中華民国の政治

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中華民国政治関連項目

中華民国の政治
中華民国憲法

総統 馬英九
副総統 呉敦義

中華民国総統選挙
中華民国立法委員選挙

行政院 • 立法院
司法院 • 監察院
考試院

国民大会(-2005年

最高法院

台湾の政党一覧

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両岸関係

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中華民国の政治(ちゅうかみんこくのせいじ)では、台湾編入後(1945年10月25日~現在)の中華民国の政治について述べる。

中華民国が「全中国を代表する正統国家」である点を大前提としている。そのため中華人民共和国が成立し中華民国政府が台北に移転した1949年以降、中華民国の政治体制にさまざまな矛盾が生じるようになり、改良が試みられている。

今日の中華民国における国家体制は、国共内戦下の1947年元日に公布され同年12月25日に施行された中華民国憲法の規定により、三民主義(民族独立、民権尊重、民生安定)に基づく民主共和制を採用している。中華民国では1927年4月18日蒋介石政権成立以来、台北移転後も含めて中国国民党一党独裁による寡頭共和制が続いたが、蒋経国政権末期の1987年7月以後は政治の自由化と民主化が急速に推進され、今日では国家元首である中華民国総統から市町村の議会議員に至るまで国民(台湾地区の住民)の選挙によって選出されている。選挙権は満20歳以上、被選挙権は最低満23歳以上(立候補の対象によって異なる)の全ての国民が有している。

国内政治[編集]

中華民国の国内政治体制は、中華民国憲法に基づいて構成されている。だが、この政治体制は中華民国政府が大陸部も支配していることを前提に定められたものであるため、中央政府の統治区域がほぼ台湾のみに限定されるようになってからはさまざまな矛盾が生じるようになった。そのために、1990年代に入ると徐々に矛盾解消のための改革が行われるようになり、現在では矛盾も小さくなりつつある。

憲法[編集]

中華民国の憲法である「中華民国憲法」は、1946年11月に開かれた制憲国民大会で採択され、翌1947年元日に公布され、1947年末に施行された。この憲法の特色は、建国の父である孫文が提唱した三民主義を政治目標とし、国家権力を「政権」(選挙権罷免権などの人民の権利)と「治権」(行政権、立法権などの政府の権力)に分けていることである。憲法は14章で構成され、全文は175条ある。

この中華民国憲法が公布施行された1947年は、中華民国が南京を首都として中国大陸台湾の両地域を領土にしていた時代(1945年10月25日1949年10月1日)であり、大陸部の支配を前提に制定された。そのため中央政府の台北移転後には、国民大会や立法院などの大陸部選出議員が、1949年以来の戒厳令実施や改選不可能を理由に終身議員(万年議員)になるなど不具合が生じるようになった。だが、このような状況は、1955年以降の政府の実効統治区域における民意を国政に反映させにくくしたために、李登輝総統が1991年から5回にわたって憲法の修正をおこなうことで、大陸選出議員の「終身(万年)化」の防止と国民大会議員・立法院議員・正副総統の直接選挙による選出により、中央政府の実質的な統治区域における民意がより強く反映されるようにした。

しかし、このような修正では満足せずに新しい憲法を制定しようとする動きがあり、陳水扁総統は任期である2008年までに実施する考えを明らかにした。その第一段階として、2005年6月7日に憲法修正案が国民大会で4分の3以上の同意を得ることで可決された。その結果、立法院議員の半減と(基本的に日本と同様の)小選挙区比例代表並立制の実施・立法院における憲法修正案の可決条件を強化・公民投票による憲法修正案の再審査と国民大会の廃止・正副総統の弾劾権を司法院大法官に付与することが決定された。

中央政府[編集]

中華民国の中央政府は、中華民国総統国民大会(現行憲法下で廃止された)、五院(行政院立法院司法院考試院監察院)で構成されている。

総統[編集]

中華民国総統(大統領)は、中華民国を代表する国家元首であり、同時に中華民国軍の最高統帥者でもある。任期は4年(再選出されれば併せて最長8年、3選は禁止)で、国民の直接選挙(台湾総統選挙)によって選出される。憲法制定当初、総統は国民大会によって選出され、任期も6年であったが、李登輝総統時代の憲法改正によって現在の仕組みに改められた。

初代総統である蒋介石は、1948年制定の「動員戡乱時期」(中国共産党の反乱を鎮圧する時期)であることを理由として、第5期総統の任期途中である1975年4月に死去するまで、27年間にわたり総統職を務めていた。

