通州事件

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通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃した事件[1]。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、猟奇的な殺害、処刑が行われた[1]通州虐殺事件とも[2]

通州は北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市[3]で、殷汝耕南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[4][5]

通州事件
事件翌日、日本軍救援部隊により安寧を取り戻す通州
事件翌日、日本軍救援部隊により安寧を取り戻す通州
場所 通州(現:北京市通州区北部)
標的 日本軍通州守備隊・日本人居留民
日付 1937年(昭和12年)7月29日
午前2時-午前3時[5][6]
攻撃人数 3000人 - 4000人(6000人[7][8]
死亡者 通州在留邦人・朝鮮人385名のうち223名[9][8] - 260名[3][10][11]
223人の内訳:日本人117人、朝鮮人106人[8]
犯人 冀東防共自治政府保安隊
保安隊長:張慶餘張硯田
謝罪 冀東政府による謝罪
賠償 120万円
現在の北京市通州区。通州は北京市の東約12kmにあった。

背景[編集]

通州事件の3週間前の7月7日には盧溝橋事件が勃発し宋哲元第29軍と日本軍支那駐屯軍が衝突していた[3]

冀東政府保安隊[編集]

冀東防共自治政府の国旗

冀東防共自治政府は日本の華北分離工作によって樹立された ものであった[3]。早稲田大学を卒業した親日派の殷汝耕を中心に1935年11月25日、通州で自治宣言を発表し、12月には自治政府として活動を始め、自治政府保安隊2個隊が設置された[3]。国民党政府はこの冀東自治政府に対抗して冀察政務委員会(冀察政府)(委員長:宋哲元)を設置した[3]

冀東防共自治政府保安隊は、日本軍の支那駐屯軍から派遣された将兵により軍事訓練が施された治安部隊であり、教導総隊及び第一、第二、第三、第四の五個総隊で編成されていた[12][13]。通州城内には、保安隊第一総隊 (総隊長:張慶余)の一個区隊と教導総隊 (総隊長:殷汝耕、副総隊長:張慶余)が、城外には、第二総隊 (総隊長:張硯田)の一個区隊が配備されていた[12]。第一総隊第二区隊は、重機関銃や野砲も装備していた[14]。ただし、旧東北軍中国語版の一部から編成された部隊であり、対日感情は決して良いものではなく、強い反日感情を抱く幹部もいたという[12][15]1936年11月20日午後7時頃に昌黎保安隊第5、第6中隊の約400名が北寧鉄道の同治 - 開平間で機関車を停車させ、灤県部隊査閲のため同地に向っていた山海関守備隊長古田龍三少佐、副官松尾新一大尉、灤県守備隊長永松享一大尉、片木應緊軍医、久住照雄主計と同乗の日本人10名を拉致した[16][17]。この兵変は鎮圧されたが、古田少佐が責任をとって割腹自殺した[16][18]

日本軍通州部隊[編集]

通州には、義和団の乱後の北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。この通州部隊は元々、通州に配置されようとした際に、京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと梅津美治郎陸軍次官が強く反対したため、代わりに北平西南の豊台に配置された部隊であった[19]

盧溝橋事件発生時、通州には支那駐屯歩兵第一大隊の一個小隊 (小隊長:藤尾心一中尉)の約45名と通州憲兵分隊7名が駐屯しており、7月18日夜、支那駐屯歩兵第二連隊 (連隊長:萱島高中佐)が天津から到着し、通州師範学校に逗留した[20]。1937年7月15日付「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」に従い、「第一期掃蕩戦」の準備のため通州と豊台に補給基点が設置され[注釈 1]、会戦間に戦闘司令所の通州又は豊台への進出の可能性が想定された[注釈 2]

通州事件当時、通州を守備していた日本軍第二聯隊の主力は北京南部の南苑に出動中で、通州には戦闘能力を持たない人員しかいなかった[3]。日本は冀東防共自治政府保安隊を友軍とみなしていた[3]

通州事件までの諸事件[編集]

1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し宋哲元第29軍と日本軍が衝突した[3]。まもなく停戦協定が結ばれたが、7月10日に日本軍将校斥候へ迫撃砲弾が撃ち込まれた[22]7月13日、北京郊外の豊台付近で第29軍第38帥によって日本軍トラックが爆破され4名が殺害され(大紅門事件[22]7月16日には両軍の間で砲撃が行われた[22]7月17日には宋哲元は日本との和平を決意し、翌18日には支那駐屯軍司令官香月中将と会見し、宋は遺憾の意を表明した[3]。19日には冀察政務委員会と日本とで停戦協定が締結された[3]。しかし、国民政府外交部はこの協定の「地方的解決は認めない」と通告した[3]。日本側も参謀本部で硬軟派で意見が対立し、対中外交は機能不全となっていた[3]

他方で7月18日、日本軍機が銃撃され[22]7月19日には宛平県城より日本軍への砲撃が行われ、7月20日にも再び宛平県城より日本軍への砲撃が行われたため、日本軍も砲撃を行った[22]

7月20日、日本は3個師団動員と北支派遣を決定し、上奏された[3]

7月25日に北京より東に72kmの廊坊での電話通信線補修に派遣されていた支那駐屯軍一個中隊を中国軍29軍第38師が攻撃し、日本軍77聯隊は応戦した(廊坊事件[3]

続く7月26日にも北平の広安門で日中両軍が衝突した(広安門事件[23]

7月26日深夜、通州新南門外の宝通寺に駐屯していた国民革命軍第29軍の独立第39旅 (旅長:阮玄武)の隷下にある717団1営 (営長:傳鴻恩)[24][25]に対し、日本側は武装解除し北平に向け退去するよう求める通告を行った。翌27日午前3時に至っても傳鴻恩からの回答はなく、兵営には抗戦の規制が横溢し兵馬の騒めきもひとしおであるとの密偵の報告があったため、同日黎明4時、支那駐屯歩兵第二連隊は攻撃を開始し[26]、午前11時までに傳鴻恩部隊の掃蕩を完了した[27][28][29]

7月27日、日本は不拡大方針を破棄し、第5、6,10師団を基幹とする約20万9000人の動員を閣議決定した[3]

7月28日、南苑は陥落し、7月30日までに日本軍は北京(北平)・天津地域を占領した(平津作戦)。

関東軍による冀東保安隊への誤爆[編集]

