士族

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士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として禄を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。他にも藩に属する人間も士族とされており、東芝創業者田中久重が一例に挙げられる。

概要[編集]

1869年(明治2年)の版籍奉還の直後の明治2年旧暦6月25日(西暦1869年8月2日)、明治政府は旧武士階級(藩士兵卒)のうち、一門から平士までを士族と呼ぶことを定めた(明治2年行政官達第576号)。士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分であった足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた[1]一方で、中間などの武家奉公人卒族に編入された[2]。政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした[3]

一門以下平士ニ至ル迄総テ士族ト可称事

さらに明治2年旧暦12月2日(西暦1870年1月3日)、かつての旗本が新政府帰順後に与えられていた中下大夫上士以下の称が廃止され、華族に編入された一部の交代寄合を除いて士族に編入された(明治2年太政官布第1004号)[4]

明治3年旧暦12月10日(西暦1871年1月30日)には、華族とみなされなかった多くの地下家公家に仕えていた青侍などの家臣層も士卒族に統合された。その後、寺社の寺侍なども段階的に士卒族へ統合された。その一方で、給金の財源不足への対策として帰農帰商が推奨され、士卒族から平民への転籍が推進された。また蔵米の等級の変更により、一部の卒族から士族への族籍変更が行われた。

1872年(明治5年)に編製された戸籍「壬申戸籍」においては族籍の項目が設けられた。当時の全国集計による士族人口は、全国民の3.9%を占める25万8952戸、128万2167人であった。また、卒族人口は全国民の2.0%を占める16万6873戸、65万9074人で、士族・卒族・地士[5]の人口は全国民の約6%を占めた(詳しくは壬申戸籍の項目を参照)。

明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)、卒族の称が廃止された。卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入されることとなった一方、新規に一代限りで卒に雇われた者は平民に復籍することとなった(明治5年太政官布第29号)。

各府県貫属卒ノ内従前番代ノ節抱替ノ称ヲ以テ其倅等ヘ禄高ヲ給与シ自然世襲ノ姿ニ相成居候分ハ自今士族ニ可被 仰付候条調書ヲ以大蔵省ヘ可伺出尤家禄ノ儀ハ従前ノ通可相心得事
但新規一代限抱ノ輩ハ平民ニ復籍セシメ給禄ハ是迄ノ通可遣事

明治5年初頭の時点で卒族だった者の9割近くは、士族に移行している。明治8年までには卒族は完全に解体され、世襲の郷士階級も士族に統合された。明治9年の時点で、士族は40万8861戸 189万4784人を数え、全国民の5.5%を占めた。

士卒族人口構成(明治3~9年)[6]
調査期日 士族人口 卒族人口 総人口[7] 士族/総人口(%) 卒族/総人口(%)
明治3年頃[8] 1,094,890 830,707 30,088,335 3.64 2.76
明治5年旧暦1月29日 1,282,167 659,074 33,110,796 3.87 1.99
明治6年1月1日 1,548,568 343,881 33,300,644 4.65 1.03
明治7年1月1日 1,883,265 7,246 33,625,646 5.60 0.02
明治8年1月1日 1,896,371 4,306 33,997,415 5.58 0.01
明治9年1月1日 1,894,784 34,338,367 5.52

なお、法的には士卒族として扱われなかった、陪臣や武家奉公人等を含む旧武士階級の総人口については諸説あるものの、例えば士族授産の対象となった旧武家人口がほぼ士族人口の倍であったことから総人口の10.4%程度であるとする試算[9]や、『藩制一覧』掲載の人口と石高比から約336万人であるとする試算[10]がある。旧武士出身者の平民籍取得の経路として、陪臣や武家奉公人の例以外にも、例えば以下のような事例があげられる。

  • 明治5年の卒族廃止に伴うもの
  • 帰農帰商の推奨(明治3年から明治4年にかけて、明治政府は帰農帰商出願者に一時賜金を下府し、民籍取得を推奨した)
  • 刑罰としての除籍
  • 脱藩・浪人(江戸時代の浪人に加え、戊辰戦争や戊辰戦争後の幕府方の処分・改易により発生したもの)
  • 手続きの不備

