国民政府
| 中華民国国民政府 | |||
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中華民國國民政府 National Government of the Republic of China | |||
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| 概要 | |||
| 創設年 | 1925年7月1日 | ||
| 解散年 | 1948年5月20日 | ||
| 対象国 |
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| 政庁所在地 |
広州(1925年 - 1926年) 武漢(1927年、1937年 - 1938年) 南京(1927年 - 1937年、1946年 - 1948年) 洛陽(1932年) 重慶(1937年 - 1946年) | ||
| 憲法 |
中華民国訓政時期約法 中華民国憲法 | ||
| 政体 |
単一制・臨時政府・軍政府(1925年 - 1928年) 単一制・一党制・共和制・委員会制(1928年 - 1947年) 単一制・共和立憲制・議会制(1947年 - 1948年) | ||
| 代表 | 国民政府主席 | ||
| 機関 | |||
| 立法府 |
立法院(1928年 - 1948年) 国民参政会(1938年 - 1948年) 政治協商会議(1946年) 制憲国民大会(1946年) | ||
| 行政府 | 行政院 | ||
| 司法府 | 司法院 | ||
| 備考 | |||
| 1928年の北伐完了以前は地方政権。 | |||
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中華民国国民政府(ちゅうかみんこくこくみんせいふ、略称:国民政府、国府、繁: 中華民國國民政府)は、中華民国の訓政期における中央政府および最高行政機関である。その大部分の時期に南京に設置されたため南京国民政府とも称され、日中戦争中に重慶を陪都とした時期には重慶国民政府と呼ばれた。国民政府は中国国民党が孫文の『国民政府建国大綱』に基づいて設置した政府機関である。国民党による一党支配のもとで運営され、主要な官職の多くを国民党員が占めた一方、国民党外の人々も参加した。国民政府の設置期間中には国民党内部で複数回の対立・分裂が生じ、一部の離党・反主流派勢力が別個の「国民政府」を組織した。
1925年(民国14年)3月12日の孫文死去後、広州に置かれていた従来の陸海軍大元帥大本営は国民政府へ改組され、汪兆銘が初代主席となった[1][2]。この時期の国民政府は「広東革命政府」とも呼ばれ[3]、広州を拠点として北京の北洋政府と対峙した。国民革命軍による北伐の期間を通して国民政府の行政中心は北上し、武漢、南京へ移った。1927年(民国16年)1月、北伐の進展に伴って国民政府は武漢へ移り「武漢国民政府」と称された[3]。同年4月12日、蔣介石は上海で清党を開始し、4月18日に南京で別個の国民政府を設立した。南京国民政府では胡漢民が国民政府主席と国民党中央政治会議主席に就任した[3]。7月15日、汪兆銘の武漢国民政府も反共へ転じて第一次国共合作を破棄し、その後南京国民政府と統合した[3]。
1928年(民国17年)、張作霖率いる北洋政府が崩壊し、北伐が完了して中国が名目的に統一されると、国民政府は中国を代表する政府として国際的承認を受けるようになり、「南京十年」と通称される時期に入った。日中戦争の全面化後は日本軍の攻勢を受けて陪都の重慶へ移転し、「重慶国民政府」と称された。1945年(民国34年)の日本降伏後、政府は南京へ還都した。その後、国民政府は中華民国憲法に基づく憲政への移行を進め、第一期国民大会を召集し、総統選挙を実施した。1948年(民国37ね)5月20日、蔣介石と李宗仁がそれぞれ初代総統・副総統に就任すると、国民政府は一府五院からなる中華民国政府へ正式に改組され、国民政府主席の職も総統へ置き換えられた。
歴史
[編集]広州(1925年 - 1926年)
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1916年(民国5年)の袁世凱死去後、中国各地では軍閥による割拠が進み、南方の各省は次第に北洋政府の統制下から離脱した。1918年(民国7年)7月、北洋政府に反発して南方に移った国会議員らが広州で「非常国会」を開き、護法軍政府を成立させたことで、南北の政府が対峙する「一国二政府」の状況が生じた(護法運動)。1923年(民国12年)、孫文は陳炯明を追放した後、ソビエト連邦(ソ連)の支援を受けて陸海軍大元帥大本営を広州に成立させた。
