日中戦争

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日中戦争
Second Sino-Japanese War collection.png
戦う日本軍中国軍
戦争日中戦争(1941年12月12日より太平洋戦争の一部となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中国大陸内蒙古華北華中華南)、イギリス領ビルマ
結果:中華民国[注釈 1][注釈 2][注釈 3][注釈 4]連合国の勝利[注釈 5][2]
交戦勢力
枢軸国 連合国
指導者・指揮官
大日本帝国の旗 香月清司(1937-38)
大日本帝国の旗 松井石根(1937-38)
大日本帝国の旗 朝香宮鳩彦王(1937-38)
大日本帝国の旗 西尾寿造(1939-41)
大日本帝国の旗 畑俊六(1941-44)
大日本帝国の旗 岡村寧次(1944-45)
満州国の旗 張景恵
蒙古聯合自治政府の旗 デムチュクドンロブ(1939-1945)
中華民国の旗 汪兆銘(1940-1944)
中華民国の旗 陳公博(1944-1945)
中華民国の旗 蔣介石
中華民国の旗 何応欽
中華民国の旗 徐永昌
中華民国の旗 陳誠
中華民国の旗 李宗仁
中華民国の旗 閻錫山
中華民国の旗 毛沢東
中華民国の旗 朱徳
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・スティルウェル(1941-44)
アメリカ合衆国の旗 クレア・リー・シェンノート(1941-44)
アメリカ合衆国の旗 アルバート・ウェデマイヤー(1944-45)
イギリスの旗 ルイス・マウントバッテン(1941-45)
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー

日中戦争にっちゅうせんそうは、1937年昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国中華民国の間で行われた戦争である[注釈 6][注釈 7][注釈 8]

呼称[編集]

日本側では、紛争が勃発した当初は北支事変と称し、1937年(昭和12年)9月の第1次近衛内閣閣議決定で支那事変を正式の呼称とした[7][8]

戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後に本格的な戦闘が行われても、1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告を行わなかったからである。その理由として、日中両国がアメリカ中立法の発動による経済制裁を避けたかったことが挙げられる。

日本側は事態の早期収拾も狙っており[7]、また、戦争ともなれば天皇の許可(聖断)が必要になるからであった(昭和天皇は戦争に反対だった)。一方中国側は、国内での近代兵器の量産体制が整わないままであることから、開戦により軍需物資の輸入に問題が生ずる懸念があった[9]ことに加え、軍閥毛沢東率いる中国共産党との内戦の行方も不透明であったことから、蒋介石は「安内攘外」政策をとり、国内の統一(共産党との決着)を優先すべき問題と捉えていた[10]

太平洋戦争が始まると、蔣介石の重慶政府が米英とともに日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、日本側の東條内閣は10日の閣議で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」ことを決定した[11]

時期区分[編集]

日中戦争の期間の一般的な見解は1937年(昭和12年) - 1945年(昭和20年)までであるが[12]、日本では歴史認識の違いによって「先の大戦」の呼称(大東亜戦争十五年戦争アジア太平洋戦争など)が分かれており[13]、日中戦争の位置づけには様々な解釈がある。臼井勝美は、「前史: 塘沽協定から盧溝橋事件まで、1933年6月 - 1937年7月」、「第一期: 盧溝橋事件から太平洋戦争勃発まで、1937年7月 - 1941年12月)」、「第二期: 太平洋戦争から敗北まで、1941年12月 - 1945年8月」の三期に区分している[14]小林英夫は、「前史 満洲事変から盧溝橋事件勃発前まで」、「第一期 盧溝橋事件から武漢作戦まで」、「第二期 武漢作戦から太平洋戦争勃発まで」、「第三期 太平洋戦争勃発から終戦まで」の四期に区分している[15]

中国共産党の公式な見解は、1935年の抗日人民宣言から始まり、1937年の盧溝橋事件(七七事変)からとされていたが、2017年1月中国教育省は中国の教科書で使われている「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日中戦争の始まりを1931年の「柳条湖事件」まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した[16]

前史[編集]

「安内攘外」と「和協外交」[編集]

1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件に端を発する満洲事変は、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国の樹立を経て、熱河作戦終結時の1933年(昭和8年)5月31日に締結された塘沽協定により一応終結した。同協定で、長城線以南に非武装地帯が設定され、大日本帝国は北支五省の独立自治運動の拠点を獲得し、満洲国は中華民国により黙認された。国民党は、汪兆銘の両国の関係改善の希望もあり、先ず共産党に対する囲剿戦に全力を傾け、国内を統一してから日本と戦う「安内攘外」を基本方針に採用した。広田弘毅外相は「和協外交」を提唱し、排日・排日貨運動も沈静化し、両国は公使館を大使館に昇格させた[17][18]

北支自治運動―華北分離工作[編集]

支那駐屯軍関東軍など日本現地軍は、1935年(昭和10年)5月2日深夜の天津日本租界事件を契機に、河北省察哈爾省から国民党の排除を図り、6月、所謂梅津・何応欽協定を締結し、藍衣社の北支からの撤退、河北省主席于学忠の罷免などを実現させた。国民政府は、「邦交敦睦令」を発し排日行為を禁止した。その後、現地日本軍は、二十九軍が日本人を拘禁した張北事件中国語版などを理由に、土肥原・秦徳純協定を締結し、察哈爾省東北部の二十九軍を河北省に移駐させることを了承させた[17][18]。そして、旧軍閥で二十九軍長宋哲元 を中心に北支五省に独立政権を樹立させ、国民政府から分離させるため「北支自治運動」を展開した。11月25日、非武装地帯に殷汝耕を委員長とする冀東防共自治委員会を設立させ、宋哲元を中心にして「北支自治政権」を設立させて殷汝耕を合流させる計画を立てた。しかし、国民政府は、宋哲元を冀察綏靖主任兼河北省主席に任命し、12月18日に冀察政務委員会を設置し、自治独立運動の阻止に一応成功した。このため、12月25日、日本現地軍は、冀東の冀察への合流を放棄して冀東防共自治政府を成立させた[17][18]

「内戦停止、一致抗戦」[編集]

1935年12月、中華民国では自治政権反対の一二・九運動を契機に「内戦停止、一致抗戦」の機運が拡大した。長征の途上にあった共産軍は、八・一宣言を出して「抗日救国」、「反蔣抗日」の統一戦線を呼び掛け、陝西省延安に根拠地建設を開始し、1936年(昭和11年)2月から3月、「抗日実践」を示すため、彭徳懐林彪が指揮する共産軍2万が山西省に侵入した。共産軍は閻錫山の軍と蔣介石の増援により敗退し、周恩来と会談した張学良の説得により「反蔣抗日」から「逼蔣抗日」への転換を受け入れ、五・五通電を発し「停戰議和一致抗日」を訴えた。一方、4月18日、共産軍の侵攻を契機に広田弘毅内閣は支那駐屯軍を増強した[17][18]

川越茂・張群会談[編集]

1936年(昭和11年)8月23日の成都事件と9月3日の北海事件を受け、大日本帝国外務省は、国民政府の対日態度の是正を要求し、9月8日から川越・張群会談が開始された。大日本帝国が防共協定の締結、日本人顧問の招聘などを要求し、国民政府が冀東防共自治政府の解消を要求したため、交渉は平行線を辿った。その後、9月19日に漢口、9月23日に上海で日本人が殺害され、11月上旬に内蒙古軍による綏遠事件も勃発し、12月3日に交渉は決裂した。12月12日の張学良らによる蔣介石監禁事件西安事件を経て、1937年(昭和12年)初頭には国共合作が事実上成立した[17][18]

林内閣の「対支実行策」[編集]

1937年(昭和12年)2月2日、大日本帝国で広田内閣から林内閣へ交替すると、佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や中華民国への軍事的威嚇方針をやめ、平和交渉に移るよう外交方針を変更し[19]陸軍参謀本部戦争指導課長石原莞爾は、「華北分離工作」など従来の帝国主義的な侵寇政策の放棄を唱えた[19]。4月16日に外務、大蔵、陸軍、海軍大臣四相により決定された対支実行策(第三次北支処理要綱)では、北支分治や中国内政を乱す政治工作は行わないとされ、日中防共軍事同盟の項目も削除された[19]。一方で、関東軍は、対中高圧政策、「対支一撃論」を変更しなかった[19]。5月3日、中華民国は、イギリスに財政基盤強化のための借款供与を要請し、イギリスは、大日本帝国にも参加を要請した[20]。1937年(昭和12年)5月31日、林内閣は総辞職し、6月に近衛文麿内閣(第一次)が成立した[19]。7月5日、川越大使は政府にイギリスからの借款供与提案を受諾するよう上申し、電報は盧溝橋事件前日の7月6日に届いた[20]

北支事変[編集]

盧溝橋事件と北支事変[編集]

1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度発射された。翌日午前五時三十分、攻撃命令を受け、中国軍陣地に対し攻撃前進して行った[21]。その後、中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発した[22]。この日本軍が駐留していた豊台は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定書に定められた駐留可能地ではなく、法的根拠のない駐留だった[23][要出典]。当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本兵4,080、フランス兵1,839、米兵1,227、英兵999、イタリア兵384であり、日本人居留民は17,000人、米欧居留民は計10338人であった[24]7月8日、蔣介石は日記に「倭寇の挑発に対して応戦すべき」と書き[22]、7月9日に動員令を出し、四個師団戦闘機を華北へ派遣した[24]。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した[24][注釈 9]。 7月11日、日中の現地軍同士で停戦協定が締結され(松井-秦徳純協定)、中華民国側は遺憾の意思を表明し、責任者を処分すること、盧溝橋付近には中国軍にかわって保安隊が駐留すること、事件は藍衣社、中国共産党など抗日団体が指導したとみられるため今後取り締る、という内容の停戦協定が締結された[22][24]。事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は一時見合わせとなった。

日本政府が不拡大方針と軍の増派を同時に決定

一方、同7月11日午前の会議で近衛内閣関東軍独立混成第11旅団・独立混成第1旅団の二個旅団朝鮮軍第20師団北支派兵を発令[22]、支那駐屯軍に編入される。近畿以西の全陸軍部隊の除隊延期も決定する。同日、重篤となった田代皖一郎支那駐屯軍司令官に代え、香月清司中将を新司令官に親補。また近衛内閣は現地解決、不拡大方針を閣議決定[26]、さらに「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした[22]。7月13日に北平(北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生。

国民政府の対日武力行使決定

中国共産党は7月15日に国共合作による全面抗戦を呼びかける。蔣介石も7月17日廬山談話会において、中華民国は弱国であり戦争を求めてはならないが、やむをえない場合は徹底抗戦すると表明する[22]。中華民国政府は7月19日、国民党の第29軍代表張自忠らが盧溝橋事件の停戦協定の細目実施を申し出、共産党の策動を徹底的に弾圧すること、排日職員を取り締ること、排日団体は撤去すること、排日運動、排日教育を取り締ることを日本に誓約する[22] 一方で、盧溝橋事件に関する地域レベルでの決着は認めないと日本側に通告した[24]。7月20日には中国軍第37師部隊は再び盧溝橋付近で日本軍に攻撃した[24]。7月21日、蔣介石は南京戦争会議で大日本帝国に対して武力行使を行うという方針を採択した[24]。7月23日、南京副幕僚長孫浜将軍が北京と保定の軍に対日戦闘を勧告した[24]

他方、7月22日から中国当局は抗日雑誌等を禁止、藍衣社などを弾圧したと大日本帝国に報告された[22]

日本軍の総攻撃

中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した[24]。 1937年7月25日、郎坊駅で電線を修理した日本軍が休憩していると中国軍が襲撃した(郎坊事件)[24]。日本軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌7月26日、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し[24]、同地を日本軍が占領[22]。日本軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった[24]

7月26日に広安門居留民保護に駆けつけた日本軍が広安門で中国軍より銃撃を受ける(広安門事件)[22]

7月27日、日本軍(支那駐屯軍)は総攻撃の実施を決定した[22][24]。東京の内閣は内地師団動員を下令。第5師団第6師団第10師団の動員派兵を決定[22]。同日午後11時、南京政府は日本側へ、北支当局と日本軍守備隊の協定に関する交渉を日本へ申し出た[24]。総攻撃を前にして住民を逃すため香月軍司令官の要請を受けてJ.O.スタヂオの技術者として支渡していた菱刈隆文が北平上空から20万枚の布告ビラを撒いた[27]

7月28日午前5時、日本軍支那駐屯軍、北支で攻撃を開始[22][24]。中国軍は5000余人が戦死、撃滅され、同日夜、北平にいた宋哲元、秦徳純などは脱出した[22]

通州事件

7月29日には、日本の同盟軍であった冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して虐殺を実施した通州事件が発生[24][28]。同日同時刻に29路軍が天津の日本人租界を攻撃した[24]。この通州事件は日本軍民に暴支膺懲の意識を強く植え付けることとなる[29]

日本軍の北平(北京)・天津占領とチャハル作戦

7月31日、日本軍(支那駐屯軍)、北平・天津地区を制圧[22]。 日本軍は7月末には北平・天津地方を制圧後、8月には河北省保定以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦が8月9日より関東軍が察哈爾省(現在の内モンゴル自治区)とその周辺へ攻略を開始した(チャハル作戦。後に10月17日に包頭を占領し、日本の傀儡政権蒙古連盟自治政府を樹立し、張家口に駐蒙軍(日本軍)が置かれた。その際、9月9日、山西省陽高で日本軍が武装解除もしくは非武装の成人男子を300名以上を虐殺したとされる事件(陽高事件)があった。[要出典]

「日中全面戦争」[編集]

第二次上海事変[編集]

上海での中国側報復と日本軍増派

1937年(昭和12年)8月9日、上海の非武装地帯で日本軍上海海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された (大山事件)[30][31]。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており[30][31]、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた[30]。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ(兪鴻鈞)中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した[30]8月12日、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した[30]8月13日早朝、日本海軍陸戦隊へ攻撃をしかけた[30]。8月13日午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した[32]。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した[31]

8月13日、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定[31]。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた[30]

8月14日には中国空軍は上海空爆を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た[31][32]

