通州事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍の通州守備隊と通州特務機関を攻撃し、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、多数の老幼婦女子を含む居留民に対して掠奪、暴行、凌辱、殺戮の限りを尽くした[1]事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、猟奇的な殺害、処刑が行われた[1]通州虐殺事件とも[2]

背景[編集]

通州は、北平(現:北京市)の東約12kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で、井上民恵を妻とする殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた[3]。また、義和団の乱後の北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。

盧溝橋事件[編集]

1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍(この部隊は元々、通州に配置されようとした際に、梅津美治郎陸軍省事務次官が京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと強く反対したために代わりに北平西南の豊台に配置された部隊であった[4])への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し宋哲元第29軍と日本軍が衝突した。まもなく停戦協定が結ばれたが、7月10日に日本軍将校斥候へ迫撃砲弾が撃ち込まれた[5]7月13日第29軍第38帥によって日本軍トラックが爆破され4名が殺害され(大紅門事件[5]7月16日には両軍の間で砲撃が行われた[5]7月18日、日本軍機が銃撃され[5]7月19日には宛平県城より日本軍への砲撃が行われ、7月20日にも再び宛平県城より日本軍への砲撃が行われたため、日本軍も砲撃を行った[5]7月25日廊坊での通信線補修に派遣されていた支那駐屯軍一個中隊を第29軍第38師が攻撃し死傷者を出し(廊坊事件)、続く7月26日にも北平の広安門で日中両軍が衝突した(広安門事件[6]

冀東政府保安隊[編集]

冀東防共自治政府保安隊は、日本軍の支那駐屯軍から派遣された将兵により軍事訓練が施され治安部隊であり、教導総隊及び第一、第二、第三、第四の五個総隊で編成されていた[7][8]。通州城内には、保安隊第一総隊 (総隊長:張慶余)の一個区隊と教導総隊 (総隊長:殷汝耕、副総隊長:張慶余)が、城外には、第二総隊 (総隊長:張硯田)の一個区隊が配備されていた[7]。第一総隊第二区隊は、重機関銃や野砲も装備していた[9]。荒牧純介によると、旧東北軍の一部から編成された部隊であり、対日感情は決して良いものではなく、強い反日感情を抱く幹部もいたという[7][10]。これより前、1936年11月20日午後7時頃に昌黎保安隊第5、第6中隊の約400名が北寧鉄道の同治~開平間で機関車を停車させ、灤県部隊査閲のため同地に向っていた海関守備隊長古田龍三少佐、副官松尾新一大尉、灤県守備隊長永松享一大尉、片木應緊軍医、久住照雄主計と同乗の日本人10名を拉致した。[11][12]。この兵変は鎮圧されたが、古田少佐が責任をとって割腹自殺を図った[11][13]

通州守備隊[編集]

盧溝橋事件発生時、通州には支那駐屯歩兵第一大隊の一個小隊 (小隊長:藤尾心一中尉)の約45名と通州憲兵分隊7名が駐屯しており、7月18日夜、支那駐屯歩兵第二連隊 (連隊長:萱島高中佐)が天津から到着し、通州師範学校に逗留した[14]。1937年7月15日付「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」に従い、「第一期掃蕩戦」の準備のため通州と豊台に補給基点が設置され[注釈 1]、会戦間に戦闘司令所の通州又は豊台への進出の可能性が想定された[注釈 2]

宝通寺の傳鴻恩部隊への攻撃[編集]

通州新南門外宝通寺には、第29軍の独立第39旅 (旅長:阮玄武)の隷下にある717団1営 (営長:傳鴻恩)が駐屯していた[16][17]。7月25日の廊坊事件翌日の26日深夜、日本側は傳鴻恩部隊に対し武装解除し平京に向け退去するよう求める通告を行ったが、27日午前3時に至っても傳鴻恩からの回答はなく、兵営には抗戦の規制が横溢し兵馬の騒めきもひとしおであるとの密偵の報告があったため、同日黎明4時、支那駐屯歩兵第二連隊は攻撃を開始し[18]、午前11時までに傳鴻恩部隊の掃蕩を完了した[19][20][21]

保安隊誤爆事件[編集]

