菊池謙二郎

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菊池謙二郎

菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日慶応3年1月19日) - 1945年昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規秋山真之夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。

出身と上京まで[編集]

水戸藩士にして水戸支藩石岡藩家老も務めた[1]菊池慎七郎の二男として水戸に生まれる[2]。 『茨城人物評伝』[3]兄菊池直一郎の項に、「渋沢栄一の自伝」に直一郎の先人菊池慎七郎と村田正孝が徳川昭武の洋行に随行とあるとしているが、『渋沢栄一自叙伝』[3]『徳川昭武帯欧記録・第一』[3]では、随行の菊池姓の人物は平八郎である。17代彰考館総裁を努めた人物に菊池平八郎重固がいる[4]。弟は忠三郎。

謙二郎の出身については、謙二郎が校長を務めた旧制水戸中学校の後を継ぐ茨城県立水戸第一高等学校のホームページに詳しい。

栗田寛が開いた輔仁学舎にて学ぶ[5]

経歴[編集]

1882年(明治15年)茨城中学校(水戸一高の前身)入学[6]。1884年(明治17年)茨城第一中学校(1883年改称)退学、共立学校へ転学[6]

東京帝国大学文科大学国史科を卒業[7]

山口高等学校教授、津山中学校校長、千葉中学校校長、第二高等学校校長を歴任した[7]。さらにに渡って東亜同文書院監督兼教頭、三江師範学堂総教習兼両江学務処参議となった[7]

帰国後は水戸中学校校長を務めるが、1921年大正10年)に「国民道徳と個人道徳」という講演で祖先崇拝の無意味を説いたところ批判を受け辞職を余儀なくされた。これに対し水戸中学生が復帰を求めて同盟休校をする騒ぎに発展した。

1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。

交友[編集]

1884年(明治17年)5月、上京し共立学校に入る。本人は、「正岡常規君」と同級だったが、「秋山(真之)君」と同級だったか判然記憶しないとしている[8]

同年9月、共立学校の同級より、正岡子規と二人だけ[8][9]大学予備門に進み、子規と親しくなる。共立学校にて秋山真之を記憶していないのは、在学期間が4か月で同級生すべてを知り得なかったためとしている。当初、牛込若宮町の大学教授松村任三方に下宿[8]。同年2月の松村任三の住所は牛込区若宮町一番地[10]

1885年(明治18年)3月頃、神田猿楽町板垣方で子規および清水則遠と同宿[8]。謙二郎は、子規が頼山陽と「競争」したことを記している[11]。柳原極堂は、下宿に入って廊下の左が子規、向いが謙二郎の部屋としている。後に謙二郎は極堂への返書に「御なつかしく存じます。貴書に『正岡常規部屋にて一両度お目にかかり候事』云々とございますが一両度ぐらいではありません」とし、正岡と同宿していたので、度々お目にかかり、「腕力くらべもいたし、議論もしました。」と書き[12]、極堂が謙二郎と会った事も大半忘れていた事が判る。

同年9月、子規と学年試験に二人とも落第したため、進学してきた秋山真之と同級となる[8]。子規の所へ松山出身の学生がよく訪れていたことから、秋山真之とは子規を通して親しくなる。落第後、父親の勧告により、再び、松村任三方に下宿。。

同年12月、松村任三渡欧のため転居、真之に言われ、神保町で同宿となる。ある日、真之が真之の父親への歳暮用に買ってきた玉垂について質問したところ、真之が水引を解いて一本取り出し、結局、二人で食べてしまった[8]。翌年、真之は海軍兵学校へ転じているため、歳暮の玉垂を食べたのは、この12月中しかない。 子規は12月25日のことだったろう、として、ベース・ボールをやり、子規はCatcher、菊池仙湖はpitcherの役だったと記している[13]。すでに、仙湖と号していてことが判る。

1986年(明治19年)1月半ば、秋山真之とともに駿河台下の齋藤方の六畳一間へ移る[8]

同年1月30日、仲間内で、『七変人評論 第一編』をつくる。日付は、高浜虚子[8]による。謙二郎も、「七変人」を決めたのはこの頃としているが、子規は『筆まかせ』に明治22年の4年程前のこととしている。虚子の資料によると、七変人は、互いに評論したもので、長幼の順に

