中華民国空軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
中華民國空軍
空軍旗
空軍旗
創設 1929年
国籍 中華民国の旗 中華民国
軍種 空軍
規模 35,000 人
上級部隊 ROC Ministry of National Defense Flag.svg 中華民国国防部
基地 中華民国の旗 中華民国台湾
台北市中山区北安路387号
モットー 忠勇
彩色 藍色
行進曲 空軍軍歌
主な戦歴 北伐
日中戦争
国共内戦
指揮
現司令官 ROCAF General's Flag.svg 沈ㄧ鳴
著名な司令官 周至柔
識別
空軍の章 Republic of China Air Force (ROCAF) Logo.svg

中華民国空軍(ちゅうかみんこくくうぐん、:中華民國空軍)は中華民国国防部に属する中華民国台湾)の空軍である。台湾空軍とも呼ばれる。

歴史[編集]

創設から日中戦争まで[編集]

1912年辛亥革命の後、中華民国が建国された。中華民国臨時大総統に就任した袁世凱と副大総統の黎元洪は、航空機と潜水艦がこれからの戦力で重要になるとするフランス軍事顧問の提案で航空隊の創設に着手、また北京に南苑航空学校を創設した。袁世凱の死後、各地で勢力を築いた軍閥は互いに戦闘を繰り広げたが、その中で彼らの航空戦力は偵察や爆撃に重要な役割を果たした。

一方、孫文率いる広州の中華民国護法軍政府は、軍閥を殲滅し中華統一を果たすべく、海外華僑と協力して日本、アメリカ、カナダ等に飛行学校を創設し、楊仙逸中国語版黄秉衡陳慶雲らパイロットの育成に着手した。また、1920年、大元帥府の下に航空局(局長:朱卓文)を成立、海外で訓練を受けたパイロットとマカオで購入した航空機を集め、第1隊(隊長:張惠長)と第2隊(隊長:陳應權)を編成[1]。翌1921年、孫文は62項目からなる「国防計画」を策定、うち9項目に「航空救国」と題し、航空隊の拡充、航空学校の建設によるパイロットの自主育成や飛行場、修理施設の設置を立案した[2]。本計画に基づき1923年に飛機廠が、1924年には広東航空学校と大沙頭飛行場中国語版が設立された。

1926年9月上旬、国民革命軍が武漢を占領すると、航空局は航空処(代理処長:張靜愚)に改編され、国民革命軍総司令部の隷属となる[3]

1927年3月、上海で国民革命軍東路軍航空司令部が成立。劉沛泉が司令、陳栖霞が参謀長、張維が副司令兼第1隊隊長、耿煜曾が第2隊隊長、高勤、張書紳、李文祿、石曼牛が副隊長や参謀などに就任し、飛行員は謝雲鶴、崔滄石、張國棟、曹文炳、紀廣漢、李天民、權基玉など十数名が居た[4]

同年春、国民革命軍江右軍が南京を掌握すると、江右軍航空隊が編成され、張慕超が隊長、石邦藩が副隊長、衷凌雲や葉玉琳など十数名が飛行員になった[5]

1928年10月、全国の軍政は統一され、国民革命軍総司令部航空処は軍政部航空署に改編された[6]。飛機隊2個と水面飛機隊1個を保有していたが、後に航空隊に改称され、5個隊に拡充された[6]

第一次上海事変では、日本海軍の「加賀」「鳳翔」艦載機と3度の空中戦を展開。最初の空中戦では双方不慣れだったため戦果はなく、2回目はアメリカ人義勇兵のロバート・ショートが加賀航空隊の生田乃木次に撃墜されるが、3回目は石邦藩ほか1名が加賀航空隊の13艦攻2機を撃墜した。当時、戦闘機はV-65Cコルセア英語版ボーイング218、爆撃機はユンカース W33英語版ユンカース K47英語版等を使用していた。

戦後の1932年春には8個隊にまで拡大するが、同年8月に4個に縮小[6]。1933年、轟炸、駆逐、偵察の3隊が増設され、同時に航空教導総隊が編成された[6]

1933年、満州事変で拠点を追われた旧東北航空の人員や器材を接収[7]。1933年2月、航空署の全職員は空軍階級に変更[8]。空軍階級は、例えば中校→空軍上尉、中将→空軍上校というように本来より2階級低く設定されたが、待遇自体は元の階級と変わらなかった。また航空部隊は整備され、飛行人員の一部は中央航空学校高級班で再教育を受け、一部の非軍事学校出身者は中央陸軍軍官学校で軍事訓練を受けた後、中央航空学校に送られた[9]