7月27日の傳鴻恩部隊掃蕩の際、日本の関東軍の爆撃機が、誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、保安隊員の数名が重傷を負い、数名は爆死した[27][25][29][3]細木繁特務機関長は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、爆死者の遺族に対し最善の方法を尽し、負傷者に対して医療と慰藉を講ずる旨申し出た[27]。翌28日、細木は、保安隊教導隊幹部を冀東政府に招集し、誤爆に関して説明し慰撫に努めた[27][25][29]

中華国民政府によるデマ放送[編集]

1937年7月27日に中華国民政府はラジオ放送で「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台廊坊は中国軍が奪還した」と虚偽報道をした[30]。それに続き、「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長(蒋介石)は近く29軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」と宣言した[31][30]

冀東防共自治政府保安隊の幹部張慶餘張硯田は密かに第29軍と接触していた[30]。第29軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で張慶餘と張硯田は分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案し、保安隊の監督を担当していた日本軍の通州特務機関長細木繁中佐[32](支那駐屯軍司令部付)も、日本人保護のためと認識してこれを了承していた[30]。保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した[30]

事件直前の情勢[編集]

中国軍の北京退却[編集]

事件前日の7月28日北京を日本軍に攻撃され、国民革命軍は緊急会議で司令官宋哲元は北京放棄を決定、38師団長張自忠を残して29軍は退却した(蒋介石による[33])。

天津と通州等への攻撃[編集]

7月28日(前日)[編集]

7月28日夜半、天津と通州の日本軍および居留民は同時に攻撃された(日本軍陸軍省新聞班による[34])。

天津では7月28日午前1時頃、中国軍38師団228団と独立26旅団678団と保安隊が、海光寺兵営、鐘紡向上、東站停車場、糧秣集積所を、午前3時頃には飛行場を襲撃したが、日本軍は東站停車場をのぞいて撃退に成功した[35]

  • 大沽の中国軍も7月28日午後3時頃、白河を航行中の日本船艇を攻撃した[36]
  • 東站停車場では、日本軍は市街地での攻撃を控えていたが、中国軍が居留地を攻撃するため、7月29日午後2時半より爆撃を開始し、31日までには中国軍は天津南方へ退却した[36]

通州では、7月28日夜半、冀東防共自治政府保安隊中教導総隊第一・第二総隊と国民革命軍29軍敗残兵ら約3000人の中国軍が決起した(日本軍陸軍省新聞班による[5])。

7月29日(事件と同時期)[編集]
  • 冀東防共自治政府保安隊が通州日本人を襲撃したのとほぼ同時刻の7月29日午前2時、38団師団長李文田率いる天津中国軍は日本軍に反撃を開始した[33]。しかし翌30日に敗北した[33]
  • 翌日の7月29日朝(通州事件と同じ頃)、日本軍の塘沽守備隊が中国軍より攻撃を受けたので反撃し、午後1時半頃同地を占領した[37]

事件の発生[編集]

日本軍守備隊への攻撃[編集]

1937年7月29日午前2時(午前3時[5])、冀東防共自治政府保安隊ら中国軍が通州日本軍へ攻撃を開始した。殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関を襲撃、日本軍は壊滅し、また日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺された[9](午前4時からとの説もある[3])。

通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊であり、藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、憲兵、兵站兵器部を合わせて110名程度であった[38][3]

張慶余、張硯田の両保安隊は午前二時に攻撃を開始、長官公署を襲って殷汝耕を拉致した[38]。保安隊の装備が遥かに優れていたため、日本軍守備隊は死傷者が続出し、通州特務機関は全滅した[38]。守備隊長藤尾心一中尉と通州特務機関長細木繁中佐も戦死した。

事件後、7月30日午後4時20分に萱島部隊が通州に到着し、治安回復と掃蕩を行った[5]

日本人居留民への暴虐行為[編集]

犠牲者の虐殺体。被害者の氏名が判明しており、プライバシー保護のために目にマスク処理をしている[39]
日本人居留民の遺体[39]
日本人居留民の遺体[40]

証言の詳細は#証言を参照。

冀東政府保安隊ら中国人の軍隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[38]。居留民は約380人で、その大部は惨殺された[5]

7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17 - 8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[41][38]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[41][38]

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた[42][38]。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[42][38]。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[42][38]。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[42][38]。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[42][38]

当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[38][8]

また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[43][38]。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[43][38]。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[43][38]。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[43][38]

虐殺者の逃亡[編集]

通州虐殺のあった翌日(7月30日)、日本軍が通州に向かっている知らせを聞いた主犯の中国人学生たちと保安隊員は即座に逃亡を開始した。日本軍到着時にはすでに保安隊員と学生の姿はなかった。

なお、この事件の主犯であった張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[注釈 3]

日本軍の反撃[編集]

事件後、日本軍奈良部隊は7月30日午前10時40分頃、北平(北京)西北地区で逃走中の冀東政府保安隊約300人を攻撃した[5]

8月2日午前10時頃、日本軍飛行隊は、通州より東方約8キロメートルの燕郊鎮に集結していた冀東政府保安隊および29軍敗残兵約200人を爆撃した[45]

証言[編集]

安藤証言[編集]

生存者であった同盟通信記者安藤利男は1937年10月、「虐殺の巷通州を脱出して」を日本外交協会で発表し、同年『通州兵変の真相』(森田書房)を刊行した[8]。安藤は戦後も1955年(昭和30年)『文藝春秋』に「通州の日本人大虐殺」と題して回想を発表した[46]

「前日あたりにさう云ふ気配はなかつたかと云ふことをよく聞かれるのでありますが、吾々は、誠にお恥しい話でありますけれども、事件が始まつてからも、まさか保安隊の兵変であらうなどとは気が付かなかつたほど、全く突然寝返りを打たれたのでありまして、特務機関の御方なんかも、まさかそんな事はなからうと云ふやうな話を前の日にされて居りました」と述べている[8]

このほか尋常ならざる殺害の状況(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など)について書かれている[38][47]

村尾大尉夫人の証言[編集]

東京日日新聞1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」との見出しで報道した[8]。その中で冀東政府長官秘書孫錯夫人(日本人)と一緒に逃げた保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人の証言が紹介された。