明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、4代程度にわたって兄弟姉妹、配偶者、それぞれの子供、子孫ら家族すべてが記されていた。男子は結婚しても兄弟すべての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍することはなかった。分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。大正時代の平民宰相原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため、20歳のときに分籍して戸主となり「平民」に編入された。

士族の解体[編集]

江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。また、苗字の名乗りは1870年平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。この他、1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていたが、明治新政府の元勲であった伊藤博文から維新に功労があった武士を勲功華族とする案が提唱され、これが採択されることにより、士族に対する恩典は名字帯刀や秩禄はおろか、名分上の栄誉さえも許されず、単に戸籍における族称のみが士族に許されただけであった[11]

士族の商法[編集]

四民平等へと移行される過程で、士族身分は解体され、多くは生計を立てるため農業や商業を始めた。塚原渋柿園によると、商業で最も多かったのは、汁粉屋、団子屋、炭薪屋、古道具屋などであったという。特に屋敷の長屋などで先祖代々の家財道具を並べた安直な古道具屋は供給に対して需要が少なく、横柄で堅苦しい客応対もあり、庶民の憐憫と嘲笑を買った。

このように、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗する例は多く、「士族の商法」と揶揄され、性急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえともなった。落語のネタにもなり、三遊亭圓生の『士族の商法』、八代目桂文楽の『素人鰻』は特に有名である。また、歌舞伎では『水天宮利生深川』、『霜夜鐘十字辻筮』が散切物の代表作となっている。

こうした状況に対し政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産などが行われたが、やはり失敗する例が多かった。西郷隆盛が唱えた征韓論にも士族の救済という側面があったが、西郷が政争に敗れ実現しなかった。特権を奪われた士族の一部は新政府の政策に不平を唱えて(不平士族)各地で反乱(士族反乱)を起こした。しかし、不平士族の反乱はすぐに鎮圧され、多くは没落して故郷へ帰るなどした。

このことも風刺の対象となり士族の商法とかけて「有平糖」(不平党)、「お芋の頑固り不平おこし」(薩摩士族)などと皮肉られた[12]。なお、不平士族には政治運動「士族民権」を展開するものもあり、後に豪農と結び付き自由民権運動へと移行した。

ただし、士族の中でも知識や人脈、既得権益を生かして実業家に転向する者も見られ[13]、例として、日産コンツェルンの創始者鮎川義介、日本初の百貨店(三越百貨店)創立者日比翁助などが挙げられる。また、士族銀行や殿様銀行と呼ばれる士族の資産を活かした銀行(国立銀行)が設立され、日本の殖産興業政策を活性化させた。武芸や学問に通じた者は、軍人、警察官、教師など官吏に転向したり、かつての藩主と藩士の縁故関係から、県・郡役所に採用された例も多い。酪農のように、元来の農民がこれを忌避したがために、士族がこれを手がけて成功した例もある。

士族の実態[編集]

士族の人口構成[編集]

明治6年(1873年)以降年々、国民の総人口及び士族人口も増加傾向をたどったが、総人口に占める士族の割合は、士卒合併がほぼ完了した明治7年(1874年)の5.6%からほぼ単純減少を示している。平民の自然増に加え、士族の世帯から長男以外の男子が分籍して平民に移行することも原因として挙げられる[14]