1924年(民国13年)12月、孫文は馮玉祥の招請に応じて広東を離れ北上し、段祺瑞と国民会議の開催を協議した[4]。1925年3月12日、孫文は北京で客死した。蔣介石は軍中で「哀告全体将士書」を発表し、広州へ戻って弔祭を行い、学校業務を整理した後、再び軍務に戻って潮汕善後督弁の職に就いた[4]。
同年5月23日、国民党第一期中央執行委員会第三次全体会議は時局宣言を発表し、当時段祺瑞を臨時執政とした北京政府について、民衆の利益を顧みず帝国主義勢力と結びついていると批判し、これと協力しない方針を示した。
6月14日、国民党中央執行委員会政治委員会第十四次会議は、大元帥府を国民政府へ改組することを決議した。
6月27日、「中華民国陸海軍大元帥改組政府訓令」が発表された[5]。
国民党中央執行委員会は7月1日に「中華民国国民政府組織法」を公布し、同日、国民政府は広州で成立を宣言した[6]。また、同日には「国民政府宣言」も発表された[7]。
先の大元帥の逝去後、全国は政治上・軍事上における唯一の統率・指導者を失った。中国国民党は誠意をもって先の大元帥の遺嘱を受け入れ、国民革命のため引き続き努力するとともに、政治上・軍事上に適切な組織を設け、同志の力を集中して、先の大元帥から託された国民革命の志業を共同で担おうとした。ここに国民政府の組織が生まれた。……
国民政府は複数の委員によって組織され(国民政府委員会)、その中から1人を主席に推挙し、さらに5人の常務委員を置いて日常の政務を処理した。常務委員も委員の中から推挙された。「国務は委員会議が執行し、委員会議の出席委員が半数に満たないときは、常務委員がこれを行う」とされた。
- 委員:汪兆銘、胡漢民、戴季陶、于右任、徐謙、張継、譚延闓、許崇智、林森、廖仲愷、伍朝枢、古応芬、朱培徳、孫科、程潜
- 主席:汪兆銘。
- 高等顧問:ミハイル・ボロディン。
- 軍事委員会:蔣介石、汪兆銘、譚延闓を常務委員とし、汪兆銘が主席を兼任した。政治訓練部、参謀団、海軍局、航空局、軍需局、秘書庁、兵工廠などを置いた。
国民政府委員会の下には次の機関が置かれた。
- 秘書処:秘書長を置き、総務・機要・撰擬の3科を設置。
- 副官処:副官長を置く。
- 参事:若干名。
行政各部・委員会には次のようなものがあった[8]。
- 軍事部:軍事部長は任命されたが、部そのものは成立せず、職権は軍事委員会が代行した。
- 外交部:部長、秘書長を置いた。
- 財政部:部長を置いた。
- 交通部:部長は孫科。
- 労工部:1927年3月設置。
- 農政部:1927年3月設置。
- 教育行政委員会
- 購料委員会
- 僑務委員会
- 予算委員会
- 法典編纂委員会(法制委員会)
- 司法行政委員会:1926年11月13日に司法部へ改組。
- 大理院・総検察庁
- 監察院
国民党中央執行委員会は同時に、広東にあった全ての建国軍・党軍を一律に国民革命軍と改称した[9]。国民政府はその後、国民革命軍による北伐を開始した。
1926年(民国15年)10月、国民革命軍は武漢三鎮を占領した。11月8日、中国国民党中央政治会議は中央党部と国民政府を武漢へ移すことを決定した。12月5日、国民党中央は中央党部と政府が広州での執務を停止すると正式に発表し、各機関の職員は順次武漢へ向かった。広州国民政府の執務停止から武漢への北遷完了までの間は、「中国国民党中央執行委員・国民政府委員臨時聯席会議」が臨時の指導機関となり、徐謙が聯席会議主席を務めた。12月10日[6]、国民政府は広州から武漢へ移転した[10]。
一方、国民党内部の共産党員は蔣介石を「新軍閥」と批判し、党権の強化を唱えて汪兆銘の復帰を求める宣伝を行った。蔣介石は南昌で黄埔軍官学校出身者に向けた文書を発表して自らの革命上の立場を説明し、清党を進め、党内の団結を主張した[10]。蔣介石はその後南京に別の「南京国民政府」を組織し、これを契機として寧漢分裂が生じた。
武漢(1927年)
