ダグラス・マッカーサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
ダグラス・マッカーサー
Douglas MacArthur
Douglas MacArthur smoking his corncob pipe.jpg
マッカーサー(1945年8月フィリピン
生誕 1880年1月26日
US flag 38 stars.svg アメリカ合衆国 アーカンソー州 リトルロック
死没 1964年4月5日(満84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
所属組織

Seal of the US Department of the Army.svgアメリカ陸軍

Flag of the Philippines (navy blue).svg フィリピン陸軍
軍歴 1903年 - 1952年
最終階級 US-O11 insignia.svg 元帥(アメリカ陸軍)
元帥(フィリピン陸軍)
除隊後 レミントンランド会長
墓所 バージニア州 ノーフォーク
署名 DMacarthur Signature.svg
テンプレートを表示

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍人陸軍元帥連合国軍最高司令官を務めた。トレードマークはコーンパイプ

生涯[編集]

生い立ち[編集]

マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、ロバート1世のスコットランド独立運動に加担し広大な領土を得たが、その後領主同士の勢力争いに敗れ没落したと伝えられている。1815年に祖父のアーサー・マッカーサー卿(英語版)の代にスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。[1]なお同じスコットランド系のフランクリン・ルーズベルトとは7つの家系、ウィンストン・チャーチルとは8つの家系を隔てた遠戚関係にあたる[2]

父のアーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳のころに南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年ニューオーリンズジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期でインディアンとの戦いの為、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5ヶ月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母メアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子、特に三男のダグラス・マッカーサーを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父アーサーが転属となり家族も着いていった。そのためマッカーサーは幼少期の殆どを軍の砦の中で生活することとなった[3]

その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898米西戦争が始まると父アーサーは准将となりスペインの植民地であったフィリピンに出征、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わりフィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進し師団長になっていた父アーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した。[4]しかし1892年に兄アーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイントアメリカ陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった[5]

なお、ダグラスの幼少期は、母メアリーによってフランスの風習に倣い女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。

陸軍入隊[編集]

1896年マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元のミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウエストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強し1899年に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。[6]息子を溺愛し心配する母メアリーは、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み息子の学園生活に目を光らせることとした。結局マッカーサーが卒業するまで離れなかったため「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した。」とからかわれることとなった[7]

当時のウエストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは特に念入りにしごかれた。そのしごきは長いウエストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」とか凄まじいものであった。そのしごきが行われる兵舎は生徒たちより「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはよくそれらに耐えたが、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、ついに新入生の中でしごきによる死亡者が出て問題化することになった[8]。数か月後、軍法会議が開かれ最も激しいしごきを受けたマッカーサーが証人として呼ばれたが、マッカーサーは厳しい追及にも、しごきをした上級生の名を最後まで明かさず、全校生徒から尊敬を勝ち取っている[9]

在学中は成績抜群で、4年の在学期間中3年は成績トップであった。スポーツも得意であったが、一番好んだスポーツは野球であった。しかしバッティングが苦手で決して中心選手ではなかったが、積極果敢で頭を使ったプレーが得意であり「不退転のダグ」と呼ばれ試合では活躍していた。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年に在学期間中の満2,470点の内2,424.2点の得点率98.14%という成績で94名の生徒の主席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで二名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)[10]。卒業後は陸軍少尉で任官した。

当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループと看做されていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、第3工兵大隊所属となりアメリカの植民地であったフィリピンに配属された[11]。彼の長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本東京で勤務した[12]。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが[13]、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、記憶違いと思われる[14]。この後マッカーサーと家族は、日本を出発し中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与える事になった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎大山巌乃木希典黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消える事がない感銘を受けたとしている[15]

第一次世界大戦[編集]

1918年第一次世界大戦中のフランス。レインボー師団司令部で。

その後に陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長についた。1917年4月にアメリカがイギリスフランス、日本などとともに連合国の1国として第一次世界大戦に参戦することが決まった際、マッカーサーは大統領ウッドロウ・ウィルソンに「欧州に送り込む最初の師団は全州の州民から徴募して創設した師団にしたい」と提案した。「アメリカ人は一丸となって戦いぬく」という姿勢を示すことでアメリカ国民の戦意を鼓舞するためであった。

ウィルソンはマッカーサーの提案を採用し、各州の州兵からなる第42師団を立ち上げた。マッカーサーはウィルソンに「のように様々なカラー(気風)を持った各州住民が、大西洋にかかる虹のように戦場に向かうのです」と説明し、これに感銘を受けたウィルソン大統領は第42師団に「レインボー師団」の名前を与えた。

マッカーサーは第42師団「レインボー師団」の参謀長旅団長に就任した。同師団は1918年2月に西部戦線に動員され、アメリカ軍で第一次世界大戦の実戦に参加した最初の部隊の1つとなった。マッカーサーは雨のような銃弾にもひるまず、突撃隊を率いて果敢に敵の陣地を強襲した。戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。

このヨーロッパ派遣軍英語版(AEF) の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。

しかし、マッカーサーの母メアリーはパーシングとは旧知の仲で、ニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官とも懇意にしていたことから、パーシングとベイカーに対しマッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙を度々送っていた。そのおかげか大戦中にマッカーサーは准将に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです。」というお礼の手紙を送っている。[16]また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンに「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた[17]

戦間期[編集]

1920年、左は映画女優マリオン・デイヴィス、マッカーサーとしては珍しいスーツ姿と笑顔の写真

大戦後にマッカーサーは母校陸軍士官学校の校長に就任した(1919-1922年)当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革し現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止された。代わりに集団でのゲームが積極的に取り入れられ、団結心が養われた[18]。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしない内に全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう」と回想している[19]

その後1922年に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックス(英語版)を伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、二人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた[20]。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、実際はルイ―ズはパーシングの副官であったジョン・キュークマイヤーと関係があるなど恋多き女性であった[21]

このフィリピン勤務でマッカーサーは後のフィリピンコモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンなどフィリピンに人脈を作ることができた。翌年1923年には関東大震災が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ1925年にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。

少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は友人のウィリアム・ミッチェル軍法会議であった。ミッチェルは航空主兵論の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すために旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第1次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものがつくられたにもかかわらず、政府がその後、空軍力の発展をおこたったとして、厳しく批判していた[22]。軍に対してもハワイオアフ島の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しいなどと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』と看做され、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の判事となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり、不名誉除隊だけは免れ1926年に除隊した[23]。その後、ミッチェルの予言通り航空機の時代が到来し、ミッチェルはその先見の明が認められ、死後10年後となる1946年に名誉回復され少将の位と議会名誉黄金勲章が遺贈された。

1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダム新聞記者に囲まれた彼は「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込み通りとはならず、アメリカは前回のパリオリンピック (1924年)の金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかったため、アメリカ国民の失望は大きく選手団に連日非難の声が寄せられた[24]。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時にマッカーサーがアメリカの将軍であったことに驚いたという。

マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官ジョン・ウィンゲイト・ウィークスに、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず 1929年には離婚が成立している[25]。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられマッカーサーを悩ませることになる[26]

離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに在フィリピンアメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった。」と歓迎している[27]。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的でアジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピンスカウト)の待遇を改善し、強化を図っている[28]。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じ防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している[29]。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、ヘンリー・スティムソンの後任のフィリピン総督に就任する事を願った。マッカーサーもかつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず総督は前陸軍長官のドワイト・フィリー・デービスが就任した[30]

私生活では1929年にマニラで温血の女優エリザベス・イザベル・クーパー(英語版)との交際が始まったが、マッカーサー49歳に対しイザベルは当時15歳であった[31]

陸軍参謀総長[編集]

1930年、大統領ハーバート・フーヴァーによりアメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、少将から中将を経ずに、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付いた。

前年の「暗黒の木曜日(Black Thursday)」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同禽者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ激しい敵意をむき出しにしていた[32]。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなくポルトガル陸軍ギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式で火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車はたったの12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった[33]

ボーナスアーミーのデモ隊を排除する警官隊

1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され連邦政府に対する革命行動を煽っていると根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で少しずつであるが解散して行った。しかしフーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍にデモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河し退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた[34]。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった[35]

マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。この後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している[36]

フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルトに大統領選で歴史的大敗を喫し政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された[37]。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが[38]、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC(民間資源保存局)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している[39]

マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており暫定的に1年間参謀総長の任期を延長している。

フィリピン生活[編集]

1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬[注釈 1]という破格の条件に興奮し、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している[40][41]

フィリピンには参謀総長時代から引き続いてアイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている[42]

フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー」 (S.S. President Hoover) には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている[43]

1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ作られたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは存在もしない軍隊の元帥になることなんてバカげていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが聞き入れられなかった。後年、ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった[44]。しかし肝心の軍事力整備は主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた[45]

軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日]は第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した[46]

1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出し、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画したが、アイゼンハワーら副官は金を使い果たし、軍事予算が破産するとマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒しマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがないとアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことでマッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をし、1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった[47]。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。

太平洋戦争[編集]

現役復帰[編集]

フィリピン国内の基地で演説を行うマッカーサー

第二次世界大戦が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は強化は進まなかったが、日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、フィリピンの現戦力ではオレンジ計画を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった。マッカーサーもその流れの中で、1941年7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍司令官となった。それまでフィリピンに無関心であったワシントンであったが、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長はフィリピン軍歩兵の装備を大量に送るとマッカーサーに約束し、また新型の爆撃機B-17B-24などの爆撃機340機、戦闘機P-40を130機、M3軽戦車100両以上の配備も約束した。

また同時に海軍のアジア艦隊英語版の増強も図られ、潜水艦23隻が送られる事となり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった[48]。アジア艦隊司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあったトーマス・C・ハートであったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったという[注釈 2]。そのためマッカーサーは「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた[注釈 3]

マッカーサーは戦力の充実により、従来の戦術を大きく転換することとした。現状のペースで戦力増強が進めば1942年4月には20万人のフィリピン軍の動員ができ、マーシャルの約束通り航空機と戦車が配備されれば、上陸してくる日本軍を海岸で阻止できるという目論みに基づく計画であった。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後にマッカーサーとアメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した[49]

フィリピン撤退[編集]

12月8日に、日本軍がイギリス領マレーハワイ州真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦うこととなった。マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、優勢な航空兵力と14万の米比軍は上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持って語っていたマッカーサーは、真珠湾の太平洋艦隊が殲滅されたという報告を受けた側近から、台湾の日本軍に先制攻撃すべきだと具申されたが、何の反応も見せなかった。また、B-17以下の爆撃機を安全地帯に退避させるべきとの意見にも答えはなく、マッカーサーは9時間、ただうろつくだけであった。結局、空中で警戒待機して日本軍の襲来に備えたが、昼過ぎに燃料が切れて飛行場に降りた。そこに約200機の日本機が襲いかかった。日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下にあった」と報告したが、実際は日本側が191機、米側は249機であった。

オーストラリアに退却したマッカーサー

マッカーサーの作戦通り海岸で日本軍を迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、自分の考案した作戦を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、マニラを放棄してバターン半島コレヒドール島籠城する作戦に持ち込んだ。その退却は後年の軍事史家が見事な退却戦と褒めるぐらいに成功し、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送がマッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これを殆ど輸送することができずに日本軍に接収されてしまった。この為バターン半島には10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が集まっていたが、食糧や医薬品は殆どなかった[50]

マッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが実際は2個師団相当の40,000名であった。一方で、日本軍第14軍司令官本間雅晴中将は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、25,000名と見積もっていたが実際は80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。本間はその過小評価に基づき1942年1月から第65旅団でバターン半島に攻撃をかけたが、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに、激しい砲撃と爆撃を加えてきたが、地上軍による攻撃はしばらく休止することとなった[51]

その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島に立て籠もるマッカーサーに対し、「2ヶ月に渡って日本陸軍を相手に『善戦』している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出した。しかし、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。

一方、ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水の様に戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している[52]

しかし、今やバターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されており、ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には救援策は具体的には何もなされなかった[53]

コレヒドールの要塞に逃げ込んで2週間たったとき、マッカーサーはケソン大統領に、フィリピン軍を養成してやった謝礼50万ドルを要求した。2月15日、ケソンはニューヨークのチェース・ナショナル銀行のフィリピン政府の口座からケミカル・ナショナル銀行のマッカーサーの個人口座に50万ドルを振り込む手続きをした。脱出させてもらうための賄賂の意味合いもあった。また、ケソン大統領はマッカーサーに「この戦争は日本と米国の戦いだ。フィリピン兵士に武器を置いて降伏するよう表明する。日米はフィリピンの中立を承認してほしい」と申し出た。

