日中戦争

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日中戦争
Map showing the extent of Japanese control in 1940
戦争日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争の一部となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中華民国内蒙古華北華中華南)、イギリス領ビルマ
結果:中華民国[注釈 1][注釈 2][注釈 3][注釈 4]連合国の勝利[5][2]
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国の旗 満州国(1932-)
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府(1939-)
中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権)汪兆銘政権(1940-)
中華民国の旗 中華民国
National Flag of Chinese Soviet Republic.svg 中国共産党(1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(1941-)
イギリスの旗 イギリス帝国(1941-)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(1945-)
指導者・指揮官
大日本帝国 香月清司(1937-38)
大日本帝国 松井石根(1937-38)
大日本帝国 朝香宮鳩彦王(1937-38)
大日本帝国 西尾寿造(1939-41)
大日本帝国 畑俊六(1941-44)
大日本帝国 岡村寧次(1944-45)
満州国 張景恵
Flag of the Mengjiang.svg デムチュクドンロブ(1939-1945)
中華民国の旗 汪兆銘(1940-1944)
中華民国の旗 陳公博(1944-1945)
中華民国 蒋介石
中華民国 何応欽
中華民国 徐永昌
中華民国 陳誠
中華民国 李宗仁
中華民国 閻錫山
中國工農紅軍軍旗.svg 毛沢東
中國工農紅軍軍旗.svg 朱徳
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・スティルウェル(1941-44)
アメリカ合衆国の旗 クレア・リー・シェンノート(1941-44)
アメリカ合衆国の旗 アルバート・ウェデマイヤー(1944-45)
イギリスの旗 ルイス・マウントバッテン(1941-45)
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国中華民国の間で行われた戦争である[注釈 5][注釈 6][注釈 7]

呼称[編集]

1937年7月11日に近衛内閣は、7日から北京周辺で発生した戦闘を「北支事変」とした。8月13日から上海でも戦闘が発生し戦線が北支と南支に及んだので、9月2日に「支那事変」とする事を閣議決定した[7][8]。1941年12月12日に時の東條内閣は、8日の対米英宣戦布告に伴い、支那事変も含めた今回の戦争を「大東亜戦争」にする事を閣議決定した[9]。大東亜戦争の開始日は1937年7月7日となった。なお、中国側は「中国抗日戦争」と称している。

戦争ではなく事変とされたのは、単に日中両政府が互いに宣戦布告を行なわなかったからである。その理由としては、正式な戦争状態になるとアメリカ政府の中立法が発動されてしまい、対米貿易に制限が掛けられる事を日中双方が嫌ったためだと言われている。中国側は特に軍需品の輸入に問題が生じることを懸念しており[10]、日本側は早期収拾の機会を常に伺っていた[8]

時期区分[編集]

日中戦争期間の一般的な見解は1937年〜1945年までであるが[11]、日本では歴史認識の違いによってその位置付けが大東亜戦争十五年戦争アジア太平洋戦争のどれかに分かれており様々な解釈がある[12]臼井勝美は「前史:塘沽協定 - 盧溝橋事件」「一期:盧溝橋事件 - 太平洋戦争開幕」「二期:太平洋戦争 - 終戦」の三期に区分している[13]小林英夫は「前史:満洲事変 - 盧溝橋事件」「一期:盧溝橋事件 - 武漢攻略」「二期:武漢攻略 - 太平洋戦争開幕」「三期:太平洋戦争 - 終戦」の四期に区分している[14]

中国共産党の公式見解としては、抗日戦争の開始は1935年の抗日人民宣言、または1937年の七七事変(盧溝橋事件)とされていたが、2017年1月に中国教育省は従来の歴史教科書にある「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、満州事変の口火となった柳条湖事件発生時の1931年まで遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した[15]。それに伴い中国抗日戦争の期間は1931年〜1945年となった。

前史[編集]

「安内攘外」と「和協外交」[編集]

1931年9月18日の柳条湖事件に端を発する満洲事変は、1932年3月1日の満洲国の樹立を経て、熱河作戦終結時の1933年5月31日に締結された塘沽協定により一応終結した。同協定で、長城線以南に非武装地帯が設定され、大日本帝国は北支五省の独立自治運動の拠点を獲得し、満洲国は中華民国により黙認された。国民党は、汪兆銘の両国の関係改善の希望もあり、先ず共産党に対する囲剿戦に全力を傾け国内と統一してから日本と戦う「安内攘外」を基本方針に採用した。広田弘毅外相は「和協外交」を提唱し、排日・排日貨運動も沈静化し、両国は公使館を大使館に昇格させた[16][17]

北支自治運動―華北分離工作[編集]

支那駐屯軍関東軍など日本現地軍は、1935年5月2日深夜の天津日本租界事件を契機に、河北省察哈爾省から国民党の排除を図り、6月、所謂梅津・何応欽協定を締結し、藍衣社の北支からの撤退、河北省主席于学忠の罷免などを実現させた。国民政府は、「邦交敦睦令」を発し排日行為を禁止した。その後、現地日本軍は、二十九軍が日本人を拘禁した張北事件中国語版などを理由に、土肥原・秦徳純協定を締結し、察哈爾省東北部の二十九軍を河北省に移駐させることを了承させた[16][17]。そして、旧軍閥で二十九軍長宋哲元 を中心に北支五省に独立政権を樹立させ、国民政府から分離させるため「北支自治運動」を展開した。11月25日、非武装地帯に殷汝耕を委員長とする冀東防共自治委員会を設立させ、宋哲元を中心にして「北支自治政権」を設立させて殷汝耕を合流させる計画を立てた。しかし、国民政府は、宋哲元を冀察綏靖主任兼河北省主席に任命し、12月18日に冀察政務委員会を設置し、自治独立運動の阻止に一応成功した。このため、12月25日、日本現地軍は、冀東の冀察への合流を放棄して冀東防共自治政府を成立させた[16][17]

「内戦停止、一致抗戦」[編集]

1935年12月、中華民国では自治政権反対の一二・九運動を契機に「内戦停止、一致抗戦」の機運が拡大した。長征の途上にあった共産軍は、八・一宣言を出して「抗日救国」、「反蒋抗日」の統一戦線を呼び掛け、陝西省延安に根拠地建設を開始し、1936年2月から3月、「抗日実践」を示すため、彭徳懐林彪が指揮する共産軍2万が山西省に侵入した。共産軍は閻錫山の軍と蒋介石の増援により敗退し、周恩来と会談した張学良の説得により「反蒋抗日」から「逼蒋抗日」への転換を受け入れ、五・五通電を発し「停戰議和一致抗日」を訴えた。一方、4月18日、共産軍の侵攻を契機に広田弘毅内閣は支那駐屯軍を増強した[16][17]

川越茂・張群会談[編集]

1936 年 8 月 23 日の成都事件と9月3日の北海事件を受け、大日本帝国外務省は、国民政府の対日態度の是正を要求し、9月8日から川越・張群会談が開始された。大日本帝国が防共協定の締結、日本人顧問の招聘などを要求し、国民政府が冀東防共自治政府の解消を要求したため、交渉は平行線を辿った。その後、9月19日に漢口、9月23日に上海で日本人が殺害され、11月上旬に内蒙古軍による綏遠事件も勃発し、12月3日に交渉は決裂した。12月12日の張学良らによる蒋介石監禁事件西安事件を経て、1937年初頭には国共合作が事実上成立した[16][17]

林内閣の「対支実行策」[編集]

2月2日、大日本帝国で広田内閣から林内閣へ交替すると、佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や中華民国への軍事的威嚇方針をやめ、平和交渉に移るよう外交方針を変更し[18]、陸軍参謀本部戦争指導課長石原莞爾は、華北工作など従来の帝国主義的な侵冦政策の放棄を唱えた[18]。4月16日に外務、大蔵、陸軍、海軍大臣四相により決定された対支実行策 (第三次北支処理要綱) では、北支分治や中国内政を乱す政治工作は行わないとされ、日中防共軍事同盟の項目も削除された[18]。一方で、関東軍は、対中高圧政策、対支一撃論を変更しなかった[18]。5月3日、中華民国は、イギリスに財政基盤強化のための借款供与を要請し、イギリスは、大日本帝国にも参加を要請した[19]。1937年5月31日、林内閣は総辞職し、6月に近衛文麿内閣が成立した[18]。7月5日、川越大使は政府にイギリスからの借款供与提案を受諾するよう上申し、電報は盧溝橋事件前日の7月6日に届いた[19]

北支事変[編集]

盧溝橋事件[編集]

1937年7月7日、支那駐屯軍の一部隊が北平(現在の北京)市街地から南西約10kmにある盧溝橋の北東区画で夜間演習を行なっている際に二度の発砲を受けた。この部隊の上司である牟田口廉也大佐が、盧溝橋東岸にある宛平県城の中国軍部隊に抗議を兼ねた交渉を試みたが、日付変更後の8日未明から明け方にかけて中国側からの発砲が繰り返されたので、ついには日中間の部隊戦闘へと発展した。この武力衝突は同8日午後から収束に向かい夕方には停戦が合意されて一旦沈静化したが、その後も出所不明の銃撃が散発した。支那駐屯軍北京議定書の中で邦人居留民保護の為に北京駐留を認められた部隊であったが、盧溝橋で発砲された部隊が駐兵していた豊台区は議定書の範囲外という事情もあった[20]。当時の北京には邦人17000名が在留していた[21]。7月8日に蒋介石は日記に「倭冦の挑発に対して応戦すべき」と書いて[22]翌9日に四個師団と軍用機を河北省へ先行派遣し[21]、10日からは河北省に向けた総兵力20万人に及ぶ30個師団の動員令を出していた[21][注釈 8]

盧溝橋戦場図

7月11日、支那駐屯軍と中国第二十九軍(河北省を統治する冀察政務委員会の常備軍)の間で停戦協定となる松井秦徳純協定が結ばれ、中国側は発砲責任者の処分、盧溝橋からの部隊退去、排日団体を取り締まる内容を約束した[22][21]。こうして事態収拾への目処が付けられた事から日本政府は中国派兵を見合わせたが、司令官を香月清司中将に交代した支那駐屯軍の増強案の方は実施され、関東軍朝鮮軍から複数個の師団が北京天津現地に編入された。近衛内閣は7日からの武力衝突を「北支事変」と名付けると、その原因は中国側の軍事威嚇にあるものとし、これに対抗する為の自衛権行使を北京増派の理由とした[22]。同時に紛争の現地解決と戦争不拡大方針も閣議決定した[24]。中華民国側では同11日から廬山国防会議が開かれ共産党から周恩来が参席し、蒋介石との間で対日開戦に向けた調整を始めた[25]