保安隊が叛乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち29日の午前2時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーツと近水楼や特務機関の前に殺到して来て十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。近水楼の前は日本人の死体 ママ が山のやうに転子がってゐます、子供を抱へた母が二人とも死んでゐるなど二た眼と見られない惨状でした、私達はこの時家にゐました、29日午前2時頃保安隊長の従卒が迎へに来たので洋服に着かえようとしたところその従卒がいきなり主人に向かってピストルを一発射ち主人は胸を押へ「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるものを片っ端から万年筆までとって表へ行きました、そのうちに外出してゐたうちのボーイが帰って来て外は危ないと いふので押入の上段の蒲団のなかにもぐってゐたところさきの従卒が十人ばかりの保安隊員 を連れて家探しをして押入のなかを捜したが上段にゐた私には気づかず九死に一生を得ました、家のなかには主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残ってゐました、それを主人の唯一の思ひ出の品として私の支那鞄の底に入れ主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈りボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れてゐましたが、日本人は鏖殺(みなごろ)しにしてやるといふ声が聞えいよいよ危険が迫ったので孫夫人と二人で支那人になり済まし双橋まで歩きやっとそこから騾馬に乗ったが日本人か朝鮮人らしいと感づかれて騾馬曳きなどに叩かれましたが絶対に支那人だといひ張ってやっと30日午後朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまってゐたので永定門に廻りやっと入り30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました、冀東銀行の顧問三島恒彦氏が近水楼で殺され冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく近水楼にゐた日本人は殆どころされてゐるでせう、昔シベリアの尼港惨劇も丁度このやうな恐ろしさであったらうと思ひます。叛乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友(ハオポンユウ)、好朋友」などといひ非常に主人と仲良しだったのに こんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでせう、主人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。

保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人、東京日日新聞1937年7月31日付号外「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐[8]

日本軍将校の東京裁判における証言[編集]

極東国際軍事裁判(東京裁判)では、1947年4月25日に通州事件に関連する14件の証拠が却下され、1件が撤回され、1件が未提出であった。このうち通州事件に直接言及しているのは、昭和12年8月2日付の外務省情報部長声明「通州事件に関する公式声明書」 (弁護側文書番号: 1109)と同年8月4日付の外務省情報部長談「通州事件」 (弁護側文書番号: 1107) であった[48]が、双方とも「外務省スポークスマンの発表は証拠価値無し」との理由でウェッブ裁判長の即決で却下された[49]

一方、萱嶋高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐の3名の証人の口述書が受理され、1947年4月25日午前11時から11時58分の間に萱島と桂が出廷し宣誓供述書を読み上げ[41][50][42][51]、午後1時32分に桜井が出廷し証拠写真三点を提出し宣誓供述書を読み上げた[43][52]

  • 萱嶋高中将:7月30日午前3時、河邊旅団長から事件救援を命じられ急行した。敵は退却しており、戦闘なく午後4時到着した。

城内は實に凄愴なもので到る處無惨な日本居留民の死體が横はつて居りまして殆ど全部の死體には首に縄がつけられてありました。頑是なき子供の死體や婦人の虐殺死體は殆ど見るに耐えませんでした。(略)私は直ちに城門を閉ぢ城内の捜索を始め殘つて居る日本人を狩り集めました。七、八百人居りました日本人で集まつて来たのは百五十名位でありまして三百五十名位は死體として発見されました。殘り二、三百名は何處かへ逃げたか或ひは虐殺されたか不明でありました。(略)

一、旭軒とか云う飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女七、八名は皆強姦され、裸體で陰部を露出した儘射殺されて居りました。其の中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていました。家の入口には十二、三歳位の男子が通学姿で射殺されてゐました。家の内は家具、布団、衣類等何物もなく掠奪されていました。其の他の日本人の家屋は殆ど右同様の状態でありました。

二、商館や役所の室内に残された日本人男子の屍體は射殺又は刺殺されたものでありますが殆どすべてが首に縄をつけ引き回した形跡があり、血潮は壁に散布され全く言語に絶したものでありました。

三、錦水楼と云う旅館は凄惨でありました。同所は危急を感じた在通州日本人が集まった所でありましたものの如く大量虐殺を受けております、玄関、入口附近には家財、器具破壊散乱し目ぼしきものは殆ど掠奪せられ、宿泊していた男子四名は座敷で射殺されていました。錦水楼の女主人や女中は数珠繋ぎにされ手足を縛された儘強姦され、遂に斬首されたと云うことでした。

四、某日本人は夫婦と嬰児の三名で天井裏に隠れ、辛うじて難を逃れていましたが、其の下で日本人が次から次へと虐殺されてゆくのを見たと私に告白していました。

萱島高、法廷証番号2498:萱島高宣誓供述書、弁護側文書番号:1090[41]、速記録[53]

  • 桂鎮雄少佐:通州第2連隊歩兵砲中隊長代理。7月31日午前2時半通州到着し、掃討に従事。

一、私は七月三十一日午前八時頃、旅館錦水楼に参りました。錦水楼の門に至や、変り果てた家の姿を見て驚くと共に屍体より発する臭気に思はず嫌な気持になりました。玄関の扉も家の中の障子も家具も取り毀され門の前から家の奥まで見透すことが出来ました。入口に於て錦水楼の女将らしき人の屍体を見ました。入口より廊下に入るすぐの所で足を入口の方に向け殆ど裸で上向きに寝て顔だけに新聞紙が掛けてありました。本人は相当に抵抗したらしく、身体の着物は寝た上で剥がされた様に見え、上半身も下半身も暴露しあちこちに銃剣で突き刺したあとが四つ五つあつた様に記憶します、これが致命傷であつたでせう。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱して居ました。帳場や配膳室の如きは足の踏み込み場所もない程散乱し掠奪の跡をまざまざ見せつけられました。

廊下の右側の女中部屋に日本婦人の四つの屍体があるのを見ました。全部藻掻いて死んだ様でしたが銃殺の故か屍体は比較的綺麗であつて唯、折り重なつて新で居りましたが一名だけは局部を露出し上向きになつて死んで居ました。室内の散乱は足の踏み場所もない程でありました。

次に帳場配膳室に入りました。ここに男一人、女二人が横倒れとなり或はうつぶし或は上向いて死んでおりここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが闘った跡は明瞭で男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました。女二人は何れも背部から銃剣をつきさされた跡が歴然と残つて居ました。

次に廊下へ入りました。階下座敷に女の屍体二つ、これは殆ど身に何もつけずに素つ裸で殺され局部始め各部分に刺突の跡を見ました。

次に二階に於て四五人の屍体を発見、これは比較的綺麗に死んでおり布団をかぶせてありました。唯脚や頸や手が露出しておるのを見ましたが布団をはがす気にはなれませんでした。

