多田駿

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多田 駿
Tada Hayao.jpg
生誕 1882年2月24日
大日本帝国の旗 大日本帝国 宮城県仙台市
死没 1948年12月18日
日本の旗 日本 東京都
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1904年 - 1941年
最終階級 帝國陸軍の階級―肩章―大将.svg 大将
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多田 駿(ただ はやお[1]1882年(明治15年)2月24日 - 1948年(昭和23年)12月18日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市生まれ。生家は旧仙台藩(伊達藩)士である。

人物[編集]

仙台陸軍地方幼年学校(1期)、陸軍士官学校(第15期成績順位35番)砲兵科、陸軍大学校(第25期成績順位12番)卒業。

1937年昭和12年)7月に盧溝橋事件が起き、支那事変が始まった。

翌月の8月に今井清のあとをうけ、参謀次長となる(石原完爾作戦部長の推挽)。事変については石原と同じく不拡大派であり、蒋介石との和平交渉継続を唱えていた。

1938年(昭和13年)1月15日の連絡会議ではトラウトマン和平工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、この期を逃せば長期戦争になる恐れがあるため交渉継続を主張した。多田は結論を参謀本部に持ち帰って協議し、参謀本部は政変回避のために不同意であるが反対はしないこととなったため、和平工作は打ち切られた。多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた[2]。また、杉山元陸相の更迭を盛んに主張している[3]

拡大派の陸軍次官東條英機と対立したため、両者更迭となった。多田は皇族総長の下で一切を取り仕切る次長として、カウンターパートである陸軍次官を飛ばして直接陸相(杉山の後任である板垣は陸士の1期後輩であり、仙台幼年学校の同窓であるという親しい関係にあった)と接触することが多く、これが東條次官から不快に思われた側面もあった[4]

平沼内閣総辞職の際、後継内閣の陸相として新聞に名が挙がっていた

1939年(昭和14年)8月、阿部内閣の組閣時には板垣陸相の後任として陸軍三長官会議で一度は陸相候補に決定した。

しかし、第3軍司令官の多田がいた牡丹江飯沼守人人事局長が承諾を取るために派遣され、関東軍に足止めされているうちに昭和天皇より陸相には梅津との思し召しがあった[5]。陸軍三長官会議のやり直しで後継陸相を畑としたため、多田陸相は実現しなかった。

東条英機により軍事参議官在任2か月で予備役へ編入された(同期の梅津美治郎蓮沼蕃は現役続行)。

東條が陸軍の実権を握り首相となってからは太平洋戦争中も予備役から呼び戻されることなく、館山市に居を構え[6]、帰依する良寛の書を読むなど自適の生活を送り、終戦を迎えることになった。

1945年(昭和20年)12月、A級戦犯容疑者に指名を受け、逮捕される。不起訴となるも、健康上の理由で巣鴨プリズンの入所延長が認められたが、1948年(昭和23年)12月に胃癌により死去した。死の一週間後に戦犯指定は解除された。

略歴[編集]

  • 1903年(明治36年)11月 - 陸軍士官学校第15期(砲兵科)卒業、乃木希典の次男乃木保典(歩兵科)と同期
  • 1904年(明治37年)3月 - 少尉に任官。野砲第18連隊附。
  • 1905年(明治38年)6月 - 中尉に昇進。
  • 1909年(明治42年)11月 - 陸軍砲工学校高等科卒業。
  • 1913年(大正2年)8月 - 大尉に昇進。
    • 11月 - 陸軍大学校卒業(第25期)。
  • 1915年(大正4年)6月 - 参謀本部員。
  • 1917年(大正6年)3月 - 中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。
  • 1919年(大正8年)12月 - 少佐に昇進。陸軍大学校教官。
  • 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。
  • 1924年(大正13年)7月 - 欧米出張(〜1925年2月)。
  • 1925年(大正14年)5月 - 野重第2連隊附。
  • 1926年(大正15年)3月10日 - 中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。
  • 1927年(昭和2年)7月26日 - 大佐に昇進。陸軍大学校教官。
  • 1928年(昭和3年)3月8日 - 野砲第4連隊長。
  • 1930年(昭和5年)3月6日 - 第16師団(京都)参謀長。
  • 1931年(昭和6年)3月 - 中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。
  • 1932年(昭和7年)4月11日 - 満州国建国に伴い最高顧問に就任。
    • 8月8日 - 少将に昇進。
  • 1934年(昭和9年)8月1日 - 野重第6旅団長。
  • 1935年(昭和10年)8月1日 - 支那駐屯軍司令官。
  • 1936年(昭和11年)4月28日 - 中将に昇進。
  • 1937年(昭和12年)8月14日 - 参謀次長。
  • 1937年(昭和12年)8月14日〜1938年(昭和13年)3月5日 - 陸軍大学校校長を兼務。
  • 1938年(昭和13年)12月10日 - 第3軍司令官。
  • 1939年(昭和14年)9月12日 - 北支那方面軍司令官。
  • 1940年(昭和15年)4月29日 - 功二級金鵄勲章を受章。
  • 1941年(昭和16年)7月7日 - 大将に昇進、軍事参議官
  • 1941年(昭和16年)9月 - 予備役に編入(以降 営農生活)
  • 1945年(昭和20年)12月2日 - A級戦犯の容疑で逮捕
  • 1948年(昭和23年)12月16日 - 胃癌で死去
  • 1948年(昭和23年)12月24日 - 釈放(既に死去していたが、釈放者のリストには入っていた)