国民大会 (廃止)[編集]

国民大会は、かつては国民の最高政権行使機関であり、立法院を通過した憲法修正案を再審査することを任務としていた。当初は任期を持った常設機関であったが、憲法修正案の再審査が必要になったときに臨時に選挙され、招集される非常設機関となり、2005年の改正憲法(賛成249票、反対48票)により廃止された。以下では、2005年改正前の憲法での国民大会について説明する。

中華民国が中国大陸を実効統治していた時代、国民大会は、各県・市ならびに「地方」(蒙古・西蔵)、外国在留華人、職業・婦女団体から選出された代表によって選出されることになっていた。1947年~1948年の選挙で大陸部から選出された議員が終身代表となったために実効統治区域の民意が反映されにくい状況が続いていたが、李登輝総統の就任後に各種改革が行われて4年ごとに全面改選が行われるようになった。憲法制定当初は総統・副総統の選挙・罷免権も持っていたが、憲法改正で1996年から総統の選出方法が国民の直接選挙になったためこの権限は廃止された。

議席は300。政党別比例代表制で選挙され、議員の国民会議における投票行動は所属政党の方針に従うものとされていた。 当選者の4人に1人を女性、30人に1人を先住民としなくてはならないと国民大会選挙法によって規定されていた。

五院[編集]

中華民国では、三民主義の考えに従って「立法」、「司法」、「行政」、「考試」、「監察」の五権分立が採られており、五権それぞれに「院」が設置されている。

立法院は日本の国会に相当する最高立法機関で、法律の制定や予算の審議、会計審査や行政院が行う国政の監督を行っている。立法院は113人の立法委員(国会議員)によって構成され、立法委員は直接選挙で選ばれている。

司法院は国家の最高司法機関で、各種訴訟の裁判や公務員の懲戒を担当している。司法院は15人の大法官で構成され、立法院の同意を経て総統が任命している。

行政院は日本の内閣に相当する最高行政機関で、最高職は行政院長首相)である。行政院は三つの段階に分かれており、第一段階は行政院会議、第二段階は八つの部(内政部外交部国防部財政部教育部法務部経済部交通部。部は日本のに相当)と蒙蔵委員会僑務委員会からなる行政機関、第三段階は行政院主計処行政院新聞局とその他の下部部局(特別・臨時委員会も含む)である。

考試院は日本の人事院に相当し、全ての公務員の採用試験や任用、管理を行っている。考試委員の任期は6年で、立法院の同意を経て総統が任命している。中華民国の公務員は考試院の採用試験と資格審査を受けることが法律で定められている。

監察院は公務員の弾劾、糾明及び国政調査を行っている。監察院は29人の委員で構成されており、立法院の同意を経て総統が任命している。監察院の委員はかつて選挙で任命されていたが、大陸部選出の委員が終身化してしまったため憲法改正により現在の仕組みに改められた。

地方政府[編集]

中華民国の行政区分に関しては、中華民国の行政区分を、現況については台湾の行政区分を、それぞれ参照のこと。

中華民国では、憲法の規定(第11条)に従って国内を「(shěng)/直轄市(zhíxiáshì)」に区分し、さらに省内を「(縣、xiàn)/市=省轄市(shěngxiáshì)」に区分している。各行政区分にはそれぞれ地方政府(省政府、直轄市政府、縣政府、省轄市政府)が設置されており、中央政府(行政院)の下で一定程度の地方自治を認められている。

ただし1955年以降の中華民国政府は、国共内戦の影響で統治領域が台湾省全域と福建省の一部の島嶼部のみに限定されたため、省政府による地方自治がうまく機能しなくなった(詳細は各省を参照)。そのため、台湾省は憲法修正によって1998年12月20日をもって省としての機能を「凍結」された。台湾省の管轄内にあった「県」と「省轄市」は行政院内政部が監督することとなった。しかし、財政的には省レベルの税収を中央政府にとられ、直轄市として省レベルの税収を享受している台北市や高雄市との格差が大きい点に不満を持つ県・市も多い。なお、福建省政府は台湾省政府よりも若干早く、1996年1月15日をもって省としての機能を「凍結」されている。

政党[編集]

1928年南京国民政府成立以来、中華民国では中国国民党の一党独裁体制が長らく続いてきた。さらに、1949年12月7日の戒厳令実施以降は、国内での集会と結社の自由が制限され、新たな政党の結成も禁じられた(これを「党禁」という)。だが1987年の戒厳令解除、1989年の「人民団体法」公布によって政党の結成が自由化され、2000年には史上初めて中国国民党以外の政党(民主進歩党)から総統が選出されるまでになった。