池に於て二三人の屍体が浮かんでおるのを望見しましたが側へ行つて見る余裕はありませんでした。

二、市内某カフエーに於て、 私は一年前に行つたことのあるカフエーへ行きました。扉を開けて中へ入りましたが部屋は散乱しておらずこれは何でもなかつたかと思ひつつ進んだ時、一つのボツクスの中に、素つ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されておりました。カフエーの裏に日本人の家がありそこに二人の親子が惨殺されて居りました子供は手の指を揃えて切断されて居りました。

三、路上の屍体 南城門の近くに一日本人の商店がありそこの主人らしきものが引つぱり出されて、殺された屍体が路上に放置されてありました。これは胸筋の骨が露出し内臓が散乱して居りました。

桂鎮雄、法廷証番号2499:桂鎮雄宣誓供述書、弁護側文書番号: 1139[42]、速記録[54]

  • 桜井文雄少佐:支那駐屯歩兵第二連隊小隊長。7月30日午後4時、通州到着し、掃蕩開始。

1.先づ守備隊の東門を出ますと殆んど数間間隔に居留民男女の惨殺死體が横はつて居るのを目撃し一同悲憤の極に達つしました敵兵は見当たりませんでしたので夜半迄専ら生存者の収容に擔りました。「日本人は居ないか」と連呼し乍ら各戸毎に調査して参りますと、鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等から彼所此所の塵、埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました。 2.某飲食店内には一家悉皆首と両手を切断惨殺されて居るのを目撃しました。婦人と云う婦人は十四五歳以上は悉く強姦されて居りまして全く見るに忍びませんでした。 3.旭軒と云う飲食店に入りますとそこに居りました七八名の女は全部裸體にされ強姦射(刺)殺されて居りまして陰部に箒を押込んである者、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に断ち割つてあるもの等全く見るに堪へませんでした。 4.東門の近くの或る鮮人商店の附近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せてそれに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠継ぎにして引廻された形跡歴然たる屍体がありました池の水は血で赤く染まつて居たのを目撃しました。

斯くして一応の掃蕩を終了しましたのは夜の九時過ぎであつたと思ひますそれ迄に私の掃蕩担任地域内で目撃しました惨殺死體は約百名で収容しました重軽傷者は約二十名と記憶して居ります此等の死傷者中には発狂して居る者も若干あり殆ど茫然自失の状態でありました。(略)

桜井文雄、法廷証番号2500:桜井文雄宣誓供述書、弁護側文書番号:1140[43]、速記録[55]

その他の日本人生存者の証言[編集]

  • 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された新道せつ子は、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[56]
  • 当時中国人男性の妻であった大分県出身の日本人女性の目撃証言もあり、それを聞き書きした調寛雅が自著で発表している[57]。それによれば主犯は保安隊員と中国人学生であり、かれらは胎児妊婦の腹から引きずり出す、その父親を数人がかりで殺してを引きずり出し、切り刻んで妻(妊婦)の顔に投げつけたという[58]。これらは通州市民の面前でおこなわれた虐殺であったが、市民はそれに対し無反応であり、虐殺後の日本人をみても同情の念を示すのではなく、身につけていたものを剥ぎ取るばかりであったという[58]
  • 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[59]

被害者[編集]

死者数[編集]

通州事件の生存者
  • 1937年8月5日陸軍省調査では、死者184名(男93名、女57名、損傷がひどく性別不明の遺体34)、生存者は134名、その内訳は「内地人」77名と「半島人」57名であった[60]
  • 1937年8月5日の在天津日本総領事館北平警察署通州分署の発表では、死者合計225名 (内地人114人[61]、鮮人111人[62])[63]
  • 陸軍大学が1939年に作成した「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」によると、通州在留邦人385名のうち223名が虐殺された[9]
  • 支那駐屯軍司令官香月清司中将が1940年2月に記した『支那事変回想録摘記』には犠牲者邦人104名 (内冀東政府職員および関係者約80名) 鮮人108名 (大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりしもの)とある[64][注釈 4]

その他、

  • 児島襄は「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34名は性別不明なまでに惨殺されていた」とした[66]
  • 中村粲は「在留日本人380名中、惨殺された者260名」とし[67][11]
  • 渡部昇一は、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている[11]

職業別内訳[編集]

被害者の職業別では、外務省東亜局報告[68]で、

  • 内地人:冀東政府職員、同顧問、特務機関員、同雇員、満鉄社員、冀東銀行員、電話局員、土木業、飲食店業、旅館業、その家族、旅行者
  • 朝鮮人:無職、歯科医、洗濯業、製菓業、外務省警察官、教員、餅商、金貸業、女給、酌婦、その家族、旅行者。

小林元裕は「日本人被害者の多くが冀東政府の職員、特務機関員だったのに対し、朝鮮人被害者は無職者が目立った。彼らの多くは「不正業」特に阿片・麻薬密売者が多かったと考えられる」と述べ、このことは巴金香月清司支那駐屯軍司令官の回想によっても裏づけられるとしている[8]

当時の報道・論説[編集]

新聞各紙[編集]

天津の支那駐屯軍司令部は、監督していた保安隊の反乱を不名誉として、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村は、事件は北京近くで発生し、すでに北京租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた[69]

国内では通州事件は一斉に報じられ、むごたらしい行為の詳細が日本国民に知られると、「暴虐支那を懲らしめろ」という強い国内世論が巻き起こった[70]

東京日日新聞1937年7月30日付号外で「通州で邦人避難民三百名殆ど虐殺さる/半島邦人二百名も気遣はる」と報じた[8]。また7月31日付号外で「通州の事態 憂慮消えず」「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐極まる暴行」との見出しで報道し、8月9日の大山事件発生まで通州事件を報道した[8][71]

東京朝日新聞1937年8月2日付号外で「掠奪!銃殺!通州兵変の戦慄/麻縄で邦人数珠繋ぎ/百鬼血に狂ふ銃殺傷」、8月3日夕刊では「ああ何といふ暴虐酸鼻、我が光輝ある大和民族史上いまだ曽てこれほどの侮辱を与へられ たることがあるだらうか。悪虐支那兵の獣の如き暴虐は到底最後迄聴くに堪へぬ......恨み の七月二十九日を忘れるな」、8月8日付号外で「痛恨断腸の血 衂られた通州」「惨!痛恨の通州暴虐の跡」と報じた[8]