以下に明治9年(1876年)以降の士族人口の変遷をまとめる。

士族人口の変遷(明治9~大正7年)[15]
調査期日 士族人口 総人口[7] 士族人口
増加指数[16]
総人口
増加指数[16]
士族人口
割合(%)
明治9年1月1日 1,894,784 34,338,367 100.00 100.00 5.52
明治12年1月1日[17] 1,833,357 35,768,547 96.76 104.16 5.13
明治13年1月1日[17] 1,838,486 35,929,023 97.03 104.63 5.12
明治14年1月1日 1,933,888 36,358,955 102.06 105.88 5.32
明治15年1月1日 1,931,824 36,700,079 101.95 106.88 5.26
明治16年1月1日 1,930,112 37,017,262 101.86 107.80 5.21
明治17年1月1日 1,945,638 37,451,727 102.68 109.07 5.20
明治18年1月1日 1,938,204 37,868,949 102.29 110.28 5.12
明治19年1月1日 1,948,283 38,151,217 102.82 111.10 5.11
明治19年12月31日 1,940,271 38,507,177 102.40 112.14 5.04
明治20年12月31日 1,954,669 39,069,691 103.16 113.78 5.00
明治21年12月31日 1,976,480 39,607,234 104.31 115.34 4.99
明治22年12月31日 1,993,637 40,072,020 105.22 116.70 4.98
明治23年12月31日 2,008,641 40,453,461 106.01 117.81 4.97
明治24年12月31日 2,009,396 40,718,677 106.05 118.58 4.93
明治25年12月31日 2,014,306 41,089,940 106.31 119.66 4.90
明治26年12月31日 2,024,317 41,388,313 106.84 120.53 4.89
明治27年12月31日 2,039,591 41,813,215 107.64 121.77 4.88
明治28年12月31日 2,050,144 42,270,620 108.20 123.10 4.85
明治29年12月31日 2,067,997 42,708,264 109.14 124.37 4.84
明治30年12月31日 2,089,134 43,228,863 110.26 125.89 4.83
明治31年12月31日 2,105,698 43,758,415 111.13 127.43 4.81
明治36年12月31日 2,168,058 46,732,138 114.42 136.09 4.64
明治41年12月31日 2,218,623 49,587,531 117.09 144.41 4.47
大正2年12月31日 2,310,269 53,362,189 121.93 155.40 4.33
大正7年12月31日 2,298,719 56,667,328 121.32 165.03 4.06

母体としての士族:士族の官職保有率と有位者数[編集]

「階級」としての武士が平準化を迫られた一方で、江戸前期まで支配を担ってきた階級として、扱いに困っていたが、明治新政府は藩閥制度より率いられた政府であり、役人も当初は各藩からの「徴士」「貢士」という人材供出より始まったものであるため、版籍奉還後も藩主は藩知事、旧藩士たちは藩吏として務め、府県に移行した後も奉職した者も多い。明治14年(1881年)段階の中央や地方官における士族の官職保有率の割合を見ると、官員総数が約7万8000人のうち、士族の任官者は約5万2千人、地方郡町村吏においても約9万2千人のうち士族の割合は1万5千人と、比較的高い割合を占めていた[18]従一位から従八位までの有位者の割合も明治17年(1884年)から明治36年まで7割から6割の間で推移していた(しかし授与された有位者は士族を救済する役目もあったため、割合は多めである)[19]。このことから、族籍としては特権を失う一方で、明治新政府や地方行政の中では既得権益を維持した士族もいたことがわかる。なお官吏は募集人数が少なく、すべての士族が就けたわけではなく、転向する羽目となった士族が多い。後に下記の通り選抜が実力化されると、割合としては急激に減少していき平民に置き換わっていった。

明治14年の官職保有士族の戸数比率[20]
官員 (中央・府県道の文・武官、司法官、監獄官、技術官) 総数7万8328人(うち士族5万2032人)
郡区町村吏 総数9万266人(うち士族1万5524人)
士族 総戸数 425658戸
有位者(従一位~従八位)族籍別構成[21]
年∖族籍別構成 族籍別構成(人) 占有率(%) 人口一万人あたりの輩出率
華族 士族 平民 合計 華族 士族 平民 士族 平民
明治17年(1884年)

19
29
36

693

683
949
1,121

4,832

6,053
10,496
21,324

692

1,059
5,247
10,589

6,217

7,795
16,692
33,034

11.1

8.8
5.7
3.4

77.7

77.7
62.9
64.6

11.1

13.6
31.4
32.1

24.8

31.2
50.8
98.4

0.2

0.3
1.3
2.4

士族の教育水準・職業選択:輩出母体としての士族[編集]