7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生した。続く14日にも日本人騎兵が殺害された[26]。13日と15日に毛沢東朱徳国共合作による即時開戦を国民党に訴えた。廬山の蒋介石は17日に最後の関頭演説を行い、中華民国は未だ脆弱で戦争を求めてはならないが止むをえない場合は徹底抗戦すると表明した[22]。7月19日、再度の緊迫化を憂慮した第二十九軍軍長の宋哲元上将は張自忠中将を代表にして支那駐屯軍側と和平交渉し、松井秦徳純協定の履行を改めて約束したが、盧溝橋事件は現地レベルで解決されるものではないとも通告した[21]。その頃、10日に動員された中国軍30個師団が河北省南部の保定石家荘に着陣していた。7月20日、盧溝橋にいた日本部隊が再び攻撃され互いに砲弾を交わした[21]。7月21日、南京国防会議で蒋介石は対日開戦方針を採択したが[21]国民党内には慎重な声も多く、渦中の北京では22日にも排日出版物及び団体の取り締りが行なわれていた[22]。23日に共産党が再び即時開戦を迫り、国民党軍事委員会は河北省の全部隊に対日戦争突入態勢を指示した[21]

7月24日、北京から天津へつながる日本軍の通信電線が切断され[21]、翌25日にその電線を修理して郎坊駅で休憩していた日本兵たちを、第二十九軍の部隊が襲撃するという郎坊事件が発生した[21]。また豊台区の日本兵たちも第二十九軍の一隊に包囲されていた。北京の日本部隊は修理した電線で直ちに天津の支那駐屯軍本部に現状を報告した。相次ぐ襲撃事件と中国軍の河北省集結に危機感を募らせた支那駐屯軍司令官香月中将は、第二十九軍軍長の宋哲元上将に対して北京市内から全中国兵を退去させる事で誠意を見せて欲しい、さもないと武力行使も辞さないと伝える最後通知を行ったが、宋哲元上将は回答を示さなかった[21]。翌26日に北京在留邦人保護の為に天津から駆けつけて来た日本部隊が、北京市内に入る広安門で攻撃されて19名が死傷するという広安門事件が発生した[22]。ここにきて香月中将は東京の陸軍参謀総長の認可を受けた上で交戦の意思を固めた。

北京・天津攻略[編集]

1937年7月27日、北平(現在の北京)市内で戦闘が始まり、支那駐屯軍支隊は中国第二十九軍の諸部隊を北京郊外へと追いやった上で支援航空機による空爆を加えた。総攻撃を決意した香月中将は天津の支那駐屯軍本隊にも臨戦態勢を取らせた[22][21]。日本政府も3個師団の華北派遣を決定した[22]。同日午後11時に中国政府は日本側に、現地の冀察政務委員会と支那駐屯軍が再交渉する為の仲介を申し出たが[21]これは黙殺された。翌28日、平津作戦が開始され支那駐屯軍は天津制圧と並行して北京郊外に布陣する第二十九軍に一斉攻撃をかけた[22][21]。中国側はたちまち劣勢に陥って5000人余りの被害を出し、宋哲元上将は同日夜に北京から脱出した[22]

河北省情勢図

7月29日、冀東自治政府の保安隊が反乱を起こして通州の政府施設を襲撃し、同区域にあった日本人租界地にも侵入して邦人居留民を多数惨殺するという通州事件が発生した[27][21]。冀東自治政府は関東軍が通州と北京の間に国境線を引く形で河北省北部に設立した傀儡政権であったので、日本政府はこの明確な戦争犯罪に対する拳の振り下ろし先を見失ったが、保安隊の中国兵たちが意図的に抗日側に回っていたのは明らかであった。天津で抗戦する第二十九軍の部隊も同日同時刻に日本人租界地を攻撃していた[21]。この通州事件は日本国民の対中感情を大幅に悪化させ、暴支膺懲スローガンはより強く支持されるようになった[28]。7月31日、支那駐屯軍は第二十九軍の駆逐に成功して北京天津一帯をほぼ制圧した[22]。その後、日本軍は戦線を保定付近まで南下させる作戦を検討したが、河北省南部に集結している中国第1戦区(戦区は総軍または方面軍に相当する中国軍の編制単位)との交戦に一定の準備期間が必要と判断されたのでひとまず延期し、現状を維持する事にした。

支那事変[編集]

第二次上海事変[編集]

1937年7月24日、上海市内で日本水兵が拉致される事件が発生し、当市の日本人租界地を守る海軍特別陸戦隊が調査を始めたが、上海市保安隊が公然と対抗する構えを見せて緊張が高まった。5年前の第一次上海事変停戦協定の中で中国軍は上海市内に立ち入らない事が約束されていたが、7月下旬から保安隊に変装した中国兵が重火器を多数持ち込み、また各所に土嚢を積みあげ鉄条網を張り巡らすなどしていた[29][30]。7月28日、北京での戦闘発生に伴い、日本政府は華南内陸部の各領事に訓令して8月9日までに全邦人を上海まで引き揚げさせ[31]、上海居留民と併せた日本人3万名を順次帰国させていた。日中両軍の衝突を予期した上海市民も避難を始めた。上海の日本人租界地には特別陸戦隊4千名と各種要員を含む邦人計1万名が残留した[32]

8月9日、華北ではチャハル省綏遠省(現在の内モンゴル自治区)の攻略を目指すチャハル作戦が開始され、関東軍から東条兵団が出撃した。北京天津にいる支那駐屯軍は河北省南下に向けて準備を整えていた。同9日に上海市内で日本軍人2名が保安隊に射殺される大山事件が発生し[30][29]一触即発の状態となった。翌10日に日本領事が共同租界地の国際委員会を通して兪鴻鈞上海市長に保安隊の隔離を要請し一旦受理されたが、11日に兪鴻鈞から「私は無力で何もできない」と返ってきた[30]。特別陸戦隊を指揮する第3艦隊司令官長谷川中将は東京に至急の増援を上申したが返信は「到着まで二週間かかる。それまで交戦不拡大に努めるように」であった[33]

第二次上海事変時戦線図

8月12日、蒋介石の指導下で上海周辺に総勢20万の兵力を展開した中国第3戦区が、上海市内に2個師団を侵入させ日本人租界地を包囲した[30]。英仏米の各領事が上海市と日本領事に仲裁を提案したが黙殺状態となった[30]。翌13日朝から各所で中国側の機銃掃射を含んだ小競り合いが始まり[30]、それまで交戦回避の守りに徹していた特別陸戦隊は午後4時から本格的な応戦に踏み切った[34]。午後5時になると中国軍は砲撃も加え始めた[29]。日本政府は陸軍部隊の上海派遣を同日中に閣議決定した[29]。翌14日に中国側は空軍機を繰り出して特別陸戦隊に空からも攻撃を加えた。また揚子江河口を遊弋する第3艦隊艦艇にも爆撃を試みたが、狙いが逸れて市内の歓楽街を直撃し民間人千数百名の死傷者を出した[29][34]

8月15日、近衛内閣は「もはや隠忍能わず暴支膺懲し南京政府の反省を促す」と声明し、陸軍に上海派遣軍を編制させた。第二次上海事変の勃発で日中両国は事実上の全面戦争に突入する事になった[35][36][37][38][39]。17日に不拡大方針放棄も閣議決定され[29]、18日に英仏が申し出た仲裁案も辞退した[30]。蒋介石も中華民国全土に向けた総動員令を発して戦時体制を確立した。21日に中ソ不可侵条約が締結され、同年9月から1941年6月までの間にソ連側から戦闘機、爆撃機、戦車、大砲、機関銃、歩兵銃、弾薬、トラクター、自動車などが多数供与された(ソ連援蒋ルート[40][41]中国共産党は抗日救国十大綱領を発表して抗日戦争を強力に支持し、8月22日に共産党軍(紅軍)国民党軍の指揮下に入って第八路軍と称した[42][34]。9月22日に第二次国共合作が正式成立した[34]

上海攻略[編集]

1937年8月15日、上海の日本人租界地に立て篭もる特別陸戦隊への空爆を憂慮した日本海軍は、中国軍機の離陸を阻止する為に上海と周辺の各都市にある空軍施設を空襲するという渡洋爆撃作戦を実行に移した[34]。15日から30日にかけて本土から飛び立った96式陸上攻撃機延べ200機余りが南京杭州南昌などにある中国空軍基地への長距離爆撃を敢行し[43]数々の未帰還機を出しながらも一定の成果を上げた。19日に上海沿岸に到着した本土の海軍特別陸戦隊2400名が一気に夜間上陸を果たして日本人租界地への合流に成功した。

上海市内では激しい攻防が続いており、中国軍第3戦区は新手の師団を次々と投入したが、特別陸戦隊は十倍以上の大軍の前で度重なる出血を強いられながらも奮戦して敵の侵入を許さなかった。後日に「緒戦一週目で敵軍掃滅成らず」と述懐して悔いる程この状況に大きな不満を覚えた蒋介石は[44]、敵のスパイ「漢奸」の存在が自軍敗走の原因になっていると断定して特務部長陳立夫漢奸狩りと称する容赦ない粛清を実行させた[45]。上海の広場では連日数十名の民間人または政府役人が漢奸として公開処刑されその総数は4,000名に達した[46][47]

8月23日、2個師団兵員4万名の上海派遣軍が上海沖合いに到着し、第3艦隊の艦砲支援の下で市街地から北20km地点への上陸に成功した[48]。しかし彼らは日中戦争全期間を通しての最大の難関に立ち向かう事になった。1930年代の中独合作の中で招かれたドイツ軍事顧問団は上海市を中国の最要地と見なして、上海の市街地を取り囲む極めて高度な防御陣地を完成させていた。上海派遣軍下の第3第11師団は、水壕とトーチカが複雑に張り巡らされ、無数の火砲と機関銃が待ち構える鉄壁地帯への突撃を敢行した。