開戦から3か月経った頃にはルーズベルトと陸軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていたが、マッカーサーはアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、戦死あるいは捕虜になった場合、国民の士気に悪い影響が生じかねないと考え、1942年2月21日、ルーズベルトはマッカーサーとケソンにオーストラリアへ脱出するよう命じた。マッカーサーは「私と私の家族は部隊と運命を共にすることを決意した」と拒否の返電をし、軍籍を返上して義勇兵として戦おうとも考えたが、いったんオーストラリアに退いて、援軍を連れてフィリピンに救援に戻って来ようという考えに落ち着き、ルーズベルトの命令を受けることとした[54]

3月11日、家族や幕僚達と共に魚雷艇ミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からB-17でオーストラリアに飛び立った。3月20日にオーストラリアのアデレード駅に到着すると、集まった報道陣に向けて下記の様に宣言した[55]

私はアメリカ大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアに行けと命じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻勢を準備する事で、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきたが、必ずや私は戻るだろうI shall return

この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡はマッカーサーの軍歴の数少ない失態となった。彼は10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者と言われた。また、「I shall return」は米兵の間では敵前逃亡の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこない彼を揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ歌まで作られて兵士の間で流行していた[注釈 4][56]。専用機にバターン号と名付けるなどバターン半島を特別な地としていたマッカーサーであったが、実際にコレヒドール要塞から出てバターン半島に来たのは1回しかなかった[57]

さらに、ケソンから50万ドルを私的に取った卑しい行為がアイゼンハワーら軍首脳部の反感を買った。だが、オーストラリアに逃亡したマッカーサーは南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任した。その後もマッカーサーの軍歴にこの汚点がついてまわり、マッカーサーの自尊心を大きく傷つける結果となった。

オーストラリアについたマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた「神よあわれみたまえ」」と回想している[58]

救援は絶望的であったが、マッカーサーは残してきたジョナサン・ウェインライト中将以下のアメリカ軍・フィリピン軍に「いかなる条件でも降伏するな、食糧がなくなったら、敵軍を攻撃せよ」という督戦電報を打電している。しかし4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ部隊長に徹底抗戦を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。マッカーサーはこの降伏に激怒し、終戦までウェインライトらを許さなかった[59][注釈 5]

反攻[編集]

1942年4月18日、南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官(Commander in Chief, Southwest Pacific Area 略称 CINCSWPA)に任命され、日本の降伏文書調印の日まで、その地位にあった。

1943年3月のビスマルク海海戦(所謂ダンピール海峡の悲劇)の勝利の報を聞き、第5航空軍司令官ジョージ・ケニーによれば、「彼があれほど喜んだのは、ほかには見たことがない」というぐらいに狂喜乱舞した。そうかと思えば、同方面の海軍部隊(後の第7艦隊)のトップ交代(マッカーサーの要求による)の際、「後任としてトーマス・C・キンケイドが就任する」という発表を聞くと、自分に何の相談もなく勝手に決められた人事だということで激怒した。

マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『蛙飛び作戦』と呼んでいた[60]。日本軍は空・海での度重なるに敗戦に戦力を消耗し制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、ニューギニアの戦いでは多くの餓死者・病死者を出す事となった。この勝利はフィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。

I shall return[編集]

レイテ島に再上陸を果たすマッカーサー

1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要なし」との判断であったし、アメリカ海軍もトップのアーネスト・キング作戦部長をはじめとしてそれに同意する意見が多かったが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張した。マッカーサーがこの作戦をごり押しした理由としては、フィリピンからの敵前逃亡を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復の2つがあったと言われている。ルーズベルトは1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われている。

マッカーサーは10月23日にセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島レイテ湾に上陸した。マッカーサーは日本軍の狙撃兵が潜む中で戦場を見て回り、狙撃されたこともあったが、弾を避けるために伏せることもしなかったという。その後に旗艦としていた軽巡ナッシュビルの通信設備を使って演説をフィリピン国民に向けて放送した。その演説の出だしは「フィリピン国民諸君、私は帰ってきた。」であったが、興奮のあまり手が震え声が上ずったため、一息入れた後に演説を再開した[61]。日本の軍政の失敗による貧困や飢餓に苦しめられていた多くのフィリピン国民は、熱狂的にマッカーサーの帰還を歓迎した。

その後のレイテ島の戦いは、日本軍は台湾沖航空戦の過大戦果の虚報に騙され、大本営の横やりで現地の山下奉文司令官の反対を押し切り、レイテを決戦場としてアメリカ軍に決戦を挑むこととし捷一号作戦を発動した。連合艦隊の主力がアメリカ輸送艦隊を撃滅、ついで陸軍はルソン島より順次増援をレイテに派遣し、上陸軍の撃滅を図ったが、レイテ沖海戦で連合艦隊が惨敗し制空権・制海権を失うと、増援も海上輸送中に輸送船ごと撃沈され、レイテ島の日本軍は孤立する中で圧倒的なアメリカ軍の火力と、飢えと病気に兵士は次々と倒れていった。

レイテを攻略したマッカーサーはついに念願のルソン島奪還作戦を開始した。レイテで戦力を消耗した日本軍は海岸線での決戦を避け山岳地帯での遅滞戦術をとる事とした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まない為に、防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を出したが陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサーはマニラ市内への重砲による砲撃を許可し、激しい市街戦の上で住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された(マニラの戦い (1945年)[62]。マニラ市民の犠牲は10万人にも上ったが、その中には絶望的になった日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラフクバラハップゲリラに手を焼いた日本軍のゲリラ討伐による犠牲者も含まれていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず老若男女構わず殺害した。マッカーサーは日本軍のゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」[63]「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を持っている・・・(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」[64]と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッカーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側よりマッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官であった時に、フィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣した様なものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出した」と指摘され[65]、マッカーサーは激怒している。

アメリカ軍がフィリピン人に配布した「I shall return」のロゴが入ったタバコ

日本軍はその後も圧倒的な火力のアメリカ軍と、数十万人にも膨れ上がったフィリピンゲリラに圧倒されながら絶望的な戦いを続け、ここでも大量の餓死者・病死者を出し、ルソン島山中に孤立することとなった。ニューギニアの戦いに続きマッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません・・・よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが[66]、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名[67][68][69]という大きな損失を被った上に、何よりもマッカーサーが軍の一部と認定し多大な武器や物資を援助し、「フィリピン戦において我々は殆どあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており、この兵力は我が戦線が前進するにつれて敵の後方に大打撃を加える態勢にあり、同時に軍事目標に近接して無数の大きい地点を確保して我が空挺部隊が降下した場合には直ちに保護と援助を与えてくれる。」「私はこれら戦史にもまれな偉大な輝かしい成果を生んだ素晴らしい精神力を、ここに公に認めて感謝の意を表する。」[70]「北ルソンのゲリラ隊は優に第一線の1個師団の価値があった。」 [71]などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピンゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった[72]。しかし、「アメリカ軍17個師団で日本軍23個師団を打ち破り、日本軍の人的損失と比較すると我が方の損害は少なかった」と回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった[73]

6月28日にマッカーサーはルソン島での戦闘の終結宣言を行ない「アメリカ史上もっとも激しく血なまぐさい戦いの一つ・・・約103,475㎢の面積と800万人の人口を擁するルソン島全域はついに解放された。」と振り返ったが[74]、結局はその後も日本軍の残存部隊はルソン島の山岳地帯で抵抗を続け、アメリカ第6軍(英語版)の3個師団は終戦までルソン島に足止めされることとなった[75]

フィリピン戦中の12月にマッカーサーは元帥に昇進している(アメリカ陸軍内の先任順位では、参謀総長のジョージ・マーシャル元帥に次ぎ2番目)。

ダウンフォール作戦[編集]

もう一人の太平洋戦域における軍司令となった太平洋方面軍司令官チェスター・ニミッツ硫黄島の戦いの激戦を制し沖縄に向かっていた頃、次の日本本土進攻作戦の総司令官を誰にするかで悶着が起きていた。重病により死の淵にあったルーズベルトの命令で陸海軍で調整を続けていたが決着を見ず、結局マッカーサーの西太平洋方面軍とニミッツの太平洋方面軍を統合し、全陸軍をマッカーサー、全海軍をニミッツ、戦略爆撃軍をカーチス・ルメイがそれぞれ指揮し、三者間で緊密に連携を取るという玉虫色の結論でいったんは同意を見た。しかし1945年4月12日にルーズベルトが死去すると、またこの問題は蒸し返され、ジェームズ・フォレスタル海軍長官によれば、マッカーサー側より日本本土進攻に際しては海軍は海上援護任務に限定し、マッカーサーに空陸全戦力の指揮権を与えるように要求してきたのに対し、当然、海軍と戦略爆撃軍は激しく抵抗した。マッカーサーは海軍の頑なな態度を見て「海軍が狙っているのは、戦争が終わったら陸軍に国内の防備をさせて、海軍が海外の良いところを独り占めする気だ。」とか「海軍は陸軍の手を借りずに日本に勝とうとしている」などと疑っていた。結局マッカーサーの強い申し出にもニミッツは屈せず、マッカーサーはこの要求を取り下げた[76]

かような指揮権における主導権争いと並行して、日本本土進攻作戦の詳細な作戦計画の作成が進められ、作戦名はダウンフォール作戦という暗号名が付けられた。ダウンフォール作戦は南部九州攻略作戦である「オリンピック作戦」と関東地方攻略作戦である「コロネット作戦」で構成されていたが、まず「オリンピック作戦」について1945年6月18日に急逝したルーズベルトに替って大統領に昇格したハリー・S・トルーマンが承認し、7月24日ポツダム会談にて大英帝国首相ウィンストン・チャーチルと再確認した。マッカーサーもジョージ・マーシャル参謀総長から「オリンピック作戦」についての意見を求められたが、マッカーサーは「私はこの作戦は、他に提言されているどんな作戦より、過剰な損耗を避け危険がより少ないものであること・・・また私はこの作戦は、可能なもののうちもっともその努力と生命において経済的であると考えている・・・私の意見では、オリンピック作戦を変更すべきであるとの考えが、いささかでも持たれるべきではない」と回答している[77]

マッカーサーの下には従来の太平洋のアメリカ陸軍戦力の他に、ドイツを打ち破ったヨーロッパ戦線の精鋭30個師団が向かっていた。「オリンピック作戦」ではマッカーサーは764,000名ものアメリカ軍上陸部隊を指揮する事となっていたが、指揮下となる予定であったコートニー・ホッジス大将などのヨーロッパ戦線の指揮官らには、元部下であるアイゼンハワーへの対抗意識からか「ヨーロッパの戦略は愚かにも敵の最強のところに突っ込んでいった。」とか「北アフリカに送られた戦力を自分に与えられていたら3ヶ月でフィリピンを奪還できた。」などと現実を無視した批判をおこなうなど評価が辛辣で、うまくやっていけるかは疑問符がついていた[78]

太平洋戦域でのアメリカ軍地上部隊の兵員の死傷率はヨーロッパ戦域を大きく上回っており[注釈 6][79]、マッカーサーは日本軍との死闘による経験則から、「ダウンフォール作戦」の成り行きに関しては全く幻想を抱いておらず、ヘンリー・スティムソン陸軍長官に対し「アメリカ軍だけでも100万人の死傷者は覚悟しなければいけない。」と述べている[80]

しかし、広島市への原子爆弾投下直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者にも詳細を知らされていなかった、マンハッタン計画による日本への原子爆弾投下ソ連対日参戦で、日本はポツダム宣言を受諾し、「オリンピック作戦」が開始されることはなかった[注釈 7][81]

連合国軍最高司令官(SCAP)[編集]

バターン号厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー

1945年8月14日に日本は連合国に対しポツダム宣言の受諾を決定。戦争終結のための調印式が、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国オーストラリアなどの連合国代表を相手に行なわれ正式な降伏へ至った。かくして直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍イギリス連邦占領軍)、中華民国軍フランス軍を中心とする連合軍の占領下に入ることとなる。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。

メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する

朝日新聞(1945年8月31)

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在し、降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した皇居前の第一生命館内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官[注釈 8]として日本占領に当たった。

日本占領方針[編集]

マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマンから史上空前の全権が与えられていた。

  • 天皇と日本政府の統治権はマッカーサーに隷属しており、その権力を思う通りに行使できる。我々と日本の関係は条件付きのものではなく、無条件降伏に基づいている。マッカーサーの権力は最高であり、日本側に何の疑念も抱かせてはならぬ。
  • 日本の支配は、満足すべき結果が得られれば、日本政府を通じて行われるべきである。もし必要であれば、直接行動してもよい。出した命令は武力行使も含め必要と思う方法で実施せよ。

