下関条約

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日清両国媾和条約
Peace Conference at Shimonoseki by Nagatochi Hideta (Meiji Memorial Picture Gallery).jpg
永地秀太筆(1929)

日本側:右から伊藤博文陸奥宗光伊東巳代治
清側:右から李鴻章李経方伍廷芳


通称・略称 日清講和条約、下関条約、馬関条約
署名 1895年明治28年)4月17日光緒21年3月23日)調印(調印地:日本の旗 日本山口県赤間関市
効力発生 1895年(明治28年)5月8日(光緒21年4月14日批准(批准地:清の旗 山東省芝罘
主な内容 日清戦争の講和条約
条文リンク 東京大学東洋文化研究所
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下関条約(しものせきじょうやく)は、日清戦争1894年-1895年)で大日本帝国清国に勝利したことにより、山口県下関市料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て、1895年明治28年)4月17日光緒21年3月23日)に調印された条約である。正式には日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)。

かつては、会議が開かれた山口県赤間関市(現、下関市)の通称だった「馬関」[注釈 1]をとって、一般に馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた[注釈 2]。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である[注釈 3]。もう一方の当事国である中国では、今日でも「馬関条約」(簡体字: 马关条约; 繁体字: 馬關條約; ピン音: Mǎguān tiáoyuē)と呼んでいる。

日清講和交渉の推移[編集]

戦況と日本の講和条件案[編集]

日清戦争要図

1894年(明治27年)9月の黄海海戦平壌陥落によって、朝鮮半島を確保するという日本側の第1期作戦が勝利のうちに終了し、第2期作戦は直隷平野華北平原)での決戦をめざし、10月以降、山県有朋率いる帝国陸軍第一軍鴨緑江渡河、大山巌率いる第二軍遼東半島攻略へと乗り出した[1]

一方、清国では摂政体制を布いていた西太后が講和に傾斜しつつあり、夫咸豊帝の弟で10年来政治から離れていた恭親王奕訢総署大臣に返り咲いて、戦争終結のため、諸外国に調停を打診するべく行動した[2]

10月8日イギリスは、戦火が清国全土に拡大するのを畏れて、駐日公使パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチを通じて日本政府に講和を打診した[3][4][5]。「日本国政府ハ各国ニテ朝鮮ノ独立ヲ担保スルコト及軍費トシテ日本国ヘ償金ヲ払フコトヲ以テ媾和(こうわ)ノ条件トシテ承諾スヘキヤ」というものであった[4][5]。これを受けて第2次伊藤内閣外務大臣陸奥宗光は、内閣総理大臣伊藤博文と協議して、講和条件として甲・乙・丙の3案を起草したが、その詳細をイギリス政府には伝えなかった[4][5]。3案のうち、甲・乙の両案が李氏朝鮮の独立とともに賠償金領土割譲について言及しており、賠償金額は両案とも提示しておらず、領土に関しては甲案が旅順口および大連湾、乙案が台湾であった[4][5]。イギリス政府は、列国会議を開いて連合仲裁のかたちでの調停を試みたが、列強の同意を得られず、英国民も同調しなかったので、この案は曖昧なまま立ち消えとなった[5]

戦勝国側が敗戦国に対して過酷な条約を提示し、それをもって休戦とする例は、この時期の列強間にも数多くみられ、日本がこの戦争において参照したのは普仏戦争1870年-71年)における事例であった[4]。すなわち、1871年フランクフルト講和条約において、戦勝国プロイセンドイツ帝国)は敗戦国フランスに対し、アルザス(エルザス)・ロレーヌ(ロートリンゲン)の2州を割譲させ、50億フランの賠償金を獲得したのであった[4]

ロシア帝国アメリカ合衆国もまた、日清戦争の終結に関心をもっており、11月上旬からは米・英・露の各国が調停のための斡旋を開始した[1][3][5]。11月6日には、東京駐在のエドウィン・ダン駐日アメリカ公使より、友誼的仲裁の申し入れがなされた[6]。しかし、清国との決戦を戦争目的の一つとみなしていた日本政府は、この段階での講和成立を無用と判断した[1]。また、陸奥個人としては、交渉当事者が勝者と敗者である以上、仲裁役は不要であるが、ただし、国交断絶中の両国の意志を取り次ぐ役目を果たす第三国は必要と考えており、その場合は、シナ大陸に多くの権益を有するイギリスよりもアメリカの方が好ましいと判断していた[2]

