軍旗

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2007年パリ祭(7月14日)においてシャンゼリゼ通りを軍旗を先頭に行進する各国軍の隊列。オーストリア軍

軍旗(ぐんき)とは、広義には様々な軍種軍隊国軍又は部隊を表章する旗章を、狭義には陸軍連隊のそれを指す。英語ではWar flag、Military flag、Standardなど。海軍のそれについては軍艦旗を参照。

近代的軍隊の創設以降は伝統的に連隊(聯隊)を恒久の基本的部隊単位としてきたことから、連隊ごとに授与されるものが有名であり、連隊旗聯隊旗、れんたいき)とも通称される。

概説[編集]

同上。ドイツ連邦軍の軍旗(旗手および誘導将校以下30名は連邦陸軍第26空挺旅団第261降下猟兵大隊所属の降下猟兵

軍旗は、部隊長(指揮官)の所在を明示する目的や、部隊の精神的支柱として古くから用いられており、一例として古代ローマローマ軍)の各軍団は固有の軍旗を有していた。世界において軍旗はその軍隊の象徴であると同時に、その国の国旗に準じ国家等を表す重要な存在である。

多くの国の軍隊において、軍旗は程度の差はあれど神聖視される存在であり、原則として再交付は許されず、戦闘において敵軍の軍旗は鹵獲するべき対象となった。また、敵軍に軍旗を奪われることは大変な恥辱とされ、軍旗は命を賭して守護すべきものであると考えられる傾向があった。特に軍旗が畏敬されていた軍隊としては、近世および近代フランス軍ソ連赤軍大日本帝国陸軍などがあった。また、プロイセン以降の歴代ドイツ軍では、主に新兵が軍旗に対して宣誓を行い国家等に対し忠誠を誓う「忠誠宣誓(軍旗宣誓)」が、ほか17世紀以降のイギリス軍では近衛師団隷下の各連隊が軍旗を先頭に分列行進を行い、英国王の閲兵を受ける「軍旗敬礼分列式[1]という軍旗をメインに用いた伝統的な儀式が現代に至るまで行われている。

かつては演習地戦場において、連隊長など部隊長のあるところには常に軍旗(連隊旗)が掲げられ、部隊の所在を明示していたが、戦術通信機器の進歩により意味を失い、また連隊長や連隊本部の所在を敵に示してしまい攻撃の格好の標的となること、上述の事情から万一奪取されるなどの事態が起きた場合に将兵士気に関わることなどから、列強各国戦闘教義が進化した第二次世界大戦以降は概ね戦場に掲げられることは少なくなり、現代では単に軍隊・部隊のシンボルとして、パレード観兵式観閲式)や栄誉礼などの儀式(式典)や行事のみで使用されることが多い。

軍旗の一覧[編集]


大日本帝国陸軍[編集]

軍旗(陸軍御国旗)の意匠)
歩兵第321連隊(歩兵第三百二十一聯隊)の軍旗。本軍旗は旗竿のみが戦後の複製品であり、それ以外の旭日旗・房・竿頭は全て当時の実物
騎兵第16連隊(騎兵第十六聯隊)の軍旗(1933年)。連隊の歴戦の証として旭日旗部分はほぼ失われている
満州事変における歩兵連隊の軍旗。連隊の進軍時はその隊列の先頭に軍旗を掲げた

大日本帝国陸軍は、日本史上において先駆けて旭日旗を考案・採用し、「軍旗(旧称・陸軍御国旗)」として制定した。意匠は国旗である日章旗に準じ日章は中心に位置し、十六条の光線(旭光)を放つ。なお、海軍はその陸軍に遅れること19年後の1889年(明治22年)、(陸軍の)「軍旗(陸軍御国旗)」に倣い旭日旗を「軍艦旗」として制定した(日章位置は旗竿側に寄る)。

