M3軽戦車

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M3A1
M3A1-Stuart-latrun-1.jpg
性能諸元
全長 4.53 m
車体長 上に同じ
全幅 2.24 m
全高 2.64 m
重量 12.9 t
速度 57.9 km/h
行動距離 113 km
主砲 M6 37 mm戦車砲(103発)
副武装 M1919A4×3(7,220発)
装甲 最大50.8 mm
エンジン コンチネンタル W-670-9A
4ストローク空冷星型7気筒ガソリン
262 馬力/2,400 rpm
乗員 4 名
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M3軽戦車英語:Light Tank M3)はアメリカで開発され、第二次世界大戦連合国軍が使用した軽戦車。本車をレンドリースされたイギリス軍によって付けられた愛称は、南北戦争時に南軍騎兵隊を率いたJ・E・B・スチュアート将軍から取った「ゼネラル・スチュアート」。最初に北アフリカで本車を使用したイギリス軍兵士からは「ハニー」(可愛い奴)とも呼ばれた。

開発の経緯[編集]

第二次世界大戦前にアメリカが開発したM2軽戦車は優れた車輌であり、1941年6月にレンドリース法によりM2A4軽戦車36輌がイギリス軍に貸与(うち4輌のみがエジプトに送られただけで、他は本国配備)され、「スチュアート」の愛称が付けられた。これは以前のスペイン内戦でのソ連製・ドイツ製・イタリア製戦車の実戦による教訓から、対戦車砲に抗し得ない薄い装甲が問題とされ、M2A2までは16 mm しかなかった車体前面装甲を、25.4 mm(1インチ)に強化していた。しかしこれでも37 mm 対戦車砲に対しては不十分であり、38.1 mm(1.5インチ)に強化した新型軽戦車を開発することとなった。

前述のとおり改良の重点は装甲の強化におかれ、車体自体も後方に延長された。装甲厚の増加と車体の大型化に伴い重量はM2A4軽戦車の11.6トンから12.7トンに増えたが、誘導輪を大型化して地面と接する様に改められ、接地圧の増大を考慮した。装甲はM2軽戦車と同じくリベット接合であった。この当時はまだ溶接技術が未熟であり、仕方のない選択ではあったが、射撃試験でリベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内の乗員を殺傷する恐れがあることが判明した。装甲板に傾斜はつけられず、避弾経始は考慮されていなかったが、逆に居住性はよく、量産性に優れていた。

武装面ではM5 37 mm戦車砲(基本的に対戦車砲のまま)を搭載したM2A4軽戦車とM3軽戦車前期生産型では駐退復座機が露出していたが、M3軽戦車後期生産型からは車載専用のM6 37 mm戦車砲が搭載されたため、駐退復座機は防盾内に収められている。ただし旋回ハンドルは何故か装填手側に付いていて車長兼砲手には使いづらく、供与されたイギリス軍では反対側に移動させている。M2A4軽戦車から追加され、車体左右袖部のスポンソン前面に固定装備された、2挺の7.62 mm M1919機関銃は、M3軽戦車にもそのまま残されていたが、役に立たないとして、後に撤去され、装甲の開口部はパッチで塞がれ、スポンソン内は物置にされた。

これらの改良を終えた1940年7月の時点で本車は正式に“M3軽戦車”として採用された。ただし、生産を担当するアメリカン・カー&ファウンドリ社がM2A4軽戦車の生産を継続していたため、生産開始は1941年3月であった。

この間にも刻々と状況が変化する戦場からは様々な情報が寄せられ、本車は生産途中にも様々な変更箇所が加えられた。

初期生産型では7角形のリベット接合式砲塔(D37812)を搭載していたが、生産第279号車からは新たに溶接式砲塔(D38976)に変更されている。更に1942年の生産第1946号車以降では、曲げ加工された均質圧延装甲と、鋳造製の砲塔前面を溶接して組み立てた馬蹄形の砲塔(D39273)が採用され、さらに同年半ばからの生産車では主砲にジャイロ・スタビライザー(砲安定装置)が追加された。M3A1と併行生産されたイギリス軍向けの最後期型では、車体も生産性のアップのため溶接式に改められていた。

エンジンはコンチネンタル社製のW-670-9A星型7気筒空冷ガソリンエンジン(出力262 hp)であったが、1941年7月からギバースン社製の T-1020-4 星型9気筒空冷ディーゼルエンジン(出力245 hp)を搭載した型も併行生産され、これはイギリス軍ではガソリンエンジン型の「スチュアートI」に対し「スチュアートII」と呼ばれた。生産途中には航続距離アップのため車体後部に投棄可能な25ガロン燃料タンクが2個追加された。

M3軽戦車は生産が中止される1942年8月までに5,811輌が生産されている。

バリエーション[編集]

M3A3
M3A3 Stuart 001.jpg
性能諸元
全長 5.01 m
車体長 上に同じ
全幅 2.55 m
全高 2.57 m
重量 14.5 t
速度 49.9 km/h
行動距離 217 km
主砲 37mm戦車砲M6(砲弾174発)
副武装 M1919A4×3(銃弾7,500発)
装甲 最大50.8mm
エンジン コンチネンタル W-670-9A
空冷星型7気筒ガソリン
262 馬力/2,400 rpm
乗員 4 名
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M3軽戦車には以下のようなバリエーションがある。