安達吟光「旅順口大捷之図」

11月21日、日本陸軍第二軍は旅順口の戦いで清国軍を破った[2]旅順の陥落によって、陸奥はそろそろ講和に向けた準備が必要であるとの考えに至ったが、当時、李鴻章の懐刀といわれた清朝お抱えのドイツ人グスタフ・デットリング英語版が李の内命を受け、講和の瀬踏みを目的として神戸を訪れ、兵庫県知事を介して伊藤首相との面会を求めた[2][5]。彼は、首相あて親書を持参したが、正式な使節ではなく、日本側も彼との公式な接触を避けた[2]。一方、北京駐在の駐清アメリカ公使チャールズ・ハーヴェイ・デンビー英語版は、総署大臣の恭親王奕訢に対し、機が熟せばアメリカが調停に入ることになっているはずなのにデットリングなるドイツ人が不審な動きをしており、不快であるとの苦情を申し入れた[2][5]。デットリングは李鴻章からの天津発の電報で引き返し、親書は大本営のある広島市に郵送した[2][5]。ただし、デットリングの得た感触から、日本が強気の姿勢で交渉に臨み、講和条件も厳しいものとなるであろうことを李鴻章も知ったのである[2][5]。なお、一方の陸奥外相は李鴻章のデットリング派遣について、「すこぶる児戯に類した」と酷評している[2][5]

11月22日、北京のデンビー駐清アメリカ公使は、清国政府が日本政府に対し、朝鮮独立承認と償金弁済をもって講和交渉を開くことを申し出た旨、東京駐在のダン駐日アメリカ公使に電報で伝えた[6]

伊藤博文

12月4日、伊藤博文首相は、「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」という意見書を広島大本営に提出した[1]。それによれば、このまま直隷決戦に向け、シナ本土に侵出するのは必ずしも得策ではなく、清朝瓦解の畏れもあって、そうなればかえって諸列強の戦争介入は強まり、日本は一転して外交的に不利な立場に立たされる可能性がある、というものであった[1][注釈 4]。それゆえ、第一軍・第二軍のいずれか一方は渤海を渡って威海衛(現、山東省威海市)の制圧へ、もう一方は台湾占領作戦へと転進すべきであり、特に台湾は実際に占領に及ばなければ、世論に訴え、台湾の譲渡を和平条約の要件として盛り込むことはできないとし、当初立てた第2期作戦の変更を提案したのである[1]

1895年(明治28年)1月に入ると日本では講和条約案が議されるようになった[9]。年末に、アメリカ合衆国を介して、清国から講和使節派遣の申し入れがあったからである[6][10]。日本軍の連戦連勝のさなかでの講和であることから、「対外硬」と呼ばれた人士はもとより、政府部内にあっても取れるだけのものはできるだけ取っておきたいという雰囲気が濃厚で、外務大臣の陸奥宗光をおおいに悩ませた[6][9]

陸奥宗光

1895年1月27日、広島大本営において日清講和に関する御前会議が開かれた[6][10]。 席上、陸奥外相から、

  1. 朝鮮独立の承認
  2. 領地の割譲と償金支払い
  3. 欧米並みの特権の提供

を骨子とする方針が示され、参加者各位より諒承された[6][10]帝国海軍は台湾全島および澎湖諸島の割譲を望んだ[4][9][10][11]。それに対し、陸軍は最も多くの血を流した戦地、遼東半島の割譲を求めた[4][9][10][11][注釈 5]財政を担当する大蔵省は、戦後経営のことを考慮して巨額の補償金を欲し、松方正義にいたっては、のちに10億テール)という驚異的な額を口にした[6][9][10][11]。なお、テールとは清国税関庫平銀の単位であり、当時の10億両は日本円に換算すると約15億円であった[11]