傳鴻恩部隊掃蕩の際、日本の関東軍の爆撃機が、誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆撃し、保安隊員の数名が重傷を負い、数名は爆死した[19][17][21]細木繁特務機関長は、冀東政府の殷汝耕長官に陳謝し、爆死者の遺族に対し最善の方法を尽し、負傷者に対して医療と慰藉を講ずる旨申し出た[19]。翌28日、細木は、保安隊教導隊幹部を冀東政府に招集し、誤爆に関して説明し慰撫に努めた[19][17][21]。北平特務機関補佐官寺平忠輔は「そのかいあってか、保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」[19]と、北平駐在大使館附武官補佐官今井武夫は、保安隊員が「たまたま二十八日関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」[22]と回想している。

中華国民政府によるデマ放送[編集]

1937年7月27日に中華国民政府はラジオ放送を行い[23]、その中で「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台廊坊は中国軍が奪還した」との虚偽報道に続き[23]、「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」と報じた[24][23]。この南京放送は、デマを流すので有名であった[25]。これを受けて冀東保安隊が日本人を襲撃することとなった[3]

冀東防共自治政府保安隊と第二十九軍の関係[編集]

通州保安隊はすでに人民戦線運動の影響を受けていたため、南京のデマ放送は、彼らの抗日態度を先鋭化させ、中国側に寝返った方が有利と判断したとみられる[26]。冀東防共自治政府保安隊の幹部張慶餘張硯田は密かに第二十九軍と接触していた[23]

このような中、第二十九軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で張慶餘と張硯田は分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案し、保安隊の監督を担当していた日本軍の通州特務機関長細木繁中佐[27](支那駐屯軍司令部付)も、日本人保護のためと認識してこれを了承していた[23]。保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した[23]

事件発生[編集]

日本軍守備隊への攻撃[編集]

犠牲者の虐殺体。被害者の氏名が判明しており、プライバシー保護のために目にマスク処理をしている[28]
日本人居留民の遺体[28]
日本人居留民の遺体[29]

1937年7月29日午前2時、3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍へ攻撃を開始、殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関を襲撃、日本軍は壊滅し、また日本人居留民を襲撃し、在留日本人385名のうち223名が虐殺された[30]渡部昇一の主張によると、保安隊の兵力は千数百人、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されたとしている[31]

通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていたため留守部隊であり、藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、憲兵、兵站兵器部を合わせて110名程度であった[32]

張慶余、張研田の両保安隊は午前二時に攻撃を開始、長官公署を襲って殷汝耕を拉致した[33]。保安隊の装備が遥かに優れていたため、日本軍守備隊は死傷者が続出し、通州特務機関は全滅した[34]。守備隊長藤尾心一中尉と通州特務機関長細木繁中佐も戦死した。

当時大使館付陸軍武官補佐官であった今井武夫は、「もっともこれは単に通州だけに突発した事件ではなく、かねて冀察第二十九軍軍長宋哲元の命令に基づき、華北各地の保安隊がほとんど全部、29日午前2時を期して、一斉に蜂起し、日本側を攻撃したものである」と述べている[35]

日本人居留民への暴虐行為[編集]

冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[36]

7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17~8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[37]。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[38]

第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた[39]。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[40]。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[41]。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[42]。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[43]

当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[44]

また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[45]。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[46]。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[47]。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[48]

被害者数[編集]

通州事件の生存者
事件翌日、日本軍救援部隊により安寧を取り戻す通州(1937年7月30日)

陸軍大学が1939年に作成した「支那事変初期ニ於ケル北支作戦史要」によると、通州在留邦人385名のうち223名が虐殺された[30]陸軍省の調査では、1937年8月5日現在で発見できたものの数は、死者184名、男93名、女57名、損傷がひどく性別不明の遺体34、生存者は134名、その内訳は「内地人」77名と「半島人」57名であった[49]。在天津日本総領事館北平警察署通州分署の調査 (1937年7月29日~8月5日)によると、殺害された居留民は合計225名 (内地人114人[50]、鮮人111人[51])にのぼった[52]。また、当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将が1940年2月に記した『支那事変回想録摘記』には「通州事件に於て犠牲者邦人104名 (内冀東政府の職員及其の関係者約80名) 鮮人108名 (大多数は阿片密貿易者及醜業婦にして在住未登録なりしもの)を算するに至りしは誠に痛恨に堪えざりし所なり」とある[53][注釈 3]。また、児島襄は「在留邦人385人のうち幼児12人をふくむ223人が殺され、そのうち34名は性別不明なまでに惨殺されていた」[55]とし、中村粲は「在留日本人380名中、惨殺された者260名」としている[56][31]

その他の生存者の証言[編集]

