神武天皇即位紀元
西暦2019年 |
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皇紀2679年 |
神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元(じんむきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法である。『日本書紀』の記述に基づき、元年は西暦(キリスト紀元)前660年とされている。
異称は皇紀(こうき)、神武紀元、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)[1]等。
目次
概説[編集]
日本では明治5年(1872年)に神武天皇即位紀元を制定するまでは、紀年法として元号や干支を使用(あるいはそれらを併用)しており、ある年を基準として経過年と遡及年により年を数える「紀元」という方法を用いてこなかった。
明治維新後、政府は西洋に倣って、暦法を改め太陽暦を採用するとともに、紀年法として紀元を使用することにした。
明治5年(1872年)、政府は太陰太陽暦から太陽暦への改暦を布告し、その6日後に神武天皇即位を紀元とすることを布告した[注 1](詳細は後節の「制定」を参照)。
ただし、神武天皇即位紀元の元年は西暦紀元前660年に相当するが、この根拠となっている『日本書紀』の紀年は信頼性に欠け、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことは歴史的事実ではないとされている(詳細は後節の「元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性」を参照)。
戦前(第二次世界大戦前)の日本では、単に「紀元」というと神武天皇即位紀元(皇紀)を指していた。条約などの対外的な公文書には元号と共に使用されていた[2]。ただし、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和期になってからである。他に第二次世界大戦前において皇紀が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。
戦後(第二次世界大戦後)になると、単に「紀元」というと西暦(キリスト紀元)を指す事も多い。戦後は神武天皇即位紀元はほとんど使用されなくなっており、日本政府の公文書でも用いられていない。しかし、明治時代に公布された法令の中に現在でも有効な法令があり、その中に、神武天皇即位紀元の記述がある法令が存在する[3](詳細は後節の「神武天皇即位紀元が使われている法令」を参照)。
現在では、一部の日本史や日本文学などのアマチュア愛好家、神道関係者、居合道団体の一つである全日本居合道連盟[注 2]などが使用している。
外国では、神武天皇即位紀元をグレゴリオ暦に換算した西暦紀元前660年2月11日を、初代天皇即位や日本国建国の「伝承的日付」「神話的日付」と位置付けていることがある[注 3]。
江戸時代以前[編集]
水戸学の藤田東湖は、天保11年(1840年)が『日本書紀』が記す神武天皇即位の年からちょうど2500年目にあたっていることから、「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩を作った。
津和野藩の国学者大国隆正は安政2年(1855年)に著した『本学挙要』のなかで、西洋にキリスト紀元があることを指摘した上で、神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱している[4]。当時は開国か攘夷か、尊皇か左幕かで大きく揺れていた時代であって、神武天皇即位からの年数をかぞえる紀年法(紀元)は尊皇思想と結びついていた[5]。
制定まで[編集]
王政復古後、いわゆる一世一元の詔により改元と「一世一元の制」が実現した。明治2年(1869年)4月、刑法官権判事津田真道は集議院に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議している。津田は年号を使った年月日の表記は煩雑で分かりにくいのでこれを廃して紀元を採用すべきだとした。また、西洋のキリスト生誕紀元(西暦)やイスラームのヒジュラ紀元、ユダヤ教の天地開闢紀元などいくつかの紀元を例に挙げ、日本も独自の紀元を設けて、以降はそれを使い続けるべきだとした。そしてその我が国独自の紀元として神武天皇即位を紀元とするべきだと主張した[6]。
制定[編集]
神武天皇即位を紀元とすることは、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)[7][注 4]公布の6日後に、「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)[注 5]で布告された。
現代語に訳すと、「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布され、神武天皇の御即位を紀元と定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典が執り行われることになった(ので参内する資格のある者は出席すること)。ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」となる。文面からもわかるように神武天皇即位紀元がいつのことであるのかの具体的な数字は無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている。布告の主旨は、天皇臨席のもとで開かれる、改暦と神武天皇即位紀元の制定を記念する式典の開催を通知することであった。
公文書では、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年)11月に外務省から各国公使・領事へ通知した文書に「明治六年 神武紀元二千五百三十三年」と見える[9]。
制定後[編集]
神武天皇即位紀元を制定した後、文書の日付の書き方をどのように統一するのか(年号を廃して紀元一本とするのか、年号と併用するのか、その場合にどちらを主とするか、など)という懸案事項が残った。政府は神武天皇即位紀元の制定から時を隔てず、明治6年(1873年)1月9日、左院に紀元・年号の問題を審議させたところ、左院の回答は、