駐露公使の西徳次郎は、ロシアを刺激する領土要求よりも償金を優先すべきであり、領土割譲は多額の償金の担保という名目で行うべきことを説き、駐英公使の青木周蔵盛京省および吉林直隷両省の一部を割譲させて将来的な日本の軍事的根拠地を建設し、償金は英貨1億ポンドとすべきことを主張した[4][6][10]。また、当時の外務省アメリカ人顧問ヘンリー・デニソンが示した賠償金は、甲案が3億円、乙案が5億円であった[4]立憲改進党の一部や在野の対外硬派は、和議の交渉をしている間も戦闘を続行することを要望し、そのうえで相手が停戦に応じたら、台湾割譲、償金3億円以上のほか、山東省・江蘇省福建省広東省の日本領有を清国に認めさせるべきであるという意見を主張した[6][9][11]。対外硬とは一線を画しているはずの自由党ですら、東3省すなわち黒竜江省・吉林省・盛京省および台湾割譲を主張した[6][9][11]。伊藤博文・陸奥宗光・山県有朋ら政府首脳はいずれも、事と次第によっては第三国の干渉を受けることを予想しており、それを念頭に置きつつ交渉に臨まなければならないと考えていた[9]

第一次使節の来日と広島談判[編集]

土屋光逸「請和使談判之図」
1895年2月に広島県庁で行われた請和交渉を描いたもの。

1895年1月、清国は正式の使節を日本に派遣することを決定した[2]。使節に任じられたのは、戸部侍郎張蔭桓湖南巡撫邵友濂であった[2][6]。張蔭桓はアメリカ、ペルースペインの駐在公使を務めた経験があり、邵友濂は台湾巡撫を3年務めた実績があった[2]。使節派遣の取り次ぎを行うのはアメリカ合衆国で、北京のデンビー駐清公使と東京のダン駐日公使が連絡を取り合うことで、その任を果たした[2][6][12]

清国側は会見地として長崎を希望し、日本が全権委員を任命した日に休戦開始の日程を定めることを提案したが、日本側はいずれも拒否し、会見地を広島とした[2]。清国使節の張蔭桓と邵友濂は日本側の意向を受け容れ、1月26日上海を出発し、28日には長崎港に入って、1月31日に広島に到着した[2][10][13]。会見場所としては広島県庁があてられた[2]。日本政府は、31日、伊藤首相と陸奥外相を全権弁理大臣に任命した[2][10]。日本側全権が首相と外相であるのに対し、清国側全権は財務次官と地方知事にすぎず、この格の違いは清国使節の面目を失わせるに充分であった[2]

2月1日の会談において、両者の持参した書簡を清国使節は「国書」と称したのに対し、陸奥全権はそれは一種の信任状ないし単なる紹介状にすぎず、全権委任状ではありえないと述べ、また、日本側は講和のための会談・記名・調印の全権を天皇より委任されているのに対し、清国使節はどうなのかと問い詰め、結局、使節の地位についても不十分であり、この状態では講和を結ぶことはできないと述べた[2][10][12]。なお、国交断絶中の国同士に「国書」交換なるものが存在しないのは確かである[2]。日本政府が交渉を拒絶した2月2日、日本軍は北洋艦隊の根拠地威海衛を占領した[10]

広島を退去するしかなくなった清国使節団であったが、伊藤博文は顔を見知っていた使節団随員の伍廷芳を呼び止め、「交渉継続を拒否したのは、決して日本が兵火を好むからではなく、正当な資格を有する全権使臣が来るならば、交渉再開を躊躇する理由はない」旨を述べた[2][13]。伍は、アメリカ留学の経験があったため、伊藤首相と直接英語で話せたのである[2][13]。伍廷芳は思い切って「使臣の官位名望の低いことが不都合なのか」と伊藤に質問したところ、伊藤は「そうではない。全権委任状を帯有する者であれば誰でもよい」と答えはしたものの、一方では「恭親王もしくは李中堂(李鴻章)のごとき人」という個人名を挙げながら、「官位名望が低いよりは高い方がよい。というのは、交渉結果は単に紙上の空文ではなく、必ずこれを実行しうる有力者を必要とするからだ」と語った[2][13]

「第二軍威海衛背面大攻撃」

清国第一次使節団は2月12日、長崎より帰国した。同日、威海衛の戦いが日本陸海軍勝利のうちに終結して北洋艦隊は降伏し、提督丁汝昌は自決した[10][14]軍艦鎮遠は日本海軍の戦利品となり、このことに日本国民は狂喜した[15]。台湾占領作戦の方は、予定していた第一軍が遼河平原における戦闘で苦戦し、威海衛の攻略よりもはるかに遅れた[1]