M3A1
周囲視認用のペリスコープを装備し、車長用キューポラを廃止して左右2つのハッチ(これは小さすぎるとして評判が良くない)にすることで全高が低くなった。このD58101型砲塔は動力旋回式となり、より新型のD58133型砲塔以降は砲塔バスケットを採用することで砲の指向が早くなり、目標追従性が向上、砲手を兼ねていた戦車長は、装填手を兼ねるように役割が変更されている。しかしイギリス軍では、戦闘時に副操縦手兼前方機銃手が砲手となり、戦車長はその後ろ(キューポラ下)に下がり、狭い砲塔に3人も入ったためバスケットはむしろ邪魔であった。このためバスケット無しの新型砲塔を載せ車体も溶接組み立てとなったM3(イギリス軍での通称・スチュアート・ハイブリッド)が、M3A1の生産開始以降もしばらく併行して作られ続けた。なお、戦闘室前面左右に固定装備されていた7.62 mm 機関銃は最初から廃止されていた。
1941年8月に開発が始まり、生産は1942年5月にスタート、生産終了の1943年2月までにガソリンエンジン型4,410輌とディ-ゼルエンジン型211輌が完成した。イギリス軍での名称はガソリンエンジン型が「スチュアートIII」、ディーゼルエンジン型が「スチュアートIV」。
M3A2
M3A1の車体を溶接構造とした試作車。量産はされなかった。
M3A3
1942年8月に制式化され、同年12月より生産が始められM3軽戦車の最終生産型。同年3月からすでに生産が開始にされていたM5軽戦車の影響を受けている。車体は完全に溶接構造となり、1枚構成となった前面装甲板には約20度の傾斜がつけられ、スマートになった。また、操縦席は前に移動し、車体容積が増加した。これに伴い37 mm 砲弾の携行数は103発から174発に増え、さらに燃料タンクが2個追加され、航続距離が113 km から217 km へ増加した。
また、エンジンにはエア・クリーナが装着された。それ以前のイギリス軍向けM3同様に足周りにはサンドシールドが装着され、砲塔も形状が変更された。生産終了の1943年10月までに3427輌が完成したが、アメリカ軍では使用されず、全て外国へ供与された。イギリス軍での名称は「スチュアートV」。
T18
M3の車台上に大型の天井付きの鋳造製固定戦闘室を設け、M1A1 75mm榴弾砲を搭載した自走榴弾砲の試作車。軟鉄製の戦闘室を持つ試作車2輌が製作されたが、背の高い戦闘室とフロントヘビーが原因で、アバディーン性能試験場での試験で満足する結果を出せず、旋回砲塔を持つM8 75mm自走榴弾砲の制式化により、1942年4月に開発中止となった。
T56
M3A3の車台上に3インチ(76.2mm)高射砲M1918を搭載した戦車駆逐車(対戦車自走砲)。試作車。砲の前面に防盾がある。エンジンを車体前方に移動し、車体後方に砲を搭載した。
T57
M3A3の車台上に3インチ(76.2mm)高射砲M1918を搭載した戦車駆逐車(対戦車自走砲)。試作車。エンジンを車体前方に移動し、車体後方に砲を搭載した。T56のエンジンが重量に対し出力不足のため、M3中戦車と同じコンチネンタル R-975系に換装し、重量軽減のために砲の前面の防盾を撤去した。T56とT57はどちらもアバディーン性能試験場での試験で満足する結果を出せず、1943年2月に開発中止となった。
T82
ジャングル戦向けの軽自走榴弾砲として、1943年12月に開発が始まった、M5A1の車台上にオープントップの固定戦闘室を設け、M3 105mm榴弾砲を搭載した自走榴弾砲の試作車。試作車2輌が製作されたが、アバディーン性能試験場での試験で満足する結果を出せず、戦局から必要性も無くなったことから、1945年5月に開発中止となった。



配備と運用[編集]

大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連フランスオーストラリア中国などに供与された。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入し、その信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー」という愛称で呼ばれた。

本車が北アフリカに到着した直後にはクルセーダー作戦が発動され、本車も1ヶ連隊(約150輌)が参加した。ここではM3軽戦車は巡航戦車代わりとして活用されたが、火力・装甲ともに不足しており多くの損害を出した。M3軽戦車は信頼性が高く、機動力に優れた軽戦車ではあったが、車体が小さくより大きな砲が搭載できなかったこと、および履帯幅が狭く接地圧が高いこと、航続距離が短いこと等の欠点があった。このため北アフリカでの戦闘任務は、新たに供給されたM4シャーマン中戦車により取って代わられ、M3軽戦車は偵察任務にまわされるようになった。

