後光厳天皇

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後光厳天皇
後光厳天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)

即位礼 1354年1月21日文和2年12月27日
大嘗祭 1354年11月30日(文和3年11月16日
元号 観応
文和
延文
康安
貞治
応安
時代 室町時代南北朝時代
関白 二条良基九条経教近衛道嗣→二条良基→鷹司冬通
先代 崇光天皇[注 1]
次代 後円融天皇

誕生 1338年3月23日建武5年3月2日
崩御 1374年3月12日応安7年1月29日
柳原殿
陵所 深草北陵
追号 後光厳院
(後光厳天皇)
弥仁
別称 光融(法名)、延文聖主
元服 1352年9月25日観応3年8月17日
父親 光厳天皇
母親 藤原秀子
子女 緒仁親王(後円融天皇
熙永親王
ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居 土御門東洞院殿
親署 後光厳天皇の親署
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後光厳天皇(ごこうごんてんのう、旧字体: 後光嚴天皇1338年3月23日建武5年3月2日〉- 1374年3月12日応安7年1月29日[1])は、日本北朝第4代天皇[注 2](在位:1352年9月25日観応3年8月17日〉- 1371年4月9日応安4年3月23日〉)[3]。諱は弥仁(いやひと、旧字体:彌仁)。

光厳天皇の第二皇子、もしくは第三皇子。母は正親町三条公秀の女の正親町三条秀子(陽禄門院)。

正平一統で北朝が一時的に消滅した後、急遽三種の神器太上天皇も無くして践祚。在位中には南朝に3度も京都を追われた。

生涯[編集]

幼少期[編集]

建武5年(1338年3月2日、光厳上皇の皇子として誕生する。出生直後から持明院統の重臣である日野資名に預けられ、資名の薨去後は、安居院芝の地にて、資名の後室芝禅尼に養育された[4]。二宮、ないし三宮と称された[5][注 3]。光厳上皇は従弟である直仁親王への皇位継承を計画したため、将来的に三宮は妙法院へ入室することとなっていた[6]

践祚と北朝再建[編集]

観応2年(南朝:正平6年、1351年)10月、北朝を擁する足利尊氏が南朝に帰順し、11月7日南朝後村上天皇によって兄崇光天皇廃位され、父光厳上皇の院政が停止された。(正平一統)。しかし、翌正平7年(1352年)には南朝が京を軍事的に制圧して足利義詮を追い、正平一統は破綻。北朝は京都を奪還するものの、南朝方は撤退する際に、北朝の光厳上皇(父)・光明上皇(叔父)・崇光上皇(兄)・直仁親王(兄)を賀名生へ拉致した。この際南朝による三宮の捜索も行われていたが[7]、三宮は正親町忠季に伴われて出奔しており難を逃れた[8]

三上皇の拉致により、京都では全ての朝儀が停止し、院宣を発する治天の君も無い状態であった。その有様は「ただ戎狄の国のごとし」「蛮夷の国たるか」と嘆かれるほどであった[9]。6月3日、足利義詮の意を受けた佐々木道誉勧修寺経顕に、三宮の践祚と、三宮の祖母である広義門院の執政を申し入れた[10]。広義門院は、義詮が三上皇と廃太子を南朝に渡したことで恨みに思い要請を蹴ったが[11]、幕府の度重なる説得で渋々引き受けた[12]。6月27日、広義門院は、官位や元号を正平一統以前に戻す[13]

三宮の践祚方法に関しては様々な議論が行われ、花山天皇出家の際の先例をもとに賀名生にいる上皇の「如在の儀」として譲国詔を作成するという意見もあったが、洞院公賢が先例として相応しくないとして退けた[14]。結局、廷臣に擁立されて即位した古代の継体天皇の先例、および西漢孝文皇帝の故実を引照することになり、観応3年(1352年)8月17日、三宮は15歳で践祚した(後光厳天皇)[15]。践祚の直前に行われた元服にて、三宮の諱は「弥仁」と定まる[16]三種の神器は正平一統の際に南朝に渡してしまったため揃わなかった。しかし、神鏡の入っていた朱色唐櫃が、光厳らが初め幽閉されていた石清水八幡宮に取り残されており、これを若宮八幡宮社に移したあとに取り寄せ、神鏡の代用とした(『小槻匡遠宿禰記』)[17]。神器無しで即位した後光厳はこれ以後、不完全な天皇というコンプレックスがつきまとった[18]。神器無しでの践祚に不安を隠せない新帝に対し関白である二条良基は、「天照太神を鏡に、足利尊氏を剣に、不肖良基を璽と思し召せ」と進言したと伝えられている[19]

