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香港の戦い

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香港の戦い
Tanaka overlooking Aldrich Bay.jpg
愛秩序湾を望む歩兵第229連隊長・田中良三郎大佐
戦争太平洋戦争大東亜戦争
年月日1941年12月8日 - 12月25日
場所イギリス領香港
結果:日本軍の勝利。
東南アジア戦線における日本軍の優位が確定。
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 イギリスの旗 イギリス
香港の旗 香港
British Raj Red Ensign.svg イギリス領インド帝国
カナダの旗 カナダ
指導者・指揮官
大日本帝国 酒井隆 Flag of the United Kingdom.svg マーク・ヤング
Flag of the United Kingdom.svg クリストファー・マルトビイ英語版
戦力
39,700 13,000
損害
戦死 706
戦傷 1,534[1]
遺棄死体 1,720
捕虜 10,947[2]
南方作戦

香港の戦い(ホンコンのたたかい、Battle of Hong Kong, 1941年12月8日 - 12月25日)は、太平洋戦争大東亜戦争)緒戦の香港における、日本軍と香港を植民地としていたイギリス軍の戦い。日本側作戦名は「C作戦」。

日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、準備不足のイギリス軍は城門貯水池の防衛線を簡単に突破され九龍半島から撤退した。香港島への上陸作戦は18日夜から19日未明にかけて行われた。島内では激戦となったが、イギリス軍は給水を断たれ25日に降伏した。日本軍はわずか18日間で香港攻略を完了した。

背景[編集]

香港は、1841年のアヘン戦争の際にイギリスが占領し、1842年清国との間で結ばれた南京条約において香港島がイギリスの領土となり、九龍半島及び新界一帯が1898年清国との条約で99か年間の租借地となっていた。蒋介石率いる中華民国となってもその状況は継続され、1941年当時香港はイギリスが極東に持つ唯一の海軍基地であった。

満州事変を契機にイギリスは香港の防備の強化を決定し、1936年に九龍半島中央部一帯の要塞線(イギリス名:ジン・ドリンカーズ・ライン)が完成した。1937年に日中戦争支那事変)が勃発すると、香港は中華民国が諸外国との連絡を維持するための窓口となり、物資の中継基地あるいは宣伝謀略の基地として重要な地位を占め、中国軍と戦う日本軍にとっては目障りな存在となっていた。

イギリス領香港は九龍半島と香港島からなっていた。九龍半島は東西30キロ、南北30キロ。香港島は東西12キロ、南北11キロ。いずれも大部分は複雑な地形を有する山塊であった。両者を隔てるヴィクトリア港は平均幅約2キロ、最短地点では幅400メートルの海峡であった。九龍半島正面の要塞線は、城門貯水池以南の高地に沿った数線のトーチカ陣地をもって構成され、海岸にも防御設備が構築されていた。要塞内には啓徳飛行場があった。開戦時の人口は175万、うちイギリス人を中心とした西洋人は2万。さらに中国大陸からの避難民も流入していた。この過密な人口への水道水の供給が最大の弱点であった。

1938年、日本軍は広東を攻略し、香港周辺の制空権制海権は完全に日本軍のものとなった。イギリスは香港の海軍基地としての利用を断念したが、それでも日本との戦争となればできるだけ長く抵抗を続ける方針を固めていた[3]。1940年6月、日本軍は宝安県を攻略しイギリスと中国との国境を完全に封鎖、強力な要塞を擁する香港攻略を視野に入れて攻城重砲を動員、7月15日にはそれら重砲を主力とする直轄の軍砲兵たる第1砲兵司令部(司令官:北島驥子雄中将)を設置、帝国陸軍最大の重砲兵団である第1砲兵隊を編成し、また担当師団としては第38師団が予定され、国境封鎖と訓練にあたった。1941年11月6日、南方作戦準備発令とともに香港攻略準備が発せられた。

参加兵力[編集]

日本軍[編集]

イギリス軍[編集]

1940年11月18日、航空元帥ロバート・ポッファム大将の統率下にイギリス極東総司令部が設置され、香港駐屯軍もその指揮下に入った。1941年9月10日、マーク・ヤングが香港総督及び全軍総指揮官として着任した。香港駐屯軍はイギリス本国軍、イギリス・インド軍カナダ軍によって構成され、現地住民からなる義勇軍が参加していた。

  • 香港駐屯軍 - 総司令官:クリストファー・マルトビイ少将(総兵力 13,000名)
    • 陸軍
      • 香港歩兵旅団 - 旅団長:C.ワリス准将
        • ロイヤル・スコット連隊第2大隊(イギリス本国軍)、ミドル・セックス連隊第1大隊(イギリス本国軍)、ラジパッツ第7連隊第5大隊(英印軍)、パンジャブ第14連隊第2大隊(英印軍)
      • カナダ旅団 - 旅団長:J.K.ロウソン准将
        • ロイヤル・ライフル連隊第1大隊、ウィニペグ擲弾兵連隊第2大隊
      • ロイヤル砲兵団 - 砲兵団長:マックロード准将
        • 第8重砲兵連隊、第12重砲兵連隊他、海岸砲29門(高射砲は不足していた)
      • 香港義勇軍 - 司令官:H.B.ローズ大佐、現地イギリス人、ポルトガル人、中国人からなる義勇軍(兵力 1,720名)
    • 海軍 - 司令官:A.C.コリンソン代将、駆逐艦1隻、砲艦4隻(兵力 780名)
    • 空軍 - 作戦機5機(ヴィッカーズ ヴィルドビースト 3機、スーパーマリン ウォーラス 2機)(兵力 100名)