第二次上海事変の勃発により日中全面戦争に発展した[注釈 10][34][注釈 11][注釈 12][注釈 13]。日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もある[30][32]近衛内閣8月15日、「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲し、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は拝日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、上海派遣軍が編成された[31][38]。一方、同8月15日に中華民国も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蔣介石が就任、戦時体制を確立し、さらに中国共産党も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった[32]

その後、8月下旬、蔣介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして陳立夫を責任者として取締りの強化を指示し、「ソビエト連邦ゲーペーウー(GPU)による殺戮政治の如き」漢奸狩りを開始した[39]。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた[40]。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された[41]

渡洋爆撃

8月15日日本海軍渡洋爆撃を開始[32]。15日より16日にかけて、海軍航空隊の96式陸攻38機が、南昌南京広徳杭州を台南の新竹基地と長崎大村基地からの渡洋爆撃を行った[42]。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。

8月17日、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した[31]

8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した[30]。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した[30]

8月20日日本海軍、漢口爆撃[42]8月21日中ソ不可侵条約が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された[43]8月22日には西北地域の共産党軍(紅軍)を国民革命軍第8路軍に改編、総兵力は32000[32][44]

8月23日、日本陸軍が上海上陸開始[45]。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった[45]

南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン英語版が銃撃を受けて重症を負い、同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したため、イギリスの対日感情が悪化し、約一か月後に解決した。

ニューヨークタイムズ1937年8月30日記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じた[30]

1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍第1軍第2軍へと編成される[46]

    • 9月2日 - 日本、北支事変を支那事変と改称。
    • 9月5日 - 日本海軍、中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
    • 9月9日 - 山西省の陽高で、関東軍が中国人を虐殺する陽高事件が発生する。
    • 9月13日、国民政府、日本軍の行為を国際連盟に提訴。
    • 9月14日 - 日本軍(北支那方面軍)、北平・天津より南進を開始。保定攻略。
    • 9月15日-22日 - 日本海軍航空隊、広東方面攻撃[42]22日までに中国空軍、全滅[要出典][注釈 14]。広東空襲に際し国民政府は赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、一週間で100人以上がスパイ容疑で処刑される[47]
    • 9月21日-22日 - 日本陸軍航空部隊、太原飛行場を爆撃。同21日には国際連盟の日中紛争諮問委員会が開催[42]
  • 9月22日、第二次国共合作が成立する[32]
  • 日本海軍航空隊は9月23日に南昌を、翌日の9月24日に漢口を爆撃する[42]
国際連盟の日本空爆への非難決議

1937年9月28日 - 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。

他方、1937年10月、ローマ法王ピオ11世(在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した[要検証]東京朝日新聞は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した[48]

  • 1937年10月2日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原攻略開始(山西作戦)。ソ連は対日軍事的、経済的制裁の実行をアメリカに打診した。
    • 10月5日 - 国際連盟、諮問委員会で日本の軍事行動を九カ国条約不戦条約違反とする決議採択(翌10月6日、総会でも決議)。同日、米国のルーズベルト大統領、シカゴで侵略国を批判する「隔離」演説。
    • 10月10日 - 日本軍第1軍石家荘占領。
    • 10月12日 - 中支の紅軍を新四軍に改編。
    • 10月17日、関東軍、包頭を占領(チャハル作戦終了)。10月26日、上海戦線でも難関の大場鎮の占領に成功[45]

和平交渉決裂・南京占領[編集]

上海攻略後、日本は和平工作を開始し、1937年11月2日にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯(冀東防共自治政府があった場所)、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は11月5日にトラウトマン駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蔣介石はこれを受理しなかった[49]。蔣介石が受理しなかったのは11月3日から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった[49]。その後、トラウトマン大使は蔣介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蔣介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた[49]。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や永久駐留や傀儡化を含む厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した[50]

  • 1937年11月5日 - 日本軍第10軍杭州湾に上陸。
    • 11月7日 - 中支那方面軍編成。
    • 11月8日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原占領。
    • 11月9日 - 蔣介石、上海から撤退命令。
    • 11月11日、日本軍、上海の最後の拠点南市を占領する[45]。同日、スターリンは蔣介石に即時参戦の拒否を伝え、中国が不利になればソ連は日本と開戦すると述べた[43]
    • 11月19日には中支那方面軍が蘇州攻略。
    • 11月20日 - 日本、大本営設置。同11月20日、国民政府(蔣介石)、南京より重慶移駐を決定[51]
    • 11月21日、ソ連機が南京で対日戦に参加[43]。12月末までに南京のソ連義勇兵は3665人となった[43]
    • 11月22日 - 日本、内蒙古蒙疆連合委員会中国語版を樹立させる(後に蒙古連合自治政府)。
  • 日本軍中支那方面軍、11月27日に無錫、11月29日、常州を攻略。11月28日、日本軍は上海の電信、無線局、中国政府機関を押さえた[30]
南京戦
  • 12月1日 - 大本営、中支那方面軍に南京攻略を許可。
  • 12月1日 - 蔣介石からの参戦の催促に対してスターリンは、日本の挑戦もなく参戦すると侵略行動とみなされ、国際世論で日本が有利になると答え、単独参戦を拒否した[43]
  • 12月10日 - 日本軍(中支那方面軍)、南京攻撃開始。
  • 12月12日 - 中華民国(国民党)軍南京防衛司令官の唐生智大将が南京から逃走。同日、パナイ号事件が起きるが、アメリカは日本側の謝罪と賠償を受け入れた。
  • 12月13日 - 日本軍が南京を占領した[52]。国府軍捕虜、敗残兵、便衣兵、民間人の大量殺害や強姦を日本軍が行ったとする南京事件が起きたが、事件について論争がある。
  • 12月14日、日本、北京に中華民国臨時政府を樹立。
  • 12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行[53]
  • 12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する[54][55]
華北
  • 華北では12月23日、第十師団が黄河を渡り、12月27日には山東省済南を占領、翌1938年1月11日には山東省済寧を占領する[56]
  • 1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行される。
    • 1月10日 - 海軍陸戦隊が青島を占領[56]
    • 1月11日 - 御前会議、「支那事変処理根本方針」を決定。
    • 1月16日、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた[50]
    • 2月7日 - 中ソ航空協定締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された[43]。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった[43]
    • 2月14日 - 中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍を廃止、中支那派遣軍が編成される[56]
    • 3月28日 - 日本、南京に中華民国維新政府を樹立させる。
    • 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。

徐州攻略[編集]

4月、中国広西軍は山東省台児荘で日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ[要出典]、中国の民衆は非常に喜んだ[57]。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し[57]、1938年4月7日 - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して徐州を攻略するよう(徐州会戦)下命した[56]5月10日、日本軍、廈門を占領。5月15日、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった[56]。5月19日 - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領[56]

  • 5月20日 - 中国軍機2機が九州へ飛来してビラ散布
  • 5月26日 - 近衛内閣改造によって6月3日には中国戦線の板垣征四郎が陸軍大臣、次官に東条英機関東軍参謀長が起用され、中央政府に関東軍勢力が入った [56]。関東軍は華北分離をめざし、また蔣介石への不信を持っていたが、宇垣一成外務大臣は蔣介石を高く評価しており、対中観が対立していた [56]宇垣一成外務大臣は香港の中村豊一領事に、国民党孔祥熙の秘書喬輔三との和平工作(宇垣工作)を6月から9月まで進行させた[56]

漢口・広東攻略[編集]

1938年6月、蔣介石ら中国軍による黄河決壊事件により河南、江蘇省安徽省の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった[57]。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した[56]。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた[56]。7月11日〜8月10日の日ソ武力衝突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦[58]。10月12日、第2軍が信陽を占領[58]

広東攻略を命じられた第21軍(兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、10月12日にバイアス湾上陸し、10月21日に広東を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった[58]

  • 10月27日 - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。武漢作戦の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった[58]。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した[58]。武漢陥落によって蔣介石は重慶に政府を移した[51]
日本の東亜新秩序宣言
  • 1938年11月3日 - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの東亜新秩序声明(第二次近衛声明)を出した[58]。蔣介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した[58]

12月6日決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した[58]。12月16日、中国政策のための国策会社興亜院が成立する[58]

汪兆銘の重慶脱出と日本の対応

12月18日には蔣介石との路線対立で汪兆銘が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう[59]。12月22日、近衛首相が近衛三原則を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった[59]。12月25日、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蔣介石は12月26日に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した[60]。しかし、汪兆銘は12月30日の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した[60]。1939年1月1日、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した[60]。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された[60]

1939年(昭和14年)1月4日、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる[58]

1939年の作戦としては1月からの重慶爆撃[51]、2月10日の海南島上陸、3月の海州など江蘇省の要所占領、3月27日の南昌攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった[59]阿部信行大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた[59]

  • 4月 - 中国軍、南支で春季反撃作戦。

5月3日 (中攻45機)と4日 (中攻27機)に海軍航空隊が焼夷弾爆撃を実施した。重慶防空司令部の調査によると両日で焼死者3991名、負傷者2323名、損壊建物846棟に達し、英大使館、仏領事館、外国教会にも被害が及んだ[61]

  • 5月初め - 日本軍、襄東作戦
  • 5月7日、板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた[59]
  • 5月11日ノモンハン事件勃発(日ソ武力衝突)。
  • 6月13日 - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。

6月14日に日本軍は天津のイギリス租界を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった[59]。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした[59]。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた[59]

  • 6月21日 - 日本軍、汕頭占領。

イギリスが日本に一歩後退したのに対してアメリカ合衆国は7月26日、日米通商航海条約の廃棄を突然、日本に通告し、日本側は衝撃をうけた[59]。11月にはグルー駐日アメリカ大使との会談がはじまるが、12月22日、アメリカは中国で日本軍が為替、通貨、貿易など全面的な制限を行っている以上、協定の締結は不可能として拒絶した[59]

汪兆銘南京政府樹立[編集]

1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年11月30日の日支新関係調整方針を和平条件とした[60]。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜滄州のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩した上で要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した[60]。12月30日、日華新関係調整要綱が成立[60]

1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった[59]。 1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた[60]。これによって蔣介石の支持層が拡大した[60]

三国同盟と英米交渉[編集]

1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は6月24日、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蔣行為の停止を要求した[59]

5月18日より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する一〇一号作戦が10月26日まで実施された[51]。6月12日には宜昌占領[51]。6月24日から6月29日までは連続して猛爆が行われた [51]

  • 1940年7月11日、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と協調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって[60] 倒壊し、7月21日に第二次近衛内閣が成立する[59]

7月18日、英国、日本の要求に応じ援蔣ルート(ビルマルート)を閉鎖[51]。 7月26日、基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」が唱えられた[51]。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された[51]。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする大東亜共栄圏確立という外交方針を発表した[51]

  • 8月20日〜12月5日 - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた百団大戦が展開される[62]。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを三光作戦と呼んだ[62]。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった[62]
  • 1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した[51]。9月23日、日本軍、北部仏印進駐。9月25日、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。9月27日には日独伊三国同盟が締結される[51]。9月30日、米国、鉄鋼屑鉄の対日輸出を禁止する法令を発布[51]。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した[51]
  • 9月末 - 日本陸軍今井武夫大佐らの蔣介石夫人宋美齢の弟宋子良への日中和平工作(桐工作)を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は藍衣社戴笠の指揮下に行われていたことが分かっている)[51]
1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)
  • 10月4日、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する[51]。同日、日本軍731部隊が衢県において細菌戦を実行したとされる[63]
  • 10月23日、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された[51]
  • 11月〜12月 - 日本軍、漢水作戦。11月には支那派遣軍の兵力は20個中隊、総計72万8000人であった[51]。11月23日日本は御前会議支那事変処理要綱を決定、これは1938年11月30日の日支新関係調整方針と比較すると宥和的なものであった[51]。11月30日、日本は汪兆銘南京政府と日華基本条約に調印し日満華共同宣言を発表、南京政府を中国中央政府として正式承認した[51]。米英は即座に汪兆銘政府を否認、米国は国民政府に対して借款の追加供与1億ドル、12月10日には英国も国民政府に一千万ポンドの借款を供与すると発表した[51]。12月11日、ソ連も国民政府に対し1億元の借款を供与(バーター決済)。12月13日、蔣介石はアメリカに航空機5〜10%の提供、日本本土遠距離爆撃のためにB17戦略爆撃機を要請した[51]
  • 12月18日 - 英国、援蔣ルート(ビルマルート)を再開。
  • 1941年(昭和16年)1月7日、国民政府の移動命令に応じなかった共産党との間で対立が激化し、国民党軍の包囲作戦によって共産党軍は壊滅的打撃を受けた(皖南事変[51]。1月25日、蔣介石はスターリンに軍律の問題に過ぎないと答えた[51]
  • 1月〜2月 - 日本軍、予南作戦、3月15日、錦江作戦
  • 4月 - 米国、国民政府に5千万ドル借款成立、中ソ中立条約成立[要出典]
  • 4月13日 - 日ソ中立条約調印。蔣介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした[64]

太平洋戦争下の中国戦線[編集]

日米交渉と太平洋戦争[編集]

防空壕に戻ろうとして踏みつけられたり、窒息したりして死亡した市民(1941年6月5日、重慶防空壕窒息事件中国語版

1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、日米交渉が開始された[64]。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した[64]

6月22日、独ソ戦がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、7月2日の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した[64]。7月7日 - 関東軍特種演習(関東軍、対ソ戦を準備するが8月に断念)。7月10日、アメリカ対案に対して外務省顧問斉藤良衛は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した[64]。7月28日、日本軍、南部仏印進駐を実施、英米は日本資産を凍結した[64]。8月1日 - 米国、対日輸出を大幅に制限。

