一条天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
一条天皇
一条天皇像(真正極楽寺蔵)

元号 寛和
永延
永祚
正暦
長徳
長保
寛弘
先代 花山天皇
次代 三条天皇

誕生 980年7月15日
東三条第
崩御 1011年7月25日
一条院中殿
陵所 円融寺北陵
懐仁
別称 永延帝
精進覚・妙覚(法名)
父親 円融天皇
母親 藤原詮子
皇后 藤原定子
中宮 藤原彰子
女御 藤原義子
藤原元子
藤原尊子
子女 脩子内親王
敦康親王
媄子内親王
後一条天皇
後朱雀天皇
皇居 一条院・東三条院・枇杷殿
テンプレートを表示

一条天皇(いちじょう てんのう、天元3年6月1日980年7月15日) - 寛弘8年6月22日1011年7月25日))は、平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日986年8月1日) - 寛弘8年6月13日1011年7月16日))。懐仁(やすひと)[1]、落飾後の法名は精進覚。

円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘、梅壺女御詮子。兄弟姉妹がいた形跡はない。

略歴[編集]

永観2年(984年8月27日、従兄にあたる花山天皇の時、皇太子に立てられる。寛和2年(986)6月23日8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った兼家の陰謀と言われる(寛和の変)。皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任した(のちに関白)。

兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させるが、長徳元年(995年)に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で、一帝二后の先例を開いた。

一条天皇の時代は道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し[2]、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。天皇自身、文芸に深い関心を示し、『本朝文粋』などに詩文を残している。音楽にも堪能で、を能くしたという[注釈 1]。また、人柄は温和で好学だったといい、多くの人に慕われた。

また道長が内覧に留まったのは、当時閣議に出られない決まりがあった摂政・関白よりも、内覧を兼ねたまま一上(閣員の首座)として実権を掌握しようとしたためと見られるが、天皇自身も長ずるにつれ曽祖父の醍醐天皇・祖父の村上天皇のような親政を志したとされる[3]。道長も天皇と協調し、これにより、後に大江匡房が『続本朝往生伝』で藤原実資藤原行成等の有能な人材[4]を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した[5]

その一方で、『愚管抄』には天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件がある。似たような話が同時期の『古事談』にも記載され[6]、晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望みながらこれを道長に阻まれたことが『権記』に記されている。このことから、天皇と道長・彰子の関係が決して良好ではなかったと見る説もある[注釈 2]

かねてより譲位の意向を道長に伝えていたが、慰留されるうちに寛弘8年(1011年)5月末頃には病が重くなり[7]、同年6月13日に皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位する。19日出家するが、22日に崩御。

辞世の歌は「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」(御堂関白記[8]。)。ただし「権記」では末句が「事ぞ悲しき」となっている。歌中「君」と呼びかけた相手について、御堂関白記では中宮(記主の娘で立太子された第二皇子敦成親王の母彰子)、権記では皇后(十年以上前に逝った定子への記主の呼称)に向けたものと主張し、対蹠的な着眼である[9][注釈 3]

その死は廷臣にとって一つの時代の終わりを告げる大きなくくり目となった[注釈 4]

系譜[編集]

系図[編集]

 
(60)醍醐天皇
 
(61)朱雀天皇
 
 
広平親王
 
 
 
 
 
 
 
(62)村上天皇
 
 
(63)冷泉天皇
 
(65)花山天皇
 
 
 
 
 
 
 
兼明親王
 
 
致平親王
 
 
(67)三条天皇
 
敦明親王(小一条院)
 
 
 
 
 
 
 
(源)高明
 
 
為平親王
 
 
禎子内親王
(後三条母、陽明門院)
 
 
 
 
 
(64)円融天皇
 
(66)一条天皇
 
(68)後一条天皇
 
 
 
 
 
 
昭平親王
 
 
(69)後朱雀天皇
 
(70)後冷泉天皇
 
 
 
 
 
 
具平親王
 
(源)師房
村上源氏へ〕
 
 
(71)後三条天皇
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

諡号・追号・異名[編集]

在位中の里内裏(臨時の皇居)の名称により「一条院」と追号された(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には諡号とは異なる)。崩御後しばらくは「大宮院」とも称されていた(『小右記』)。明治以後、「院」の号は廃止され、「一条天皇」とされる。

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、京都府京都市右京区竜安寺朱山 の龍安寺内にある圓融寺北陵(円融寺北陵、えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