「軍旗」および「軍旗の意匠の旭日旗」は、五芒星(五光星)や桜星桜花)とともに、明治最初期から「帝国陸軍の象徴」として国民に広く知られており、戦争画写真軍歌メディア新聞ラジオ放送ニュース映画など)、駐屯地公開イベントである軍旗祭などを通して一般市民からも親しまれていた存在であった(#軍旗の意匠)。 

なお、制式・正式の名称は「軍旗」であるが「連隊旗聯隊旗)」の通称・呼称も採用当時から多々使用されている。

軍旗の歴史[編集]

  • 1870年(明治3年)5月15日 - 「太政官布告第355号」により「陸軍御国旗陸軍御國旗)」が各「大隊旗」とともに定められる。
    • この陸軍御国旗は、縦44(約1.33m)で横5尺(約1.51m)の房なし十六条旭日旗である。なお、この旗の制定当時は御親兵が正式に発足する以前であり、考案は兵部省による。
  • 1874年(明治7年)1月23日 - 初めて陸軍御国旗が近衛歩兵第1連隊及び近衛歩兵第2連隊に対し、明治天皇親臨のもと日比谷操練所にて親授された。
    • 親授に際して、近衛歩兵第1連隊は明治天皇より「近衛歩兵第一連隊編制成ルヲ告ク 仍テ今軍旗一旒ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々武威ヲ発揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」の勅語を賜り、連隊長野崎貞澄陸軍歩兵中佐は「敬デ明勅ヲ奉ズ 臣等死力ヲ竭シ誓テ国家ヲ保護セム」と奉答した。
  • 1879年(明治12年)12月2日 - 「太政官布告第130号」により、1870年5月15日制定の陸軍御国旗が廃止され、替って歩兵連隊騎兵連隊砲兵連隊の「軍旗」が定められる。
    • この歩兵連隊軍旗は縦2尺6寸4分(約0.8m)で横3尺(約0.91m)、騎兵砲兵連隊軍旗は縦横2尺1寸(約0.64m)で、旗の四方はモール線)で縁取られた房の十六条旭日旗である。また、旗面の竿側下角部には連隊名を記入する布が縫いつけられ、付属となる旗竿(きかん)はの4段巻き仕上げ、竿頭(かんとう)には金色金属製の菊花紋章が付される。
    • なお、騎兵・砲兵連隊は「軍旗」制定時にはまだ大隊であり編成されていなかったため、授与されていない(当時はまだ大隊編制)。
  • 1885年(明治18年)1月10日 - 太政官布告により砲兵連隊軍旗が廃止される一方、後備歩兵連隊軍旗も制定される。
    • 後備歩兵連隊軍旗は房である以外は常備歩兵連隊軍旗と変らない。
  • 1896年(明治29年)11月18日 - 騎兵大隊が騎兵連隊に改編されるのに伴って、初めて騎兵連隊に軍旗が授与される。

軍旗の扱い[編集]

軍旗は陸海軍大元帥たる天皇から直接親授される極めて神聖なものであり、また天皇の分身であると認識されたいへん丁重に扱われ、帝国陸軍や連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた。軍旗に対しては天皇に対するのと同様の敬礼が行われた(#軍旗に関する敬礼)。1936年(昭和11年)に起こった二・二六事件では、戒厳司令部が「勅命下る 軍旗に手向かふな」(これは天皇に対する反乱であり、天皇から反乱軍鎮圧の命令が出されたという意味)と書かれたアドバルーンを掲揚、またラジオ放送においても「兵に告ぐ。勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下の御命令が発せられたのである。 (中略) 今から­でも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて、軍旗の下に復帰するようにせよ」と勧告、反乱将兵に対し原隊帰順を促している。