  • 9月5日〜11月6日 - 第一次長沙作戦(加号作戦)。
  • 10月 - マニラで英米蘭中の軍事会談。
  • 10月16日、近衛内閣総辞職、18日、東条内閣成立[65]。11月1日から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序を建設するための米英蘭戦争を決意するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという帝国国策遂行要領が採択された[65]。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまでに日中提携が消えて、中国での通商無差別原則の無条件承認を認める譲歩をし、また和平成立後2年で撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった[65]。乙案は、南方に限定したもので仏印南部の日本軍の北部移駐、在米資産の凍結復帰などが書かれ、11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官に提示された[65]
  • 11月22日 - 米国務長官ハル、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の胡適大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した[65]。11月24日、ハルは英蘭濠中代表の説得を再度行ったが中国側は北部仏印の日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった[65]。蔣介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、ラティモアは蔣介石がここまで怒るのははじめてだと米大統領に報告した[65]。さらに蔣介石はスティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルももし中国が崩壊すれば英国も危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した[65]。11月26日 - 米国務長官ハルは暫定協定案を放棄し、ハル・ノートを作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを最後通牒と解し、対米開戦に傾く。
  • 12月〜翌年1月 - 第二次長沙作戦
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦
  • 12月8日 - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、マレー半島上陸、及び真珠湾攻撃。広東第23軍、香港攻略開始(香港の戦い)。こうして太平洋戦争が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した[65]。12月9日 - 中華民国(重慶政府、蔣介石政権)、日独伊に宣戦布告[65]
  • 12月12日 - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「大東亜戦争」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蔣介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた[65]
  • 12月25日 - 日本軍、香港占領。
  • 12月31日、アメリカの要請で蔣介石は中国戦区連合軍総司令官に就任、蔣介石の希望でジョセフ・スティルウェル中国国民党軍参謀長に就任する[65]

1942年(昭和17年)1月1日、蔣介石は日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅すると語った[65]

  • 1月31日 - 日本軍、ビルマ攻略開始(援蔣ルートの遮断)。
  • 3月 - 米国、国民政府に5億ドル借款成立。
  • 5月〜9月 - 浙贛作戦中国語版せ号作戦)、浙は浙江省、贛は江西省の旧称。
  • 5月末 - 日本軍、ビルマ全域を占領。
  • 10月 - 英米、中国における治外法権を撤廃(不平等条約の廃止)。
1943年(昭和18年)
  • 1月 - 延安で「日本人解放連盟」成立、前線の日本兵へ投降の呼びかけ。
  • 1月9日 - 日本・南京国民政府(汪兆銘政権)は、日華共同声明を発表。汪兆銘政権、米英に宣戦布告。日華協定を締結(日本の南京政府への租界返還・治外法権撤廃など)。
  • 1月11日 - 国民政府、英米両国と治外法権撤廃についての条約を締結。
  • 1月14日 - イタリア、南京政府に対し租界返還・治外法権撤廃を通告。
  • 2月21日 - 日本軍、フランス(ヴィシー政府)側の了解(広州湾共同防衛協議)を得て、広州湾のフランス租界(広州湾租借地)に進駐。
  • 2月〜3月 - 江北殲滅作戦、江北は武漢の西方、揚子江の北側。
  • 5月〜6月 - 江南殲滅作戦
  • 10月30日 - 日本・南京政府が新たな同盟条約に調印。
  • 11月〜翌年1月 - 常徳殲滅作戦、常徳は武漢の南西。
  • 11月22日〜11月26日 - カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)。
  • 11月25日 - 台湾を米中連合航空隊が空襲(新竹空襲)。
大陸打通作戦後の日本軍占領地域(赤部分)、及び中国共産党ゲリラの拠点地域(ストライプ部分)
1944年(昭和19年)

日本軍、4月19日に鄭州を占領、5月25日には 洛陽を占領。京漢作戦が成功。

  • 6月2日〜9月14日 - 拉孟・騰越の戦いにおいて日本軍守備隊の玉砕。同地の失陥によって援蔣ルート(ビルマルート)再開。
  • 6月16日 - 成都を基地とするアメリカ軍B-29爆撃機が、日本本土を空襲開始(八幡空襲)。
  • 6月18日 - 日本軍、長沙を攻略。
  • 7月2日 - インパール作戦の失敗により、援蔣ルート遮断の継続を目的とする断作戦を新たに発令。
  • 7月7日 - サイパン陥落。アメリカ軍は成都に替わるB-29による日本本土爆撃拠点を確保。
  • 11月10日 - 汪兆銘が客死。
1945年(昭和20年)

登場勢力の立場と目的[編集]

大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国独立によって日中は安定し、東アジアの平和秩序が図られるとした(天羽声明)[69]。また、日中戦争(支那事変)は明確な開戦決意でなく偶発的に開戦したため戦争目的を確立するまでに時間がかかった[70]。そのため、対英米蘭戦の大東亜戦争(日中戦争および太平洋戦争)の際には開戦目的が明確化され、日本側の戦争目的は「自存自衛」と「(西洋帝国主義からの)アジア解放」を柱とした[70]東亜新秩序大東亜共栄圏の確立によってアジア解放は実現されると主張された[70]。日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都南京陥落後も、国民政府は首都を内陸部の重慶に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長はソビエト連邦への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蔣介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蔣介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた[71]。近衛内閣は蔣介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蔣介石と対立する汪兆銘と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため援蔣ルートの遮断を狙い、ヴィシー政権のフランスと合意の上、フランス領インドシナへと進駐したが、このことが東南アジアを植民地にしていたアメリカやイギリスオランダなどを刺激することとなり、アメリカは経済制裁を発動し、太平洋戦争に至る[要出典]
満州国の旗 満州国
日本への同調と自国存立のための戦争[要出典]。ソビエト連邦と対峙する関東軍の後方支援に終始し、蔣介石中華民国政府とはほとんど交戦しなかった。
Flag of the Mengjiang.svg 蒙古自治邦政府
中国からの独立のための戦争、およびソ連陣営である外モンゴルモンゴル人民共和国の影響下から脱するための戦争[要出典]盧溝橋事件勃発後、内蒙古へ本格出兵した日本軍に応じる形で1937年に樹立された蒙古連盟・察南・晋北の3自治政府を、1939年に統合して蒙古連合自治政府が樹立された。名目としては汪兆銘中華民国南京国民政府下の自治政府という位置づけだった。
Flag of the Republic of China (1912-1928).svg 冀東防共自治政府
1935年から1938年まで殷汝耕によって河北省に存在した地方政権。中華民国臨時政府に合流。
Flag of the Republic of China (1912-1928).svg中華民国臨時政府 (北京)
1937年から1940年まで王克敏を首脳として北京に存在した。日本に同調し、日本の傀儡政権ともいわれた。汪兆銘政権(南京政府)が成立すると華北政務委員会となった。
CJZ1.png中華民国維新政府
1938年から1940年まで南京に存在した。日本の傀儡政権。汪兆銘政権(南京政府)へ編入。
中華民国の旗 汪兆銘政権 (汪兆銘政権)
日本との徹底抗戦を主張する蔣介石に対して、当時の日本の首相近衛文麿は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。その後、蔣介石に代わる新たな交渉相手として国民党No.2である汪兆銘による中国国民党政権を樹立させた。汪は蔣介石の督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの中国民衆を巻き込んだ戦法に強い反発と孫文による「日中戦うべからず」の遺訓から「一面抵抗、一面交渉」の基本姿勢のもと、反共・和平解決を掲げ、1938年に蔣介石の中華民国政府から離反した。汪は日本の力を背景として北平中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結して、1940年に蔣介石とは別個の国民政府を設立したが、蔣介石の国民政府から汪兆銘に追随するものがいなかった上、北支・中支などの一部の軍閥を除き、中国各地を支配していた多くの諸軍閥に支持されず、国際的な承認も得られなかった[72]。主に共産党軍を相手に戦った。
中華民国の旗 中華民国蔣介石政権
孫文死後、国内は再び分裂状態となり、国民党右派の中心人物である蔣介石率いる国民革命軍と影響力を強める中国国民党などの間で内戦が繰り広げられた。1927年(昭和2年)蔣は北伐で大敗し最大の危機を迎えると恩人である松井石根を通じ時の田中義一首相と会談し、蒙古満洲問題を引き換えに日本から北伐の援助を引き出し、張作霖を満洲に引き上げさせることに成功した。この際、張作霖が関東軍に謀殺され、張学良は国民党に合流。1932年(昭和7年)汪兆銘と蔣介石の見方が一致すると両者は協力して南京で国民政府を組織する。1933年(昭和8年)には日本との間で塘沽停戦協定が締結されると1935年(昭和10年)、広田弘毅外相が議会姿勢演説で「日中双方の不脅威・不侵略」を強調、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担すると発言。汪兆銘と蔣の指導する中華民国はこれを受け入れ、反日感情を戒め、日中和平路線が着々と進められたが、中国共産党などは一部はこれを喜ばず、1935年11月、国民党六中全国大会中に汪はカメラマンに扮した中国共産党の刺客から狙撃され負傷、療養のためヨーロッパへ渡航。1936年には日本に強い不信を持っていた張学良西安事件を起こして蔣に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め中国国民党と中国共産党の間で第二次国共合作が成立した。蔣は当時北支に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件を発端に「最後の関頭」演説を宣言、中国国内では国民党勢力下の兵士市民が抗日事件を起こし一層日中関係は逼迫した。郎坊事件広安門事件などの紛争をきっかけに戦火は各地に飛び火し、中国全土で国民革命軍の存亡をかけた徹底抗戦(ゲリラ戦)が展開された。装備などの面で劣勢にあった国民革命軍は国民党中央宣伝部国際宣伝処[73] を組織し謀略をして国際世論を味方につけてアメリカ合衆国から支援(援蔣ルート等)を引き出した。1941年(昭和16年)11月、アメリカ合衆国は日本に仏印兵力の現状維持を含む暫定協定を提示する意向であったが、半ば見捨てられる形となった蔣は、英首相ウィンストン・チャーチルのコネクションを通じて抗議した[注釈 15]。これが一因となり暫定協定は撤回され、ハル・ノートが通告され、太平洋戦争に至る[74]
中國工農紅軍軍旗.svg 中国共産党(八路軍新四軍)
蔣介石国民党政府以前の1932年に中華ソビエト共和国として日本に宣戦布告を行ったが、当時は主権国家としての規模はなく、また日本よりも前に国民党を打倒しなければならないとしていた[75]。国民党とは国共内戦を戦っていたが第二次国共合作によって共産党支配地区はソビエト(蘇維埃)区から辺区へと改名し、共産党軍は労農(工農)紅軍から国民党八路軍、新四軍として蔣介石政権とともに抗日戦争、日本帝国主義と戦うとした。
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
日中戦争開戦当初はアジアで膨張を続ける日本に対する牽制を狙い、援蔣ルートを通じて中華民国に武器をはじめとする軍事物資と人材(訓練教官の派遣など)を提供。アメリカ合衆国議会は戦争状態にある国への武器輸出を禁じる中立法を維持していたが、日中戦争の勃発により、ルーズベルト大統領はイギリス国籍の船がアメリカ製の武器を中国へ輸送することを許可した。日本も石油をアメリカに大きく依存しており日中共に米国に依存しなければ戦争継続は困難であった。その後、仏印進駐を機に対日石油輸出を停止し、ABCD包囲網ハル・ノートが通告を経て真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると本格的に日本と戦争関係となる。
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
公式にソ連軍が参戦するのは太平洋戦争末期の1945年8月8日だが、すでに1920年代より中国で共産勢力を拡大するため紅軍ら共産主義勢力にたいして長期間にわたり支援を行い、また国共合作が成立してからは対日戦線を全面的に支援、張鼓峰事件ノモンハン事件では関東軍と交戦している。なお、日本は日ソ中立条約を締結していたソ連を通じ連合国との講和を目指したが、ソ連対日参戦により破綻した。
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
第一次世界大戦の際に日本が東アジア太平洋地域におけるドイツの権益を奪取したという事実とプロイセンドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)時代の黄禍論主義思想が対日政策に影響を及ぼしていた。1935年より中華民国に対して在華ドイツ軍事顧問団中国語版を派遣し陣地構築の指導、軍事訓練や武器の輸出を行った(中独合作)。一方、1936年には日独防共協定を締結するなど、日本にも接近しつつあった。1937年に勃発した第2次上海事変の際には、ヒトラー承認済のもと[76]、蔣介石の軍事顧問を務めたファルケンハウゼンが直接作戦指導にあたっている。日中間の和平交渉を仲介(トラウトマン工作)するが、交渉は決裂。軍事顧問団を引き上げることになる。日本は日独関係の悪化を憂慮し、鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表した。
イギリスの旗 イギリス
基本的にアメリカ寄りの政策を取ったが日本側の要請で援蒋ルートを一時閉鎖する[51] などの独自路線も取った。
タイ王国の旗 タイ
日本の同盟国としてタイ国外征軍、通称パヤップ軍英語版を滇緬国境方面に派遣した。

参戦勢力の概要[編集]

日本軍[編集]

中国派遣軍(満州以外を担任)[編集]

中国派遣軍(満州以外)
時期 人数 備考
太平洋戦争開始直後 師団数20(南方転用の第38師団を含めず)、独立混成旅団数21に加えて第一飛行団[77]
1943年8月初頭 約62万 甲師団5、乙師団5、丙師団15、戦車師団1、飛行師団1、独立混成旅団11、騎兵旅団1)、馬13万頭、自動車1万8千両[78]
1944年1月頃 師団数24、戦車師団1、独立混成旅団11、騎兵旅団1[79]
終戦時 約105万 北支那方面軍約30万、第6方面軍約35万、第13軍約30万、第23軍約10万[80]
108.6万 将校4.9万、下士官13.6万、兵90.1万[81]

関東軍(満州を担任)[編集]

関東軍(満州)
時期 人数 その他・備考
1938年1月末 119,955 馬匹現在数18,964[82]
1939年5月31日 239,238 馬匹現在数28,483[83]
1941年関特演 約70万 馬約14万、飛行機約600[84]
1945年8月31日 70.3万 項目名は関東軍でなく「満洲」[85]
関東軍の兵力構成[86][87]
年次 関東軍司令部 方面軍司令部 軍司令部 師団 騎兵集団 旅団 国境守備隊 駐屯隊 独立守備隊 航空兵団司令部 飛行集団司令部 飛行戦隊(飛行連隊) 独立飛行中隊
1937 1 6 1 TKB1 KB1 2 1 (飛行連隊)5
1938 1 2 8 KB1 8 1 3 1 12
1939 1 4 9 KB1 8 1 9 1 1 18
1940 1 4 12 KB1 13 1 9 1 1 27
1941 1 6 13 KB1 13 2 9 1 1 19 6
1942 1 2 8 14

