ゾルゲ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連スパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけて[1]その構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣ブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。

経緯[編集]

ゾルゲらの諜報活動[編集]

ゾルゲらの諜報活動についてはリヒャルト・ゾルゲマックス・クラウゼン尾崎秀実ゾルゲ諜報団を参照のこと。

逮捕[編集]

太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ドイツのフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として東京に在住していたゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高部特高第1課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱った[2]

特別高等警察アメリカ共産党党員である宮城与徳やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州国の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている[3]

なおこれを知ったドイツ大使館付国家保安本部将校で、ゾルゲと親しく特高との関係も深かったヨーゼフ・マイジンガーは、ゾルゲに対する捜査を止めるように特高に依頼している。またマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[4]。さらにオット大使や国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[5]

1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された[6][7]。10月10日に宮城が逮捕され、この際に行われた家宅捜査では数多くの証拠品が見つかり、事件の重要性が認識された。宮城宅を視察することによって10月13日には九津見房子秋山幸治逮捕された。宮城は取調べの際に自殺を図るが失敗、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどがスパイであることが判明した。このとき、在日ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキー(ヴァイオリニスト)、同じくレオ・シロタ(ピアニスト)、その娘ベアテ・シロタ・ゴードン(のちの日本国憲法の起草者の一人)、クラウス・プリングスハイム(指揮者)の次男クラウス・フーベルト・プリングスハイム、関屋敏子(声楽家)などの音楽関係者もスパイ容疑をかけられた[8]

捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では特高第1課に加え外事課捜査に投入された。尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ外国人容疑者の国外逃亡大使館への避難、あるいは自殺などが予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。このため、10月14日に尾崎の検挙が先行して行われ、10月18日外事課は検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼンブランコ・ド・ヴーケリッチの3外国人容疑者を同時に検挙した。この際、クラウゼン宅からは証拠として無線機が発見されている[9]

また、翌1942年(昭和17年)には尾崎の同僚であった朝日新聞東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙された。

グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使やヨーゼフ・マイジンガーと親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこと(コックス事件)もあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。

ゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使は、ゾルゲが逮捕された直後から、友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞き知る。

これを受けてオット大使はヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された、その後南京国民政府の北京へと家族とともに向かい、そこで終戦までの間を暮らした。

裁判[編集]

ゾルゲらは1942年に国防保安法軍機保護法軍用資源秘密保護法治安維持法違反[10]などにより起訴された。1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ(裁判長判事 - 高田正、判事 - 樋口勝満田文彦)、以下の判決が下された。ゾルゲ・尾崎ら被告の大部分は大審院上告したが、全て棄却され刑が確定した[11]

処刑[編集]

刑が確定したゾルゲらは、巣鴨拘置所拘留された。その後同拘置所に拘留され続け、1944年11月7日のロシア革命記念日に、ゾルゲと尾崎の死刑が執行された。

死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であったと言われている。翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合国軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。

その後[編集]

宮城には1965年1月19日、当時のソ連政府から大祖国戦争第二等勲章が授与される事が決定した(尾崎も同様に叙勲されている)が、宮城は1943年に獄死し遺族の消息も不明であったため、2010年1月にようやく姪の所在が確認されロシアから伝達された[12]

資料[編集]

ゾルゲ事件の取り調べを行った大橋秀雄(元警視庁警部補)が保管していた調書、ノート、ゾルゲから大橋への書簡ほか数千点の資料が遺族から沖縄国際大学へ寄贈され、保管・公開される予定である。[13]

研究書・資料文献[編集]

※ゾルゲの著書はリヒャルト・ゾルゲ#著書を参照。

  • 白井久也・小林俊一(編)『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか 「国際スパイ事件」の深層』社会評論社、2000年、ISBN 4784505520
  • 白井久也(編)『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、2003年、ISBN 4784505555
  • 白井久也(編)『【米国公文書】ゾルゲ事件資料集』社会評論社、2007年、ISBN 4784505609
  • 白井久也『ゾルゲ事件の謎を解く 国際諜報団の内幕』社会評論社、2008年、ISBN 4784505822
  • F.W. ディーキン、G.R. ストーリィ『ゾルゲ追跡 リヒアルト・ゾルゲの時代と生涯』(河合秀和訳、筑摩書房、1967年)
    • 岩波書店(岩波現代文庫)(上巻) 2003年、ISBN 4006030738
    • 岩波書店(岩波現代文庫)(下巻) 2003年、ISBN 4006030746
  • ジョセフ・ニューマン『グッバイ・ジャパン - 50年目の真実』朝日新聞社、1993年
  • 松橋忠光・大橋秀雄『ゾルゲとの約束を果たす - 真相ゾルゲ事件』オリジン出版センター、1988年
  • みすず書房編集部(編)『現代史資料 ゾルゲ事件』(全4巻)、みすず書房、1962年 - 1971年。
  • 宮下弘『特高の回想 - ある時代の証言』田畑書店、1978年
  • 山崎洋(編)『ブランコ・ヴケリッチ日本からの手紙―ポリティカ紙掲載記事(一九三三~一九四〇)』 未知谷、2007年。ISBN 4896422066
  • 山崎淑子(編)『ブランコ・ヴケリッチ 獄中からの手紙』 未知谷、2005年 ISBN 4896421205
  • 山村八郎(中村絹次郎)『ソ連はすべてを知つていた』 紅林社、1949年。
  • ロバート・ワイマント『ゾルゲ 引裂かれたスパイ』(西木正明訳、新潮社、1996年)、ISBN 4-10-532901-4
  • 渡部富哉『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』 五月書房、1993年。(1998年に新装版刊行)

関連作品[編集]

書籍[編集]

  • 太田尚樹『赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー』講談社、2007年
  • モルガン・スポルテス著、吉田恒雄訳『ゾルゲ 破滅のフーガ』 岩波書店刊、2005年。ISBN 4000237101

戯曲[編集]

  • 木下順二『オットーと呼ばれる日本人―他一篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、1982年。
    • 表題作は木下がこの事件を題材として書き下ろした戯曲

映画[編集]

漫画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 山村八郎(1949)21頁
  2. ^ ゾルゲは実際にはコミンテルンではなく、労農赤軍参謀本部第4局に所属していた。
  3. ^ 白井久也編著『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』
  4. ^ 『戦時下のドイツ大使館』P.34 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
  5. ^ 『戦時下のドイツ大使館』P.33 エルヴィン・リッケルト 中央公論社
  6. ^ 特高資料では「9月28日」とされているが、上記「褒賞上申書」や和歌山県で北林の逮捕に立ち会った元和歌山県警刑事の証言により実際の逮捕日は9月27日であることが渡部富哉によって確認されている[1]
  7. ^ 戦後の長期間、「伊藤律が北林の名を供述していたことが検挙の発端である」という内容が通説化していたが、現在はほぼ否定されている。詳細は伊藤の項目を参照。
  8. ^ 早崎えりな『ベルリン・東京物語』p.226-227(音楽之友社、1994年)
  9. ^ 山村八郎(1949)12-19頁
  10. ^ 山村八郎(1949)23頁
  11. ^ みすず書房編集部(編)『現代史資料 ゾルゲ事件』(全4巻)
  12. ^ 「ゾルゲ事件で獄死、画家の遺族に勲章伝達 ロシア大使館」(朝日新聞 2010年1月14日)
  13. ^ 「ゾルゲ事件、資料公開へ 取調官の遺品数千点」産経新聞、2010年3月20日

関連項目[編集]