菊池謙二郎

菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日(慶応3年1月19日) - 1945年(昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規、秋山真之、夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
出身と上京まで[編集]
1867年2月23日(慶応3年1月19日)水戸藩士にして水戸支藩石岡藩家老[1]、明治2年に石岡藩権大参事[2]の菊池慎七郎、母まむ[3]の二男として水戸[4]天王町[5]に生まれる。慎七郎を、謙二郎に私淑した前田香径[6]は、無念流の剣客とし[7]、大坂町無念流の剣道家[8]、元二百石の水戸藩指南役[9]ともされる。
兄直一郎を世事に関わらない温厚な人とする『茨城人物評伝』[10]は、渋沢栄一自伝に、直一郎の先人菊池慎七郎と村田正孝が徳川昭武の洋行に随行、渋沢が両人により危うく斬殺、とあるとするが、実際の自伝等[11]では、随行の菊池姓の人物は平八郎である。両人共に水戸藩出身で茨城県の酪農畜産の発展に貢献し[12]、先人ではあるが、血縁関係は不明である。「平八郎を慎七郎と書いている本もある」とし平八郎と慎七郎を同一人物とする後世の資料[13]もあるが、平八郎は慶應4年7月にはパリにおり[14]帰国とほぼ同時に石岡藩家老に成り得たかは不明である。 参考として、菊池平八郎重施の父、菊池平八郎重固[15]が、文化5年7月22日58歳で没した彰考館27代総裁[16]であることを示す。
- 弟は忠三郎、明治2年3月22日生[17]、岳父は鈴木萬次郎。後掲。
- 妹はやす、明治3年生、養子平八は後藤新平の次男[18]。
- 子は、呉一:明36 8生、揚二:明39 2生、後掲、かをる:明43 8生[19]。
- 1869年(明治2年)石岡へ転居[3]。
- 1872年(明治5年)大竹村へ転居[3]。
- 1881年(明治14年)水戸へ転居[3]、栗田寛が前年に大坂町の自宅に開いた[20][21]家塾、輔仁学舎で学ぶ[22]。
1882年(明治15年)茨城中学校(翌年、茨城第一中学校に改称)入学。校内第一の駄々っ子[17]、きかん気とされ、同級生中最年少ながら唯一人体操で百点を得る。演説の稽古をするが、演説傍聴禁止の校則に触れる。文芸雑誌に時代に先駆けカナ交じり文での投稿を続ける[21]。
- 伝記、森田美比『菊池謙二郎』[23]がある。茨城中学校、謙二郎が校長を務めた、後の旧制水戸中学校、現茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校のホームページ[3]に出身と経歴の記載がある。
1884年(明治17年)二学年終了後退学、上京、共立学校へ転学[1][24]。
交友[編集]
1884年(明治17年)5月、共立学校(二級[25])に入る。後、正岡常規君と同級だったが、在学期間4か月で同級生すべてを知り得ず、秋山(真之)君と同級だったか判然記憶しないと記す[26]。
9月、共立学校の同級より、正岡子規と二人だけ[26][27]、大学豫備門に進み、子規と親しくなる。当初、大学教授松村任三方に下宿[26]。同年2月の松村の住所は牛込区若宮町一番地[28]。
1885年(明治18年)3月頃、神田猿楽町板垣方で子規、清水則遠[26]、井林廣政と共に下宿[29]。後、教室では温しい子規が下宿での知友に対しては遠慮会釈がないばかりか、同郷の友人と腕の捩じ合、喉の締め合をした事、子規の頼山陽との詩作競争、子規が始終敬服していたのは漱石であった事等を記す[30]。
- 夏、子規の帰省中、箱根へ脚気療養に行く清水に、井林等と同行[31]。8月2日、子規が箱根の清水宛に、松山の鯛料理を絶賛「殊に菊池兄に至てハ此天地に生を受ケ」て以来その味を知らず、之を食はしめは一嘗三嘆のみならざるべしとし、書状を謙二郎に見せるよう記す[32]。