關 甲子郎 陸奥人
菊池謙二郎 常陸人
井林 廣政 伊予人
正岡 常規 同
秋山 真之 同
神谷豊太郎 紀伊人
清水 則遠 伊予人 である。

虚子は子規と秋山真之の評論を記し、二人のほか、謙二郎には会ったことがあるとしている。謙二郎自身は、七変人の番付は、随分当を失したものもあるが、真之と謙二郎が大関になったボール投げの番付だけは、まず公平無難と思うとしている。

同年、清水則遠が危篤に陥った時として、謙二郎が学校に行く途中に寄ったとの記述が『筆まかせ』にある。

同年4月14日、清水則遠死去[13][12]、「二三町横に居りし菊池、秋山二氏のもとへも報じ」と『筆まかせ』ある。死骸の始末がすみ、悄然として気の抜けたように床の中にもぐり込んだ子規を真之が「意気地がないな、しっかりおしや」と大喝したので、気の毒に思われたことがあった旨、子規の死後、謙二郎が記している[11]。同時期、秋山真之と学校に近いパン屋の渡辺宅二階へ移る。

同年10月、秋山真之が海軍兵学校入学し、「袂を分つ」[8]。秋山真之から見ると、予備門時代の約1年のうち、10か月ほど菊池と同宿していたことになる。なお、柳原極堂は、話が数年の前後を繰り返す記述の中で、清水則遠の死後、真之が子規の所に来て同宿になった[12]としているが、謙二郎本人、子規[13]の記述と矛盾するばかりか、極堂自身が俳句雑誌に書いているとされる記述[8]に、子規と真之の同居の時期を「明治十七八年ごろだった」とあり、極堂の記述は少なくとも時期に関する限り、信憑性がない。

1888年(明治21年)、賄征伐の首謀者の一人として暴れる[13][12]

同年冬、寄宿舎から夜抜け出し、路上で大福餅をほおばるようすを子規が書いている[13]

1889年(明治22年)4月、子規が松山出身の友人と二人で、水戸市まで大部分、徒歩で旅行し、謙二郎の実家を訪問、この時のようすを『水戸紀行』[14]として、半年後にまとめている。この友人は千葉日報『房総の作家』によると、吉田匡である。 子規は、人力車で常磐神社のもとに着いた後、仙波湖を離れ「坂を上れば上市なり、町幅広く店も立派にて松山などの比にあらず」と記し、大工町への坂を上り、現在の国道50号線の泉町方面への道筋と一致する。宿に寄った後、謙二郎の実家を訪ねたが、子規が二日前、旅に出た直後に出したはがきも届いておらず、謙二郎が今実家の下を通った列車に乗って上京した直後のため、謙二郎には会えなかった。子規はノートに

この家を鴨ものぞくや仙波沼

と記している。

謙二郎の両親について、「其質朴淳良の風思いやられてなつかし」、実家について、庭の先は崖でその下に仙波湖があるとしている。崖の下、仙波湖との間に線路がある。この実家の条件に合う所は、釜神町と上梅香で、それぞれ、現在の備前町の一部と梅香一丁目に当たる。天王町生まれとする資料[15]もあるが、この時の実家は、天王町の生家とは異なる。釜神町は常磐神社から大工町への向かう道との交差点から、200から400メートルほどの範囲で、近い所は交差点から見えるため、より離れた上梅香の方が、実家の位置としては整合性がある。釜神町と交差点の間は現在天王町の神崎町だが、急坂の途中で仙波湖側に家が建つ余地はない。2014年現在、梅香一丁目の私有地に子規の句碑がある。 帰京後、子規が謙二郎を訪ねたところ、会えなかったことを残念がり、子規の葉書の未着について、なぜか、弟(忠三郎)の葉書も未着と言い、子規の偕楽園下の穴についての問いには、土を掘るためで何でもないと答えている。子規は、この旅が病の元となったとしている。

同年、子規は朋友として19人を挙げ[13]、7人目厳友 菊池謙氏、次に畏友 夏目金氏、13人目剛友 秋山眞氏、16人目 亡友 清水遠氏等としている。また、かつて仙湖が子規を十返舎一九にたとえたことがあると記している[13]

謙二郎が小文学会において、赤穂義士討入りの手紙と称するものを朗読し、批評を求めたところ、子規は文章が余り善く出来過ぎているから偽作であろうとし、漱石は黙して言はなかったと、柳原極堂が記している[12]。極堂によるため、正確な時期は不明である。

