徐永昌

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徐永昌
『中国当代名人伝』(1948年)
プロフィール
出生: 1887年12月15日
光緒13年11月1日
死去: 1959年民国48年)7月12日
中華民国の旗 中華民国台北市
出身地: 山西省代州崞県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 徐永昌
簡体字 徐永昌
拼音 Xú Yŏngchāng
ラテン字 Hsü Yung-ch'ang
和名表記: じょ えいしょう
発音転記: シュー・ヨンチャン
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徐 永昌(じょ えいしょう、1887年12月15日 - 1959年7月12日)は、中華民国の軍人。北京政府国民軍国民政府国民革命軍)、山西派に属した。次宸

事跡[編集]

国民軍から山西派へ[編集]

1900年光緒26年)、武衛左軍に加入し、1908年(光緒34年)、武衛左軍随営学堂に入学した。1911年宣統3年)に卒業し、1912年北京政府陸軍部将校講習所で学ぶ。1913年民国2年)冬に卒業し、南京予備軍官学校で連長に任命された。1914年(民国3年)、陸軍大学正則班第4期で学ぶ。1916年(民国5年)冬に卒業し、後に、孫岳率いる第15混成旅において昇進していく。

1924年(民国13年)の北京政変(首都革命)を経て、孫岳が国民軍第3軍軍長となると、徐永昌は、その第1混成旅旅長に任ぜられた。1925年(民国14年)、第3軍第1師長兼山西警備司令に任ぜられる。1926年(民国15年)春、病に倒れた孫岳の代理として第3軍軍長となる。

1927年(民国16年)春、客軍として山西省閻錫山を頼り、その配下となった。まもなく閻錫山も国民革命軍に転じ、1928年(民国17年)に徐永昌は国民革命軍第3集団軍第12路軍総指揮兼第3軍軍長となっている。同年10月、綏遠省政府主席に任じられ、1929年(民国18年)8月には河北省政府主席に転じた。

閻錫山を支えて[編集]

1930年(民国19年)の中原大戦では、閻錫山配下として、第1路前敵副総司令兼隴海路司令となった。しかし、蔣介石軍に敗北する。閻錫山が日本へ亡命した際には、徐永昌と楊愛源に晋綏軍(山西軍)再編が委ねられた。それにともない、徐永昌は第5軍軍長兼晋綏警備総司令となっている。1931年(民国20年)6月、徐永昌の第5軍は第33軍に改組され、引き続き軍長をつとめた。

同年8月、代理山西省政府主席に任じられ、10月、正式にその地位に就いた。1932年(民国21年)1月、北平政務委員会常務委員、山西省清郷督弁に任じられている。しかし実態としては、この頃に復帰した閻錫山が依然として山西省の最高実力者であったことに変わりはない。

日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)、軍事委員会委員長保定行営主任に任ぜられ、第1戦区の軍事を担当した。1938年(民国27年)2月、国民政府軍令部部長に転じ、前線指揮からは退いた。1945年(民国34年)9月、徐永昌は中華民国の代表として日本に赴き、東京湾ミズーリでの降伏文書調印式で署名した。1946年(民国35年)6月、陸軍大学校長に任ぜられた。

1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に当選し、同年末に国防部部長に任ぜられた。1949年(民国38年)3月、人民解放軍により閻錫山が籠る太原の陥落が目前となる。徐永昌・楊愛源は中華民国総統代理李宗仁に働きかけ、閻錫山を南京に召喚させた。これにより、閻錫山は太原脱出の口実を得ることとなり、専用飛行機により南京へ向かうことができた。4月、徐永昌は閻錫山に随従して台湾へ逃れている。台湾では、徐永昌は光復大陸設計研究委員会副主任委員に任ぜられた。1952年10月に退役する寸前に一級上将になった。

1959年7月12日、台北にて死去。享年73(満71歳)。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 汪仁沢「楊愛源」中国社会科学院近代史研究所『民民国人物伝 第8巻』中華書局、1996年。ISBN 7-101-01328-7 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
(創設)
綏遠省政府主席
1928年10月 - 1929年8月
次代
李培基
先代
商震
河北省政府主席
1929年8月 - 1930年10月
次代
王樹常
先代
商震
山西省政府主席
1931年8月 - 1936年5月
次代
趙戴文
先代
程潜(参謀本部参謀総長)
軍令部長
1938年1月 - 1946年5月
次代
(廃止)
先代
何応欽
国防部長
1948年12月 - 1949年4月
次代
何応欽