9月、子規と共に学年試験に落第、進学してきた秋山真之と同級となる[26]。子規を松山出身者がよく訪れ、真之と親しくなる。柳原極堂とは議論、腕力比べもする[25]。父親の勧告により、再び、松村任三方に下宿。 12月、松村任三渡欧のため転居、真之に言われ、神保町で同宿となる。真之が真之の父親への歳暮用に買ってきた榮太樓の玉垂(だれ)について質問したところ、謙二郎は止めたと言うが、真之が水引を解いて一本取り出し、二人で食べてしまう。真之とよくキャッチボールを行う[26]。
1886年(明治19年)1月半ば、真之と共に駿河台下の齋藤方の六畳一間へ移る[26]。30日、仲間内で、『七変人評論 第一編』をつくる。虚子[26]に準じ、段を揃え、長幼の順に示す。
- 關 甲子郎 陸奥人
- 菊池謙二郎 常陸人
- 井林 廣政 伊予人
- 正岡 常規 同
- 秋山 真之 同
- 神谷豊太郎 紀伊人
- 清水 則遠 伊予人
謙二郎は、人を評するに「区々として賤しみ恋々として慕う」、人に対して「義気あり交わること比々たり」、相撲で井林と、弄球で真之と、最高位の大関とある。虚子は子規、真之と謙二郎には会った事があると記す。後、謙二郎は、番付は、一人二人で決めたもので、随分当を失したものもあるが、真之と共に大関になったボール投げだけは、まず公平無難と思うとする。日本海軍の野球の始祖と言われた真之も、後、予備門時代に野球に溺れた事もあったと記す[26]。 井林は『南方随筆』[33]に伊予大洲の士族とある。神谷は後に第五高等学校で、漱石、山川信次郎等と同僚となる[34]。中瀬喜陽[35]は南方熊楠が同じ和歌山出身の神谷を介し、さほど親しくはないが、子規を知り、神谷は子規・秋山等と七人組とか称し毎夜寄席に通っていたと言った、玉村恭[36]は、神谷が第五高等学校で漱石に謡を教えたとしている。 南方熊楠顕彰館は、井林と神谷は熊楠とも親しく、1886年12月5日、渡米する熊楠の送別会前の写真を示している[37]。
- 4月14日午後1時過ぎ、清水則遠死去[25]。子規が「二三町横に居りし菊池、秋山二氏」等記す[31]。死骸の始末が済み、悄然として気の抜けたように床(とこ)の中にもぐり込んだ子規を真之が「意気地がないな、しっかりおしや」と大喝、気の毒に思われた旨、後、謙二郎が記す[30]。翌日、葬儀に参列、施主は子規[32]。真之と学校に近いパン屋渡辺宅二階へ移る[26]。29日、予備門が第一高等中学校となる[38]。
- 6月23日、真之の子規宛返信、棒ハ菊池ニ託セリ[39]。10月、真之が海軍兵学校に入学[26]。真之の予備門での約1年のうち、約10箇月が謙二郎と同宿である。10月末までに、猿楽町の新築平屋の下宿尾谷に転居、極堂は廊下左が子規、向いが謙二郎の同居人各一名の六畳としている[25]。秋[29]。米山保三郎の来訪を翌朝子規から聞かされる[30]。
1887年(明治20年)豫科第二級(英)二之組、子規は一之組、關甲子郎は三之組[40]。 6月30日、兄直一郎、東京農林学校獣医学速成科卒業[41]、7月24日、松山の獣医学校に着任[42]。
- 12月25日の事だったろうとし、子規が「愉快」[29]に記す。ベース・ボールをやり、子規はCatcher、菊池仙湖はpitcherで、負けたが仙湖とperfectをやり、夕方から寄宿生一同、連雀町の今半で宴会を始め、くじ引きでの贈物交換会で、子規に「菊池氏」の物が当たる。
- 冬、夜抜け出し路上で大福餅をほおばり、満腹の子規にも勧める(「Over-fence」[29])。
