夢窓疎石

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夢窓疎石
夢窓疎石の墨跡
「別無工夫(別に工夫なし)」
夢窓疎石墨跡 二行書(個人蔵、東京国立博物館寄託)「若一生度此三妄執 即一生成仏何論時分耶」

夢窓 疎石(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石、建治元年(1275年) - 観応2年/正平6年9月30日1351年10月20日))は、鎌倉時代末から南北朝時代室町時代初期にかけての臨済宗禅僧。七朝帝師。父は佐々木朝綱(ともつな)、母は平政村北条政村か?)の娘。佐々木頼綱(六角頼綱)の兄・経泰(つねやす)の孫とされる[1]

生涯[編集]

伊勢国三重県)出身。幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動?)で甲斐国山梨県)に移住する。1283年に甲斐市河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門して空阿に師事し、真言宗天台宗などを学ぶ。1292年奈良東大寺受戒する。京都建仁寺の無隠円範に禅宗を学ぶ。鎌倉へ赴き、円覚寺の桃渓徳悟、1299年には建長寺一山一寧のもとで首座を勤めるも嗣法には及ばず、1303年に鎌倉万寿寺高峰顕日禅宗を学び、1305年には浄智寺で印可を受ける。

応長元年(1311年)には、甲斐牧丘の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲する。西遊して正和3年(1313年美濃国に古𧮾庵、翌年に同地に観音堂(虎渓山永保寺)を開いた[2]。元徳2年(1330年)には甲斐守護の二階堂貞藤(道蘊)に招かれ牧庄内に恵林寺を創建し、鎌倉中期の渡来禅僧蘭渓道隆以来になる甲斐の教化に務めた。また、土佐国吸江庵上総国・退耕庵、相模国など各地の寺庵に滞在している。

正中二年(1325年)に後醍醐天皇の要望により上洛[3]勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌1326年には職を辞し、かつて鎌倉に自らが開いた瑞泉寺に戻り徧界一覧亭を建てた[4]北条高時に招かれ、伊勢国で善応寺を開いた後に鎌倉へ赴き、円覚寺に滞在。高時や北条貞顕からの信仰を得る。1330年には甲斐に恵林寺を開き、再び瑞泉寺に戻った1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺開山を行った。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も疎石を師と仰いだ[4]。翌年には再び南禅寺の住職となる。1335年に後醍醐天皇から「夢窓国師」の国師号を授けられた。

建武政権から離反した足利尊氏や弟の足利直義らは北朝を擁立して京都室町に武家政権(室町幕府)を設立する。暦応2年・延元4年(1339年)に幕府の重臣(評定衆)である中原親秀(摂津親秀、藤原親秀)[5]に請われ、西芳寺の中興開山を行う[4][6]。疎石は足利家の内紛である観応の擾乱では双方の調停も行い、この間に北朝方の公家や武士が多数、疎石に帰依した。後醍醐天皇の死後、疎石の勧めで政敵であった尊氏は天皇らの菩提を弔うため、全国に安国寺を建立し、利生塔を設置した。また、京都嵯峨野天龍寺を建立し、その開山となった。この建設資金調達のため1342年天龍寺船の派遣を献策し、尊氏は資金を得ることができた。

生前に夢窓国師正覚国師心宗国師、死後に普済国師玄猷国師仏統国師大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され[7]、七朝帝師とも称される。

1351年に死去、享年76。

庭園[編集]

世界遺産に登録されている京都の西芳寺(苔寺)および天龍寺のほか、瑞泉寺などの庭園の設計でも知られている。 その作風は、自然の眺望・景観を活かしつつ、石組などによって境地を重んじる禅の本質を表現しようとしたものである[4]。『夢中問答集』の第57「仏法と世法」の項では、疎石の庭園に関する考えが述べられている。

夢窓疎石設計による庭園[編集]

著作・伝記[編集]

  • 玉村竹二 『夢窓国師 中世禅林主流の系譜』平楽寺書店〈サーラ叢書〉、1977年
  • 柳田聖山訳著 『禅入門 5 夢窓 語録・陞座・西山夜話・偈頌』 講談社、1994年
    初版 『夢窓国師語録 日本の禅語録 第7巻』 同、1978年/選書版(抄録)『禅の古典 4 夢窓国師語録』 同、1983年
  • 『夢中問答』 佐藤泰舜校訂、ワイド版岩波文庫、2002年、初版は戦前刊。
  • 『夢中問答集 付現代語訳』 川瀬一馬訳注、講談社学術文庫(新版)、2000年
  • 中村文峰訳著 『現代語訳 夢中問答』 春秋社、2000年
  • 佐々木容道 『訓註 夢窓国師語録』 春秋社、2000年
    • 『夢窓国師 その漢詩と生涯』 春秋社、2009年 
  • 枡野俊明 『夢窓疎石 日本庭園を極めた禅僧』 NHKブックス:日本放送出版協会、2005年
  • 熊倉功夫竹貫元勝編 『夢窓疎石』春秋社、2012年、6名の論考

挿話[編集]

『怪談』(小泉八雲)の「食人鬼」で、餓鬼道に落ちた僧侶の魂を救う役として登場する。 門下に甥の春屋妙葩絶海中津義堂周信無極志玄など。著作に足利直義に与えた仮名法語である『夢中問答集』(1344年)など。また、尊氏らの人物を書いた文章も残している。

脚注[編集]

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  1. ^ 佐々木哲の説による(佐々木哲学校 - 壱岐大夫判官泰綱(ブログ、2005年)より)。
  2. ^ 由来は夢想疎石だが、開山は同門の元翁本元となっている。永保寺開山堂には元翁本元と共に夢窓疎石の頂相(禅僧の肖像画)が安置されている。
  3. ^ 千葉県の太高寺の伝に拠れば、元亨3年(1323年)から二年半、同地の「金毛窟」と呼ばれる洞にて隠棲、座禅修行を行っていた。後醍醐天皇がこれを招聘するも固辞、天皇は執権北条高時(権力者でありまた、母方の血縁も考えられる)を通してさらに上洛を促したため、同門の元翁本元と共に上洛した、と伝わっている。また、上洛時のルートは甲斐国を経由して中仙道を利用したとされている。
  4. ^ a b c d 小野健吉『日本庭園:空間の美の歴史』岩波書店〈岩波新書〉2009年、ISBN 9784004311775 pp.111-121.
  5. ^ 西芳寺を開基した鎌倉幕府評定衆の中原師員の子孫であり、兄も鎌倉幕府評定衆。自身は鎌倉幕府評定衆であり、その後は室町幕府においても評定衆を勤めた。また、松尾大社の宮司でもあった。
  6. ^ 同寺はこの再興時に浄土宗から禅宗に変更されている。寺名もそれまでは「西浄土寺」であったが、疎石は西方浄土寺と隣接していた厭離穢土寺の二寺を統合し、禅宗の祖である達磨大師を指す「祖師西来五葉聯」に由来する「西精舎(西芳寺)」と改められた。
  7. ^ 夢窓疎石”. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2017年5月15日閲覧。

関連項目[編集]