1890年(明治23年)、東京帝国大学法科入学、後、文科国史科に転じる[6]。『東京帝国大学一覧・明治23-24年』には『文科大学学生及生徒・国文学科・国史科・第一年』の項に菊池謙次郎として記されている。同項に瀧口了信、『哲学科』に正岡常規、米山保三郎、『英文学科』に夏目金之助の名がある。自治寮設立に当たり、豫科を除く14人の創立委員の一人となり、入寮に際し総代の一人となる[16]

同年5月2日[17]インブリー事件の際、赤沼金三郎、松木茂俊らとともに、インブリーを保護し、校庭を出るとする資料[18]がある。『日本野球史』に、赤沼と共に舎監室を訪れ、「舎監は此寮生総代を引き連れ校長」「の室に来た」とある。

1891年(明治24年)6月30日、漱石が謙二郎らと歌舞伎座に行った事を、翌月9日、松山に帰省中の子規への書簡[19]に記している。歌舞伎座で「仙湖先生を待つ程なく先生到着錬卿をつれて来ると思ひの外岩岡保作氏を」連れ、漱石が舞台そっちのけで食べている間、「仙湖先生頻りに御意に入ってあの大きな眼球から雨粒程な涙をながす」。岩岡保作はインブリー事件の時の投手である[20]

1892年(明治25年)頃の話として高浜虚子[21]、子規の親友はあまり多くなく、菊池謙二郎、秋山真之、その他二三で、同じ文学に携わる者としては夏目という名がしばしば繰返されたと記している。

同年、11月5日土曜日、翌日にかけ第六回文科大学遠足会、妙義山方面に向かう。幹事として、齊藤阿具とともに、紀行文を子規に依頼する[22]

1893年(明治26年)8月、漱石は「菊池米山両人と両三日間日光方面へ」行った旨、記している[23]

同年、東京帝国大学国史科卒業[6]

教育者として[編集]

1894年(明治27年)山口高等中学校教授兼任舎監に任命[24]される。奏任官である。

1895年(明治28年)3月18日、松山へ赴任前の漱石が「貴方にて金五十圓程御融通」「尤も貴兄も随分貧の字なるければ(是は失敬)」「友達の好みと思ひ」と書いている[19]

1895年(明治28年)に岡山県津山尋常中学校の初代校長となる。

1897年(明治30年)1月、子規が『田中館甲子郎を悼む』[25]を書く。田中館甲子郎は田中館愛橘の異母弟である。七変人の関甲子郎と同じ陸奥出身であるが、同一人物かどうかは不明である。

同年『新體皇國史綱』[3]を著し、翌年出版される。岡山県津山尋常中学校長から千葉県尋常中学校長に任命[26]

1898年(明治31年)休職[27]、退職[28]

同年第二高等学校長に任命[29]

同年8月2日、子規は「私同学の友人菊池という男は仙台の第二高等学校長と相成候これが同学生中第一の出世なるべく候」と書いている[30]

1899年(明治32年)『藤田東湖伝』を著す[3]

1900年(明治33年)1月、土井晩翠、二高教授として赴任[31]

1901年(明治34年)1月8日、子規が「河東碧梧桐は昨年末結婚猿楽町廿一丁目に住居申候猿楽町廿一丁目とは猶貴兄の御記憶に残居候哉如何尾谷といふ下宿屋今もありて」「貴兄は何とかいふ少年と同居、小生は大井といふ我儘者と同居」「鯨汁を貪らふとする途端小生が嗅付けたる事も有之候」「小生は此事を思ふ度に一度は笑ひ一度は泣申候」等とする書簡を送る[25]

同月10日、子規が「米山」「此哲学者もすでに此世のものにあらず」「郡司大井亦あらず」「竹村鍛は」「最早望無きよしにて」等とし、八橋煎餅を無心する書簡を送る[25]

同年4月1日、兄直一郎、茨城県技手に任官。御璽と内閣総理大臣伊藤博文の名と花押のある「茨城県技手菊池直一郎任官ノ件右謹テ奏ス」の文書が残る。[32]

同年、清帝国東亜同文書院教頭兼監督として赴任[6]。以降、大里浩秋『宗方小太郎日記』に狩野直喜らとともに度々登場する。

1902年(明治35年)時期は本人の記憶による[8]。上海の東和ホテルで秋山真之と再会、「早卒の際でゆっくり昔語りもせずに別れた。そしてこれが永久の別れとなったのである。」と記している。時期については、前年の方が真之の動向との整合性がある。