連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役としてマッカーサーを補佐していたウィリアム・ジョセフ・シーボルドは「物凄い権力だった、アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例は無かった」と評した[82]

占領行政については、ドイツでの経験から直接統治ではなく、既存の日本の体制を利用した間接統治のほうが円滑に進むとの現実的判断に落ち着いた。既存の体制の維持となると避けて通れないのが、天皇制の存置と昭和天皇の戦争責任問題であるが、早くも終戦1年6か月前の1944年2月18日の国務省の文書『天皇制』で「天皇制に対する最終決定には連合国の意見の一致が必要である」としながらも「日本世論は圧倒的に天皇制廃止に反対である・・・強権を持って天皇制を廃止し天皇を退位させても占領政策への効果は疑わしい」と天皇制維持の方向での意見を出している。また、1945年に入ると、日本の占領政策を協議する国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)において「占領目的に役立つ限り天皇を利用するのが好ましい」「天皇が退位しても明らかな証拠が出ない限りは戦犯裁判にかけるべきではない」という基本認識の元で協議が重ねられ[83]、戦争の完全終結と平穏な日本統治のためには、天皇の威信と天皇に対する国民の親愛の情が不可欠との知日派の国務長官代理ジョセフ・グルーらの進言もあり、当面は天皇制は維持し昭和天皇の戦争責任は不問とする方針となった[84]。 これはマッカーサーも同意見であったが、ほかの連合国や対日強硬派やアメリカの多くの国民が天皇の戦争責任追及を求めていたため、連合国全体の方針として決定するまでには紆余曲折があった[注釈 9]

戦争犯罪の追及[編集]

バギオで降伏した山下奉文大将

まずマッカーサーが着手したのは日本軍の武装解除であったが、軍事力のほとんどが壊滅していたドイツ軍と異なり、日本軍は内外に154個師団700万名の兵力が残存していた。難航が予想されたが、陸海軍省などの既存組織を利用することにより、平穏無事に武装解除は進み、わずか2カ月で内地の257万名の武装解除と復員が完了した。

次に優先されたのは戦争犯罪人の逮捕で、終戦前からアメリカ陸軍防諜部隊英語版(略称CIC)がリストを作成、さらに国務省より要求も加え、9月11日には第一次A級戦犯38名の逮捕に踏み切った。しかし東條英機が自殺未遂、小泉親彦橋田邦彦2名が自殺した。最終的に逮捕したA級戦犯は126名となったが、戦犯逮捕を指揮したCIC部長ソープは、戦犯らが遡及法で裁かれることに疑問を感じ、マッカーサーに「戦犯を亡命させてはどうか?」と提案したことがあったが、マッカーサーは「そうするためには自分は力不足だ、連合軍の連中は血に飢えている」とA級戦犯訴追に批判的な回答をしたという[85]

A級戦犯に同情的だったマッカーサーも、フィリピン戦に関する戦争犯罪訴追にはフィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束しただけに非常に熱心であった。マッカーサー軍をルソン山中に終戦まで足止めし「軍事史上最大の引き伸ばし作戦」を指揮した山下奉文大将と、太平洋戦争序盤にマッカーサーに屈辱を与えた本間雅晴中将の2人の将軍については、戦争終結前から訴追のための準備を行っていた[86]

山下は1945年9月3日にフィリピンのバギオにて降伏調印式が終わるや否や、そのまま逮捕され投獄された。山下は「一度山を下りたら、敵は二度と釈放はすまい」と覚悟はしていたが、逮捕の罪状であるマニラ大虐殺などの日本軍の残虐行為については把握していなかった。しかしマッカーサーが命じ、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将が開廷したマニラ軍事法廷は、それまでに判例もなかった、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任に帰するという「指揮官責任論」で死刑判決を下した。死刑判決を下した5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷(似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判)であった[87]

また、マニラについてはその犠牲者の多くが、日本軍の残虐行為ではなくアメリカ軍の砲爆撃の犠牲者であったという指摘もあり、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もある[88]。マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせる様に「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し[89]、山下は囚人服のままマンゴーの木で絞首刑を執行された。

本間についても同様で、本人が十分に把握していなかった所謂バターン死の行進の責任者とされた。マッカーサーが死の行進の責任者を罰する事を「聖なる義務」と意気込んでいたことと、マッカーサーを唯一破った軍人であり、なによりその首を欲していたため、マッカーサーにとっては一石二鳥の裁判となった[90]。山下裁判と同様にカンガルー法廷により、判決は死刑であった。本間の妻・富士子は、裁判の証言者として法廷に立ったが、「裁判は正に復讐的なものでした。名目は捕虜虐殺というものでしたが、マッカーサー元帥の輝かしい戦績に負け戦というたった一つの汚点を付けた本間に対する復讐裁判だったのです」と感想を述べている[91]。富士子は、判決確定後に弁護士の一人ファーネス大尉と連れだってマッカーサーに会った。マッカーサーの回想では、富士子は本間の命乞いに来たということにされているが[92]、富士子によると「夫は敵将の前で妻が命乞いをするような事を最も嫌うので命乞いなんかしていない。後世のために裁判記録のコピーがほしいと申し出たが、マッカーサーからは女のくせに口を出すなみたいな事を言われ拒否された」とのことであった[91]。このやり取りのおかげかは不明だが、マッカーサーの命令により本間は山下の様に不名誉な処刑ではなく、軍服を着用し銃殺刑に処せられた。

後にこの裁判は、アメリカ国内でも異論が出され「法と憲法の伝統に照らして、裁判と言えるものではない」とか「法的手続きをとったリンチ」などとも言われた[93]

1949年に山下の弁護人だったA・フランク・リール大尉が山下裁判の真実をアメリカ国民に問うために『山下裁判』という本を出版した。日本でも翻訳出版の動きがあったがGHQが許可せず、日本で出版されたのはGHQの占領が終わった1952年であった[94]

昭和天皇との初会談[編集]

GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらがイニシアチブをとったかは不明であるが[注釈 10]、天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる・・・私は待とう、その内天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで[95]、マッカーサーの要望通り昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった[96]。しかし、日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている[97]

1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、昭和天皇の退出時には、自ら玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており、(#昭和天皇との会談とマッカーサーの占領統治手法を参照)詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、この後合計11回に渡って会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった[98]

その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人の斎藤茂吉はその日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見通り日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった[99]

連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、後に東條は、重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという[100]

報道管制[編集]

マッカーサーと大韓民国李承晩大統領、このようなマッカーサーの無帽の写真はGHQの検閲により新聞等への掲載が許可されなかった。

バギオで戦犯として山下が逮捕された直後の9月16日の日本の新聞各紙に一斉に「比島日本兵の暴状」という見出しで、フィリピンにおける日本兵の残虐行為に関する記事が掲載された。これはGHQの発表を掲載したもので、山下裁判を前にその意義を日本国民に知らしめ、裁判は正当であるとする周到な世論工作であった[101]。毎日新聞の森正蔵東京本社社会部長によれば、これはマッカーサーの司令部から情報局を通じて必ず新聞紙に掲載する様にと命令され、記事にしない新聞は発行部数を抑制すると脅迫されていたという[102]

実際に、朝日新聞はこのGHQの指示について、「今日突如として米軍がこれを発表するに至った真意はどこにあるかということである。(連合軍兵士による)暴行事件の発生と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないか」と占領開始以降に頻発していた連合軍兵士による犯罪と、フィリピンにおける日本軍の暴虐行為の報道指示との関連性を疑う論説を記事に入れたところ、マッカーサーは朝日新聞を1945年9月19日と20日の2日間の発行停止処分としている[103]

その後、マッカーサーと昭和天皇の初面談の際に撮影された写真が掲載された新聞について内務大臣山崎巌が畏れ多いとして新聞の販売禁止処分をとったが、連合国軍最高司令官総司令部[注釈 11]の反発を招くことになり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。これをきっかけとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、GHQが検閲を行うこととし、日本の報道を支配下に置いた。また、連合国と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

マッカーサーの日本のマスコミに対する方針を如実に表しているのは、同盟通信社が行った連合軍に批判的な報道に対し、1945年9月15日にアメリカ陸軍対敵諜報部の民間検閲主任ドナルド・フーバー大佐が、河相達夫情報局総裁、大橋八郎日本放送協会会長、古野伊之助同盟通信社を呼びつけて申し渡した通告であるが「元帥は報道の自由に強い関心を持ち、連合軍もその為に戦ってきた。しかし、お前たちは報道の自由を逸脱する行為を行っており、報道の自由に伴う責任を放棄している。従って元帥はより厳しい検閲を指令された。元帥は日本を対等とは見做していないし、日本はまだ文明国入りする資格はない、と考えておられる。この点をよく理解しておけ。新聞、ラジオに対し100%の検閲を実施する。嘘や誤解を招く報道、連合軍に対するいかなる批判も絶対許さない。」と強い口調で申し渡している[104]

GHQ情報部民間検閲局が特に神経をとがらせていたのは、マッカーサーの日本国民に対するイメージ戦略であり、マッカーサーの存在を光り輝くものとして日本人に植え付けようと腐心していた。例えばマッカーサーは老齢でもあり前髪の薄さをかなり気にしていた為、帽子をかぶっていない写真は「威厳を欠く」として新聞への掲載を許さなかった。また、身長は180cmとアメリカ人としては決して大柄ではなかったため、写真を撮る時は下からあおって撮影する工夫をこらしていた。時事通信社が「マッカーサー元帥を神の如く崇め立てるのは日本の民主主義のためにならない」という社説を載せようとしたところ、いったん検閲を通過したものの、参謀第2部 (G2) 部長のチャールズ・ウィロビーの目に止まり、既に50,000部印刷し貨車に積まれていた同紙を焼却するように命じている。その内に日本のマスコミは腫れ物に触らずという姿勢からか自主規制により、マッカーサーに関する報道はGHQの公式発表か海外の好意的な記事の翻訳に限ったため、マッカーサーのイメージ戦略に手を貸す形となり[105]、日本国民のマッカーサー熱を大いに扇動する結果を招いた。

連合軍占領下の日本[編集]

マッカーサーの強力な指導力の下で、五大改革などの日本の民主化が図られ、日本国憲法が公布された。

大統領選[編集]

連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んでいた。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。

マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心[106]に、シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミック英語版や、やはり新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。『ニューヨーク・タイムズ』紙も彼が有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士の内でマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」とくぎを刺している。しかしマッカーサーはそのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかった[107]

6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第一回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第二回で7票、第三回で0票という惨敗を喫し、結局第一回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された[108]

日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝える事ができなかった。『タイム』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグロバート・タフトの影は急激に薄くなっていったなどと事実と反する報道がなされていた[109]。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかった事だろう。・・・日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。その為、マッカーサー元帥には殆ど反対がいないのだという印象が与えられた。」と報じている[110]

大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。なおイギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。

朝鮮戦争[編集]

北朝鮮による奇襲攻撃[編集]

金浦で閲兵を行うマッカーサー。

第二次世界大戦後に南北(韓国北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時、マッカーサーは、アメリカ中央情報局 (CIA) やマッカーサー麾下の諜報機関 (Z機関) から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際「考えたいから一人にさせてくれ」と言い、日本の降伏から5年で平和が破られたことに衝撃を受けていたという[111]。彼はどう対応していいのかわからないまま丸一日が過ぎた。

だがその後は、「韓国軍は奇襲を受けて一時的にショックを受けているだけであり、それが収まれば必ず持ち直すに違いない」と考え、あまり戦況を心配する様子を表に出さなかった[112]。6月27日にマッカーサーは、朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶、飛行機の手配を行った。なお朝鮮半島には国連軍として、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍なども参軍展開した。

28日にソウル北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。かつてマッカーサーは李承晩らに、1948年8月15日に行われた大韓民国の成立式典で「貴国とは1882年以来、友人である」と演説し、有事の際の援軍を約束していた。その言葉通り、マッカーサーはすぐに国連軍総司令官として戦争を指揮し、その後前線視察を行い、兵士を激励鼓舞しすぐさま東京へ戻った。

なおマッカーサーは、インフラが貧弱な上に、戦争により破壊された朝鮮半島に留まることを嫌い、その後も暮らし慣れた東京を拠点として戦線に向かい、日帰りで東京へ戻るという指揮形態を繰り返した。これらの行動は現状を理解する妨げとなり、状勢判断を誤り、後に成立間もない中華人民共和国中国人民志願軍抗美援朝義勇軍)参戦を招く一因ともなった。

