。こうしてポツダム宣言受諾により無条件降伏という事実が隠蔽されるなかで、敗戦に伴う戦争指導・政治指導の最高責任者としての天皇と地位と天皇制温存への新たなシナリオが、この「戦争終結の勅書」において企画されたと、纐纈後継著書は指摘する[14]。降伏の経緯は国民にはまったく隠されていた[12]。耳目を完全にふさがれて、戦争完遂に駆り立てられていた国民、とりわけ軍隊を、降伏と言う新しい事態に順応させることは容易ではなかった[12]。敗戦によって起こる混乱と革命を恐れた戦争指導部(政府中枢)は、国民と軍隊の起こすであろう動揺を抑えるため、天皇の権威という最後の切り札を持ち出した[12]。軍隊の解体・降伏は、8月15日近衛師団の一部の暴動があったほかは国内、南方とも急速に進んだ[15]。一部の狂信的な将校を除いては(松江騒擾事件厚木海軍飛行場での小園安名大佐による厚木航空隊事件など参照)を除いては戦争継続の現実性がないことはすでに明らかであったし、軍隊自体の戦力ももはや壊滅状態だったからである[15]。戦闘の停止が遅れたのは満州と華北であった[15]。関東軍はソ連軍の最初の攻撃で潰乱し、指揮系統が潰滅してしまったので、各地に分散した小部隊は降伏決定後40日間にわたって混戦を続けた[15]。「ねこそぎ動員」をうけた開拓移民団員たちは、軍の命令で戦わされた[15]。しかも関東軍は、軍人・軍属とその家族を後方に輸送することに熱中し、とりのこされた在留邦人は、敗戦の混乱の中で、多くの犠牲者を出した[15]

マッカーサーの到着[編集]

1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を国民に知らせて鈴木貫太郎内閣は総辞職し、後継首相には、降伏・占領に対する軍の抵抗を懸念して、皇族の東久邇宮稔彦王(当時)が指名された[16]。8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がマニラから沖縄経由で神奈川県厚木市の海軍航空隊基地に到着した[16]。同じ日、アメリカ第11空挺団の輸送機150機が4200人の部隊を乗せて飛来し、占領が始まった[16]

降伏文書調印[編集]

9月2日には、横須賀沖のアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印式が行われた。日本側は、重光葵外相、梅津美治郎陸軍参謀総長が署名した[16]

占領軍による間接間統治[編集]

日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく、約60日で武装解除された[16]。満州(中国東北部)、南樺太(サハリン)、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人(86万人といわれる)は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連れ去られ、1年から数年にわたる過酷な自然と劣悪な待遇のもとに強制労働に服し、約6万8000人が死んだ[17]。日本は「本州、北海道、九州及四国並びに吾等(連合国)の決定する小島」(ポツダム宣言)を米国によって単独占領され、同じ敗戦国のドイツのような連合国による分割占領を免れた[17]。ソ連は参戦後に釧路と留萌を結ぶ線より北の北海道を占領する意向を示したが、米国が拒否した。マッカーサーは、初め日本を直接に統治する軍政を布こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていたが、前日にこの方針を知った日本政府の要請を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした[17]。もっとも米国の対日政策立案を1944年暮れから手がけていたSWNCC(スウンク;国務・陸軍・海軍3省調整委員会)が、1945年8月22日から31日にかけて起草した「降伏後における米国の初期の対日方針」には、「最高司令官は・・・天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」との原則、つまり間接統治が掲げられていた[17]

日本は連合国軍による占領統治の下に置かれ、GHQが一連の戦後改革連合国軍最高司令官の布告・命令・指示によって展開させた。1946年(昭和21年)11月3日に、大日本帝国憲法が改正された日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)5月3日に同憲法が施行された。

占領の終了[編集]