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1927年(民国16年)1月、北伐の進展に伴って国民政府は武漢へ移転し、一般に「武漢国民政府」と呼ばれた[3]。2月21日、武漢国民政府は正式に執務を開始した。武漢国民政府は委員会制を採用して主席を置かず、国民政府委員会を最高指導機関とした。常務委員には汪兆銘、譚延闓、孫科、徐謙、宋子文の5人が就任した。寧漢分裂を経て、武漢分共後に汪兆銘は南京への正式移転を表明し、武漢が首都であった約8か月の時期は終わった。この南京側との統合は「寧漢合流」と呼ばれる。
北遷と武漢への移転
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国民党中央執行委員・国民政府委員臨時聯席会議では、1926年9月から国民政府移転問題の検討が進められた。譚延闓、孫科、李済深、甘乃光、徐謙、ボロディン、顧孟余の7人によって議案起草委員会が組織され、9月14日から29日まで6回会議を開いた。共産党側は、蔣介石が中央政府を移転させることで自身の権威を高め、軍事力を有する唐生智を統制しようとしているとみる一方、北伐軍の江西・福建方面での前進によって蔣介石の威勢が高まるとも分析した。中共中央局とコミンテルン極東局は9月16日に聯席会議を開き、「汪蔣合作」を促す方針を決定した。共産党は、汪兆銘と蔣介石の対立を利用して広東で「迎汪」運動を進め、汪兆銘を国民党の指導部へ復帰させるとともに、聯席会議に左派の政綱を採択させ、共産党と国民党左派の協力の基礎とすることを目指した[11]。
国民党側から見ても、北伐の戦略上、国民政府を広州から湖北へ移す必要性があった。当時は党・政府・軍の情勢が緊迫し、寧漢分裂以前から湖北と江西の間には政治・軍事上の対立が生じつつあった。1926年8月末、呉佩孚軍主力が国民革命軍に敗れると、孫伝芳は江西へ援軍を送り始めた。国民革命軍総司令の蔣介石は江西へ進軍することを決め、9月9日、中国国民党中央常務委員会代理主席の張静江、国民政府代理主席・中央政治会議代理主席の譚延闓に電報を送り、政府常務委員を湖北へ派遣して軍政を統轄するよう要請した。これが党・政府中枢の北遷の端緒となった。蔣介石はさらに、少なくとも3人の常務委員を武漢へ派遣して職権を行使させるよう求め、顧孟余、ソ連顧問ボロディン、コミンテルン駐華代表のグリゴリー・ヴォイチンスキーらにも武漢への移動を要請した。9月18日、国民党中央政治会議第二十二次会議は蔣介石の要請に基づき、武漢に政治会議分会を設置し、蔣介石、徐謙、顧孟余、王法勤、李大釗、柏文蔚、鄧演達、陳公博らを構成員とした。唐生智は湖北の軍事を担当するとともに臨時政務会議主席を代理した。
共産党側では、1927年6月、第五回全国代表大会が武漢で開かれた後、第5期中央委員会が国民政府内の共産党員(国民党籍を兼ねる者を含む)を統轄する「中華民国国民政府党団幹事会」を設置した。書記は譚平山で、委員には譚平山のほか蘇兆征、林祖涵、楊匏安、呉玉章らが入り、楊匏安は秘書も務めた[12]。
政治中枢
[編集]広州国民政府と国民党中央党部は1926年12月7日に広州での執務停止を発表し、1927年1月1日から武漢への移転を進めた。2月8日、国民政府と中央党部は湖北への移転を正式決定し、2月21日までに職員が武漢へ到着、3月6日から本格的な執務を開始した。1926年12月13日から1927年7月15日までの間、臨時聯席会議は武漢国民政府期の最高政治決定機関となった。当時武漢に置かれた中央執行委員会政治会議は、党と政府の最高行政・政治機関として、立法・司法に対しても最終的な決定権を持った。
体制
[編集]北伐期の国民政府は、党と政府を一体化させた「党治」を実施した。行政・立法・司法などの権限は中国国民党中央執行委員会の指導・監督を受け、国民政府委員会が統一的に行使した。こうした体制は指導民主主義の一形態と位置づけられ、党と政府の関係は「以党治国」「以党領政」と表現された。
南京(1927年 - 1937年)
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1926年、国民革命軍は湖北、湖南、江西、福建などの地域の主要都市を占領し、国民政府聯席会議は11月に国民政府を武漢へ北遷することを決定した。しかし、当時の国民政府がソ連や中国共産党の影響を強く受けていたことに対し、国民党右派には不満が生じていた。1927年3月、革命軍は上海と南京を占領した。同年4月12日、蔣介石は上海クーデターを起こし、4月18日に南京で別個の国民政府を成立させた[3]。成立大会では、国民党中央政治会議による南京奠都宣言と「国民政府宣言」が発表され、次の「国民革命方略」4項目が掲げられた。