  • 8月29日、東條兵団がチャハル省の省都張家口を攻略。日本軍はチャハル省を占領した。
  • 8月31日、北京の支那駐屯軍第1軍に改編され、新設の第2軍と併せて北支那方面軍が編制された[49]
  • 9月2日、近衛内閣が北支事変を「支那事変」と改称。
  • 9月5日、日本海軍が山東省から広東省までの沿岸封鎖(海上交通制限)を宣言した。
  • 9月9日、戦争不拡大を唱える陸軍参謀石原莞爾が強硬派に押し切られ、新たに3個師団が上海派遣軍の増援に送られた。
  • 9月13日、中国政府が日本軍の行為を国際連盟に提訴した。
  • 9月14日、北支那方面軍が河北省の保定を攻略。
  • 9月15日、日本海軍航空隊が広州を攻撃し[43]22日までに現地の中国空軍を壊滅させた。[要出典][注釈 9]。ここでも漢奸狩りが実施され、赤灯と緑灯で空爆を助けたという容疑で100名以上が処刑された[50]
  • 9月21日、国際連盟で日中紛争諮問委員会が開催された[43]
  • 9月27日、不拡大方針を唱え続けた石原莞爾が陸軍参謀を辞職し[51]その後は強硬論一辺倒となった。
  • 9月28日、日中紛争諮問委員会が日本軍の空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの計11次に及ぶ無差別空襲は、かのゲルニカ爆撃に並ぶものとされた。
  • 10月2日、北支那方面軍が山西省の攻略を目指す太原作戦を開始した。
  • 10月5日、日中紛争諮問委員会が日本の軍事行動を九カ国条約不戦条約に違反するものと決議採択した。同日にルーズベルト米大統領が世にいう隔離演説をした。
  • 10月9日、3個師団からなる第10軍が編制され、これも上海戦に送られた[52]
  • 10月10日、第1軍が河北省の石家荘を攻略。日本軍は河北省全域を占領した。
  • 10月17日、東條兵団が綏遠省の省都包頭を攻略した。

上海市内を目指して防御陣地を突き進む第3第11師団は、水壕に行く手を阻まれ、トーチカから放たれる砲火と機関銃になぎ倒されて大苦戦し、9月下旬までに計1万名の死傷者を出していた。数百名の兵士を生贄にして100mの進捗を得るという日もあったが、形勢不利と見るやすぐ持ち場を離れてしまう中国兵たちの士気と規律の低さにも助けられて、日本兵たちは徐々に突破口を切り開いていった。市内の日本人租界地では特別陸戦隊が善戦しており、本部拠点に押し寄せていた中国軍を逆に撃破して9月上旬から膠着状態に持ち込んでいた。中国兵の持ち場放棄に業を煮やした蒋介石は督戦隊を後方に置くよう指示し、逃走する者を容赦なく射殺させて軍規の引き締めを図った[53]。中国第3戦区は数十万の兵力を三軍に分けて展開していたが、この方面の制空権を握った日本海軍機の空爆に牽制されて中央軍と右翼軍の多くが遊兵と化し、また第3、第11師団の包囲に向かった左翼軍は9月20日から順次到着した増援の第913101師団に撃退された。

10月10日、日本兵たちは市街地手前の最後の防衛線まで到達し、12日に突破を果たして北から上海市内に雪崩れ込んだ。この頃になると逆に督戦隊の方に突撃する中国兵が相次ぐようになり同士討ちが多発した。その勢いに押された督戦隊からも公然と職務放棄する者が出始めたので、その更に後方に死刑の権限を持つ督察官が置かれて督戦隊を監視するようになった[54]。中国軍は上海市中央を東西に流れる蘇州河まで戦線を下げて市街戦に持ち込んだ[55]。26日、第9師団が市内中央に位置する大場鎮の占領に成功した[48]。翌27日に「日軍占領大場鎮」のアドバルーンを揚げて日本人租界地との連絡線を確保し、上海市内の大半は日本軍の制圧下となった。

11月2日、上海攻略への目処が立ったのと同時に日本政府は、ドイツのトラウトマン駐華大使を通して和平工作を開始した。5日にトラウトマンから伝えられた日本政府の和平案を蒋介石は拒否した[56]。9月に日本軍の行為を国際連盟に提訴していた彼は、11月3日からの九ヶ国条約会議で中国側に有利な調停案が下される事を期待していた為と言われるが、会議の結論は日本非難声明に留まった[56]。同5日に後続の第10軍が上海市の南方60kmにある杭州湾金山衛への上陸に成功し、日本軍に南北を挟まれる形となった中国第3戦区は退路を断たれる恐れで浮き足立った。翌6日から上海市街で中国兵の掠奪が目立つようになり[57]、陣払い前に決まって行なわれる彼らの習慣で中国軍の総退却が予測された。9日に蒋介石の撤退命令が出された。

南京攻略[編集]

上海戦(淞沪会戦)の惨敗は、蒋介石に国民革命軍が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は[58]開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数万人規模の会戦、数千人規模の戦闘が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。

1937年11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された中支那方面軍は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に[59]日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で[60]ソ連義勇兵を緊急派遣した[61]。15日、第10軍司令官柳川中将が独断で南京への追撃を始めた[62][63]。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが[64]、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下し、その司令官に唐生智上将を就けた[65]。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという清野作戦も実行に移した[66][67]。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した[30]。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。

12月1日、スターリンは国際世論を理由に対日参戦を再度拒否し蒋介石を失望させ[40]、翌日から国民党内で昨月の日本の和平案が前向きに検討され始めた。3日から中支那方面軍は南京の攻囲作戦を開始し、上海派遣軍は東から、第10軍は南から軍を進めて周辺の陣地を占領しつつ南京を取り巻く長大な城壁へと迫った。唐生智上将が国際安全区にも部隊を入れたので同区委員ジョン・ラーベが抗議したが黙殺された。南京脱出前の蒋介石は和平交渉を受け入れる余地があるとトラウトマン大使に語り、7日に日本政府へ伝えられた[56]。7日未明から蒋介石を始めとする政府高官が次々と航空機で南京から脱出した。南京市内には唐生智上将率いる防衛隊約10万人と民間人概ね50万人が残されたが、正確な人数については諸説あって定まっていない。9日に総攻撃準備を終えた中支那方面軍は、10日正午を期限とする降服勧告を出したが回答は無かった。

南京戦図

12月10日、中支那方面軍の各隊が南京に向けて一斉に攻撃を開始した。上海のドイツ式防御陣地とは対照的に、南京の巨大な城壁は野戦砲と空爆のいい的でしかなく、崩落する瓦礫と飛散した破片が却って守備兵を危険に晒した。南京の各城門は集中砲撃と爆撃に耐えられず守備兵が退避した後に、日本兵が梯子でよじ登って突破されるという結末を辿った。12日18時に日本兵は南京市内に突入した。同市街は中国兵、便衣兵、民間人、日本兵でごった返した混乱の坩堝と化し、前日に蒋介石から撤退指示を受けていた唐生智上将は、各部著に最後の指令を出した後の20時に市外北へと脱出し揚子江の対岸に渡った。指令内容は敵包囲網の突破退却を敢行させるというものだったが、督戦隊を含めた多くの部署に伝わる事はなく、潰走する中国兵が北の揚子江に面した挹江門に殺到し、同門からの逃亡を阻止する督戦隊との間で挹江門事件と呼ばれる激しい同士討ちが発生した。

12月13日、中支那方面軍の各部隊が続々と城門ないし城壁を越えて市内に入り、夕方には大きな市街戦が見られなくなって南京占領が宣言された[68][69]。しかし中国側の小部隊が未だ各所で抵抗を続けており、逃走した中国兵および便衣兵も市内に多数潜伏していた。日本兵たちは引き続き残敵の掃討戦に移った。この日からいわゆる南京大虐殺が起きたとされるが、その真相については現在に到るまで大きな論争を巻き起こしている。14日に東京では南京攻略を祝う提灯行列が行なわれた[70]。17日に松井石根大将を先頭にした中支那方面軍司令部が南京に入城し、18日に陸海軍合同慰霊祭が挙行された[71]。南京市内に残る中国兵の掃討も着実に進んでいた。22日、南京占領で自信を深めた日本政府は、11月からのトラウトマン和平工作案に応じる姿勢を見せた蒋介石に対して多額の賠償金などを付け加えた新たな講和条件を提示した。23日に南京自治委員会が設立され[72][73]市内の治安もだいぶ回復した。

1938年1月11日、日露戦争以来の御前会議が開かれ支那事変処理根本方針が決定された。14日、昨月の講和条件の詳細を照会したいという中国側の回答が届き政府内で協議されたが、ただの時間稼ぎで誠意がないなどとする強硬派の意見が交渉継続派を押しのけて対中和平工作の打ち切りが決まった。16日に近衛首相第一次近衛声明を発表し「国民政府を対手とせず」と宣言した。2月14日に南京方面の戦力が再編され新しく中支那派遣軍が編制された[74]。2月18日から蒋介石が立て篭もった首都重慶を戦略爆撃する重慶爆撃が開始され、これは1943年8月まで続き計200回以上を数えた。3月28日に南京を首府とし江蘇省浙江省を管理する傀儡政権の中華民国維新政府が樹立された。4月1日、日本政府は対中戦争完遂に向けた国家総動員法を公布し、戦時体制に突入した。

徐州会戦と武漢攻略[編集]

徐州会戦図

1938年4月2日、山東省を制圧した第2軍の一支隊が同省南西端へも進出し台児荘付近で中国軍と交戦したが、7日までに撤退した。この台児荘の戦いは抗日戦争初の大勝利と喧伝されて中国軍民を鼓舞した[75]台児荘の南には山東江蘇安徽河南の四省境が接する戦略の要衝・徐州があった。中国軍の大兵力が徐州に集結していると判断した大本営は[75]一挙殲滅の好機と捉えて、4月7日に北支那方面軍中支那派遣軍の両軍に徐州攻略の共同作戦を下令した[74]徐州周辺にひしめく中国第5戦区第1戦区の総勢60万人に向かって、山東省方面と南京方面からそれぞれ10万人の日本軍部隊が進軍し、5月5日から作戦が発動されて徐州会戦が始まった。日中合わせて80万人の激戦が繰り広げられる中で、16日に第5戦区司令長官李宗仁上将は早くも抗戦を諦めて徐州放棄を決断した[74]。日本軍は当初の目的である包囲殲滅には失敗したが中国側の後退に応じて突出し、19日に徐州を占領した。25日、北支那方面軍寺内寿一大将と中支那派遣軍畑駿六大将が揃って徐州に入城し、取り逃がした第5第1戦区の追撃態勢に移った[76][77]