読売新聞1937年8月1日号外(天津発)は「叛乱は計画的」と報じた[8]

通州保安隊反乱は計画的に敢行されたもので事前に不穏な 形勢があったので殷汝耕長官は親兵の手薄を感じ薊県から増援の保安隊を呼びよせたがこれ又グルになって29日未明天津に事件が起ったのと相前後して総勢4千名(一説に6千名位と伝へらる)が冀東政府特務機関野戦倉庫、近水楼4ヶ所を目標に叛乱行動に出たも のであった。守備隊は辛うじて安全であったが、その他は兵力と防備が手薄であったためにこの惨事となった

読売新聞1937年8月1日号外[8]

アメリカ人記者[編集]

当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは1938年11月にBehind the News in China を刊行し以下のように報道している[72]

日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

Frederick Wiliams、Behind the News in China, New York : Nelson Hughes Company,1938.[要ページ番号]

山川均と巴金の応酬[編集]

社会主義者の山川均は、雑誌『改造』1937年9月号「特集:日支事変と現下の日本[8]」に「北支事変の感想」の一本として「支那軍の鬼畜性」という文章を寄稿し、「通州事件の惨状は、往年の尼港事件以上だといわれている。」「新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどまでの残忍性は現わさないだろうから。」「こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍のXXXして報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである」、「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果であるといわれている」「支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」「支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているのだから。」と、事件の残虐性と中国の反日政策を批判した[73][74][3][8]

これを読んだ中国の作家巴金は、9月19日に「山川均先生に」(初出不明[8])を書き、「混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。」「抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うことも、また避けがたいことです。」「このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たちなのです。」「通州事件を生みだした直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。」と反論した[8][75]

宮田天堂[編集]

当時天津にいた宮田天堂(1908年-1994年)は1938年の『冀東政権大秘録』の「通州事件の真相」においてこのように述べた[76]

元々保安隊というものは大体が于学忠の部下を改変したものであった。だから根強い排日思想の薫陶を受けた分子が大変多かったのである。しかも事変勃発以来、南京政府は怪ニュースを盛に放送して、日本軍は全面的に敗退した。支那軍は連戦連勝、もはや北支から日本軍を掃蕩するのもさして遠くもあるまし。という風のデマを放送するこれを保安隊が通州で聞いてじっとしていられるはずがない。そればかりか考へてみれば宋哲元が前々から保安隊を20万元とかで買収に来ていた由で第一、金はほしいだろうし、負けている日軍に味方したくない。そこで彼らは中国人は最後の血の一滴となっても祖国の寸土を死守せよ。満州の二の舞いをされるな、と坩堝のごとき煽情に馳られたのである。

宮田天堂、『冀東政権大秘録』1938年[76]

宮田は殷汝耕が事件に関与していたと報じられたことについて、殷は断じて無関係であったという[76]

事件の影響[編集]

日本の対中感情の悪化[編集]

歴史学者の江口圭一は「通州事件は日本を逆上させ、暴支膺懲を加速し増幅させた。中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる」と記した[77]

作家の児島襄は「日本国民と参戦将兵の胸奥にはどす黒い怒りがよどみ、やがて日中戦争の経緯の中でそのハケ口をもとめていくことになる」と書いた[78]

漫画家の小林よしのりは通州事件によって当時の日本で反中感情の世論が巻き起こり、軍部支持に傾いたと主張している[79]。太平洋戦争研究会によれば、日本軍はこの事件を暴支膺懲に利用したという[80]

在日華僑[編集]

在日華僑の多くはこの事件の報復を恐れて帰国し、ある華僑は「同胞の無知惨虐」を詫て平塚署と市役所に35円を献金した[81]

冀東政府による謝罪[編集]

事件後、冀東政府は一時潰滅したが、8月9日になって殷汝耕に代わって池宗墨が政務長官に就任し、業務を開始した[82]

他方、国民党の冀察政務委員会は委員長宋哲元の逃亡後、8月20日に解散した[82]

1937年(昭和12年)12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円を交付し、事件は収束した[83]。12月24日には両政府で公文交換が行われ、「冀東政府より森島参事官宛て書翰」では、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された[84]

戦後の回想・証言[編集]

蒋介石[編集]

蒋介石は『蒋介石秘録12』において事件を次のように回想している[33]

通州では、29日未明、冀東のニセ防共自治政府の保安隊三千人が、抗日の戦線に投じるために決起した(通州事件)。彼らは日本の特務機関員や守備隊員約三百人をせん滅し、ニセ政府の主席・殷汝耕を逮捕、北平へ押返しようとしたが、日本軍の反撃にあい、殷汝耕の身柄は奪いかえされた。
▶日本側によると通州事件の犠牲者は、日本人104人(うち冀東政府の職員、関係者80人)および朝鮮人108人である。そのほとんどが戦闘員であったため、日本側は残虐事件として大きくとりあげた。◀

北平、天津の戦いによる第29軍の死傷者は5000人を超えた。

蒋介石、『蒋介石秘録12 日中全面戦争』昭和51年、p.44

冀東保安隊隊長・張慶余の証言(国民軍との関係)[編集]

1986年、事件に加担した冀東保安隊長張慶餘が回想録「冀東保安隊通県反正始末記」を発表した[85]

張慶餘回想録や『盧溝橋事変風雲篇』等[86]によると、張慶餘と張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触し、「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されている[87][88][85][89]

日本軍が大挙して南苑を侵犯し、かつ飛行機を派遣して北平を爆撃したのを見て、戦機すでに迫り、もはや坐視出来ないものと認めて、ついに張硯田と密議し、7月28日夜12時、通州で決起することを決定した。

張慶余、冀東保安隊通県反正始末記,1986年[88][85]

張慶餘と中国国民党第29軍の宋哲元はともに秘密結社哥老会の会員であったことが『盧溝橋事変風雲篇』では告白されている[88]

諸説と評価[編集]

通州事件の原因や事件の評価としては以下の説が存在している。

誤爆への報復説[編集]

北平特務機関補佐官寺平忠輔は誤爆直後に細木繁特務機関長が慰撫につとめ、「そのかいあってか、保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」と述べている[27]