仁川上陸作戦[編集]

仁川上陸作戦の指揮を執るマッカーサー

7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第八軍を援軍として派遣したほか、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍も追加派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、統合参謀本部と海軍は反対で、ワシントンからは陸軍参謀総長ジョーゼフ・ロートン・コリンズ海軍作戦部長フォレスト・シャーマン、ハワイからは太平洋艦隊司令長官アーサー・W・ラドフォードと太平洋艦隊海兵隊司令官シェパードを東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。

マッカーサー自身も成功率が低いと見積もっていたこの作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転、9月になると国連軍はソウルの奪回に成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高めた。

中国人民志願軍の参戦[編集]

中国人民志願軍の猛攻中に事故死したウォルトン・ウォーカー中将(右)とマッカーサー

仁川上陸作戦の大成功により、マッカーサーの自信は肥大化し、その誇大な戦況報告にワシントンも引きずられ、統合参謀本部は、国連決議を待たず9月28日付で北朝鮮での軍事行動を許可した。戦争目的が「北朝鮮軍の侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」にエスカレートしたのである。国防長官ジョージ・マーシャルはマッカーサーに「38度線以北に前進する事に関して、貴下には戦略的・戦術的に何の妨げもないものと考えていただきたい」と極秘電を打つと、マッカーサーは「敵が降伏するまで、朝鮮全土が我が軍事作戦に開かれているものと理解する」と回答している[113]。しかし、中ソの全面介入を恐れるトルーマンは、「陸海軍はいずれの場合も国境を越えてはならない」「国境付近では韓国軍以外の部隊は使用しない」「中国東北部およびソ連領域への空海からの攻撃を禁止」という制限を設けた。これは、全面戦争で勝利することが信条のマッカーサーには、束縛以外の何物にも感じなかった。

10月15日にウェーク島でトルーマンとマッカーサーは朝鮮戦争について協議を行った。しかしこの協議は中間選挙も近いトルーマンの選挙対策の意味合いも強く、また、日本の占領政策でたびたび衝突していたマッカーサーはトルーマンを見下しており、飛行場に着陸したトルーマンに対し、本来であれば総司令官(大統領)は敬礼で出迎えなくてはならないのに握手を求めてきたり、会談を45分も遅刻してトルーマンを苛立たせている。トルーマンはマッカーサーのあまりの不遜な態度に激高し「最高司令官を待たせるようなことを二度とするな。わかったか」と一喝している[114][注釈 12]

その後の会談ではマッカーサーが「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は感謝祭までに終わり、兵士はクリスマスまでには帰国できる」と言い切った。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と言い残し機上の人となったが、本心ではマッカーサーの不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もよりトルーマンへの敵意を強め、破局は秒読みとなった[115]

その後も、マッカーサーは「中華人民共和国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境の鴨緑江にまで迫った。その結果、中華人民共和国とソ連に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」(抗美援朝義勇軍)の参戦を招くに至った。10月10日に約18万人の中国野戦第4軍が鴨緑江を越え北朝鮮入りし、10月25日にはその一部が韓国軍と小競り合いとなり、中国兵の捕虜も得たが、なぜかマッカーサーらはこれを無視した。マッカーサーの腹心であるウィロビーなどは「中国軍が介入するのであれば、とっくに介入している」と完全に油断していた。

10月26日に中国人民志願軍はまず韓国軍を攻撃、韓国軍3個師団は装備を放棄して全面的に敗走すると、11月1日に中国人民志願軍は韓国軍の敗走により側面を曝け出していたアメリカ第8軍に笛やラッパを鳴らしながら突撃してきた。アメリカ軍は中国人民志願軍の人海戦術の前にたちまち大損害を被り撤退を余儀なくされた[116]

その後、彭徳懐率いる「中国人民志願軍」は一時中朝国境にまで迫った国連軍を南に押し戻し、1951年になると、1月4日に中朝連合軍は、ソウルを再攻略し、国連軍は危機に陥った。

更迭[編集]

マッカーサー(右下)の解任を知らせる世界通信・政治版。

中国の義勇軍の人海戦術に押されマッカーサーとワシントンはパニック状態に陥った。マッカーサーは、大規模な増援と、原爆使用も含めた中国東北部空爆を主張したが、第二次世界大戦後に常備軍の大幅な縮小を行ない、ヨ―ロッパでソ連と向き合うアメリカ軍に大規模な増援を送る余裕はなかった。中国東北部への爆撃は戦争の拡大をまねき、また原爆については、朝鮮の地勢と集約目標がないため現実的ではないと否決された[117][注釈 13]。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろし、また、中国軍に追われ敗走しているのにも関わらず「戦術的な撤退であり、敗走などと広く宣伝されているのは全くのナンセンスだ」と嘯いた。トルーマンは激怒し、ワシントン中枢のマッカーサーへの幻滅感は増していった[118]。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式的な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るようにと指示させたが、マッカーサーはこの指示を無視しこの後も政治的な発言を繰り返した[119]

その後、第8軍司令官のウォルトン・ウォーカー中将が交通事故死したため、マッカーサーがその後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦、リッジウェイにマッカーサーは第10軍の指揮も任せるなど権限を拡大し、リッジウエイもその裁量に応え崩壊していた国連軍の再編成を短期間で成し遂げると、兵站の問題で攻勢限界点に達しつつあった中国軍を押しとどめた。マッカーサーはこの時点で中国が全面的に介入してきていると考え、ワシントンに再度前の話を蒸し返し、「国連軍が蹂躙されないためには、中国沿岸を封鎖し、艦砲射撃と空爆で戦争遂行に必要な工業力を破壊」することと国民党軍を参戦させるなど、中国との全面戦争突入を主張した。しかしトルーマンの方針は、日本か台湾が脅かされれば対中国の本格的作戦に突入するが、それ以外では紛争は朝鮮半島の中に限定するとの意向であり、マッカーサーにたしなめるような長文の返答をしている。参謀総長オマール・ブラッドレーはマッカーサーの戦争拡大要求は、戦争の状況よりむしろ「自分の様な軍事的天才を虚仮にした、中国紅軍の将軍たちへの報復」に関係があると推測していた[120]

しかし、リッジウェイは現有通常戦力でも韓国を確保することは十分可能であると判断しており、中国軍の第三期攻勢を撃破すると2か月で失地を取り戻し、1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復はリッジウエイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるためか、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れ報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまったことがあり、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。マッカーサーの軍歴の中で部下から真っ向から反抗されたのはこれが初めてであった[121]

ワシントンはこの時点では朝鮮半島の武力統一には興味を示さず、アメリカ軍部隊を撤退させられるような合意を熱望していた。一方マッカーサーはリッジウェイの成功が明らかになると、自分の存在感をアピールするためか「中国を1年間で屈服させる新しい構想」を策定したとシーボルドに話している。のちにこれは「最長でも10日で戦勝できる」に短縮された[122]。その構想とは、戦後マッカーサーが語ったところによれば、満州に50個もの原爆を投下し中ソの空軍力を壊滅させた後、海兵隊と中国国民党軍合計50万名で中国軍の背後に上陸し補給路を断ち、38度線から進撃してきた第八軍と中朝軍を包囲殲滅、その後に日本海から黄海まで朝鮮半島を横断して放射性コバルトを散布し中ソ軍の侵入を防ぐというもので、この戦略により60年間は朝鮮半島は安定が保てるとしていた[123]

また、後年リッジウェイは「マッカーサーは中国東北部の空軍基地と工業地帯を原爆と空爆で破壊した後は、残りの工業地帯も破壊し共産主義支配の打破を目指していた」「ソ連は参戦してこないと考えていたが、もし参戦して来たらソ連攻撃のための措置も取った」と推察している[124]。この考えに基づきマッカーサーは、何度目になるかわからない原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めたが、トルーマンは返事を保留した。

マッカーサーへの返答前に、トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くために停戦を呼びかけることとし、3月20日に統合参謀本部を通じマッカーサーにもその内容が伝えられた。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害しトルーマンを足元からひっくり返そうと画策、1951年3月24日に一軍司令官としては異例の「国連軍は制限下においても中国軍を圧倒し、中国は朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」「私は敵の司令官といつでも会談する用意がある」などの「軍事的情勢判断」を発表したがこれは中国への実質的な「最後通牒」に等しく、中国を強く刺激した[125]。また、野党共和党の保守派の重鎮ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニア下院議長からマッカーサーに宛てた、台湾国民党兵力を利用する提案とトルーマン政権のヨーロッパ重視政策への批判の手紙に対し、マッカーサーがマーティンの意見への賛同とトルーマン政権批判の返事を出していたことが明らかになり[126]、一軍司令官が国の政策に口を出した明白なシビリアン・コントロール違反が相次いで行われた。これは1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて指示した「公式的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した[127]

また、このころになるとイギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるが、トルーマンはマッカーサーをコントロールできていないとの懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンはマッカーサーの解任を決意した[128]

4月6日から9日にかけてトルーマンは国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらとマッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた[129]。また皮肉にもこの頃に、マッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し[130]、日本海に潜水艦を大規模集結し始めた。これらの脅威に対抗すべく、やむなくマッカーサーの申し出通り4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている[131]

4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言った。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した[132]。解任の理由は「国策問題について全面的で活発な討論を行うのは、我が民主主義の立憲主義に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配をうけねばならぬということは、基本的問題である。」とシビリアンコントロール違反が直接の理由とされた[133]

日本時間午後3時、この報は日本に達したが、マッカーサーはそのとき妻のジーンと共に、来日した上院議員ウォーレン・マグナソンとノースウエスト航空社長のスターンズと会食をしていた。副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーンに解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かって「ジーン、これで帰れるよ」と言ったと伝えられている。ブラッドレー元帥は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

帰国[編集]

4月16日にマッカーサーはリッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け毎日新聞朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。マッカーサーも感傷に浸っていたのか、沿道の見送りを「200万人の日本人が沿道にびっしりと並んで手を振り」と自らの回顧録に誇張して書いている[134]

首相の吉田茂は「貴方が、我々の地から慌ただしく、何の前触れもなく出発されるのを見て、私がどれだけ衝撃を受けたか、どれだけ悲しんだか、貴方に告げる言葉もありません。」という別れを悲しむ手紙をマッカーサーに渡し、4月16日には衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会や日本経済団体連合会も感謝文を発表している[135]

マッカーサーは羽田空港で日米要人列席の簡単な歓送式の後に愛機バターン号で日本を離れた。同乗していたマッカーサーと一緒に辞任したコートニー・ホイットニー民政局局長へ「日本をもう一度見られるのは、長い長い先のことだろうな」と語ったが[136]、実際にマッカーサーが再度日本を訪れたのは1961年にフィリピンから独立15周年の記念式典に国賓として招かれた際に、フィリピンに向かう途中で所沢基地に休憩に立ち寄り、帰りに横田基地で一泊した時であったので11年後となった[137]。しかしセレモニーもなく、ほとんどの日本人が知らないままでの再来日(最後の来日)であった。

マッカーサーが帰国した後も、5月に入って吉田内閣は、マッカーサーに「名誉国民」の称号を与える「終身国賓に関する法律案」を閣議決定し、政府以外でも「マッカーサー元帥記念館」「マッカーサー神社」を建立しようという動きがあった。この建設発起人には秩父宮田中耕太郎最高裁判所長官金森徳次郎国立国会図書館館長、野村吉三郎元駐米大使、本田親男毎日新聞社長、長谷部忠朝日新聞社長ら各界の有力者が名を連ねていた。マッカーサーにこの計画に対する考えを打診したところ、ホイットニーを通じて「元帥はこの申し出について大変光栄に思っている。」という返事が送られている[138]

退任[編集]

退任演説を行うマッカーサー

1951年4月19日ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイント陸軍士官学校に自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ[注釈 14]」と述べ、有名になった。

元となった「歌」には何通りかの歌詞がある。要約すると

遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは一日三度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない。畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで。

というものである。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨーク市マンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサーグッズを販売したが飛ぶように売れた。その中にはマッカーサーの演説にも登場した軍歌「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」のレコードもあったが、5種類もの音源で販売された。中には1948年の大統領候補となって落選した際に売れ残っていた在庫をさばいた業者もいたという。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した[139]

5月3日より、マッカーサーにとって最後の公務となる、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。マッカーサーはこの場では共和党の希望には沿わず、トルーマンに対する個人攻撃は控え質問に丁寧に返答していたが、対立していた参謀本部との軍事的なやり取りになると熱が入り、マッカーサーは自分の考えであった「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」などのソ連への評価を証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連が例えマッカーサーの分析通りであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価し敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった[140]