- 革命軍と人民の連携を密接にする。
- 廉潔な政府を樹立する。
- 国内産業の保護を奨励する。
- 農工団体の利益を保障し、その発展を扶助する。
南京国民政府は集団指導体制を採り、蔣介石、胡漢民、張静江、呉敬恒、鈕永建ら12人を政府委員とした。胡漢民が国民政府主席および国民党中央政治会議主席として政府を主宰した。鈕永建は国民政府秘書長、蔣介石は国民革命軍総司令、呉稚暉は総司令部政治部主任となった。国民政府には当初、財政部(古応芬、のち銭永銘代理)、外交部(伍朝枢)、司法部(王寵恵)、交通部、軍事委員会、教育行政委員会、財政委員会、中央法制委員会などが置かれた。政府の管轄地域は上海、江蘇、浙江、福建、広東、広西、安徽(一部)などであり、ここに寧漢分裂が始まった。
7月15日、汪兆銘の武漢政府も反共を宣言し、その後南京政府との合流へ向かった[3]。8月、武漢の国民党・国民政府は共産党との分離・清党を実施し、蔣介石は汪兆銘の要求を受けて国民革命軍総司令を辞任した後、両派の協力が進んだ。同月、南京では特別委員会が設けられ、国民政府の改組が行われた[13]。10月には教育行政委員会を廃止して大学院を設置し、蔡元培が院長となった。12月には国民政府が広東討伐令を発した[13]。
1927年8月1日、共産党と国民党左派は「中国国民党革命委員会」の名義で南昌蜂起を起こした。8月4日、蜂起軍は敗退して南昌を放棄し、広東方面へ南下した。途中の汀州で国民党革命委員会は「国民政府」の名称を引き続き対外的に使用することを決め、譚平山を国民政府委員長、陳友仁、顧順章、王荷波、蘇兆征らを常務委員とする案を立てた。9月24日、部隊が汕頭へ到達すると、正式に国民政府を成立させ、譚平山を国民政府主席とすることも決定された。しかし翌25日に張太雷が汕頭へ到着し、この決定に反対したため、26日の南方局会議で政府名簿の公表は見送られた。その後、軍事情勢が悪化し、計画は実現しなかった。
1928年2月3日から7日まで、国民党第二期中央執行委員会第四次全体会議が南京で開かれ、「国民政府改組」などの議案が可決された。国民政府は国民党中央執行委員会の指導・監督を受けて全国政務を掌理し、政府委員は国民党中央委員会が選任するものとされた。政府部門には内政、外交、財政、交通、司法、農鉱、工商などの各部のほか、軍事委員会、最高法院、監察院、大学院などを置くこととされた。会議は譚延闓を国民政府主席、蔣介石を軍事委員会主席兼国民革命軍総司令に推挙した。
1928年6月、国民革命軍は北京に入城し、国民政府は6月15日に全国統一宣言を発表した。同年9月、中国国民党第二期中央執行委員会第五回全体会議が南京で開かれ、中国が訓政期に入ったと宣言するとともに、国民政府が訓政を執行し、政府を五院制で構成することを決定した。10月、国民政府は「中華民国国民政府組織法」を公布し、国民政府が中華民国の治権を総攬し、行政院、立法院、司法院、考試院、監察院の五院によって組織されることを定めた[14]。国民政府には主席1人と委員10人ないし12人を置き、国民政府主席は陸海空軍総司令を兼ねるものとされた。蔣介石が国民政府主席兼陸海空軍総司令に任命され、国民政府の組織形態はおおむね整備された。
五院制下の国民政府には、参軍処、参謀本部、訓練総監部、軍事参議院などの軍事機関と、国立中央研究院、総理陵園管理委員会、国民政府文官処などの行政機関が直属した。文官処は国民政府の法令・文告の公布、政務文書の処理・起草、印信・関防・勲章・褒章の鋳造・発給、国民政府委員会議その他の機密事項などを掌理した。その後、主計処、稽勲委員会、政務官懲戒委員会、国史館籌備委員会、西京籌備委員会などが順次増設された。また、もとは行政院所属だった建設委員会と全国経済委員会も後に国民政府直属へ移された。
1928年12月29日、東北の奉天派を継承した張学良は、父張作霖が日本の関東軍によって爆殺されたことを背景に南京へ通電し、東北易幟を実施した。北洋政府の五色旗を廃して青天白日満地紅旗を掲げ、名目的に国民政府への服属を表明した。これによって北伐は一応の成功を収め、中国は形式上統一され、国民政府は中国を代表する政府として国際的承認を受けるに至った。
