ベトナム帝国

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ベトナム帝国
Đế quốc Việt Nam
阮朝 1945年3月11日 - 9月2日 ベトナム民主共和国
コーチシナ共和国
ベトナムの国旗 ベトナムの国章
国旗皇帝旗
国歌: ダン・ダン・クン英語版
ベトナムの位置
公用語 ベトナム語
首都 トゥアンホア
皇帝
1945年3月11日 - 8月30日 バオダイ帝
内閣総長
1945年4月17日 - 8月25日チャン・チョン・キム
面積
1945年263.000km²
人口
1945年19.000.000人
変遷
成立 1945年3月11日
消滅1945年9月2日
通貨フランス領インドシナ・ピアストルベトナム・ドン
ベトナムの歴史
ベトナムの歴史
伝説時代
(甌雒国)
第一次北属期
南越統治)
徴氏姉妹
第二次北属期
六朝統治)
前李朝
第三次北属期統治)
梅叔鸞
南漢統治)
楊廷芸矯公羨
呉朝
十二使君時代
丁朝
前黎朝
李朝
陳朝
胡朝
後陳朝
第四次北属期
統治)
後黎朝前期
莫朝
後黎朝後期 莫朝
南北朝
鄭氏政権
(東京国)
阮氏政権
(広南国)
西山朝
阮朝
フランス領インドシナ
ベトナム帝国
コーチシナ共和国 ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
ベトナム社会主義共和国

ベトナム帝国(ベトナムていこく、ベトナム語Đế quốc Việt Nam帝國越南)は、1945年3月11日から同年9月2日までの半年間、現在のベトナムに存在した国家。日本陸軍南方軍明号作戦によりフランス植民地軍を武装解除するとともに独立を許可したことに始まる。

歴史[編集]

19世紀初頭に成立したグエン朝大南国(ダイナム)はフランスによって徐々に植民地化され、1887年フランス領インドシナ(仏印)発足に伴いフランスの保護国となった。第二次世界大戦中の1940年には日本政府フランス政府の合意により日本軍がフランス領インドシナに進駐した(仏印進駐)。以降大南国は日仏から二重統治を受ける状況となった。

第二次世界大戦の末期、フランス領インドシナに進駐していた日本軍は、近々予想される連合国軍のベトナム上陸に対する危機感を募らせていた。連合国軍上陸の際、フランス植民地軍は日本軍と共にこれを迎え撃つことへの同意を求められたがフランス軍はこれを拒否し、1945年3月9日に日本軍との間に戦闘が始まった。約5万のフランス軍は日本軍と同程度の兵力だったが、軽装備の植民地駐屯部隊であったため、日本軍に敗退した(明号作戦、仏印処理)。これにより、インドシナの支配者は、フランスから日本に変わった。

作戦終了後、日本側は大南国政府に「フランスとの条約破棄が可能であること」を通告した。これを受けて、フランスによる支配で統治権を抑制されていたバオダイ帝は、1884年甲申条約英語版(第二次フエ条約、パトノートル条約)を破棄し、フランスからの独立と日本との協働を宣言し国号をベトナム帝国と改めた。日本は同様の通告を、カンボジア英語版ラオスにも行い、それぞれが独立宣言を発している。4月17日にはバオダイ帝は、著名な文人であったチャン・チョン・キム首相(内閣総長、ベトナム語Tổng trưởng Nội các總長内閣)に任命し、内閣を組織させた。ゴ・ディン・ジエムは首班に推挙されたが、これを固辞した[1]

ベトナム帝国政府は以下のような改革を行った。

  • フランス式の地名をアンナンのものに復した。
  • フランス人の官吏を罷免し代わりにベトナム人を任用した。
  • フランス人の銅像を撤去した。
  • フランス統治下で有罪判決を受けた政治犯の判決取り消し、釈放、公民権回復。この政策は釈放された共産主義者らがベトナム帝国政府に対する反政府活動を行うという皮肉な結果を招いた。
  • 中等教育の教授言語をフランス語からチュ・クオック・グーによるベトナム語に改めた。またベトナム語による全国共通の初等教育修了試験を導入した。この教育改革はベトナム民主共和国の教育政策にも影響を与えた。

しかし、1944年からトンキンを中心に発生していた大飢饉(1945年ベトナム飢饉)や、フランスによる長期支配と日本による軍政に対する有効な策を講じることができなかった。この飢饉は、後にホー・チ・ミンによって、フランスや日本やベトナム帝国を攻撃するために大いに利用されることとなる。

領土については、コーチシナを含むベトナム全土の主権回復を宣言したが、同時期に独立したカンボジアが「コーチシナの半分は自国領土である」と主張したため、8月25日にサイゴンで両国による会議が開催される予定となっていたが、日本政府が降伏を予告したため、結局は実施されなかった。カンボジアとタイとの間でも領土問題は生起している。また、やはり同時期に独立したラオスは、アンナン人を全て国内から追放したためベトナムと争いになり、日本に調停を要請した。

1945年8月14日に日本がポツダム宣言の受諾を布告すると、その3日後の8月17日に、ホー・チ・ミンに指導されたベトミンが全国総蜂起を起こした(ベトナム八月革命)。連合国主要政府と連絡を取ることすらできなくなったバオダイ帝は、退位を決意し、ベトミン側にその意向を伝えた。8月23日に首都トゥアンホアはベトミンに掌握され、ハノイからベトミン代表のチャン・フイ・リエウが乗り込んでくると、8月30日、トゥアンホアの皇宮英語版で退位式典が行われ、剣璽が引き渡された。そして、9月2日には日本の降伏(ポツダム宣言調印)と同時にベトナム民主共和国の独立宣言が出された。

ベトナムを初めとするインドシナ3国の独立は、日本の敗戦の直前かつ第38軍現地司令部の独断で行われたため、ビルマフィリピンのように日本やその友好国からの国際的な国家承認を得ることはできなかった。

その後、皇帝だったバオ・ダイはフランスに擁立され、1949年6月にサイゴンでベトナム国の元首(国長、ベトナム語Quốc trưởng國長)に就任する。だが、ベトナム国政府は第一次インドシナ戦争の最中に発足した臨時政府としての側面が強く、バオ・ダイが望む君主制政体を確立できないまま消滅した。そのため、国長がベトナム帝国皇帝と連続した地位であると解することは困難である。

出典[編集]

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  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “ゴ・ジン・ジエム” (日本語). コトバンク. 2020年7月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • 白石昌也 「チャン・チョン・キム内閣成立(1945年4月)の背景 ―日本当局の対ベトナム統治構想を中心として」、土屋健治・白石隆編 『東南アジアの政治と文化』 東京大学出版会〈国際関係論のフロンティア3〉、1984年、33-69頁。ISBN 4-13-034066-2 
  • 白石昌也 「王権の喪失 ―ヴェトナム八月革命と最後の皇帝」、土屋健治編 『講座現代アジア1 ―ナショナリズムと国民国家』 東京大学出版会、1994年、309-340頁。ISBN 4-13-025011-6 
  • ファム・カク・ホエ『ベトナムのラストエンペラー』白石昌也訳、平凡社、1995年。ISBN 4-582-37333-X
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