マッカーサーへの質疑は3日間に渡ったが、出席者はマッカーサーの提案で昼休みも取らず、サンドイッチとコーヒーを会場に運ばせて昼食とし休みなく質疑を続けた。特にマッカーサーは質疑中は一度としてトイレにすら行かず、とある議員から「元帥は71歳なのに大学生の様な膀胱を持っている」と変な感心をされている[141]。この3日間に渡る質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている。(#マッカーサーのアメリカ議会証言録を参照)

この聴聞会のあとに軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された[142]

退任後[編集]

マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサスを皮切りに11州を廻ったが、いく先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1953年の大統領選挙を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返したが、時が経つにつれ次第に聴衆は減少していった[143]

1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡でありフランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂がマッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。その頃マッカーサーは全国遊説の旅の途中であったが、サンフランシスコに招待されなかったことについて聞かれると「おそらく誰かが忘れたのであろう」と素っ気なく答えている[144]

その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いていたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全国のアメリカ市民も1952年に入る頃にはその熱も冷め初めておりジャクソン (ミシシッピ州)で行われた演説では、反対の叫び声などで25回も演説が中断したとニューヨークタイムズ紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし初め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補は元部下のアイゼンハワーが選出された[145]

大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのかアイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14箇条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという大胆だという以外は何の価値もない提案であり、その後アイゼンハワーは大統領本選でも勝利し第34代のアメリカ合衆国大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスもペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった[146]

1952年にマッカーサーはレミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。その後レミントンランドはスペリー社に買収されたが、マッカーサーはスペリ―社の社長に迎えられた[147]

1955年のミズーリ号での降伏式典と同じ日に日本から外相の重光がマッカーサーを訪ねた。マッカーサーは感傷的に日本占領時代を回想し、昭和天皇との初会談の様子を話し、極東国際軍事裁判は失敗であったと悔やんでいる[148]。1960年には勲一等旭日桐花大綬章が贈られ「最近まで戦争状態にあった偉大な国が、かつての敵司令官にこのような栄誉を与えた例は、私の知る限り歴史上他に例がない」と大げさに喜んでみせた[149]

トルーマン、アイゼンハワー政権はマッカーサーに冷淡だったが、35代大統領ジョン・F・ケネディはマッカーサーを尊敬しており、マッカーサーに積極的に助言を求めた。特に泥沼化しつつあったベトナム情勢での意見交換の中で、マッカーサーは「アジア大陸にアメリカの地上軍を投入しようと考える者は頭の検査でもしてもらった方がいい」と自分が朝鮮半島で失敗した苦い経験を活かした忠告をおこない、ケネディも参考にしたが[150]、情勢は悪化の一途を辿り、ケネディの暗殺後、後任のリンドン・B・ジョンソン大統領の時代にアメリカはベトナム戦争の泥沼にはまり込んでいった。

死去[編集]

マッカーサー記念館内のマッカーサーと妻ジーンの墓、ジーンは享年101という長寿であった

1962年5月マッカーサーは、自らの華々しい軍歴の最初の地となり、かつて自分が校長を勤めたウェストポイント陸軍士官学校より同校の最高の賞となるシルバヌスセイヤー賞(英語版)を受け、士官学校生徒を前に人生最後の閲兵と演説を行った[151]

しかし私の思い出はいつもウェストポイントに帰ってくる、そこにはあの『義務・名誉・祖国』という言葉が繰り返しこだまする。今日は私にとって諸君との最後の点呼となる。しかし私が黄泉路の川を越える時、私の意識に最後まで残っているのは士官学校生徒諸君のこと、ただ士官学校生徒諸君のことだと諸君らに承知してもらいたい。では諸君、さらば。

1964年3月6日に、老衰による肝臓腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院に入院。3月29日の手術は腸を2.4mも切り取るなど大掛かりなもので術後そのまま危篤となり、3月30日には腎機能がほとんど停止し三度目の手術を受けた。4月に入りいったんは意識を取り戻したものの、4月3日に意識不明となり4月5日午後2時39分に84歳で死去した。

翌日、遺体はニューヨークのユニバーサルフュネラル教会へ移送されて告別式を行った後、4月8日にワシントンD.C.に戻されて国会議事堂に安置された。そして翌4月9日にバージニア州ノーフォークまで運ばれ、4月11日に聖パウロ教会で大統領リンドン・B・ジョンソンほか数千人が参列して国葬が執り行われた。日本からは代表として吉田茂が出席した。

家族[編集]

1950年、妻ジーンと息子のアーサー・マッカーサー4世

兄のアーサー・マッカーサー3世アメリカ海軍兵学校に入学し、海軍大佐に昇進したが、1923年に病死。弟マルコムは 1883年に死亡。兄アーサーの三男であるダグラス・マッカーサー2世在日本アメリカ合衆国大使となった。

1938年にマニラで妻ジーンとの間に出来た長男がいる。マッカーサー家は代々、家長とその長男がアーサー・マッカーサーを名乗ってきたが、兄であるアーサー・マッカーサー3世の三男がダグラス・マッカーサー2世になり、三男であるダグラスの長男がアーサー4世になっている。

息子のアーサー・マッカーサー4世は日本在住の時にはマッカーサー元帥の長男として日本のマスメディアで取り上げられることもあった。マッカーサーとジーンは父親らと同様に軍人になることを願ったが、父親の功績で無試験で入学できたウェスト・ポイント陸軍士官学校には進まず、コロンビア大学音楽科に進みジャズピアニストとなった。マッカーサーはアーサーの選択を容認したが、そのことについて問われると「私は母の期待が大変な負担であった。一番になるということは本当につらいことだよ。私は息子にそんな思いはさせたくなかった。」と答えたという[152]。それでもマッカーサーという名前はアーサーにとっては負担でしかなかったのか、マッカーサーの死後は名前と住所を変え、グリニッジ・ヴィレッジに集まるヒッピーの一人になったと言われている[153]

マッカーサーのアメリカ議会証言録[編集]

総司令官解任後の1951年5月3日より、マッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会が開催された。主な議題は「マッカーサーの解任の是非」と「極東の軍事情勢」についてであるが、日本についての質疑も行われている。

日本が戦争に突入した目的は主として安全保障(security)によるもの[編集]

質問者より朝鮮戦争における中華人民共和国(赤化中国)に対しての海空封鎖戦略についての意見を問われ、太平洋戦争での経験を交えながら下記のように答えている。

  • Senator Hicknlooper. Question No.5: Isn't your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific?
(ヒックンルーパー上院議員・第5質問:赤化中国に対する海空封鎖というあなたの提案は、アメリカが太平洋において日本に勝利したのと同じ戦略ではありませんか?)
  • General MacArthur. Yes, sir. In the Pacific we by-passed them. We closed in.・・・
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.
The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise, seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
In meeting that, we evolved an entirely new strategy. They held certain bastion points, and what we did was to evade those points, and go around them.
We came in behind them, and we crept up and crept up, and crept up, always approaching the lanes of communication which led from those countries, conquered countries, to Japan.
(マッカーサー将軍:はい。太平洋において、我々は、彼らを回避して、これを包囲しました。(中略)・・・日本は産品がほとんど何もありません、蚕を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした。原材料、すなわち、日本の製造業に必要な原材料、これを提供する国々である、マレー、インドネシア、フィリピンなどは、事前準備と奇襲の優位により日本が占領していました。日本の一般的な戦略方針は、太平洋上の島々を外郭陣地として確保し、我々がその全てを奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、日本が占領地から原材料を確保することを我々に黙認させる、というものでした。これに対して、我々は全く新規の戦略を編み出しました。日本軍がある陣地を保持していても、我々はこれを飛び越していきました。我々は日本軍の背後へと忍び寄り、忍び寄り、忍び寄り、常に日本とそれらの国々、占領地を結ぶ補給線に接近しました。)

General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964[154]

秦郁彦は、小堀桂一郎などの東京裁判批判を行う論客たちがこの発言を「(マッカーサーが太平洋戦争を)自衛戦争として認識していた証拠」として取り上げる論点であると指摘している[155]。小堀はこの個所を「これらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分がsecurity(安全保障)の必要に迫られてのことだつたのです」と訳している[156][157]。また、米国人のケント・ギルバートは、「日本の戦争は、安全保障(自衛)が動機だった」と訳している[158]

日本人は12歳[編集]

公聴会3日目となる5月5日の午前10時35分よりマッカーサーの日本統治についての質疑が行われた。マッカーサーはその質疑の中で、人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調したが、質問者のロング委員よりヴァイマル共和政民主主義を手にしながら、ナチズムに走ったドイツを例に挙げ質問を受けた際の質疑が下記の通りである[159]

  • Senator Long.(ロング上院議員)
Germany might be cited as an exception to that, however. Have you considered the fact that Germany at one time had a democratic government after World War I and later followed Hitler, and enthusiastically apparently at one time.
(しかしドイツはそれに対する例外として挙げられるかも知れません。ドイツは一度、第一次世界大戦の後に民主主義の政府を有したのに、その後、一時は熱狂的にヒトラーの後を追ったという事実をあなたは考慮しましたか?)
  • General MacArthur. (マッカーサー元帥)
Well, the German problem is a completely and entirely different one from the Japanese problem. The German people were a mature race. If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature.
The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of 12 as compared with our development of 45 years.
Like any tuitionary period, they were susceptible to following new models, new ideas. You can implant basic concepts there. They were still close enough to origin to be elastic and acceptable to new concepts.
The German was quite as mature as we ware. Whatever the German did in dereliction of the standards of modern morality, the international standards, he did deliberately.
He didn't do it because of a lack of knowledge of the world. He didn't do it because he stumbled into it to some extent as the Japanese did. He did it as a considered policy in which he believed in his own military might, in which he believed that its application would be a short cut to the power and economic domination that he desired.
Now you are not going to change the German nature. He will come back to the path that he believes is correct by the pressure of public opinion, by the pressure of world philosophies, by his own interests and many other reasons, and he, in my belief, will develop his own Germanic tribe along the lines that he himself believes in which do not in many basic ways differ from our own.
But the Japanese were entirely different. There is no similarity. One of the great mistakes that was made was to try to apply the same policies which were so successful in Japan to Germany, where they were not quite so successful,to say the least.
They were working on a different level.
(まぁ、ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45才の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにも関わらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事ができます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙に近く、柔軟性もありました。ドイツ人は我々と全く同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の国際的な規範や道徳を放棄したときは、それは故意によるものでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたからそのような事をしたわけではありません。日本人がいくらかはそうであったように、つい過ってやったわけでもありません。ドイツ自身の軍事力を用いることが、彼等が希望した権力と経済支配への近道であると思っており、熟考の上に軍事力を行使したのです。現在、あなた方はドイツ人の性格を変えようとはしないはずです。ドイツ人は世界哲学の圧力と世論の圧力と彼自身の利益と多くの他の理由によって、彼等が正しいと思っている道に戻っていくはずです。そして、我々のものとは多くは変わらない彼等自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作り上げるでしょう。しかし、日本人はまったく異なりました。全く類似性がありません。大きな間違いの1つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからです。)

Military situation in the Far East   Corporate Author: United States.(1951)

この頃は既に、プレスコードの中枢を担った民間検閲支隊が1949年10月に廃止され、GHQの検閲は有名無実化しており[160]、マッカーサーに対しても冷静な報道を行う報道機関も出ていた。たとえば北海道新聞などはマッカーサー離日の数日後に「神格化はやめよう」というコラムを掲載し「宗教の自由がある以上、いかなる神の氏子になるのも勝手だが、日本の民主化にとって大事な事は国民一人一人が自分自身の心の中に自立の『神』を育てることであろう。」と宗教を例にして暗にマッカーサーの盲目崇拝への批判を行っていた[161]。しかし、依然として多くのマスコミが自主規制によりマッカーサーへの表立った批判は避けており、同じマッカーサー離日時には「受持の先生に替られた女学生のように、マ元帥に名残を惜しむことであった。さすが苦労人のダレス大使は帰京の日「今日は日本はマ元帥の思いでいっぱいだろうから私は何も言わぬ」と察しのよいことを言った」[162]や「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓からすくい上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのをご覧になりましたか。今年もみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヶ月のにわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです。元帥!どうか、おからだをお大事に」[163][164]などと別れを大げさに惜しむ報道をおこなう報道機関も多かった。

