摂政

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摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。

摂政旗

現在の摂政[編集]

日本国憲法第四条第二項
天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
同第五条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
皇室典範第十六条  
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く

1947年昭和22年)施行の日本国憲法新皇室典範でも摂政の制度が定められた。日本国憲法の定めるところでは、摂政は、天皇の名でその国事行為を行う職であり、国事行為に関する権限は天皇と全く同等である。天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故[1]といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時に置かれる。

摂政に似たものとして、国事行為臨時代行が挙げられる。天皇に一時的な入院や海外訪問など疾患又は事故がある場合に、内閣の助言と承認に基づいた天皇の委任(国事行為臨時代行への勅書の伝達)によって、故障の無い成年皇族による国事行為の臨時代行が行われる。

国事行為臨時代行が天皇の委任によって設置される委任代理機関であるのに対し、摂政は法律上の原因(天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時)の発生により当然に設置される法定代理機関である。

日本国憲法下で、現在まで摂政が置かれた事例は無い。

摂政は、成年に達した皇族が以下の順序で就任する。

  1. 皇太子皇太孫
  2. 親王及び
  3. 皇后
  4. 皇太后
  5. 太皇太后
  6. 内親王及び女王

親王及び王あるいは内親王及び女王の就任順序はそれぞれ皇位継承の順序に準拠する。

女性皇族でも就任可能な点は、皇位継承資格との違いである。 但し、旧皇室典範では「皇族女子ノ摂政ニ任スルハ其ノ配偶アラサル者ニ限ル」(同23条)とされ、皇族女子(内親王・女王)は結婚後、死別または離婚で夫を失うまで摂政就任資格を凍結されていた。しかし、現在の皇室典範ではこのような制限は無い。

また、摂政又は摂政となる順序にあたる者が、重患あるいは重大な事故といった故障があるときは、皇室会議の議決により、上の順序に沿って摂政又は摂政となる順序を変えることができる。

さらに、先順位にあたっていた皇族が成年に達したり、あるいは故障がなくなったとしても、それが皇太子(皇太孫)に対する場合を除いては、摂政の任を譲ることがない。

天皇が成年に達した場合、故障が解消された場合は摂政は廃される。

現在の摂政就任順位[編集]

順位 名・身位 生年 備考 皇位継承順位
1 皇太子徳仁親王 1960年(昭和35年) 皇室典範17条1項1号
「皇太子又は皇太孫」
1
2 秋篠宮文仁親王 1965年(昭和40年) 皇室典範17条1項2号
「親王及び王」
2
3 常陸宮正仁親王 1935年(昭和10年) 4
4 皇后美智子 1934年(昭和9年) 皇室典範17条1項3号
「皇后」
5 眞子内親王 1991年(平成3年) 皇室典範17条1項6号
「内親王及び女王」
6 佳子内親王 1994年(平成6年)
7 彬子女王 1981年(昭和56年)
8 瑶子女王 1983年(昭和58年)
9 承子女王 1986年(昭和61年)
10 絢子女王 1990年(平成2年)
  • この他の皇族として悠仁親王2006年〈平成18年〉生、皇位継承順位第3位)、愛子内親王2001年〈平成13年〉生)がいるが、2016年12月5日現在ではいずれも成年に達していないため、未だ摂政就任資格はない[2]

歴代摂政一覧[編集]