践祚直後に後光厳は、和歌の修練を開始し[20]、文和元年(1352年)11月15日には、読書始が執り行われたのと同日に[21]尊円法親王から『入木抄』を進ぜられている[22]

治世[編集]

広義門院には男性の治天の君のような指導力を望めず、後見となる父院・兄院も南朝に幽閉されているため、雑訴を始めとする北朝の政務は停滞し、形式的に後光厳が親政を始めるにも2年を要した[23]。さらに、再建された北朝は、正平一統以前の北朝とは比較にならないほど財政難・人材難にあえいだ[24]洞院公賢は「政道と云ひ、公務と云ひ、執行するに人無し、天下滅亡、天を尤めず、人を怨まず」と嘆いている[23]

文和2年(1353年)夏、南朝軍は京都に迫り、6月13日、南朝軍に大敗した足利義詮に伴われて後光厳は美濃国小島に行幸した[25]。この際供奉したのは西園寺実俊万里小路仲房鷲尾隆右日野時光らだけであったが[26]、後に良基と近衛道嗣も駆けつけた[27]。南朝は後光厳を「偽主」「偽朝」と呼んで後光厳践祚に出仕者と後光厳の供奉者を処罰したが[28]、一方の後光厳も、供奉しなかった廷臣の所領を没収している[29]。この間の活動としては、駆けつけた良基に「これまで参りぬる上は、床をならべし契り、さらにかはり侍らじ」と言って関白職を安堵したり[27]、7月20日には伊勢神宮に宸翰の願文を奉納したりしている[30]。7月26日に義詮が京都を奪還し、9月21日に御所に還幸した[31]

帰京後の10月28日に鬼間議定を始め、12月27日に即位礼を挙行し、翌文和3年(1354年)11月16日に大嘗祭を挙行する[32]。同年12月にまたもや南朝軍が京都に迫り、24日に後光厳は義詮に伴われて近江国武佐寺に逃れたが、翌文和4年(1355年)3月28日に御所に還幸した[33]

延文元年(1356年)6月11日、18番目の勅撰和歌集にあたる『新千載和歌集』の撰進を二条為定に命じた[34]。足利尊氏の執奏であり、武家執奏による下命は史上初のことであった[34]。延文2年(1357年)2月に、光厳法皇・崇光上皇・直仁親王が帰京したが、とりわけ光厳法皇は後光厳と頗る不仲であり[35]、法皇は『新千載和歌集』の企画に強い不快の意を示し、入集を拒否した[36]。この不仲の背景には、後光厳が持明院統の伝統歌風である京極派から二条派に鞍替えしたことや、同じく持明院統の伝統である琵琶の修得を避けてを修得したことが指摘されている[37]。法皇らの帰京により、更に後光厳の正統性は動揺することになり、室町幕府は自己の正当性を保つために直接朝廷に介入してでもその権威の維持・上昇を図る必要が生じ[注 4]、後の幕府による王朝権力の吸収の遠因となる[39]。同年閏7月11日、『菟玖波集』を史上初の准勅撰連歌集とする。これは尊氏の執奏であったが、佐々木道誉の働きであったという[40]。同年12月にまたもや南朝軍が迫ったことで近江国に逃れたが[41]、翌年2月10日には帰京した[42]。なお、帰京以前の1月17日にも、伊勢神宮に願文を納め天下泰平を祈願している[43]