それほどマッカーサーを慕っていたために、この証言が日本人、特にマスコミに与えた衝撃は大きく、朝日新聞は5月16日付の新聞1面に大きく【マ元帥の日本観】という特集記事を掲載し「文化程度は“少年”」と日本人に対し否定的な部分を強調して報じた[165]。さらに社説で「マ元帥は米議会の証言で「日本人は勝者にへつらい、敗者を見下げる傾向がある」とか「日本人は現代文明の標準からみてまだ12歳の少年である」などと言っている。元帥は日本人に多くの美点長所があることもよく承知しているが、十分に1人前だとも思っていないようだ。日本人へのみやげ物話としてくすぐったい思いをさせるものではなく、心から素直に喜ばれるように、時期と方法をよく考慮する必要があろう。」[166]と一転してマッカーサーに対し苦言を呈するなど、日本のマスコミにおけるマッカーサーへの自主規制も和らぎ、報道方針が変化していくに連れて、日本国民のマッカーサー熱も一気に冷却化することとなった。

そのため、政府が計画していた「終身国賓待遇の贈呈」「マッカーサー記念館の建設」はいずれも先送りになり、三共、日本光学工業(現ニコン)、味の素の三社が「12 歳ではありません」と銘打ち、タカジアスターゼニッコール、味の素の三製品が国際的に高い評価を受けている旨を宣伝する共同広告を新聞に出す騒ぎになった。

ただ、マッカーサーは「老兵は死なず・・・」のフレーズで有名な1951年4月19日の上下両院議員を前にした演説では「戦争以来、日本人は近代史に記録された中で最も立派な改革を成し遂げた」や「賞賛に足る意志と、学習意欲と、抜きんでた理解力をもって、日本人は戦争が残した灰の中から、個人の自由と人格の尊厳に向けた大きな建造物を建設した。政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、今や日本は地球上にある多くの自由国家と肩を並べており、決して再び世界の信頼を裏切る事はないであろう。」と日本を称賛しており、「日本人は12歳」発言は日本人はドイツ人より信頼できることを強調したかっただけでマッカーサーの真意がうまく伝わらなかったという解釈や[167]、マッカーサーと関係が深かった吉田茂のように「元帥の演説の詳細を読んでみると「自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である。」と好意的な解釈もある[168]

一方で、同じ日の公聴会の中で「日本人は12歳」発言の前にも「日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた。」[169]「それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である。」などと日本人を幼稚と見下げて、「日本人は12歳」発言より強く日本人を侮辱したと取られなかねない発言も行っていたことや[170]、自分の日本の占領統治をシーザーの偉業と比肩すると自負したり、「(日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎したマグナ・カルタ、フランス国民に自由と博愛を齎したフランス革命、地方主権の概念を導入した我が国のアメリカ独立戦争、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べる事ができる。」と証言しており、マッカーサーが証言で弁護していたのは日本人ではなく、マッカーサー自身が日本で成し遂げたと考えていた業績であったという解釈もある[171]

マッカーサー記念館[編集]

マッカーサー記念館

ノーフォークのノーティカスから東へ約400m行ったところにあるダウンタウンのマッカーサー・スクエアには、19世紀の市庁舎をそのまま記念館としたダグラス・マッカーサー記念館が立地している。館内にはマッカーサー夫妻の墓や、博物館、図書館が設けられている[172]。博物館には軍関連品だけでなく、マッカーサーのトレードマークであったコーンパイプなどの私物も多数展示されている。また、伊万里九谷薩摩磁器有線七宝など、マッカーサーが持ち帰った日本の工芸品も展示されている[173]。建物は「旧ノーフォーク市庁舎」として国家歴史登録財に指定されている[174]。記念館の正面にはマッカーサーの銅像が立っている。

日本でマッカーサー解任前後に始まった「マッカーサー記念館」を建設する計画については、発起人らは「元帥の功績を永遠に記念するため威厳と美しさを備えた喜びと教養の殿堂にしたい。」と考え、記念館の他、公会堂、プール、運動施設、宿泊施設を併せた壮大な計画となった。その後に当初の14名の発起人に加え、藤山愛一郎日本商工会議所会頭、浅沼稲次郎社会党書記長、安井誠一郎東京都知事らも参加し、「マッカーサー会館建設期成会」が発足、まずは総事業費4億5,000万円をかけて三宅坂参謀本部跡に鉄筋コンクリートの3階建ビルを建てる計画で募金を募ったが、募金開始が「日本人は12歳」発言でマッカーサー熱が急速に冷却化していた1952年2月であり、60万円の宣伝費をかけて集まった募金はわずか84,000円と惨憺たる有様だった[175]。1年後には募金どころか借金が300万円まで膨らみ計画は立ち消えになった[176]。他にも東京湾に「マッカーサー灯台」を建設し、降伏調印式の際に戦艦ミズーリが停泊した辺りを永遠に照らす計画や、また「マッカーサー記念館」や「マッカーサー灯台」の計画より前の1949年には浜離宮自由の女神像と同じ高さのマッカーサーの銅像を建設しようとする「マッカーサー元帥銅像建設会」が発足していた。随筆家高田保にも委員就任の勧誘がなされるなど[177]広い範囲に声がかけられ(ただし高田は委員就任を見送り)募金も開始されたが、これも他の計画と同じ時期に立ち消えになり、集まった募金の行方がどうなったか不明である[178]


エピソード[編集]

「目玉焼き事件」[編集]

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スクランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはなく、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。マッカーサーは、料理人を呼び出して問いただしたところ、料理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく卵が一つ手に入りました」と答えた。その瞬間、マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分の為すべき仕事を理解したという。ただし、このエピソードを事実として証明する関係者の証言はない。

当時のホテルニューグランド野村洋三会長の回想によれば、マッカーサーがニューグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラサバをかけたキュウリ、そして鯨肉のステーキであり、マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけなかった。その三日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料が荷揚げされたという[179]。また、実際にテーブルには出されなかったものの、野村はマッカーサーらを迎える準備として、自身が理事をしていた横浜訓盲院から卵を10個融通してもらっている。[180]

また、マッカーサーらのニューグランドでの初めての食事のウェイトレスをした霧生正子によれば、出したのはスケソウダラとポテトとスープであり、マッカーサーはスケソウダラを見るなり「これはなんだ?」と聞き、霧生が「スケソウダラです」と答えると、「こんなもの食べられるか」という顔をして手も付けず黙っていたとのこと。その後、食後のデザートに出したケーキにも手を付けず黙って席を立っている[181]

マッカーサーの側近軍医ロジャー・O・エグバーグ医師もその食事の席に同席していたが、出されたのはスープとバター付きパンと冷凍の副食だったと証言している[182]。またその日の夕食は、コートニー・ホイットニーによればビーフステーキであり、ホイットニーはマッカーサーの料理に毒が盛られていないか心配し確認したいと申し出ると、マッカーサーは「誰も永遠には生きられないよ」と言って構わず手を付けた。この日の記憶はマッカーサー自身にはなかったようで、このホイットニーの記憶を自身の回想録に引用している[183]

昭和天皇との会談とマッカーサーの占領統治手法[編集]

アメリカ大使館での昭和天皇(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)

昭和天皇とマッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」[184]と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだったが、会談が終わったときには昭和天皇を車まで見送り、慌てて戻ったといわれる[185]

しかし、マッカーサーの『回顧録』は多くの「誇張」「思い違い」「事実と全く逆」があり自己弁明と自慢と自惚れに溢れており、史料的な価値は低いものとの指摘もあり[186]、この昭和天皇とのやり取りについても、非喫煙者であった昭和天皇にマッカーサーがアメリカ製のタバコを奨め、昭和天皇が震えた手でタバコを吸ったと言っているなど[187]事実として疑わしい記述もある[188]

マッカーサーから会談の内容を聞いた関係者はかなりの数に上るがその内容が人によってかなり異なっている。

一番身近な関係者は妻のジーン・マッカーサーで、マッカーサー記念館事務局が1984年に41回にも渡って、ジーンに初のロングインタビューしているが。ジーンはこの日の様子を、マッカーサーより日本人の使用人が天皇と顔を合わせないよう一ヶ所に閉じ込めておけという指示があったことや、昭和天皇は丁寧で礼儀正しい人物と聞いており、最初に出会った人物に深くお辞儀をすると予想されるため、ドアをあけて天皇を迎えるのはフィリピン人のボーイではなく、マッカーサーの副官のボナー・フェラーズ准将と通訳のフォービアン・バワーズ少佐にしようという打ち合わせをしたことなど鮮明に記憶しており、証言の信頼性が高いと思われる。ジーンと側近軍医ロジャー・O・エグバーグは会見の場所となったサロンに続く応接間のカーテンの裏から、この会見をのぞき見していたが、距離が遠くて話はほとんど聞こえなかった。しかし終始和やかな雰囲気で会談は進められていたのを確認している[189]。昭和天皇が帰った後、ジーンはマッカーサーより昭和天皇の発言の内容を聞かされたが『回顧録』とほぼ同じ内容であったという。またジーンと会いたいと香淳皇后が希望していたとのことであったが、ジーンにその気はなく結局実現しなかった[190]

マッカーサーと昭和天皇を一緒に出迎えた(会談には同席していない)マッカーサーの専属通訳で「歌舞伎を救った男」として有名なバワーズ少佐もマッカーサーから聞いた話として「巣鴨刑務所にいる人にかわり、私の命を奪ってください。彼等の戦争中の行為は私の名においてなされた。責任は私にある。彼らを罰しないでほしい。私を罰してください」と昭和天皇が語ったと証言している[191]

極東国際軍事裁判の首席検事ジョセフ・キーナン田中隆吉少将に「マッカーサー元帥に面会した際、元帥はこう言った。自分は昨年九月末に、日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであるから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言った。もし、天皇を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ。私は元帥の言もあり、日本にきてからあらゆる方法で天皇のことを調査したが、天皇は平和主義者であることが明らかとなった。・・・私としては、天皇を無罪にしたい。貴君もそのように努力してほしい」と言ったとされる[192]

1955年8月に渡米した当時の外務大臣・重光葵はアメリカでマッカーサーと会談したが、その席でのマッカーサーの発言として、「陛下はまず戦争責在の開題を自ら持ち出され次のようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。すなわち、「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにもまた事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分にとって問題でない。構わずに総ての事を進めていただきたい」これが陛下のお言葉でした。私はこれを聞いて興奮の余り陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで証言台に上ることを申出るというこの日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念はその後ますます高まるばかりでした。」という話があったと語っている[193]

以上、内容は証言ごとに異なるが“昭和天皇が全責任を負う”とした基本的な部分はマッカーサーの『回顧録』に沿った証言が多い。しかし中には、マッカーサーの政治顧問ジョージ・アチソンがマッカーサーから聞いた話として「裕仁がマッカ-サーを訪問したとき、天皇はマッカーサーが待っていた大使邸の応接室に入ると最敬礼した。握手を交しあったあと、天皇は『私は合衆国政府が日本の宣戦布告を受取るまえに、真珠湾を攻撃するつもりはなかったが、東条が私をだましたのだ。しかし私は責在を免れるためにこんなことをいうのではない。私は日本国民の指導者であり、国民の行動に責在がある』と言った」と東條英機にも責任があるとも取れる発言をしたとの証言もある[194]。この証言はニューヨーク・タイムズが昭和天皇・マッカーサー会談の2日前に、昭和天皇に単独インタビューを行い、その際に記者が「宣戦の詔書が真珠湾の攻撃を開始する為に東條大将が使用した如く使用されるというのは陛下のご意思でありましたか?」と質問したのに対し昭和天皇は「宣戦の詔書を東條大将が使用した如くに(奇襲攻撃の為)使用する意思はなかった」と答えたため、新聞紙上に「ヒロヒト、真珠湾奇襲の責任をトージョーにおしつける」という大見出しが躍る事となった事実と符合しており、この際の昭和天皇の発言をもって、昭和天皇はマッカーサーとの会見でも、東條英機に責任を押し付けるような発言をしたと主張する研究者もいる[195]

一方で日本側は昭和天皇の他に通訳として外務省の奥村勝蔵が同席した。その奥村が会談の内容を会談後にまとめ外務省と宮内庁が保管していた『御会見録』が2002年に情報公開されたが、その中にはマッカーサーの『回顧録』にあるような昭和天皇の全責任発言はなく、戦争責任に関する発言としては「此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。」「私モ日本国民モ敗戦ノ現実ヲ十分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン。今後ハ平和ノ基礎ノ上二新日本ヲ建設スル為、私トシテモ出来ル限リ、力ヲ尽シタイト思ヒマス。」とかなりトーンダウンしている。これは、作家・児島襄が1975年に取材先非公表ですっぱ抜いたスクープとほぼ同じ内容であったが[196]、奥村の後を次いで昭和天皇の通訳を務めた外務省の松井明が、昭和天皇とマッカーサー、リッジウェイとの会見の詳細を記述した『松井文書』[注釈 15]によれば、松井が「天皇が一切の責任を負われるという発言については、事の重大さを顧慮し自分の判断で記録から削除した」と奥村から直接聞いたと記述している[197]