同年、9月19日、正岡子規死去。後の子規への追悼集、河東碧梧桐編『子規言行録』[33]への『予備門時代の子規』寄稿の際には、他の著作と違い、子規が好んで用いた菊池仙湖の号を用いている。

1903~1906年(明治36~39年)三江師範学堂総教習、高等師範設置計画を進めたが、中国人の知的水準を疑問視する多くの日本人教習の反対を受け中途に終わる[34][35]

1903年(明治36年)漱石が三江師範学堂の菅虎雄にあてた長文の書簡[19]中の何人かの共通の友人に記した部分に「君は時々菊謙と議論する相だな両方とも剛情だから面白いだろう」、追伸として「菊謙へよろしく、あいつ四百元の月俸で大得意だろう」とある[36]

1906年(明治39年)帰国

1907年(明治40年)ローマ字の国字化への反対論[37]を記す。主な論拠は若い頃の子規が書いた、漢字を用いない事の欠点とよく一致する[13]

1908年(明治41年)水戸中学校長事務取扱兼県立図書館長事務取扱[38]夏目漱石がはがきを送る[19]。この時の住所は、水戸市釜神町三番地、現在、公営住宅がある。

7月、校是「至誠一貫」「堅忍力行」を定める。至誠一貫は徳川慶喜、堅忍力行は佐藤進の揮毫による[6]

1912年(大正元年)水戸中学校長[39]

1914年(大正3年)10月18日日曜、井上圓了が、「正午、水戸駅に着し、環翠亭にて、旧友菊池謙次郎氏、立見四郎氏と会食」と記している[40]

1916年(大正5年)12月9日、夏目漱石死去。

1918年(大正7年)2月4日、秋山真之死去。

同年『弘道館記述儀:訳註』の編纂に携る[3]。発行元の川又書店は水戸市内に現存し、当時の泉町の本店は、菊池の実家から歩いて数分の距離に当たる。

1919年(大正8年)8月~翌年7月、米国視察[41][6]

舌禍事件[編集]

謙二郎は水戸中学校長として「生徒の自主独立の精神を養う」必要性を強調した。

これは、従来の個人道徳が君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の実践などを説いていたのに対し、他者との関係をとりつくろうのではなく、自分の意志に基づく個人道徳として、自主、自立、自発などの諸徳の必要性を説いたのである。この考えにもとづき、水戸中学では1920年(大正9年)に定期試験の廃止や成績の付け方の変更するなどの改革を行った。

しかし、1920年(大正9年)いはらき新聞社の招きによる講演『国民道徳と個人道徳』で上記の考えを発表すると、茨城神道団が講演の主旨が不謹慎であるとして調査に乗り出した。その理由として、「神祇崇敬、祖先崇拝、家族組織、忠孝両道の所徳」をことごとく避難し、「教育勅語の趣旨」を根底より排斥したも同然であるというものであり、そのビラが市内各地にまかれた。さらに、茨城県選出の小久保喜七ら政友会の代議士10名と県内務部長の守屋源次郎は、力石雄一郎茨城県知事をはじめ、文相、内相、法相といった政府中央にも校長の処分を要請した。

このため知事は文部省や内務省に詰問され、知事から謙二郎に対し7か条の質問を行うに至った。[42]

謙二郎はその答弁書を書いたところ、力石知事も守屋内務部長も反論・非難するところ無しと回答した。

(しかし、後に生徒委員が謙二郎の校長復職を求めた際には、「講演の正否は人々の見解によって異なるが、大義名分に関して問題は極めて重大」として、復職は出来ないと回答している)

その流れを受け、謙二郎は辞表提出を見合わせたい旨内務部長に電話すると、困ったと連発するのみであったため、その「官吏の境遇」に同情して辞表を提出した。[3]しかし、その後も話は二転三転し、結局1921年(大正10年)依願免職[43]

これらの経緯は『危険視せられし道徳論と辞職顛末』を著し[3]、事件を起こしたとされた事情について、逐一証拠を提示して説明している。同書には菊池側に立った中村是公による貴族院での質問も収録されている。この時の住所は水戸市上市梅香582番地。梅香は藤田東湖生誕の地でもあり、謙二郎の実家と同じか否かは不明である。

生徒は謙二郎の進退に関し、同盟休校とデモを行うまでの、絶大な支持を示した[44]

衆議院議員、歴史研究者として[編集]

1924年(大正13年)、衆議院議員選挙に無所属で当選[6]