一方、北平駐在大使館附武官補佐官今井武夫は、保安隊員が「たまたま28日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」[90]と回想している。北京大使館参事官森島守人も、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎を誤爆したことへの報復だったとして事件の責任は日本陸軍にあるとする[91]関東軍参謀田中隆吉は「この事件の発端は、当時承徳に在つた日本軍の軽爆撃隊の誤爆からである」と戦後書いている[92]

他方、誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっていたという見方も存在している[93]細木繁特務機関長による謝罪と釈明によって十分な慰撫に努めており、報復説には無理があると松田はいう[3]

国民党軍と冀東保安隊との連携[編集]

日本軍陸軍省新聞班は1937年8月31日に作成した『北支事変経過の概要』において、北京から敗走した国民革命軍29軍の敗残兵が混在していたとみなした[94])。

当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第29軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[95]。7月28日夜12時には、通州の城門がすべて閉鎖され、一切の交通通信が遮断されていたことは計画的襲撃の証左ともいわれる[3]

1986年の張慶餘の回想録[85]以降、諸説が出された。

  • 岡野篤夫は張慶餘の回想録によって事件は中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとし、宋哲元については「日本の田代軍司令官を真の友人であると称し、日本軍との協力を誓っていた。日本軍は全く迂闊でお人よしだったと言えるが、その理由は日本軍に中国と戦う意思がなかったからで、目的とするところは、居留民の保護と権益の擁護であった。ところが、国民政府や中国共産党は、その権益擁護や日本人の居住することを侵略と考えていた」と評している[88]
  • 中村粲はこの事件は国民党軍は他の作戦と連携して綿密な計画したものとする[3]
  • 秦郁彦は張慶餘の回想録以降は、通州日本軍の防備がうすくなった機会をとらえて計画的に反乱に及んだとする説が有力としている[96]
  • 松田純清も「通州での叛乱は国民党軍が計画的に行った同一作戦」とみなしている[3]

ラジオ放送との関連[編集]

7月27日の国民政府ラジオ放送について、以下の説がある。中国国民党軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるため、ラジオで「日本が大敗した」と虚偽の放送をおこない、冀東保安隊がそれに踊らされ、日本人を襲撃したという説(秦郁彦[93][97]藤本一孝[4][3]

通州保安隊はすでに人民戦線運動の影響を受けていたため、南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を先鋭化させ、中国側に寝返った方が有利と判断したと中村はいう[98]

中国共産党との関連[編集]

アメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント ウィリアムズの著書 Behind the news in China(Nelson Hughes, 1938)によれば、事件の背後には中国共産党の工作があった[72]

加藤久米四郎は『戦線を訪ねて国民に愬ふ』(1937年、東京朝野新聞出版)において、中国共産党北京大学南海大学の学生などが主導して「日本人を殺せ」とやったのであり、また通州だけでなく、天津と北京でも同じように学生や国民政府工作機関藍衣社便衣兵が軍人ではない、日本人の民間人をピストルなどで殺害したと述べた[99]

盧溝橋事件で日本軍と衝突した第29軍の枢要な地位には複数の中国共産党員が就いていた[100]。また、中国共産党は冀東防共自治政府と保安隊にも抗日分子を浸透させて日本人襲撃計画を立てていた[100]。事件を実行した保安隊幹部の張慶餘張硯田は第29軍と密通しており武装蜂起の機会を窺っていた[100]。このことから、通州事件も中国共産党の謀略によるテロであった可能性が高いとされている[100]

張慶余の回想録などによれば、冀東保安隊張硯田の部隊にも中国共産党支部が結成されていた[101][102])[3]

松田純清によれば、通州事件は中国共産党編纂『現代史文献』では全く取り上げられていない[3]

麻薬汚染への報復説[編集]

冀東政権による麻薬の密造・密輸によって悪化した中国の麻薬汚染に憤激した通州の市民が、保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民及び朝鮮人に報復した抗日事件とする説(信夫清三郎[103]江口圭一[77])。

歴史学者の信夫清三郎は、「朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国「毒化政策」の重要な拠点であることを示していた。通州事件は、第一には、日本が育成した冀東防共自治政府の日本軍が育成した保安隊が冀東防共自治政府が所在する通州で日本軍にたいして反乱した抗日事件であり、第二は、日本の中国毒化政策に恐怖し憤慨した通州の市民が保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民-および朝鮮人に-に報復した抗日事件であった」と分析した[104][8]。小林元裕はこの「通州の市民」という記載について不正確とし、学生の参加は確認できるが、市民一般が報復行動をとったことは確認できないと論評したが、中国人から見れば通州で麻薬を売る朝鮮人は麻薬汚染を広める「加害者」として存在したと述べた[8]

日本の責任について[編集]

事件の原因が日本側にあるか、中国側にあるかは意見が分かれる。 たとえば今井清一が『日本史大事典』で「この事件については日本軍の責任が大きいが、日本ではこの事件を中国への敵愾心をあおりたてるように利用した」と書かれている[105][3]

このような記述に対して、中村粲は、民間の日本人市民を大量虐殺する責任を日本軍にする日本悪玉論は、張慶余の証言など[106]中国側新資料が出てきて以降は、過去のもので、中国でさえも通用しないといっている[89]。また中村は、済南事件や通州事件での日本人虐殺事件がなかったらならば、南京事件(南京大虐殺)はいかなる形でも起こらなかっただろうと述べている[89]

松田純清も事件の責任を日本に求めることに対して「このような史実の歪曲は断じて許されるべきではない」と批判を行っている[3]。なお松田は当時の日中の緊張関係の根源には日本の華北分離工作があったともいっている[3]

これらの意見に対して秦郁彦は「当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えなかった。」と述べ、後に張慶余の証言等の新資料が出た事については、「張慶餘は、回想記のなかで久しく以前から抗日を決意し、冀察幹部と通謀して反乱の機会を狙っていたと主張するが、二十七日早朝の戦闘で傳営と共に戦う機会を見送っている点からみても、説得力は乏しい。むしろ保身に徹するか、勝ち馬に乗ろうとして形勢を観望していたと思われる。」「通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。」と述べた[107]

江口圭一は「事件が中国で、それも日本のさらなる中国侵略の拠点とされた通州で発生したという単純な事実である。中国軍が日本へ侵攻し、たとえば九州で引きおこした日本人虐殺事件ではないのである。異なる次元・地平に属するものを(南京事件との)相殺のためにもち出すことはできない。」「中国側にとってもある意味で「魔の通州」と呼ぶべき事情が存在していたことである。通州は冀東政権の本拠地であり、華北併呑の舌端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。」と述べると共に、通州の麻薬汚染に関する山内三郎や林語堂の証言と、信夫清三郎の麻薬汚染報復説を引用した[77]