日本大日本帝国)においては、他国の陸軍と同様またはそれ以上に軍旗が神聖視され、軍旗を喪失することは極めて重大な失態と考えられた。西南戦争を描いた月岡芳年浮世絵(錦絵)『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』[2]では、「野津大佐軍旗を奪還す」の副題の通り、西郷軍に一度奪取された軍旗(陸軍御国旗)を野津道貫陸軍大佐が奪還するシーンを華々しく描画している。反面、軍旗奪還のために無謀な作戦を行い却って部隊が損害を受けるなど、本末転倒ともいうべき事態も発生した。なお、西南戦争下の1877年(明治10年)2月22日、歩兵第14連隊植木町田原坂付近にて西郷軍の大部隊と激戦となり、移動中の連隊旗手・河原林雄太陸軍少尉は戦死し陸軍御国旗が奪取された。この事件に対し連隊長心得(連隊長代理)・乃木希典陸軍少佐[3]は、総指揮官・山縣有朋陸軍大将に対し待罪書を送り処分を請うが、この陸軍御国旗喪失は不可抗力として不問に処され翌年1月21日に再授与されている。なお、再授与直後に陸軍御国旗は発見され陸軍省が回収・保管している。

軍旗自体の所掌事務は陸軍省(陸軍大臣)が、製造は陸軍省の外局である陸軍兵器行政本部(最終時)の管轄であったが、製造自体は基本的に民間への外注であり、東京の大手高級軍装品店「株式会社寿屋商店(すやしょうてん)」が制作・納入している。また、軍旗の管理上の扱いは建前ではあるが「兵器」とされていた[4]

親授は「軍旗親授の儀」(『皇室儀制令』 大正15年10月21日皇室令)により、旗手や連隊長は正衣大礼服)着用の上、諸式にのっとり宮中皇居)にてとりおこなわれ勅語とともに軍旗が下賜された。

1930年代の歩兵連隊の軍旗と連隊旗手。中島佐一薬房による正露丸(征露丸)の雑誌広告

旗手(連隊旗手)は、新任の少尉(稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代で務め、連隊本部附であった。旗手の要件は品行方正・成績優秀・眉目秀麗・長身であることが求められ、また暗黙の要件として童貞で、悪所通いをしない高潔な人物が選ばれた。旗手は日常の勤務においては、連隊副官の秘書のような形で、連隊本部の事務処理に当たった。さらに軍旗には誘導将校と数名の軍旗衛兵が付され、また戦場では軍旗を守護するために1個中隊が編成されるが、これは本部中隊たる予備兵力として運用された[5]。観兵式などにおける分列式において、連隊が『陸軍分列行進曲』および『観兵式行進曲』[6]にのせて分列行進する際は、軍旗(旗手・衛兵)を先頭に連隊長以下連隊将兵がこれに続いた。

軍旗は完全に失われない限り再授与されることはなかったため、佐賀の乱神風連の乱秋月の乱萩の乱、西南戦争、日清戦争北清事変日露戦争第一次世界大戦日独戦争)、シベリア出兵満州事変第一次上海事変日中戦争支那事変)、張鼓峰事件ノモンハン事件第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)などを経た歴史の古い連隊の軍旗は、旗の一部が裂けたりなくなった物、房が旗から分離した物、旗部分が殆どなくなり房だけとなった物、旗竿や竿頭が破損した物がきわめて多かった。これらの軍旗は激戦を戦い抜いてきた連隊の栄光の象徴として大変な名誉とされており、1886年(明治19年)に原が発表され、1891年(明治24年)に曲がつけられた軍歌『敵は幾万』の第2番では「風に閃く連隊旗 記紋は昇る朝日子よ 旗は飛びくる弾丸に 破るることこそ誉れなれ」と謳われている。そのため、胡桃沢耕史は人為的にひそかに手が加えられていたとする証言を聞いたことを軍隊時代の体験記である『黒パン俘虜記』に記しており、また連隊の将校が在隊記念として旗片を隠れて失敬することもあった。平時においても演習時に軍旗が損傷することも少なくなく、これら損傷記録は各軍旗とともにあった公式文書である「軍旗損傷誌」や「軍旗日誌」、軍関係者や民間向けに頒布される冊子や軍旗縮図に絵入りで記されていた。行軍時には無駄な汚損を防ぐため、筒状の布袋(覆い)を被せ保護する。

