光厳天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
光厳天皇
光厳法皇像(常照皇寺蔵)

元号 元弘
正慶
時代 鎌倉時代南北朝時代
先代 後醍醐天皇
次代 光明天皇

誕生 1313年8月1日正和2年7月9日
一条邸
崩御 1364年8月5日正平19年/貞治3年7月7日
常照皇寺
陵所 山国陵
追号 光厳院
(光厳天皇)
量仁
別称 勝光智(法名)、無範和尚
父親 後伏見天皇
母親 西園寺寧子
子女 光子内親王
興仁親王(崇光天皇
弥仁親王(後光厳天皇
義仁親王
尊朝入道親王
皇居 京都御所
親署 光厳天皇の親署
テンプレートを表示

光厳天皇(こうごんてんのう、1313年8月1日正和2年7月9日〉- 1364年8月5日正平19年7月7日〉)は、日本北朝初代天皇(在位:1331年10月22日元弘元年9月20日〉- 1333年7月7日〈元弘3年5月25日〉)。量仁(かずひと)。

在位期間は鎌倉時代末に後醍醐天皇元弘の乱で配流されてから鎌倉幕府滅亡により復権するまでの間で南北朝時代より前であるが[注 1]、明治時代以降歴代天皇から除外され便宜的に北朝初代天皇とされる。ただし、江戸時代後期の光格天皇まで用いられた[1][2]本朝皇胤紹運録』よる歴代数では第96代天皇とされている[3]

生涯[編集]

持明院統正嫡として[編集]

後伏見上皇と正妃(女御)西園寺寧子の第一子(後伏見天皇の第三皇子)として正和2年7月9日に誕生。8月17日に親王宣下され「量仁」と命名される[4]。記録にある限り、文保3年から正中2年まで(7歳から13歳頃)親族と持明院殿にて同居し周到な帝王教育が施された[5]。後伏見上皇から琵琶、永福門院から和歌、花園上皇から学問を学び、花園からの教育は「誡太子書」を授かるなど特に注目される。

両統迭立[編集]

光厳天皇(量仁親王)が生まれた時代には、鎌倉幕府の裁定で持明院統大覚寺統から交互に天皇を立てていた(両統迭立)。正安3年(1301年)1月、量仁の父の後伏見天皇は大覚寺統の後二条天皇に譲位したが、時に13歳の後伏見にまだ子はなく、皇太子に立ったのは後伏見の弟で5歳の富仁親王(花園天皇)であった。7年後の徳治3年(1308年)8月、後二条が24歳で急死し、花園が即位する。この時点でも後伏見の嫡男の量仁は生まれておらず、また大覚寺統嫡系の邦良親王(後二条皇子)も未だ9歳で病弱でもあった。そこで、後二条の弟で21歳の尊治親王(後醍醐天皇)が中継ぎ的に立太子することとなった。

それから10年後の文保2年(1318年)2月、花園は後醍醐に譲位し、皇太子には19歳に達した邦良が立った。後伏見・花園の父の伏見法皇は倒幕計画の噂があり側近の京極為兼が流罪に処せられたのもそのためとする説があるなど幕府から警戒された人物で、しかも前年に崩じていた。一方、後二条・後醍醐の父の後宇多法皇は健在で大覚寺統の力は強く、この時6歳の量仁親王はようやく邦良の次の皇太子に立てられることとされた。ところが皇太子邦良は8年後の嘉暦元年(1326年)3月に病死し、幕府の裁定で7月24日に量仁が皇太子に立った。わが子の立太子を望む後醍醐は、裁定の無効を主張して譲位しようとしなかった。

即位とその否定[編集]

元弘元年(1331年)8月、倒幕の企てが発覚した後醍醐は南山城笠置山に立て籠もる(元弘の乱)。9月18日幕府の使者が関東申次西園寺公宗に皇太子量仁親王の践祚を申し入れ、9月20日、後鳥羽院を先例とし、後伏見上皇の詔によって19歳の光厳天皇が土御門東洞院殿で践祚した。父の後伏見院は院政を開始し、皇太子には病死した大覚寺統邦良親王の皇子の康仁親王が立てられる。