経過[編集]

九龍半島の戦い[編集]

香港の戦い

攻撃準備[編集]

1941年12月8日払暁、第23軍飛行隊は啓徳飛行場のイギリス軍機に対して航空第一撃を加えた。イギリス軍は対応が遅れ、空軍機と義勇軍使用の民間機あわせて12機が炎上、2機が大破し全飛行機を失ってしまった。同日、第23軍各部隊も順次国境を突破して前進した。酒井軍司令官は九龍要塞ジン・ドリンカーズ・ライン主陣地への組織的攻撃を意図し、各部隊に準備を命じた。攻撃発起までの準備期間としては1週間程度が予定されていた。

ところが9日夜、第38師団戦闘指揮所へ、歩兵第228連隊から驚くべき電報が舞い込んだ。

連隊ハ標高二五五ニ拠リ頑強ニ抵抗スル敵ニ対シ夜襲シ奮戦約三時間ニシテ二三三〇之ヲ占領セリ・・・

若林中隊挺進突入[編集]

歩兵第228連隊は全軍の最後尾に配置され、遅れて城門貯水池付近の前線に到着した[4]。目前にある城門貯水池南岸の255高地はジン・ドリンカーズ・ラインの中枢点であった。この場所は歩兵第230連隊の担当地域に属していたが、土井連隊長は、イギリス軍に隙があるのならば、独断専行により奇襲をもって敵陣地を奪取したいとの願望を密かに抱いていた。

9日夜、土井連隊長は第3大隊に夜襲の決行を命じた。20時30分、若林東一中尉の率いる第10中隊は255高地のイギリス軍陣地に突入し、3時間の戦闘の末これを奪取した。土井連隊長の独断専行を知った佐野師団長以下師団司令部は激しく動揺し後退を命じたものの、土井連隊長は司令部からの電話を切ってしまった。若林中隊はさらに前進し、10日1時には341高地まで占領した。酒井軍司令官は急報を聞き激怒したが、この際、この機に乗じて所定の準備期間を待つことなく攻撃を開始しようと決断した。第1砲兵隊は準備未了の状態であったが10日午後から砲撃を開始しイギリス軍の主要な砲兵陣地を制圧、右翼の歩兵第230連隊も11日未明から攻撃前進を始め、同日昼までにジン・ドリンカーズ・ライン西側の主防衛線である366高地と256高地を占領した。11日12時、イギリス軍は香港島への撤退を発令した。

九龍半島での掃討戦は13日までに終了した。開戦前に日本軍では九龍半島の攻略に数週間を見込んでいたが、実際に要した日数は開戦後わずか6日であった。日本軍の戦死22名、戦傷121名。イギリス軍は遺棄死体165、捕虜49名を数えた。

軍司令部では、土井連隊長の独断専行について軍法会議に付すべきとの声もあがったが、「若林中尉が、前線を偵察中に偶然敵兵力配備の欠陥と警戒の虚を発見し、挺進敵陣地に突入しこれを奪取した」とすることで収拾が図られ、支那派遣軍総司令部および大本営に報告された。若林中尉には後に感状が授与され、「斥候中の挺進奪取」という話は流布した。若林中尉は1943年1月にガダルカナル島で戦死した。

香港島の戦い[編集]

降伏勧告[編集]

日本軍に誘導される香港の西洋人

九龍半島を占領した日本軍に対して、イギリス軍は香港島と洋上の艦船から砲撃を浴びせた。日本軍では九龍要塞の攻略で戦闘は終わると予想し、香港島攻略の具体的な計画は考えていなかったので、イギリス軍の抵抗は意外なものであった。第23軍にはベルリンオリンピック水泳選手の伊藤三郎少尉や小池禮三少尉がいたので、決死隊を編成しヴィクトリア港を泳いで渡らせようと思いついたが、試してみたところ重装備ではろくに進みもせず、思いつきは断念された[5]

13日、九龍半島の貯水池から香港島への給水が断たれた。同日、日本軍は軍参謀の多田督知中佐と道案内のイギリス婦人を降伏勧告の軍使として派遣した。ヤング総督は降伏勧告を一蹴したが、日本軍では、会話の中でのやりとりから、香港島の一角に上陸しさえすればこれを契機としてイギリス軍は降伏するのではないかという希望的観測が広まった。

14日から日本軍は香港島へ向けて砲爆撃を開始し、第1砲兵隊は九龍半島対岸の海岸要塞に向けて3日間で2,000発を打ち込んだ。しかし島の南側の要塞はほとんど手付かずであった。17日、再度多田中佐を派遣し第2回目の降伏勧告が行われたが、回答は変わらなかった。