氏名 天皇 天皇と
の続柄
補任理由 補任日 期間 解任理由
1 厩戸皇子 推古 皇太子 女性天皇 593年5月15日 28年12ヵ月 本人薨去
2 中大兄皇子 斉明 皇太子 女性天皇 655年2月14日 6年7ヵ月 天皇崩御
3 草壁皇子 天武 皇太子 681年3月19日 4年8ヵ月 天皇崩御
4 藤原良房 清和 外祖父 866年8月19日 6年2ヵ月 本人薨去
5 藤原基経 陽成 外伯父 天皇幼少 876年11月29日 7年4ヵ月 天皇譲位
6 藤原忠平 朱雀 外伯父 天皇幼少 930年9月22日 11年3ヵ月 関白就任
7 藤原実頼 円融 大伯父 天皇幼少 969年8月13日 0年十10ヵ月 本人薨去
8 藤原伊尹 円融 外伯父 天皇幼少 970年5月20日 2年6ヵ月 疾病
9 藤原兼家 一条 外祖父 天皇幼少 986年6月23日 4年  関白就任
10 藤原道隆 一条 外伯父・岳父 天皇幼少(1) 990年5月5日 3年 関白就任
11 藤原道長 後一条 外祖父 天皇幼少 1016年1月29日 1年3ヵ月
12 藤原頼通 後一条 外叔父 天皇幼少 1017年3月16日 2年10ヵ月 関白就任
13 藤原師実 堀河 義外祖父 天皇幼少 1086年11月26日 4年2ヵ月 関白就任
14 藤原忠実 鳥羽 天皇幼少 1107年7月19日 6年6ヵ月 関白就任
15 藤原忠通 崇徳 天皇幼少 1123年1月28日 6年7ヵ月 関白就任
16 藤原忠通 近衛 義岳父 天皇幼少 1141年12月7日 9年1ヶ月 関白就任
17 近衛基実 六条 義外伯父 天皇幼少 1165年6月25日 1年2ヶ月 本人薨去
18 松殿基房 六条 義外叔父 天皇幼少 1166年8月24日 1年9ヶ月 天皇譲位
高倉 天皇幼少 4年11ヶ月 関白就任
19 近衛基通 安徳 天皇幼少 1180年2月21日 3年7ヶ月 天皇遷幸
後鳥羽 天皇幼少 0年5ヶ月
20 松殿師家 後鳥羽 天皇幼少 1183年11月21日 0年3ヶ月
21 近衛基通 後鳥羽 天皇幼少 1184年1月22日 2年3ヶ月
22 九条兼実 後鳥羽 岳父 天皇幼少 1186年3月12日 5年10ヵ月 関白就任
23 近衛基通 土御門 天皇幼少 1198年1月11日 5年 
24 九条良経 土御門 天皇幼少 1202年12月25日 3年4ヵ月 本人薨去
25 近衛家実 土御門 天皇幼少 1206年3月10日 0年十10ヵ月 関白就任
26 九条道家 仲恭 義叔父 天皇幼少 1221年4月20日 0年4ヵ月 天皇退位
27 近衛家実 後堀河 岳父 天皇幼少 1221年7月8日 2年6ヵ月 関白就任
28 九条教実 四条 外叔父 天皇幼少 1232年10月4日 2年6ヵ月 本人薨去
29 九条道家 四条 外祖父 天皇幼少 1235年3月28日 2年1ヶ月
30 近衛兼経 四条 外叔父 天皇幼少 1237年3月10日 4年11ヶ月 天皇崩御
31 一条実経 後深草 天皇幼少 1246年1月28日 1年1ヶ月
32 近衛兼経 後深草 天皇幼少 1247年1月19日 5年10ヵ月
33 鷹司兼平 後深草 天皇幼少 1252年10月3日 2年3ヵ月 関白就任
34 九条忠家 後宇多 天皇幼少 1274年1月26日 0年6ヵ月
35 一条家経 後宇多 天皇幼少 1274年6月20日 1年5ヵ月
36 鷹司兼平 後宇多 天皇幼少 1275年10月21日 3年4ヵ月 関白就任
37 鷹司兼忠 後伏見 天皇幼少 1298年7月22日 0年6ヵ月
38 二条兼基 後伏見 天皇幼少 1298年12月20日 2年1ヶ月 関白就任
39 九条師教 花園 天皇幼少 1308年8月26日 0年5ヶ月
40 鷹司冬平 花園 天皇幼少 1308年11月10日 2年5ヶ月 関白就任
41 二条良基 後小松 天皇幼少 1382年4月11日 4年11ヶ月 辞退
42 近衛兼嗣 後小松 天皇幼少 1387年2月7日 1年2ヶ月 本人薨去
43 二条良基 後小松 天皇幼少 1388年4月8日 0年3ヶ月 関白就任
44 二条持基 後花園 天皇幼少 1428年7月28日 4年2ヶ月
45 一条兼良 後花園 天皇幼少 1432年8月13日 0年3ヶ月
46 二条持基 後花園 天皇幼少 1432年10年26日 0年6ヶ月 関白就任
47 一条兼遐 明正 叔父 天皇幼少・女性 1629年11月8日 5年11ヶ月 辞退
48 二条康道 明正 義叔父 天皇幼少 1635年10月10日 8年1ヶ月 天皇譲位
後光明 義叔父 天皇幼少(1) 3年4ヶ月
49 九条道房 後光明 天皇幼少(1) 1647年1月5日 0年1ヶ月 疾病
50 一条昭良 後光明 天皇幼少(1) 1647年3月28日 0年5ヶ月 関白就任
51 二条光平 霊元 従兄・義兄 天皇幼少(1) 1663年1月26日 1年10ヵ月 辞退
52 鷹司房輔 霊元 天皇幼少(1) 1664年9月27日 3年7ヵ月 関白就任
53 一条冬経 東山 天皇幼少(1) 1687年3月21日 2年1ヶ月 関白就任
54 近衛家煕 中御門 義叔父 天皇幼少(1) 1709年6月21日 3年3ヶ月 辞退
55 九条輔実 中御門 天皇幼少 1712年8月28日 4年4ヶ月 関白就任
56 一条道香 桃園 義兄 天皇幼少(1) 1747年5月2日 7年10ヵ月 関白就任
57 近衛内前 後桜町 女性天皇 1762年7月27日 8年5ヵ月 天皇譲位
後桃園 岳父 天皇幼少(1) 1年10ヵ月 関白就任
58 九条尚実 光格 天皇幼少 1779年11月25日 5年4ヵ月 関白就任
59 二条斉敬 明治 天皇幼少 1867年1月9日 1年 摂関廃止
60 裕仁親王 大正 皇太子 天皇疾病 1921年11月25日 5年2ヵ月 天皇崩御