1930年(民国19年)に発生した内戦である中原大戦では約24万人が死傷した。陶涵(Jay Taylor)によれば、蔣介石は敗北した軍閥を徹底的に追撃してその地盤を直接占領することはせず、彼らに大規模な軍縮を強制する試みもすでに断念していた[15]。同年10月、中原大戦に勝利した蔣介石は南昌に赴き、共産党に対する包囲攻撃を指揮した。旧江西省立図書館に「南昌行営」を設け、江南5省の剿共総司令部とした。設置期間中、南昌は国民政府の軍政上の中心の一つとなり、当時「第二首都」とも呼ばれた。蔣介石は共産党軍への軍事包囲と並行して社会・文化運動を進め、1934年(民国23年)には南昌で新生活運動を開始した。南昌行営は1935年(民国24年)2月に武漢へ移転した。
1931年(民国20年)9月18日の満洲事変勃発後、青年学生は各地で抗日武装を要求する街頭運動を展開した。南京では約2万人の学生が集会を開き、そのうち約1,000人の南京中央大学学生が外交部長王正廷の執務室に押しかけて暴行する事件も起きた。広州の汪兆銘系と南京側は武力衝突寸前まで対立していたが、対日危機を受けて国民党内では全国的団結を求める声も強まり、反蔣派は蔣介石の退陣を要求した[16]。
1931年11月7日、共産党は江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立し、国民政府と対立した。陶涵は、この時期の共産党の成長について、若い指導者層の強い執着、指導力、組織能力を反映したものと評している。当時、共産党側の3つのソビエト区が保有する小銃は合計約1万5,000挺であり、毛沢東は「敵進我退、敵駐我擾、敵疲我打、敵退我追」という遊撃戦術を掲げた[17]。12月15日、林森が蔣介石に代わって国民政府主席に就任したが、蔣介石は引き続き大きな実権を保持し、ほどなく軍事委員会委員長に就任して国民革命軍の最高統帥となった。
1932年(民国21年)1月28日夜、第一次上海事変が発生し、日本海軍陸戦隊が上海で戦闘を開始した。国民政府は緊急会議を開いて政府を改組し、1月29日に首都機能を河南省洛陽へ移した[18]。蔣介石は軍事行動の全般的な指揮を執り、前線の将兵に抗戦を呼びかけるとともに、洛陽を臨時首都とすることで長期抗戦の意思を示した。日本側は追加の部隊・艦艇を上海へ投入し、戦闘は拡大した。杜月笙も青幇の狙撃手を動員して日本側への攻撃に協力したとされる[19]。国民政府は同年12月1日に南京へ戻った。
1933年(民国22年)11月20日、第十九路軍が福建事変を起こして中華共和国人民革命政府を樹立したが、1934年1月13日に国民政府中央軍によって瓦解した。
1936年(民国25年)6月、毛沢東はコミンテルンに対し、張学良・楊虎城との反蔣秘密協定が成立したと報告した。ヨシフ・スターリンは8月13日の返書でこれに反対し、国民党および蔣介石に正式な停戦交渉を提案して共同抗日について具体的な協定を結び、統一指揮機構と共同軍事計画を設けるよう求めたとされる[20]。
同年12月、西安事件が発生すると、共産党指導部では蔣介石の処遇をめぐって意見が分かれた。陶涵によれば、毛沢東らは当初、蔣介石を「人民」の公判に付すことも検討し、張学良に対して強硬姿勢を取るよう促したが、スターリンは事件の平和的解決と蔣介石の釈放を求めた。12月15日、毛沢東、周恩来、朱徳らは全国に通電し、西安事件の平和的解決を主張した。周恩来は西安で張学良に対し、蔣介石を害してはならず、中国には蔣の指導が必要であると伝え、抗日統一戦線への原則的同意を得た上で釈放するよう説得したとされる[21]。周恩来は宋子文・宋美齢とも接触し、宋慶齢を介した連絡経路について伝えた[22]。
1937年(民国26年)、蔣介石は共産党に対する大規模な「剿共」作戦を停止し、国共合作の再建が進んだ。同年初頭、コミンテルンも中国共産党に資金援助を続けたとされる[23]。9月6日、中華ソビエト共和国の最後の政府機関であった「臨時中央政府西北弁事処」は延安で陝甘寧辺区政府へ改組され、名目上は国民政府行政院の直轄区域となった。9月22日、共産党中央は「共赴国難宣言」を発表し、三民主義の実現と抗日への参加を表明した[24]。共産党側は自軍を国民革命軍に編入し、軍事委員会の指揮を受けると表明した。蔣介石は、この声明によって「全国民が一つの方向、一つの目標を理解した」と公に述べた[25]。
重慶(1937年 - 1946年)