1951年7月20日、日本政府に講和会議出席の招請状が届いた[18]。その10日前の7月10日には開城(ケソン)で朝鮮休戦会議がはじまっていた[18]。9月8日、サンフランシスコ市内のオペラハウスで対日講和条約が、日本を含む49か国で調印された[18]。講和会議に招かれた52か国のうち、ソ連、チェコ、ポーランドは調印を拒否した[18]。中国(中華人民共和国)、台湾(中華民国)はともに招請されなかった[18]。結果として、この条約に調印した国は48か国で、日本ともっとも関係の深い中国、インド、ビルマなどのアジアの国々やソ連は加わっておらず、調印しない国の人口は調印した国の人口より4億多いというありさまだった[19]。講和条約が発効し、日本占領が集結したのは、1952年4月28日であった[18]横井庄一小野田寛郎に代表されるように、終戦の伝達が不可能な環境下で潜伏していたために、戦後も長い間、山中などで戦闘状態にあった兵士も多くいた(大半が数年で帰還した)。旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍国民政府軍に強制的に参加させられ、国共内戦に従軍した者もあった[20]。また自ら除隊しインドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に身を投じる者もいた。

植民地・日本軍占領地の概況[編集]

朝鮮半島[編集]

8月14日夜、民族運動家の呂運亨に政務総監遠藤柳作からの会談要請があった[21]。翌朝6時半頃両者の間で会談が持たれた[21]。無条件降伏を内容とするポツダム宣言を受諾したので治安維持に協力してほしいとの要請であった[21]。呂は、<1>政治経済犯の即時釈放、<2>3ヶ月分の食糧の確保、<3>治安維持と建設事業への不干渉、<4>学生・青年組織への不干渉、<5>労務者の国家新建設への動員、の5条件を付したが、遠藤は無条件でこれを了承した[21]。呂は民衆に圧倒的な人気をもっていたので、治安維持を託す人物として最適であった。8月15日正午ラジオで「玉音放送」が流れると、すぐに国民服やモンペを脱いだ白衣の朝鮮人が京城の街を闊歩した[21]。翌16日には、呂は「われらの雅量を示さねばならない」として治安維持を訴えた[22]。西大門刑務所の囚人が一斉に釈放された。出迎える人々は数1000人にもなった[22]。3時には安在鴻が「警察隊を組織して一般秩序を整理」するとラジオ放送で講演した[22]。人々はそれを聞き、もはや施政が朝鮮人の手に移ったと錯覚し、群集が至るところで警察署や派出所を襲い、警官を駆逐して武器を奪った[22]。こうした圧倒的な勢いの祝祭的な示威運動に対して多くの日本人は憤激し、なお強大な軍事力をもつ総督府がそれをどうすることもできないのを非難した[22]。しかし総督府も、取締りの代償として朝鮮人が日本人に反撃することをおそれ、どうすることもできなかった[22]。一方総督府はすべての機関に命じて大量の書類を焼却した[23]。そして9月8日、遠藤政務総監が仁川にホッジ中将を出迎えた[23]。翌9日には第9代朝鮮総督阿部信行との間で降伏文書の署名が、総督府において行われ、35年に及ぶ日本支配が正式に幕を閉じた[23]

台湾[編集]

日本の無条件降伏により、台湾は連合国の一員であった中華民国の一つの省、台湾省として編入されることになった[24]。この背景には、対日戦勝後の台湾と澎湖諸島の中華民国変換を謳った1943年11月のカイロ宣言があった[24]。中国共産党は、それまで戦後の台湾の帰属について態度が明確でなかったが、英米が対日戦勝利後の台湾の帰属についての意思を明確にしたことで、その立場も明確となり、中国主要政治勢力が台湾を中国の一部とする点でようやく一致した[25]。ここに台湾は「光復」(中国語で自民族の土地・人民を取り戻すこと)されるべき土地となったのである[25]。さらに日本が上述カイロ宣言を履行することを規定したポツダム宣言の受諾を決めると、連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーは、「対日一般指令」第1号の中で、中国大陸と台湾の日本軍に対し中国戦区最高司令官である蒋介石への降伏を命じた[25]。蒋介石は、陳儀を台湾省行政長官兼同省警備総指令に任命し、台湾における日本軍の降伏接受を命じた[25]

ベトナム[編集]