1909年(明治42年)、特別大演習に参加するため営門を通過した瞬間の歩兵第58連隊の軍旗(当特別大演習記念絵葉書

中でも、神風連の乱にて旧・熊本藩反乱士族の攻撃を受けた歩兵第13連隊では、佐竹広明陸軍中尉が陸軍御国旗を体に巻きつけ死守したため旗がに染まり、また、日露戦争の沙河会戦・三塊石山の夜襲白兵戦において、歩兵第39連隊の軍旗は鮮血を受けたため、これらは「血染めの軍旗(血染めの連隊旗)」と謳われよりいっそう尊崇された。

なお、軍縮宇垣軍縮)などにより連隊が廃止される際は軍旗は奉還(返納)される。これは編制の改編でも同様であり、1940年(昭和15年)頃末から順次実施された一部の既存騎兵連隊の捜索連隊機動戦闘斥候部隊)への改組では、(捜索連隊の)編成に際して軍旗は奉還されている(なお、全ての騎兵連隊が改編されたわけではなく、儀仗部隊を兼ねている近衛師団近衛騎兵連隊や、騎兵第26連隊など数個連隊は終戦時まで存続している)。

戦時の報道写真においては、防諜上の理由から画面に写った軍旗は検閲の対象に含まれた。また、軍旗は戦闘において連隊が壊滅間際・玉砕直前(連隊の最期)になった際は連隊長や旗手の手により奉焼(丁重に焼く)された(#軍旗の奉焼等)。第二次大戦終戦時には各連隊に対し陸軍大臣より奉焼命令が出され、軍旗奉焼式を経てごく一部を除き全てが焼失し、灰や燃え残った旗・竿頭破片も土中に埋没ないし河川に流され処理された(#現存する軍旗)。これは天皇の分身である軍旗を敵の手に渡すことを避けたためである。

軍旗の意匠[編集]

軍旗の意匠の旭日旗
日清戦争勝利凱旋の祝典を描いた錦絵。中央上部に軍旗を配すとともに、また祝事であるため酒樽には旭日が描画されている。なお、中央右寄りの叉銃に組み込まれている白地に赤色の山形波線の旗は第1大隊旗(大隊旗)楊斎延一画 1894年(明治27年)

上述の通り、「帝国陸軍の軍旗の意匠たる旭日旗」は当時から有名な存在であったと同時に、その意匠は現代の今日に至るまで多方面で使用されることとなった(日章旗と同じく各サイズの旭日旗が大量に生産され軍隊のみならず民間においても広く普及していた)。なお、日本において「旭日」という概念・意匠自体は比較的古くから膾炙していたものの、「旭日旗」として公式に考案・採用・規定されたのはこの「陸軍御国旗(軍旗)」が史上初めてである。

軍旗が帝国陸軍の象徴に位置づけられていた一例として、元帥たる陸海軍大将が佩用した1898年(明治31年)制定の「元帥徽章」や、明治二十七八年従軍記章明治三十七八年従軍記章大正三四年従軍記章/大正三年乃至九年戦役従軍記章支那事変従軍記章といった各戦役の従軍記章では、その意匠に軍旗[7]を使用していた。また、陸海軍の予備役軍人や未入営補充兵ら在郷軍人が入会する組織、帝国在郷軍人会の区町村単位の分会が保有する「会旗」は歩兵連隊軍旗をモチーフとしたものであった[8][9]

特殊な例として、1898年(明治31年)に慶應義塾(慶應義塾大学)が、軍旗を制作・納入している寿屋商店より特別の許可をもって制作途上の軍旗を購入している。これは、慶應義塾が他校に先駆けて独自に発足させた慶應義塾生徒隊(兵式操練を行う団体)の隊旗として導入したものであり、旭日旗自体はそのままに竿頭を塾章であるペンマークに、房は浅葱色に変え、軍旗では連隊の隊号を記入する余白には福澤諭吉によって「慶應義塾生徒隊」の文字が書かれたあった、翌、1899年(明治32年)3月15日には福澤別邸において隊旗授与式が行われている[10]