- 紀元が制定されたからには年号の使用は考えられない。年号の使用は公私ともにこれを禁止すべきだ。
- 正式の表記は「二千五百三十三年」のように、略式は「二五三三年」のように記す。
というものであった。政府があらためて年号と紀元の併用を方針として再度下問したところ、「(年号と紀元の併用に)異議無し」との回答が得られた[10]。
明治時代に政府は年号と皇紀の併用を前提として、国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定した。それによると最も正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになった[11]。
元年を西暦紀元前660年とする根拠と妥当性[編集]
元年を西暦紀元前660年とする根拠[編集]
『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に次のような記述がある。
ここでの「辛酉年」は西暦紀元前660年にあたる。その理由は以下のとおりである。
『日本書紀』の紀年法は、元号を用いる以前はその時の天皇の即位からの年数で表している。また、天皇の崩御の年の記載もあり、さらに歴代天皇の元年[注 8]を干支で表している[注 9]。『日本書紀』のこれらの記述から歴代天皇の即位年を遡って順次割り出してゆけば、神武天皇即位の年を同定できる。これを行って神武天皇の即位年を算定すると、西暦紀元前660年となる。
外国の歴史書では、『宋史』日本国伝(『宋史』卷491 列傳第250 外國7日本國[12])に「彦瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、ここでは神武天皇の即位年は周の
明治維新後、前述のように神武天皇即位が紀元と定められ、上記の『日本書紀』の記述に基づいて紀元と元号との対応関係が規定され、公文書などに用いられることとなった。また、神武天皇が即位したとされる「辛酉年春正月庚辰朔」はグレゴリオ暦の紀元前660年2月11日に比定された[注 14]。これに基づいて政府は「年中祭日祝日休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第334号)[14]で2月11日を紀元節と定めた(詳細は「紀元節」を参照)。
年代の妥当性[編集]
しかしながら、『日本書紀』の記述を素朴に信頼し、神武天皇の即位を西暦紀元前660年にあたる年とすることには江戸時代から批判がなされてきた。たとえば、藤貞幹は『衝口発』[注 15]で、神武天皇元年辛酉は周の恵王17年(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓との年紀に符合しないことを述べた[15][注 16]。
神武天皇の即位を西暦紀元前660年とすることを否定する根拠の一つに、『古事記』や『日本書紀』において初期の天皇の在位年数が不自然に長く、崩御の年齢も非現実的な長寿とされていることが挙げられる[注 17]。また、考古学の分野では西暦紀元前660年は、伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年(平成15年)以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる[注 18]。
このように、現在では神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことは歴史学的にも考古学的にも否定されている。
辛酉革命説[編集]
なぜ『日本書紀』において神武天皇の即位の年が西暦紀元前660年にあたる年に設定されたのかについて、江戸時代から様々な説が唱えられてきた。その一つに、『日本書紀』の編纂者が紀年を立てるにあたって辛酉革命説[注 19]を採用し、これを基に神武天皇の即位の年を設定したのではないかと考える説がある[注 20](詳細は辛酉#辛酉の年を参照)。
神武天皇即位紀元が使われている法令[編集]
「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ行フ附詔書」(明治5年太政官布告第337号、いわゆる「改暦ノ布告」)では、閏年については4年毎に閏年があることしか述べておらず、維新後の混乱の中たった一箇月の猶予期間で実施された日本の新しい暦は、本来のグレゴリオ暦ならば存在すべきである、閏年の100年と400年の規則を欠いていた。これを受けて「閏年ニ関スル件」(明治31年勅令第90号)[注 21]により正しく閏年を置くように補正した[16]。ここでは神武天皇即位紀元を基に閏年を算定する旨が書かれている。この勅令は現在も有効である。
神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ其ノ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス — 「閏年ニ関スル件」(明治三十一年勅令第九十号)[17]
紀元2600年記念行事[編集]
制式名など[編集]
昭和に入って以降、第二次大戦中まで、日本の陸海軍(旧日本軍)が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。
航空機を例に取ると、「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年・昭和15年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば、「零式三座水上偵察機」、「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。
陸軍[編集]
大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(西暦1927年・昭和2年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」、「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌年(1928年・昭和3年)制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。