士族は比較的良い教育水準を持っていたとされる。明治期に官立大学と高等教育機関の整備が進められ、当時の『文部省年報』を見ると旧制高等中学校の学生に占める割合は、明治前期にあたる明治19年(1886年)から25年(1892年)までの統計でおおむね半数近く、低い年度でも3割強を占めた。明治43年の統計では大幅に割合が低下するものの、それでも3割に近い割合で士族が難関中学・高校へ進学していることが確認される[22]。 明治前期は割合がやや多かったが、明治中後期になると数値が目立たなくなり、各入試の制度が確立されたことによって平民の数が増えていき数値としては逆転したものとなっていった。

旧制高等中学校生の族籍分布[23]
   華族 士族 平民 総数
明治19年(一高中)

明治20年(一高中)
明治20年(三高中)
明治21年(五高中)
明治23年(全高中)
明治24年(全高中)
明治25年(全高中)

0.2%

0.3
0.3
0.0
0.2
0.1
0.2

60.9%

60.0
37.3
77.3
51.5
51.4
51.6

38.9%

39.7
62.4
22.7
48.4
48.5
48.2

1,188

1,048
319
260
3,982
4,442
4,443

明治43年の旧制高校生族籍分布(外国人を除く)[24]
   華族 士族 平民 合計
一高*

二高
三高
五高
六高
七高

1.1%

0.3
0.2
0.0
0.0
0.3

27.1%

25.0
25.4
40.8
24.1
33.7

71.8%

74.7
74.3
59.2
75.9
66.0

273

739
869
868
601
726

一連の教育制度が整い、族籍に関わらず進学の道が開かれる一方で、官吏登用の面でも国民に広く任用の機会が開かれた。明治20年(1887年)、文官試験試補及見習規則が整い、能力試験に基づく官吏任用がはじまったが、士族の子弟の任用は低くても2割から3割を占めた(以下の表 文官高等試験(行政科)合格者族籍別構成参照)。地方吏員の任用も、戸長以外の区郡長や書記などの公職にも見られ、士族が転向を含めて各職業の母体として存在していたことがわかる。

文官高等試験(行政科)合格者族籍別構成[25]
年∖高文合格者構成 族籍別構成(人) 占有率(%)
華族 士族 平民 合計 士族(%) 平民(%)
明治27年(1894年)

28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
大正1年(1912年)
2
3
4
5
6

0

0
0
0
0
0
1
0
0
0
3
2
0
0
2
0
1
2
1
5
1
1
1
0

2

16
26
24
24
12
21
17
18
21
15
26
24
24
33
48
46
42
44
56
49
38
22
42

4

21
24
30
17
19
36
25
23
32
36
36
39
53
71
82
83
95
103
119
123
97
92
82

6

37
50
54
41
31
58
42
41
53
54
64
63
77
106
130
130
139
148
180
173
136
115
124

33.3

43.2
52.0
44.0
58.5
38.7
36.2
40.5
43.9
39.6
27.8
40.6
38.1
31.2
31.1
36.9
35.4
30.2
29.7
31.1
28.3
27.9
19.1
33.9

66.7

56.8
48.0
55.0
41.5
61.3
62.1
59.5
56.1
60.4
66.4
56.3
61.9
68.8
67.0
63.1
63.8
69.1
69.6
66.1
71.1
71.3
80.0
66.1

地方吏員(区郡吏)族籍別構成(明治15~21年)(人)[26]
郡区長 書記 戸長 合計
士族 平民 士族 平民 士族 平民 士族 平民 全体(華族含む)
明治15年(1882年)