6月6日、 中国軍を西へ追撃する北支那方面軍はそのまま河南省に侵入し開封を占領した。その西にある鄭州は各都市への中継点となる交通の最要地であり、ここの確保は武漢西安への迅速な侵攻を可能にした。徐州会戦の敗色でこの事態を予測していた中国軍は、5月下旬から鄭州の東側一帯を水没させて日本軍の追撃を阻止する為の黄河決壊準備を進めていた。6月9日に堤防が爆破され黄河から溢れ出した濁流は、河南省の広範囲を呑み込みおよそ54,000平方kmに及ぶ土地を押し流して数十万人の住民犠牲者を出した(黄河決壊事件[75]。この未曾有の環境破壊により黄河下流域ではその後10年に渡って河川環境変化に伴う水害、蝗害、凶作、飢饉に悩まされる事になったが、それと引き換えの成果は日本軍に第1戦区の追撃を断念させたのと武漢侵攻を二ヶ月程遅らせたに過ぎなかった。

緑ラインが援蒋ルート

6月15日、御前会議で中国軍の最要地武漢と貿易の要港広州の攻略が決定された[74]。この両都市は蒋介石の命綱である援蒋ルート(英米露からの補給線)の中継点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う中支那派遣軍が大幅に増強された[74]。7月29日から満州国南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した(張鼓峰事件)。8月22日、武漢作戦が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って通り道となる安徽省を制した後に湖北省へ侵攻した[78]。湖北省一帯には蒋介石が指導する第5戦区第9戦区の総勢110万の戦力が展開されていた。こうして火蓋が切られた武漢会戦は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで攻防が続いた。同時期に広州作戦中国語版も開始され、第21軍第5艦隊が陸海共同して10月21日に広州を占領し、隣接する香港援蒋ルートを遮断した[78]。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮(武昌漢口漢陽)を占領して武漢作戦を完遂した[78]。蒋介石は首都重慶に逃れた[64]

11月3日、武漢と広州の占領で蒋介石の戦意を挫けるという楽観的見通しを立てていた近衛首相第二次近衛声明を発表し、重慶国民政府東亜新秩序への参加を呼びかけて実質的な停戦講和を促した。国民政府内では日中講和を唱える汪兆銘と蒋介石の路線対立が顕著となった。12日、湖北省(武漢)の次の侵攻先と見なされた湖南省で再び清野作戦が実行され、省都長沙は中国軍の手による大火災に包まれて消滅した(長沙大火)。また中国側はイギリスの協力で11月中にビルマ援蒋ルート英領ビルマ-雲南省-四川省-重慶)を新たに確立していた。首都重慶は山岳地帯に囲まれた天然の要害であり、日本軍の圧倒的戦力を以ってしても攻略は困難であったので、武漢占領が作戦の頂点であると同時に限界となった。20日、日中講和に向けた事前内約の日華協議記録が汪兆銘一派と影佐禎昭今井武夫らの間で成立した。その内容には日華防共協定、満州国承認、日本軍の二年以内撤退などが盛り込まれていた[79]

12月6日、新たに決定された対支処理方策の中で、日本軍はこれ以上の占領地拡大を望まず現状地域の安定確保に努め、抗日拠点の掃討戦のみを行なう旨が確認された[78]。16日、中国大陸に広がった占領地運営の為の国家機関興亜院が設立された[78]。18日、蒋介石と対立する汪兆銘が重慶から離脱し仏領ハノイに向かった[79]。22日、近衛首相が第三次近衛声明の中で近衛三原則を発表した。それは日華協議記録の内容をなぞっていたが、肝心の日本軍が二年以内に撤退する条項が削除されており、汪兆銘は面目を失った。蒋介石は近衛声明を一蹴した上で、汪兆銘のハノイ行きは療養目的であったと26日に発表し[80]彼の路線修正と帰参を暗に促した。また28日にも東亜新秩序は中国の奴隷化を企図したものだと日本を非難しアメリカもそれに同調した[78]。しかし汪兆銘は国民党内に向けた29日の通電で「和平反共建国」を唱えて共産主義対策を含めた日中講和の必要性を力説し、30日の香港『南華日報』紙上でも近衛声明を受け入れた講和交渉に入るべきと論説したので[80]、年が明けた1939年1月1日に中国国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した[80]。戦争収拾に失敗し中国政策も手詰まりとなった近衛文麿首相は1月4日に内閣総辞職し、平沼内閣に交代した[78]

戦争の泥沼化[編集]

1939年1月時点の日本軍の勢力圏は部分占領も含めると、チャハル河北山西山東安徽江蘇浙江湖北省まで拡大していた。しかし、攻略困難な天然の要害の重慶に立て篭もった蒋介石はなおも抗戦を断念しなかった為に、戦争解決の糸口を見失った日本政府はここで手詰まりとなった。蒋介石は援蒋ルートと呼ばれるイギリス、アメリカ、ソ連からの軍需物資補給線を頼りに徹底抗戦態勢を取ったので長期化の様相を呈した日中戦争はやがて泥沼化した[79]。残された手段は、占領地周辺の抗日拠点を逐次掃討しつつ、重慶爆撃を繰り返して国民政府の戦意を削ぎ、援蒋ルートを遮断して中国軍の物資枯渇を目指す事だった。中でも援蒋ルート遮断は以降の戦略および作戦の中心になった。同時に水面下で国民党関係者と接触を図り再交渉の機会を掴む試みも行なわれていた。1939年の日本軍の主な活動内容は、膨大な兵力を呑み込むようになった占領地警備を除くと、武漢維持の為の湖北省一帯の鎮圧戦、インドシナ援蒋ルート遮断の為の広西省の攻略戦、南京と武漢を結ぶ兵站線を脅かす中国軍部隊の根拠地となった江西省の掃討戦であった。

武漢作戦後の勢力圏

1939年11月15日、インドシナ援蒋ルート仏印-広西省-中国南部-重慶)の遮断を目的とする南寧作戦が開始されて第21軍広西省に侵攻し、24日に南寧を占領して輸送路を圧迫した。12月17日、広西省桂林の中国第4戦区南寧奪還を目指して進軍し、崑崙関で激戦が繰り広げられたが、第21軍下の第5師団がこれを撃退した。それと並行して第21軍本隊は12月24日から翁英作戦を始めて広東省北部に侵攻し、同地に在った第4戦区部隊を一掃して後顧の憂いを絶った。続けて翌1940年1月28日から賓陽作戦が行なわれ、広西省に取って返した第21軍本隊は南寧に再攻勢を仕掛ける第4戦区を2月13日までに撃破した。1939年12月から中国軍の冬季大攻勢が作戦始動され、翌1940年2月までの間に綏遠山西山東安徽湖北省の各地の戦線で日本軍への攻撃が断続的に行なわれた。最終的な損害は日本側2万5千、中国側は10万以上だった。

日本と協調する中国新政府樹立の意志を固めた汪兆銘は、1939年6月から中国大陸を回って各地の要人たちと調整を重ね、11月からは上海に滞在して軍部関係者と建国後の日本軍駐留地域について協議していた。その結果、12月30日に日本政府との間で日華新関係調整要綱を起草した[80]。しかしその余りの譲歩的内容に憤激した高宗武らが、年が明けた翌1940年1月6日に上海を脱出して英領香港に駆け込み、そこで日本との取り決め内容を暴露して汪兆銘政権はただの日本の傀儡であると訴えた[80]。また汪兆銘政権設立の動きと並行して1939年12月末に今井武夫らが蒋介石夫人宋美齢の弟の宋子良との接触に成功し、桐工作と呼ばれる極秘の和平工作を開始していた。これは昭和天皇にも上奏され戦争解決の新たな糸口と目された。1月14日、貿易省設置問題と価格等統制令で官僚と国民双方の支持を失った阿部内閣は倒れ、次は米内光政海軍大将が組閣した[79]。3月30日、汪兆銘が南京を首都にする中華民国国民政府を樹立した[80]中華民国臨時政府中華民国維新政府はこれに吸収合併され、中国大陸の日本軍勢力圏がそのまま版図となった。

1940年5月1日、いわゆる攻勢防御により武漢周辺の治安向上を図る宜昌作戦が実施され、湖北省西部の宜昌にいる中国第5戦区の撃滅を目的にして第11軍が出撃した。宜昌重慶にも近いので蒋介石を圧迫する狙いもあった。また18日より武漢の飛行場から重慶に大空襲をかける一〇一号作戦も合わせて実施された[64]。これらは前述の桐工作成立を進める為の威嚇を兼ねたものだったとも言われる。桐工作交渉の中で中国側は日本が求める河北省防共駐兵案に強く反発しており、その翻意を促す為の手段でもあった。6月12日に第11軍宜昌を攻略掃討し[64]すぐ帰還する予定だったが、欧州で快進撃するドイツ軍の14日パリ占領を見た日本軍は強気になり、そのまま宜昌を占領確保して蒋介石をより強く圧迫する事を決めた。それに伴い24日から29日にかけての重慶爆撃は特に苛烈を極めた [64]。6月19日、本国が降服間近のフランス領インドシナ政府は、日本が繰り返し要求していた援蒋ルートの閉鎖を承諾した。

7月18日、ドイツ優勢を追い風にした日本政府の要求に応じてイギリスがビルマ援蒋ルートを閉鎖した[64]。ドイツ軍の欧州席巻に勢いづいた陸軍は「バスに乗り遅れるな」とばかりに日独伊同盟に難色を示す米内首相の倒閣を狙って畑陸相に辞職を促し代わりの陸相を立てなかったので、7月22日に米内内閣は総辞職に追い込まれた[80]米内首相は後の大政翼賛会に繋がる新体制運動にも消極的だった。この双方に前向きな近衛文麿が再び組閣して第二次近衛内閣が発足した[79]。その顔ぶれには松岡洋右外相、東條英機陸相がいた。26日、基本国策要綱でいわゆる八紘一宇が唱えられた[64]。8月1日、松岡外相大東亜共栄圏確立に向けた外交方針を発表した[64]

燼滅作戦(三光作戦)[編集]

1939年以降の河北山西山東省では日本軍勢力圏の網の目を潜るようにして中国軍部隊および八路軍部隊の蜂起が繰り返されており、その都度鎮圧作戦が実施されて収まる気配を見せなかった。それら治安維持戦を担当したのは北支那方面軍であり、その隷下の第1軍河北省山西省を管轄にし、第12軍山東省であった。北支那方面軍を統括する支那派遣軍は直下の第13軍安徽江蘇浙江省の防衛をまかせ、同じく直下で精鋭の第11軍を最前線の湖北省に置いた。第11軍は敵地侵攻と会戦を専門にする作戦軍であり湖北湖南江西省で度々攻勢に出る事になった。広東省広西省では南支那方面軍が活動しており、1940年7月に支那派遣軍下から大本営直轄に移管された。