また、チベット国旗(軍旗)の意匠は、その考案に青木文教が関与していたこともあり間接的に帝国陸軍の軍旗(旭日旗)の意匠の影響を受けている[11]

現存する軍旗[編集]

歩兵第321連隊(1945年7月23日親授)では軍旗の喪失を惜しんだ連隊長・後藤四郎陸軍中佐の考えにより、旗竿のみを収めた奉安箱を奉焼。旗と竿頭はGHQ統治下を経て日本の主権回復に至るまで神道天行居という団体の施設に隠し通したため、これがほぼ完全な姿で現存する唯一の軍旗となっている。これは旗竿を復元したうえで靖国神社奉納され、遊就館の特別陳列室に展示されている。

このほかにも一部の連隊では奉焼を経て残った破片や灰、もしくは奉燃を免れた一部が連隊将兵の手により持ち帰られている。歩兵第57連隊歩兵第86連隊歩兵第143連隊などの物は靖国神社に奉納され遊就館の第15展示室に、歩兵第39連隊では血染めの旗片を同連隊の慰霊碑内に納め更にその一部は姫路駐屯地史料館に、歩兵第63連隊の破片は出雲駐屯地資料室に、歩兵第70連隊では連隊長・石川粂吉陸軍大佐の「連隊長は軍旗とともにある」という信念により竿頭と房の一部および軍旗日誌を主権回復に至るまで保管、現在は篠山市の戦没者慰霊施設(遺芳殿・遺芳館)に収蔵されている。歩兵第14連隊では奉焼式に参加した将校准士官以上および、各中隊の下士官代表の全員に対し切り分けた房を配布、また一部の青年将校が埋没された竿頭の破片を掘り起こし保管している。

ギャラリー[編集]

軍旗に関する敬礼[編集]

連隊長を筆頭に軍旗の敬礼を行う歩兵第36連隊(日中戦争時)

陸軍礼式令』(昭和15年1月25日軍令陸第3号)によると、第4章に軍旗に関する敬礼が定められている。

軍旗の敬礼
軍旗は、天皇に対するとき及び拝神の場合に限り敬礼を行うものとされ、連隊旗手、軍旗衛兵並びに軍旗中隊及び誘導将校、護衛下士官並びに軍旗誘導部隊は、軍旗の敬礼を行う場合に限り敬礼を行うものとされた。
軍旗に対する敬礼
抜刀将校や武装下士官兵の軍旗に対する敬礼は天皇に対する敬礼に同じであり、抜刀将校は刀の礼、武装下士官兵は捧銃・捧刀の礼を行う。室内においては、拝礼する。軍旗に行き遇いまたはその傍を通過する者は、行進間においては停止し、乗馬者は乗馬のまま、乗車者は乗車のまま軍旗に面して敬礼を行う。
この敬礼は連隊長や連隊旗手ではなく、飽くまで軍旗に対して行われる。

軍旗の奉焼等[編集]