参考文献[編集]

  • 『日本陸海軍総合事典』秦郁彦編 東京大学出版会 1994年、など。陸士と陸大の卒業成績順位は同著p251にあり

栄典[編集]

日中戦争不拡大論者として[編集]

1936年、多田駿は冀察政務委員会の委員長・宋哲元と防共協定を結んでおり、田代皖一郎橋本群と共に対中穏健派であった。

1937年7月の盧溝橋事件に端を発して日中戦争が始まったが、多田は蒋介石政権よりもソ連の脅威を重視しており、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将・陸軍軍務課長の柴山兼四郎大佐らと、戦線不拡大を唱えていた。

1937年末、蒋介石との講和のタイミングと見て、ドイツ仲介よる和平工作(トラウトマン和平工作)を展開する。

1938年1月15日 大本営連絡会議に参謀本部次長として出席。「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相)に対し、参謀本部側は和平工作継続を主張しており、多田は1人蒋介石との和平交渉継続を唱えるも押し切られる。翌日、近衛首相は「以後蒋介石は交渉相手としない」旨を宣言する(第一次近衛声明)。

その他[編集]

  • 張作霖爆殺事件河本大作大佐は義兄(妻の兄)。
  • 陸大教官時代に、「支那人1万人の捕虜を得た情況で如何に処理すべきか」との問題を出した事がある。学生達は様々に苦心した答案を用意したが、多田が用意していた模範解答は以下の通りだったという。「全員武装を解除した上で釈放、生業に就かしむるべし」。
  • 川島芳子が特務工作員として思うように動かないと感じ始めると、暗殺命令を出していたともされている[9]
  • 支那駐屯軍司令官在任中の1935年12月17日に天津の多田駿宅に爆弾が投げ込まれ、中国人召使が負傷した事件がある。これ以外にも満州国建国から盧溝橋事件までにあらゆる抗日テロがあった。
  • 多田が収集した明代・清代の兵法書など1253冊が早稲田大学図書館に所蔵されている。

評伝[編集]

  • 岩井秀一郎『多田駿伝:「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念』(2017年3月1日、小学館ISBN 978-4093798761

脚注[編集]

  1. ^ 林茂 『日本の歴史25 太平洋戦争』 中公文庫新版 [S-2-25] ISBN 978-4122047426、60pでは「しゅん」とルビが振られている。
  2. ^ 田中隆吉 『日本軍閥暗闘史』 中公文庫 [た-27-1] ISBN 4122015006、94p
  3. ^ 風見章 『近衛内閣』 中公文庫 M185 ISBN 4122009529、89p
  4. ^ 藤井非三四 『昭和の陸軍人事 大戦争を戦う組織の力を発揮する手段光人社NF文庫 [ふ-N-920] ISBN 978-4769829201、45p
  5. ^ 半藤一利+横山恵一+秦郁彦+原剛 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/満州事変・支那事変期中公新書ラクレ 337 ISBN 978-4121503374、246-247p
  6. ^ 半藤一利+横山恵一+秦郁彦+原剛 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』 中公新書ラクレ 340 ISBN 978-4121503404、45p
  7. ^ 江口圭一大系日本の歴史14 二つの大戦』 小学館ライブラリー SL1014 ISBN 4094610146、274p
  8. ^ 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令
  9. ^ 『阿片王一代 - 中国阿片市場の帝王・里見甫の生涯 - 』(千賀基文光人社、2007年)