TKD2

TKB1 KB1 13 1 9 1 2 19 3
1943 1 2 6 15

TKD2

TKB1 KB1 13 1 6 1 2 16 1
1944 1 2 5 10

TKD1

TKB1

MB1

KB1

機動旅団1

14 1 4

警備隊5

1 1 2
1945 1 2 6 24 TKB2

MB9

機動旅団1

1 特別警備隊3 1 1 2
MB=混成旅団、TKD=戦車師団、TKB=戦車旅団、KB=騎兵旅団

軍装・装備[編集]

中国派遣軍の弾薬類については、第6方面軍は1944年の「湘桂作戦開始頃」は基準通り[88]の「約一会戦分」の弾薬を保有していたが、1945年7月時点では残り「約〇、六会戦分に過ぎず特に対空火器の弾薬は約〇、二―〇、三会戦分程度に過ぎざる状況」であった[89]

航空戦力の日中比較[編集]

航空戦力については、復員局1949年調製『支那方面作戦記録: 支那派遣軍の統帥』は1943年夏の「航空に依る夏季奥地進攻作戦(※7月23日開始)に関する指導」の項で「第三飛行師団は戦爆連合を以て堂々と進攻することを重視しありしが敵警戒機の発達と敵戦闘機(P40)の優勢とに阻まれて容易に成功せざるのみならず却て我が志気を阻喪せしむる状況に在りし」「昭和十七年迄は支那大陸に於ける航空状況我に絶対有利なりしが今や米空軍逐次増強するに及び彼我航空勢力は逆転するに至り多大の期待を以て開始せし本作戦も大なる成果を収むることなく終了し」[90]と記し、同年「秋季航空作戦」の項では「今や彼我航空勢力逆転し昼間攻撃は特別の場合の外成功を収め難き情勢に立ち至れり」としており[91]、1943年を境に航空戦力が逆転し、それまでの戦法が通用しなくなったことが読み取れる。

その後は航空戦力差がさらに広がり、「一号作戦開始時頃(※1944年4月)に於ける在支敵航空勢力は約五〇〇機と判断せらるるに対し我は其の半数に及ばざる状況」であり[92]、1944年9月の第六方面軍新設に当っての総司令官訓示では「在支敵空軍の増勢急激を加へ…今や戦場就中後方補給線上に於ける敵空軍の跳梁激烈を極め」[93]と厳しい認識が示された。

1945年1月松井太久郎支那派遣軍総参謀長から大本営に対する意見具申では、航空戦力を「十対一」と表現しているが[94]、1945年3、4月頃の実数は中国側(米空軍含む)が1500~2000機、日本側は約150機であった[95]

1943年8月 中国空軍200、在支米空軍130[96]。この頃日中の航空戦力が逆転
1944年4月 中国側約500[92]、日本側はその半数未満
1944年9月 中国側750、日本側150[97]
1944年11月 中国側800[95]
1945年3・4月 中国側1500-2000、日本側約150[95]
参加部隊
支那駐屯軍(盧溝橋事件後の1937年7月11日に関東軍独立混成第11旅団・独立混成第1旅団の二個旅団朝鮮軍第20師団が編入[22]。1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍第1軍第2軍へ編成。
上海海軍特別陸戦隊
兵員・武器類の不足[編集]
兵員不足[編集]

既に1930年代には、一度兵役を終えて家庭を持っていた37歳が再召集され中国に送られた事例がある[98]

太平洋戦争期に入ると日本軍は戦争長期化と戦線拡大のため兵力不足が深刻となり、大学生など対象に卒業期繰り上げ[99]学徒出陣を実施し、20歳だった徴兵年齢を1944年には19歳に引き下げ、朝鮮半島でも徴兵制を開始するなどして兵力の確保に努めた。

1943年の第27師団(この年北支から満州に移駐)衛生業務要報には「十月 補充兵(国民兵の再徴集者)約二千名到着其の過半数が結核性疾患の既往あり其の年齢と共に体力の劣弱に喫驚す」[100]とある。北支にいた元兵士は1944年頃の回想で「内地から来た補充兵の様子を見て一抹の不安があった。補充兵の中には三十歳を超えている者も多く、その年寄り染みて見えること、また体格も貧弱で、騎兵時代に入隊した我々に比べると子供のようで、着剣して直立不動の姿勢をとると頭より剣尖の方が上に出る」と述べる[101]常徳衡陽芷江作戦を戦った元兵士は「衡陽陥落後、補充隊が到着したが三十四、五歳から四十歳ぐらいの第二国民兵の老兵で、銃は三八式が五人に一挺、それも手入れ用の窄杖無しのお粗末な代物。牛蒡剣は鞘が竹、水筒も竹の筒だったのには吃驚、この戦争の前途が心配になった」と述べている[102]

武器不足[編集]

兵力だけでなく兵器類も不足した。1942年に入営し山西省河南省で戦った元兵士は「最後に我々の部隊に補充されて来た兵隊は、大阪から来た兵隊で、本当にお粗末な装備で、銃は二人に一丁、飯盒は竹行李、水筒は孟宗竹、帯剣は木製、軍靴は地下足袋で、全くお粗末極まるものでした」と回想する[103]。1944年に徴兵され山西省で終戦を迎えた元兵士も内地出発時の装備について「腰の帯剣は『サヤ』が竹で、軍靴の代わりに地下足袋で、小銃は一個分隊に九九式小銃か三八式小銃が、たった一丁だけ、飯盒は十五センチ長さの太い孟宗竹が雑のうに入っていました」と述べている[104]。1944年の徴兵検査を受け長沙作戦を戦った元兵士も「自分達に支給された軍服は、すべて継ぎ接ぎで、補修はしてあったが軍服・衣料・軍靴も変形していて、靴底には当て革が打ち付けてありました。武器、兵器類は一切無しでした。そして雑のうと竹製の水筒が支給されました…出陣の時の携行兵器は五人に一丁当ての三八式歩兵銃でした」と回想する[105]

ただし1941年徴集で翌42年2月に内地出発し中支で戦った元兵士は、内地出発時は「軍装といっても徒手帯剣で一本のゴボウ剣だけで銃火器等なにもない」としながらも「当時、支那からの帰還兵が多く、そうした者の兵器を現地で受け取って武装するのです。まあ現地受渡方式です」「前線へ行ったら戦死者や帰還者のがあるということですわ」と述べている[106]。1943年入営し福建省で戦った元兵士も「内地から中支に出発する時に渡されたのは、三八式歩兵銃(明治三十八年式)という、四キログラム近い重さの終戦までの基本的兵器でしたが、これは一部の者だけで、他は帯剣のみ(鞘は竹製)という心細い装備でした。しかし、現地には九九式歩兵銃九六式軽機関銃八九式重擲弾筒などがあり、それぞれに渡されました」としている[107]

輜重隊として1944年湘桂作戦に参加した兵士は「被服はもとより弾薬も年間三〇発で、補給はない。…訓練もワラジを作って履く」と回想する[108]。1943年12月に新潟・新発田の部隊に入隊し翌年京漢作戦で独立歩兵第11旅団の一員として戦った兵士は「装備は悪く分捕った武器弾薬が半分…重機関銃は分捕り品のチェコ水冷式」[109]と述べる。

軍服類も不足した。復員局1949年調製「支那方面作戦記録: 第六方面軍の作戦」が1944年8月頃の武漢地区兵站状況として「被服は相当不足し各兵団に対する更新は希望の如く実施し得ざる状況」[110]と述べているが、1942年陸軍通信学校を卒業し漢口の電信第13連隊に配属された兵士は、1944年占領後の桂林では「放棄された中国軍の軍服(新品)を非番の者は着用して、一着しかない自分の軍服を大切にしました。」とする。1942年1新潟高田の歩兵第130連隊に入隊し迫撃砲大隊に転属、湘桂作戦を戦った兵士は「作戦に出てしばらくすると軍服や編上靴に穴があいても補充がない。兵隊は皆、現地人の服や木綿靴を使用し」と述べる[111]。1942年仙台の歩兵第104連隊に入営した兵士は湘桂作戦を振り返り「寒さのため師団長命で中国人の衣服を着て、まるで仮装行列のごとく、これが日本兵とは見えない姿であった。(徴発の際)衣服が中国服を着ている者もいたので友軍同志が撃ちあったということもあった」と語っている[112]。奉天省鉄嶺の関東軍部隊で初年兵教育を受け、師団が南下して湘桂作戦に加わることになった兵士は「その後、広東省恵州にいた一時期を除いては昭和二十年八月の終戦にいたるまで食糧はすべて現地徴発であった。わずかに弾薬・医薬品が数回送られてきたのみで、被服などの支給はなく、数か月もすると中国服や中国靴の兵隊をずいしょでみられるようなありさまとなった」と回想する[113]

また武器以外でも例えば鉄道修復に当たっては「緊要ならざる支線、側線を撤去して」[114]転用するという状況であった。

満州地域の武器不足

復員局資料調査部「第三十軍作戦記録」(1948年8月)では次のように述べる。

新京の防衛も大砲と名のつくものが三八野砲一門十榴一門高射砲約二十門で大口径火砲は一門もなく歩兵の小銃装備すら不足して居た 之れでは何万人の人が集まっても必勝の信念は湧かない 大・中口径の火砲が林立して惜し気もなく火を吐くスターリングラードの攻防戦の映画を見せて貰った事があるが新京を守った日本軍の装備、実に五十年前の軍隊といふも過言でなかった 新京で戦斗が惹起しなかった事をせめてもの幸ひと思ふ[115]

戦法・戦術[編集]

燼滅[編集]

華北の共産党勢力下における治安戦において徹底的な掃討作戦(いわゆる三光作戦)を実施したと言われる。日本側文書では「燼滅(焼き尽くし滅ぼす)」などの表現がしばしば登場する。またそれ以外の作戦地域でも家屋焼却・放火の事例がみられる。

  • 歩兵第224連隊第2大隊の1940年「晋中第1期作戦戦闘詳報」では「作戦指導要領」に「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し敵をして将来生存し能はざるに至らしむ」[116]とあり、敵がそこでもう生活できないように焼き払う目的であった。そして同年9月2日の項[117]「各縦隊は進路沿道諸部落の検索燼滅を実施しつつ敵の隠匿兵器糧秣倉庫の発見に努む」のように作戦を実行していった。9月13日の項[118]「十三日黎明と共に宿営地白壁村及水磨波の両部落を焼却し六時南方河原上に集合し作命第二十七号に基き六時三十分輝教に向ひ前進せり」9月14日の項[119]「十四日黎明と共に牌房及四十畝の両部落を焼却粛正し永支作命第三十一号に基き同地を出発す」のように、宿泊した部落を朝出発時に焼いてから前進するパターンもみられる。また「齟齬、過失其の他将来の参考となるべき事項」[120]として「本作戦間の行動地域の如く道路不良なる山岳地帯に於て索敵燼滅を同時に実施する場合に於ては一日の行軍行程は五里を超えざるを適当とす。然らざれば単に道路に面したる村落を燼滅し得るのみなり」「支那家屋は隣家に延焼すること稀なるを以て焼却に長時間を要す」とあり、行軍速度をあえて落とし、時間をかけて徹底的に焼き払っていったようである。
  • 独立混成第4旅団の1940年「第2期晋中作戦戦闘詳報」では「各支隊は敵軍事施設ある部落の燼滅には特に徹底するものとす」[121]とあり、これは言い換えると敵軍事施設が無い部落でも燼滅しろということである。
  • 1942年1月24日付、支那派遣軍参謀長から次長次官宛電報「西原兵団は綏遠省薩拉斉南方黄河対岸地区に蠢動中の張励生部隊及騎兵第七師に対し十八日払暁黄河を渡河し急襲せるも敵は南方に逃避し大なる敵に遭遇することなく付近部落を燼滅して二十日概ね原駐地に帰還せり」[122]
  • 1937年10月25日付、第10軍「軍参謀長注意事項」には「六、家屋の焼却に就て 家屋、村落は敵が之を占拠しありて之を攻撃する為戦術上特に必要ある場合の外は成るべく之を焼却せざるを要す、之時将に寒冷季に入らんとするに際し軍の休養及衛生上家屋村落は極めて其利用価値大なるを以てなり、上海方面の戦場に於ては殆ど全部家屋を焼却せし為軍の後方に於ける病院設備、宿営等に利用すべき家屋殆ど皆無にして甚だしく不利を招きつつあり」とある[123]
  • 独立攻城重砲兵第2大隊第2中隊の陣中日誌で1937年12月25日の項には「通過部隊の宿営して出発の際に放火するため道路付近の家屋は殆ど焼尽され宿営地選定に甚く困難す。斯の如き戦意なき一般民衆家屋に放火することは皇軍の倚信を損じ支那民意を日本に収攬せしむる国策に相反するのみならず我が軍隊の爾後の宿営利用に甚だ不利なり。全軍一般によく徹底し放火を厳禁するを要す」とある[124]
  • 1938年1月20日付の野戦重砲兵第五旅団司令部「実戦の経験に基く意見」は「今次事変の経験に鑑み隷下各部隊の意見を主体として取敢へず取纏めたるもの」だが、「今次上海派遣軍の行動を観察するに聖戦に従ふ皇軍として誠に遺憾の点少なからず。特に作戦上の理由なくして徒に村落に放火し或は良民の家屋を破壊し其他掠奪暴行の跡少からざるを認む」[125]「今次の戦斗に於て某師団は友軍占領の標識として村落に放火せるも之が為後続部隊の宿営に甚だしく困難を来せり。又特に後方部隊にして自隊の宿営後徒に放火するもの或は敵愾心の余り個人の感情に馳〔ママ〕られて放火する者若くは(以下判読不能)多く又露営火□後始末不良の為火災を起すものあり。之等に関し将来厳重に戒むるの要あり」[126]とある。
  • 1938年6月27日付北支那方面軍参謀長岡部直三郎名の「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」には「討伐部隊が戦斗上の必要に基くに非ずして単に敵兵の存在せし故に依り或は住民地付近の交通を匪賊が破壊せりとの理由に依り住民の家屋を焼却するが如きは徒に無辜の住民をして自暴自棄に陥り匪賊に投ぜしむる結果となるを以て住民地の焼却は厳に之を禁止するを要す」とある[127]
  • 1940年豊橋の歩兵第18連隊に入隊した兵士は1942年12月の大別山作戦などに参加したが、「羅山の討伐では、町は『全部焼き払え』との命令であった。手分けして焼いたが、木材使用の少ない家屋はなかなか燃えなかった」[128]と述べる。
  • 1942年30歳で応召し妻子を残して島根・浜田の歩兵第21連隊に入営した兵士は浙江省で戦ったが、「昭和十七年十二月より翌三月ごろまでは警備討伐に明け暮れ、集落市街の焼却もたびたびでした」と語る[129]
  • 満鉄勤務から1943年関東軍に現地入隊した兵士は下士官候補者を経て満ソ国境の蘇丘警備隊長だったが、「騎馬部隊の一個中隊が来ました。中隊長の説明によると『近くの村、約二百軒が馬賊の巣窟だ』と言っていました。討伐実施。村長に説明するにはいかなる方法を取るのか、『見学せよ』とのことでした。一種の熱病が発生した『ペスト菌』である。近隣へ伝染する怖れあり。野鼠による伝染であるために『全村民の避難を命じる」ということで家の周囲に高粱を積み重ねて、放火して全家屋を焼き払った。そして悠々と引き返して行った」と回想する[130]
点と線[編集]