1940年8月20日、八路軍(共産軍)が百団大戦を開始し、無数の遊撃部隊とゲリラ部隊を駆使して山西省河北省にある鉄道線と鉱山施設を一斉襲撃した[81]。現地の日本軍は10~20km範囲に1個中隊(約150名)を置くという分散警備状態にあったので当初は不意を付かれて少なからぬ被害を出し、また多くの鉄道、鉱山、電信施設が破壊された。ただちに反攻作戦に出た日本軍は、あらかじめ調査していた八路軍の根拠地を虱潰しに叩いていき、この掃討戦は12月3日まで続いた。結果的に八路軍も大きな打撃を受け、また日本側に内部情報も把握された事で以後2年間の共産活動は縮小した。ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、共産支配地と特定された地区の者たちを一律「敵性住民」と見なし、彼らが二度とゲリラ蜂起しないように徹底根絶を図るという燼滅作戦を10月から実行に移した。中国側はこれを日本軍による三光作戦と呼んだ[81]。毒ガスの使用もあったと言われ、住民の3割以上が失われた地区もあった[81]

9月14日、陸海首脳会議で松岡外相は支那事変解決に残された手段は独伊との提携であると主張し陸海両相も同意した[64]。9月から日本軍はヴィシー政権との合意を得て北部仏印進駐し、インドシナ援蒋ルートを完全に断った。9月27日、松岡外相肝煎りの日独伊三国同盟が締結された[64]。同時期に昨年末から進められていた桐工作が主に東條陸相の意向などで中止された[64]。9月30日、前年から段階的に輸出制限を掛けていたアメリカが今度は屑鉄を全面禁輸し[64]ハル国務長官は国防上の理由だとして日本の抗議を一蹴した[64]。11月30日、汪兆銘との間で日華基本条約を調印した日本政府は南京の国民政府こそが中華民国の正統政権であると宣言し、同時に発表された日満華共同宣言満州国の正統性も強調した[64]。即座に南京の国民政府(汪兆銘)を否認したアメリカは重慶の国民政府(蒋介石)に1億ドルを追加供与した。12月10日にイギリスが1千万ポンド[64]、翌11日にソ連も1億元を蒋介石に借款供与した。13日、蒋介石はアメリカに空軍戦力提供の要請を出した。18日、イギリスはビルマ援蒋ルートを再開した。

大東亜戦争[編集]

日米開戦前夜[編集]

1941年4月14日、工作機械、航空機燃料、屑鉄などの輸出制限を解除させて日米通商関係の正常化を目指す対米交渉が野村吉三郎駐米大使を通して始められた[82]。しかし予想に違えず当初から難航の様相を見せた。5月からアメリカのレンドリース法が発効され、その武器貸与の一部は中国にも支給された。6月22日に独ソ戦が始まると、北進論を唱えていた松岡外相が対ソ参戦を強硬に主張するが、近衛首相など他の閣僚は東南アジアへの資源獲得進出を目指す南進論に傾いていた。7月2日の御前会議は独ソ戦不介入を決定し、南方進出を図る方針が定められた[82]。7月7日、満州の地で対ソ作戦予行の関東軍特種演習が行なわれ北進論健在が誇示されたが、すでに日本政府内は南進論に固まっているとの情報が尾崎秀実を通してソ連側に筒抜けになっていたので、ソ連の対ドイツ戦略に影響を及ぼす事はなかった。7月18日、暴走気味の松岡外相を抑えられなくなった近衛首相は彼を罷免する為だけに内閣総辞職を決行し、同日に第三次近衛内閣が発足した。

7月28日、日本軍が南進論に沿って仏領インドシナ南部にも部隊を駐屯させる南部仏印進駐を決行した。アメリカの反発は日本政府の予想をはるかに越え、即座にアメリカは在米日本資産の全凍結に踏み切り[82]、8月1日には石油の対日輸出を全面禁止した。両国の緊張は臨界点に達し9月6日の御前会議で制定された帝国国策遂行要領では、外交手段を尽くしつつも対米開戦を視野に入れて10月を目途にした戦争準備を進めるものとされた。10月16日、ゾルゲ事件が発覚し尾崎秀実のスパイ行為が明らかになった事で、彼を側近にしていた近衛文麿首相はその責任を問われる形で内閣総辞職した。尾崎は汪兆銘を失望させた二年以内撤兵項目の削除など戦争拡大を許した数々の局面に関わっていた。

10月18日、東條内閣が成立し、11月1日から最後の対米交渉に臨む政府内の調整およびハル国務長官を相手にした駆け引きが始められた。5日に交渉の指針とする帝国国策遂行要領が御前会議で再制定され、日米通商関係正常化に向けた日本側の譲歩は、河北省内蒙古以外の全地域から撤兵する甲案と、中国全土から撤兵する乙案とされた。いずれも北部仏印進駐は譲れないものとしていた。これはインドシナ援蒋ルートが再開すると蒋介石側が大幅に息を吹き返して日本撤兵後の汪兆銘政権が危うくなると予測されたからだった。7日に甲案が20日に乙案が提示された。22日、乙案に興味を覚えたハル国務長官はそれに沿った暫定案を中国側に見せたが、胡適駐米大使は猛反対し蒋介石も激怒した[83]。蒋介石はアメリカの陸海軍両長官に親書を送り、英首相チャーチルも中国崩壊は英国危機に直結するとルーズベルト大統領に訴えた[83]。11月26日、いわゆるハル・ノートが日本側に手交された。その内容はこれまでの硬軟織り交ぜた交渉努力を無碍に一蹴する、中国全土および仏印からの完全撤兵要求と汪兆銘政権の否認であった。その対象に関東軍満州国も含まれるのかは諸説分かれている。これを最後通牒と解した日本政府は対米開戦を決意した。

対米英宣戦とビルマ作戦[編集]

1941年12月8日、対米英宣戦布告と共に日本軍は、天津のイギリス租界地を接収し、第23軍を用いて英領香港占領作戦を開始した。日米開戦の報せに重慶の国民政府は大喝采し翌9日に対日宣戦したが[83]汪兆銘政権を正統とする日本にとって彼らは建前上一地方軍閥だったのでこれは一方的なものとなった。12日に東條内閣は「大東亜戦争」の戦争名称を閣議決定した。独ソ戦の渦中にあったスターリン蒋介石の対日参戦要請を却下した[83]。24日、湖南省の中国第9戦区が香港方面へ南下する動きを牽制する為に第二次長沙作戦が発動され、再び第11軍長沙へと出撃した。翌25日に第23軍が香港を占領したので第11軍も帰還するはずだったが、現場の意見で長沙進撃はそのまま続けられた。しかし準備不足から苦戦し年が明けた翌1942年1月16日に第11軍は撤退した。

ビルマ作戦図

1942年の対中国作戦の焦点は雲南省に南接する英領ビルマに移り、ビルマ援蒋ルートの遮断を目的にしたビルマ侵攻作戦に力が注がれた。これは東南アジア戦線を担当する南方軍によって行なわれた。中国戦線を担当する支那派遣軍はもっぱら勢力圏の現状維持であり、前年と変わらず膨大な兵力を占領地警備と治安維持戦に注ぎ込んでいた。「日本は一時の興奮を得るが結局は自滅する」と年明けに訓示した蒋介石は[83]、全軍の死活問題であるビルマルート死守の為の中国遠征軍を編制し、アメリカ軍人スティルウェルを参謀長に据えて[83]英国ビルマ軍団との共同戦線を築き上げた。またフライングタイガースと呼ばれるアメリカ航空隊も来援していた。

1942年1月31日、タイで準備を整えた南方軍隷下の第15軍英領ビルマに侵攻し、3月8日にラングーンを占領した。続けて第15軍は北上作戦に着手し、立ち塞がる中国遠征軍と英国ビルマ軍団を撃破しつつ5月1日にマンダレーを攻略した。更にビルマ国境を越えて5日に雲南省南西端の拉孟まで到達した。こうしてビルマ援蒋ルートは遮断されたが、印度アッサム州に逃れたスティルウェルらが同地域飛行場から雲南省昆明まで物資を空輸する「ハンプ」と呼ばれる補給線を確立したので完全な途絶には到らなかった。4月から開通したハンプ空路の輸送量は度々の撃墜と墜落で不安定だったが蒋介石にとっては最後の生命線となり、その輸送機を狙う陸軍航空隊との間で繰り返し空中戦が行なわれた。

4月18日、ドーリットル空襲が発生し、日本本土を爆撃したアメリカ軍機が江西省に着陸したのを確認した日本軍は、その飛行場破壊を主な目的とする浙贛作戦中国語版を発動して、5月から第11軍第13軍が江西省南部に侵攻した。中国第3戦区第9戦区がこれを迎え撃ち、両軍の攻防は四ヶ月に渡って続いた。9月に第1113軍は江西省の掃討を終えて帰還した。その中で731部隊による細菌散布も行なわれて日中双方の兵士に被害が出た。江蘇浙江省方面では1940年10月から731部隊の活動が度々見られていた。9月から大本営で四川省占領と重慶攻略作戦が検討され始め、翌1943年を決戦の時にする構想も浮上したが実現には到らなかった。

  • 1943年1月9日 - 日本政府と南京国民政府(汪兆銘政権)は大東亜戦争遂行に向けた日華共同声明を発表し、汪兆銘政権もアメリカとイギリスに宣戦布告した。
  • 3月 - フライングタイガースを前身とするアメリカ第14空軍が新設され、昆明に司令部を置き中国全土の航空戦を担当するようになった。米中混成航空隊も編制され、中国の航空戦力は大幅に強化された。
  • 5月12日 - 湖北省西部で鄂西会戦が発生。宜昌武漢間の揚子江水運を掌握する為に第11軍が出撃し、中国第6戦区を駆逐して6月3日までに沿岸地帯を占領した。日本側は水運確保に成功した。
  • 8月28日 - この日を最後にして重慶爆撃は中止された。
  • 11月2日 - 湖南省北部で常德会戦が発生。常徳に退いた中国第6戦区の撃滅を目指して第11軍が出撃した。第9戦区第14空軍も来援して激戦となり、第11軍は12月20日に撤退した。
  • 11月25日 - 江西省の中継用飛行場から飛び立った米中混成航空隊が台湾で新竹空襲を行なった。これによって中国大陸からの台湾および中国沿海シーレーン空襲が懸案事項となった。

大陸打通作戦[編集]