  • 近衛後備歩兵第1連隊(1904年6月15日に奉焼。翌年6月28日に再授与)
    • 日露戦争下の1904年(明治37年)6月15日、常陸丸事件ロシア帝国軍に鹵獲されることを防ぐために連隊長・須知源次郎陸軍歩兵中佐が奉焼させた。同年6月28日に「曩ニ近衛後備歩兵第一聯隊ニ授与シタル軍旗玄界灘ニ於テ聯隊長戦死ノ際焼棄セシニ由リ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」という勅語とともに再授与された。
  • 歩兵第49連隊(1906年10月2日に失火により焼失。同年12月14日に再授与)
    • 北韓警備に当たっていた1906年(明治39年)10月2日、火災によって連隊長室ともに焼失する。旅団長は5日、連隊長・太田朗陸軍歩兵中佐及び連隊旗手は軽謹慎30日、連隊長代理及び週番司令は軽謹慎25日、連隊附少佐及び連隊副官は軽謹慎20日の処分を受けた。なお、軽謹慎処分は懲罰処分であって、軍法会議にかけられたわけではない。同年12月14日に「曩ニ歩兵第四十九聯隊ニ授与シタル軍旗ハ不慮ノ災ニ罹リ亡失セシニヨリ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」という勅語とともに再授与される。
  • 歩兵第64連隊(1939年8月29日に奉焼)
    • ノモンハン事件下の1939年(昭和14年)8月29日、ソ連軍に包囲され脱出が困難となったため、連隊長・山県武光陸軍歩兵大佐は軍旗を奉焼させた。
  • 歩兵第71連隊(1939年8月30日に奉焼)
    • ノモンハン事件下の1939年8月30日、ソ連軍に包囲され脱出が困難となったため奉焼した。連隊長は先に戦死していた。
  • 歩兵第170連隊(1942年11月16日に海没)
    • 1942年(昭和17年)11月16日、パラオ沖でアメリカ海軍潜水艦雷撃により輸送船とともに海没する。連隊長の再三の再交付申請も、大本営参謀辻政信により、連隊解散、激戦地への所属兵員の配置が懲罰的に行われ再交付されなかった。帝国陸軍史上前代未聞の軍旗海没事例であった。
  • 歩兵第28連隊(1942年8月21日に奉焼)
  • 歩兵第29連隊(1942年10月・1945年9月)
    • ガダルカナル島の戦い下の1942年10月頃、埋没処理を行う。連隊長・古宮正次郎陸軍大佐は自決。連隊再建後の1944年1月31日に再授与、終戦時は仏印のビエンホア付近で奉焼。
  • 歩兵第210連隊(1944年4月26日に海没)
    • 1944年(昭和19年)4月26日、バシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の雷撃により輸送船乗船中の連隊長・小池安正陸軍大佐とともに海没する。再交付されなかった。
  • 歩兵第118連隊(1944年7月4日に奉焼)
  • 歩兵第135連隊(1944年7月4日に奉焼)
    • サイパンの戦い下の1944年7月4日、サイパン島で奉焼。連隊長・鈴木栄助陸軍大佐は先に戦死していた。
  • 歩兵第136連隊(1944年7月4日に奉焼)
    • サイパンの戦い下の1944年7月4日、サイパン島で奉焼。連隊長は小川雪松陸軍大佐。
  • 歩兵第38連隊(1944年7月21日に奉焼)
  • 歩兵第18連隊(1944年7月25日夜に奉焼)
    • グアムの戦い下の1944年7月25日夜、グアム島で奉焼。連隊長・大橋彦四郎陸軍大佐以下玉砕した。
  • 歩兵第50連隊
  • 歩兵第33連隊
  • 歩兵第9連隊(1944年10月頃に奉焼)
    • レイテ島の戦い下の1944年10月頃、レイテ島で奉焼。連隊長は神谷保孝陸軍大佐
  • 歩兵第20連隊(1944年10月頃に奉焼)
    • レイテ島の戦い下の1944年10月頃、レイテ島で奉焼。連隊長は鉾田慶次郎陸軍大佐。
  • 歩兵第2連隊(1944年11月24日夜に奉焼)
  • 歩兵第145連隊(1945年3月14日に奉焼)
  • 歩兵第22連隊(1945年6月24日頃に奉焼)
  • 歩兵第89連隊(1945年6月24日頃に奉焼)
    • 沖縄戦下の1945年6月24日頃、沖縄南部で奉焼。連隊長・金山均陸軍大佐以下玉砕した。
  • 歩兵第278連隊(1945年8月16日に奉焼)
    • ソ連対日参戦下の1945年8月16日、ソ連軍に包囲されたため奉焼。連隊は玉砕した。
  • 歩兵第32連隊(1945年8月28日奉燃)
    • 沖縄戦において、6月23日の第32軍司令部壊滅後も戦闘を継続していた歩兵第32連隊は、終戦によりアメリカ軍に投降する前日に軍旗を奉焼した。連隊長は北郷格郎陸軍大佐。