天皇は生前、父円融院の隣に土葬されることを望んだが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、遺骨を円融寺に納めたという[10]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

評価[編集]

  • 「寛仁の君にして、天暦以後の好文の賢皇なり」(藤原行成『権記』)。
  • 「叡哲欽明、広く万事に長(た)けれり。才学文章の詞華、人に過ぎ、絲竹、絃歌、音曲倫(とも)を絶つ」(大江匡房『続本朝往生伝』往生人四十三人の筆頭に列せられ後三条院に続く)
  • 「われ人を得たること延喜・天暦にも超えたりと、御自讃有りける」(『十訓抄』『神皇正統記』『読史余論』他)

作品[編集]

  • 宸記
寛弘年間の日記が「一条天皇御記」として御子後朱雀天皇の「長暦御記」とともに中世まで伝存したらしいが、その後散逸して現在は伝わらない。
  • 和歌
『一条院御集』があったらしいが、中世以降に埋もれたようである。『後拾遺集』以下の勅撰集に八首入集。以下の和歌は雪のふりしきる夜であったという皇后定子葬送の夜の御詠。
長保二年十二月に皇后宮うせさせたまひて、葬送の夜、雪の降りて侍りければつかはしける、

「野辺までに心ひとつは通へども わが行幸とは知らずやあるらむ」

— 『後拾遺和歌集』巻第十・哀傷歌、543番
無名草子』にも見える。一睡もせず暁を迎えた当夜の天皇の悲嘆に暮れる有様を、『栄花物語』「鳥部野」の巻は「内には、今宵ぞかしと思しめしやりて、よもすがら御殿籠らず思ほし明かさせたまひて、御袖の氷もところせく思しめして」と描いた(歌のほうは第三句「心ばかりは」、第四句「わが行幸とも」と異文がある)。『宝物集』巻三は末句を「知らずやありけむ」とする。
  • 漢詩
題「書中有往事」

閑就典墳送日程 閑かに典墳に就いて日程を送る
其中往事染心情 其の中の往事心情に染む
百王勝躅開篇見 百王の勝躅篇を開きて見
万代聖賢展巻明 万代の聖賢巻を展けば明らかなり
学得遠追虞帝化 学び得て遠く追う虞帝の化
読来更恥漢文名 読み来て更に恥ず漢文の名
多年稽古属儒墨 多年の稽古儒墨に属す
縁底此時不泰平 底に縁りてか此の時泰平ならざらん

— 『本朝麗藻』巻下・書籍部、「情」を以て韻とす
読み下しは藤田裕司氏論稿より。寛文年間に林家の二代大学頭鵞峰が編んだ日本漢詩選の「本朝一人一首」では皇運の衰えを見て取る評語をつけている。
題「清夜月光多」

偶迎清夜引良朋 偶清夜を迎えて良朋を引く
満月光多空碧澄 満月光多くして空碧澄む
入牖家々添粉黛 牖に入る家々は粉黛を添え
照軒処々混華灯 軒を照らす処々は華灯に混じる
山川一色天涯雪 山川一色天涯の雪
郷国幾程地面氷 郷国幾程ぞ地面の氷
席上英才宜露胆 席上の英才宜しく露胆すべし
由来諷諭附詩能 由来の諷諭は詩能に附く

— 『本朝麗藻』巻上・春部、「澄」を以て韻とす
読み下しは後藤昭雄氏編著のNHKラジオテキスト『漢詩を読む:日本の漢詩(飛鳥~平安)』より。

注釈[編集]