16
17
18
19
20
21

380

369
380
399
378
399
397

151

160
156
146
125
128
122

4,289

4,449
4,911
4,959
2,886
3,022
2,866

2,331

2,436
2,812
2,972
1,695
1,793
1,664

3,833

3,303
3,166
3,423
3,531
3,521
3,485

29,924

25,831
10,603
8,013
7,644
7,489
7,525

8,502

8,121
8,457
8,781
6,795
6,795
6,942

32,406

28,427
13,571
11,131
9,464
9,410
9,311

40,913

36,548
22,028
19,912
16,259
16,352
16,059

官吏以外では、教員の職も重要な職業選択の道であった。中学校・高校・師範学校の校長、教員、書記の占有率は明治15年(1882年)で多くを占め、小学校でも、半数程度の占有率を有し、事務員に至ってはほぼ士族であった(以下の表 全国公立学校職員族籍別構成参照)。 なおデータは明治初期のものであるため、こちらについても後に平民に置き換わることとなっていく。

全国国公立学校職員族籍別構成(明治15年12月調)[27]
族籍別構成(人) 占有率(%) 人口ひとりあたりの輩出率
華族 士族 平民 合計 士族(%) 平民(%) 士族 平民
地方税支弁の学校


(中学校・師範学校など)

校長

教員
書記など


61

962
252

17

260
70

78

1,222
322

78.2

78.7
78.3

21.8

21.3
21.7

小計(a) 1,275 347 1,622 78.6 21.4
協議費支弁の学校


(小学校など)

校長

教員
書記など

2

259

29,507
12

167

41,440

426

70,949
12

60.8

41.6
100.0

39.2

58.4

小計(b) 2 29,778 41,607 71,387 41.7 58.3
計(a+b) 2 31,053 41,954 73,009 42.5 57.5 160.7 12.1
中学校・師範学校の給仕・小使(c)

小学校等の給仕・小使(d)

157

857

396

11,368

553

12,225

28.4

7.0

71.6

93.0

計(c+d) 1,014 11,764 12,778 7.9 92.1

士族の生活・法的身分:士族の平準化と消滅へと道のり[編集]

以上のように、士族は社会的優位性や特権など制度的な恩典を喪失しつつ、明治中期までは日本である一定の水準などといった社会的な地位の一端を担ってきた。

これら士族に何らか恩恵があるとすれば、わずかに第二次世界大戦前まで履歴書や『紳士録』の類に士族という記載が残り(「○○県士族」)、学校卒業生には卒業証書に、大学で学位を授与された者は学位記に、士族の族称が併記された。そうしたわずかな慣習が幾分か名誉的な意味を持ち、家柄を誇る気分を士族に与えた。

士族の家庭の墓石には「○○県士族 何某之墓」と彫った例も見られる。新潟市の泉性寺にある皇太子妃雅子の曽祖父小和田金吉の父とされる小和田匡利(明治7年(1874年)7月28日没)の墓碑には「新潟県貫族 士族村上住 小和田匡利」と刻まれている[28]

戸籍の族籍記載は1914年(大正3年)に撤廃され、第二次世界大戦後、士族の族称は廃止となった。その後も戸籍法改正で族称を表記しないことに定まったが、原本には残っていたため、1975年(昭和50年)ごろまでは旧戸籍謄本を取得した場合には「士族」と明記されていたため、わずかに出自として士族であるか否かを知るすべが残ることとなった。

しかし、それでも戸籍上の記載も昭和43年(1968年)、族称が記載された近代では最古の戸籍である壬申戸籍が結婚や就職に際し、かつての被差別階級特定のために悪用されている経緯が明らかとなったことから、法務大臣の命により閲覧禁止の措置がとられ、以降の明治19年式戸籍においても族称記載がある部分は塗沫され、族称を閲覧することが完全にできない状態となり、士族の法的な意味合いは完全に消滅したといえる。

士族の家庭[編集]

農商務省時代の岸信介(大正12年(1923年))
左から妻・岸良子、長男・岸信和、実弟・佐藤栄作、岸信介、従弟・吉田寛

戦後に内閣総理大臣を務めた岸信介は自伝の中で、生家の佐藤家について「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いていた。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである」と述べている[29]。佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[30]