難を逃れた軍旗[編集]

陸上自衛隊[編集]

自衛隊旗
自衛隊旗(連隊旗)。中隊旗(特科)が地面に着けられているのに対して、自衛隊旗は捧持されたまま

陸上自衛隊において、「軍旗」に相当するものは自衛隊旗である。意匠は八条の旭日旗で、旗地の彩色は白色、日章及び光線の彩色は紅色、縁の彩色は金色とされている。横は108.9cm、日章は直径41.5cm。旗の生地はあや錦織。連隊名は旗竿に付されている銘板に記入される。

自衛隊法(昭和29年6月9日法律第165号)第4条により内閣総理大臣[12]は自衛隊旗を交付し、自衛隊法施行令(昭和29年6月30日政令第179号)第1条の2第1項により陸上自衛隊の連隊にのみ交付されることとなっているため、「連隊旗」の通称・呼称も多々使用されている。

自衛隊旗の扱い[編集]

陸上自衛隊には連隊以外にも、旗・大隊旗・中隊旗(甲)および中隊旗(乙)に隊旗が授与されるが、次のような差異・特異点がある。

  1. 法律の正条に規定されている(他の隊旗は訓令[13]に規定されている)。
  2. 内閣総理大臣から授与される(他の隊旗については特別な規定はない)[14]
  3. 旭日旗である(他の隊旗の意匠は帽章)。
  4. 恒久的・伝統的な部隊単位である連隊にのみ授与される。
  5. 旗手には主に防大卒の3等陸尉が充てられる(国旗および他の隊旗の旗手は、主に各部隊の訓練准尉又は訓練陸曹等)。
  6. 一度使用された連隊旗は当該部隊が廃止後別の部隊に授与されることなく広報館等に展示されるか保管・廃棄される[15]
  7. 部隊旗及び帝国陸軍の軍旗と違い、旗に部隊名は直接記載されない[16]

自衛隊旗を含む隊旗については

  1. 部隊が儀式その他の公式の行事に参加する場合。
  2. 部隊が自衛隊法第6章に規定する行動を行なう場合で部隊の長が必要と認めるとき。
  3. その他部隊の長が特に必要と認める場合。

に使用することができるものとされ、現代の軍旗の使用実態に合わせて、行事における使用目的が、旧来の軍旗の用途である戦場における部隊長の所在の明示目的よりも上位に列挙されている。

自衛隊旗の意匠[編集]

『箱館大戦争之図』

陸上自衛隊の自衛隊旗は帝国陸軍時代の軍旗の意匠をベースとしているものの、光線を十六条から八条に変更するなど差異がある。

なお、八条旭日旗の意匠自体は十六条旭日旗と同時代の頃から存在しており、例として明治時代初期に歌川芳虎により描かれた箱館戦争を描いた錦絵、『箱館大戦争之図』や『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』[17]では、新政府軍(帝国陸軍)が自衛隊旗の意匠とほぼ同じ八条旭日旗を掲げ、旧幕府軍と戦闘を行っている場面が描画されている。

ギャラリー[編集]

ドイツ軍(1918 - 1945年)[編集]

ドイツ陸軍の歩兵連隊軍旗・連隊旗 (Truppenfahne)
ドイツ軍旗 (Reichskriegsflagge 1935 - 1945)。海軍の軍艦旗としても用いられていた

ドイツ語では日本語の旗に対応する単語が大きく分けて2つある。掲揚台からスルスルと掲揚される旗はFlagge、旗竿に固定される旗はFahneと称す。また、Fahneの中でもStandarteと称される十字型の旗竿から吊るされる小さな四方形の旗も存在する。 当項では第一次大戦から第二次大戦期における、ドイツの軍隊および準軍事組織の軍旗・連隊旗等の変遷について述べる。