また、この会見に同行した(会見の場に同席はしていない)侍従長藤田尚徳の著書『侍従長の回想』によれば、「外務省でまとめた会見の模様」が便箋5枚にまとめられてきたが、そのまとめによると昭和天皇の発言は「敗戦に至った戦争の、色々な責任が追及されているが、責任は全て私にある。文武百官は、私の任命するところだから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私は貴方にお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい。」であったという。この便箋は昭和天皇の御覧に供したが、そのまま藤田の手元には返ってこなかったとのことであった[198]。 ただし、この記述は外務省公開の「御会見録」の内容とは一致しないため、違う資料を引用した可能性も指摘されている[199]

いずれにしても、マッカーサーは昭和天皇との第一回目会談の後に、昭和天皇への敬愛の情は深まったようで、通訳の奥村勝蔵によれば一回目の会談の際には昭和天皇を「You」と呼び、奥村に通訳を求める時も「Tell The Emperor(天皇に告げよ)」と高圧的だったが、その後は天皇を呼ぶときは「Your Majesty(陛下)」と尊厳を込めて呼ぶようになったと証言している[200]

そしてマッカーサーは1946年1月25日に陸軍省宛てに天皇に関する長文の極秘電文を打ったが、その内容は「天皇を戦犯として告発すれば、日本国民の間に想像もつかない程の動揺が引き起こされるであろう。その結果もたらされる混乱を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば日本国家は分解する」「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地帯や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入すると言った希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるであろう」「これらの事態が勃発した場合100万人の軍隊が半永久的に駐留し続けなければならない」とワシントンを脅す内容で、アメリカ政府内での天皇の戦犯問題は、この電文により不問との方針で大方の合意が形成された。救われたのは昭和天皇ばかりでなく、天皇なしでは平穏無事な占領統治は不可能だったマッカーサーも救われたことになり、この会談の意義は極めて大きかったと言える[201]

軍装[編集]

マッカーサーは将官ながら正装の軍服を着用することが少なく、略装を好んだ。重要な会合や自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かったために、批判されたこともある[202]。右の天皇との会見写真でも夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた[203]。不敬と考えた内務省は、この写真が掲載された新聞を回収しようと試みたが、GHQによって制止されたため、この写真は内務省による言論統制の終焉も証明することになった[204]。ただし、当時のアメリカ大使館には冷房設備がなかったこともあり、夏の暑さを避けるためにマッカーサーは意図せず略装で迎えたともいわれている。

松本健一は、リチャード・ニクソンの回想[205]において、マッカーサーの略式軍装は、彼の奇行が習慣化したもので、1950年に朝鮮戦争問題で彼と会見したトルーマンは、彼のサングラス、シャツのボタンを外す、金モールぎらぎらの帽子という「十九かそこらの中尉と同じ格好」に憤慨したと述べている。また、マッカーサーの服装とスタイルには一種の「ダンディズム」ともいえる独特な性向があり、「天皇の前でのスタイルはいつものものでもはるかにマシなものであった」とも指摘している。ニクソンが回想する「サングラス、色褪せた夏軍服、カジュアルな帽子、そしてコーンパイプ」という第二次世界大戦中のマッカーサーのスタイルはまさに厚木飛行場に降り立った時の彼の姿であった[206]

国際基督教大学(ICU)創設[編集]

国際基督教大学 (ICU) の創設にあたり、同大学の財団における名誉理事長として、米国での募金運動に尽力した[207]ジョン・ロックフェラー2世にも支持を求めたが、その際に「ここに提案されている大学は、キリスト教と教育のユニークな結合からして、日本の将来にとってまことに重要な役割を必ずや果たす事でありましょう。」と熱意のこもった手紙を出している。大学が開学となったのはマッカーサーが解任されて2年後の1953年であった[208]

コーンパイプ[編集]

トレードマークのコーンパイプをくわえるマッカーサー

マッカーサーはコーンパイプをこよなく愛したが、使用していたものはかなり大きなもので、タバコ葉を何倍も多く詰められるように深くなっている。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶ。マッカーサーは自分のパイプを識別するために、横軸の真ん中あたりを軽く焼いて焦げ目をつけて印とした。現在のマッカーサータイプのコーンパイプも、機能には関係ないが、その印がされて販売されている。

しかし、マッカーサーの通訳官ジョージ・キザキによれば、マッカーサーは室内ではコーンパイプは一切使わず、ブライヤやメシャムの高級素材のパイプを愛用しており、屋外ではわざと粗野に映るコーンパイプを咥え軍人としての荒々しさを演出していたと証言している[209]。マッカーサー記念館にはマッカーサーが愛用したブライヤパイプとパイプ立てが展示されており、退任後に私人としてライフ誌の表紙に登場した際にくゆらせていたのもブライヤパイプであった[210]

その他[編集]

日本滞在時のマッカーサーの生活は、朝8時に起床、家族と遅い朝食をとって10時に連合国軍最高司令官総司令部のある第一生命館に出勤。14時まで仕事をすると、昼休みの為に日本滞在中の住居であったアメリカ大使公邸に帰宅し昼食の後昼寝、16時に再度出勤し勤務した後20時ごろ帰宅、夕食の後、妻ジーンや副官とアメリカから取り寄せた映画を観るのが日課だった。好きな映画は西部劇であった。マッカーサーはこのスケジュールを土日もなく毎日繰り返し休みを取らなかった。国内旅行は一切せず、遠出は厚木や羽田に重要な来客を迎えに行くときだけで、国外へも朝鮮戦争が始まるまでは、フィリピンと韓国の独立式典に出席した時だけだった[211]

しかし、例外としてミズーリ艦上での降伏文書調印式を終えた後に鎌倉鶴岡八幡宮を幕僚とともに参拝したことが、1945年9月18日の「読売報知」で報じられている。マッカーサーにとって40年ぶりの訪問だったといわれる。

朝鮮戦争が開始されてからも、朝鮮戦争の指揮を任された総司令官にもかかわらず、朝鮮半島を嫌ったマッカーサーは一度も朝鮮に宿泊することがなかった。言い換えれば指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りで[212]、必ず夜には日本に戻っていた。

1946年に東京を訪れたハーバート・フーヴァーが、「フランクリン・ルーズベルトはドイツと戦争を行うために日本を戦争に引きずり込んだ」と述べたことを受け、マッカーサーは、「ルーズベルトは1941年近衛文麿首相が模索した日米首脳会談をおこなって戦争を回避する努力をすべきであった」という旨を述べている[213]

占領当時のマッカーサーはフリーメイソンのフィリピン・グランドロッジ(Manila Lodge No.1)に所属しており、32 位階の地位にあったとされる[214][215]

マッカーサーを取り上げた作品[編集]

階級[編集]

少尉, 1903年6月11日
US-O2 insignia.svg 中尉, 1904年4月23日
US-O3 insignia.svg 大尉, 1911年2月27日
US-O4 insignia.svg 少佐, 1915年12月11日
US-O6 insignia.svg 大佐, 1917年8月5日
US-O7 insignia.svg 准将, 1918年6月26日
US-O8 insignia.svg 少将, 1925年1月17日
US-O10 insignia.svg 大将 アメリカ陸軍参謀総長, 1930年11月21日
US-O8 insignia.svg 参謀総長退任の為、少将に復帰, 1935年10月1日
US-O10 insignia.svg 大将, 退役, 1937年12月31日
US-O8 insignia.svg 少将で現役復帰, 1941年7月26日
US-O9 insignia.svg 中将, 1941年7月27日
US-O10 insignia.svg 大将, 1941年12月18日
US-O11 insignia.svg 元帥, 1944年12月18日

賞罰[編集]

マッカーサーが受けた主なアメリカ軍勲章の略綬.

マッカーサーは国内外で多くの賞を受けたが、主なものを記載する。マッカーサーはアメリカ国内だけでも100個以上の勲章を受けているが、5つ星の元帥章以外は略綬さえ一切身に付けなかった。栄誉を飾らないのがマッカーサーの流儀であった[216]

アメリカ国内[編集]

Medal of Honor ribbon.svg 名誉勲章[注釈 16]
Bronze oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
殊勲十字賞5回
Silver oak leaf cluster
Bronze oak leaf cluster
シルバースター7回
Distinguished Flying Cross ribbon.svg 殊勲飛行十字章
V
ブロンズスターメダル
Bronze oak leaf cluster
パープルハート章
Air Medal ribbon.svg エア・メダル

他多数

アメリカ国外[編集]

他多数

参考文献[編集]

当時の文献[編集]

伝記研究[編集]

出典[編集]