後醍醐は10月6日に廃され、光厳天皇に剣璽[注 2]を渡した。この際、文治の例に基づき四条隆蔭・三条実継・冷泉定親の3人に剣璽の検知をさせ、宝剣の石突が落ち神璽の触穢や筥の縅緒が切れるなどの神器の破損が判明したが「(神器が少し破損している以外)其の体相違無く、更に破損無し」との回答を得る[6][7]。10月8日、西園寺公宗が後醍醐の本人確認を行った。その際後醍醐は西園寺公宗に一連のことは「天魔の所為」であるから寛大な措置で許してくれるよう幕府への取り次ぎを訴えた。このことについて花園は「歎息すべきことなり」と所感を記す[4][8]。10月13日、光厳天皇は二条富小路内裏に遷幸した。なお、土御門東洞院殿は光厳天皇践祚の場であり、凡そ光厳天皇里内裏はこの二条富小路殿である。10月25日、再び幕府の使者が上洛。後醍醐らの処分について「聖断たるべき(後醍醐天皇以下の処分は後伏見上皇のご判断によるべき)」旨を後伏見上皇に申し入れるが、後伏見は「関東の計らひたるべき(幕府が決定するべき)」旨を伝え[9]、後醍醐は翌年隠岐に流された。

元弘2年、通常通り華やかな正月行事が行われ、3月22日、即位礼を挙行する。5月には皇室伝来の琵琶である玄象・牧馬を弾き、密かに広義門院が聴きに来たという。改元し正慶元年11月13日に大嘗祭を挙行。後伏見と花園は同車して見物し、無事に終了した。花園は「天下の大慶、一流の安堵なり」と寿ぐ[4][10]

元弘3年(1333年)5月、後醍醐の綸旨に応じた足利高氏(尊氏)の軍が京都六波羅探題を襲撃、北条仲時北条時益の両探題は光厳・後伏見・花園・康仁親王を連れて東国に逃れた。しかし道中で野伏に襲われ時益は討死にし、近江国番場宿滋賀県米原市)でも佐々木道誉が差し向けたとも言われる野伏[注 3]に進路を阻まれて仲時と一族432人が天皇らの前で自決。光厳は両上皇とともに捕らえられて、三種の神器や累代の御物を没収された。5月28日、網代輿に乗って持明院殿に帰宅。増鏡によれば、最後まで供奉した者の中には光厳の乳父である日野資名、後に光厳院を支える勧修寺経顕・四条隆蔭などがいた。なお『太平記』では六波羅からの逃避行の際、光厳自身も流れ矢を受け左肘を負傷している。

帰京より1カ月程した6月26日、持明院統の治天であった後伏見上皇が失意のあまり出家し、光厳に文書を出して出家を勧めた。しかし、光厳は「思ひよらぬ」と堅く断り、花園も出家しなかった[12][13]

同じ頃、関東では鎌倉幕府が新田義貞の攻撃をうけて滅亡した。後醍醐は帰京して建武の新政を開始、5月25日に光厳は在位1年半余で廃立され、在位中の元号・補任・女院号などが取り消されてしまった。12月10日、光厳は後醍醐によって「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」として尊号が贈られる[注 4]

復権[編集]

建武新政の失敗はわずかな間に明らかとなっていった。混迷が拡大する中、建武2年(1335年)8月に西園寺公宗による後醍醐打倒の計画が発覚するが、『小槻匡遠記』には公宗が「太上天皇」を奉じて乱を企てたという記述がある。佐藤進一などの研究者は後伏見院ではないかとしているが、家永遵嗣など、光厳院を指したものであるとする研究者も存在している[14][15]。8月2日、光厳の従兄である西園寺公宗が誅殺され、11月22日に花園上皇が出家した。

建武3年(1336年)2月、光厳上皇は新田義貞に敗れて九州に落ち延びていた足利尊氏に新田義貞追討の院宣を与えた。3月14日に伊勢神宮、25日に石清水八幡宮、29日に春日大社へ宸翰の般若心経を奉納(#新田義貞追討の院宣)。2月25日、広義門院出家。4月6日、後伏見法皇が崩御。