新使節李鴻章と彼を取りまく状況[編集]

李鴻章

北洋艦隊壊滅後まもなく、清国の朝廷は李鴻章を全権大臣として日本に派遣することを決定した[15]。李鴻章は直隷省総督・北洋大臣であり、内閣大学士首揆すなわち他国にあっては首相にも相当する政界の重鎮であった[10]。李鴻章はこのとき、はげしく主戦論を唱えた翁同龢に対し、対日交渉への同行を求めた[15]。翁は、自身が外交に通じていないことを理由に使節となることを謝絶した[15]。これによって、李鴻章は政敵であった翁同龢の外交に関する発言を封じたのであった[15]

1月の日本の御前会議のようすなどが、おぼろげながら清国に伝わってくると、領土割譲なくして講和は不可能との判断が清の識者ではしだいに広がっていった[15]。北京駐在の列国の公使たちも領土割譲は不可避であるとの認識に立っており、ドイツ公使などは、割譲を拒むならば北京を放棄して内陸部に遷都し、徹底抗戦するほかないと具申している[15]。徹底抗戦は、少数民族である満洲族政権からすれば大いに危険がともない、太平天国の乱のような内乱を引き起こす怖れさえあった[15]。清国上層部で主戦論を唱えていた人々も、前線に出陣して勝てる見込みはなく沈黙せざるをえなくなった[15]。李鴻章はこの時期あえて主戦論を唱え、「領土譲与やむなし」の世論が浸透するのを待ち、そのうえで、3月2日、領土の一部割譲は不可避であることを上奏した[15]。その際、李は、安史の乱以後、河西回廊吐蕃に奪われたのちも朝はなお「中興」と呼ばれる時代をつくったことや、燕雲十六州に割譲してもなお全盛時代を築いた北宋)朝の事例、さらには普仏戦争の事例をも引いて、「奪われた土地は奪い返すことができる」と説いた[15]

3月3日、北京紫禁城内で、西太后臨席のもと軍機大臣が参集して会議が開かれ、そのなかで李鴻章に割地交渉の許可を与えることを認めた[15]。そのなかには、李鴻藻や翁同龢といった彼の政敵のすがたもあった[15]。これにより、李鴻章は日本に対し交渉の場で領土割譲について認めても国賊のそしりを免れることができたのである[15]3月4日、李は西太后と光緒帝に正式に訓令を請い、それを受けた[15]

下関での交渉と李鴻章狙撃事件[編集]

1895年3月、日本軍は遼東湾岸に達し、営口田庄台中国語版を占領した[10]。ここで従来案にみえた直隷決戦の可能性も出てきたが、決戦派だった山県有朋もこの頃には決戦回避に転じていた[10]

その後、清国はアメリカ合衆国を介して李鴻章を欽差頭等(第一等の天子の使臣)全権とする使節団の派遣を日本に申し入れてきた[1][10][12][16][17]。日本政府は遼東半島と威海衛を完全に占領したのち、清国側の講和申し入れを受け容れたのである[1][3][18]。会談地は山口県下関を指定した[16]。このたびは李鴻章に敬意を払い、広島に呼びつけた前回のような非礼は避けたのである[16]

李経方

3月19日、ドイツ船で天津を発した全権大臣李鴻章とその養子李経方、伍廷芳ら随員125名とともに福岡県門司港(現、北九州市)に到着した[1][11][12][16]。李鴻章が外国を訪問したのは、これが初めてであった[16]。翌3月20日、対岸の赤間関(下関)に上陸し、同地の割烹旅館藤野楼(春帆楼)において日本側全権の伊藤博文および陸奥宗光との間で全権委任状を持っていることを互いに確認し、講和交渉が始まった(第1回談判)[1][10][12][16][17]

講和会議の会場となった春帆楼
春帆楼の内装

前回の広島談判では、日本側は清国使節の持参した委任状を問題視したのであったが、これは世界的には、むしろ不評を買っていた[16]。第一次使節が全権委任を証明するに瑕疵があったのは確かではあるが、アヘン戦争以来、清国が外国と結んだ膨大な数の条約にはそのような事例は数多くあり、とりわけ、使節の資格が問題になることは極めて稀で、諸外国からはあまりに露骨な引き延ばし策とみられたからであった[16]。なお、李鴻章ら清国使節は、会談が済めば船に帰り、船中泊することとなっていたが、日本側は、それでは不便であろうと気を遣い、浄土宗寺院の引接寺を一行の宿舎に供した[16]