1943年12月、印度アッサム州で組織された新編第1軍(スティルウェルが作戦指導する中国軍)と、印度インパールに退却していた英国ビルマ軍団が反攻作戦を始めてビルマ北西部に侵入した。現地の日本軍部隊は後退を強いられ、雲南省との境界に沿った地域を奪還された。これを受けて翌1944年3月からインパール作戦が実施された。その目的は迎撃した敵を押し込みつつ印度インパールの根拠地まで攻略して再攻勢の根を断つというものだったが、杜撰な計画により5月の時点で失敗した。6月に雲南省南西端を押さえていた日本軍部隊を中国軍が攻撃して拉孟・騰越の戦いが発生し、9月に日本側が壊滅した。こうしてビルマルートラングーン-ビルマ北部-雲南省)に代わる新たなレドルートアッサム州レド-ビルマ北部-雲南省)完成の道筋が付けられたが、その開通日は結局1945年1月となり、しかも密林地帯の悪路ゆえに実際の輸送量はハンプ空路より大幅に劣っていた。ビルマルート遮断はラングーンマンダレーの占領だけで十分だったので、結果的にこのビルマの戦いは、双方がレドルートを誇大視して割に合わない膨大な人命と労力を注ぎ込んでいたようなものだった。

1944年、アメリカ第14空軍の活動と太平洋戦線への航空機転出により、支那派遣軍は中国大陸の制空権を徐々に失い、各地の部隊も空爆の脅威に晒されるようになっていた。そこで航空機ではなく歩兵と戦車を用いて敵空軍基地を破壊し、地上から制空権を取り戻そうとする作戦が立案された。大本営の懸案となっていた台湾および中国沿海シーレーンへの空襲を阻止する狙いもあった。当時の中国側前線地帯は河南湖南広西省であり、そこに空軍基地も集中していた。この三省を攻略して日本側の河北山西湖北省および広州と合わせると中国大陸を縦断する一つの占領ラインが形成される事になり、同時に京漢線(北京-武漢)と粤漢線(武漢-広州)も確保されて南方資源地帯と中国戦線の連結も可能にした。これが大陸打通作戦であり、支那派遣軍の7割に及ぶ膨大な兵力を投入して1944年4月17日から実施された。

  • 4月17日~5月25日 - 豫中会戦。日本軍は河南省鄭州ほかを占領した。
  • 5月27日~6月29日 - 長沙会戦。日本軍は湖南省北部の長沙ほかを占領した。
  • 6月22日~8月8日 - 衡陽攻略戦。日本軍は湖南省南部の衡陽を占領した。
  • 8月16日~12月2日 - 桂柳会戦。日本軍は広西省桂林ほかを占領した。

大陸打通作戦は北から南に向かって進捗し、三度の会戦と数十の攻略戦を経て中国側の空軍基地を逐一破壊しつつ、1944年12月10日に完遂した。その期間の出来事としては、カルカッタ基地のB-29爆撃機成都の中継用飛行場から飛び立たせて本土空襲を行なうマッターホルン作戦が実施され、6月16日にその初回となる八幡空襲が起きた。同作戦による暫定的な本土空襲は翌年3月まで計49回行なわれた。中国軍の戦力を信用出来なくなっていたアメリカは、日本軍による奪取や破壊を恐れてB-29など重要兵器の中国配備は避けていた。7月9日に絶対国防圏サイパン島があっさり陥落しこちらが正式な本土空襲用基地になった。その責任を取る形で東条英機首相は18日に内閣総辞職し小磯内閣に代わった。11月10日、南京国民政府主席の汪兆銘が死去し陳公博が後継となった。12月18日、成都からB-29を中心にした大編隊が武漢上空を覆って漢口大空襲を行い市街地の多くが焼失した。

大陸打通作戦後の勢力圏

光号作戦[編集]

1945年3月、表向き汪兆銘政権に属する繆斌が訪日し、自身が仲介する蒋介石との和平工作を小磯首相に持ちかけた(繆斌工作)。それは満州国承認と汪兆銘政権廃止、日本軍撤兵を引き換えとするものだった。繆斌の真意は定かでないが、2月4日のヤルタ会談に呼ばれず米英を当てに出来なくなった蒋介石は、ソ連が再び支援を始める中国共産党の蜂起を何よりも危惧していたので、繆斌に密命を託すという事情は十分に考えられた。小磯首相は前向きになったが、謀略だとする重光外相が猛反対しそれに陸海両相も同調したので結局見送られる事になった。なおアメリカに敗北寸前の今になって蒋介石と講和しても意味はなく、中国戦線の膨大な兵員と陸軍に多い徹底抗戦派の帰国が却って良からぬ結果に繋がりかねないという見方もあった。この閣内不一致が原因で小磯首相も4月7日に総辞職を余儀なくされ鈴木内閣に代わった。

大陸打通作戦の結果、中国軍は更に西側の奥地に空軍基地を築いたので、引き続きその破壊が支那派遣軍の主な作戦内容となった。目下の標的は湖北省北西部の老河口湖南省南西部の芷江にある飛行場とされた。3月3日に老河口作戦が開始され、出撃した第12軍が中国第1戦区第5戦区を撃破しつつ4月11日に老河口飛行場の占領破壊に成功した。続けて4月15日から芷江作戦も実施されたがこれを担当した第20軍は、同年に新設された中国陸軍総司令部による防衛陣の前に大きな被害を出して6月7日に敗退した。これが中国戦線における最後の侵攻作戦となった。4月下旬から広西省一帯に駐屯する第6方面軍隷下の第11軍中国陸軍総司令部が総攻撃を掛けていた。

1945年5月、すでに沖縄に上陸されて本土決戦が迫る中で大本営は1月発令の光号作戦を実施に移し、内陸部各省にいる部隊をそれぞれ沿岸部に移動させて連合国軍の中国上陸に備えるよう指示を出した。武漢など主だった都市には一定の守備隊が残されたが、山西・河南・安徽・湖北・湖南・江西・広西省の各部隊は占領地を次々と手放し、かつての侵攻ルートを逆に辿って中国軍の追撃に晒されながら沿海各省まで撤収した。中でも南寧から武漢まで各部隊の逐次撤収を行なった第11軍の湘桂反転作戦は大掛かりになって5月下旬から8月上旬まで続いた。

登場勢力の立場と目的[編集]

大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国独立によって日中は安定し、東アジアの平和秩序が図られるとした(天羽声明)[84]。また、日中戦争(支那事変)は明確な開戦決意でなく偶発的に開戦したため戦争目的を確立するまでに時間がかかった[85]。そのため、対英米蘭戦の大東亜戦争(日中戦争および太平洋戦争)の際には開戦目的が明確化され、日本側の戦争目的は「自存自衛」と「(西洋帝国主義からの)アジア解放」を柱とした[85]東亜新秩序大東亜共栄圏の確立によってアジア解放は実現されると主張された[85]。日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都南京陥落後も、国民政府は首都を内陸部の重慶に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長はソビエト連邦への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた[86]。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蒋介石と対立する汪兆銘と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため援蒋ルートの遮断を狙い、ヴィシー政権のフランスと合意の上、フランス領インドシナへと進駐したが、このことが東南アジアを植民地にしていたアメリカやイギリスオランダなどを刺激することとなり、アメリカは経済制裁を発動し、太平洋戦争に至る[要出典]
盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いない。一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである[87]
計画経済体制の導入、日本の対ソ戦能力の低下、中国の共産化のために、近衛文麿が小事件を戦争まで拡大し、長期化させた、と中川八洋は主張している[88]
満州国の旗 満州国
日本への同調と自国存立のための戦争[要出典]ソビエト連邦と対峙する関東軍の後方支援に終始し、蒋介石中華民国政府とはほとんど交戦しなかった。
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府
中国からの独立のための戦争、およびソ連陣営である外モンゴルモンゴル人民共和国の影響下から脱するための戦争[要出典]盧溝橋事件勃発後、内蒙古へ本格出兵した日本軍に応じる形で1937年に樹立された蒙古連盟・察南・晋北の3自治政府を、1939年に統合して蒙古連合自治政府が樹立された。名目としては汪兆銘中華民国南京国民政府下の自治政府という位置づけだった。
Flag of China (1912–1928).svg 冀東防共自治政府
1935年から1938年まで殷汝耕によって河北省に存在した地方政権。中華民国臨時政府に合流。
Flag of China (1912–1928).svg中華民国臨時政府 (北京)
1937年から1940年まで王克敏を首脳として北京に存在した。日本に同調し、日本の傀儡政権ともいわれた。汪兆銘政権(南京政府)が成立すると華北政務委員会となった。
CJZ1.png中華民国維新政府
1938年から1940年まで南京に存在した。日本の傀儡政権。汪兆銘政権(南京政府)へ編入。
中華民国の旗 中華民国(汪兆銘政権) (汪兆銘政権)
日本との徹底抗戦を主張する蒋介石に対して、当時の日本の首相近衛文麿は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。その後、蒋介石に代わる新たな交渉相手として国民党No.2である汪兆銘による中国国民党政権を樹立させた。汪は蒋介石の督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの中国民衆を巻き込んだ戦法に強い反発と孫文による「日中戦うべからず」の遺訓から「一面抵抗、一面交渉」の基本姿勢のもと、反共・和平解決を掲げ、1938年に蒋介石の中華民国政府から離反した。汪は日本の力を背景として北平中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結して、1940年に蒋介石とは別個の国民政府を設立したが、蒋介石の国民政府から汪兆銘に追随するものがいなかった上、北支・中支などの一部の軍閥を除き、中国各地を支配していた多くの諸軍閥に支持されず、国際的な承認も得られなかった[89]。主に共産党軍を相手に戦った。
中華民国の旗 中華民国(国民政府)蒋介石政権
孫文死後、国内は再び分裂状態となり、国民党右派の中心人物である蒋介石率いる国民革命軍と影響力を強める中国国民党などの間で内戦が繰り広げられた。1927年(昭和2年)蒋は北伐で大敗し最大の危機を迎えると恩人である松井石根を通じ時の田中義一首相と会談し、蒙古満洲問題を引き換えに日本から北伐の援助を引き出し、張作霖を満洲に引き上げさせることに成功した。この際、張作霖関東軍に謀殺され、張学良は国民党に合流。1932年(昭和7年)汪兆銘と蒋介石の見方が一致すると両者は協力して南京で国民政府を組織する。1933年(昭和8年)には日本との間で塘沽停戦協定が締結されると1935年(昭和10年)、広田弘毅外相が議会姿勢演説で「日中双方の不脅威・不侵略」を強調、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担すると発言。汪兆銘と蒋の指導する中華民国はこれを受け入れ、反日感情を戒め、日中和平路線が着々と進められたが、中国共産党などは一部はこれを喜ばず、1935年11月、国民党六中全国大会中に汪はカメラマンに扮した中国共産党の刺客から狙撃され負傷、療養のためヨーロッパへ渡航。1936年には日本に強い不信を持っていた張学良西安事件を起こして蒋に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め中国国民党中国共産党の間で第二次国共合作が成立した。蒋は当時北支に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件を発端に「最後の関頭」演説を宣言、中国国内では国民党勢力下の兵士市民が抗日事件を起こし一層日中関係は逼迫した。郎坊事件広安門事件などの紛争をきっかけに戦火は各地に飛び火し、中国全土で国民革命軍の存亡をかけた徹底抗戦(ゲリラ戦)が展開された。装備などの面で劣勢にあった国民革命軍は国民党中央宣伝部国際宣伝処[90]を組織し謀略を駆使して国際世論を味方につけてアメリカ合衆国から支援(援蒋ルート等)を引き出した。1941年(昭和16年)11月、アメリカ合衆国は日本に仏印兵力の現状維持を含む暫定協定を提示する意向であったが、半ば見捨てられる形となった蒋は、英首相ウィンストン・チャーチルのコネクションを通じて抗議した[注釈 10]。これが一因となり暫定協定は撤回され、ハル・ノートが通告され、太平洋戦争に至る[91]
中國工農紅軍軍旗.svg 中国共産党(紅軍)
蒋介石国民党政府以前の1932年に中華ソビエト共和国として日本に宣戦布告を行ったが、当時は主権国家としての規模はなく、また日本よりも前に国民党を打倒しなければならないとしていた[92]。国民党とは国共内戦を戦っていたが国共合作によって国民党八路軍として蒋介石政権とともに抗日戦争、日本帝国主義と戦うとした。
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
日中戦争開戦当初はアジアで膨張を続ける日本に対する牽制を狙い、援蒋ルートを通じて中華民国に武器をはじめとする軍事物資と人材(訓練教官の派遣など)を提供。アメリカ合衆国議会は戦争状態にある国への武器輸出を禁じる中立法を維持していたが、日中戦争の勃発により、ルーズベルト大統領はイギリス国籍の船がアメリカ製の武器を中国へ輸送することを許可した。日本も石油をアメリカに大きく依存しており日中共に米国に依存しなければ戦争継続は困難であった。その後、仏印進駐を機に対日石油輸出を停止し、ABCD包囲網ハル・ノートが通告を経て真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると本格的に日本と戦争関係となる。
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
公式にソ連軍が参戦するのは太平洋戦争末期の1945年8月8日だが、すでに1920年代より中国で共産勢力を拡大するため紅軍ら共産主義勢力にたいして長期間にわたり支援を行い、また国共合作が成立してからは対日戦線を全面的に支援、張鼓峰事件ノモンハン事件では関東軍と交戦している。なお、日本は日ソ中立条約を締結していたソ連を通じ連合国との講和を目指したが、ソ連対日参戦により破綻した。
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
第一次世界大戦の際に日本が東アジア太平洋地域におけるドイツの権益を奪取したという事実とプロイセンドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)時代の黄禍論主義思想が対日政策に影響を及ぼしていた。1935年より中華民国に対して在華ドイツ軍事顧問団中国語版を派遣し陣地構築の指導、軍事訓練や武器の輸出を行った(中独合作)。一方、1936年には日独防共協定を締結するなど、日本にも接近しつつあった。1937年に勃発した第2次上海事変の際には、ヒトラー承認済のもと[93]蒋介石軍事顧問を務めたファルケンハウゼンが直接作戦指導にあたっている。日中間の和平交渉を仲介(トラウトマン工作)するが、交渉は決裂。軍事顧問団を引き上げることになる。日本は日独関係の悪化を憂慮し、鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表した。