  • 九死に一生を得た日本人女性の発言「日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港事件も丁度このような恐ろしさであったろうと思います」[57]
  • 吉林生まれで5歳時に河北省の通県で一家の父母と妹が虐殺された者が、中国人看護婦により自分の子であると庇われ、九死に一生を得て日本に帰還した。父は医院を開業していたが、保安隊が襲う直前に遺書を書き中国人看護婦(何鳳岐:か ほうき)に預けたという[58]

事件当時の反響[編集]

当時の反響[編集]

天津の支那駐屯軍司令部は、監督していた保安隊の反乱を不名誉として、陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に新聞報道を制限するよう要請したが、松村は、事件は北京近くで発生し、すでに北京の租界から全世界へ報道されているので無駄と応じた[59]

東京日日新聞1937年7月31日付号外で「惨たる通州叛乱の真相 鬼畜も及ばぬ残虐」と事件を報道した。

山川均は、雑誌『改造』1937年9月号「特集:北支事変の感想」に「支那軍の鬼畜性」という文章を寄稿し、「通州事件の惨状は、往年の尼港事件以上だといわれている。」、「新聞は<鬼畜に均しい>という言葉を用いているが、鬼畜以上という方が当たっている。同じ鬼畜でも、いま時の文化的な鬼畜なら、これほどまでの残忍性は現わさないだろうから。」、「こういう鬼畜に均しい、残虐行為こそが、支那側の新聞では、支那軍のXXXして報道され、国民感情の昂揚に役立っているのである」、「通州事件もまた、ひとえに国民政府が抗日教育を普及し、抗日意識を植え付け、抗日感情を煽った結果であるといわれている」、「支那の抗日読本にも、日本人の鼻に針金を通せと書いてあるわけではない。しかし、人間の一皮下にかくれている鬼畜を排外主義と国民感情で煽動すると、鼻の孔に針金を通させることになる」、「支那国民政府のそういう危険な政策が、通州事件の直接の原因であり、同時に北支事変の究極の原因だと認められているのだから。」と、事件の残虐性と中国の反日政策との関連について論評した[60][61]。これを読んだ中国の作家巴金は、9月19日に「山川均先生に (給山川均先生)」を書き、「混戦のさなかには、一人一人の生命が傷つき失われることはすべて一瞬の出来事です。細かいことまで気を遣ってはいられなくなって、復仇の思いがかれらの心を捉えてしまったのでしょう。」、「抑圧されていた民衆が立ち上がって征服者に抵抗する時には、少数の罪もない者たちが巻き添えをくって災難に遇うことも、また避けがたいことです。」、「このたびの死者は、ふだんからその土地で権柄ずくにふるまっていた人たちでしたし、しかもその大半は、ヘロインを売ったり、モルヒネを打ったり、特務工作をしたりしていた人たちなのです。」、「通州事件を生みだした直接の原因は、それこそ、あなたの国の軍閥の暴行なのであって、抗日運動もまた、あなたの国の政府が長年のあいだつづけて来た中国の土地に対する侵略行為によってうながされたものなのです。」と反論した[62][63]

冀東政府による謝罪[編集]

1937年(昭和12年)12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円を交付し、事件は収束した[64]。12月24日には両政府で公文交換が行われ、「冀東政府より森島参事官宛て書翰」では、事件関係者が処罰または逃亡したと説明された[65]

東京裁判における扱い[編集]

極東国際軍事裁判では、1947年4月25日に通州事件に関連する14件の証拠が却下され、1件が撤回され、1件が未提出であった。このうち通州事件に直接言及しているのは、昭和12年8月2日付の外務省情報部長声明「通州事件に関する公式声明書」 (弁護側文書番号: 1109)と同年8月4日付の外務省情報部長談「通州事件」 (弁護側文書番号: 1107) であった[66]が、双方とも「外務省スポークスマンの発表は証拠価値無し」との理由でウェッブ裁判長の即決で却下された[67]。一方、萱嶋高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐の三名の証人の口述書が受理され、1947年4月25日午前11時から11時58分の間に萱島と桂が出廷し宣誓供述書を読み上げ[68][69][70][71]、午後1時32分に桜井が出廷し証拠写真三点を提出し宣誓供述書を読み上げた[72][73]


後世の評論[編集]

21世紀初頭の漫画家の小林よしのりは、通州事件によって当時の日本で反中感情の世論が巻き起こり、軍部支持に傾いたと主張している[74]。また、後世の歴史学者の江口圭一も、「通州事件は日本を逆上させ、暴支膺懲を加速し増幅させた。中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる」と記した[75]