1888年(明治21年)校長の軍隊式教育に反発、球抛げをしていた庭に舎監が好意で立てた物干の棒杭を友人と夜中に全て引抜き校外へ投捨てる[25]。 4月末、賄征伐に主謀者の一人[25]として参加、最初に他2人と共に呼出され、翌々日、再び呼び出され、他10人と共に約一箇月、停学、退寮となる。他6人と共に猿楽町の某下宿の一室に同居、子規等が毎日訪ねる(「賄征伐」[29])。後、謙二郎は「正岡は賄征伐の参謀格の一人」だったが、風采言語が温和で処罰を免れ、陰口には「正岡も免れて恥なしと思ふ人ならず」とする[25]。明治28年、松山の屋外で漱石は賄征伐の情景を生徒に物語る[25]。
- 龍口了信は「予備門の頃」[43]に、予備門入学後、猿楽町の末富屋で、中村是公、謙二郎、得能文等と一緒にいたとするが、漱石も予備門入学頃、末富屋にいたとしており[44]、了信の話が予備門入学直後なら矛盾が生じ、別の下宿か、この時の事か、不明である。
- 9月24日、向島に避暑に行っていた子規の葉書、早々逃げ帰りたり、宛先は、麹町區中六番町四十八番地、木村方[25][45]。
1889年(明治22年)4月、子規が同郷の後輩吉田匡[46][47]と、水戸まで主に徒歩で旅行し謙二郎の実家を訪問、『水戸紀行』[48]を、半年後にまとめる。
- 5日1時過ぎ、子規らは人力車で常磐神社の下に着く。仙波沼(仙湖・千波湖)を離れ「坂を上れば上市なり、町幅広く店も立派にて松山などの比にあらず」。神崎坂を通ったと言われている、ともされる[49]が、1885年頃、子規らが通って来た道と繋がって便利になり[50]、1890年4月の地図[51]にある、現偕楽園駅前から陸橋付近を経て大工町への坂を上り泉町へ右折する方が便利である。
- 宿に寄り食事をした後「菊池仙湖の家に至る」「五十許りの翁出で来る 容貌の似通いたるに仙湖の親ならん」「仙湖の存否を問ふに今此下を通りし汽車にて出京」「水戸の士の風なるべしとむかしゆかしく思はれたり」、座敷に「東湖の書を彫りたる竹の柱隠しあり」「庭のつくる處はきりぎしをなし其下に仙波沼低くきらきらとかがやけり」「母親も出て来られて挨拶あり」父親から宿泊を勧められ「其質朴淳良の風思いやられてなつかし」とし、実家への宿泊を遠慮、水戸学関連の史跡見学等に行く。実家は、天王町の生家[52]と違うが、天王町 釜神町 大坂町 梅香 泉町は徒歩数分の圏内にある。天保年間の地図[53]の上梅香に「菊池」の家があり、2014年現在、同所の私有地に子規の句碑がある[54]。
- この家を鴨ものぞくや仙波沼[55]
- 7日、子規が汽車で帰京直後に訪ねると、会えなかったことを残念がり、子規の葉書同様、弟の葉書も未着と言い、子規の偕楽園下の穴についての問に、土を掘るためで何でもないと答える。会話は謙二郎のみ文語体で記され、子規はこの旅が病の元としている。
- 子規、明治29年の句[56][57]、
- 崖急に梅ことごとく斜なり
- 水戸にて某の翁の家をおとずれける事を思ひいでて
- 梅の花柱かくしは東湖なり
子規の下宿での小文学会において、赤穂義士討入りの手紙と称するものを朗読、批評を求める。子規は文章が余り善く出来過ぎているから偽作であろうとし、漱石は黙して何とも言はず、続いて、子規は親友を列記し示す[25]。子規は、
- 「交際」[29]に朋友19人を挙げ、厳友 菊池謙氏、畏友 夏目金氏、親友 大谷藤氏 温友 神谷豊氏 剛友 秋山眞氏、亡友 清水遠氏等と記す。
- 「一九の迷惑」[29]に、かつて仙湖が一々会で、子規を十返舎一九に例えたことがあると記す。
- 「七変人の離散」[29]に、四年程前に七変人評論なる者をこしらえ、関の退学と消息不明、井林の退学、秋山の転向、清水の死去、同学生として今に一所にある者は、菊池、神谷と余の三人のみと記す。
- 大谷是空は『正岡君』[30]で、書生時代の子規を能く知る人は、夏目金之助(漱石) 龍口了信 菊池謙二郎 山川信二郎 細井や自身等、『難波雑記』[1]で、子規と相往来する間に別懇になったのは、菊池謙二郎(仙湖) 米山(名失念) 夏目金之助(漱石) 細井岩弥 山川信二郎等としている。