皇紀2601年(西暦1941年・昭和16年)以降は、例えば一式戦闘機(通称隼)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。
銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」、「一式機動四十七粍速射砲」など)。
また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた。例:明治38年(1905年)採用を示す「三八式歩兵銃」など。
海軍[編集]
大日本帝国海軍の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(西暦1929年・昭和4年)採用であることを示す「八九式飛行艇」、「八九式艦上攻撃機」より使用されている。ただ、実際には両機とも皇紀2592年(西暦1932年・昭和7年)に制式採用。それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。
また、海軍では皇紀2602年(西暦1942年・昭和17年)の「二式水上戦闘機」、「二式陸上偵察機」等を最後に航空機の年式名称を取り止め、「紫電」、「彩雲」、「天山」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「隼」「飛燕」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。
なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については、「十二試艦上戦闘機」、「十八試局地戦闘機」など、一貫して元号が用いられている。
戦後に皇紀が用いられた例[編集]
ニコン[編集]
日本光学が戦後に試作から初めて製造した「ニコン」(ニコンI型)に始まるカメラの個体に付けられた製品番号(シリアル番号)は、先頭が「6」から始まる。これはI型の出図が皇紀2606年(昭和21年・西暦1946年)9月であったことから、「609」で始まる番号をI型試作品に付けたことに始まる[18]。
安田生命保険[編集]
安田生命保険が1970年(昭和45年)ごろにコンピュータによる個人情報管理のシステムを構築したとき、作業に携わった技術者たちは、西暦1900年(明治33年)を「00年」として年を処理すると、顧客の生年月日など西暦1899年(明治32年)以前の情報の処理に不都合が生じることに気づき、あえて西暦の使用を避けて、皇紀2600年(西暦1940年・昭和15年)を「00年」として用い、さらに負の数を皇紀2500年(西暦1840年・天保11年)までの100年分を処理することのできるパック10進数を採用することにした。この結果、偶然ではあるが、2000年問題の影響を回避することができたと言われる。実際に2000年問題で安田生命保険の業務になんらかの支障や影響が生じたかどうかは公表されていない[19][20]。
インドネシア独立宣言文[編集]

1945年(昭和20年・皇紀2605年)8月17日、インドネシアの独立がスカルノおよびハッタによって宣言された。
大日本帝国軍政下のインドネシアでは、皇紀が使われていた(元号は用いられていなかった)。また、インドネシア独立宣言草案は、大日本帝国軍政時代に設置された独立準備委員会において起草、採択された。この為、インドネシア独立宣言の日付は、皇紀2605年の下2桁で記載されている[21][注 22]
1998年(平成10年)に今井敬経団連会長(当時)がインドネシアのユスフ・ハビビ大統領と会談した[22]際に、ハビビが今井に独立宣言を見せて、日付の年が「05」となっているのは日本の皇紀2605年だと説明した[23]。
海外の紀元[編集]
日本の神武天皇即位紀元(皇紀)以外にも、西暦と異なる独自の紀元を立てたり、あるいは西暦を採用する以前に使われていたものがある。以下はその例。現在では使われていないものも多い。
- ヒジュラ紀元 - 預言者ムハンマドがメッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)した年(ユリウス暦622年)を「ヒジュラの年」と定め、これを紀元とする。
- 黄帝紀元(黄紀) - 中国で辛亥革命後に中華民国湖北軍政府が使用した紀元。一ヶ月余りで使用が停止された。伝説上の帝王黄帝の即位年を紀元とする。黄紀4609年=西暦1911年
- 檀君紀元(檀紀) - 大韓民国(韓国)。朝鮮神話による伝説の王檀君王倹の即位を紀元とする。元年=西暦紀元前2333年。1948年9月25日に法的根拠が与えられたが、1961年12月2日に公布された「年号に関する法律」により、1962年1月1日から公文書での使用が廃止された。
- 主体暦 - 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)。初代最高指導者・金日成の誕生年(西暦1912年)を紀元とする。
- 開国 - 李氏朝鮮。李成桂の朝鮮王即位(西暦1392年)を紀元とする。
- 民国紀元 - 中華民国(台湾)。中華民国建国の年(西暦1912年)を紀元とする。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元二千五百三十三年」が使用されている。 『太陽暦. 明治6年(1873年)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、北畠茂兵衞・製本、1872年(明治5年)
- ^ おそらく最も修道人口が多いと思われる、全日本剣道連盟居合とは異なる。
- ^ たとえば、CIA(アメリカ中央情報局)が発行している『ザ・ワールド・ファクトブック』のうち、「独立」の項目には、1947年5月3日(日本国憲法の施行日)と、1890年11月29日(立憲君主制を規定した明治憲法の施行日)と、紀元前660年2月11日(神武天皇によって建国された神話的日付)の三つの日付が記されている。