渡海作戦[編集]

渡海作戦は、歩兵団長の指揮する右翼隊(歩兵第228、第230連隊各主力基幹)が九龍及び大全湾付近より香港島北角付近へ、左翼隊(歩兵第229連隊基幹)が鯉魚門方面から同島北東部へ上陸する作戦であった。18日20時準備射撃を開始。20時40分第1波が離岸し、21時45分奇襲上陸に成功した。第2波は一転して激しい防御射撃を受けたが19日払暁までに渡海を完了し、香港島北東部を確保した。

イギリス軍は、在香港重慶軍事使節団長である陳策提督の「中国軍6万が国境に集結して日本軍を背後から攻撃せんとしている」との言葉を信じていた。19日から20日にかけて戦闘は混戦状態を呈した。イギリス軍は頑強な抵抗を続け、日本軍は複雑な地形と堅固なトーチカ群に遭遇して前進を阻まれた。

20日、ニコルソン山の要塞を攻撃した日本軍右翼隊は同日夜にこれを占領したものの死傷者は600名に及んだ。左翼隊も山麓の香港ホテルに陣取るイギリス軍の猛射を受け前進できなくなった。赤柱半島でも激戦となった。赤柱半島は付け根の正面がわずかに250メートル、縦深3キロに及ぶ半島で、海岸砲台や高射砲陣地を備え鉄条網を張り巡らせ、約1,500名が守備する要塞地帯であった。日本軍は2個大隊と砲兵をもって攻撃をかけたがどうしても攻略することができなかった。

イギリス軍の降伏[編集]

21日、日本軍はニコルソン山中において貯水池を発見した。数人の中国人が給水施設を動かしていたが直ちに停止させ、たちまち香港市街は全面断水となった。同日、ようやく日本軍はニコルソン山の南北の線に沿って戦線を構築し、22日には香港ホテルを奪取してイギリス軍を東西に分断した。

さらに数日激戦が続き、第23軍将兵が前途なお多難の戦闘を覚悟しつつあった25日17時50分、香港島西部の陣地にあったヤング総督とマルトビイ少将が遂に白旗を掲げた。19時30分、日本陸海軍司令官は停戦を命じ、ここに香港の戦いは終わった。この日は香港人に「黒いクリスマス」と呼ばれている。

降伏の交渉は日本軍が司令部を置いていた「ザ・ペニンシュラ香港」の3階で行われた。香港島内における戦いで、日本軍は戦死683名、戦傷1,413名を出した。イギリス軍の戦死は1,555名、捕虜は戦闘間1,452名、戦闘後9,495名であった。

捕虜[編集]

香港陥落1周年を祝う日本軍による行事

香港攻略戦で捕虜となったイギリス軍は11,000名。内訳はイギリス人が5,000名、インド人が4,000名、カナダ人が2,000名であった。捕虜の証言によれば、イギリス軍は半年間は持ちこたえる構えで食糧弾薬等を準備していたという。だが香港はわずか18日間で日本軍によって攻略された。

香港の戦いで捕虜となった将兵は香港内に設置された捕虜収容所へ抑留されたが、それらの中から数多くが日本、台湾の捕虜収容所へ移送され、各地の産業に従事した。これは国家総動員法によって日本中の若者が徴兵対象となり戦地に送られた結果、国内や台湾など軍需産業に携わる人員の不足をきたしたため、それを補うための一環とされたものである。日本などの捕虜収容所に送られた捕虜は戦後になって記録を残しているが、イギリス軍の兵卒でウェールズ出身のフランク・エバンスの『大江山の点呼 - 捕虜は思い出す』はそうした例の一つである。 

日本占領下の香港[編集]

日本軍による陥落直後、香港市内はそれまで潜んでいた中国人の暴力団や犯罪組織が闊歩し、略奪や強奪などを行い、一時的に治安が悪化したが、軍政が整備されるにつれて治安は回復した。香港市民は朝鮮人軍属を「一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった」と記録している。このため、香港市民は日本人よりも朝鮮人を憎んでいたとされる。

日本軍は香港に対して中国本土とは区別して占領地行政を施行した。当初、酒井軍司令官を長官とする軍政庁を設置し、後に大本営陸軍部直轄の香港占領地総督を置いた。1942年1月19日、磯谷廉介陸軍中将が香港総督に任命された。占領下、貿易に依存していた香港経済は停滞し、さらに日本軍は軍票を発行したためにインフレーションを誘発した。1945年の終戦に至るまで日本軍による軍政は維持された。

香港の戦いを描いた映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 九龍半島の戦いと香港島の戦いの損害の合計である。
  2. ^ 九龍半島の戦いと香港島の戦いの戦中、戦後の合計である。
  3. ^ 『戦史叢書 香港・長沙作戦』, p.6
  4. ^ 以下、『戦史叢書 香港・長沙作戦』, pp.151-154。
  5. ^ 『戦史叢書 香港・長沙作戦』, p.179

参考文献[編集]

  • 服部卓四郎(著)『大東亜戦争全史』、1953年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 香港・長沙作戦』、1971年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]