米国は、8月6日と9日、広島と長崎に原子爆弾を投下し、ソ連は8日に突然満州に進行したため、日本は10日に、連合国側に国体護持を条件にポツダム宣言を受諾するむねを通告した[26]。同時に同盟通信により報道されたこの内容を短波放送で聞いた[要出典]ホ・チ・ミンは、「革命にとっての千載一遇の好機である新しい事態を迎えた」と決断した[26]。13日から15日までハノイ北方のタンチャウに進出していたヴェトミン司令部で、ホ・チ・ミンが議長となってインドシナ共産党全国大会を開き、全国抗戦委員会を設立した[27]。ホ・チ・ミンはついで16日と17日の両日、あらゆる政党、組織、少数民族代表を糾合したヴェトミン全国大会を開催し、10大政策を決めた[27]。10大政策においては、<1>ヴェトナム民主共和国を樹立する、<2>解放軍を強化する、<3>帝国主義者、追随者たちの資産を没収し、状況によって国有化する、<4>フランス、日本によって押し付けられた税を廃止し、正しい財政システムを構築する、<5>基本的権利を保障する、などが定められた[27]。また、ヴェトミン全国大会は、連合軍がインドシナに到着する前に日本とチャン・チョン・キム政府から権力を奪取し、自らの政府を樹立し、連合国を迎え入れることを目指す総蜂起を指令し、ホ・チ・ミンを主席とする暫定政府、民族解放中央委員会を選出した[27]。8月15日に日本が無条件降伏すると、ハノイではヴェトミンが17日夕方からチャン・チョン・キム政府主催の集会を乗っ取り、大衆はヴェトミンの旗を振って集会場から市内デモに発展した[27]。19日にヴェトミンの大会が開かれ、20万人の民衆デモは中央政府の官庁を占拠したため、チャン・チョン・キム政府が崩壊した[28]。8月25日ホ・チ・ミンはハノイに入った[26]。9月2日にはヴェトナムの独立が宣言された。宣言を執筆したのはホ・チ・ミンであった[28]だが、旧宗主国フランスは、ベトナム民主共和国を正統政府とは承認せず、アメリカ合衆国イギリス中華民国ソビエト社会主義共和国連邦を始めとする、連合国側諸国も承認しなかった。つまり、ベトナム民主共和国はどこの国からも国際的承認を得られなかった。また、ポツダム協定に基づき、北緯17度線を境に、北部には中華民国軍(国民党軍)が、南部にはイギリス軍が日本軍の武装解除を名目に駐留した。さらに、1945年9月末にはフランス軍がサイゴンの支配権を奪取して、南部はフランスの支配下に入った。ホーは国民党軍の進駐が長引くことを恐れ、フランスが宗主国として再進出してくることを受け入れたが、一方でベトナムの独立を主張し、フランスと交渉を重ねた。だが、フランスはホーの要求を拒否し、交渉は難航した。[要出典]

インドネシア[編集]