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1937年7月7日の盧溝橋事件後、日中戦争は全面化した。陶涵によれば「蔣介石の名声は高まっていたものの、上海を失ったことによってその政治的基盤は大きな打撃を受けた。1937年から1945年にかけて約1,400万人が徴兵されたが、人口に対する年間動員率は約0.4%であり、日本の約1.3%、ソ連の約3%と比べれば低かった」とされる[26]。日本軍が南京へ迫ると、国民政府は重要な人員・設備を中国西南部へ移転し、「空間を時間に換える」戦略によって西南部を大後方とした。11月17日、国民政府は一時武漢へ移り、11月21日に重慶への移転を正式決定した。12月1日、国民政府は重慶で執務を開始した。
1938年(民国27年)5月、蔣介石はスターリンに対し、ソ連の支援なしには中国が抗戦を継続できないとして、追加の航空機供与を要請した。スターリンはこれに応じて必要な爆撃機を送ると回答し、その後、中国へ派遣されたソ連の軍事顧問、飛行士、技術者らは合計3,665人に達したとされる[27]。同年9月、中国が日本と単独講和する可能性があるとの噂が流れると、スターリンは蔣介石に追加援助を送ると伝え、60個師団分の装備や500機の航空機を供与する意向を示したとされる[28]。
蔣介石は1938年、周恩来に対し、国民党と共産党を新たな一つの政党へ統合する案を複数回提起した。その条件として毛沢東・周恩来の国外退去を挙げた一方、統合後も共産党を形式的に解散させず、国民党がコミンテルンへ加入する可能性にまで言及したとされる。毛沢東側は、1920年代の第一次国共合作と同様に共産党員が個人の資格で国民党へ加入する方式を提案したが、双方は妥協に至らなかった[29]。
スターリンは蔣介石に対し、独ソ不可侵条約がソ連の対華援助に影響しないと伝えた。条約公表後、蔣介石はスターリン宛ての書簡で、中国人民はソ連の「誠実な援助」を忘れないと述べた。一方、蔣介石は私的には国際情勢の変化からソ連と日本の接近を警戒し、将来の世界戦争では中国が民主主義諸国とともに全体主義国家に対抗する可能性を想定していたとされる[30]。
1939年(民国28年)9月6日、国民政府は重慶を正式に陪都と定めた[31]。1940年(民国29年)、国民党副総裁の汪兆銘は日本軍の支援を受けて南京に別の「南京国民政府」を組織し、上海で「和平建国宣言」を発表した。しかしアメリカ・フランスなどはこの政権を承認しなかった。汪兆銘死去後は陳公博が代理主席となり、日本の降伏を受けて1945年(民国34年)8月16日に政府の解散を宣言した。
共産党は日本軍占領地域で正規軍・遊撃隊を組織し、地下行政機構を整備するとともに、各地の秘密結社なども抗日遊撃活動へ取り込んだ。中国共産党の党員数は1937年の約4万人から1940年には約80万人へ増加したとされる。蔣介石は胡宗南や閻錫山の部隊を配置し、共産党勢力を一定地域に封じ込めようとした[32]。1940年7月、重慶の中央軍事委員会は新四軍と八路軍を黄河以北へ集結させる案を提起した。蔣介石は周恩来に対し、これは「異なる戦区間の内紛」を避けるための措置であると説明し、中国共産党に「絶対服従」を求めたが、毛沢東は拒否した[33]。
1941年(民国30年)末、アメリカと日本の新たな交渉がワシントンD.C.で行われる予定となると、蔣介石はコーデル・ハル、ラウクリン・カリー、フランク・ノックス、ヘンリー・スティムソンら米政府要人に電報を送り、米国が対日禁輸を緩和すれば中国の抗戦は崩壊しかねないと訴えた。蔣介石はこの懸念をイギリス首相のウィンストン・チャーチルにも伝え、チャーチルはフランクリン・ルーズベルトに中国側の立場を支持する電報を送った。最終的にルーズベルトは、対日交渉で禁輸緩和案を提示しない方針を採ったとされる[34]。
1942年(民国31年)のビルマの戦いでは、ジョセフ・スティルウェルが敗北の責任を中国軍の将領と蔣介石に求め、英国側はスティルウェルと中国側を批判し、蔣介石は英国側とスティルウェルを非難するなど、連合国側内部で対立が生じた。陶涵は、各者の批判にはそれぞれ一定の理由があったとしつつ、敗北の主要因の一つとしてスティルウェルが日本軍の戦力を大きく過小評価したことを挙げている[35]。
同年、米空母ホーネットから発進したジミー・ドーリットル指揮下の爆撃機隊が日本本土を空襲した(ドーリットル空襲)。その後、日本軍は中国沿海部で報復作戦を行った。蔣介石はジョージ・マーシャルに電報を送り、米軍飛行士を救助した地域で日本軍が住民に大規模な報復を行ったと報告した[36]。
1943年(民国32年)8月1日、国民政府主席の林森が重慶で死去した。同年9月、蔣介石が国民政府主席兼陸海空軍大元帥に推挙され、国民政府軍事委員会委員長・行政院長も兼ねた。1945年8月7日、ソ連が対日参戦すると、約75万人の赤軍が満洲国へ進入したとされる[37]。