また、終戦直前期に内務大臣を務めた安倍源基は『思い出の記』の中に「私は裕福ならずと雖も士族の家に生まれ、寒村なりと雖も故郷をもったことは誠に幸福であった。…安倍家が士族であったことと、故郷をもっていたことは常に私を鞭撻し、心に活を入れて呉れた。…士族は華族と異なり何等政治的特権をもっている訳ではなく、ただ武士の家柄に対して、明治維新後与えられた族称に過ぎなかったが、士族の家柄は一般から尊敬を受けたものである…」と記している[31]

脚注[編集]

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  1. ^ 井上好人 2003, pp. 7-8.
  2. ^ 井上好人 2003, pp. 9-10.
  3. ^ 落合弘樹 1999, pp. 37.
  4. ^ 落合弘樹 1999, pp. 41-43.
  5. ^ 地士は高松藩郷士階級に与えられた固有の族称で、『藩制一覧』では士族扱いとなっている。明治5年に646戸、3316人(0.01%)。
  6. ^ 明治5年から明治9年までの統計は『国勢調査以前日本人口統計集成』収録の『内務省戸籍局年報』による。
  7. ^ a b 皇族人員を除く本籍人口。
  8. ^ (a) 呉文聡, 「府藩県所轄並石高」, 『統計集誌』5号, pp. 9–22 (1882). (b) 呉文聡, 1882,「人員表」『統計集誌』8号, pp. 96–107 (1882). 府藩県三治制下で各府藩県から上申された数字を集計したもので、期日が統一されていない、調査漏れが多分にあるなど色々統計上の問題があるが、卒族解体直前の人口の目安として掲載する。
  9. ^ 我妻東策, 『明治社会政策史』, 三笠書房, 1940年.
  10. ^ 安田三郎, 『社会移動の研究』, 東京大学出版会, 1971年.
  11. ^ 浅見雅男著『華族誕生 名誉と対面の明治』(中央公論社1999年) 72頁参照。
  12. ^ 永島辰五郎画『士族の商法』(国立国会図書館蔵)
  13. ^ 早稲田大学産研シリーズ18[1]
  14. ^ 園田英弘広田照幸浜名篤著『士族の歴史社会学的研究 -武士の近代-』(名古屋大学出版会1985年)55頁参照。
  15. ^ 『日本帝国統計年鑑』および『日本帝国静態統計』記載の本籍人口による。
  16. ^ a b 明治9年1月1日付の人口を100とする。
  17. ^ a b 比較的士族の割合が高いとされる鹿児島県大隅国熊毛郡馭謨郡大島郡の三郡を中心に、続籍不詳の者が明治12年1月1日調で48万4841人、明治13年1月1日調で32万1695人いるため、実際よりも士族人口の割合が低く算出される。
  18. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)23頁参照。
  19. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)98頁参照。
  20. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)23頁より転載。ただし表枠組を一部改編。
  21. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)98頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、資料は『日本帝国統計年鑑』を下に作成されている。
  22. ^ 竹内洋著『学歴貴族の栄光と挫折』(中央公論社、1999年) 171頁参照。
  23. ^ 竹内洋前掲書(中央公論社、1999年) 173頁より転載。数値は『文部省年報』より集計され、五高中のみ『五高五十年史』(1939年)巻末資料付録を参照し作成されたものである。
  24. ^ 竹内洋前掲書(中央公論社、1999年) 173頁より転載。数値は各学校一覧を参照し作成されたものである。
  25. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)86頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、一連の資料は秦郁彦著『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会、1981年)参照の下作成されている。
  26. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)87頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、一連の資料は秦郁彦著『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(東京大学出版会、1981年)参照のもと作成されている。
  27. ^ 園田英弘・広田照幸・浜名篤前掲書(名古屋大学出版会、1985年)90頁より転載。ただし表枠組を一部改編。なお、一連の資料は『日本帝国統計年鑑』参照のもと作成されている。
  28. ^ 川口素生『小和田家の歴史 雅子妃殿下のご実家』(新人物往来社2001年ISBN 4-404-02951-9 p37~p40)
  29. ^ 『岸信介傳』 27頁
  30. ^ 『岸信介傳』25、26頁
  31. ^ 『歴史の流れの中に 最後の内務大臣安倍源基』上 102-103頁

参照文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]