第二次アキャブ作戦

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第二次アキャブ作戦
Arakan Campaign Indian Division at observation.jpg
戦闘中の第7インド師団、シク教徒兵士
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1944年2月5日~23日
場所ビルマアキャブ
結果:イギリス軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 イギリスの旗 イギリス
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
指導者・指揮官
花谷正中将
桜井徳太郎少将
フィリップ・クリスティソン中将
戦力
1個歩兵団(第55歩兵団) 2個歩兵師団
1個戦車連隊
損害
戦死 3,106
戦傷 2,229
戦闘機 65
戦死・戦傷 3,506
戦闘機 3
ビルマの戦い

第二次アキャブ作戦ハ号作戦)とは、1944年(昭和19年)2月に行なわれた日本陸軍による作戦。ビルマ西部海岸にある都市・アキャブ(現在のシットウェー)を進発し、インド国境付近にあるビルマ・マウンドオ近辺の英印軍部隊の殲滅を目指した。作戦目的としてもう一つ、アキャブ北方にあるインパールの英印軍を牽制する目的もあり、インパール作戦の支作戦としての性質を持っていた。ここでの敗北が東南アジア方面での日本の主導権を失うきっかけとなった。

経緯[編集]

ビルマ西部アキャブ地方に位置するアキャブはビルマ防衛の要となる飛行場、港湾があり、インド東端の英印軍二大拠点、インパールとチッタゴンのうち、チッタゴンにも近く、日本軍の重要拠点になっていた。1944年1月9日、ビルマ領内にあるインド国境付近の町マウンドオが英印軍に占領され、その後の英印軍の漸進により日本勢力圏からアキャブへ通じる各ルートが英印軍の襲撃と重砲射撃にさらされ、とくに渡渉点(浅瀬や河港など)の安全の確保が難しくなった。ビルマ方面軍ではアキャブ防衛のために付近の英印軍を殲滅する必要が生じたと判断、また1944年1月7日にインパール作戦の実施が大本営により許可され、インパール作戦前の陽動作戦として、1944年1月11日に第55師団長の花谷正陸軍中将によりハ号作戦(第二次アキャブ作戦)の計画準備が命令される。計画準備命令に従い、本作戦は、第7飛行師団の協力と第55師団第55歩兵団(桜兵団)を主力として計画された。中でも隷下の歩兵第112連隊善通寺連隊・連隊長は棚橋真作大佐)は、三十一号作戦(第一次アキャブ作戦)で電撃的奇襲戦術により敵一個旅団包囲殲滅、一個師団撃破の殊勲に輝く精鋭であり、かけられた期待も大きく、日本軍の一部では第五十五歩兵団長桜井徳太郎少将のようにチッタゴン侵攻を公言する者までいたという。

一方英印軍は、三十一号作戦による激甚なる損害から立ち直りつつあった。アラカン地方において北部山岳地域では陸路によるいわゆる援蒋ルート打通のための作戦準備を進行。これは輸送機での昆明への空輸作戦が日本の第7飛行師団の戦闘機隊と偵察機の連携による北部ビルマ山岳上空での迎撃=「辻斬り」による損害をこうむり、安定した成果が望めない状況にあることを受けて準備されていた。

アラカン南部のベンガル湾沿岸では、まず海軍が日本軍の小型舟艇の海上活動を封殺しつつ沿岸の日本軍拠点を攻撃。遠浅な海域でもあり大規模な上陸作戦にこそ到らなかったものの、アキャブの港湾機能をマヒに追い込む。一方、チッタゴンには対ビルマ攻勢に向けての準備のために多数の輸送用舟艇が集結しつつあった。

ハ号作戦はこのような状況の中計画され、第三十一号作戦の再現により沿海部や海路からの英印軍の反撃企図の覆滅をも狙ったものである。

作戦経過[編集]

 日本軍は制空権こそ無かったものの、作戦開始早々に各地で英印軍を包囲。勝利は確実と思われたが、英印側の行動は全て予定されたものだった。主戦線は、マユ川英語版上流のKalapanzin River周辺に広がる内陸部の盆地、シンゼイワ英語版・Ngakyedauk 付近で、両軍は膠着状態に陥った。通称「アドミン・ボックス(管理箱。日本側呼称円筒陣地、もしくは立体陣地)」と呼ばれた密集陣を展開し、包囲されたまま空輸による補給、増援を受け頑強に抵抗するイギリス軍に対し、日本軍は散発的な攻撃の繰り返しで損害が累積。花谷師団長、桜井歩兵団長ら上層司令部もなんら有効な策を打ち出せぬまま隷下部隊の指揮官たちに自決を強要するといった苛烈な督戦を繰り返すのみで、やみくもに出血を強いた。

結果[編集]

作戦の中核であった棚橋連隊の戦線は崩壊、英軍の物資を奪取することを前提にしていたため、たった4日分しかない携行弾薬・食糧を消費すると補給は途絶し、更に空軍、海岸部では海軍の手厚い支援を得た英印軍の前に、日本軍は各地で戦線を維持できなくなった。棚橋連隊長は、無謀な突撃を命じる花谷師団長との無線を封止した上で、「これ以上、天皇の赤子を殺すに忍びず」と生き残った部下400名に独断で撤退を命令。花谷は命令違反に激怒したが、事が大きくなることを恐れて2月26日に作戦中止を追認、これによって第一次作戦とは全く逆の惨敗を喫した。

棚橋は4月11日に連隊長を解任され、大本営に花谷の狂気に満ちた作戦指導を報告したが、報告を受けた辻政信は「なぜ、シンゼイワで全滅しなかったのか。なぜ全員戦死しなかったのか」と詰問するだけで、杜撰な作戦について追求しようとはしなかった。棚橋連隊長は解任・内地に左遷され、戦後、自決した。

この作戦と同様の事態が、本戦場のインパールではより大規模に展開され、大幅に戦力を失った日本軍はビルマでの防戦すらままならない立場に追い込まれていく。第二次アキャブ作戦の敗退は、日本軍が開戦から守ってきた東南アジア方面でのイニシアチブを自ら放棄する端緒となったのである。

参考文献[編集]

  • 『戦死―インパール牽制作戦』高木俊朗、朝日新聞社 昭和42年

外部リンク[編集]