日中両軍の概要[編集]

日本軍
軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊
支那駐屯軍(盧溝橋事件後の1937年7月11日に関東軍独立混成第11旅団・独立混成第1旅団の二個旅団朝鮮軍第20師団が編入[22]1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍第1軍第2軍へ編成。
上海海軍特別陸戦隊
中国国民革命軍・中国共産党軍
軍装・装備・兵力
国民革命軍:1937年時点で198師団、総兵力225万人[21]
中国共産党軍:1937年時点で総兵力20万人[21]
戦法・戦術
日本の中国進出に対して国際社会の干渉を生じさせる「遠くの敵を近くの敵にけしかける」「蛮族を制するに蛮族をもってする」という中国伝統の戦術によってソ連アメリカ合衆国の支援をとりつけた[94]
国民党軍では赤軍の手法を模倣し、督戦隊制度を導入した。当時、中国では分裂国家で統一国家ではなく、日本のような教育や軍事教練なども十分に行われなかったこともあり、中国共産党軍は便衣兵ゲリラ戦による奇襲攻撃を主な戦法とした。また、兵士には戦争目的の認識や士気が低かったことから兵士の戦闘意欲高揚と戦線離脱防止を目的として、トーチカを守備する兵士や民間人(民兵)の足に鎖をつけ、後方から督戦隊を配置して逃亡を防ぎ、最後まで交戦をさせた[注釈 11]
参加部隊
戦闘序列については以下を参照
国民革命軍戦闘序列 (1937年)
国民革命軍戦闘序列 (1938年)
国民革命軍戦闘序列 (1939年)
国民革命軍戦闘序列 (1944年)
中国住民の徴発

日中戦争期間中に国民政府徴発した兵士の総数は約1405万人である。動員を可能にすべく1936年から開始された義務兵役制度は、容易に軌道に乗ることはなく、当初は、名は徴兵であるが、実際は募兵拉致であったとされる[95]拉致被害者で目立つのは、他地域の住民や旅行中の行商人糧食などの運搬労働者であり、博徒乞食なども含まれていた[95]

日中戦争の被害[編集]

日本軍の犠牲者数
  • 総計44万6500人(陸軍38万4900人、海軍7600人、終戦後の死亡5万4000人)[96]——70万人とも[97]。また関東軍はソ連軍に降伏し、60万がシベリアなどに抑留、6万人が犠牲になった[96]
中国の犠牲者数
発表年 死傷人数 調査・出典 補足
1946年 軍人作戰死亡132万8501 中華民國國防部・発表[98] 国民革命軍のみ
1947年 平民死亡439万7504 中華民國行政院賠償委員會[99][100] 國民黨統治區
1947年 軍民死傷1278万4974 中華民國行政院賠償委員會[99][100] 國民黨統治區·軍人死傷365萬0405·平民死傷913萬4569
1985年 軍民死亡2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1995年 軍民死傷約3500万 江沢民発表[101] 江沢民、纪念抗日战争胜利五十周年大会上的讲话

上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国国民革命軍のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。[要出典]当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蒋介石国民革命軍・共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、農業商業工業運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に食糧徴発されたことや焦土作戦の影響で飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。(中国空軍の上海爆撃 (1937年)を参照)。

以下、各犠牲者数について注釈する。

  • 終戦時132万人
    • 【国民政府統計】中華民国軍令部統計:中華民国「陸軍」戦争犠牲者131万9958人[100][102]
    • 【国民政府統計】1946年中華民国国防部初歩調査にある(1947年5月中華民国行政院賠償委員会引用),「軍人戦死者数132万8501人」は「中華民国国軍」のみで、民間人または共産党軍隊の死亡者、病死者、徴兵時に失った国軍数等は含まれていない[103]
  • 1948年438万人
    • 【国民政府統計】439万7504人。1947年中華民国行政院賠償委員会の「民間人死亡者数」に関した統計に近い[103]。これは「国民党統治区域」に限っての初歩調査に浮かんだ民間人死亡者数であり、共産党統治区域の一般人死亡者数は含まれていないと思われる[100]
  • 1950年1000万人
    • 【共産党発表】蒋介石が1947年に言った「軍民犠牲者一千万人」が始まりで、概数である[100]
    • 【国民政府統計】1947年5月中華民国行政院賠償委員会によると、軍人死傷者365万0405、一般人死傷者913万4569。ただし共産党軍と共産党根拠地の数字は含まれていないと思われる。
  • 1985年2100万人
    • 【共産党発表】原文は発見されていない。おそらく「全国軍民死亡」者数を指すであろう。軍隊戦死者100万余り、民間人約2000万。詳細は次に述べる。
  • 1995年3500万人
    • 【中国共産党中央委員会総書記江沢民発言】[104]「犠牲者数」ではなく、「死傷人数」をさす。数字の初めの出所は中国の軍事科学院軍事歴史研究部の研究である。1995年出版の『中国抗日戦争史』の概算統計によると、抗日戦争期間中の中国軍隊死傷者380万人余、中国人民犠牲者2000万人余、中国軍民死傷者総数が3500万人以上に達した[105]

国共内戦[編集]

太平洋戦争および日中戦争の終結前後に、蒋介石率いる中国国民革命軍と毛沢東率いる中国共産党軍の間で国共内戦の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは上党戦役など内戦がはじまった。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、1946年6月に、蒋介石率いる国民革命軍が全面侵攻命令を発した。 1949年から1950年にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蒋介石らは台湾へ逃れ、中華人民共和国が成立した。

残留日本兵と残留日本人[編集]

国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[106]が、中国共産党軍は、シベリア抑留と同様に多くの日本人を強制連行・留用し、特に医療や建設関係に従事した。また1946年2月3日には、 八路軍の圧政に蜂起した日本人だけでなく蜂起していない日本人も大量に虐殺される通化事件が発生した。

戦後処理と戦争賠償[編集]

サンフランシスコ平和条約[編集]

朝鮮戦争中の1951年9月8日サンフランシスコで調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で連合国は全ての賠償請求権を放棄するとされた[107]。しかし、国共内戦の敗北によって蒋介石中華民国国民党1949年12月に台湾に移転し、同時に中国共産党中華人民共和国の建国を宣言しており、二国に分かれていた両国は、アメリカが中華民国を、イギリスが中華人民共和国を別々に承認することもあって、不参加となった[108][109]。また日本は平和条約にしたがって連合国に以下賠償した[110]

  • フィリピンに5億5千万ドル
  • ベトナムに3900万ドル相当の役務と生産物
  • 連合国領域内の約40億ドル(日本円で1兆4400億円、昭和26年での一般会計歳入は約8954億円)の日本人資産は連合国に没収され、収益は各国国民に分配。
  • 中立国および連合国の敵国にある財産と等価の資金として450万ポンドを赤十字国際委員会に引き渡し、14国合計20万人の日本軍元捕虜に分配。
  • 日本財産は朝鮮702億5600万円、台湾425億4200万円、中華民国東北1465億3200万円、華北554億3700万円、華中華南が367億1800万円、その他樺太、南洋など280億1400万円、合計3794億9900万円が連合国に引き渡された。