1934年5月、航空署は航空委員会に改編され、軍政部から独立して軍事委員会直属となった[10]蒋介石が委員長、弁公庁主任に陳慶雲(のち周至柔)が就任し、その下に5処17科の部署が設けられた[11]。航空隊は8個に拡大した[6]。第1隊(隊長:邢剷非)と第2隊(隊長:王勳)は轟炸(爆撃)隊であり、第3隊(隊長:張有谷)、第4隊(隊長:劉義曾)、第5隊(隊長:楊亜峰)の3隊は偵察兼轟炸隊、第6隊(隊長:王伯嶽)は偵察隊、第7隊(隊長:王天祥中国語版)と第8隊(隊長:高志航)は駆逐(戦闘)隊であった[11]

1935年、第9から第14隊が編成され、それに伴い各地の飛行場が急務となった。同年6月、南京の大校場飛行場、上海、南昌の青雲譜飛行場、洛陽などの大型飛行場に周辺地区の小型飛行場の管理運営を統括させる空軍総站が設立された[6]。日本軍の調査では、開戦直前の主要飛行場数は華北37、華中49、華南22、奥地32となっている[12]

また、北伐直後より国民政府は防空体制の在り方も模索しており、1932年に高射砲を輸入し高射炮班を設立。1934年1月1日に高射砲隊と人民防空研究班を合併させ筧橋に中央防空学校を設立(1935年12月に南京光華門付近に移転)[13][14]、同卒業生で年内には高射砲部隊を大隊規模にまで拡充した[15]。1934年11月12日、南京で首都防空演習が実施されると、防空網の拡充や民間団体による防護団の組織が求められる[13]。浙江省では保安司令部会と中央航校により防空監視哨の設置が行われ[14]、また1936年春に中央防空学校にて防護団が組織、同年秋には「各地防護団組織規則」が制定された[13]。1935年9月よりアメリカやイギリスなどの投資のもと南京や上海に無電台を設置するなど防空網の整備に取り掛かり[12]、その設置運営は陳一白藍衣社系人員が中心となって行われた[16]。また、中央航校では崔滄石らにより陸軍との連携作戦のため陸空連絡専門員の育成がなされた。同年11月には京杭三市合同防空演習を実施、これをきっかけとして杭州防空司令部が設立される。日中戦争勃発前後、各省にも防空司令部や省会防護団の設置が行われた[15]。勃発時点では浙江省だけで防空監視哨78箇所[14]、省会防護団は8個区団の下に32個分団[14]、また高射砲部隊は陸軍砲兵第41団、第42団の2個団を保有していた[15]。このため、日本軍からは航空作戦基盤は比較的整備されていたものと見られた[12]

1937年、広東、雲南及び山西航空処、広西や四川など各地に残存していた旧軍閥の私設航空隊を接収、海軍の福建及び青島海軍航空隊をも吸収[17]したことで8個大隊にまで拡大した。また、航空機も刷新が図られたが、航空委員会内部の派閥闘争や軍閥の急速な吸収で機種の方向性を統一できず、それぞれ軍事顧問団を招聘したアメリカ合衆国カーチス・ホークⅢ英語版(新ホーク)、カーチス・シュライクB-10P-26やイタリアのブレダ Ba.27英語版フィアット CR.32のほか、ドイツのハインケル He111Ju 52、イギリスのグロスター グラディエーターなど様々であった。

日中戦争支那事変/抗日戦争)勃発時、これらの機体に加え、中ソ不可侵条約によりSBI-15I-16などのソ連機やレンドリース法成立後にアメリカから供与されたP-40日本陸海軍に挑んだ。1937年8月14日、高志航率いる第4大隊の新ホークが杭州への渡洋爆撃を行った九六式陸攻3機を撃墜、その後も度々迎撃を行っている。また、1938年5月19日には徐煥昇中国語版率いる第14大隊のB-10が九州に飛来し宣伝ビラを散布した。

また、ソ連空軍志願隊や、1937年5月に顧問となった元米陸軍パイロットのクレア・リー・シェンノートの提案により米陸軍航空隊出身者で義勇軍部隊「フライング・タイガース」が創設され、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦力を補った。