下関春帆楼での条約交渉は、前後7回におよんだ[12]。第1回談判では、伊藤博文と李鴻章は1885年天津条約 以来の旧知の間柄であり、李は日本の近代化の進展を高く評価し、その指導者としての伊藤の実績を賞賛し、「今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝する」と述べたうえで、「今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならない」と語るなど終始和やかなようすで交渉が始まった[11]。陸奥外相は、李の印象として「古稀以上の老齢に似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」ものがあると記し、「さすがに清国当世の一人物に恥じず」と評価している[11][17]

この交渉で陸奥はわざと、時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おうと清国側に呼びかけた[16]。しかし、実は陸奥本人としてはヨーロッパ諸国の干渉が気がかりで、内心は一刻も早い講和成立を願っていた[16]。李鴻章が列強の干渉の動きに気づけば、交渉を引き延ばしにかかったり、あるいは打ち切って清国に引き上げてしまうことも考えられたので、決して急いではいないというポーズをとったのである[16]

イギリスは日清両国が排他的な同盟を結べば香港の繁栄が危ぶまれることから、これをおおいに警戒し、断固反対を唱えた[16]。青木駐英公使は、日清同盟となる可能性はまったくないことをイギリス側に説明し、これによりイギリスからの干渉の可能性は大幅に減じた[16]。ロシアはフランスと結び、日本が清国に対し、過剰な要求を突きつけた場合には共同で干渉することを協議していた[16]。ドイツはイギリスに共同で干渉することを提案したが、このようないきさつでイギリスはこの申し出を断っている[16]。ドイツはいきおい、露・仏の側に接近したのであった[16]。李鴻章も恭親王もさかんに諸外国への働きかけをおこなっていたものの、列強のこうした動向をよく把握していなかった[16]。清国側はまず、日清間の休戦を強く望んだ[10][11][12]

日本側は、3月21日の2回目の交渉で、休戦の条件として

  1. 大沽天津山海関の保障占領
  2. 同地の清国軍の武装解除、軍需の引き渡し
  3. 天津・山海関の鉄道を日本軍の支配に委ねること
  4. 休戦中の軍事費はすべて清国が負担すること

を提示した[10][11][12][19]。これについては、さすがの李鴻章も顔面蒼白となって「苛酷、苛酷」と叫び、前日の休戦申し入れを撤回した[10][11][19]。李鴻章としては、すでに日本軍が占領した営口・田荘台の線で停戦し、担保としてそれに若干の地域の保証占領を許すことは考えていたが、日本側の条件は想定外に厳しいものだったのである[19]

日本としては、当面は休戦の必要がないことから、講和条件の方を先議しようと考え、そのため清国にとっては苛酷であることを承知のうえでこのような条件を出したのであった[11]。日本側全権は、休戦なしに講和の話し合いに入ってもよいし、休戦してからでもよいが、後者の場合は上記4条件のみであって他に案はないと述べた[19]。清国側は、それでは講和の案を指し示して欲しいと求めると、清国が休戦提案を撤回しない限り講和の案は出せないと応答し、そして、いったん撤回したならば休戦について再び話し合うことはできないと付言した[19]。李鴻章は、「日本側がもし両国の和平を真に望むなら、清国の名誉についても少し配慮してもらいたい」と懇願し、日本側はこれに対し、講和条件先議の件について、清に対し3日間の猶予をあたえた[11][17]

その間、日本側は3月23日に歩兵1個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させ、台湾攻略の前進基地とした[1][3][18]。台湾割譲を講和条件に入れるには、正式交渉開始までの占領が必要であり、台湾島に属する澎湖諸島の占領は、その条件を満たすためのものであった[1]