尋常ならざる殺害の状況(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首[要出典]、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など)を生存者であった同盟通信記者安藤利男が「通州の日本人大虐殺」文藝春秋昭和30年(1955年)8月号で発表し、日本で反中感情が強まった[要出典][76][77]

近年ではこの事件に対する報道は中国では皆無である。中国政府公式対外宣伝刊行物の『南京大虐殺写真集』の目次では『盧溝橋にて「北支事変」勃発、日本は華北を侵略する。日本軍は第二次上海事変を起こし、上海へ出兵する。』と述べており、この事件については一切触れられていない。[要出典]

主犯の張慶餘は通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している[注釈 4]

事件諸説[編集]

冀東防共自治政府保安隊が通州事件を起こした原因としては以下の説が存在している。

中国共産党説[編集]

  • 盧溝橋事件で日本軍と衝突した第29軍の枢要な地位には複数の中国共産党員が就いていた。[79] また、中国共産党は冀東防共自治政府と保安隊にも抗日分子を浸透させて日本人襲撃計画を立てていた。[80] 事件を実行した保安隊幹部の張慶餘張硯田は第29軍と密通しており武装蜂起の機会を窺っていた。[81] このことから、通州事件も中国共産党の謀略によるテロであった可能性が高いとされている。[82]

誤爆への報復説[編集]

  • 日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎を誤爆したことへの報復だったとして事件の責任は日本陸軍にあるとする説を当時の北京大使館参事官だった森島守人は『陰謀・暗殺・軍刀』(岩波新書、1950年)で提出している。他方、誤爆の事後処理は通州事件以前には終わっていたという見方も存在している[83]

ラジオでのデマ放送説[編集]

  • 中国国民党軍が冀東防共自治政府保安隊を寝返らせるため、ラジオで「日本が大敗した」と虚偽の放送をおこない、冀東保安隊がそれに踊らされたという説[83][84]

冀東保安隊と国民党の密約説(哥老会)[編集]

  • 1986年に公表された冀東保安隊長・張慶餘の回想録や、中国で出版された『盧溝橋事変風雲篇』によると、張慶餘、張硯田の両隊長は、中国国民党第29軍とかねてから接触。「日本打倒」の事前密約をし、これが「通州決起」と関係していると記されていることから、中国国民党と張慶餘・張硯田両隊長の密約によるものとする説[85]。張慶餘と中国国民党第29軍の宋哲元はともに秘密結社哥老会の会員であったことが『盧溝橋事変風雲篇』では告白されている[85]

また、張慶餘は「自分は日本軍が大挙して南苑を侵犯し、かつ飛行機を派遣して北平を爆撃したのを見て、戦機すでに迫り、もはや坐視出来ないものと認めて、ついに張硯田と密議し、七月二十八日夜十二時、通州で決起することを決定した」と書いている[85]

岡野篤夫は、「宋哲元は日本の田代軍司令官を真の友人であると称し、日本軍との協力を誓っていた。日本軍は全く迂闊でお人よしだったと言えるが、その理由は日本軍に中国と戦う意思がなかったからで、目的とするところは、居留民の保護と権益の擁護であった。ところが、国民政府や中国共産党は、その権益擁護や日本人の居住することを侵略と考えていた」と評している[85]

秦郁彦は張慶餘の回想録以降は、通州日本軍の防備がうすくなった機会をとらえて反乱に及んだとする説が有力としている[86]

麻薬汚染への報復説[編集]

  • 冀東政権による麻薬の密造・密輸によって悪化した中国の麻薬汚染に憤激した通州の市民が、保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民及び朝鮮人に報復した抗日事件とする説(信夫清三郎[87]江口圭一[75])。事件の起きた通州は冀東政権の本拠地でありアヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。[要出典]歴史学者の信夫信三郎は著書「聖断の歴史学」の中で、犠牲者に朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州が中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しおり、通州事件は日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた、と分析している[88]

日本軍に責任ありとする言説への批判[編集]