[3]

(1) 天皇の元服後に補任

歴史[編集]

前近代[編集]

一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、これが日本史上における摂政の最初である。『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。

以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。しかし、866年藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、天皇外戚となった藤原氏藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。ただし、良房が摂政に就任したときには清和天皇は既に成人した後のことであり、幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。

ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。摂政は幼い天皇に代わって政務を摂する(代理する)とともに、当時において天皇の主要な大権であった官奏を覧ずることと除目叙位を行うことを執り行った。なお、関白は成人に達した天皇の補佐をする役割であり、天皇代行としての摂政とは性格が異なっている。

藤原氏の下で摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と考えられてきたが、寛和2年(986年藤原兼家の時に職事官である右大臣を辞任して摂政のみを占める散官になった。この時、摂政の待遇に関して明法勘文明経勘文が出された。

前者においては、

一、三公(太政大臣両大臣)は太政官の長官であるが、摂政は職事官ではない。
二、律令では官人の序列は官位に従うとされ、原則は一位が筆頭となるが、職事官が散官よりも優先されるため、一位の散官中納言の次、参議の上に相当する。
三、ただし兼家は既に三公の待遇を上回る准三宮の待遇を受けており、三公より上位の席次が認められる。そうで無いとしても摂政任命のに「万機の勤」を命じているため、詔勅がその待遇を定めればこれに従う。

とし、後者においては、摂政は三公とは別格で一般公卿と同列にすべきではない(従って、宮中に置いては三公より上位とすべきである)と論じた。

11世紀藤原道長の頃からは建武の新政期を除き、摂政もしくは関白は常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。

鎌倉時代以降、藤原北家御堂流近衛家一条家鷹司家九条家二条家五摂家に分かれ、代々そのうち最も官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀次の1名である。(秀吉は近衛家猶子、藤氏長者、藤原秀吉として関白になる。)ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。

明治維新以前の摂政は、詔書の代筆、叙位・任官の施行など、天皇の行う政務のほとんど全てを代行し、その権限はほとんど天皇とかわりなかった。

1868年王政復古により摂政二条斉敬を罷免。摂政職は関白職、征夷大将軍職ともども廃止され、満15歳の明治天皇が親裁する建前となった。

近現代[編集]

1889年明治22年)、大日本帝国憲法および旧皇室典範公布により、天皇が成年に達しないときや、久きにわたる故障により執政を行うことができないとき、摂政が置かれる皇族摂政の制度が定められた。摂政は天皇とほぼ同等の権限を有したが、大日本帝国憲法75条の規定により憲法改正と皇室典範の増補(改正)に関する権限は無かった(日本国憲法にはこのような規定はない)。旧典範下では皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)が1921年大正10年)11月25日より、1926年大正15年)12月25日の大正天皇崩御とそれに伴う自らの皇位践祚まで摂政を務めた。この間、摂政宮(せっしょうのみや)と称された。

摂政の辞令[編集]

藤原忠實 摂政宣命 (朝野群載 十二 宣命)
太上天皇久、關白右大臣藤原朝臣波、輔導年久之弖、爲朝重臣利、見其誠心仁、幼主寄託之都倍志、然則皇太子、天日嗣承傳賜比天、未親萬機之間、保輔幼主天、攝行政事世牟古止、一如忠仁公故事世與止詔御命衆聞食
嘉承二年七月十九日
(訓読文) 太上法皇(白河法皇 55歳)の詔(のりたまひつら)く、関白右大臣藤原朝臣(忠実 30歳)は、輔(あなな)ひ導くこと年久しくして、朝(みかど。朝廷のこと)の重臣たり、其の誠の心を見るに、幼主(鳥羽天皇 5歳)を寄託しつべし、然らば則(すなは)ち皇太子(ひつぎのみこ。宗仁親王。のちの鳥羽天皇)、天つ日嗣(ひつぎ)を承(う)け伝へ賜ひて、未だ万機を親(み)ざるの間、幼主を保(やすんじ)輔(あなな)ひて、政事(まつりごと)を摂(と)り行なひせむこと、一(もは)ら忠仁公(藤原良房)の故事の如くせよと詔御命(のりたまふおほみこと)を衆聞食(もろもろきこしめせ)と宣(の)る、嘉承二年(1107年)七月十九日

他地域の摂政[編集]

琉球の摂政[編集]