貞治年間(1362年 - 1368年)前後、後光厳親政においては「公事再興」の機運が高まり、康安元年(1361年)には15年ぶりとなる最勝講が挙行された[44]。貞治2年(1363年)2月には、在位中二度目の勅撰集『新拾遺和歌集』の編纂が下命され[45]、5月11日には、内裏にて在位初の晴儀蹴鞠が行われた[46]。10月29日には、良基の尽力により、中殿作文が開催される[46]。貞治3年(1364年)12月に春日神木が入洛し、3年にわたって在洛したことで一時北朝の朝儀が停滞してしまったが[47]、貞治5年(1366年)8月に帰座[48]。貞治6年(1367年)3月29日に中殿歌会が行われ、応安元年(1368年)には、「希代の御興善」と評される、後伏見院三十三回忌宮中懺法講が行われた[49]。応安3年(1370年)7月3日に行われた光厳院七回忌の宸筆法華八講も、略儀にせずつつがなく行われた[50]

譲位と皇位継承問題[編集]

持明院統の嫡流は崇光上皇の子孫と定められていたが、後光厳は第二皇子の緒仁(後円融天皇)への譲位を志すようになる。応安3年(1370年)8月に後光厳は、緒仁への譲位を幕府に諮問し、3代将軍足利義満を監督する管領細川頼之が後光厳の判断によるべきと回答[51]。これを受け崇光上皇は、自身の皇子である栄仁親王の立太子を主張するが、結局幕府は方針を変えることは無かった[51]。同年9月18日に、後光厳は良基にも譲位の件を相談し、支持を得た[51]。同月24日に崇光は後光厳に弁明しようと勅使を派遣しようとしたが、勅使を依頼された良基と勧修寺経顕はどちらも固辞した[52]。同年11月9日に、後光厳は密に宸筆の願文を春日・石清水・賀茂・日吉・北野の五社に納めて、譲位及び立太子を祈願している[53]

後光厳と崇光ははじめは仲が良かったと伝わるが、「たちまち御中あしくなりて、近習の臣下も心々に奉公ひきわかる」と、この一件で後光厳と崇光は絶交状態になったという(『椿葉記』)[54]

そして、応安4年(1371年3月23日に、後光厳は緒仁へ譲位して院政を敷く。

失意の崩御[編集]

念願の院政を始めた後光厳は、意欲的に政務に取り組んだ[55]。故柳原資明柳原殿仙洞御所に定め[56]、同年閏3月6日に院庁始、28日には院評定始文殿始を執り行った[57]。同月21日に行われた御幸始は、「威儀厳重、殆ど先規を超過せしむるか、見物の桟敷・立車等、墻壁の如し、雑人群集し、紅塵面に満つ」と称されるほどの盛儀であった[57]

ところが、直後に興福寺内紛を巡る春日神木の入洛があり、廃朝状態となる。応安6年(1373年)7月15日、後光厳は自ら交渉に乗り出し、興福寺側の要求を整理するべく僧綱を召したが、衆徒たちは激しく抵抗してこれを妨害し、対する上皇は何としてでも僧綱を召し出すように厳命した[58]。興福寺側は上皇を支持する公卿を放氏処分とし、前代未聞の摂関経験者・二条良基の放氏を行った。このため上皇は孤立したまま、応安7年(1374年)正月疱瘡に罹り、柳原殿にて[56]29日寅の刻に崩御。宝算37[59]。世間では春日明神の神罰と噂された[60]

政治[編集]

後光厳親政[編集]

後光厳天皇の綸旨(東寺百合文書)

後光厳の父光厳上皇のもとで発達した政治機構は、正平一統を機に破綻し、後光厳天皇はその復興に迫られた。文和4年ごろより後光厳親政は政道興行に本格的に取り組むようになった[61]。院政と同じ性質を持つ政治機構を敷き、議定(院政では院評定)、雑訴沙汰(院政では雑訴評定)、記録所(院政では文殿)を置いた。議定では、神事や遷宮、高麗からの異国牒状などの審議も行われている[62]森茂暁は王朝政権の制度的根幹はなおも維持されたとしている[63]

