支那事変

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1940年(昭和15年)発行の国債には「支那事変」によるものと明記されている
陸軍省発行の絵葉書福田豊四郎作「銃後の田園」)に東京の郵便局で『支那事変二周年記念』の記念印(1939年(昭和14年)7月7日付)を押印した郵趣品。記念印には「東亜新秩序」の標語が入っている

支那事変(しなじへん)とは、1937年昭和12年)に日本中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘である。なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃、第二次上海事変が連続し、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる


ただし、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、戦争ではなく事変と称する。

「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが[1]、初めは北支事変(ほくしじへん)と呼ばれ、その後、支那事変となった[1]。 新聞等マスメディアでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われるほか、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれるなど、呼称の揺らぎがある。

一般的には、1937年の支那事変から1945年(昭和20年)までの戦争を日中戦争と呼ぶが、 「支那事変」は1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争大東亜戦争)勃発までとするのが代表的見解とされていて、期間が異なる[2]。 当項目では「支那事変」という「呼称」について解説する。

概要[編集]

支那事変は、1937年昭和12年)7月の盧溝橋事件を発端として、北支(北支那、現中国華北地方)周辺へと拡大した。8月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈していった。ソ連空軍志願隊を送り、中華民国側を援護した。

1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。

特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。

事変の長期化とともに、アメリカやイギリス援蒋ルートを通じて、重慶国民政府蒋介石政権)を公然と支援。 日本は和平防共、建国を唱える汪兆銘を支援し、南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。

その後、1941年(昭和16年)の日米開戦とともに、蒋介石政権は12月9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。 同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」[3]と決定した。

戦後の学校教育では当初「日華事変」に統一されていたが、昭和50年代以降[要出典]は徐々に「日中戦争」という呼称が広まった。これは日中双方が「事変」としていたが、事実上の戦争であるとの歴史学界による学説、さらに主として日本教職員組合など教育現場やマスメディアが、占領軍(GHQ)や中華民国中華人民共和国(建国前)両政府の「中国を侮蔑するニュアンスを含む」とする政治的圧力をうけて「支那」という言葉の使用を避けた為である。[要出典]なお本来「支那」という呼称に差別的意味はない[4]とする研究もある。

出典[編集]

  1. ^ a b 昭和12年9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」
  2. ^ 庄司潤一郎「日本における戦争呼称に関する問題の一考察」『防衛研究所紀要』第13巻第3号、防衛研究所、2011年3月。
  3. ^ 昭和16年12月12日閣議決定 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ
  4. ^ 酒井信彦 (2004年2月24日). “中国・中華は侵略用語である ― シナ侵略主義の論理構造 ―”. 財団法人・日本学協会『日本』 2004年(平成16年)2月号. 日本ナショナリズム研究所. 2011年1月22日閲覧。

関連項目[編集]