フィリピンとビルマが日本の占領下から「独立」したことにより、「大東亜共栄圏」内における日本の「指導国家」としての存在意義が動揺しはじめ[29]、他の東南アジアの国々に大きな影響を与えた[30]。日本が当初まったく「独立」付与の対象として考慮していなかったインドネシアの独立問題は日本の東南アジア占領史の終焉を語るうえで最大の焦点となった[29]。早くも1942年10月「高度の自治を許容」するよう内閣総理大臣が声明しなければ「ジャワの治安確保は覚束ない」との派遣軍の要求が南方軍に上がっている[29]。その後、1943年5月には『大東亜政略指導大綱』によってマライとともにインドネシア全域の帝国領土化の方向がいったん内定した[31]。(しかしこの大東亜政略指導大綱は、当分発表しないとされていた[31]。)しかし、インドネシアが「独立」付与の対象にならないこと、またスカルノ、ハッタが大東亜会議にも招致されないことへの民族運動家の不満は強烈でであった[31]。そのため日本郡の現地派遣軍も「政治参与」に向けた動きを加速するように大本営に働きかけざるを得なかった[31]。その一方、人口稠密で生産力の高い安定した占領地として、ジャワは東南アジア占領地全体の現地自活に向けた補給基地的性格を帯びていた[31]。そのため、戦局の悪化にともない食糧供出や労務者徴発など現地社会に対する負担・重圧が高まり、民心離反が目立つようになった[31]。それだけに、「独立」問題での一層の譲歩による民族主義者の対日協力なしにはジャワの安定確保は難しい情勢となった[31]。それまで3A運動(「アジアの光日本」「アジアの母胎日本」「アジアの保護者日本」の頭文字をとって命名された)、プートラ(民衆総力結集運動)、ジャワ奉公会を通じ、日本軍政に協力をしつつ独立の機会をうかがっていたスカルノとハッタではあったが、ビルマとフィリピンの独立に大きな衝撃をうけており、これまでの政治参与から独立に向かう道を模索しはじめていた[30]。1944年に入り戦局が日本軍にとりますます不利になると軍政への反発はたかまり、同年2月には西部ジャワの農村で蜂起も起きた(シンガパルナ事件)[30]。民心を把握する必要がいっそうつよまるなか、『大東亜政略指導大綱』による帝国領土化の方針は撤回され、1944年9月、小磯国昭内閣はついに「将来東インドに独立を許容する」という発表を行うに至った[31]。これをうけて独立の準備が進行し、1945年3月独立準備調査会が設置され、さらに7月には独立準備委員会となり、8月17日にはスカルノらは独立宣言を行った[30]

イタリア・ドイツ両国の降伏の仕方と日本の降伏の仕方との違い[編集]

イタリアでは、米英軍の本土上陸が迫ると、王室、軍部、ファシストの一部はクーデターを起こして、ムッソリーニを失脚させた[32]。ドイツ軍がムッソリーニを救い出し、北イタリアを占領すると、民衆は反ドイツゲリラ闘争をおこし、ドイツ軍が敗退するやムッソリーニをとらえて処刑した[32]。ドイツでも、軍部、ファシストの中に反ヒットラーの動きが活発にとなった。1944年7月に発覚したヒットラー暗殺未遂計画事件は、これを物語っている[32]。イタリア、ドイツとも民衆の大規模な革命運動がおこらなかったものの、支配者内部に分裂がおこり、和平派が台頭して力を持って争った[32]。その背景には民衆の不満と反抗の増大がある[32]。ナチスは徹底的に抗戦して壊滅した。講和を求めれば、ナチス政権が打倒されるのは必至だったから、「玉砕」せざるをえなかったのである[32]。これに対して日本では、イタリア・ドイツであったようなクーデターや暗殺計画はなかった[32]。確かに戦争指導者(政権中枢)内部に和平派があった[32]。また国民の眼の届かぬ舞台裏で分裂抗争も行われた[32]。しかし最後まで表面化しなかった。それどころかポツダム宣言受諾という「聖断」のもとに、戦争指導者(政権中枢)の諸勢力は、最後には一致の態度をとった[32]。降伏することで、彼らは従来の支配のしくみである天皇制を温存することができるとの見とおしを持っていたからである[32]

「終戦の日」はいつか[編集]

今日、「終戦の日」とは、昭和天皇が「玉音放送」によって、日本政府がポツダム宣言の受諾(=日本の降伏表明)を連合国側に通告したことを、国民に放送を通じて公表した1945年(昭和20年)8月15日とするのが一般的である。一方、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは前日の8月14日であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっている。また、日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印した日は、1945年9月2日であり、諸外国ではこの日を「対日戦争終結の日」や「終戦の日」としている例が多い(対日戦勝記念日を参照)。

終戦工作の例[編集]

日本軍が有利な展開なうちに早期に休戦・終結させる試みは、1942年(昭和17年)の時期から一部の政治家・官僚・民間人の間で摸索された。しかし、戦争勝利を大義とした東条内閣及び軍部により弾圧され、中野正剛のように自決に追い込まれもした。終戦工作としては、他に以下のようなものが知られる。

