鹿地亘

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衆議院法務委員会で鹿地事件に関する証言に臨む鹿地亘(1952年12月10日)

鹿地 亘(かじ わたる、本名:瀬口貢(せぐち みつぎ)、1903年5月1日 - 1982年7月26日)は、日本小説家大分県西国東郡岬村(現・豊後高田市)出身。東京帝国大学国文科卒業、東京帝国大学大学院博士課程修了[1]

人物[編集]

マルクス主義者[編集]

東京帝国大学在学中から文学と社会運動に関心をもち、林房雄中野重治たちと社会文芸研究会(のち、マルクス主義芸術研究会に改名)を運営した。大学の外でも、プロレタリア文学運動に参加し、1930年「労働日記と靴」で注目を浴びる。ただ、当時は文学をプロパガンダに使うことを重視していた傾向があった。1932年日本共産党に入党[1]

1934年治安維持法違反で検挙された後、獄中で転向して出獄[1]1936年中華民国にわたり、魯迅と親交をもつ。最初は上海に滞在していたが1937年日中開戦を機に脱出、香港経由で武漢に、そのあと国民政府とともに重慶に移動する。

日本兵捕虜の組織化[編集]

この時期、1938年12月、蒋介石の承認を得て国民党支配地区で「日本人民反戦同盟」を結成、「日本人の自立した立場」を自称し日本人捕虜、居留民に対する「教育」を開始し彼らを組織して反戦活動を行った[2][3]

日中戦争中の1938年5月19日に中華民国空軍所属のマーチンB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)が、中国大陸から日本の九州上空に飛来し、宣伝ビラを散布する軍事行動をした。このビラは鹿地が作成したものであった。

後に延安ではじまった野坂参三たちの日本人民解放連盟の活動は、形式としては「鹿地のはじめた活動の支部」という形態をとっていた。しかし1940年以降、反戦同盟を親中国共産党団体と見なした蒋介石は弾圧を始め、鹿地はやむなく重慶で現地の情勢分析活動に従事した。

国民党は、日本兵捕虜から情報を収集するだけでなく、中国側の寛大さを示す国際宣伝に利用することも行っていた[3]。さらに、収容所では「中国側へのオベッカから恭順をよそおう者」だけが「反戦分子」として優遇された[3]。鹿地亘は郭沫若の協力もあり、1938年12月には反戦同盟を組織[3]。1939年12月には、中国の抗日戦争は「日本人民の自由解放」と一致するとの声明を発表し、1940年5月には延安支部が建設され、八路軍や新四軍地区の日本人捕虜兵士による反戦運動にも影響を及ぼした[3]青山和夫重慶政府国際宣伝処の対日工作顧問で(本名は黒田善治)、コミンテルンの指令で対日工作に活躍した[4][5][6]

帰国[編集]

第二次世界大戦の終結後に日本に帰国し、民主主義文学運動に参加する。1947年第1回参議院議員通常選挙に無所属で全国区から立候補するが落選した。

1951年11月25日、肺結核療養中の神奈川県藤沢市内においてアメリカ軍諜報機関(キャノン機関)に拉致され、アメリカのスパイになるよう強要される鹿地事件が起こる。監禁開始から約1年後の1952年12月に解放され帰宅した。解放直後、国会に証人喚問され鹿地事件について証言している。1953年11月には米ソ二重スパイ事件の共犯として電波法違反で起訴されたが、1969年に無罪が確定した[1]

晩年は戦時中の活動の経験を中心に執筆し、『日本兵士の反戦活動』(同成社)、『「抗日戦争」のなかで』(新日本出版社)などを著した。雑誌『民主文学』に、それらの続編にあたる「反戦同盟記」を連載中に死去した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 20世紀日本人名事典
  2. ^ 鹿地亘「日本兵士の反戦運動」同成社 (1982/10)、同編「反戦資料」
  3. ^ a b c d e 法政大学大原社会問題研究所編著 『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動The Labour Year Book of Japan special ed.』1965年10月30日、労働旬報社刊。第四編 治安維持法と政治運動第三章 中国における日本人の反戦運動第一節 国民党地区法政大学大原社会問題研究所、2000年2月22日公開。2016年10月15日閲覧。
  4. ^ 倉前盛通「悪の論理」  (日本工業新聞社、1979年、角川書店 (1980)
  5. ^ 加藤哲郎[要曖昧さ回避]「『野坂参三・毛沢東・蒋介石』往復書簡」『文藝春秋』2004年6月号
  6. ^ 青山和夫の著書に『謀略熟練工』妙義出版 1957、『反戦政略 中国からみた日本』三崎書房 1972

関連項目[編集]

外部リンク[編集]