2003年4月の時点で内政部に登録されている政党数は99に及ぶが、立法院に議席を有する主要4党は以下の通りである。

主張の傾向別に政党を区分すると、主要な政党は以下のようになる。

外交[編集]

中華民国は1945年成立の国際連合に当初から加盟しており、安全保障理事会の常任理事国であった。1949年の台湾移転後は、「全中国を代表する国家」としての国際的地位の確保を求めて外交工作を展開し、中華人民共和国と新たに外交関係を持つ国とは即座に国交を断絶するという措置をとった(「zh:漢賊不兩立」漢賊並び立たず)。中華民国が中国の国連代表であることについてソビエト連邦などがしばしば問題視したが、中華民国はアメリカ合衆国などの支持を得て国連での地位を確保し続けた。

台湾編入からちょうど26年後の1971年10月25日に採択された国際連合総会決議2758によって、国連での中国代表権が中華民国から中華人民共和国へと移ることとなり、中華民国は国連からの脱退を宣言した。その後、中華人民共和国を「中国を代表する国家」として承認する国が続出し(1964年にフランス共和国、1970年にカナダ、1972年に日本西ドイツ、1979年にアメリカ合衆国、1992年に大韓民国、1997年に南アフリカ共和国)、中華民国の国際的な孤立が深まった。そのため中華民国は外交を弾力化し、国交のない国との間で貿易などの実質的関係を発展させ、各種の民間国際交流を奨励する一方で、他の国際組織での議席・権利の維持や既存の国交のある国との関係を強化するようにしていった。

冷戦後の1990年代に入ると、中華民国は「全中国を代表する国家」であることに固執せずに国際的地位を確保するという外交政策をとりはじめ、広範に国際組織に参加、活動することを目標とするようになった。これは、中華民国が主権国家であることを国際社会にアピールすることを目的としており、1993年から続いている国連再加盟運動もこの政策の一環であるといえる。だが、このような外交政策は中国共産党が主張する「一つの中国」に抵触するおそれがあり、両国関係にも影響が及んでいる。

中華民国は代表なき国家民族機構(UNPO)という国際組織に加盟しているが、これは中華民国政府ではなく台湾民主基金会が参加・出席している。

現在、中華民国と国交のある国は22カ国(2013年11月18日時点)だが、他にも59カ国と香港・マカオに代表処や弁事処(実質的に大使館や領事館の役割を果たしている非政府機構の形をとった窓口機関)を設置している(2006年8月6日時点)。なお、中華民国と公式な外交関係のある22カ国は以下の通りである。

対米関係[編集]

中華民国にとって、華米関係は外交政策上の最重要事項である。そもそも国共内戦国民党政府が敗北を喫した要因は、ホワイトハウス対日占領に熱中したことと、「中国白書」の発表によって国民党政府への軍事援助を停止したことの2点であった。

1950年1月に国民党政府台湾で活動を本格化した際、トルーマン大統領は国民党政府に対して、経済援助は実施するが軍事には干渉しないと明言した。そのため国民党政府は共産党軍の台湾侵攻に対する危機感が高まったが、1950年6月25日朝鮮戦争勃発により状況は一変した。

1951年1月、ホワイトハウスに対する国民党政府への軍事援助を復活させ、2月には「米華共同防衛相互援助協定」を締結、軍事顧問団を派遣。1954年12月には「米華共同防衛条約」を締結。

1979年のアメリカ合衆国と中華人民共和国共産党中国)の国交樹立にともない、台湾とアメリカとの国交はなくなった。しかし、ホワイトハウスは「米華共同防衛条約」に代わるものとして、「台湾関係法」を制定し、台湾を「政治的実体 (political entity)」と認めて実質的な関係を維持、有償で武器などを提供している。

対日関係[編集]

第二次世界大戦後の正式な日華関係は、1952年から始まる。1952年の日華平和条約締結によって、中華民国は日本国との国交を回復し、両国に大使館が設立された。だが1972年に日本国が中華人民共和国との間で国交を樹立(日中国交樹立)したことにより、中華民国は日本国との国交を断絶し、両国間の正式な外交関係は終わった。