本土軍隊の降伏[編集]

本土防衛の軍隊は各地でGHQに対する降伏式を行うことになった。青森県の場合[39]宇垣完爾・海軍大湊警備府司令長官、星野利元・陸軍50軍司令官、金井元彦県知事らが、1945年(昭和20年)9月9日に大湊湾洋上のアメリカ軍艦パミナント上で占領命令書に署名している。アメリカ軍側は9月2日に日本と連合国の降伏文書調印を踏まえ、24時間以内に北海道と北東北を管轄する同警備府が武装解除することなどを命じている。

  • 沖縄での降伏調印式[3]
  • ルソン島バギオ[4]
  • ラバウル[5]
  • 南京[6][7]
  • シンガポール[8]
  • ソウル[9][10]
太平洋戦域各地の降伏式
ティモール島HMASモーズビーにて、降伏の条項を聴く日本の戒田達一戦車第4連隊連隊長 
日本の安藤利吉台湾総督の降伏を受諾する中国の陳儀台湾省行政長官 
パプアニューギニアブーゲンビル島にて、日本軍の降伏文書に署名する第17軍神田正種司令官 
サイゴンの降伏式にて、イギリス陸軍の中尉に軍刀を引き渡す日本海軍の将校 

参考文献[編集]

  • 「終戦史録」(外務省編、同刊行会, 1986)。初刊1952、新版1997ほか
  • 外務省編「終戦史録」(全6巻[40]) 北洋社, 1977-78
  • 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録」(上中下) 山手書房新社, 1990
  • 江藤淳監修、栗原健波多野澄雄編「終戦工作の記録」、講談社文庫(上下), 1986
  • 江藤淳編・波多野澄雄解題「占領史録」(全4巻) 講談社, 1981-82/講談社学術文庫, 1989、文庫新版(上下), 1995
  • 林茂辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規, 1981
  • 鹿島平和研究所編「日本外交史 25 大東亜戦争・終戦外交」 松本俊一監修, 1972 
    • 「日本外交史 26 終戦から講和」 鈴木九萬監修, 1973、鹿島出版会(各新版)
  • 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」(上下) 芙蓉書房出版, 2003
  • 参謀本部所蔵 「敗戦の記録」 原書房, 1967
  • 森松俊夫監修 「『大本營陸軍部』大陸命・大陸指総集成 10巻」エムティ出版, 1994
  • 防衛庁防衛研修所戦史室「大本營陸軍部10 昭和二十年八月まで」朝雲新聞社, 1975
  • 軍事史学会編「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌」(上下) 錦正社, 1998/新版合本2008
  • 佐藤元英黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料」(上下)原書房, 2002

日記・回想録[編集]

  • 「鈴木貫太郎自伝」 鈴木一編、時事通信社, 1968/<人間の記録>日本図書センター, 1997/中公クラシックス, 2013
    • 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会, 1960
    • 鈴木貫太郎「終戦の表情」労働文化社, 1946
  • 新版「歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎」ゆまに書房, 2006
  • 「東久邇日記 日本激動期の秘録」徳間書店, 1968
    • 東久邇稔彦「一皇族の戦争日記」日本週報社, 1957 /「私の記録」東方書房, 1947
  • 東郷茂徳「時代の一面 東郷茂徳外交手記」 原書房, 2005(新版)
  • 迫水久常「機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで」 恒文社, 1964、新版1992/ ちくま学芸文庫, 2011
  • 迫水久常「大日本帝国最後の四か月」 河出書房新社〈河出文庫〉, 2015(新版)
  • 下村海南「終戦秘史」 講談社, 1950 / 講談社学術文庫, 1985(新版)
  • 藤田尚徳侍従長の回想」 講談社, 1961 / 中公文庫, 1987 / 講談社学術文庫, 2015
  • 細川護貞「細川日記」 中央公論社, 1978 / 中公文庫(上下), 1979、新版2002
  • 重光葵「重光葵手記」(正・続) 中央公論社, 1986-88
  • 重光葵「昭和の動乱」 中公文庫(上下), 2001(新版)
  • 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」 中公文庫, 1999(新版)
  • 木戸幸一「木戸幸一日記」 東京大学出版会(上下), 1966
  • 「証言・私の昭和史5 終戦前後」 聞き手三國一郎 旺文社文庫、文春文庫(新版), 1989
  • 「もう一つの戦後史」聞き手江藤淳 講談社, 1978[41]
  • 松村謙三「三代回顧録」東洋経済新報社, 1964
  • 高松宮宣仁親王「高松宮日記」 中央公論新社(全8巻), 1997
  • 河辺虎四郎「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」 毎日新聞社, 1979
  • 「最後の参謀総長梅津美治郎」 同刊行会編、芙蓉書房, 1976
  • 有末精三「終戦秘史 有末機関長の手記」 芙蓉書房, 1987(新版)
  • 宮崎周一「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」 錦正社, 2003
  • 豊田副武「最後の帝国海軍」 主婦の友出版サービスセンター, 1989
  • 藤田信勝「敗戦以後」プレスプラン, 2003