2月25日に院宣を得た足利尊氏は盛り返し、5月25日、後醍醐方を破って上洛した。27日、後醍醐天皇は比叡山に避難するにあたって光厳上皇・花園法皇・豊仁親王らにも同行を求めるも、光厳は離脱し足利尊氏と合流した。『太平記』や『皇年代略記』に光厳と足利尊氏合流の経緯が記されている。光厳らは護衛とともに比叡山へと向かうが、光厳は急病と称し法勝寺九重塔の前で輿を止めさせて時間を稼ぐ。そうする間に足利尊氏が攻め入り、光厳を置いて護衛が花園らを連れて先に行くと、光厳を探していた足利尊氏と運良く合流することができたという[16]8月15日、後鳥羽・光厳の先例を用いて、光厳の院宣により弟の豊仁親王(光明天皇)が践祚、光厳は治天の君として院政を開始した。一方、三種の神器を譲与して幽閉された後醍醐は、12月に京都を脱出して大和国吉野に拠り、神器は偽物で光明の即位も無効と主張した。ここに大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)の天皇が並立する南北朝時代が始まった。

吉野に拠った後醍醐は暦応2年(南朝延元4年、1339年)8月に崩じたが、それまでに後醍醐の主だった武将も相次いで戦死しており、南北朝の初期段階で早くも大勢が決した観があった。

治天の君となった光厳は、後嵯峨院以来の院政を継承して法整備を実行。花園法皇監修のもと風雅和歌集を親撰し、持明院統の正嫡が修めてきた琵琶の最秘曲を伝受。天龍寺安国寺利生塔を院宣によって建立し、足利直義と強固な信頼関係を築き積極的に政務を行って北朝天皇家をよく取り仕切る[17]。ただ、二人の天皇が並び立ち互いに相手を偽主と呼ばわる状況で、しかも神器と即位の無効を主張された北朝側の正当性や権威のゆらぎは否めず、暦応3年(1340年)10月、光厳院の弟の亮性法親王門跡として入る妙法院の紅葉の枝を折って咎められた佐々木道誉は、妙法院を焼き討ちにして幕府から流罪に処せられ(もっとも配流地には赴いていない)、光厳自身も土岐頼遠によって乗車中の牛車を射られ挙句放り出されるという狼藉行為を受けた。

正平一統と三上皇拉致[編集]

この間ほとんど逼塞状態にあった南朝方だったが、幕府内の対立が観応の擾乱に発展すると息を吹き返す。

正平6年(1351年)11月、将軍足利尊氏は優位に立つべく南朝の後村上天皇に帰順し、崇光は天皇を廃され、直仁は皇太子を廃されて北朝は廃止された(正平一統)。すでに尊号を受けていた光明上皇にも南朝から改めて尊号が贈られ、同日光明は落飾する。南朝は洞院公賢に御物の引き渡しを要求し、桐壺御剣などの累代の宝物や後醍醐から偽物と言われた神器も南朝側に接収された。そうした中、光厳は光明の落飾を「御迷惑」と批難。牧馬(琵琶の名器)や昼御座御剣など一部の御物は紛失したとして引き渡しを拒否、後村上の要請にも他の累代の楽器も紛失または焼失し箏だけしか渡せないと突き返して、南朝との虚々実々の駆け引きを開始する[18]

しかし、明くる正平7年(1352年)閏2月20日、京都に進軍してきた南朝と足利方が再び戦火を交える。そして21日、男山八幡宮にいた後村上の勅書で光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王は保護と称した男山への御幸を勧められた[19]。同日日没ごろ、光厳らは2人の廷臣と1人の北面の武士とともに出御し、夜は東寺にて逗留。洞院公賢は息子の洞院実夏を供奉の廷臣として派遣するように依頼されたが病気と称して拒絶した。22日朝、男山へと向かった。同日、今後の運命を予感した光厳は、持明院統に伝わっていた文書類を洞院公賢などに預ける[20][21]。その後男山にも戦火がせまると、同年3月3日撤退する南朝軍によって三上皇と直仁は河内国東条へと移された[22]。この時に保護から拉致へと切り替えられたとする意見もあるが[23]、洞院公賢や光厳の行動からもわかるように当初から北朝皇族を拘禁するつもりであったとする見方が一般的である[24]。同年5月18日、義詮は楠木氏に縁のある祖曇を遣わして光厳らの帰京を交渉させ、6月には佐々木道誉が勧修寺経顕と光厳らの帰京を画策するも、さらに南朝本拠地である大和国賀名生奈良県五條市)に拉致されてしまう結果となった[25]