猶予期間を終えた3月24日の第3回談判に際して、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望むと応答した[19]。その日、日本は小松宮彰仁親王を征清大総督に任じたが、会談自体は早く終わって陸奥と李経方の事務的な打ち合わせがなされるだけとなった[19]。陸奥と李経方は次席全権同士で、李経方は駐日公使を務めた経験があり、日本語も流暢で、陸奥とは以前より面識があったので、李経方のみ残って、李鴻章と随員一行は宿舎に帰ることとなった[19]。随員たちは人力車で帰り、李鴻章は輿に乗っていたが、引接寺までもう少しというところで、輿に乗っていた李鴻章が、講和に反対する一青年によりピストルで近距離から狙撃される事件が起こったのである[3][9][10][11][12][17][19]。この青年は、李鴻章こそ東洋に正義をなさんとする日本の邪魔をする元凶であると考えた自由党の壮士、小山豊太郎(六之助)であった[3][9][10][11][12][17][19]。李鴻章は一命を取り留めたものの、顔面に重傷を負った[9][11]。一報を受けた李経方はすぐに引接寺に戻り、伊藤首相・陸奥外相・内閣書記官長伊東巳代治はすぐに見舞いに行った[19]。李鴻章は、「このようなことは、多少、覚悟して来ましたよ」と語ったといわれている[19]

この事件に対し、当時の日本国民は痛嘆・狼狽し、全国から個人・団体を問わず、電報や郵便で見舞いの意を表し、各種の贈り物を届けた[9]。また、それまで李鴻章に悪口雑言を吐いていた人士も、今日は美辞をならべて功績を賞賛するなどの豹変ぶりを示した[11][17]。清の交渉団の宿には「群衆市をなす」と形容されるほどの人が集まり、日本国民全体が李に同情した[9][17]。日本政府は、陸軍軍医総監石黒忠悳佐藤進の両博士のほか古宇田博士・中浜博士ら名だたる専門医を下関に派遣し、またフランス公使館付の医師、ズバッスも招かれた[19]。明治天皇・昭憲皇后夫妻は、李鴻章見舞いのために侍従武官中村覚を派遣し、とくに皇后は御製の繃帯を届けている。原保太郎山口県知事はその責めを負って知事を辞任し、山口県警察部後藤松吉郎もまた部長職を解任された[19]。天皇による異例の勅語も発せられた[19]。日本側は、あらゆる手段を講じて国際世論からの非難をかわそうと尽力したが、李鴻章もまたしたたかで、自身に起こった不幸を清国にとっての幸福に転換させようと目論んだ[11][19]

この事件により李鴻章が交渉の席を蹴って帰国する怖れがないわけではなかった[19]。講和交渉の使節に危害を加えるような国で交渉継続は無理であるという説明は、世界中の人々を納得せしめるものであり、継戦はもとより可能とはいえ、その場合、世界は日本の戦争を不義の戦いとみるであろうことが予想されたのである[19]。小松宮率いる征清軍が出征すれば、今度は日本国内を防衛する兵士が不在となり、このことは各国公使が本国に報告しているのである[19]。このとき、日本は他国の干渉に最も脆弱な状況にあった[19]。講和使節を戦勝国民が殺害しようとする不祥事に、各国の同情も清国に集まり、必ずや第三国の干渉を招く事態になると判断した陸奥外相は、即座に手を打ち、清にとって有利なはずの停戦を日本側のリーダーシップによっていち速く実現すべきことを伊藤に訴えた[9][11][12][17]。伊藤はこれを受けて、反対する軍部を数日間でまとめ、かなり早い段階で清に伝え、李鴻章狙撃事件のダメージを最小限にとどめることに成功した[9][11][12][17]。とはいえ、日本軍部は無条件停戦に対しては頑強に反対した[19]。伊藤は天皇をも動かして3月27日に勅許を得た。3万のロシア軍が清国の北方に移動するという軍事情報が入り、山県有朋もようやく休戦に同意したのである[19]。また、ダン駐日アメリカ公使も林董外務次官に無条件停戦を助言しており、林はそれを陸奥に報告している[19]

3月28日、日本側は休戦条約の草案を清側に提示したが、「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」などの文面を清側が訂正を求めたのに対して日本側は「日清両帝国政府は盛京省直隷省・山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面に変更して両者が合意に達し、3月30日、休戦定約が締結され、日本は無条件で3週間の休戦に応じた[1][3][10][11][12][17]

講和条約の締結[編集]

4月1日、講和条約の草案を日本側が提示した[4][12]。日本側が清国に示した条件とは、

  1. 清国は朝鮮の独立を承認すること
  2. 遼東半島および台湾、澎湖諸島の割譲
  3. 清国通貨である庫平銀3億両(テール)の戦費賠償
  4. 列強なみの最恵国待遇、通商特権の拡張