  1. ^ 稽古の御師匠は藤原高遠(『枕草子』)。平安初期以来の帝王が修した管絃について、「一条院までは御笛もすぐれさせ給けり」と『文机談』はいう。なお、七歳の時円融院への朝覲行幸で笛を披露して感涙を誘って以来、皇后定子の死後に人前で笛を吹いた記録はない(下玉利百合子氏指摘)。
  2. ^ 彰子の一条天皇への思いは深いものがあった。崩御した天皇の御事をのみ「恋ひ歎き給ひて、夢にほのかに」見えたので「逢ふことも今はなきねの夢ならで いつかは君をまたは見るべき(『新古今和歌集』哀傷)」を詠んだ。また、幼いゆえ無心な敦成親王の姿を「見るままに露ぞこぼるる おくれにし心も知らぬ撫子の花」と涙ながらにうたった(『後拾遺和歌集』哀傷)。彰子を幼いころから見守ったであろう女官の赤染衛門が参上した際に目に映ったのは「一条院の御ことなとおぼし出でたる」気色であり、朝になって「常よりもまた濡れそひし袂かな 昔をかけて落ちし涙に」という歌を奉ったという(『千載和歌集』哀傷、彰子の返歌は「うつつとも思ひわかれで過ぐるまに 見しよの夢をなに語りけむ」)。『後拾遺和歌集』哀傷巻には、定子の死にまつわる人々の哀傷の和歌群のほか、もうひとつの和歌群をなすのが一条天皇崩御にまつわる人々の思いが凝集した追憶の和歌の数々である。一条天皇葬送・三条天皇践祚の行事が落ち着いた当年10月頃、一条院を通りがかった赤染衛門は、荒廃した後院の様子を「消えにける衛士のたく火の 跡をみて煙となりし君ぞ悲しき」と嘆いた(『後拾遺和歌集』哀傷)。
  3. ^ この時藤原行成の脳裏をよぎったのは、かつて長保2年(1000)12月20日夜、蔵人頭として「参内、御前に候ふ。被仰之事甚だ多し。中心忍び難き者也」と共有した時間の悲痛な記憶であったろうか。長保2年12月27日酉の刻、一条天皇は錫紵を着け、当夜皇后葬送が執り行われた。『日本紀略』は12月15日の夜半すぎに出現した太陰を挟む「歩障雲」の天象とともに、「是歳載記」に「天下心喪服」の語を記す。彰子立后の要請(母后の親書)を巡って執柄道長、母后詮子、内裏、母后の間を一日のうちに東奔西走した「頭の弁」行成は、「永祚中に四人の后がいたことは国の乱れの元」「(定子以下、出家の身にある后は)神国のための神事をおこたる尸位禄餐の臣」としながら、天皇の彰子立后への最終的な同意を得るため帝の面と向かって定子への「殊私の恩あること」そして「正妃」たることを認めている(『権記』長保元年12月7日条、長保2年年頭から2月25日にかけての記録に呼応する)。
  4. ^ 寛弘8年7月14日、『小右記』の記主藤原実資は、故一条院の旧恩に預かる上達部・殿上人数人が連日、円成寺に故院の遺骨を訪ねているといい、「その心を得ず」と距離をとりながらも当日条にその異なることを書き留めた。

脚注[編集]

  1. ^ 中世には「かねひと」という訓も存在した。卜部兼好の先祖卜部兼延が、一条院宸筆によって偏諱の「懐(かね)」と通ずる「兼」の一字を下賜され、以後卜部家の通字となったという話が「尊卑分脉」注記に見える。
  2. ^ 後朱雀天皇以降恒例となった春日大社(藤原氏の氏社)への行幸が初めて行われたのも一条天皇の永延2年(989年3月22日)である。
  3. ^ 『神皇正統記』に「延喜・天暦の昔を思し召しけるにや、関白はやめられき」とあり、末代の英主とみなされた。
  4. ^ 源俊賢藤原公任・同斉信・同行成ら四人の大納言に至った公卿を「一条朝四納言」という。
  5. ^ 「此御代には、さるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までも、すぐれたる人多かりき」(『神皇正統記』)。
  6. ^ そこでは帝自ら書いて手箱に蔵したのは『帝範』「去讒篇」の一節「叢蘭茂らんと欲すれども、秋風之を敗(やぶ)り、王者明ならんと欲すれども、讒人之を蔽(かく)す」である。
  7. ^ 御堂関白記』寛弘8年5月23日条
  8. ^ 譲位出家の奉仕を喜んでくれた一条天皇の死に際し、伺候を望む数人の公卿に対して新帝への奉仕を優先させるように促したと、道長は『御堂関白記』寛弘8年6月22日条に素っ気無い数行を残した。
  9. ^ 「一条天皇の辞世―あるいは逝ける后妃のためのパヴァーヌ―」 土方洋一, 『日本文学』2009年9月号, 日本文学協会, http://ci.nii.ac.jp/naid/110010027861 
  10. ^ 『小右記』『権記』当年7月の記録参照。「ありし世の恋しきままにふるさとの 花にむかひて音をのみぞ泣く」(『続古今和歌集』哀傷1409番、詞書、「一条院の御事の後、上東門院枇把殿へ出で給ふける日、詠み侍りける、紫式部」)

参考文献[編集]

関連項目[編集]