CIA (2019年). “The World Factbook”. CIA. 2019年4月13日閲覧。 - ^ 明治5年11月9日(1872年12月9日)公布。
- ^ 明治5年11月15日(1872年12月15日)公布。
- ^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
- ^ この太政官布告の効力については、第87回国会衆議院内閣委員会(昭和54年4月11日)において、政府委員は、「現在のところで法律としての効力を持っているかどうかということは、なお検討する余地があるのではなかろうか」と答弁している。レファレンス協同データベース
- ^ 『日本書紀』では踰年称元法を用いており、ほとんどの場合、天皇の即位の翌年を元年としている。
- ^ 中国では後漢の建武26年(西暦50年)以前は、太歳の天球上の位置に基づいて干支を定める太歳紀年法が用いられており、60年周期の干支を1年ごとに進めていく干支紀年法が用いられるようになったのはそれ以降である(詳細は「干支#干支による紀年」を参照)。しかし、『日本書紀』では干支は60年1周期の干支紀年法を用いており、これを初出の神武天皇即位前紀まで遡って適用している。
- ^ 『史記』に基づくと釐王(僖王)の在位は西暦紀元前681年 - 紀元前677年、『春秋左氏伝』に基づくと紀元前682 - 678年とされる。『阮元十三経注疏』所収の『春秋左氏伝正義』の昭公26年(紀元前668年)の『世本』からの引用文に「僖王」とあることから、『宋書』の僖王の在位年代はこちらの記述に基づくと考えられる。
- ^ 『日本書紀』では神武天皇が日向を出発した年が甲寅となっている。
- ^ 『宋書』のこの記述は『日本書紀』に基づいていると考えられるため、「(神武天皇)即位元年甲寅」は『日本書紀』の記述を誤って解釈したものと考えられる。
- ^ 三善清行は西暦紀元前660年にあたる年を想定していると考えられる。
- ^ 江戸時代にはすでに渋川春海が「辛酉年春正月庚辰」を暦法上特定し、これが「朔」にあたることを明らかにしている(『日本長暦』を参照)。
- ^ 天明元年(1781年)刊
- ^ 『衝口発』の内容に憤慨した本居宣長は『鉗狂人』を著して藤貞幹を罵倒し、これを発端として上田秋成との間で論争が交わされた(詳細は日の神論争を参照)。ただし宣長は日本書紀の記述を信じていたわけではなく、古事記の崩年干支や宝算数値が書紀と食い違っていることから編年に関しては書紀を非としている。
- ^ 近年では、古代に固有の暦法や紀年法が用いられており、初期の天皇の在位年数や崩御年齢はそれを反映した年数ではないかとする説もある。「倭人の暦を探る」
- ^ 考古学では古墳の出現年代などからヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされている。ただし、初期の天皇(神武天皇を含む)の実在性や即位年代などは諸説あり、ヤマト王権と神武天皇との関係は未だに結論が出るに至っていない(詳細は神武天皇を参照)。
- ^ 辛酉の年には社会的変革が起こるとする讖緯説の一つ。三革説(甲子革令、戊辰革運、辛酉革命)として日本に伝えられた。三革説は、これらの年に改元が行われる、十七条憲法の発布が甲子の年とされるなどの影響があった。
- ^ 伴信友、那珂通世、飯島忠夫、有坂隆道、岡田英弘などがこの説を展開した。
- ^ 明治31年(1898年)5月10日公布。
- ^ 現在では、インドネシアのカレンダーや公文書や歴史教科書には西暦が使われている。
出典[編集]
- ^ 『東方年表』を参照。
- ^ アジア歴史資料センター 収蔵資料一覧、国立公文書館・アジア歴史資料センター
- ^ 法制執務コラム集「うるう年をめぐる法令」、参議院法制局
- ^ 西尾市立図書館蔵岩瀬文庫『本学挙要』コマ番号46/211
- ^ 岡田芳朗『暦ものがたり』角川ソフィア文庫、2012年
- ^ 岡田芳朗『暦ものがたり』角川ソフィア文庫、2012年
- ^ 太政類典第二編・明治四年~明治十年・第二巻
- ^ 『法令全書. 明治6年(1873年)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、内閣官報局編
- ^ 『本邦ニ於テ陰暦ヲ太陽暦ニ改正ノ旨各国公使ヘ通知一件』 アジア歴史資料センター Ref.B12082109900 (外務省外交史料館)
- ^ 岡田芳朗『暦ものがたり』角川ソフィア文庫、2012年
- ^ 岡田芳朗『暦ものがたり』角川ソフィア文庫、2012年
- ^
脱脱. 宋史/卷491#日本國. - ウィキソース.
- ^ 革命勘文 - 『群書類従』「巻第四百六十一」(コマ番号92/156)- 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 法令全書.明治6年 - 国立国会デジタルコレクション[1]
- ^ 『衝口発』 - 国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号6/36)
- ^ 長沢工『天文台の電話番』地人書館、2001年、61頁。ISBN 4-8052-0673-X。
- ^ 『官報第四千四百五十六号』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 荒川龍彦『明るい暗箱』朝日ソノラマ、1975年、10頁。NCID BN15095276。
- ^ 「天声人語」『朝日新聞』1999年2月22日付朝刊、1面
- ^ 坂本英樹「皇紀を採用した安田生命保険の先見の明」(坂本英樹の繋いで稼ぐBtoBマーケティング):ITmedia オルタナティブ・ブログ」 2014年7月5日閲覧
- ^ 用例.jp インドネシア独立宣言
- ^ じゃかるた新聞2002年4月5日
- ^ 「私の履歴書」 今井敬 第24回 国際親善 日本経済新聞 2012年9月25日[2]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 『明治五年太政官布告第三百四十二号』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件) - e-Gov法令検索