中国戦線の戦況を形容する言葉に「点と線」がある。第一復員局「支那方面作戦記録」(1946年12月調製)の「武漢作戦後より太平洋戦争勃発迄」の項では「有力なる敵と対峙する方面即ち山西省武漢地区等に於ては各兵団は其の第一線を確保すると共に背後連絡線たる道路水路等を確保するため其の兵力の大部を使用し之を大観して所謂点と線とを確保するの状態なりき。我軍は武漢作戦以後大なる進攻作戦を行はず結局に於て持久態勢のまま敵を屈せしめんとする作戦に終始せり」と述べる[131]。当時の報道でもこの「点と線」の表現は用いられ[132][133]、また元兵士の回想でも出てくる[134][135]

1937年の北支方面軍司令部長嶺参謀講演でも、日本軍の勢力範囲は鉄道の両側1キロだけだ[136]と厳しい認識を示している。

山西省臨汾憲兵隊の1938年10月「状況報告」では「管内には約十万の敵匪蟠踞し…故に稍治安の保持せられあるは僅かに我軍の駐屯せる主要県城内及鉄道沿線一粁乃至二粁の範囲に過ぎず而も我警備圏内に於て鉄道及電線の破壊、列車並停車場、下士哨等の襲撃、県城砲撃等頻発し治安の状態最も険悪にして寸毫も愉安を許さず」と述べている[137]

第114師団歩兵第150連隊の1939年「津浦線東側地区 于学忠軍掃蕩戦戦闘詳報」でも「夜間のみ行動し之が偵察困難なる敵に対し我は寡小の兵力を以て過度に広地域を担任警戒網を構成するの止むなきに至り…協同動作に支障を来たしたること少なからず」と実情を吐露している[138]

末期は夜間行動[編集]

1944年頃には中国の制空権は米空軍が握っており、日本軍は空襲を避けるため夜間行軍を強いられた。桂林攻略戦に参加した部隊の戦闘詳報には「優勢なる敵の空中勢力下に於て極めて不良なる道路を錯綜する友軍の人馬車輌を排除して行軍を実施するに方り敵機の損害防止には最も苦心せる所にして…夜行軍を厳守す」とある[139]。第六方面軍は同年の「九月に於ける後方状況」として「自動車、水路、鉄道とも一切夜間行動に徹底」[140]という方針だったことを記している。

復員局「支那方面作戦記録 第六方面軍の作戦」(1949年8月調製)によれば1945年3月頃は「完全に米空軍の独り舞台となり連日的小型機の跳梁」[141]、4月の芷江作戦では「昼間行動全く不可能にして行動不便なる山地内に夜間行動を強制せられ」[142]という状況であった。

現地自活[編集]

「船腹節減」「内地よりする補給を縮減」[143]「内地資源の節用及現地輸送の軽減」[144]といった目的で現地自活(自給自足)が推進された。例えば石家庄支廠では一か月に味噌2,000樽、醤油1,000樽、漬物50樽、蒟蒻45,415丁など製造しまた牛20頭、豚700頭、鶏1,000羽を飼っていたし、済南支廠でも一か月に豆腐1.4トン、蒟蒻300キロ、菓子10万個など、大同支廠でも一か月に豆腐2.9トン、パン2万4000食、うどん3.6トンを製造していた[145]。1939年7月31日付中支派遣軍経理部「経理概況書」によれば南京の工場では生麺麭2,000食、甘味品32,000食、饂飩2,000食、豆腐1,500丁を「日々製造し加給品並酒保品として」部隊に供給し、上海では味噌醤油工場を経営し日産味噌15,000キログラム(約8師団分)と醤油七百リットル、また南京では衣糧廠が屠場を経営し一日牛30頭豚100頭の屠殺能力、上海では請負方式で牛200頭豚300頭の能力をもち「共に冷凍設備を完備」、製氷工場も上海が委託経営で一日30トン南京は自営で一日15トンなど、さらに「軍農場の経営」の項では「台湾各州より農業義勇団一千名を招致して上海南京漢口に軍農場を開設し野菜を栽培補給しつゝありて昨年度の収穫南京農場十一万瓩上海農場二四四万瓩計二五五万瓩に達し」ていたとある[146]

内閣情報部「写真週報」1944年1月19日号[147]では「現地自活の兵隊さん苦心の作」と題して各戦地の「創意と工夫に富んだ作品」を紹介している。中国戦線関係では慰問袋再利用、干魚製造、白樺の皮で作った靴底、雑草で編んだ長靴やスリッパ、ガラス瓶と缶詰空き缶で作ったランプが掲載されている。

南支にいた近衛混成旅団(桜田兵団)の1940年4月10日付「後方状況報告」には「約四町歩の畑に播種す 品種は白菜、大根、春菊、葱ニラなどにして二、三寸に生育し各隊に一部補給を開始せり」「牛約四十頭、水牛十頭、豚五頭、雞五十羽なり農園に繋畜飼育しあり」「豆モヤシの自製 生野菜の不足を補ふため各部隊又は農場に於て一括自製しあり」などとある[148]

満州にいた部隊の1943年陣中日誌には「現地自活農場整理 二十日大根播種を実施し」とある[149]

山西省に駐屯した第37師団司令部(冬第3540部隊)は1943年2月「中隊農場経営法」という手引きを作成しており、「中隊所要の野菜類は其の警備地区内に於て極力自給を本旨とし現地調弁と自隊生産とに依り自活の途を構ずるものとす」[150]とある。

徴発[編集]
人の徴発[編集]

1939年7月31日付中支派遣軍経理部「経理概況書」で「武漢攻略戦の開始と共に各補給廠各部隊の苦力等に対する需要は極めて急且大なるものありて苦力賃の暴謄〔ママ〕或は苦力の流動行はれ軍全般の円滑なる補給業務並に軍の作戦行動にも悪影響を及ぼすに至れるを以て…目下全軍にて使用しある苦力数一日平均二万に達しあるものの如し」とあるように[151]、日本軍の作戦行動には現地人多数の徴発・使用が伴った。1938年8月2日付太原特務機関から次官宛電報に「大〔ママ〕原飛行場工事完成し苦力約四千人の処置殊に治安上憂慮しあり」[152]、1939年杉山部隊(北支那方面軍のこと)本部「治安工作経験蒐録 第1輯」所収の「蓮沼兵団 苦力、土民使用上の注意」に「北部山西作戦に参加…歩兵部隊及砲兵隊は賈庄南方廟付近に拠る敵を攻撃中工兵は七百名の苦力を使役し賈庄ー白背子の馬頭関の道路改築中なりしが」[153]とあるように土木・建設工事では大規模な人的徴発が行われた。

苦力の徴発ではしばしば強制あるいは相当の対価を支払わない場合があったようで、1938年常岡部隊本部「将校研修資料」では「従来の軍隊が良民より恐らるゝに至りし行為の主なるもの」の一つとして「彼れの好意の儘に多数の支那人を出さしめ苦力とし或は洗濯其他に至る迄為さしめ、一文も払はず残飯程度にて使用せるものあり〔宿舎料等を全然支払はざるものあり〕」を挙げている[154]。また1944年入隊し南支・楽昌で終戦を迎えた兵士は「捕えた若者は苦力(クーリー)と呼ばれる人夫として連れていく…クーリーの家族が追いかけてきて」[155]と回想している。また軍票による支払も好まれなかったようで1939年7月31日付中支派遣軍経理部「経理概況書」では「軍票払の苦力の出渋り」[156]があるとする。

1942年に高知の歩兵第144連隊に入隊後中国に渡り歩兵236連隊に編入、各地を転戦した兵士は「苦力を得た隊は苦力に装具を担がせているため、遠方から見れば支那軍か日本軍か判明し難い奇妙な部隊に見えたことであった」[157]と回想する。

物資の徴発[編集]

1937年第二次上海事変杭州湾上陸した第114師団の「戦時旬報」には「上陸直後は船内よりの増加携帯に依り爾後は別示なき限り各部隊の直接徴発せる糧秣に依るべき旨給養命令を発す」[158]とあるが、このように日本軍では食料は徴発=現地調達の算段で作戦を実行することがあった。また同旬報では「徴発せる糧秣の代金は住民逃避し支払いの途なく已むを得ず支払を保留しある状態なり」[158]とあり、代金を支払わなかったことがわかる。翌1938年創設の中支那派遣軍の1939年文書では「今事変中軍の占拠地内に於て小麦其他の物件を日本軍に徴収せられたりと認めらるゝものは七月十五日迄に最寄憲兵隊に申立てしむる如く広告し事実調査の上相当額の賠償をなす企画の下に目下調査中なり」[159]とあるが。実際どれだけ名乗り出たかは分からない。また同文書では「中支那派遣軍作戦開始以来現地に於て押収又は徴発使用又は還送せる衣糧諸品の品種数量は莫大の額に上れるものと信ず。然れども…報告の提出不確実の為其真相を把握するに至らざるは遺憾とする所なり」[160]とあるが、対価を支払う場合は予算措置・会計報告を行うはずだと考えると、報告が無いということはつまり対価を支払わない徴発が多発したと考えることができるだろう。

1938年10月8日付野戦経理長官から中支那派遣軍経理部長宛の通牒では「作戦上必要なる軍需物件の調達」は「軍票」か又はそれに応じない場合は「受領証を交付する等の手段」[161]と指示しているが、戦後の「支那方面作戦記録: 第六方面軍の作戦」[162]では「食料の現地取得を容易ならしむる為交換用物資特に食塩の追送並に現地生産を図ると共に…」(26頁)「物資収集の唯一の見返品たる食塩」(41頁)とあり、実態は様々だったようである。

他に徴発の実態例としては

  • 独立山砲兵第2連隊の1940年8月「軍風紀粛正に関する注意」[163]では「近時連隊の軍風紀著しく弛緩し為に他隊より指弾を受けある状況なるは過去の赫々たる戦績に対し極めて遺憾とする所なり。即ち他隊上官に対する欠礼、服装不良、宿営地外無断外出、各個の徴発、及稲刈、支那人の携行しあるものの掠奪難民所への出入等実に皇軍として思半に過ぐるものあり」(2画像目)とある。「治安維持会(※日本が現地人に組織させた協力団体)ある村に於ては徴発せず経理官を同行し購買をなすべし」(6画像目)ともあり、これは徴発が現地人にとって迷惑な行為だったことを示している。
  • 1944年赤紙で召集され湘桂作戦に従軍した兵士は「『(分隊長が言うには)これからの行軍は全部徴発でゆく。部落を見つけたらワシが命令するまで発砲するな。…』一斉に空へ向けて鉄砲を撃つと、部落民(大体年寄りの男女)が、ブタ小屋やニワトリ小屋の戸口を全部明けて逃げてゆく。 空き家に飛び込んで誰もいないことを確かめ、食べ物を物色する」[164]と回想する。
  • 1942年現役兵として入営し、中国に渡り戦車17連隊に転属後河南作戦、湘桂作戦に参加した兵士は「何と云っても第一線はまず食糧の調達です。宿営地を決め、そして何キロも先までも現地調達のため探して歩き、籾を見付けてビンの中へ入れ、棒で突いて玄米にして、これを食べるという状態でありました。悪い事とは知りながらも、現地の農家から鶏や豚等を副食に頂戴できたら上々の方です。大部隊の通過したあとにはほとんど、食べる物資は残されていません」[165]と述べる。
1944年新規補充人馬の災難[編集]

復員局「支那方面作戦記録 第六方面軍の作戦」(1949年8月調製)では「(1944年の)湘桂作戦初期の状況として看過し得ざる重要事項の一は人馬補充の実情なり」と指摘する。この年の後半「補充兵十万余、馬匹四万に近く」が武漢に続々到着、彼らは「其の大部は未教育兵」でありながら、そこから目的地まで「自ら糧秣を収集し自活しつつ行軍せざるべからざる状況」であった。「部隊としての訓練なき是等補充人馬」は右も左もわからぬ異国の戦地のしかも敵制空権下で自活=徴発しながらの「炎熱長期の夜行軍」を強いられ「損耗極めて大にして馬匹に於て殊に著しく衡陽到著までに其の三分の一を失ひたるもの尠からず」という有様であった[166]

戦後1950年に作成された湘桂作戦についての文書では、伴健雄第34師団長が「東陽で受領した補充員は名簿上二七〇名位であったが実際部隊へ追及したものは約其の半数位であった」[167]と述べている。

行軍のつらさ、戦闘のほうが楽[編集]