この後、チュニジアで戦ったアメリカ軍のM3A1もドイツ戦車に挑んで大損害を出し、このクラスの軽戦車がドイツ軍相手に戦車戦や歩兵支援を行うことの限界を露呈してしまった。更に1942年中期以降は、新型のM5軽戦車が配備され始め、次第に押し出される形で1943年にはアメリカ軍の第一線装備から外された。自由フランス軍自由ポーランド軍ビルマ方面のイギリス軍などではM3A3が使われ続けていたが、ヨーロッパのイギリス連邦軍ではM3A3の砲塔を撤去し、弾薬運搬車や砲牽引車に改造されたものも多い。またイタリア戦線のイギリス軍ではやはりM3A3の砲塔を撤去、武装を機銃のみとして軽量化し機動力を増加させた、スチュアート・レッキ偵察車に改造されている。

一方、太平洋戦争では開戦時にフィリピンに第192戦車大隊(M3軽戦車54輌)、第194戦車大隊(同53輌)が配備されていた。1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は戦車第4連隊第2中隊第1小隊所属の九五式軽戦車と戦闘を行っている。M3の正面装甲は九五式軽戦車の37 mm 砲を全て跳ね返した(九五式軽戦車の九四式三十七粍戦車砲の装甲貫徹力は一般的な37 mm クラスの対戦車砲と比較にならないほど貧弱だった)が、敵小隊長車の体当たりや履帯切断などで5輌が行動不能になり撃退された。なおこれが日米初の戦車戦であるが、その後の両軍戦車の戦闘を象徴しているように思われる。

また、1942年2月にビルマ(当時)のラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団所属の第2戦車連隊所属のM3軽戦車(総数約150輌)が活躍した。非力な日本軍の九四式37 mm 速射砲や戦車砲ではM3軽戦車の正面装甲は貫通できず、逆にM3の37 mm 砲はすべての日本戦車の装甲を遠距離から貫通できた。その為、ラングーンの北東80 km に位置するペグー付近では十数輌のM3が戦車第2連隊軽戦車中隊所属の九五式軽戦車4輌を1,500 m 以上の距離から全滅させるという戦闘を行っている。ただし戦車部隊の活躍をもってしても彼我の圧倒的兵力差までは埋めきれず、1942年3月にはイギリス軍はラングーンから脱出し、同市は日本軍の手に落ちている。

M3はその後もガダルカナル島の戦いニューギニアの戦いなどで活躍したが、ここでも新型のM5軽戦車やより強力なM4中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となった。なお予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入された。

1942年1月~翌年3月までの間、M3およびM3A1スチュアルト(スチュアートのロシア語読み)がソ連に対するレンドリース用として供与された。これらは米英戦車が多用された北カフカス方面での戦闘で活躍している。しかしディーゼルエンジン型ではなく、ソ連のものより使用する燃料のオクタン価の高いガソリンエンジン型が供与され、運用に問題があったという。

1944年11月、イギリス軍の支援によりダルマチア海岸にM3A1(1輌)、M3A3(56輌)からなるユーゴスラビア第1戦車旅団が上陸し、チトーのパルチザン部隊を支援した。これらの一部は砲塔を撤去し、ドイツ軍から捕獲した7.5 cm PaK 402cm Flakvierling38を搭載した対戦車自走砲や対空自走砲に改造された。

日本軍での捕獲運用[編集]

日本軍に捕獲されたM3軽戦車-1942年1月、フィリピンにて

太平洋戦線で捕獲されたM3軽戦車は日本軍戦車より機動力・防御力が優れ、37mm戦車砲M6の攻撃力も九七式中戦車改一式47mm戦車砲よりわずかに劣る程度だったために重宝された。なお、当時の日本軍は戦車開発において列強から取り残されつつあり、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などというジョークが存在する[1]

1942年(昭和17年)4月のコレヒドール島要塞攻略作戦にあたり、本土から急派された九七式中戦車改を中核として編成された臨時戦車中隊には九七式中戦車改2輌や九五式軽戦車4輌に混じって1輌のM3軽戦車も参加している。このうち、実際にコレヒドール島に辿り着けたのは中戦車2輌とM3のみだった。しかし予期せぬ戦車の投入によりアメリカ軍守備部隊は恐慌をきたし、結果的に難攻不落とされたコレヒドール要塞も同日中に陥落することとなった。なお上陸地点から台上に進出する際、登板能力に勝るM3が自力で登ることのできない中戦車を牽引したというエピソードも残っている。

また、インパール作戦に参加した戦車第14連隊では第1,2,3中隊がM3軽戦車を装備する軽戦車小隊を保有していたほか、作戦発動前には戦力強化のためにM3を装備する第4中隊が新たに編入された。作戦初期の1944年(昭和19年)3月には日本軍のM3軽戦車が英印軍のM3中戦車と戦闘を交え、これを撃破している。しかし無謀な作戦計画による補給の不足や強力な中戦車を前面に立てて戦闘を行う英印軍の前に戦車14連隊は壊滅した。

脚注・出典[編集]

  1. ^ UTP実行委員会著『帝国陸軍陸戦兵器ガイド 1972-1945』 新紀元社

関連項目[編集]