などであった[12]。これは、日本国内における陸軍の要求と海軍の要求を盛り込んだものであると同時に産業革命を迎えた日本資本主義の要求でもあった[12]

4月5日、清側は草案について以下のような修正を望んだ。

  1. 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるという形に訂正すること
  2. 割譲地は全面拒否
  3. 賠償金の大幅な減額
  4. 開港場所の見直し他

であった。

また、このころ、左眼下に被弾して療養中だった李鴻章は、次のような長文の覚え書きを日本全権に送っている[12]

領土割譲は清国民に復讐心を植えつけ、日本を久遠の仇敵とみなすだろう。日本は開戦にあたり、朝鮮の独立を図り、清国の土地をむさぼるものではない、と内外に宣言したではないか。その初志を失っていないならば、日清間に友好・援助の条約を結び、東アジアの長城を築き、ヨーロッパ列強からあなどられないようにすべきである[12]

この覚え書きを読んだ陸奥宗光は、「実に筆意精到」「一篇の好文辞」と記しており、日清友好と東洋平和の理想を掲げた堂々たる文章であったが、もはや日本政府・陸海軍はもとより日本国民も受け容れる余地がなかった[12]4月8日から、負傷した李鴻章に代わって、李経方に欽差全権大臣として清国側の回答を促した[12][20]

4月9日の清側による訂正案は、1.については前回と同様、2.について、割譲地は奉天省内の安東県寛甸県鳳凰県岫巖州、および澎湖列島に止め、台湾を除くこと、3.の賠償金は、無利子の1億両とすることなどが提示された[12][20]

4月10日、日本側の陸奥全権は、

  1. 朝鮮については訂正を許さず
  2. 台湾は絶対の条件だということ
  3. 賠償金は2億両に減額
  4. 新規開港の数は減らす

などの訂正案を提示し、償金を5カ年賦を7カ年賦に緩めることとして、これについて受諾するか否かのみを問うた[12][20]。清側は、2.については、台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可、また、奉天省についても営口を除くこと、3.については、さらなる賠償金の減額を求めた。4月11日、清側は重ねて、2.台湾の除外と3.賠償金の更なる減額を求めたが、日本側はこれを退けた[20]

調印の様子。向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権

4月15日の第6回談判で割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整がなされて最終妥結案がまとまり、4月17日午前、日清講和条約(下関条約)が結ばれた[1][3][4][12][20]。同日の午後には李鴻章ら清国使節団は帰国していった[1][12][20]

条約の批准[編集]

1895年4月20日明治天皇の裁可を経て、伊東巳代治内閣書記官長が全権大臣として清国の外交都市である芝罘(現、山東省煙台市)に向かった[1][4][12][20]5月8日、予定通り批准書の交換がなされ、講和条約が発効した[1][4][20]

条約の概要[編集]

調印者[編集]

主な条約内容[編集]

1895年4月17日に調印された日清講和条約

主な条約内容は以下のとおり[1][3][4][10][11][18][14]

  • 清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)
  • 清国は遼東半島台湾澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
  • 清国は賠償金2億テールを日本に支払う。(第四条)
  • 割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)
  • 清国は沙市重慶蘇州杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)
  • 日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)
  • 清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)
  • 清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)
  • 条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)
  • 条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)

賠償金のテール(両)は、1テール=倉平銀37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。2億テールは3億円に相当した[3]。なお、日本側は条約実施の担保として威海衛を保障占領することが認められた[10]

これらを決めて、1896年、清は日本との間に新しい通商条約、日清通商航海条約(日本側全権は林董、清側全権は張蔭桓)を改めて結んだ[9]

影響[編集]

1895年11月8日、三国干渉の結果、遼東還付条約に調印

伊藤博文全権が起草・調印したこの条約によって清国は弱体化し、その後日本も日露戦争終結までは強い干渉策を打ち出すことができなかったため、李氏朝鮮冊封体制から離脱することができた。一方、日本の遼東半島領有は特にロシア帝国の警戒するところとなり、ロシア・ドイツフランスによる三国干渉が起こった。これにより遼東半島を返還することになり遼東還付条約が結ばれた。開港開市の規定などについて、欧米列強は最恵国待遇を得ていたので日本と同じ恩恵を受けることができた。