上記、いくつかの説にあるように事件の原因を日本軍に帰する言説については批判がある。たとえば平凡社『日本史大事典 第4巻』1993年などでこの事件の原因を日本軍とする記述に対して、中村粲は、民間の日本人市民を大量虐殺する責任を日本軍にするのは荒唐無稽と批判している[89]。松田純清も戦後の日本現代史研究者のそのような扱いについて同種の批判を行っている[61]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」「其ノ四 補給及通信」 一、兵站ハ差当リ第一期掃蕩戦ニ応スル諸準備ヲ完了セシムルヲ主眼トス之カ為兵站主地ヲ天津ニ設ケ通州及豊臺ニ補給基点ヲ設ケ半会戦分ノ軍需品及一箇月分ノ糧秣ヲ集積ス[15]
  2. ^ 「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」「其ノ四 補給及通信」 三、軍司令部ハ第一期、第二期作戦間天津ニ位置ス会戦間通州又は豊臺ニ戦闘司令所を進ムコトアリ[15]
  3. ^ 信夫は、朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なしりもの」のみ記述している[54]
  4. ^ 張慶餘(1895---1963)1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長、1937年7月率部起義、転保定、洛陽、西安、於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議[78]

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 中村 (1986)、403~404頁。
  2. ^ 児島 (1984)、71頁。
  3. ^ a b 藤本一孝 『大東亜戦争と現在の日本: 陸軍最後の青年将校、傘寿の想い』 展転社2006年、111頁。
  4. ^ 渡部 (2006)、210~211頁。
  5. ^ a b c d e 岩谷將「日中戦争の展開塘沽停戦協定からトラウトマン工作まで」オープンフォーラム「近現代史研究会」(座長・藤井裕久、事務局長・古川元久)2015年06月03日。
  6. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室 (1967)、455頁。
  7. ^ a b c 広中 (2008)、120頁。
  8. ^ 張炳如「冀東保安隊瑣聞」, 中国人民政治协商会议全国委员会文史资料研究委员会《七七事变》编审组编《七七事变》, 北京 : 中国文史出版社, 1986.5 , 第77頁~第78頁。
  9. ^ 広中 (2008)、127頁。
  10. ^ 荒牧純介『痛々しい通州虐殺事件』、私家版、1981年、5頁。
  11. ^ a b 大杉 (1996)、271頁。
  12. ^ 11月22日付『東京日日新聞』夕刊
  13. ^ 11月25日付『東京日日新聞』夕刊
  14. ^ 広中 (2008)、123頁。
  15. ^ a b 臼井ほか (1964)、16頁。
  16. ^ 寺平 (1970)、367頁。
  17. ^ a b c 中村 (1986)、402頁。
  18. ^ 寺平 (1970)、368頁。
  19. ^ a b c d e 寺平 (1970)、369頁。
  20. ^ 中村 (1986)、402頁。
  21. ^ a b c 信夫 (1992)、115頁。
  22. ^ 今井 (1964)、50頁。
  23. ^ a b c d e f 渡部 (2006)、224頁。
  24. ^ 寺平 (1970)
  25. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  26. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  27. ^ 広中 (2008)[要ページ番号]
  28. ^ a b 北 (1999)、158頁。
  29. ^ 北 (1999)、159頁。
  30. ^ a b 防衛庁防衛研修所戦史部 (1975)、228頁。
  31. ^ a b 渡部 (2006)、222頁。
  32. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  33. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  34. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  35. ^ 今井武夫『支那事変の回想』・『日中和平工作 回想と証言 1937-1947』[要ページ番号]
  36. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  37. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  38. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  39. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  40. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  41. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  42. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  43. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  44. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  45. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  46. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  47. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  48. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  49. ^ 信夫 (1992)、117頁。
  50. ^ 「在通州居留民(内地人)人名簿」
  51. ^ 「在通州居留民(鮮人)人名簿」
  52. ^ 広中 (2008)、122頁。
  53. ^ 香月 (1940)、573頁。
  54. ^ 信夫 (1992)、116頁。
  55. ^ 児島 (1984)、79頁。
  56. ^ 中村 (1986)、406頁。
  57. ^ 『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』新聞タイムズ編(皇徳泰賛会)昭和12年12月18日発刊 [要ページ番号]
  58. ^ ハンゼン氏病よさようなら(1963) 新道せつ子 主婦の友社 東京[要ページ番号]
  59. ^ 信夫 (1992)[要ページ番号]
  60. ^ 信夫 (1992)、118頁。
  61. ^ a b 通州事件について偕行社近現代史研究会報告第10回、平成19年(2007年)10月号。
  62. ^ 小林元裕「通州事件の語られ方」 、国際ワークショップ「日中全面戦争と地域社会変容II」[要ページ番号]
  63. ^ 信夫 (1992)、120~121頁。
  64. ^ 大阪朝日新聞昭和12年12月23日
  65. ^ 東京日日新聞昭和12年12月25日
  66. ^ 東京裁判資料刊行會 3 (1995)、56頁。
  67. ^ 東京裁判資料刊行會 8 (1995)、161頁。
  68. ^ 国立国会図書館法廷証番号2498:萱島高宣誓供述書、弁護側文書番号:1090
  69. ^ 極東国際軍事裁判 (1947)、170~171頁。
  70. ^ 国立国会図書館法廷証番号2499:桂鎮雄宣誓供述書、弁護側文書番号: 1139
  71. ^ 極東国際軍事裁判 (1947)、172頁。
  72. ^ 国立国会図書館法廷証番号2500:桜井文雄宣誓供述書、弁護側文書番号:1140
  73. ^ 極東国際軍事裁判 (1947)、173~174頁。
  74. ^ 『新ゴーマニズム宣言スペシャル・戦争論』幻冬舎1998年[要ページ番号]
  75. ^ a b 『十五年戦争研究史論』校倉書房 [要ページ番号]
  76. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]
  77. ^ 『東京裁判(上)』朝日文庫[要ページ番号]
  78. ^ 1937年通州事变:一场起义伪军对日军民的杀戮 2007年6月25日 網易NetEase
  79. ^ 中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る SAPIO2015年5月号 2015.04.07
  80. ^ 中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る SAPIO2015年5月号 2015.04.07
  81. ^ 中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る SAPIO2015年5月号 2015.04.07
  82. ^ 中国の日本人虐殺「通州事件」 鼻に針金通し青竜刀で体抉る SAPIO2015年5月号 2015.04.07
  83. ^ a b 寺平忠輔『盧溝橋事件』など[要ページ番号]
  84. ^ 秦 (1996)[要ページ番号]
  85. ^ a b c d 岡野篤夫「通州事件の真相」『正論』 1990年5月号[要ページ番号]
  86. ^ 秦 (1996)[要ページ番号]
  87. ^ 信夫 (1992)[要ページ番号]
  88. ^ 信夫 (1992)[要ページ番号]
  89. ^ 中村 (1986)[要ページ番号]