1890年(明治23年)2月、自治寮設立に当たり、豫科を除く創立委員14人の一人となり、赤沼金三郎と共に会議の議決事項の木下廣次校長への報告等を行う。3月~7月、寄宿寮委員の一人となる。[58]。 5月2日、インブリー事件時、インブリーを赤沼らと保護、校庭を出る[59]。この時の投手は岩岡保作[60]。
9月、東京帝国大学法科大学入学、文科大学国史科に転じる。『国史科』に菊池謙次郎 龍口了信、『哲学科』に正岡常規 米山保三郎、『英文学科』に夏目金之助、『理科大学』に神谷豊太郎の名がある[61]。弟忠三郎が寄宿寮委員となる[58]。
1891年(明治24年)6月30日、漱石が兄や謙二郎らと歌舞伎座に行き、翌月9日、帰省中の子規宛書簡[62]に記す。歌舞伎座で「仙湖先生を待つ程なく先生到着錬卿をつれて来ると思ひの外岩岡保作氏を伴ひし時こそ肝つぶれしか(再模得子規妙)」、漱石が舞台も見ずに腹痛を起こすまで食べる間、「仙湖先生は頻りに御意に入ってあの大きな眼球から雨粒程な涙をながす」。
- 9月12日、子規の落第を心配する漱石の子規宛書簡、試験の問題は悉く忘れたれば菊池より送ってもらふ[62]。文面は漱石も受けた過去の問題を指しており、「菊池」が謙二郎か国文學科の菊池壽人[63]かは不明である。
1892年(明治25年)頃の話として高浜虚子は[64]、子規の親友はあまり多くなく、菊池謙二郎、秋山真之、その他二三で、同じ文学に携わる者としては夏目という名がしばしば繰返されたと記す。
- 4月12日、子規の虚子宛書簡「今度郷里へ行き候菊池謙次郎といふ男は兄(獸医學校の教師)の所へ行きしものなるが小生が東京にて得た友達の中で一番交際のふるき者なり此者は今小生と共に在學し居るが國史科専門故文學界の事は能く知るまじけれど去りとて全く文學上の嗜好なきには非ず貴兄御暇あらば」「何か御聞可被成候」「案内して御やり被下度候尤も滞在は三日許り」[32]。
- 5月4日、子規の虚子宛書簡、菊池はズボラにてはなし併し水戸人なり[32]。6月1日、子規が書簡を送る[45]。
- 7月16日、子規の大谷是空宛書簡、細井、菊池(謙)、尾田、神谷と僕と四人にて岡野に舊好會を開き申候[32]。
11月5日土曜日から翌6日の妙義山方面への「第六回文科大学遠足会」幹事として、齊藤阿具と共に、紀行文を子規に依頼する。参加は三年生全員20人、漱石等二年生12人より子規を見出しての依頼である。後、虚子は退学を決めた子規への想いも示唆する。子規は「先発として出張したる菊池謙次郎(立花銑三郎)」と記す。学生で氏名明記があるのは二名のみだが、『水戸紀行』同様、謙次郎とある[65]。
- 行く秋をさらに妙義の山巡り 幹事の清嘱によりて 子規子識
1893年(明治26年)1月4日、子規を訪ねる[66]。7月3日、子規の日記、仙湖来、出社、林和一氏紹介幹雄青宣二氏於倉田屋
- 風涼し髭なきは我一人哉[66]。
7月10日、東京帝国大学国史科卒業、本籍は北海道[67]、国史科3人(ほか、中山再次郎、幣原担)中の首席である[24]。後、菊池の狷介、幣原の穏健、中山の磊落とされる[68]。
- 7月13日~15日、漱石、米山保三郎と日光へ旅行に行く[69]。7月26日、漱石の齋藤阿具宛書簡、「菊池氏富士登山の日限は不定の由に御座候同氏は両三日中に文部省より任命の沙汰有」[62]。8月7日、漱石が西谷虎二宛に「菊池米山両人と」の旅行の事を記す[62]。15日、漱石の立花銑三郎宛書簡、「菊池の出仕は磯田(良)の方未だ方付ざる故任命の運びに至らず」[69]。文部省属専門学務局四級俸[70]。
- 9月8日夜、上京中の狩野亨吉を訪れる[71]。12月8日、庵主を務めた杉浦重剛の私塾、称好塾貞照庵で留別会が催され、翌日、午後9時50分新橋を発つ[72]。
教育者として[編集]