大杉一雄は「山川均も短文の回答を寄せており、そのタイトルが「支那人の鬼畜性」となっていたため、戦後問題にされたが、その真意は「むやみに国民感情を排外主義の方向に煽動し刺激することの危険」を警告したものといえる。これに対し現在、通州事件を「南京大虐殺」と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである。」と述べた[108]

中国側では張慶餘の新資料の発見以前も以後も「通州起義」や「通州反正」と呼び、「日本の傀儡政府の下から起ち上がって、日本の侵略軍と戦うために中国軍に参加した」と言った肯定的な評価が成されている。また中国側の認識によれば、殺害された居留民についても非武装の民間人ではなく武装した民兵だったとされ、不法行為は存在せず、むしろ有りもしない残虐行為を捏造され日本軍による更なる中国侵略の口実にされたとされている[109]

中村粲は済南や通州での日本人虐殺が無ければ、南京事件(南京大虐殺)はいかなる形でも起こらなかっただろうと述べているが、日本軍は1928年5月の済南事件以前の1894年11月に旅順虐殺事件を起こし、1937年7月の通州事件以前の1932年9月に平頂山事件を起こしている。また済南事件について中国側では「五三慘案」と呼ばれ、日本人犠牲者12名に対して中国側の被害は、軍・民あわせて、死者は「中国側済南事件調査代表団」の報告では「約3,000人」、「済南惨案被害者家族連合会」の調査では「6,123人」。負傷者数は「中国側済南事件調査代表団」では「1,450名」、「済南惨案被害者家族連合会」では「1,701名」とされ、日本側より余程被害が多く、中国人が虐殺された事件として記憶されている。日本側はそれ以後も1937年9月の陽高事件、1938年2月の重慶爆撃、1943年5月の廠窖虐殺事件など、多数の虐殺事件を起こしたと指摘されている。

殺害方法[編集]

8月14日に通州に到着した加藤久米四郎は『戦線を訪ねて国民に愬ふ』(1937年、東京朝野新聞出版)において、子供を逆さまにして頭を叩きつけて殺害した例が多いこと、女性の鼻には針金を入れて、牛を引っ張るように引っ張っていって、また多くが陵辱されたと述べた[99]

中村粲は事件の頭部切り落とし、眼球抉り取り、胸腹部断ち割り、内蔵引き出し、陰部突刺などの猟奇的な虐殺方法は中国軍特有のもので、日清戦争以来のお決まりのパターンであるといっている[110]。これに対し秦郁彦は「アジアでもっとも温和な仏教徒との定評があったカンボジアでポル・ポトの大虐殺が起きたように、残虐性と民族性を結びつける議論は成り立たぬし、不毛だと筆者は考える。そうだとすると、○○人も日本人を惨殺した、というたぐいの情報集めに血まなこになる必要もない、というものである。」と反論した[111]

その他[編集]

2015年、中国がユネスコ記憶遺産に申請していた南京大虐殺資料が正式に登録された。これを受けて新しい歴史教科書をつくる会は、通州事件資料の2017年登録を目指し申請する旨を発表した[112]

関連作品[編集]

  • 真山青果「嗚呼通州城」(『講談倶楽部』1937年10月号)9月に明治座で上演され、『真山青果全集』大日本雄弁会講談社、1941年には収録された。しかし、戦後の全集には収録されていない[8]

資料[編集]

証言・回想録
  • 荒牧純介『痛々しい通州虐殺事変』1981年[8]
  • 安藤利男「通州の日本人大虐殺」、『文藝春秋 昭和30年8月号 三十五大事件』、文藝春秋社1955年8月 (『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻、1988年3月15日、389 - 397頁所収 ISBN 4-16-362630-1
  • 安藤利男「虐殺の巻 (通州を脱出して)」、『續對支囘顧錄 (上)』、原書房、1973年8月25日、 483 - 493頁、 全国書誌番号:72000664
  • 小堺昭三「通州哀歌」『妖乱の歌姫 昭和残酷物語・炎の時代』光風社書店、1977年[8]
  • 武島義三、東達人、吉村四朗、森脇高英、竹原重夫、廣田利雄、大橋松一郎、朴永良「通州虐殺の惨狀を語る 生き残り邦人現地座談會」、『月刊「話」昭和12年10月号』。 (菊池信平[編]『昭和十二年の「週刊文春」』文春新書 578 2007年6月20日、158 - 177頁所収 ISBN 978-4-16-660578-1)
  • 『東京裁判却下未提出弁護側資料 第三巻』 東京裁判資料刊行會、国書刊行会、1995年2月20日ISBN 4-336-03681-0
  • 『東京裁判却下未提出弁護側資料 第八巻』 東京裁判資料刊行會、国書刊行会、1995年4月1日ISBN 4-336-03682-9
  • 『極東国際軍事裁判速記録 第五巻 自第一九四號 至第二三八號』 新田満夫、雄松堂書店、1968年1月25日
  • 今井武夫 『支那事変の回想』 みすず書房、1964年9月30日
  • 今井武夫 『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』 みすず書房、2009年
  • 調寛雅『天皇さまが泣いてござった』教育社,1997年。
  • 橘善守「通州惨劇と其の前後」『話 臨時増刊』(1938年7月)[8]
  • 田中隆吉『裁かれる歴史』長崎出版、1985年。
  • 宮田天堂「通州事件の真相」『冀東政権大秘録 通州事変一周年を迎へて』(1938年、p52-54) NDLJP:1274532 (復刻版2006年)
  • 無斁会『通州事件の回顧』1971年[8]
公文書など
報道など
  • 陸軍省新聞班「朗坊事件以後」『官報附録 週報』内閣印刷局 1937年8月4日
  • 「通州保安隊の叛乱と殷汝耕氏救出記 荒木五郎の活躍」サンデー毎日昭和12年9月臨時増刊、「支那事変皇軍武勇伝」p80-81
  • 羽島知之編『「号外」昭和史 1936~1945』第1巻(大空社、1997年)
  • 山川均「支那軍の鬼畜性」雑誌『改造』1937年9月号「特集:北支事変の感想」
  • Frederick Vincent Williams, Behind the news in China, New York: Nelson Hughes, 1938年
    • 日本語訳:フレデリック・ヴィンセント ウィリアムズ著、南支調査会調査部編訳『背後より見たる日支事変』南支調査会、1939年7月
    • 田中秀雄訳『中国の戦争宣伝の内幕 日中戦争の真実 』芙蓉書房、2009年11月
  • 加藤久米四郎 『戦線を訪ねて国民に愬ふ』 東京朝野新聞出版部1937年9月9日NDLJP:1090984
写真
  • 北博昭「日中戦争の未公開写真-写真資料が語る通州事件-」、『歴史読本 九月号』第44巻第11号、新人物往来社、1999年9月1日、 156 - 163頁。