歴史書・伝記[編集]

  • 半藤一利決定版 日本のいちばん長い日」 文藝春秋, 1995、文春文庫, 2006
  • 半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1985/PHP文庫(新版), 2006
  • 小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1982、文春文庫, 1987
  • 波多野澄雄「宰相鈴木貫太郎の決断 「聖断」と戦後日本」岩波書店〈岩波現代全書〉, 2015
  • 萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」 原書房, 2005(新版)/朝日新聞社, 2008
  • 東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」 文藝春秋, 1993
  • 「昭和史の天皇」 中公文庫(1-4), 2012。元版は読売新聞社(全30巻), 1980完結
    • 「天皇の終戦 激動の227日」 読売新聞社, 1988-上記元版を再編
  • 児島襄「天皇5 帝国の終焉」 カゼット出版(新版), 2007-全5巻
  • 福田和也「昭和天皇 第六部 聖断」 文藝春秋, 2012、文春文庫, 2015-全7巻
  • 入江隆則「敗者の戦後」 中央公論社〈中公叢書〉, 1989/文春学藝ライブラリー(文庫新版), 2015
  • 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 中央公論新社, 2006、中公文庫(上下), 2011
  • 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」 NHKブックス(上下), 2000
  • 五百旗頭真「日米戦争と戦後日本」 講談社学術文庫(新版), 2005 
  • 五百旗頭真「占領期 首相たちの新日本」 読売新聞社〈20世紀の日本3〉, 1997/講談社学術文庫, 2007
  • 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」 中央公論新社, 2001、中公文庫, 2013
  • 戸部良一「日本の近代9 逆説の軍隊」 中央公論新社, 1998、中公文庫, 2012
  • 保阪正康新版 敗戦前後の日本人」 朝日文庫, 2007
  • 遠山茂樹・今井清一・藤原彰「昭和史(新版)」岩波新書, 1959
  • 纐纈厚「日本降伏 迷走する戦争指導の果てに」日本評論者, 2013
  • 加藤聖文 『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年中央公論新社中公新書 2015〉、2009年7月25日ISBN 4-12-102015-4
  • 趙景達著「植民地朝鮮と日本」岩波新書,2013
  • 若林正丈「台湾 変容し躊躇するアイディンティティ」ちくま新書,2001
  • 小倉貞男 『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム中央公論新社中公新書 1372〉、1997年7月25日ISBN 4-12-101372-7
  • 小林英夫著『日本軍政下のアジア』(1993年)岩波新書
  • 『岩波講座アジア・太平洋戦争第7巻 支配と暴力』倉沢愛子他;編集委員(2006年)岩波書店所収、中野聡著「植民地統治と南方軍政―帝国・日本の解体と東南アジア」

辞典・事典項目[編集]

  • 師岡佑行「終戦工作」 「社会科学大事典 10」鹿島研究所出版会, 1969
  • 波多野澄雄「終戦工作」 「国史大辞典 7」吉川弘文館, 1986
  • 木坂順一郎「終戦工作」 「日本史大事典 3」平凡社, 1993