1894年(明治27年)1月15日、山口高等中学校教授、26日、兼任山口高等中学校舎監を伊藤博文が奏する[73]。英語 歴史 論理担当、従七位、校長は岡田良平[74]。8月、北条時敬が教授に加わる[75]。生徒に横山健堂(達三)、後述する。
- 3月9日、漱石が肺結核と診断され、漢詩を含む長文の書簡を記す[62][76][77]。
- 何となう死に来た世の惜しまるる
- 5月31日、漱石が「不気用中々上達の見込無」ながら弓の稽古に励んでいるとの書簡を送る[62][77]。
- 1895年(明治28年)3月18日、松山へ赴任前の漱石が「貴方にて金五十圓程御融通」「尤も貴兄も随分貧の字なるければ(是は失敬)」「友達の好みと思ひ」と書く[62]。愛媛県尋常中学校での月給は校長60円、漱石80円[77]。
- 山口大学[78]では、漱石が山口へ赴任を断った真の理由を、松山赴任の先約ではなく、1893年の山口高等中学校の寄宿舎事件にあるとの推定を示している。
- その前の1月、子規が、北海道の井林宛に、関の消息は不十分ながら、日本中学校の教員との伝聞、謙次郎は文学士となり山口の高等中学校教授、神谷は理学士となり大学院、真之は筑紫艦に乗込とは聞くが消息なし、清水は依然谷中の旧墓地に眠り、香華を供する者も無し旨書く[79]。
4月、岡山県津山尋常中学校初代校長。9月開校。現岡山県立津山中学校・高等学校にヒゲ姿の「初代菊池校長像」がある[80]。湊哲夫[1]は招聘に大谷是空が大きく関わったと推定している。奏任待遇年俸800圓、雇教師に是空[81]。
- 10月8日、漱石が、就任の祝と、「結婚の事も漸く落着致候」と書く[62]。
- 12月14日、子規の是空宛書簡「仙湖評判よろしき由結構に御座候夏目は如仰」「仙湖に御出合も候はばよろしく御傳言奉願候」[32]。
- 1896年(明治29年)6月、子規が七変人の中今東京にある者は余一人のみ、と書く[29]。20日、教頭に奥太一郎[82]。東京より田岡嶺雲を招聘、後、外で中学校を批判した嶺雲に激怒するが、日曜の校長室に共に呼んでいた是空の仲裁で無事に終わる[1]。
- 史学的に琉球帰属問題を検討した初の学術論文、『琉球が本邦及び支那に対せし関係を論ず』が『史学雑誌』に掲載される[83]。
- 後の評価も高く[86]、古武士的な感じの教育者で生徒に敬神と尚武の気風を植えつけ、武道津中の基を作ったとされる。確固たる信念を持って教育に当り文部省の方針等を問題とせず、体操の時間には、鶴山城址の石垣上りを生徒にさせる。剣道が好きで道場では竹刀を持って生徒を励ます。津中の剣道が強くなり、野球も盛んになる。刑務所の看守が囚人を連れ校庭を横断、生徒がボールで囚人を負傷させ刑務所側が怒鳴り込んで来た際、逆に𠮟りつけ追い返し、生徒は叱らずに済ます[87]。
1897年(明治30年)4月25日午前、津田左右吉が、表神保町の旅館旭館に謙二郎を訪ねる[88]。
- 6月4日、任千葉県尋常中学校長を松方正義が奏する[85]。(年1200 奏任待遇)文官普通試験委員社司社掌試験委員[89]。
- 夏、東京で漱石に会い奥太一郎について話し、12月17日、漱石が「奥(泰二郎氏か)」の第五高等学校での採用を問う書簡を送る[62]。
- 1898年(明治31年)1月、著作『新體皇國史綱』[10]。
- 校長として絶賛され、生徒は銀杯を贈り謝恩の意を表すが、生徒の敬礼問題で長官と対立[90]、3月、休職[91]。
- 3月28日、子規の漱石宛書簡、菊謙知事と意見あはずとて新聞に己の説をかかげ候由奇観と存候[32]。
- 5月29日、子規の漱石宛書簡、謙次郎非職になりて後一度談話致候[32]。
- 6月2日、退職[41][92]。津田左右吉「菊池謙二郞君を送る辭」「中學校長は何様の人物を要するか」[93]。後、虚子は柏田知事と論争、歴然其地位を去ったとの伝聞を記す[26]が、柏田の在任は1月まで、休退職時の知事は安藤謙介である[94]。