出家と帰京[編集]

かねてより夢窓疎石に帰依していた光厳院だったが、近江国より帰京し程無くして出家した後伏見の出家の勧めを堅く断り、光明院の出家を批難して幽閉生活となっても出家しなかった[26]。しかし、京の北朝方が光厳らの帰京を諦め光厳抜きで後光厳践祚の運びとなると、観応3年年8月8日に賀名生で出家し、法名を勝光智と称した[注 5](後に光智に改める)。8月、京都では正親町公蔭・楊梅重兼・大炊御門氏忠が後を追って出家する[28][29]。同年の6月、正親町三条秀子が虚労によって病み、11月に父邸にて薨去、42歳[30]。三上皇と直仁は文和3年/正平9年(1354年)3月22日に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。文和4年/正平10年8月8日(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。10月20日、光厳は崇光に全ての琵琶の秘曲を伝授し終え、11月6日に孤峰覚明より禅衣を受け禅の道に没入する。寿子内親王も直ちに出家し翌年4月に禅衣を受けた。なお、同年10月に後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とし、同時期同所にて光厳とは別流派である播磨局流の学んでいた[31]

南朝の軟禁下にあること5年、延文2年/正平12年(1357年)2月になって崇光上皇・直仁親王と共に金剛寺より還京し、2月18日に光明法皇のいる深草金剛寿院に入り崇光上皇は広義門院の伏見殿に入った。19日、近衛道嗣や洞院公賢はお祝いを申し入れるべく伏見殿に参上しようとするが光厳と崇光は会おうとせず、参入を禁じられた[32][33]。しかし、四条隆蔭は祗候を許され勧修寺経顕も時々参入していた。3月に入って秀子の父の正親町三条公秀を召し、29日に面会。正親町三条公秀は洞院公賢宛の書状にこの日のことを「悲喜の涙に溺るる」ばかりであったと記す[34][35]。ついで嵯峨小倉に隠棲。世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。

貞治元年/正平17年(1362年)9月、法隆寺に参詣した。これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録[注 6]に見える。かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。

晩年と皇位継承[編集]

光厳や広義門院は異例の形で即位した後光厳天皇を花園や光明と同様庶流の天皇として、直仁の出家により改めて崇光を正嫡とし持明院統の経済的中核であった長講堂領を崇光上皇に譲る[36]。しかし、後光厳天皇と光厳法皇の仲は頗る悪化してしまった。かえって正統を装う必要のある後光厳が周囲の強い勧めでしぶしぶ琵琶の習得始めたのにもかかわらず早々に笙に切り替えたこと、二条良基の勧めで京極派を捨てて二条派歌風に切り替えたことが要因となったと見られる[37]。勧修寺経顕の諫言によって和解するも、後光厳天皇の勅撰で二条派歌風をとる『新千載和歌集』への入集を拒否した[38][39]

ただし、最晩年の貞治2年に長講堂領や法金剛院領の伝領について、崇光の栄仁親王が皇位継承する若しくは後光厳との両統迭立の場合は崇光の子孫が相続し、後光厳の子孫が皇位継承する場合は後光厳の子孫が相続するように定めている[40][41]。同年4月8日、伏見御領を大光明寺塔頭に付して長講堂領と分けて崇光上皇の子孫が管領するよう定め、後に前者の置文を根拠に後小松天皇は長講堂領などの所領を栄仁親王から没収したが、後者の置文によって崇光の子孫(伏見宮家)の手元に伏見御領が残ることとなった[42]。崇光は栄仁親王の即位を希望するも後光厳は後円融天皇に譲位し、北朝は後光厳流と崇光流に分裂し対立することとなる。