参考文献[編集]

日本語書籍

論文など

  • 武島義三、東達人、吉村四朗、森脇高英、竹原重夫、廣田利雄、大橋松一郎、朴永良「通州虐殺の惨狀を語る 生き残り邦人現地座談會」、『月刊「話」昭和12年10月号』。 (菊池信平[編]『昭和十二年の「週刊文春」』文春新書 578 2007年6月20日、ISBN 978-4-16-660578-1 158~177頁所収)
  • 香月清司「支那事変回想録摘記」、『現代史資料 12 日中戦争 4』、みすず書房、1965年12月15日、 561~596頁、 ISBN 4-622-02612-0
  • 安藤利男「虐殺の巻 (通州を脱出して)」、『續對支囘顧錄 (上)』、原書房、1973年8月25日、 483~493頁、 ISBN 3331-13110-6945
  • 安藤利男「通州の日本人大虐殺」、『文藝春秋 昭和30年8月号 三十五大事件』、文藝春秋社1955年8月 (『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻、1988年3月15日、ISBN 4-16-362630-1 389~397頁所収)
  • 岡野篤夫「通州事件の真相」、『正論 1990年6月号』第214巻、産経新聞社1990年6月1日、 220~230頁。
  • 今井清一「通州事件」『日本史大事典 第四巻 す~て』平凡社、1993年8月18日、ISBN4-582-13104-2、1062頁。
  • 江口圭一「盧溝橋事件と通州事件の評価をめぐって」、『季刊戦争責任研究』第25号、1999年9月 ISSN 13437348
  • 広中一成「通州事件の住民問題」、『軍事史学会編 日中戦争再論』第43巻3、4、2008年3月31日、 120~138頁、 ISBN 978-4-7646-0322-6
  • 山中恒「通州事件の謎 ―戦争の歴史と真実―」『神奈川大学評 第28号 特集=歴史と歴史観―九〇年代日本社会の現在』、1997年11月28日発行、ISSN 0913-4409、64~71頁。
  • 北博昭「日中戦争の未公開写真-写真資料が語る通州事件-」、『歴史読本 九月号』第44巻第11号、新人物往来社、平成十一年九月一日、 156~163頁。
  • 松田純清通州事件について偕行社近現代史研究会報告第10回、平成19年(2007年)10月号。

中国語


関連項目[編集]

外部リンク[編集]