  1. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、朝日新聞社, 1964 P.13
  2. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.29
  3. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、朝日新聞社, 1964 P.32~P.33
  4. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、朝日新聞社, 1964 P.50
  5. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、朝日新聞社, 1964 P.36~P.39
  6. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.18
  7. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.12
  8. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.64
  9. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.20
  10. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.67
  11. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.21
  12. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.22
  13. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録(上)』 津島一夫訳、朝日新聞社, 1964 P.61
  14. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.22
  15. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.23
  16. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.28
  17. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.28~P.31
  18. ^ シドニー・メイヤー『マッカーサー:東京への長い道』サンケイ新聞社出版局 1971 P.52
  19. ^ ジョン・ガンサー 『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 木下秀夫・安保長春訳、時事通信社, 1951 P.49
  20. ^ 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009 P.5
  21. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.32
  22. ^ シドニー・メイヤー『マッカーサー:東京への長い道』サンケイ新聞社出版局 1971 P.56
  23. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.151
  24. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.33~P.34
  25. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.147 P.154
  26. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.26~P.29
  27. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.154
  28. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.28
  29. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.156
  30. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.29
  31. ^ 工藤美代子 『マッカーサー伝説』 恒文社21, 2001 P.45
  32. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.38
  33. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.170
  34. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.33
  35. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.39
  36. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.170
  37. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.36
  38. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.40
  39. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.36
  40. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.177
  41. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.50
  42. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.178
  43. ^ 工藤美代子 『マッカーサー伝説』 恒文社21, 2001 P.58~P.62
  44. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.45
  45. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.185
  46. ^ 『歴史読本臨時増刊 世界 謎の秘密結社』1986年9月掲載 79ページ 犬塚きよ子「フリーメーソンの全貌 占領政策」)から
  47. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.67~P.69
  48. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.53~P.55
  49. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.217
  50. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.75
  51. ^ シドニー・メイヤー『マッカーサー:東京への長い道』サンケイ新聞社出版局 1971 P.78
  52. ^ 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009 P.114
  53. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.274
  54. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.83
  55. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.247
  56. ^ Dug-out Doug 2016年1月13日閲覧
  57. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.168
  58. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.92
  59. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.93~P.94
  60. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.122
  61. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.23
  62. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.55
  63. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.228
  64. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.443
  65. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.162
  66. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (上)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.430
  67. ^ "Luzon" 2016年1月8日閲覧
  68. ^ "Leyte" 2015年1月8日閲覧
  69. ^ "6th Infantry Division:" 2016年1月8日閲覧
  70. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.243~P.245
  71. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.318
  72. ^ "ww2museum" 2015年1月8日閲覧
  73. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.356 P.337
  74. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫新版(全1巻), 2014 P.344
  75. ^ デニス・ウォーナー ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風(下)』妹尾作太郎訳 時事通信社 P.255
  76. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.82
  77. ^ デニス・ウォーナー ペギー・ウォーナー『ドキュメント神風(下)』妹尾作太郎訳 時事通信社 P.239
  78. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.84
  79. ^ Frank, No Bomb: No End P.374-375 2016年1月10日閲覧
  80. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.84
  81. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.164
  82. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.903
  83. ^ 竹前栄治『占領戦後史』岩波書店 2002 P.61~P.67
  84. ^ 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009 P.328
  85. ^ 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009 P.332
  86. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.144
  87. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.139
  88. ^ 大岡昇平 『レイテ戦記(下)』 中公文庫 1999年、309頁
  89. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫 2014 P.442
  90. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.170
  91. ^ a b 本間富士子「悲劇の将軍・本間雅晴と共に」文芸春秋 昭和39年11月号
  92. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫 2014 P.444
  93. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.142
  94. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.153
  95. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫 2014 P.424
  96. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.106 マッカーサーの副官フォービオン・バワーズ少佐回想
  97. ^ 江藤淳著『占領史録 (第1巻) 降伏文書調印経緯 講談社、1981年、P.290
  98. ^ 増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009 P.334
  99. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.111
  100. ^ 重光葵『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年8月号掲載)より、同社で単行本正続が刊行。
  101. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.146~P.147
  102. ^ 毎日新聞1945:相次ぐ暴露記事 GHQの戦略利用」毎日新聞2015年11月16日
  103. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.2538
  104. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.2513
  105. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.175
  106. ^ ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(金子宣子訳、新潮社、1997年)
  107. ^ ジョン・ガンサー 『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 木下秀夫・安保長春訳、時事通信社, 1951 P.52
  108. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.188
  109. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.186
  110. ^ ジョン・ガンサー 『マッカーサーの謎 日本・朝鮮・極東』 木下秀夫・安保長春訳、時事通信社, 1951 P.106
  111. ^ デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(全2冊、金子宣子訳、新潮社、1997年)、続編『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』(上・下、山田耕介・侑平訳、文藝春秋、2009年)
  112. ^ GHQ 外交局長だったウィリアム・シーボルト『日本占領外交の回想』による
  113. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.263
  114. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.374~P.375
  115. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.375~P.376
  116. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.253
  117. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.327
  118. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.264
  119. ^ 朝日新聞 1951年4月12日 朝刊1面
  120. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.338
  121. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.269
  122. ^ 「シーボルト文書」ウィリアム・ジョセフ・シーボルド日誌 1951年2月8日、17日
  123. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.393
  124. ^ マシュー・リッジウェイ『The Korean war』ダブルデイ 1967 P.145
  125. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.273
  126. ^ 朝日新聞 1951年4月12日 朝刊1面
  127. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.273
  128. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.352
  129. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.276
  130. ^ 朝日新聞 1951年5月14日 朝刊1面
  131. ^ オマール・ブラッドレー『A General's Life: An Autobiography』サイモン&シュスター 1983 P.630~P.631
  132. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.334
  133. ^ 朝日新聞 1951年4月12日 朝刊1面
  134. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.422
  135. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.7394
  136. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.389
  137. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.397
  138. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.7433
  139. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.359
  140. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.364
  141. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.361
  142. ^ 朝日新聞1964年4月6日夕刊記事
  143. ^ マイケル・シャラー 『マッカーサーの時代』 豊島哲訳、恒文社, 1996 P.352
  144. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.389
  145. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.386
  146. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.388
  147. ^ クレイ・ブレア.Jr 『マッカーサー その栄光と挫折』 大前正臣訳、パシフィカ, 1978 P.294
  148. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.122
  149. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.389
  150. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.399
  151. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.295
  152. ^ ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』 鈴木主税・高山圭訳、河出書房新社, 1985 P.402
  153. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.171
  154. ^ General Macarthur Speeches & Reports: 1908-1964 出版社: Turner Pub Co (2000/06) ISBN-10: 1563115891 ISBN-13: 978-1563115899 発売日: 2000/06
  155. ^ 秦郁彦 『陰謀史観』、2012年、136-137頁。ISBN 4-10-610465-7
  156. ^ 小堀『東京裁判 日本の弁明』、講談社学術文庫、1995年8月
  157. ^ 正論1月号解説 牛田久美(原文41項~65項)
  158. ^ 【反撃せよ!ニッポン】創作された「歴史」の修正を主張する時期に来た K・ギルバート氏(1/2ページ)2014.11.18 夕刊フジ
  159. ^ 多賀敏行 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 新潮新書 2004 P.26
  160. ^ 山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』岩波現代全書 2013 P.174
  161. ^ 北海道新聞『時評』1951年4月22日夕刊
  162. ^ 朝日新聞「天声人語」1951年4月21日
  163. ^ 毎日新聞 1951年4月17日夕刊
  164. ^ ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下』 岩波書 2001年 P.402
  165. ^ 朝日新聞「天声人語」1951年5月16日朝刊1面
  166. ^ 朝日新聞「天声人語」1951年5月17日
  167. ^ 多賀敏行 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 新潮新書 2004 P.35
  168. ^ 吉田茂『回想十年』第1巻 中公文庫 1998
  169. ^ マッカーサーの二千日 袖井林二郎 中公文庫 P.392
  170. ^ 多賀敏行 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 誤解と誤訳の近現代史』 新潮新書 2004 P.17
  171. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.1252
  172. ^ Home. MacArthur Memorial.
  173. ^ Museum. MacArthur Memorial.
  174. ^ Virginia Landmarks Register, National Register of Historic Places. p.12. Virginia Department of Historic Resources, Commonwealth of Virginia. 2011年4月8日. (PDFファイル)
  175. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.174
  176. ^ サンデー毎日 1953年6月28日号
  177. ^ 高田保 第三ブラリひょうたん 銅像 2016年1月6日閲覧
  178. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.171
  179. ^ 『横浜の歴史』(横浜市教育委員会編)より
  180. ^ ホテル・ノスタルジア 第20回:マッカーサー元帥のホテル秘話 富田昭次 2016年1月9日閲覧
  181. ^ 025.1. A Japanese lady who worked for GEN MacArthur / マッカーサー元帥の思い出 USArmyInJapan
  182. ^ ロジャー・エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社, 1995 P.235
  183. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫、新版(全1巻), 2014 P.381
  184. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回顧録』 津島一夫訳、中公文庫、新版(全1巻), 2014 P.427
  185. ^ 吉田茂『回想十年』(初版 新潮社 全4巻 1957-59年/東京白川書院と中公文庫 各全4巻で再刊)
  186. ^ 「マッカーサー戦記・虚構と真実」文芸春秋 1964年6月号特集記事
  187. ^ ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想録』 津島一夫訳、中公文庫、新版(全1巻), 2014 P.426
  188. ^ 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 岩波現代文庫, 2008 P.3
  189. ^ ロジャー・エグバーグ 『裸のマッカーサー 側近軍医50年後の証言』 林茂雄・北村哲男共訳、図書出版社, 1995 P.254
  190. ^ 工藤美代子 『マッカーサー伝説』 恒文社21, 2001 P.11~P.19
  191. ^ 「憲法100年 天皇はどう位置づけられてきたか」NHk 1989.05.03放送
  192. ^ 「かくて天皇は無罪となった」文妻春秋 1965年8月号
  193. ^ 伊藤隆・渡遺行男『続重光葵手記』、中央公論社 1988年 P.732
  194. ^ 泰郁彦『裕仁天皇五つの決断』講談社、1984年、P.84
  195. ^ >豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 岩波現代文庫, 2008 P.8
  196. ^ 児島襄「天皇とアメリカと太平洋戦争」文婁春秋』1975年11月号
  197. ^ 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫, 2008 P.90
  198. ^ 藤田尚徳 『侍従長の回想』 中公文庫, 1987
  199. ^ 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫, 2008 P.28
  200. ^ 豊下楢彦 『昭和天皇・マッカーサー会見』 岩波現代文庫, 2008 P.27
  201. ^ 西鋭夫『國破れてマッカーサー』(中公文庫)中央公論新社、2005年 電子版P.1490~P.1514
  202. ^ デービッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ 第1部』(金子宣子訳、新潮社、1997年)
  203. ^ 竹田恒徳「この道」(『雲の上、下 思い出話』 東京新聞社、1987年)。
  204. ^ ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』岩波書店、2001年)
  205. ^ リチャード・ニクソン『指導者とは』徳岡孝夫訳、文藝春秋、1986年
  206. ^ 松本健一『昭和天皇伝説 たった一人のたたかい』 河出書房新社、pp.123-130。朝日文庫で再刊
  207. ^ Our History - JAPAN ICU FOUNDATION 2011年11月9日閲覧
  208. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.164
  209. ^ 「GHQ日系通訳官が初めて語った『素顔のマッカーサー元帥』」週刊新潮 2014年6月20日号 P.62
  210. ^ たばこワールド コーンパイプの立役者 日本たばこ 2016年1月19日閲覧
  211. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.106
  212. ^ デービッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 (上下)』、山田耕介・侑平訳(文藝春秋、2009年)
  213. ^ 「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 産経新聞 2011.12.7
  214. ^ Denslow, W., 10,000 Famous Freemasons from K to Z, p 112
  215. ^ Famous Freemasons M-Z
  216. ^ 袖井林二郎・福島鑄郎 『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』 日本放送出版協会, 1982、P.163

注釈[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ フィリピン防衛計画作成の作業料という名目で7年間に渡り多額の金をコミッションとして渡す契約、マッカーサーはアメリカ軍人の任務として防衛計画を作成するのであり、その見返りを受け取ることはアメリカ国内法で違反だった。
  2. ^ アジア艦隊のトップが大将なのは、上海などで砲艦外交をする上で仕事をやりやすくするためという理由があった
  3. ^ マッカーサーがウエストポイント校長時代、アナポリス校長はハートであった
  4. ^ リパブリック讃歌の替え歌)ダグアウト・ダグ・マッカーサー 岩の上に寝そべって震えてる。 どんな 爆撃機にも突然のショックにも安全だって言うのにさ。 ダグアウト・ダグ・マッカーサーはバターンで一番うまいもの食っている。 兵隊は飢え死にしようってのにさ。
  5. ^ ウェインライトについては、スティムソン陸軍長官やマーシャル参謀総長の執り成しもあり、降伏式典に同席させたり名誉勲章叙勲を認めたり赦したが、キングらについては終戦後もマッカーサーが赦さなかったため、昇進することもなく終戦直後に退役を余儀なくされている。
  6. ^ 1日の兵員1,000名に対する平均死傷者数 ○太平洋戦域 戦死.行方不明1.95名 戦傷 5.50名 総死傷7.45名 ○ヨーロッパ戦域 戦死.行方不明0.42名 戦傷1.74名 総死傷2.16名
  7. ^ マッカーサーは原爆の投下は必要なかったと公言しているが、1950年10月にアメリカで出版された『マッカーサー=行動の人』の著者ケリィとライアンの取材に対しマッカーサーが「自分は統合参謀本部に対し、広島と長崎はどちらもキリスト教活動の中心だから投下に反対だと言い、代わりに瀬戸内海に落として津波による被害を与えるか、京都に落とすべきと提案した。」と話したと記述している。ただしマッカーサーは後日にGHQのスポークスマンを通じそのような発言はしていないと否定している。
  8. ^ : Supreme Commander for the Allied Powers、略称 SCAP
  9. ^ 1945年にアメリカで行われた世論調査では天皇が有罪であるという意見が合計70%内死刑まで求めていたのが33%、それを受けて9月10日にアメリカ上院で「天皇を戦犯裁判にかける事をアメリカの方針とする」という決議がなされている
  10. ^ 児島襄の『東京裁判』によれば民間情報教育局局長カーミット・R・ダイク准将がマッカーサーの意思を汲んで日本側にはたらきかけたとういう証言がある
  11. ^ : General Head Quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers、略称 GHQ/SCAP
  12. ^ マッカーサーが不遜な態度をとったというのは、トルーマンの主治医ウォレス・グラハムの証言により1970年代に制作されたテレビ番組での描写に基づくものであるが、ウィリアム・マンチェスター 『ダグラス・マッカーサー (下)』によればこのような不遜な態度はとってないとするマッカーサー側近の証言もある。
  13. ^ マッカーサーが12月24日に提出した「進行妨害標的リスト」には原爆投下目標として26か所が示されているとともに、敵地上軍への使用として4発、中国東北部にある敵航空機基地に4発の原爆使用が要請されていた
  14. ^ : Old soldiers never die; they just fade away.
  15. ^ 松井は出版する気であったが、出版までには至らず。遺族の意向により全面的な公開はされておらず、一部が朝日新聞で記事となった
  16. ^ 父アーサーも南北戦争で叙勲されており、2016年時点で親子揃って名誉勲章を受けたのはマッカーサー親子だけとなる
  17. ^ 側近二名の回想だが、研究が進んだ今日では、双方とも(回想録と同様に人物研究以外では)史料としての価値は低いとされる。
  18. ^ ラッセル・ブラインズは、当時AP通信東京支局長で、マッカーサーに最も近いジャーナリストと言われた。

関連項目[編集]

人物
出来事


外部リンク[編集]


先代:
チャールズ・P・サマーオール
アメリカ陸軍参謀総長
第10代:1930年11月21日 - 1935年10月1日
次代:
マリン・クレイグ
先代:
-
連合軍最高司令官(SCAP)
初代:1945年8月14日 - 1951年4月16日
次代:
マシュー・リッジウェイ