第二次世界大戦後[編集]

第2次世界大戦終結後は共産党を相手に内戦を戦い(国共内戦)、アメリカから供与されたP-38P-51を運用したが、政権内の共産主義シンパの影響を受けたハリー・トルーマン大統領が中華民国軍への支援縮小を決定したために支援が減少し、ソ連に支援された共産党の人海戦術に圧倒されて敗北。中華民国政府とともに台湾へ移動する。

1960年代までは「大陸反攻」を前提とした編制を行ってきた。しかし、本格的な上陸侵攻能力に乏しい海軍が悩みの種であり、そのため空軍はより守勢な形での防空を主任務をせざるを得なかった。その後、U-2撃墜事件アメリカ空軍U-2が本国帰還を余儀なくされる一方で、供与されたU-2を運用して中国本土を偵察する黒猫中隊が編成され、1970年代には超音速戦闘機であるF-104がアメリカより供与されるなど、空軍として充実した体制を整えた。しかし、1972年の米中国交樹立・国府の国連議席喪失などもあり台湾は国際的孤立を深め、そのため装備面では旧式の航空機を闇市場で武器商人から通常の3~4倍もの高価格で調達せねばならないといった苦境も味わった。1990年代以降、最新鋭のAMRAAM空対空ミサイルを装備するF-16や、E-2が供与されるなど、ある程度の近代化も図られたほか、F-CK-1の開発により戦闘機の国産化を実現した。

現状[編集]

現在の中華民国空軍では、アメリカ製やフランス製をはじめ規格の異なる多種類の機体を運用することによるコストの増大や整備の煩雑さ、また人手不足が稼働率を脅かす課題となっている。大量の第4世代ジェット戦闘機に加え、近未来の戦闘機といわれる第5世代ジェット戦闘機の開発を敢行して急速な近代化を進める中国人民解放軍空軍への対策も急務である。日本政府の発表した防衛白書によれば、諸外国が有する空軍力の指標である第4世代ジェット戦闘機の数では、台湾は2006年前後に人民解放軍に追いつかれ、2008年前後には追い抜かれており、2013年現在では少なくとも300機の格差をつけられている。

質量ともに拡大しつつある格差への対策として、中華民国空軍は2011年から向こう10年前後の時間をかけて人民解放軍に対する対抗措置を実施することとなった。具体的には、空軍のレーダーサイト1か所において弾道ミサイル早期警戒システム(アメリカ製フェーズドアレイレーダー)を1基導入し、2012年に導入された直後には、同年12月に北朝鮮がフィリピン東方沖の太平洋に向けて発射した「飛翔体」が1段目と2段目のブースターを分離しながら飛んだ様子をレーダーで確認した。また、F-16が装備するAMRAAMミサイルの能力を最大限に発揮するための機材として、AESA電子戦関連機器をアメリカから輸入すると共に、空軍の地対空ミサイル部隊への指揮命令系統の改善を通じて、空軍力の向上が図られる予定である。その代わり、アメリカに要望していた60機のF-16C/Dの輸入や、弾道ミサイル早期警戒システムの2基目の配備は見送られることとなった。

組織[編集]

空軍の作戦、戦力維持の責任は、空軍総司令部にあり、下位の司令部全てに、監督権を持つ。傘下の司令部には政治作戦部、作戦司令部、防空砲兵司令部、訓練司令部、後勤司令部等がある。2008年現在、45,000人が所属。主に防空任務を担当する。主な作戦単位は、以下に書す。

  • 6個戦術航空団(台湾軍での名称:戦術戦闘機聯隊)
  • 1個輸送対潜航空団(上記と同じ:運兵反潜混合聯隊)
  • 1個戦術指揮団
  • 1個通信管制団
  • 1個気象団
  • 1個防空歩兵団

台湾空軍では、1航空団は3個飛行群(台湾軍での名称:大隊)、3個飛行群は9個飛行中隊という3個単位で編制される。航空機の定数は1個飛行隊で20機と定められている[18]。3個飛行隊に基地警備、補給、対空部隊を指揮する部隊を統合し、聯隊となるようになっている。

編成[編集]

桃園飛行場 - 滑走路3,350m。

  • 海軍航空隊

新竹南寮飛行場 - 滑走路3,600m。

  • 第2戦術戦闘航空団
    • 第41中隊 - ミラージュ2000
    • 第42中隊 - ミラージュ2000
    • 第48中隊 - ミラージュ2000(訓練機として使用)