- 横山健堂によると[68]、安藤が謙二郎を免じた件は、教育界で有名で、「授業中は戦士の陣営にあるが如し」、皇族以外、敬礼すべからずとし、安藤来観時も生徒に敬礼を命じなかった謙二郎に、安藤が怒ったためである。宴席で知事の頭を殴ったとの噂は後述する。
第二高等学校長[編集]

7月16日、任第二高等学校長 叙高等官六等を大隈重信が奏する[95]。第三代校長、ヒゲがある[96]。大学予科教授に斎藤阿具[97]。
- 8月2日、子規の叔父大原恒徳宛書簡、私同学の友人菊池という男は仙台の第二高等学校長と相成候これが同学生中第一の出世なるべく候[32]。
- 前任の沢柳政太郎の意を継ぎ、二度廃止されていた寮復興および寮での自治確立に努める。設備は不充分だったとされる[98]。公明正大を旨とし生徒の自覚を信じ、欠席届を廃止するが、欠席者が増加する[99]。
- 10月2日、寮が誠之寮として復興、舎監と開寮式に出席、寮生、学校長、舎監の親密さには見るべきものがあったとされる。11月29日~翌年5月28日、寮視察の他、寮の茶話会、忘年会等に度々出席する。この間、尚志会文芸部が発会し、5月17日、嘉納治五郎が講演を行う。6月、文部省書記官視察、7月中旬以降の寮の記録は紛失する。
- 三好愛吉の舎監就任は謙二郎辞任後であるが、後の記録に「菊池校長三好舎監は、口を極めて自治を賛美し」とある[98]。
- 1899年(明治32年)3月、弁論部主催の疑国会で首相役を務める。弁論部衰退期ともあるが、議題の一つが「試験廃止案」だったためか会場は立錐の余地もなかったとされる[96]。7月26日出京命令が、29日出京が、官報に載る[41]。
- 9月、著作『藤田東湖伝』[10]。
1900年(明治33年)2月12日夜半過、子規の漱石宛書簡、「病身である」だの「先ず無事でゐるだのと書いて菊池に笑はれたことがある。此手紙などを見せたら菊池ハ腹の中で笑ふであらう。」[32]
- 4月、休職[97]辞職。久保忠夫[100]は、漱石が心配、明治32年1月14日付書簡(ママ)で狩野亨吉に「仙台にての出来事は如何なる性質のものにや」と問合わせ、「漱石の交友に見られないところ」とし、1月に赴任した[101]土井晩翠が、謙二郎は硬骨が祟り在任一年そこそこで文部省の上田万年専門学務局長と衝突し免官、仙台を去る時は仇兆贅の『杜詩詳註』を呈上と述べたとしている。この頃、仙湖漁史と号したとする資料もある[102]。
京都帝国大学法科大学[編集]
7月入学。京都帝国大学総長兼法科大学学長事務取扱は木下廣次[103]。法科大学の木下以外の教授7人中、岡松参太郎 高根義人 田島錦治、助教授5人中、島文次郎、卒業に関しては毛戸勝元、講師4人中、跡部定次郎 狩野直喜は、第一高等学校の後輩、島 狩野は文科大学でも後輩である[104]。
- 西英明[105]は、次男菊池揚二による回想で、一学生として学んだことについて、晩年、「法律を勉強しなければいかんという気持ちにな」り「やろうと思ったが、一年かそこいらでやめた」「ひとの翻訳本読んだってつまらぬ。必要あれば、法律の本繰ってみればわかる」というぐらいでやめ、後に「あのときやっておけばよかった」と言ったとする。
- 11月26日、子規の書簡「再び角帽の生涯羨敷候
- 葱汁や京の寄宿の老書生
- 玉稿返璧句ハ作れば進むもの」「前年拝見致候よりは一段の上ニあるよう存候」[32]
- 1901年(明治34年)1月8日、子規の書簡「河東碧梧桐は昨年末結婚猿楽町廿一丁目に住居申候猿楽町廿一丁目とは猶貴兄の御記憶に残居候哉如何尾谷といふ下宿屋今もありて」「貴兄は何とかいふ少年と同居、小生は大井といふ我儘者と同居」「鯨汁を貪らふとする途端小生が嗅付けたる事も有之候」「小生は此事を思ふ度に一度は笑ひ一度は泣申候」[32]