同年7月8日『菊池謙二郎提出教育ノ改善拡張ニ関スル質問ニ対スル文部大臣答』[32]

1925年(大正14年)3月7日治安維持法に反対票を投じる見込みの国会議員約30名の内の1人として報じられる[45]

1926年(大正15年)『菊池謙二郎提出政治道徳並文政ニ関スル質問ニ対スル内閣総理、文部両大臣答弁書』[32]

1927年(昭和2年)5月25日NHKラジオ講演[46]

1928年(昭和3年)著作『義公略伝』[3]、講演『謎の義公』[47]

1933年(昭和8年)著作『追憶片々』[8]。秋山真之への追悼。

1943年(昭和18年)著作『水戸学論藪』[3]

1945年(昭和20年)死去[6]

著書[編集]

  • 『新体皇国史綱』(成美堂書店、1898年)
  • 『藤田東湖伝』(金港堂、1899年)
  • 『義公略伝』(義公生誕三百年記念会、1928年)
  • 『水戸学論薮』(誠文堂新光社、1943年)

脚注[編集]

  1. ^ 津山郷土博物館博物館だより26
  2. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『茨城人物評伝』
  3. ^ a b c d e f g h i j 危険視せられし道徳論と辞職顛末」国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー『国史研究三題』
  5. ^ 茨城県立歴史館
  6. ^ a b c d e f g h i 水戸一高ホームページ・著名人伝
  7. ^ a b c 弘文社『茨城人名辞書』キ1ページ、1930年
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー、秋山真之会編『秋山真之』
  9. ^ 正岡子規『墨汁一滴』
  10. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『日本植物名彙』
  11. ^ a b 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『子規言行録』
  12. ^ a b c d e 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『友人子規』
  13. ^ a b c d e f g h 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー、正岡子規『筆まかせ』
  14. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー、正岡子規『水戸紀行』
  15. ^ 東北学院資料室ほか
  16. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『向寮誌』
  17. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『日本野球史』
  18. ^ 早稲田大学審査学位論文『日本統治下台湾における武士道野球の受容と展開』
  19. ^ a b c d 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『漱石全集』出典の詳細は書簡の日付で示す。
  20. ^ 中村哲也『近代日本の中高等教育と学生野球の自治』一橋大学博士論文
  21. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『漱石氏と私』
  22. ^ 群馬県立図書館
  23. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『漱石全集第十二巻書簡集』
  24. ^ 国立公文書館『山口高等中学校教授菊池謙二郎山口高等中学校舎監兼任ノ件』
  25. ^ a b c 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『子規全集』
  26. ^ 国立公文書館『岡山県津山尋常中学校長菊池謙二郎外二名任官ノ件』
  27. ^ 国立公文書館『千葉県尋常中学校長菊池謙二郎休職ノ件』
  28. ^ 国立公文書館『千葉県尋常中学校長菊池謙二郎依願校長ヲ免ズルノ件』
  29. ^ 国立公文書館『第二高等学校長澤柳政太郎以下二名任官ノ件』
  30. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『子規遺稿』
  31. ^ 東北大学附属図書館報
  32. ^ a b c 国立公文書館
  33. ^ 国立国会図書館・デジタルライブラリー
  34. ^ 九州大学
  35. ^ 和光大学資料・東京大学大学院準教授浅井幸子
  36. ^ 原文カタカナはひらがなに変更
  37. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『ローマ字国字論』収録
  38. ^ 国立国会図書館・近代デジタルライブラリー『水戸中学:附茨城県学事年表』発行は菊池が校長の時で、序文も本人による。
  39. ^ 国立公文書館『菊池謙二郎外六名茨城県立水戸中学校長外六校教諭任命ノ件』
  40. ^ 東洋大学学術情報レポジトリ『南船北馬集 第十編』謙次郎は原文ママ
  41. ^ 国立公文書館『各国ヘ出張ノ件、海軍技師岡垣宗三郎英国ヘ出張』
  42. ^ 茨城県史編集委員会1984年「茨城県史=近現代編」P428~430
  43. ^ 国立公文書館『公立中学校長菊池謙二郎依願免職ノ件』
  44. ^ 茨城県ホームページ『輝く茨城の先人たち』
  45. ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・大阪朝日新聞 議会政党および選挙(28-175)
  46. ^ 『水戸黄門の事業と性格』国立国会図書館『横から見た歴史』
  47. ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー『水戸光圀卿生誕三百年記念講演』