その他[編集]

  • 『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』(日本テレビ「知ってるつもり?!」2002年5月28日放送分)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『昭和天皇独白録』によれば、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたかどうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。 之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない。この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・ 然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。」とある[7]

出典[編集]

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  1. ^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151
  2. ^ 『暗闘(上)』p198
  3. ^ 『暗闘(上)』pp.290 - 212、218 - 220
  4. ^ 『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 P.147
  5. ^ 『暗闘(上)』p226
  6. ^ 『暗闘(上)』pp.248 - 250
  7. ^ 寺崎英成「昭和天皇独白録」136頁
  8. ^ NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[1]。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。
  9. ^ NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』角川文庫、1995年、pp.204 - 208
  10. ^ これが「黙殺」と報道発表され、「宣言拒否」と連合国側に受け止められる口実となった。
  11. ^ a b c d e f 遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書239ページ
  12. ^ a b c d e f g h i j k 遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書240ページ
  13. ^ 纐纈(2013年)299ページ
  14. ^ a b c d e 纐纈(2013年)300ページ
  15. ^ a b c d e f 遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書241ページ
  16. ^ a b c d e 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書6ページ
  17. ^ a b c d 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書7ページ
  18. ^ a b c d e f 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書56ページ
  19. ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書281ページ
  20. ^ 池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年(平成19年))、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、2008年(平成20年)6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 1994年(平成6年)、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また中国山西省日本軍残留問題を参照。
  21. ^ a b c d e 趙景達著『植民地朝鮮と日本』(2013年)岩波新書229ページ
  22. ^ a b c d e f 趙景達著『植民地朝鮮と日本』(2013年)岩波新書230ページ
  23. ^ a b c 趙景達著『植民地朝鮮と日本』(2013年)岩波新書231ページ
  24. ^ a b 若林正丈著『台湾 変容し躊躇するアイディンティティ』(2001年)ちくま新書61ページ
  25. ^ a b c d 若林正丈著『台湾 変容し躊躇するアイディンティティ』(2001年)ちくま新書62ページ
  26. ^ a b c 小倉 (1997年)、346ページ。
  27. ^ a b c d e 小倉 (1997年)、347ページ。
  28. ^ a b 小倉 (1997年)、348ページ。
  29. ^ a b c 中野(2006年)20ページ
  30. ^ a b c d 小林(1993年)173ページ
  31. ^ a b c d e f g h 中野(2006年)21ページ
  32. ^ a b c d e f g h i j k 遠山茂樹・今井清一・藤原彰著『昭和史(新版)(1959年)岩波新書247ページ
  33. ^ 回想に小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社。初版1985年)。
  34. ^ 情報開示により近年研究が進み、評伝に岡部伸(産経新聞編集委員)による『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)、『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官小野寺信の流儀』(PHP研究所、2014年)がある。
  35. ^ 小野寺工作を元に、佐々木譲(作家)が小説で『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫)を著し、1995年(平成7年)10月に、NHKでドラマ放送(前・後)された。
  36. ^ 岡本・加瀬のルートによるスイスでの活動は、竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏』(文春新書2005年)に詳しい。著者は『月刊文藝春秋』、『諸君!』などの編集者で、昭和史関連の著作編集を行っている。なお、岡本・加瀬と藤村は別個に活動しており、お互いの活動をほとんど知らなかったとされる。
  37. ^ 近年刊の有馬哲夫(メディア研究者)『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮選書、2015年)では、藤村の和平工作に否定的な見解を述べている。
  38. ^ 藤村=ダレス工作を元に、西村京太郎(作家)が小説『D機関情報』(講談社)を著し、『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』(主演役所広司1988年)で映画化された。
  39. ^ 「占領の瞬間生々しく 降伏式の写真見つかる」デーリー東北新聞社オンライン(2010/03/11)[2]
  40. ^ 別巻に「終戦を問い直す シンポジウム」1980。
  41. ^ 昭和史の当事者13名へのインタビュー

関連項目[編集]