近衛声明

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近衛声明(このえせいめい)は、日中戦争支那事変)中の1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣が3回にわたって発表した、対中国政策関連の声明。3回目の第三次近衛声明は近衛三原則とも呼ばれる。

概要[編集]

第一次近衛声明[編集]

1938年(昭和13年)1月16日近衛文麿首相はトラウトマン工作に基づいた和平案提示に対し、蒋介石率いる国民政府が応じないことを原因として、交渉打ち切りの声明を発表した。近衛は声明の中で「国民政府を対手とせず」と述べ、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発した。これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した(1月20日に帰国)。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失うことになった。

第二次近衛声明[編集]

日本軍による広東武漢の相次ぐ占領にもかかわらず、和平の見通しが立たなかったため、近衛は1938年(昭和13年)11月3日に再度声明を発表した(東亜新秩序建設に関する声明)。近衛は「国民政府といえども新秩序の建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」と述べ、前回の「国民政府を対手とせず」の発言を修正した。

この声明の狙いは蒋介石と対立していた汪兆銘重慶に移転していた国民政府から離反させることにあった。汪はこの後重慶を脱出し、昆明を経由してハノイに到着している。

第三次近衛声明(近衛三原則)[編集]

1938年(昭和13年)11月、汪派の高宗武梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。汪がこの後に重慶を脱出し、近衛は、1938年(昭和13年)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した。

しかしこの声明からは、「2年以内の撤兵」という合意要件が欠落していた。汪は撤兵の約束を反故にされたことに衝撃を受けたものの、この声明が日本との和平への道を開いたものと受け止め、滞在先のハノイから重慶の国民政府に向けて和平解決を要請する電報を送ったが、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪した。

第三次近衛声明の2週間後、内閣総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。

合意文章の改変問題[編集]

「2年以内の撤兵」の文言が削除された経緯は明らかにはなっていないが、実行者として有力視されているのが尾崎秀実である。尾崎は近衛のブレーンとして政権中枢に関与しており、原案の執筆にも与っていた。原案は陸軍に異論があって中山優が改めて執筆し、陸海軍立会いの下清書したが、発表前夜、尾崎は首相官邸に執務室を構えていたが、尾崎は官邸内の自身の執務室で夜遅くまで待機していた。後年尾崎はゾルゲ事件で逮捕されてソ連のスパイであったことが明るみに出ており、尾崎が日華事変の長期化と国力の減退を狙って密かに文言を削った可能性は大いにある、と主張されている[1]

国際環境[編集]

アメリカ合衆国議会は1937年1月、戦争状態にある国への武器輸出を禁じる中立法を改正して維持し、また2月には日本とアメリカの産業団体は日米綿業協定を締結して貿易を巡る紛争も収束させたが[2]、7月の日中戦争の勃発を受け、ルーズベルト大統領はイギリス国籍の船がアメリカ製の武器を中国へ輸送することを許可していた。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 江崎, pp. 209-213.
  2. ^ 日米の通商競争激成の危機は解消 米国綿織物恊会満場一致で日米綿業協定を承認』、神戸新聞(1937年2月19日)。神戸大学新聞記事文庫。

参考文献[編集]

関連項目[編集]