中国の摂政[編集]

中国では皇帝が執務不能である場合に皇族が監国として政務を主宰する例がある。監国には主として皇太子が就くが、では皇帝の叔父(ドルゴン)や実父(醇親王載灃)が摂政や監国として政務を執った例がある。モンゴル帝国ではクリルタイによって皇帝(大ハーン)が選出されるため、皇帝崩御すると、監国が新帝選出のためのクリルタイ召集・開催中までの政務を執った(第5代皇帝クビライによって建てられた大元ウルスにおいて皇太子制が定着していくと、監国が置かれるケースは少なくなっていった)。

また歴代王朝を通じて皇太后垂簾聴政を行う場合もある。

チベットの摂政[編集]

チベットにおいては、チベット仏教の最高指導者と政治上の最高指導者を兼ねるダライ・ラマ法王)は、死去した後も転生によってこの世に生まれ変わり続けると信じられていた。ダライ・ラマが逝去した際にはチベット仏教の高僧の中から摂政が任命され、転生者の捜索の責任を負うとともに、新ダライ・ラマが成人するまでの間の政治の全権を掌握した。現在のダライ・ラマであるテンジン・ギャツォ(ダライ・ラマ14世)の場合にも、即位の1940年から中国人民解放軍のチベット侵攻後の1950年までの間は摂政(初期はレティン・リンポチェ(en)、後半にはタクバ・リンポチェ)が置かれていた。

西洋の摂政[編集]

古代ギリシアではマケドニア王国において時折摂政が置かれ、しばしば摂政による君主の殺害や簒奪が起こった(アエロポス2世によるオレステスの殺害、ピリッポス2世によるアミュンタス4世の廃位)。アケメネス朝ペルシアを征服して大帝国を築いたマケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の死後(紀元前323年)、王位は生まれたばかりの遺児アレクサンドロス4世と、大王の異母兄弟で知的障害者のピリッポス3世が共同で継承することになった。当然のことながら彼らに統治能力はなく、摂政が置かれることになった。

当初は有力貴族ペルディッカスが摂政に就任したが、彼に不満を持つ諸将は彼を滅ぼして重臣アンティパトロスが摂政に就任した(紀元前321年)。しかし、アンティパトロスの死後(紀元前319年)、息子のカッサンドロスとアンティパトロスから地位を譲られた老将ポリュペルコンとが摂政の地位を争い、ポリュペルコンを懐柔したカッサンドロスによってアレクサンドロス4世は殺害され、大王の血統は断絶した(紀元前309年)。

東ローマ帝国では、聖職者の長であるコンスタンティノポリス総主教が摂政役を務めたこともある。

スペイン・ブルボン朝では1885年アルフォンソ12世が急逝し、翌年(1886年)に誕生したアルフォンソ13世が王位に就くが、成人して1902年親政を開始するまで母親のマリア・クリスティーナが摂政を務めた[4]

また、戦間期のハンガリー王国におけるホルティ・ミクローシュや20世紀中葉のスペインにおけるフランシスコ・フランコのように、君主が不在のまま摂政のみが置かれることもある。

ハワイ王国の摂政[編集]

ハワイ王国では摂政にあたる要職としてクヒナ・ヌイkuhina nui)がある[5]カメハメハ1世カメハメハ2世へ王位継承する際、その執政能力に不安を感じたことから新設された地位で、初代クヒナ・ヌイとしてカメハメハ1世の妻カアフマヌが担当した[5]。1832年にカアフマヌが他界すると、カメハメハ1世の娘であったキナウがクヒナ・ヌイに就任し、以降、クヒナ・ヌイはカメハメハ王朝の指導的役割を果たす役割として定着した[5][6]

アラブ圏の摂政[編集]

イラク王国では1939年ファイサル2世が3歳で即位したために、母方叔父のアブドゥル=イラーフが摂政を務め、1953年にファイサル2世が親政を始めると皇太叔父となる。

また、イラク王国と同じハーシム家ヨルダンにおいても、反英傾向の強いタラール1世の即位が懸念されて弟のナイーフが摂政となるが、結局タラールは廃位となった。

脚注[編集]

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  1. ^ 衆議院内閣委員会 昭和54年4月11日で「重大な事故」の例として宮内庁次長は「失踪」「生死不明」「戦時中の捕虜」などをあげている。
  2. ^ 皇室典範17条1項柱書
  3. ^ 摂政設置事例一覧表
  4. ^ 「第1部 現代スペインの形成と危機―1875〜1939年」(『スペイン現代史 模索と挑戦の120年』楠貞義/〔ほか 大修館書店1996年6月
  5. ^ a b c 中嶋p.30
  6. ^ 中嶋p.37

参考文献[編集]

  • 中嶋弓子 『ハワイ・さまよえる楽園』 東京書籍、1993年ISBN 4-487-75396-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]