広い大陸ということもあってか、行軍の苦労を回想する兵士がいる。

  • 1942年に新潟・村松町の連隊に入営し翌年から中国戦線で戦った兵士は「戦闘も苛烈でしたが、行軍のつらさはそれ以上でした。なにしろ江門から漢口まで五千キロ前後徒歩行軍ですからね。それに重装備でしょう」[168]と述べる。
  • 1943年徴兵検査を受け翌年1月に大阪で入営した兵士は湘桂作戦について「完全武装(銃・弾薬・食料・被服・その他)で重さ四〇キロを持ったり背負い、毎日四十キロを歩く。行軍する者にとっては『早く戦闘が始まれば、一時でも休めるのに』と心に思いながらの辛い行軍の毎日でした」[169]と回想する。
  • 1942年に高知の歩兵第144連隊に入隊後中国に渡り歩兵236連隊に編入、各地を転戦した兵士は湘桂作戦について「馬が弱り転落したりして、砲や機関銃も臂力搬送になる…時々爆発音がする。またついて行けなくなった補充兵が自決したのあろう」[170]と語る。
便衣(私服)戦術[編集]

日本軍はしばしば故意に軍服を脱いで一般人・現地人に変装して戦った。

北支にいた独立歩兵第6大隊第1中隊の1940年の戦闘詳報[171]には「近接を容易ならしむる為全員便衣を著し」とある。また「将来の為の参考事項」の項では「全員便衣を著したるが為敵をして誤認せしめ最初の攻撃に於て敵の意表に出でたるも爾後村落内に突入したる際後方の射撃部隊は彼我の識別困難にして為に射撃の好機を逸したることあり」とあり、良いことばかりではなかったようである。

広東省に駐屯していた輜重兵第51連隊の1941年陣中日誌には「作命甲第三二号に基き横島中尉以下二八名便衣を着用し鐘萬常の部下一味の検索に出発す」[172]とある。

北支那特別警備隊第3警備大隊第4中隊の戦闘詳報には「将来の参考となるべき事項」として「小数兵力に分散便衣化せる謀略的行動は敵及農民を欺罔し得多く成功せるも昼間制服を着用せる単一の行動は一般に失敗せり」[173]とある。

北支那特別警備隊第7警備大隊の1944年戦闘詳報には「昭和十九年十一月十二日山東省新泰県平子庄の集市を便衣着用農民商人に変装敵の虚を衝き該集市に潜入しありたる魯中軍区匪蒙陰県独立営龍延区中隊指導員楊守先以下十名を捕獲拳銃三挺を齒獲せり」[174]とある。

毒ガス[編集]

翁英作戦戦闘詳報 森川史料」(※翁英作戦は1939年12月~1940年1月の広東省での戦い)の「付表第五の二 補充及射耗調査表」[175]によると、「あか弾(※嘔吐剤)」については四一式山砲弾289発、九四式山砲弾20発、発射発煙弾100発、「きい弾(※マスタードガスルイサイト)」については四一式山砲弾30発、九四式山砲弾294発をそれぞれ「射耗」している。

歩兵第224連隊第2大隊の1940年「晋中第1期作戦戦闘詳報」[176]によると、山砲36連隊第9中隊が二週間の作戦中に「ア弾(※あか弾)」62発、「キ弾(※きい弾)47発」を「消費」している。

歩兵第157連隊第3大隊の1938年「隘口街 青石橋附近攻略戦戦闘詳報」[177]には「攻撃開始前左第一大隊と連絡し瓦斯班を差出し…敵前三〇〇米の地点にて一斉に発煙す」また「戦斗の成果並に参考となるべき所見」の項で「本戦斗に於て瓦斯使用の効果多大なるも未だ第一線歩兵は発煙直後に装面し突撃に移る動作緩慢なり」とある。

捕虜・投降兵の殺害[編集]
歩兵第157連隊第2大隊の場合[編集]

歩兵第157連隊第2大隊の文書を見ると、捕虜・投降兵の殺害を繰り返している。

歩兵第157連隊第2大隊の捕虜・投降兵に対する処置
日時 戦闘 処置
1937年10月5日~11日 薀藻浜クリーク渡河戦 備考 射殺十二名[178](※戦闘なら通常「遺棄死体」と書く)
1937年11月11~19日 大倉付近に到る追撃 俘虜 准士官・下士兵84

備考 一、嘉定北端及び大倉付近に於て捕獲其場にて射殺す[179]

1937年12月8日~

1938年1月4日

杭州攻略戦 俘虜 将校6、准士官・下士兵131

備考 一、抱家場及三橋埠付近に於て捕獲其の場にて銃殺す[180]

1938年11月5日 張公渡付近の掃蕩 一四・〇〇頃張公渡付近を掃蕩し敵敗残兵十数名を刺殺せり[181]
1939年4月23~26日 高安徐家村付近の戦闘 俘虜15(取調の上刺殺)[182]
1939年4月27~5月2日 赤土崗付近の戦闘 俘虜2(刺殺す)[183]

ここから読み取れるのは

  • 捕虜・投降兵の殺害を報告書に明記するということは、それが軍組織から容認・公認されていたことを意味する。参謀本部が作成した「対支那軍戦闘の参考」(1937年7月)では「捕虜の処置」について「捕虜は他国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず。特別の場合の外現地または他地に移し適宜処置或は釈放するを可とすること多し」と述べている。「適宜処置」は要するに殺害という意味であろう。このやり方は太平洋戦争にも受け継がれたようで、南京攻略戦など中国各地を転戦したのち対米開戦後にフィリピン攻略戦参加、そのまま現地駐屯した第16師団などで構成された渡集団(第14軍)は、1942年10月31日作戦主任者会同で「各隊に通報すべき事項」として「俘虜の取扱に就て 雑兵は現地に於て処分して可なるも後害を残さざる様注意し俘虜は軍迄送致するを要す」[184]と、やはり捕虜・投降兵殺害を容認しており、これは中国戦線のやり方をフィリピンでも行ったものと考えられる。
  • 殺害方法が銃殺から刺殺に変化している。これは弾薬の節約のためであろう。1937年10月25日付「軍参謀長注意事項」では「二、弾薬の節約について 北支及上海方面の戦闘に就て看るに歩砲各種弾薬の乱費甚だしきものあり…」[185]と記している。
独立混成第11旅団司令部の場合[編集]

独立混成第11旅団司令部は1937年7月北京近郊での戦闘について「一兵を損せずして北苑の敵の武装解除を行ひ之を占領し」「武装解除を実施するに方りて武器押収後支那兵を厳重処分するが如きことなかりしは爾後支那兵をして安んじて日本軍に帰順せしめ得るの傾向を生ぜしめたりと云ふべし」[186]と、自分たちは捕虜を「厳重処分」しなかったとわざわざ特記している。そして更に「将来参考となるべき所見」の項では「爾後の影響を顧慮し解除実施後厳重処分を実施するが如きは一考を要する所当時軍使として窪辺に来れる支那軍将校の個願せるものは一に生命の保証なりき」[187]と、「厳重処分」は考え直したほうがよいという意見も示している。

これは当時の日本軍が、通常は捕虜・投降兵を武装解除後「厳重処分」つまり殺害していたことを示している。

海軍第15防備隊の場合[編集]

海南島にいた海軍第15防備隊の「功績概見表」[188]を見ると、「刺殺」が多いのが目に付く。

海軍第15防備隊(海南島)の「支那事変功績概見表」より抜粋
日時 参加部隊 戦闘 成果
1940年11月30日 烟墩・会文 新科村上沙港付近掃蕩 刺殺45、焼却家屋50、鹵獲品小銃弾177、戎克3
1940年12月4日 烟墩 忠厚嶺甘村付近掃蕩 遺棄死体2、刺殺16、捕虜4、鹵獲品小銃1
会文 41.2高地及42.6高地掃蕩 遺棄死体3、刺殺24
1940年12月5日 会文 上沙港掃蕩 刺殺5
1940年12月7日 烟墩 竹林甘村掃蕩 遺棄死体1、刺殺15
1940年12月12日 烟墩・会文 八六高地攻撃 遺棄死体4、刺殺18、鹵獲品小銃1、弾98
1940年12月13日 烟墩・会文 白延市付近掃蕩 刺殺21

20世紀の日中戦争の時代の、しかも陸軍でなく海軍部隊が連日白兵戦で敵と斬り合ったあるいは銃剣で突き合ったというのは常識的に考えにくく、また「遺棄死体」と「刺殺」が別になっている点からも、やはり戦闘外であるいは戦闘後に、捕虜・投降兵を銃剣か軍刀で殺害したと読むのが自然である。

捕虜で銃剣訓練[編集]

日中戦争に従軍した故三笠宮は「私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした」[189]と語っている。

捕虜で刺突訓練をすることについては他にも証言がある[190][191]

軍紀[編集]

林部隊(※第15軍のこと)法務部の1943年「対住民犯に付て(口演要旨)」[192]という文書では「支那事変に至り我国としては空前とも謂ふべき対住民犯の発生を見、殊に事変初期南京陥落迄の間この忌むべき犯行が各所に於て頻々と行はれ軍の威信を損じたるものありたるは遺憾に堪へず」とする。

北支にいた第12軍参謀長河野悦次郎から北支那方面軍参謀長安達二十三宛の「陸軍刑法改正意見提出の件」では、強姦について「戦地に於ける強姦は軍紀を破壊し軍の爾他の宣撫工作を一切無効ならしむ 又被害者に於て後難を恐れ告訴を躊躇する場合極めて多きを以て非親告罪として処分するの要あり」[193]と述べている。

軍政[編集]

南支にいた台湾歩兵第一連隊が高嶋辰彦連隊長(陸軍少将)だった1941年3月3日付で出された「北海(※海南島北方でベトナム国境に近い)周辺に対する軍政布告」[194]では次のように述べている。

五、左記各号の行為を禁ず之を犯す者は各々下記を以て処断す

(一)住民の住所外逃亡を禁ず犯すものは生命財産の安全を保障せず特に交通機関を拉して逃亡せんとする者は極刑とす

(二)皇軍に反抗する者は当事者は極刑とし連繋者少くも三十名を死刑とす

(三)放火及物資償却を禁ず犯す者は極刑、其付近にある者及連繋者少くも三十名を死刑とす

(四)通敵匪を隠匿し又は遁逃せしむることを禁ず犯す者は元凶を極刑、連繋者少くも一〇名を死刑とす

(五)外界に通信し其他皇軍の行動に関し他に通報することを禁ず犯す者は極刑とす

(六)資材物件を隠匿し又は許可なくして之を他の名義に変更することを禁ず犯す者は生命を保障せず又財産を没収す共犯は同断を以て罰す

(七)第三国々権を詐り掲げ又は其の関係を詐称する者は極刑とす遽かに其庇護下にかくれて禁を犯さんとする者も亦同じ之を認むる第三国人の生命及権益は之を保障せず

(八)通貨は自今皇軍軍票とす但し当分の間法幣の通用を許す法幣其の他の外貨を所持する者は本布告後十日以内に軍政署に交換を申出づべし皇軍軍票を拒み又は法幣を隠匿する者は生命財産を保証せず

(九)禁を犯す者にして情状死に当らざる者は百元以上の罰金に処し或は之に相当する人質、物件を提供せしむ

皇協軍[編集]

日本に協力した現地人兵力は、「支那方面作戦記録 支那派遣軍の統帥」(復員局1949年8月調製)によれば、「汪政権に属する軍隊は約三〇万にして其の他保安隊警察隊等を合すれば約九〇万に及ぶ武力を有しありと雖も之等の戦意及能力は極めて低劣なるのみならず汪政権官吏と共に貪汚を恣にしありて和平地区に於ける治安不良の最大原因を形成しあるが如し」[195]

1948年10月付の「第三十軍作戦記録追加(新京秘話)」には「満軍の背叛に伴ふ市内の銃声」とある。また次の話も出てくる。

軍装・装備
戦法・戦術
主に共産党勢力と交戦。
参加部隊
和平建国軍

満州国軍[編集]

昭和25年10月復員局調製「対蘇作戦記録」[196]によると、関東軍はソ連参戦に備えてあらかじめ満州国軍の反乱防止策・戦力削減を行っていた。しかしそれでも「満州国軍隊は其の大部反乱するに至りたり」となった。

復員局資料調製部「第三十軍作戦記録」(1948年8月)[197]は「旧中佐桑正彦がソ連より帰還後其の記憶を辿り記述せるものなり」という性格の資料だが、終戦当時第三十軍参謀だった桑は次のように述べる。

(1945年8月)十四日より伊通河正面にありし満州国軍逐次背叛し新京市内の各所に於て小戦を惹起す

三、満州国軍の背叛

1、十三日新京防御に関する軍命令に基き禁衛団占領地区の配備変更(配備変更を満州国軍に対する武装解除と誤断せり)に端を発し十四日朝来新京市内に於て日満軍衝突するに至れり

禁衛団と第百四十八師団の一部との衝突なりしも軍官学校内の日系満系軍官の衝突となり遂に新京市内日本人対満州国人の衝突□発展せり

十五日は旧城内地区と其の他の地区とは画然たる敵味方として対峙するに到り十九日ソ軍の進駐する迠新京市内は銃声絶ゆることなく騒然たり

2、十五日終戦と同時に満系市民の掠奪行為開始され補給諸廠・兵営・官舎地帯は彼等の執拗なる襲撃を受くるに到れり

また「第三十軍作戦記録追加(新京秘話)」(1948年10月)[198]には「満軍の背叛に伴ふ市内の銃声を聞く度に…」とある。また次の話も出てくる。

(1945年8月)十五日それからぬか情報主任参謀の少佐山岸武が戦車第三十五連隊の中隊長戦車の天蓋に乗って城内を偵察に出かけ又止せばよいのに関東軍参謀少佐入江義十郎が一緒に乗って行った

戦車の進出は満軍の敵愾心を煽るだけであるので堅く城内進出を禁じてあったが案の定城内で忽ち両側の建築物二階から手榴弾を乱投され戦車は急遽反転して帰へって来たが天蓋上の二名は戦死してしまった