南京(1946年 - 1948年)
[編集]1945年、第二次世界大戦の終結に伴って日中戦争も終結した。1946年(民国35年)5月5日、国民政府は「国府還都南京」を実施した[38]。還都令が発表され、南京への正式帰還が宣言された。
戦後、蔣介石の承認のもと、陳誠は戦闘に不適な兵員を整理し、部隊の質を改善するためとして200万人を超える国民革命軍兵員の復員・削減を進めた。白崇禧は強く反対したが、米国側はこの政策を支持し、蔣介石は実施を続けた。その結果、復員・編遣された将兵の間に失業や不満が広がり、軍の士気低下も生じたとされる。一方、共産党は勢力を拡大し、旧親日政権軍、土匪、元国民革命軍将兵などを吸収した[39]。またソ連は、東北で接収した日本軍の武器・軍需物資の一部を中国共産党側へ移したとされる[40]。

1946年11月から12月にかけて制憲国民大会が開かれ、12月25日に「中華民国憲法」が制定された。憲法は1947年(民国36年)1月1日に公布され、12月25日に施行された。これにより国民党による一党独裁体制は制度上終了し、中華民国は正式に憲政期へ移行した。
1947年3月、蔣介石は政府基盤を拡大する方針を採り、国民党代表と中国青年党、中国民主社会党との間で国民政府改組について意見交換を行わせ、新政府の施政方針を協議した[41]。3月1日、国民政府は立法委員50人、監察委員25人、国民参政員44人を増員すると発表した[42]。
3月31日、国民政府は五院の組織法を全面改正し、政府改組の法的基礎を整えた[42]。4月、国民政府は看守政府として、政治協商会議の決議に基づき、制憲国民大会に参加した他党派を政府へ受け入れた。国民政府は改組され、新たに国務会議を設置し、国民党、青年党、民社党の人士および無党派の社会賢達が国民政府委員に就任した。蔣介石は引き続き国民政府主席に推挙され、孫科が国民政府副主席となった。これをもって国民党による一党訓政体制は実質的にも終了したとされた[43]。
4月17日、国民党中央常務委員会は「国民政府組織法」の改正案を通過させ、蔣介石を国民政府主席に推挙した[44]。4月23日、国民政府委員会は南京で会議を開いて成立を宣言し、蔣介石主席と張群、孫科ら23人の委員が最初の国務会議を行った。会議では行政院政務委員および各部・委員会の長の人選が決定された[45]。
11月21日から23日にかけて第1回国民大会代表選挙が行われ、第一期国民大会代表が選出された。12月、国民政府は翌1948年(民国48年)3月29日に第一期国民大会を召集すると発表した[46]。1948年(民国37年)1月、国民政府は北平を陪都と定めた[47]。2月、国務会議は地方武力を増強して各地の民衆自衛組織を整備する方案を採択した[47]。
国民政府は法治の尊重と国家基礎の維持を理由として、国家に危害を与える犯罪を処理する特種刑事法廷を設置することを決め、審理手続を簡略化する審判条例を立法院の可決後に公布・施行した[47]。3月29日、第一期国民大会が正式に開会し、「行憲国民大会」と呼ばれた。4月20日から第1回正副総統選挙が実施され、国民大会代表の投票によって蔣介石が総統、李宗仁が副総統に選出された。
国民政府体制の終了と中華民国政府の成立
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総統・副総統に選出された蔣介石と李宗仁は、1948年(民国37年)5月20日、南京の総統府(現:南京中国近代史遺址博物館)でそれぞれ初代総統・副総統に就任した。国民政府主席職は総統に置き換えられ、国民政府の機関本体は総統・副総統の幕僚機関である総統府へ再編された。総統と五院を主体とする中央政府制度が国民政府に代わって正式に発足し、中華民国政府への改組が完了した。
その後も長期にわたり国民党が政権を担当したため、2000年(民国89年)の中華民国初の政権交代以前には、中華民国政府を慣用的に「国民政府」と呼ぶ例も一部にみられた。
軍事
[編集]国民革命軍は、中国国民党が1925年から1947年まで保有した軍事組織で、1928年以前は「革命軍」、1928年から1947年にかけては「国軍」と略称された。中国国民党が1925年に当時のソ連の軍事制度を参考にして党軍を再編したものであり、北伐後から憲政移行前まで中華民国の主要な国家武装力となった。