嘉義(水上)飛行場 - 滑走路3,335m。

  • 第4戦術戦闘航空団
    • 第21中隊 - F-16(戦闘攻撃機仕様)
    • 第22中隊 - F-16(戦闘攻撃機仕様)
    • 第23中隊 - F-16(戦闘攻撃機仕様)
    • 救難中隊 - S-70C

台中清泉崗基地 - 滑走路3,600m。

  • 第3戦術戦闘航空団
    • 第7中隊 - IDF
    • 第28中隊 - IDF
    • 測試基評価中隊 - IDF

岡山基地 - 滑走路2,350m。主として空軍軍官学校が使用。

  • 基礎教練大隊 - T-34C
  • 戦闘教練大隊 - AT-3(同大隊教官による曲技飛行隊「雷虎特技小組(サンダータイガー)」が編成)
  • 空運教練大隊 - B-1900C

台南基地 - 滑走路3,356m。

  • 第1戦術戦闘航空団
    • 第1中隊 - IDF
    • 第3中隊 - IDF
    • 第9中隊 - IDF

屏東飛行場 - 滑走路2,400m。

  • 第6運輸対潜航空団
    • 第10輸送飛行群
      • 第101中隊 - C-130H
      • 第102中隊 - C-130H
    • 第20電戦飛行群
      • 第2早期警戒中隊 - E-2T
      • 第6電戦中隊 - C-130HE
    • 対潜飛行群
      • 第33中隊 - P-3C、S-2T
      • 第34中隊 - P-3C、S-2T

台東(志航)基地

花蓮(佳山)飛行場 - 滑走路2,700m。

  • 第5戦術戦闘航空団
    • 第17中隊 - F-16
    • 第26中隊 - F-16
    • 第27中隊 - F-16
    • 第12偵察中隊 - RF-16、RF-5E

佳山基地

澎湖馬公基地

防空砲兵司令部は、桃園に位置し、4個(北部、中部、南部、東部)警衛指揮部、8個防砲団を管轄している。

[編集]

参考・脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 盧(1974)、p.26
  2. ^ 我国航空事业的奠基人——孙中山” (中国語). 中山市档案局政务网. 2017年12月17日閲覧。
  3. ^ 盧(1974)、p.33
  4. ^ 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社. pp. 96. 
  5. ^ 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社. pp. 94. 
  6. ^ a b c d e f 國防部史政編譯局 編印 (1985). 抗戰勝利四十週年論文集 上册. 國防部史政編譯局. pp. 261. 
  7. ^ 國防部史政編譯局 編印 (1985). 抗戰勝利四十週年論文集 上册. 國防部史政編譯局. pp. 260. 
  8. ^ 盧(1974)、p.46
  9. ^ 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社. pp. 365. 
  10. ^ 盧(1974)、p.61
  11. ^ a b 盧(1974)、p.62
  12. ^ a b c 戦史叢書74 1974, p. 13.
  13. ^ a b c 谭备战. “『试论抗战前南京国民政府的民间防空建设』 (PDF)” (中国語). 军事历史研究 2009年第4期. 2018年2月13日閲覧。
  14. ^ a b c d 渠长根. “『南京政府时期浙江防空事业发展概要』 (PDF)” (中国語). 军事历史研究 2011年第1期. 2018年2月13日閲覧。
  15. ^ a b c 菊池 2009, p. 168.
  16. ^ 马振犊 (2008-03). 国民党特务活动史. 九州出版社. pp. 286. https://books.google.co.jp/books?id=r0BADwAAQBAJ&pg=PA51&lpg=PA51&dq=%E5%8D%97%E4%BA%AC+%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%A7%94%E5%91%98%E4%BC%9A&source=bl&ots=V_oYaBDB8m&sig=FuW9vFn9p4qwLsK_OryEcm_r-OA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwje9Z_Z-J_ZAhWCgLwKHUCjBxIQ6AEIbDAJ#v=onepage&q=%E5%8D%97%E4%BA%AC%20%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%A7%94%E5%91%98%E4%BC%9A&f=false. 
  17. ^ 盧(1974)、p.191
  18. ^ ただし、パイロット養成に掛かる時間や航空機の価格の高騰などで、航空機の定数は満たせず、実質は1個航空団は1個飛行群となっている

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]