参考文献[編集]

中国の文献
  • 何立波「『華北自治運動』中的冀東偽政権」『二十一世紀』網絡版総第49期、2006年4月。
  • 張慶余「冀東保安隊通県反正始末記」『天津文史資料選輯』第21輯、1982年。
  • 「通州事変的経過」(『通県党史文史資料』第6期、1985年。南開大学歴史系・唐山市档案館編『冀東日偽政権』档案出版社、1992年[8]
  • 武月星、劉友于、林華、林治波共著『通州事件 廬溝橋事変風雲編』山辺 悠喜子訳、中帰連 (9), 35-42, 1999-06
  • 林語堂 『北京好日』 佐藤亮一訳、ジープ社、1950年9月15日

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」「其ノ四 補給及通信」 一、兵站ハ差当リ第一期掃蕩戦ニ応スル諸準備ヲ完了セシムルヲ主眼トス之カ為兵站主地ヲ天津ニ設ケ通州及豊臺ニ補給基点ヲ設ケ半会戦分ノ軍需品及一箇月分ノ糧秣ヲ集積ス[21]
  2. ^ 「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」「其ノ四 補給及通信」 三、軍司令部ハ第一期、第二期作戦間天津ニ位置ス会戦間通州又は豊臺ニ戦闘司令所を進ムコトアリ[21]
  3. ^ 張慶餘 (1895 - 1963) 1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長、1937年7月率部起義、転保定、洛陽、西安、於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議[44]
  4. ^ 信夫は、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なしりもの」のみ記述している[65]

出典[編集]

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  1. ^ a b 中村 (1986)、pp.403-404
  2. ^ 児島 (1984)p.71
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 通州事件について偕行社近現代史研究会報告第10回、平成19年(2007年)10月号。
  4. ^ a b 藤本一孝 『大東亜戦争と現在の日本: 陸軍最後の青年将校、傘寿の想い』 展転社2006年、111頁。
  5. ^ a b c d e f g 陸軍省新聞班 1937, p. 10.
  6. ^ 加藤久米四郎『戦線を訪ねて国民に愬ふ』東京朝野新聞出版部、昭和12年。NDLJP:1090984 p.28.
  7. ^ 読売新聞1937年8月1日号外
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 小林元裕「通州事件の語られ方」、国際ワークショップ「日中全面戦争と地域社会変容II」p62-3.
  9. ^ a b c 防衛庁防衛研修所戦史部 (1975)、228頁。
  10. ^ 中村 (1986)406頁。
  11. ^ a b c 渡部 (2006)、222頁。
  12. ^ a b c 広中 (2008)、120頁。
  13. ^ 張炳如「冀東保安隊瑣聞」, 中国人民政治协商会议全国委员会文史资料研究委员会《七七事变》编审组编《七七事变》, 北京 : 中国文史出版社, 1986.5 , 第77 - 第78頁。
  14. ^ 広中 (2008)、127頁。
  15. ^ 荒牧純介『痛々しい通州虐殺事件』私家版、1981年、5頁。
  16. ^ a b 大杉 (1996)、271頁。
  17. ^ 昭和11年11月22日付『東京日日新聞』夕刊
  18. ^ 昭和11年11月25日付『東京日日新聞』夕刊
  19. ^ 渡部 (2006)、210 - 211頁。
  20. ^ 広中 (2008)、123頁。
  21. ^ a b 臼井ほか (1964)、16頁。
  22. ^ a b c d e 岩谷將「日中戦争の展開塘沽停戦協定からトラウトマン工作まで」オープンフォーラム「近現代史研究会」(座長・藤井裕久、事務局長・古川元久)2015年06月03日。
  23. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 (1967)、455頁。
  24. ^ 寺平 (1970)、367頁。
  25. ^ a b c 中村 (1986)、402頁。
  26. ^ 寺平 (1970)、368頁。
  27. ^ a b c d e 寺平 (1970)、369頁。
  28. ^ 中村 (1986)、402頁。
  29. ^ a b c 信夫 (1992)、115頁。
  30. ^ a b c d e 渡部 (2006)、224頁。
  31. ^ 寺平 (1970)
  32. ^ 広中 (2008)[要ページ番号]
  33. ^ a b c d サンケイ新聞編『蒋介石秘録12 日中全面戦争』昭和51年、p43-44.
  34. ^ 陸軍省新聞班 1937, p. 7-10.
  35. ^ 陸軍省新聞班 1937, p. 7-9.
  36. ^ a b 陸軍省新聞班 1937, p. 9.
  37. ^ 陸軍省新聞班 1937, pp. 9-10.
  38. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 中村 (1986)、p401-406.
  39. ^ a b 北 (1999)、158頁。
  40. ^ 北 (1999)、159頁。
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  57. ^ 調寛雅『天皇さまが泣いてござった』(1997年)収載
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  101. ^ 中村粲 1900, p. 408.
  102. ^ 張慶余「冀東保安隊通県反正始末記」『天津文史資料選輯』第21輯、1982年。武月星、劉友于、林華、林治波共著『通州事件 廬溝橋事変風雲編』山辺悠喜子訳、中帰連 (9), 35-42, 1999-06に基づく中村粲の解説。
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  104. ^ 信夫 (1992)、, p. 115-116.
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  108. ^ 大杉一雄「日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか」 中公新書 1996年1月 p.271-272
  109. ^ 人民網“通州大屠殺”:日本右翼認為可比南京大屠殺 [1]
  110. ^ 中村粲 1900, p. 406.
  111. ^ 『諸君!』 1989年11月号 P216
  112. ^ 通州事件をユネスコ記憶遺産に申請 産経ニュース、2015年12月11日。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]