山岸参謀は宝山デパートの前に投げ出され入江参謀は関東軍憲兵司令部の前に投げ出され戦車は関東軍司令部左前の四又〔ママ〕路で炎上していた

第135師団参謀長[199]井上敏助大佐は次のように述べる。

満州国軍の状況

満州国軍の一部(宝清駐屯の部隊)は日本軍指導の下に麻山の前進陣地構築に協力しありたるがソ軍参戦とともに叛乱し又勃利駐屯の満軍部隊も叛乱し師長以下日系将校は逸早く部隊を離れざるべからざる状況となれり

此等満軍叛乱部隊は徒歩にて避難する一般邦人、開拓団員に対し略奪、暴行、虚〔ママ〕殺等凡ゆる残虚〔ママ〕行為に及べり[200]

内蒙軍
華北治安軍

中国国民革命軍(蒋介石)[編集]

軍装・装備・兵力[編集]

1937年時点で198師団、総兵力225万人[24]

1943年8月時点で「重慶軍総兵力約二九六師二九〇万」「対日継戦意識は牢固たるものあり」[201]

参加部隊[編集]
戦闘序列については以下を参照
国民革命軍戦闘序列 (1937年)
国民革命軍戦闘序列 (1938年)
国民革命軍戦闘序列 (1939年)
国民革命軍戦闘序列 (1944年)
中国住民の徴発[編集]

日中戦争期間中に国民政府徴発した兵士の総数は約1405万人である。動員を可能にすべく1936年から開始された義務兵役制度は、容易に軌道に乗ることはなく、当初は、名は徴兵であるが、実際は募兵拉致であったとされる[202]拉致被害者で目立つのは、他地域の住民や旅行中の行商人糧食などの運搬労働者であり、博徒乞食なども含まれていた[202]

戦法・戦術[編集]

日本の中国進出に対して国際社会の干渉を生じさせる「遠くの敵を近くの敵にけしかける」「蛮族を制するに蛮族をもってする」という中国伝統の戦術によってソ連アメリカ合衆国の支援をとりつけた[203]
国民党軍では赤軍の手法を模倣し、督戦隊制度を導入した。当時、中国では分裂国家で統一国家ではなく、日本のような教育や軍事教練なども十分に行われなかったこともあり、中国共産党軍は便衣兵ゲリラ戦による奇襲攻撃を主な戦法とした。また、兵士には戦争目的の認識や士気が低かったことから兵士の戦闘意欲高揚と戦線離脱防止を目的として、トーチカを守備する兵士や民間人(民兵)の足に鎖をつけ、後方から督戦隊を配置して逃亡を防ぎ、最後まで交戦をさせた[注釈 16]
末期の米空軍との共同作戦と中国軍自体の米式化[編集]

復員局「支那方面作戦記録 第六方面軍の作戦」(1949年8月調製)によれば、1945年4月の状況として、米空軍が輸送・攻撃両面で中国軍に協力し攻勢に転じて来たとある。特に米空軍による兵力輸送について「四日間に約一箇師団の割合を以て月末頃連続十数日に亘り新編第六軍を空輸せり」と記している。また中国軍の米式化が装備だけでなく戦術面にも及びつつあり「従来の支那軍に比し進歩の跡顕著」とする[204]

ビルマの第18師団から参謀本部第11課へ転任した戸梶少佐が記した「北部ビルマの諸問題」[205](1944年5月)でも「米軍装備の重慶軍」の項で「アッサムから前進中の新編第一軍は率直に言へば其の装備、戦意、戦法、訓練共に相当なものである。…加之優勢なる米空軍の協力を受け戦車を有し」「自動小銃を多数有して居り」「「弾丸は無尽蔵に近い」「戦法は徹底して米軍式であり」[206]とする。

士気[編集]

ビルマの第18師団から参謀本部第11課へ転任した戸梶少佐が記した「北部ビルマの諸問題」(1944年5月)の「米軍装備の重慶軍」[207]の項では次のように述べる。

5.戦意

突撃した兵に組付いて来る、逃げない。兎に角戦意は盛である

問 我々の敵は何人であるか

答 日本、独逸、伊太利であり最悪の敵は日本軍である

問 日本軍は何故最悪の敵であるか

答 我が国を侵略し我が同胞を殺戮し云々

以下、問答で簡単明瞭なる精神教育ー戦争目的を書いたものを皆物入に入れてゐること、恰も吾が軍人が軍隊手帳を持ち戦陣訓を持ってゐると同様である

日本軍を撃退せねば故国は救はれないと云ふ考は切実で無くともビルマの日本軍を撃破せねば父母妻子の所へは帰れぬと云ふことは切実である

6。白人に対する態度

好感は全然もってゐない

白人の横暴に憤慨しつつ「我々は日本を撃破したる後白人に対して如何に対す可きや」とインテリ支那商工の日記は諸所に記してある

唯、今の所日本に対する敵愾心に比すれば問題にならぬ程度である。…

呂集団(※第11軍のこと)参謀部「宜昌作戦に基く敵軍其他観察資料」(1940年7月)では次のように述べる。

五、戦意に就て 1.敵軍の戦意は依然之を軽視するを得ず指揮官に於て特に然り今次作戦に於て相当無理と思はるる命令に対しても各軍、師は兎も角も之を迅速に実行し側撃、挟撃、截撃等相当攻勢的行動を採り寧ろ従来に比し其対策常に積極的にして抗戦意志の旺盛なるを示し作戦当初に於ては寧ろ意外の感さへ懐きたり[208]

波集団(※第23軍のこと)司令部「南支那軍内情の一端」(1939年5月)では次のように述べる。

必勝の信念の徹底に就ては支那軍幹部も大に努力しあるものの如く又其徹底も良好なるものあるを看取せらる、支那軍第一線部隊の強靭性は其素因一に此点にあるを思はしむ

左に二、三の事例を挙ぐ

1、四月攻勢に於て獲たる捕虜の訊問(該捕虜は炊事兵、輸送兵等下級兵士にして能力低きものなり)

問 お前等は日本軍と戦て勝てると思ふか

答 勝てると思はねば戦へません

問 飛行機もなく大砲も少くてどうして勝てると思ふか

答 華軍は兵器の装備は悪いが兵は精神的に大に日軍に優て居ります、加ふるに華国は土地広く物資豊にして長期抗戦すれば必ず勝利は華軍にあります

(略)

郷土愛に基く敵愾心

広東軍の幹部の大部は広東人にして其士兵亦南方人(福建、広東、広西省人)なり

由来南方人特に広州族は自尊心強く従って排外意識に燃え且好んで反抗す又はなはだ感激性強くして一度憤激するときは一命を投げ出して尚惜まざる決断をなす…然るに今や皇軍の為彼等の郷土は蹂躙せられ豊尭なるべき珠江デルター地帯に於てすら米飢饉に悩み広東、石龍等の市街地は爆破せられて惨状を呈し住むに家なく多数の民衆を生ぜり悲憤慷慨する亦道理なり[209]

中国共産党軍(毛沢東)[編集]

軍装・装備・兵力[編集]

中国共産党軍:1937年時点で総兵力20万人[24]

1939年2月16日付の杉山部隊(※北支那方面軍のこと)参謀部「北支に於ける共産軍の兵力及装備」では「第八路軍の一月現在人員(遊撃隊及傷病者を除く)」を119,678人、また兵器類については「小銃(歩兵銃及騎兵銃)62,847 重機関銃141 軽機関銃908」などとする[210]

1941年1月調製「北支方面共産軍配置要図(於昭和十四年九月下旬)」では、「正規部隊」約14万「遊撃隊」11万、「郷村自衛部隊」50万乃至60万で「人員概計」約80万とする[211]

1941年2月26日付北支那方面軍司令部「昭和十六年度粛清建設計画」の「北支方面占拠地域内敵兵力」では1940年8月時点の共産軍は「正規軍」14万「共産系遊撃隊及同色彩ある匪団」16万で計30万人となっている[212]

1941年7月4日付北支那方面軍司令部「北支那方面敵情要図(昭和十六年十一月下旬に於ける)」では「北支共産軍(除地方遊撃隊、自衛隊)」の「兵力概数」を32万としている[213]

甲集団(※北支那方面軍)参謀部「剿共指針 第一巻」(1944年4月)の「中国共産軍の現況」の章では、1943年12月時点の数字として、八路軍(第十八集団軍)18万5千、新四軍4万の合計約22万5千としており、さらに「右の外北支には約六十万の地方遊撃隊ありて之が活動は軽視を許さざるものあり」と付け加えている[214]

1943年北支那特別警備隊第3警備大隊第5中隊の戦闘詳報では「(八路軍の)第十一団、第十二団は冀東中共の基幹隊にして其の戦力認むべきものあり。」「兵員は強制徴募によらず遊撃地域内貧農階級の青年子弟が志願入隊せるもの多く」「隊内秩律相当高度のものあり」とする[215]

戦法・戦術[編集]

遊撃戦[編集]

当時から「遊撃戦」(ゲリラ戦)が有名で第一復員局「支那方面作戦記録」では「敵の行ふ我に対する対策中遊撃戦は兵力寡少の我軍の最も苦手とする所なり。殊に共産軍は其の行動巧妙にして…」と述べている[216]

  • 1942年大阪毎日新聞記事に「現在この共産党・軍を相手に第一線部隊長として活躍している大平秀雄氏(前大本営陸軍報道部長)はわれわれですら東京に在った当時を省みれば、共産軍の実体について認識の欠けていたことを痛感する、現地に来て遊撃戦なるものの正体に接しその始末の悪さにびっくりしている有様だと述懐しているほどである」とある[217]
多勢には引き、少ない相手には攻める[編集]

独立混成第2旅団独立歩兵第4大隊柴本小隊の1938年9月戦闘詳報では「第八路軍は相当勇敢なり特に我が劣勢なりと見極めたる場合に於て益々然り」[218]と述べる。

北支那特別警備隊第3警備大隊第5中隊の1943~44年戦闘詳報では「(共産軍は)劣勢なる中国側部隊日軍小部隊に対しては埋伏掩撃等謀略的奇襲を加へんとするも有力部隊に対しては専ら交戦を避け我屡次の討伐作戦にもその大なる機動力を以て巧妙に包囲圏内より逸脱しあり」[219]とする。

1942年に再召集され山西省で戦った兵士は「山西省は共産八路軍との戦闘が多かった…共産軍は日本軍が強ければ攻めず、兵力が少ないと襲撃したり包囲するのである」と語る[220]

1943年の徴兵検査で入隊し山西省や河北省老河口で戦った兵士は「住民は情報を八路軍に知らせていたので、その少ない兵力の所へ八路軍は襲撃して来るのです」と回想する[221]

鉄道・通信の破壊[編集]

舞部隊(第36師団)本部の1940年6月「春季晋南作戦の教訓」では八路軍について「我が鉄道道路通信線を破壊するに当りては穏密と強行との二方法を採用しあり」[222]とする。

第一復員局1946年調製「支那方面作戦記録. 第一巻」では「殊に共産軍は其の行動巧妙にして…攪乱工作の主なるものは我が分散配置せる警備隊に対する奇襲、交通線たる鉄道道路通信線の破壊、共産工作を推進、住民を我より離間せんとする宣伝等」[223]と記している。

宣伝・教化[編集]

杉山部隊(北支那方面軍のこと)本部の1939年1月11日付「北支に於ける共産軍の現勢強化工作並民衆の抗日意識」では、郵便物検閲の結果「支那民衆の普通郵便物中抗日的内容のものは親日的内容のものに比し約八倍」だったと紹介し、「結論」では「共産党側の教化工作と宣伝工作とは熱烈にして巧妙且組織的なり。北支民衆は依然彼等に獲得せられつつあり」という認識を示している[224]

1943年第1軍参謀長花谷正の名前で配布された教育資料には「八路軍の如き抗日意識極めて旺盛にして政治的思想的戦術に特技を有するのみならず、武力戦法に於ても相当見るべきものを持つ敵」とある[225]

軍紀[編集]

日中戦争に従軍した故三笠宮は著書で「大同の石仏で名高い山西省の山の中で、日本軍は八路軍と対峙していた。…かれらの対民衆、ことに対婦人軍紀はおどろくほど厳粛であった。ある北支軍の参謀は『八路軍の兵士は男性としての機能が日本人とすこしちがうのではなかろうか。』とさえ語った。読者はこれを笑い話とお考えになるかもしれないが、当時としては、けっして笑い話どころのさわぎではないのであって、これを裏がえせば、とりもなおさずわれわれの軍自体に対する痛烈な批判にほかならなかったのである。」[226]と記している。

中国民衆の意識[編集]

杉山部隊(※北支方面軍のこと)本部「北支に於ける共産軍の現勢教化工作並民衆の抗日意識」(1939年1月)によると、

三、抗日的郵便物の内容(別冊 参照)

支那民衆の手紙に表現せられたる抗日意識を仔細に点検するに愛国的熱情を盛れるもの決して尠しとせず、出征兵士を激励する父母、兄弟姉妹朋友等の態度は皇国に於けるものと類似せるものあり。

是等手紙は皇軍の直接占拠せざる地域より発せらるると共に皇軍が直接警備せる都市、鉄道沿線よりも亦発せらるもの少からざるの事実に鑑るに民衆獲得の容易の業にあらざるを認む。[227]

戦後1950年に作成された湘桂作戦についての文書は「土民特に広西省民の敵意旺盛にして将兵の之による損害尠なくない」[228]と記す。

ソ連軍[編集]

極東ソ連軍兵力(日本参謀本部の判断に基く)[229][230]
年次 狙撃師団 騎兵師団 戦車数 飛行機数 潜水艦数 総兵力 備考
1937 約20 3 約1,500 約1,560 67 約37万 乾岔子事件、日華事件勃発
1938 約24 2~3 約1,900 約2,000 75 約45万 張鼓峰事件
1939 約30 2~3 約2,200 約2,500 90 約57万 ノモンハン事件
1940 約30 2 約2,700 約2,800 103 約70万
1941 約23 2 約1,000 約1,000 105 約60万 日ソ中立条約独ソ開戦
1942 約20 2 800~1,000 約1,000 105 約50万
1943 約19 2 800~1,000 1,100 108 約50万
1944 約19