1945年8月5日の外務省調査では日本の在中華圏資産は、中華民国921億5500万円、満州1465億3200万円、台湾425億4200万円で合計2812億2900万円で、これは現在[いつ?]の価値で56兆2458億円となる(企業物価指数戦前基準)[111]

このように連合国国内のみならず、中国、台湾、朝鮮にあった一般国民の在外資産まで接収され、さらに中立国にあった日本国民の財産までもが賠償の原資とされた「過酷な負担の見返り」として、請求権が放棄された[110]

日華平和条約 (1952)[編集]

サンフランシスコ平和条約締結の翌年、1952年4月28日には台北日華平和条約が調印され、中華民国は日本への賠償請求を放棄した[112][109]。交換公文では「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」が適用範囲とされた[109]

日中共同声明 (1972)[編集]

1971年10月25日、 国連でアルバニア決議が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、中華人民共和国が中国の代表権を得た。1972年2月にニクソン大統領の中国訪問が実現し米中が接近するのと並行して日中国交正常化も進展し、1972年9月には日中共同声明周恩来国務院総理田中角栄内閣総理大臣によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、中華人民共和国は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された[113][108]。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、日中平和友好条約が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で覇権を求めないと規定された[114]。なお1979年には米中が国交正常化した

日本は中華人民共和国に対し政府開発援助(ODA)を実施し、1979年から2013年度までに有償資金協力(円借款)約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した[115]。廃止の方向にあるODAに変わって、財務省影響下のアジア開発銀行が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり[116]、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という指摘がある[117][118]

日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している[119]江沢民も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している[120]

また華人労務者への個人賠償が争われた西松建設会社事件での最高裁判決(2007年4月27日)では、サンフランシスコ平和条約は、個人の請求権を含めて、戦争中に生じたすべての請求権を放棄した。また日中共同声明も同様であるとされた[121][108][122][123]。また、重慶爆撃訴訟の東京地裁判決(2015年2月25日)では、国際法の法主体は国家であって個人ではない。また国家でさえ、戦争被害については、国家責任を規定する国際法だけでは賠償を受けることができず、賠償に関する国家間の外交交渉によって合意される必要があるとし、個人の戦争被害については国家間での処理が原則とした。またハーグ陸戦条約第3条も国家間の賠償責任を規定するもので、個人に賠償請求権を付与するものではない、と判決した。

評価[編集]

当時[いつ?]関東軍参謀だった瀬島龍三は、「満洲を建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」と戦後の談話で述べた[124]

南京戦陥落直後の1937年12月19日に読売新聞は「日本は初めこの事変をこうまで拡大する意志はなかった。支那に引張られてやむを得ず、上海から南京まで行かざるを得なかった」として、事変の序幕は西安事件で蒋介石が共産党と妥協させられてからで、それ以降は「共産党戦術」が著しく、「支那と日本と大戦争をやらすのが共産党の利益であると打算しているようであった」と報道した[125]

また同月に報知新聞も西安事件以来南京政府は大きく変化し、「政治的には国共合作後の共産党的圧力、経済的には在支権益を確保せんとするイギリス資本の掩護、思想的にはソヴィエト流の抗日救国の情熱、それ等が決河の勢いをなして北支に逆流し、ついには上海における計画的挑戦の暴露となり、戦局の急速なる拡大となってしまった 」とし、「今度の事変が決して支那と日本との問題でなく実に支那を舞台とするイギリスとソヴィエトの動きを除いては事変そのものすら考え得られないということも次第に明かとなり、東洋における防共と反英運動とが新らしい政治的課題として登場して来た」と回顧した[126]。また、イギリスは表面は不干渉を表明したが、南京政府への支援を続け、さらに米国を巻き込むことに成功したと報じた[127]

田母神俊雄(当時航空幕僚長)は、日本は国際法上合法的に中国大陸に権益を得て比較的穏健な内地化を進めようとしていたが、コミンテルンの工作によって蒋介石国民党中国共産党からの度重なるテロ行為に干渉され、またベノナファイルで明かになったように中国と同じくコミンテルンの工作を受けたアメリカに介入され、結果的に日中戦争に引きずり込まれることとなったと論じた[128]。しかし、政府と防衛省幹部が内容に問題にあるとして田母神は浜田靖一防衛大臣から更迭された(田母神論文問題)[129]小堀桂一郎中西輝政西尾幹二などは田母神論文の内容を支持し[130]森本敏小林節纐纈厚笠原十九司水島朝穂らは論文を批判した[131][132]

日中戦争を題材とした作品[編集]

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脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「惨勝」[1]
  2. ^ 「アジア大陸において日本は、連合国の一員であった中華民国に敗北し、中国は自らの勝利を[惨勝]と称した。」[2]
  3. ^ 「「惨勝」(惨儋たる勝利)と呼ばれるような終止符」[3]
  4. ^ 「惨たんたる状態で迎えたこの勝利は、あまりにも大きな犠牲をしいられた「惨勝」であったというほかはない。」[4]
  5. ^ 日支事変 (満洲事変上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変とも呼称される。
  6. ^ 中国語圏では、抗日戦争[6]八年抗戰中日戰爭中国抗日戦争中国人民抗日战争八年抗戦などと呼称される。
  7. ^ 英語圏では、1894年1895年日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年~1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。
  8. ^ 当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了[23]
  9. ^ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)[要ページ番号]
  10. ^ 当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた
  11. ^ この状況は1939年に作成された日本映画『土と兵隊』(田坂具隆監督)にも描写されている

出典[編集]

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  117. ^ “中国の増長を食い止める手段あるか 追い詰められているのは中国?”. zakzak. (2010年9月29日). オリジナルの2010年10月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101001213455/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100929/plt1009291611005-n1.htm 
  118. ^ “ならず者中国に6兆円も貢ぐ日本…オマヌケ支援をストップせよ”. zakzak. (2012年9月27日). オリジナルの2012年9月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120929231458/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120927/plt1209271125004-n1.htm 
  119. ^ 第174回国会衆議院法務委員会平成22年(2010年)5月11日会議録第11号7頁(国会会議録検索システム国立国会図書館)、西村智奈美外務大臣政務官の発言「サンフランシスコ平和条約十四条と日華平和条約の関係からまず申し上げますと、日華平和条約第十一条及びサンフランシスコ平和条約第十四条(b)により、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権は放棄されております。一九七二年の日中共同声明第五項に言うところの戦争賠償の請求は、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権を含むものとして、中華人民共和国政府がその放棄を宣言したものでございます。したがって、さきの大戦に係る日中間における請求権の問題につきましては、個人の請求権の問題も含めて、一九七二年の日中共同声明発出後、存在しておらず、このような認識は中国側も同様であるというふうに認識をしております。」
  120. ^ 人民日報1992年4月3日
  121. ^ 「サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたものと解することはできない」。また条約法に関するウィーン条約34条では第三国の義務や権利を当該国の同意なしに創設できない、35条では当該国が書面により当該義務を明示的に受け入れる場合に限って義務を負うと定めており、中国はサンフランシスコ平和条約と日中共同声明の枠組みを肯定しており、それ以外の義務を書面で確約したことはない。
  122. ^ 橋爪大三朗「先人の叡智を忘れてはならない」毎日新聞2015年5月24日
  123. ^ 浅田正彦『日中戦後賠償と国際法』東信堂2015,p374
  124. ^ 瀬島龍三『大東亜戦争の実相』[要ページ番号]
  125. ^ 読売新聞 1937.12.19(昭和12)「無理のない政治」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 政治(58-136)
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  128. ^ 日本は侵略国家であったのか「真の近現代史観」懸賞論文,2008年.アパグループ.
  129. ^ 毎日新聞 2008年11月9日 東京朝刊
  130. ^ 『WiLL』2008年11月号[要文献特定詳細情報]
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参考文献[編集]

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  • ジョン・トーランド 『大日本帝国の興亡』1巻 暁のZ作戦、毎日新聞社訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1984年(原著1970年)。ISBN 4150501017
  • 江口圭一「1910-30年代の日本 アジア支配への途」『岩波講座日本通史18巻近代3』、岩波書店、1994年。
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  • 瀬島龍三『幾山河 : 瀬島龍三回想録』 産経新聞ニュースサービス、1996年。ISBN 4-594-02041-0
  • 江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1991-05-25 (第2版第1刷)。ISBN 4-250-91009-1
  • 臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か-』中央公論新社〈中公新書 1532〉、2000年4月25日。ISBN 4-12-101532-0
  • 小林英夫『日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ』講談社〈講談社現代新書 1900〉、2007年7月20日。ISBN 978-4-06-287900-2
  • 瀬島龍三『大東亜戦争の実相』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年、ISBN 4569574270
  • 太平洋戦争研究会・編、森山康平・著『図説 日中戦争』、河出書房新社、2000年。
  • 阿川弘之中西輝政福田和也猪瀬直樹秦郁彦共著『二十世紀日本の戦争』文藝春秋、2000年。
  • 石大三郎「盧溝橋事件への一考察」『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』 No. 2, 31-41 (2001)
  • 天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』〈中国の歴史11〉講談社、2004年
  • 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』、草思社、2006年。ISBN 479421488X
  • 伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』、吉川弘文館、2007年。
  • 和田民子「19世紀末中国の伝統的経済・社会の特質と発展的可能性 (PDF) 」 『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』第8号、日本大学大学院総合社会情報研究科、2007年、 285-294頁、 ISSN 134616562014年2月6日閲覧。
  • 戸部良一日本の戦争指導—3つの視点から」『戦争史研究国際フォーラム報告書第6回』防衛省,2008年。
  • 櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) 漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治」『麗澤大学経済社会総合研究センターWorking Paper』No29、2008年12月25日
  • 石川禎浩『革命とナショナリズム : 1925-1945』岩波書店〈シリーズ中国近現代史3〉、2010年。ISBN 9784004312512
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  • 庄司潤一郎 (2011年). “日本における戦争呼称に関する問題の一考察 (PDF)”. 防衛研究所紀要 第13巻第3号(2011年3月). 防衛研究所. 2013年1月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年2月2日閲覧。
  • 櫻井良樹『華北駐屯日本軍 : 義和団から盧溝橋への道』岩波書店、2015年。ISBN 9784000291743

関連項目[編集]

外部リンク[編集]