賠償金2億両は、その後の遼東半島還付金の3000万両(111.9万kg)を上乗せして合計857.9万kg(現在価値(2011.4 日中銀取引相場価格)で銀1kgが12万円程度なので、2011年4月の相場では1兆294億円前後に相当する。当時の金額では日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後である。)以上の銀を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせた。日本はこれを軍事費にあてたほか、長年の悲願だった金本位制復帰の資金とした。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担となった。

アジアの超大国で「眠れる獅子」と見なされてきた清国が日本に敗北したことにより、西欧諸国はいっそう中国分割に乗り出すようになり、清国はいっそう弱体化した。列強の中国分割により、各地に租借地が設定された[21]。これは開港場における租界とともに、国内に国があるようなものであって、中国の行政にとって大きな障害となったが、同時に新文化の紹介普及の効果にも顕著なものがあった[21]。また、製造業営業権は、イギリスなど欧米各国に巨大な利益をもたらしたのであった[14]

関連する史跡・遺構[編集]

春帆楼に併設されている日清講和記念館

1937年昭和12年)、日清講和記念館が下関市春帆楼の敷地内に設置された。館内には講和会議の様子が再現されている。

現在、交渉場所であった春帆楼と清国使節一行の宿舎であった引接寺を結ぶ道路は、「李鴻章道」と通称されている。

なお、伊藤博文の神奈川県大磯町の別荘「滄浪閣」(1896年5月竣工)の扁額は李鴻章が揮毫したものであった。滄浪閣はのちに伊藤の本宅となるが、その扁額は長く伊藤家の玄関に飾られた[12]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「赤間関」は「赤馬関」とも表記され、江戸時代漢学者がこれを漢風に縮めて「馬関」としたもの。
  2. ^ 明治時代に作られた「鉄道唱歌」の第二集(山陽九州編)でも、「世界にその名いと高き 馬關條約結びたる 春帆樓の跡とひて 昔しのぶもおもしろや」との歌詞で紹介されている。
  3. ^ 条約調印後に「馬関」(赤間関市)が「下関」(下関市)になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」の名称は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは、第二次世界大戦後になってからのことである。
  4. ^ 伊藤首相と同様の観測は民間にもあり、たとえば1895年1月12日の『東京経済雑誌』では、北京の紫禁城が陥落しても、清の皇帝は降伏せず、退去して抗戦するケースを想定している[7]。また、同誌では、当時の日本国民が開戦時に高唱した「義戦」もまた、東洋にあっては聞こえがよいものであっても実は虚飾にすぎず、ヨーロッパ列強はただ利のみを図っているのであり、それゆえ介入の心配は常にせねばならないのであり、日本国内における、義のために国富と人命を消耗することを良しとする考えは愚かであることも指摘している[8]
  5. ^ 海軍部内には台湾全島を望んだ上で、遼東半島は朝鮮に任せてもよいという意見があった。陸軍では遼東半島のほか山東半島の領有を望む声もあった。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 猪木正道『軍国日本の興亡』中央公論社中公新書〉、1995年3月。ISBN 4-12-101232-1
  • 海野福寿『集英社版 日本の歴史18 日清・日露戦争』集英社、1992年11月。ISBN 4-08-195018-0
  • 加藤祐三「8 日本開国とアジア太平洋」『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論社、1998年10月。ISBN 4-12-403425-3
  • 小島晋治丸山松幸『中国近現代史』岩波書店岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8
  • 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社、2002年8月。ISBN 4-06-268921-9
  • 隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論社〈中公バックス〉、1971年9月。
  • 陳舜臣『中国の歴史14 中華の躍進』平凡社、1983年4月。ISBN 4582487149
  • 並木頼寿「第6章 動揺する中華帝国」『中国史』尾形勇岸本美緒山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年6月。ISBN 978-4-634-41330-6
  • 原田敬一『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年2月。ISBN 4582487149
  • 御厨貴『日本の近代3 明治国家の完成1890-1905』中央公論新社、2001年5月。ISBN 4-12-490103-8
  • 宮崎市定『中国史 下』岩波書店〈岩波全書〉、1978年6月。
  • 陸奥宗光中塚明校注)『新版 蹇々録』岩波書店〈岩波文庫〉、1983年7月。ISBN 4-00-331141-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]