ヴェルサイユ条約により10万人の兵力を制限されたヴァイマル共和政下のドイツ国軍は、1933年アドルフ・ヒトラーの政権獲得とともに大きく変化する。1935年にヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備が宣言されドイツ国防軍となると、旧軍の連隊旗が式典に登場することを許され、さらに1936年から順次新しい連隊旗が授与された。これはTruppenfahne (125cm×125cm) と呼ばれ、各兵科毎に色(兵科色)と意匠が異なる。連隊名は旗の下端の旗竿に巻き付けられたリング (Battalion ring) に刻印されている。また、それと同じ兵科色と意匠でスワローテールの小振り (75cm×51cm) の連隊旗も作られた。陸軍のみならず、海軍空軍突撃隊親衛隊武装親衛隊 (Truppenfahne (Waffen-SS)) にも連隊旗に相当する旗があった。

ドイツではプロイセンの時代より忠誠宣誓 (Fahneneid) に連隊旗が用いられている。新兵は左手を連隊旗に触れながら、右手を挙げ、人差し指と中指を立てて宣誓文を復唱する。第二次大戦もなかばを過ぎると、敵に鹵獲される連隊旗も多くなったことにより、1944年9月16日には連隊旗をすべてベルリンに回収する命令が出され、忠誠宣誓は連隊旗ではなくドイツ軍旗 (Reichskriegsflagge) を用いるように変更された。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 軍旗敬礼分列式(Trooping the Colour)とは何ですか? 駐日英国大使館
  2. ^ 鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図〔野津大佐軍旗を奪還す〕 国立国会図書館
  3. ^ 乃木は明治天皇に殉死した際の理由の一つにこの事件を挙げた。
  4. ^ なお、帝国陸軍において「兵器」の定義は広く、一例として小銃の「負革」・乗馬用の「馬具」・銃剣の「剣差」等といった皮革品も分類は兵器である。
  5. ^ 衛戍地においては軍旗は基本的に連隊長室に安置される。
  6. ^ 乗馬部隊・機甲部隊・機械化部隊・航空部隊等用のギャロップ
  7. ^ 海軍の軍艦旗と併用(交差)し「陸海軍(日本軍)」を表した。
  8. ^ 内閣 『御署名原本・昭和十一年・勅令第三六五号・帝国在郷軍人会令』 アジア歴史資料センター、Ref:A03022054700、1936年9月24日
  9. ^ 帝国在郷軍人会鮎川村分会の会旗(紀伊民報)
  10. ^ 慶應義塾生徒隊旗授与式
  11. ^ 青木文教 『祕密之國 西藏遊記』 内外出版、1920年10月19日、近代デジタルライブラリー
  12. ^ 連隊創設の式典では防衛大臣(旧・防衛庁長官)から授与されることが多い。
  13. ^ 「自衛隊の旗に関する訓令」(昭和47年3月14日防衛庁訓令第3号)
  14. ^ 但し、政治的に重要視される状況下での授与式を除いては防衛大臣や政務官、陸上幕僚長及び方面総監が代理人として授与する
  15. ^ 但し、師団隷下から旅団・混成団等の隷下に再編成される場合は、形式上一度返納後に翌日編成完結式時に再交付される場合もある
  16. ^ 但し付属品には部隊名が記されており、それで連隊名が判別できる
  17. ^ 『時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図』 国立国会図書館

文献[編集]

  • 柘植 久慶: 『ヒトラー時代のデザイン』、小学館、ISBN 4-09-402605-3、2000年
  • John R. Angolla and Adolf Schlicht. 1987. Uniforms & Traditions of the German Army 1933-1945 Vol.3 R.James Bender Publications, ISBN 0-912138-37-8.
  • Wise, T. 1977. Military Flags of the World, 1618-1900. New York: Arco.
  • Wise, T. 1981. Flags of the Napoleon Wars. 3 vols. London: Osprey.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]