しかし、光厳院政以上に種々の制約が付きまとった。その制約とは、後光厳天皇の践祚・即位事情、広義門院・光厳法皇・崇光上皇の存在、室町幕府の躍進などである[64]。雑訴沙汰・記録所庭中の式日は減少し[63]、しかも議定は定められた式日には開催されなくなり、出席者も少数であったという[65]

後光厳院政[編集]

後光厳は、14歳の皇子緒仁親王に譲位し、院政を開始した。親政下では勧修寺流が衰退し日野流が栄えたが、院政下でも日野流が活躍した[66]。形式上は、御前評定、雑訴評定、文殿が置かれ、文殿では庭中が開かれた。後光厳院政は春日神木の入洛などの著しい制約を受け、さらに後光厳が若くして崩御したことでわずか3年しか続かなかった。

しかし、後光厳は、応安4年9月に政道興行を審議させるなど、政務の遂行に意欲を見せていた[67]。また、光厳院政下に成立した『暦応雑訴法』を継承した『応安法』を成立させるなどした。

後光厳院政の性質としては、やや小型化しつつも、光厳院政の伝統を受け継ぎ、法制定の上では伏見院政・後伏見院政を継承したものであった[68]。ところがその実態は、文殿の活動はほとんど見られなくなり、国政審議の場である御前評定も殆ど開かれなくなっていたという[69]

人物[編集]

伝後光厳天皇宸翰
  • 好学で、和歌にも秀でた[70]
  • 南北朝時代は天皇や皇族を中心に優れた能書家を輩出した時期であったが、後光厳天皇も能書家であり、その中でも傑出した一人として数えられている[71]
  • 疫病の蔓延に際しては、一字三拝で般若心経を書写するなどしている[72]
  • 父光厳法皇とは不仲であったが、崩御の際後光厳はその死を深く悼み諒闇を行った[73]
  • 兄崇光上皇とは一時絶交状態に陥ったが、関係が絶えたわけではなかった。応安5年(1372年)7月に行われた光厳院の年忌法要では、両者が大光明寺に集い、ともに御影に焼香を捧げた[74]。また、外宮造営にあたって長講堂領へ臨時課税がなされようとしたとき、両者は盛んに書状を取り交わしている[74]

御製[編集]

述懐

  • なほざりに 思ふゆゑかと たちかへり 治まらぬ世を 心にぞとふ[75]
(大意:いい加減に考えていたからだろうか。そのように振り返って、なぜこの世の中が治まっていないのかと、この心に問うのだ。)

祝言

  • 代を治め 民をあはれむ まことあらば 天津日嗣の 末もかぎらじ[76]
(大意:世の中をしっかりと治め、民を憐れむ誠意があるのであれば、皇統に限りはあるまい。)

系譜[編集]

後光厳天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第89代 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 第92代 伏見天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 洞院
 
 
 
 
 
 
 
4. 第93代 後伏見天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 五辻経氏
 
 
 
 
 
 
 
9. 五辻経子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 北朝初代 光厳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 西園寺実兼
 
 
 
 
 
 
 
10. 西園寺公衡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 中院顕子
 
 
 
 
 
 
 
5. 西園寺寧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原光保
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原兼子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 北朝4代 後光厳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 正親町三条公貫
 
 
 
 
 
 
 
12. 正親町三条実躬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 吉田為経
 
 
 
 
 
 
 
6. 正親町三条公秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 聖海高倉天皇皇孫)
 
 
 
 
 
 
 
13. 聖海
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 正親町三条秀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図[編集]

持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮)
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


妃・皇子女[編集]

在位中の元号[編集]

  • 観応 - 3年8月17日(1352年9月25日)践祚、同年9月27日(11月4日)代始により改元
  • 文和 - 5年3月28日(1356年4月29日)兵革により改元
  • 延文 - 6年3月29日(1361年5月4日)改元
  • 康安 - 2年9月23日(1362年10月11日)天変・兵革により改元
  • 貞治 - 7年2月18日(1368年3月7日)疫病・天変により改元
  • 応安 - 4年3月23日(1371年4月9日)譲位