別に旅団若干

2 1,000 1,500 108 約70万
1945 約45 2 4,500 6,500 108 約160万
1944年末から終戦までの極東ソ連軍増強(日本大本営の判断)[231]
時期 兵員数 飛行機数 戦車数
1944年末 70万 1,500 1,000
1945年1月末 75万 1,700 1,000
〃4月末 85万 3,500 1,300
〃5月末 103万 4,500 2,000
〃6月末 130万 5,600 3,000
〃8月上旬 160万 6,500 4,500

「支那方面作戦記録 支那派遣軍の統帥」(復員局1949年8月調製)によれば、「外蒙には機械化二ヶ師団を基幹とする蘇軍第十七軍及蘇空軍三ヶ連隊並に外蒙軍約三万を有す」[232]

軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊
ソ連空軍志願隊
イギリス軍・アメリカ軍
軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊
アメリカ合衆国義勇軍(AVG)

日中戦争の被害[編集]

日本軍の犠牲者数
  • 総計44万6500人(陸軍38万4900人、海軍7600人、終戦後の死亡5万4000人)[233]——70万人とも[234]。また関東軍はソ連軍に降伏し、60万がシベリアなどに抑留、6万人が犠牲になった[233]
中国の犠牲者数
発表年 死傷人数 調査・出典 補足
1946年 軍人作戰死亡132万8501 中華民國國防部・発表[235] 国民革命軍のみ
1947年 平民死亡439万7504 中華民國行政院賠償委員會[236][237] 國民黨統治區
1947年 軍民死傷1278万4974 中華民國行政院賠償委員會[236][237] 國民黨統治區·軍人死傷365萬0405·平民死傷913萬4569
1985年 軍民死亡2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1995年 軍民死傷約3500万 江沢民発表[238] 江沢民、纪念抗日战争胜利五十周年大会上的讲话

上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国国民革命軍のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。[要出典]当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蔣介石国民革命軍・共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、農業や商業、工業、運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に食糧徴発されたことや焦土作戦の影響で飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。(中国空軍の上海爆撃 (1937年)を参照)。

以下、各犠牲者数について注釈する。

  • 終戦時132万人
    • 【国民政府統計】中華民国軍令部統計:中華民国「陸軍」戦争犠牲者131万9958人[237][239]
    • 【国民政府統計】1946年中華民国国防部初歩調査にある(1947年5月中華民国行政院賠償委員会引用),「軍人戦死者数132万8501人」は「中華民国国軍」のみで、民間人または共産党軍隊の死亡者、病死者、徴兵時に失った国軍数等は含まれていない[240]
  • 1948年438万人
    • 【国民政府統計】439万7504人。1947年中華民国行政院賠償委員会の「民間人死亡者数」に関した統計に近い[240]。これは「国民党統治区域」に限っての初歩調査に浮かんだ民間人死亡者数であり、共産党統治区域の一般人死亡者数は含まれていないと思われる[237]
  • 1950年1000万人
    • 【共産党発表】蔣介石が1947年に言った「軍民犠牲者一千万人」が始まりで、概数である[237]
    • 【国民政府統計】1947年5月中華民国行政院賠償委員会によると、軍人死傷者365万0405、一般人死傷者913万4569。ただし共産党軍と共産党根拠地の数字は含まれていないと思われる。
  • 1985年2100万人
    • 【共産党発表】原文は発見されていない。おそらく「全国軍民死亡」者数を指すであろう。軍隊戦死者100万余り、民間人約2000万。詳細は次に述べる。
  • 1995年3500万人
    • 【中国共産党中央委員会総書記江沢民発言】[241]「犠牲者数」ではなく、「死傷人数」をさす。数字の初めの出所は中国の軍事科学院軍事歴史研究部の研究である。1995年出版の『中国抗日戦争史』の概算統計によると、抗日戦争期間中の中国軍隊死傷者380万人余、中国人民犠牲者2000万人余、中国軍民死傷者総数が3500万人以上に達した[242]

国共内戦[編集]

太平洋戦争および日中戦争の終結前後に、蔣介石率いる中国国民革命軍と毛沢東率いる中国共産党軍の間で国共内戦の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは上党戦役など内戦がはじまった。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、1946年6月に、蔣介石率いる国民革命軍が全面侵攻命令を発した。1949年から1950年にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蔣介石らは台湾へ逃れ、中華人民共和国が成立した。

残留日本兵と残留日本人[編集]

国民党の蔣介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[243] が、中国共産党軍は、シベリア抑留と同様に多くの日本人を強制連行・留用し、特に医療や建設関係に従事させた。また1946年2月3日には、八路軍の圧政に蜂起した日本人だけでなく蜂起していない日本人も大量に虐殺される通化事件が発生した。

戦後処理と戦争賠償[編集]

サンフランシスコ平和条約[編集]

朝鮮戦争中の1951年9月8日サンフランシスコで調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で連合国は全ての賠償請求権を放棄するとされた[注釈 17]。しかし、国共内戦の敗北によって蔣介石ら中華民国国民党は1949年12月に台湾に移転し、同時に中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言しており、二国に分かれていた両国は、アメリカが中華民国を、イギリスが中華人民共和国を別々に承認することもあって、不参加となった[244][245]。また日本は平和条約にしたがって連合国に以下賠償した[246]

  • フィリピンに5億5千万ドル
  • ベトナムに3900万ドル相当の役務と生産物
  • 連合国領域内の約40億ドル(日本円で1兆4400億円、昭和26年での一般会計歳入は約8954億円)の日本人資産は連合国に没収され、収益は各国国民に分配。
  • 中立国および連合国の敵国にある財産と等価の資金として450万ポンドを赤十字国際委員会に引き渡し、14国合計20万人の日本軍元捕虜に分配。
  • 日本財産は朝鮮702億5600万円、台湾425億4200万円、中華民国東北1465億3200万円、華北554億3700万円、華中華南が367億1800万円、その他樺太、南洋など280億1400万円、合計3794億9900万円が連合国に引き渡された。

1945年8月5日の外務省調査では日本の在中華圏資産は、中華民国921億5500万円、満州1465億3200万円、台湾425億4200万円で合計2812億2900万円で、これは現在[いつ?]の価値で56兆2458億円となる(企業物価指数戦前基準)[247]

このように連合国国内のみならず、中国、台湾、朝鮮にあった一般国民の在外資産まで接収され、さらに中立国にあった日本国民の財産までもが賠償の原資とされた「過酷な負担の見返り」として、請求権が放棄された[246]

日華平和条約 (1952)[編集]

サンフランシスコ平和条約締結の翌年、1952年4月28日には台北日華平和条約が調印され、中華民国は日本への賠償請求を放棄した[注釈 18][245]。交換公文では「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」が適用範囲とされた[245]

日中共同声明 (1972)[編集]

1971年10月25日、国連でアルバニア決議が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、中華人民共和国が中国の代表権を得た。1972年2月にニクソン大統領の中国訪問が実現し米中が接近するのと並行して日中国交正常化も進展し、1972年9月には日中共同声明周恩来国務院総理田中角栄内閣総理大臣によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、中華人民共和国は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された[244][249]。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、日中平和友好条約が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で覇権を求めないと規定された[250]。なお1979年には米中が国交正常化した

日本は中華人民共和国に対し政府開発援助(ODA)を実施し、1979年から2013年度までに有償資金協力(円借款)約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した[251]。廃止の方向にあるODAに変わって、財務省影響下のアジア開発銀行が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり[252]、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という主張がある[253][254]

日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している[注釈 19]江沢民も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している[256]

また華人労務者への個人賠償が争われた西松建設会社事件での最高裁判決(2007年4月27日)では、サンフランシスコ平和条約は、個人の請求権を含めて、戦争中に生じたすべての請求権を放棄した。また日中共同声明も同様であるとされた[注釈 20][244][257][258]。また、重慶爆撃訴訟の東京地裁判決(2015年2月25日)では、国際法の法主体は国家であって個人ではない。また国家でさえ、戦争被害については、国家責任を規定する国際法だけでは賠償を受けることができず、賠償に関する国家間の外交交渉によって合意される必要があるとし、個人の戦争被害については国家間での処理が原則とした。またハーグ陸戦条約第3条も国家間の賠償責任を規定するもので、個人に賠償請求権を付与するものではない、と判決した。

評価[編集]

当時[いつ?]関東軍参謀だった瀬島龍三は、「満洲を建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」と戦後の談話で述べた[259]

南京戦陥落直後の1937年12月19日に読売新聞は「日本は初めこの事変をこうまで拡大する意志はなかった。支那に引張られてやむを得ず、上海から南京まで行かざるを得なかった」として、事変の序幕は西安事件で蔣介石が共産党と妥協させられてからで、それ以降は「共産党戦術」が著しく、「支那と日本と大戦争をやらすのが共産党の利益であると打算しているようであった」と報道した[260]

また同月に報知新聞も西安事件以来南京政府は大きく変化し、「政治的には国共合作後の共産党的圧力、経済的には在支権益を確保せんとするイギリス資本の掩護、思想的にはソヴィエト流の抗日救国の情熱、それ等が決河の勢いをなして北支に逆流し、ついには上海における計画的挑戦の暴露となり、戦局の急速なる拡大となってしまった 」とし、「今度の事変が決して支那と日本との問題でなく実に支那を舞台とするイギリスとソヴィエトの動きを除いては事変そのものすら考え得られないということも次第に明かとなり、東洋における防共と反英運動とが新らしい政治的課題として登場して来た」と回顧した[261]。また、イギリスは表面は不干渉を表明したが、南京政府への支援を続け、さらに米国を巻き込むことに成功したと報じた[262]

田母神俊雄(当時航空幕僚長)は、日本は国際法上合法的に中国大陸に権益を得て比較的穏健な内地化を進めようとしていたが、コミンテルンの工作によって蔣介石の国民党や中国共産党からの度重なるテロ行為に干渉され、またベノナファイルで明かになったように中国と同じくコミンテルンの工作を受けたアメリカに介入され、結果的に日中戦争に引きずり込まれることとなったと論じた[263]。しかし、政府と防衛省幹部が内容に問題にあるとして田母神は浜田靖一防衛大臣から更迭された(田母神論文問題)[264]小堀桂一郎中西輝政西尾幹二などは田母神論文の内容を支持し[265]森本敏小林節纐纈厚笠原十九司水島朝穂らは論文を批判した[266][267]

また、「盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いなく、一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである[268][誰によって?]」とする評価もある。

中川八洋は、計画経済体制の導入、日本の対ソ戦能力の低下、中国の共産化のために、近衛文麿が小事件を戦争まで拡大し、長期化させた、と評している[269]

日中戦争を題材とした作品[編集]

Category:日中戦争を題材とした作品」を参照

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 「惨勝」[1]
  2. ^ 「アジア大陸において日本は、連合国の一員であった中華民国に敗北し、中国は自らの勝利を[惨勝]と称した。」[2]
  3. ^ 「「惨勝」(惨儋たる勝利)と呼ばれるような終止符」[3]
  4. ^ 「惨たんたる状態で迎えたこの勝利は、あまりにも大きな犠牲をしいられた「惨勝」であったというほかはない。」[4]
  5. ^ 「中国内部の国民党と共産党や中間派との軋轢など、いろいろな問題を内包しながらも四五年八月一五日、中国と連合国とは勝利した。」[5]
  6. ^ 日支事変 (満洲事変上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変とも呼称される。
  7. ^ 中国語圏では、抗日戦争[6]八年抗戰中日戰爭中国抗日戦争中国人民抗日战争八年抗戦などと呼称される。
  8. ^ 英語圏では、1894年 - 1895年日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年 - 1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。
  9. ^ 当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了[25]
  10. ^ 「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」[33]
  11. ^ 「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」[35]
  12. ^ 「[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。」[36]
  13. ^ 「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」[37]
  14. ^ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)[要ページ番号]
  15. ^ 当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた
  16. ^ この状況は1939年に作成された日本映画『土と兵隊』(田坂具隆監督)にも描写されている。
  17. ^ 日本国との平和条約第14条(b)「連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄」
  18. ^ 「中華民国は日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、日本国が提供すべき役務の利益(賠償)を自発的に放棄する」[248]
  19. ^ 第174回国会衆議院法務委員会(2010年5月11日)における西村智奈美外務大臣政務官の発言「サンフランシスコ平和条約十四条と日華平和条約の関係からまず申し上げますと、日華平和条約第十一条及びサンフランシスコ平和条約第十四条(b)により、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権は放棄されております。一九七二年の日中共同声明第五項に言うところの戦争賠償の請求は、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権を含むものとして、中華人民共和国政府がその放棄を宣言したものでございます。したがって、さきの大戦に係る日中間における請求権の問題につきましては、個人の請求権の問題も含めて、一九七二年の日中共同声明発出後、存在しておらず、このような認識は中国側も同様であるというふうに認識をしております。」[255]
  20. ^ 「サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたものと解することはできない」。また条約法に関するウィーン条約34条では第三国の義務や権利を当該国の同意なしに創設できない、35条では当該国が書面により当該義務を明示的に受け入れる場合に限って義務を負うと定めており、中国はサンフランシスコ平和条約と日中共同声明の枠組みを肯定しており、それ以外の義務を書面で確約したことはない。

出典[編集]

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  89. ^ 支那方面作戦記録 : 第六方面軍の作戦』第一復員局、1949年、195頁。「湘桂作戦開始頃に於ては方面軍の保有弾薬は方面軍の兵力に応ずる約一会戦分を保有しありしが其の後の損耗と五箇師団分の転用とに依り将来方面軍の使用し得る弾薬の総量は各兵団の携行せる分を合するも当時現存せる兵力に応ずる約〇、六会戦分に過ぎず特に対空火器の弾薬は約〇、二ー〇、三会戦分程度に過ぎざる状況に在り」
  90. ^ 支那方面作戦記録 : 支那派遣軍の統帥』復員局、1949年、12,13。
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  96. ^ 支那方面作戦記録 : 支那派遣軍の統帥』復員局、1944年、7頁。「第二章 八月初頭(※1943年)に於ける派遣軍態勢 二、敵情 2、空軍 在支米空軍は既に約一三〇機を算するに至り主として西南支航空基地を利用して其の活動逐次積極化し一方奥地中北支航空基地を利用する重慶空軍約二〇〇機を指導し逐次連合空軍化しつつあり」
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参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]