日中戦争中、共産党の軍隊は名目上国民革命軍の一部に編入されたが、独自の指揮系統を保持して活動した。戦争終結後、共産党軍は国民革命軍から離れ、のちに中国人民解放軍へ改組された。1947年の「中華民国憲法」施行に伴って国民政府制度が終了すると、国民革命軍は中華民国国軍へ改組され、軍隊の国家化が制度上進められた。
経済
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中国国民党が1928年に中国を名目的に統一した後、第一次国共内戦や日本との軍事的対立が続いたものの、中国の多くの地域は相対的な繁栄、平和、安定の時期に入った。この状況は1937年の盧溝橋事件によって日中戦争が全面化するまで続き、「南京十年」と通称される。
組織
[編集]- 国民政府本体
- 下部機関
「国民政府」を称したその他の政権
[編集]国民政府の存続期間中、国民党内では利害・派閥・理念の相違から複数回の分裂が生じ、一般に正統な国民政府とみなされた政権とは別に、「国民政府」を称する政府組織が成立した。
北平国民政府(1930年)
[編集]1930年4月1日、閻錫山が中華民国陸海空軍総司令に就任し、馮玉祥・李宗仁が副総司令に就任した。同年5月、閻錫山、馮玉祥、李宗仁らが蔣介石主導の南京政府に反対して中原大戦を開始した。8月7日、汪兆銘は北平で国民党中央党部拡大会議を開き、閻錫山派、馮玉祥派、桂系、汪系改組派、西山会議派などが参加した。会議は北平に「国民政府」を成立させることを決議した。
9月1日、国民党中央党部拡大会議第5回会議は閻錫山、馮玉祥、李宗仁、汪兆銘ら7人を政府委員に選び、閻錫山を主席とした。北平国民政府は民国19年9月9日午前9時9分に成立した。9月18日、張学良が蔣介石支持を通電して軍を関内へ進め、9月23日に北平へ平和進駐した。北平国民政府は太原へ移り、10月27日に「中華民国約法草案」(いわゆる「太原約法」)を公布した。11月4日、閻錫山と馮玉祥が通電して下野を表明し、北平国民政府は解散した。
広州国民政府(1931年 - 1932年)
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1931年、蔣介石は南京の湯山で胡漢民を軟禁し、同時に南京で国民会議を開催して「中華民国約法草案」を通過させた。これに対して国民党内部の他の有力派閥は強く反発した。胡漢民派、汪兆銘派、桂系、孫科らは広州で「国民党中央執監委非常会議」を開き、孫文の護法運動期の方式にならって広州に別政府を成立させた。広州の「国民政府」は1931年5月28日に成立し、汪兆銘が中心人物となったが、主席職は置かれなかった。
同年に満洲事変が勃発すると、国民党内部では協力を求める動きが強まったが、南京側と広州側はそれぞれ独自に中国国民党第4回全国代表大会を開催した。その後、広州側大会に不満を持つ国民党員の一部は上海で、汪兆銘を中心とする別の第4回全国代表大会を開いた。最終的に広州・南京・上海の三派は対立を収束させ、蔣介石は国民政府主席と行政院長を辞任した。12月28日、南京で国民党第4期中央執行委員会第1回全体会議が改めて開かれ、林森が国民政府主席、孫科が行政院長となった。1932年1月1日、広州側の「中央党部」と「国民政府」は廃止を宣言し、中央執行委員会西南執行部、西南政務委員会、西南軍事委員会へ移行した。
汪兆銘政権(1940年 - 1945年)
[編集]1940年から1945年にかけて、汪兆銘は日本との協力のもと南京に別の「国民政府」を成立させた。当時、重慶へ移転していた蒋介石の国民政府は、汪兆銘側の「国民政府」や「行政院長」の地位を承認せず、「汪偽政府」「南京偽国民政府」などと呼んだ。日本側は「南京国民政府」と称したが、後世の研究では一般に「汪兆銘政権」と呼ばれる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ 林 2002, p. 600.
- ↑ 張・陳・江 2002, p. 309.
- 1 2 3 4 5 6 7 辞海編集委員会 1989, p. 2007.
- 1 2 陳 1978, p. 10.
- ↑ “中华民国陆海军大元帅发布改组政府训令” (中国語). 中国語版ウィキソース. 2026年7月4日閲覧。
- 1 2 劉 1995, p. 379.
- ↑ “中華民國國民政府宣言” (中国語). 中国語版ウィキソース. 2026年7月4日閲覧。
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