葬礼[編集]

ウィキペディア「泉涌寺」より。
泉涌寺

後光厳は生前、泉涌寺21代の竹岩聖皐に深く帰依しており、崩御直前の出家では竹岩聖皐が戒師を勤めた[56]。入棺も、竹岩聖皐並びに、出家の際に剃手を勤めた安楽光院見月房曇浄による「一向沙汰」によって行われた[56]

葬儀は、竹岩聖皐の主導で泉涌寺にて行われた[77]。慣例に則り、夜中に玉体が運ばれたが、京都の民衆は挙って葬列を見学したという[78]。葬儀には、院庁の職員のほか、治子内親王行助法親王永助法親王覚叡法親王道円法親王堯仁法親王ら各皇子女、日野宣子広橋仲子橘繁子ら後宮の女房らも参加した[78]。泉涌寺で天皇の葬儀が行われるのは鎌倉時代四条天皇以来であり、後光厳天皇の葬儀以降、天皇の葬儀は基本的に泉涌寺で行われることとなった[79]

陵・霊廟[編集]

深草北陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。また、天龍寺(金剛院)・四天王寺高野山泉涌寺雲龍院)・安楽光院などにも分骨されている[77]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 北朝正統の立場を採る歴史書でも、正平一統時の後村上天皇を歴代天皇に加えるものもある(『続史愚抄』など)。
  2. ^ 明治時代まで一般的であった『本朝皇胤紹運録』による天皇代数では、後光厳天皇は99代天皇[2]
  3. ^ 本項では元服までの弥仁を三宮と称す
  4. ^ なお、貞治5年(1366年)12月7日、後光厳は足利義詮の息子である春王に対し、「義満」の名を授けている[38]

出典[編集]

  1. ^ 後光厳天皇』 - コトバンク
  2. ^ 片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年―』(新潮社、2021年)p.197。
  3. ^ "後光厳天皇". 朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年1月13日閲覧
  4. ^ 小川 2020, p. 93.
  5. ^ 図書寮 1947, p. 2.
  6. ^ 新田一郎 『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社学術文庫、2009年) ISBN 978-4062919111、169p
  7. ^ 松永和浩『室町期公武関係と南北朝内乱』(吉川弘文館、2013年)P250
  8. ^ 大日本史料総合データベース、文和元年3月2日(13520030020) 2条」東京大学史料編纂所
  9. ^ 小川 2020, p. 92.
  10. ^ 今谷 2019, p. 158.
  11. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱 新装版』(中公文庫、2005年) ISBN 978-4122044814、302p
  12. ^ 今谷 2019, p. 162.
  13. ^ 今谷 2019, p. 164.
  14. ^ 林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』1975年、p.114。
  15. ^ 林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』1975年、pp.113-114。
  16. ^ 図書寮 1947, p. 5.
  17. ^ 村田正志『南北朝史論』1971、p.71。
  18. ^ 桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』( 講談社学術文庫、2009年) ISBN 978-4062919128、18p
  19. ^ 小川 2020, p. 96.
  20. ^ 小川 2020, p. 97.
  21. ^ 大日本史料総合データベース、文和元年11月15日(13520110150) 1条」東京大学史料編纂所
  22. ^ 大日本史料総合データベース、文和元年11月15日(13520110150) 2条」東京大学史料編纂所
  23. ^ a b 小川 2020, p. 99.
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  25. ^ 大日本史料総合データベース、文和2年6月13日(13530060130) 1条」東京大学史料編纂所
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  30. ^ 大日本史料総合データベース、文和2年7月20日(13530070200) 1条」東京大学史料編纂所
  31. ^ 小川 2020, pp. 103–104.
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

後光厳天皇

1338年3月23日 - 1374年3月12日

日本の皇室
先代
崇光天皇
(興仁)
皇位
北朝4代天皇

1352年9月25日 - 1371年4月9日
観応3年8月17日 - 応安4年3月23日
次代
後円融天皇
(緒仁)