断交後、日華両国は民間窓口機関を経由しての「間接外交」によって実質的な外交関係を維持するようになり、そのまま現在に至っている。これは、民間の機構に実質的な大使館や領事館の役割を与え、両国が外交上の便宜を「民間職員」に対して図ることによって成立しており、日本国側は「財団法人交流協会」を、中華民国側は「亜東関係協会」をそれぞれ相手国に駐在させている。

なお、「亜東関係協会」の東京駐在事務所は、1992年5月にそれまでの「亜東関係協会東京弁事処」という名称を「台北駐日経済文化代表処」に変更しているが、団体の名称は「亜東関係協会」のままである。

対蒙関係[編集]

建国以来、中華民国はモンゴル国を自国の領土として扱い、外蒙古と表記し、1924年モンゴル人民共和国が成立した後も独立を認めなかった。

蒋介石率いる国民政府は、1945年6月のソビエト連邦との外交交渉の際に「ソ連が日本撤退後の満洲中国共産党に渡さず、かつ新疆独立運動を鼓舞しないと約束するなら、抗日戦争勝利後に外蒙古が国民投票を経て独立することを認めてもよい」と主張し、1946年1月に一旦はモンゴルの独立を承認した。

しかし国共内戦中に、ソビエト連邦は勢力を拡大した共産党だけを支持し、国民党側への支持を停止するという措置を採った。それが遠因の一つとなって国民政府(1948年以降は中華民国政府)は各地で内戦に敗れ、中国大陸におけるほぼ全ての領土を喪失した。台北遷都後の1953年、中華民国政府はソビエト連邦政府との間で結んでいた中ソ友好同盟条約の正式な廃止を決定し、同時にモンゴルの独立承認も白紙に戻したと解釈されることになった[1]

民主進歩党陳水扁政権は、実質的にモンゴル独立を認め、2002年には外交部ウランバートル台北貿易経済代表処を開設した。それに伴い、台北にもモンゴルの貿易代表事務所が設立され、現在では両国の事実上の大使館として機能している。中国国民党馬英九政権下の2012年には、行政院大陸委員会が、1946年の中華民国憲法制定の時点でモンゴルの独立をすでに認めており、憲法第4条で中華民国の領土とされる「固有の領域」にモンゴルは含まれないとの資料を発表した[2]

対共産党中国関係[編集]

中華民国内の民主化以降、台湾化・脱中国化と呼ばれる台湾人意識の昂揚や、台湾独立運動(台独運動)の活発化、あるいは2005年3月に中華人民共和国(共産党中国)が台湾の武力「解放」を容認した「反国家分裂法」を第十期全国人民代表大会で成立させたことから、関係が緊張し、北東アジアの不安定要素の一つとなっている。

日本では、台湾海峡を挟んだ台湾の中華民国と、中国大陸の中華人民共和国との関係を指す場合、「中台関係」と表記される。中華民国と中華人民共和国の間では、両者が台湾海峡を挟み対峙していることから「両岸関係」という独特の用語が用いられる。これは、互いに中国全土における唯一の合法的政府を自任・主張してきた両政府の間で、中国と台湾を別の国家的存在として表記した印象を与える「中台」の表現を避けるための便宜的な表現である。

台湾側の行政院大陸委員会と中国側の国務院台湾事務弁公室が、それぞれの政府で相手方に関する事務を取り扱うが、「一つの中国」の建前から、政府機関同士の公式な直接交渉ができなかった。中台の交渉窓口機関として台湾側の海峡交流基金会(海基会)と中国大陸側の海峡両岸関係協会(海協会)があり、1992年以来両者で交渉が行われている。以来中台間の最高レベルの交渉は、海基会・海協会のトップ会談であった。2005年には野党党首ではあったものの中国国民党主席連戦が中国を訪問し、中国共産党総書記の胡錦濤と会談、60年ぶりに国共両党の首脳会談が実現した。その後も2009年に国民党主席呉伯雄が訪中し胡錦濤と会談した。海基会・海協会による交渉を経て、2010年には両岸経済協力枠組協議 (ECFA) 締結に至った。2011年にはECFAにより両岸経済合作委員会(両岸経済協力委員会とも)が設置され、以降台湾経済部次長と中国商務部副部長を首席代表とする会合が、半年に1度開かれている。

  • 台湾独立やいわゆる台湾問題に関する詳細は、「台湾問題」を参照。

脚注[編集]

  1. ^ 中華民国教育部重編國語辭典「蒙古地方」の項
  2. ^ 有關外蒙古是否為中華民國領土問題說明新聞參考資料

関連記事[編集]

外部リンク[編集]

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