貞治2年頃、丹波国常照皇寺京都市右京区京北井戸町)に移り禅僧としての勤めに精進し、『碧巌録』を研究しその禅語によって悟りに至った[43][44]。貞治3年/正平19年7月7日(グレゴリオ暦1364年8月13日・ユリウス暦8月5日)、遺偈と遺誡を遺しこの地で崩御した。宝算52(満51)。遺誡に従って常照寺裏山にて荼毘に付され埋葬された。

光厳院崩御より100余年後の文明3年2月5日(1471年)、自身の玄孫に当たり、崇光皇統と後光厳皇統を統一し、南朝を滅亡の淵へと追いやったとも評される[45]後花園天皇が遺勅によって光厳天皇陵に合葬された[注 7][46]

人物[編集]

新田義貞追討の院宣[編集]

光厳は新田義貞追討の院宣足利尊氏に下した約1カ月後の延元元年/建武3年3月(1336年)、伊勢神宮・石清水八幡宮・春日大社に宸筆の般若心経を奉納した(『光厳天皇宸翰御奉納心経』)。その奥書には「二世無辺の願望を成さん(伊勢神宮)」「三界流転の衆生を救わしめん(石清水八幡宮)」「三界衆生の願望を満たさん(春日大社)」といった文言が見られるため、深津睦夫は、光厳を裏切った尊氏への院宣発給を「権力欲とは程遠いもの」と評し、「乱世を収束させなければならない」という天子としての公的な思いによるものではないかとしている[47]

歌道[編集]

光厳は歌道にも優れ、後期京極派の重要な一員である。花園院の監督のもと親撰した『風雅和歌集』の歌風は『玉葉和歌集』をさらに沈潜閑寂の境地に進め[48]岩佐美代子は京極派和歌の全容がここに集大成されたと評す[49]。『光厳院御集』も伝存し、特に「燈」の連作六首は哲学性の深さが高く評価されている[50]

闘茶(茶道)の創始者の一人[編集]

中世には闘茶茶道の前身)といって、茶の香りや味から産地を当てる遊びが流行したが、光厳天皇はそれを最も早く始めた人物の一人としても知られる[51]。光厳天皇が元弘2年/正慶元年6月5日1332年6月28日)に開いた茶寄合(『光厳天皇宸記』同日条)が、闘茶であると確実に明言できる茶会の史料上の初見とされる(確実ではないものまで辿ると、この8年前に後醍醐天皇無礼講で同様の茶会を催している)[51]

系譜[編集]

持明院統後伏見天皇の第三皇子。母は左大臣西園寺公衡の女で後伏見女御西園寺寧子(広義門院)。叔父の花園天皇猶子となる。

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
88 後嵯峨天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊親王
鎌倉将軍6)
 
持明院統
89 後深草天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
90 亀山天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
惟康親王
(鎌倉将軍7)
 
92 伏見天皇
 
 
 
 
 
久明親王
(鎌倉将軍8)
 
91 後宇多天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
93 後伏見天皇
 
95 花園天皇
 
守邦親王
(鎌倉将軍9)
 
94 後二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直仁親王
 
 
 
 
 
邦良親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康仁親王
木寺宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
持明院統
北朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大覚寺統
南朝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
96 後醍醐天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光厳天皇 北1
 
光明天皇 北2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
97 後村上天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
崇光天皇 北3
 
 
 
 
 
後光厳天皇 北4
 
 
 
 
98 長慶天皇
 
99 後亀山天皇
 
惟成親王
護聖院宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)栄仁親王
(初代伏見宮)
 
 
 
 
 
後円融天皇 北5
 
 
 
 
(不詳)
玉川宮家
 
小倉宮恒敦
小倉宮家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(伏見宮)貞成親王
(後崇光院)
 
 
 
 
 
100 後小松天皇 北6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
102 後花園天皇
 
貞常親王
伏見宮家
 
101 称光天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


御製[編集]

国やたれ(みだれカ[52])民やすからぬすゑの世も神かみならばただしおさめよ
神にいのる我ねぎ事のいささかも我ためならば神とがめたまへ
ことの葉のかずかず神の見そなはばのちの世までのしるべとをなれ

[53]

  • これら三首を含む宸筆の御製七首(『光厳天皇御真筆和歌懐紙』)の正確な詠歌年代は不明だが、その内容と執筆の気迫からして義貞追討の院宣発給と同時期のものと考えられる[54]
舟もなく筏もみえぬおほ川にわれわたにえぬ道ぞくるしき
おきてみねど霜ふかからし人のこゑの寒してふきくも寒き朝明
ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはずおのがまにまに

[55]

  • 『光厳院御集』は古く「花園院御集」に若干の光厳院詠を誤り混じたものとされてきたが光厳院詠であることが解明された[56][57][注 8]
つばくらめ簾の外にあまた見えて春日のどけみ人影もせず
更けぬなり星合の空に月は入りて秋風うごく庭のともし火

[58]

世もくもり人の心もにごれるはわが源の澄まぬなるべし

[59]

在位中の元号[編集]

元徳3年5月(1331年6月)に後醍醐天皇を中心とした倒幕計画が発覚すると、鎌倉幕府による厳しい追及が始まった。その最中の8月9日(9月11日)に後醍醐天皇は幕府への当てつけのように「元弘」への改元を強行したが、幕府は当然これを認めず「元徳」を使い続けた(『関城書』裏書)。そして後醍醐天皇が笠置山に脱出すると、幕府はこれを廃して9月20日には光厳天皇を新たに践祚させた。

元徳4年(1332年)に後醍醐廃帝は隠岐へ遠流となり、その間に光厳天皇は4月28日(5月23日)に「正慶」へ代始改元した。しかし正慶2年(1333年)に、後醍醐は隠岐を脱出。新田義貞が鎌倉を、足利尊氏が六波羅を攻めて幕府が滅ぶと、後醍醐は復辟して逆に光厳を廃位し、元徳3年8月9日以降の「元徳」と続く「正慶」を無効として、元号を「元弘」3年に戻すことを宣言した。

  • 元徳 - 3年9月20日(1331年10月22日)践祚、4年4月28日(1332年5月23日)即位により「正慶」に改元
  • 正慶 - 2年5月25日(1333年7月7日)廃位、元号を「元弘」3年に戻す

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区京北井戸町丸山の常照皇寺内にある山國陵(山国陵:やまくにのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

崩御翌日に常照皇寺の後山で火葬、そのまま陵とした。遺勅により、陵上に松柏が植えられたという。「常照寺後山陵」とも称されたが、幕末修陵の際に現陵号に改定した。なお、分骨所が大阪府河内長野市天野町の金剛寺、髪塔が京都市右京区嵯峨天竜寺北造路町の金剛院にある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

登場作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 南北朝時代は後醍醐天皇が吉野に南朝を開いたユリウス暦1337年1月23日を始期とする。ウィキペディア南北朝時代に詳しい。
  2. ^ 神鏡は賢所に残っていたことが『花園院宸記』の記述よりわかる。(飯倉 2015,p.58)
  3. ^ 太平記』含め、佐々木道誉がこれに直接関与したとする同時代史料はないが、足利尊氏と佐々木道誉との間に密約があり、また近江国番場が佐々木道誉の所領だったと記す後世の佐々木氏関連史料から、佐々木道誉の関与を想定する森茂暁の意見がある[11]
  4. ^ 皇太子を退き「小一条院」の尊号を受けた平安時代敦明親王准太上天皇)を先例としたが、光厳が宣下されたのは太上天皇号である。
  5. ^ 暦応5年4月8日、光厳上皇は西芳寺に御幸し夢窓疎石より受衣という儀式を受け、この時俗体のまま法名を持ったとも考えられる。[27]
  6. ^ この話の年次について、『太平記』に具体的な記述はないが、『大乗院日記目録』には正平17年(1362年)としている。
  7. ^ 明治時代に北朝天皇が皇統譜より削除されると光厳と後花園の山国陵は別の陵墓として扱われ、光厳天皇陵を山国陵、後花園天皇陵を後山国陵とした。[45]
  8. ^ 「花園院御集」とも誤り伝えられた『光厳院御集』は、165首を有するものと249首を有するものがあり、百六五首本が光厳院詠、二四九首本は百六五首本に風雅集の光厳院詠と勅撰集の花園院詠が増補されたものである。[57]

出典[編集]

  1. ^ 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム,光格天皇宸翰南無阿弥陀仏”. 宮内庁. 2022年1月31日閲覧。
  2. ^ 『宸翰英華.[2]』紀元二千六百年奉祝會、1944年、544-548頁。 
  3. ^ 塙保己一編 『群書類従.第四輯』経済雑誌社、1898年、72頁。 
  4. ^ a b c 『花園天皇宸記』同日条
  5. ^ 岩佐 2000,p.13
  6. ^ 『花園院宸記』元弘元年10月6日条
  7. ^ 飯倉 2015,pp.58,59
  8. ^ 深津 2014,71
  9. ^ 深津 2014,p.75
  10. ^ 深津 2014,pp.73.74
  11. ^ 森 1994, pp. 34–37.
  12. ^ 増鏡
  13. ^ 飯倉 2015,p.89
  14. ^ 鈴木由美『中先代の乱 北条時行、鎌倉幕府再興の夢』中央公論新社〈中公文庫〉、2021年 ISBN 978-4121026538、p75-76
  15. ^ 家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年10月 ISBN 978-4-89259-798-5
  16. ^ 飯倉 2015,pp.118,119
  17. ^ 石原 『北朝の天皇』2020,p.67
  18. ^ 秦野 2020,pp.61,62
  19. ^ 飯倉 2015,p.175
  20. ^ 『仙洞御文書目録』
  21. ^ 深津 2014,pp.199,226
  22. ^ 飯倉 2015,p.178
  23. ^ 飯倉 2015,pp.175,178
  24. ^ 深津 2014,pp.198,199
  25. ^ 飯倉 2015,pp.179,180
  26. ^ 飯倉 2015,pp.181,182
  27. ^ 芳澤 「光厳天皇─南北朝動乱に翻弄された人生」久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝 後醍醐天皇から後陽成天皇まで』2020,pp.121,122
  28. ^ 『公卿補任』
  29. ^ 飯倉 2015,p.184
  30. ^ 飯倉 2015,p.187
  31. ^ 深津 2014,pp.211,212
  32. ^ 『園太暦』『後深心院関白記』延文2年2月18・19日条
  33. ^ 深津 2014,p.216
  34. ^ 『園太暦』延文2年4月3日条
  35. ^ 深津 2014,p.217
  36. ^ 石原 2020,pp.55,63
  37. ^ 深津 2014,pp.222,223
  38. ^ 『後深心院関白記』延文4年4月28日条
  39. ^ 秦野 2020,pp.69,71
  40. ^ 『椿葉記』
  41. ^ 田中 「後円融天皇─足利義満との確執」久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝 後醍醐天皇から後陽成天皇まで』2020,pp.207,208
  42. ^ 秦野 2020,pp.75,87
  43. ^ 『本朝歴代法皇外紀』
  44. ^ 深津 2014,pp.236,237
  45. ^ a b 秦野 2020,p.296
  46. ^ 久水俊和 『中世天皇葬礼史─許されなかった“死”』2020,p.159
  47. ^ 深津睦夫 『光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』ミネルヴァ書房「日本評伝選」、2014年、107,108,109頁。ISBN 978-4-623-07006-0 
  48. ^ (岩佐「風雅和歌集」『日本大百科全書』
  49. ^ 岩佐 2000,p.39
  50. ^ 深津 2014,p.145
  51. ^ a b 熊倉功夫「闘茶」 『国史大辞典吉川弘文館、1997年。 
  52. ^ 岩佐『宮廷に生きる─天皇と 女房と─』p.81
  53. ^ 『光厳天皇御真筆和歌懐紙』2,4,7、
  54. ^ 岩佐美代子『光厳院御集全釈』p.29 (「私家集全釈叢書」風間書房、2000年)
  55. ^ 『光厳院御集』154,62,146
  56. ^ 岩佐美代子『光厳院御集全釈』(「私家集全釈叢書」風間書房、2000年)
  57. ^ a b 原田芳起「光厳院御集と花園院御集」1960
  58. ^ 『風雅和歌集』129,471
  59. ^ 康永二年院六首歌合』161

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]