- 10日、子規の書簡「御手紙拝見」「米山の鼻を如何なる鼠がかぢり候やらん小生も時々思ひ出してはをかしく成候併し此哲学者も已に此世のものにあらず」「郡司大井亦あらず」竹村鍛は「最早望無きよし」、一方で八橋煎餅を無心する[32]。『吾輩は猫である』の八木独仙は哲学者でネズミと鼻の件等、米山と一致するが、ヒゲ等で謙二郎がモデルの一人ともされる[88]。住所は京都帝国大学寄宿舎。翌月9日、子規は「近頃貧厨をにぎはしたる諸国の名物」の一つに八橋煎餅を記す[27]。
2月2日、弁論部定例会で「世人より今東湖を以て呼ばれし水戸の人、文学士菊池謙二郎氏の西郷南洲論と題する講演あり。聴衆に多大の感銘を與へられた」とされる[106]。
清へ[編集]
1901年(明治34年、光緒27年)4月13日土曜午後四時、会費凡そ一円の渡清する謙二郎の送別会、案内状の草稿[107]には、苗字のみの表記が多いが、該当する友人[108]に同姓が少なく、大塚保治 岩岡保作 牧瀬五一郎 菅虎雄 狩野亨吉 山川信次郎 菊池壽人 大森金五郎 本多淺治郎 中澤澄男 岩元禎 松本亦太郎 会のまとめ役藤井健次郎は、特定できる。小川は小川平吉か不明、ほか、知人に藤井乙男がいる。
5月上旬、南京より移転改称した上海の東亜同文書院に初代教頭兼監督として着任、法学通論等を担当、渡清は私淑する杉浦重剛の勧めによる。教員は根岸佶 佐原篤介 清国人欧米人各1等に、少し後の着任の高瀬梅吉を加え計10人とされる[109])。 8日、初代院長根津一、日本より学生を引率し書院に着く[110]。
千葉中学校長辞職からの経緯について重剛は[111]、
- 「菊地謙二郎君が千葉の中学校長をしている時安藤知事と衝突をして辞職」「予は君を第二高等学校長に推挙」「この時は尾崎文部大臣に柏田盛文が次官で」「柏田が思い切って菊地を挙げたのはよかったが、菊地君は又何かあって、直ぐに罷めてしまった。菊地君は三十二歳の時で」「随分若い校長であった。然し自分は二十八で豫備門の校長をしたので」「差支は無かろうと思って推挙したのだ。その後菊地君は法律を勉強するといって京都の大学に這入った」「東亜同文書院の教頭が無いといふことで」「又菊地君を薦めたところが、君も快諾」「後になって思ふと、これは自分が失策であった」「法律をやらせて、モ少し廣い舞臺で働かせるがよかった、と後悔する点があるよ。」と後に述べ、謙二郎への高い評価も示す。
- 秋山真之と上海の東和ホテルで再会、後に「早卒の際でゆっくり昔語りもせずに別れた。そしてこれが永久の別れとなったのである。」と記す。本人は翌年とする[26]が、翌年は渡清二年目、真之も海軍大学校の教官で、森田[6]も、15年ぶりの再会としている。真之は5月15日と12月9日に、清より最近帰国の記録があり[41]、再会時期は5月8日より前が最も整合性が高い。
- 5月12日、立花銑三郎死去[69]。8月22日、漱石の日記、菊池仙湖ヨリ端書[112]。12月23日、宗方小太郎が狩野直喜と共に晩食に招く[113]。
1902年(明治35年、光緒28年)2月5日、上海郵政埠頭着[113]。
- 4月14日、扁桃腺炎、15日、書院を訪れた院長就任直後[110]の杉浦重剛を病床で迎える。19日、ほぼ治癒。5月4日~12日、重剛達と共に、新旧院長送迎会出席、新校舎増築地視察、上海江左書林、経元善、南洋公学を訪問、漢詩を作る。16日、重剛を見送る[114]。
- 大谷是空等[115]は、重剛が半分東京にいて、謙二郎が院の内外を鞅掌とする。
- 9月19日、正岡子規死去。生前に見舞った阪本四方太が、後、子規が病床で批評した一人に謙二郎を記す[30]。
1903年(明治36年、光緒29年)4月13日、漱石の奥太一郎宛書簡、御存知の菊池謙氏上京明日同氏の為に會を開く筈に候[62]。15日、住所は水戸市上市大坂町二[41]。5月9日、東京盲唖学校卒業證書授與式に臨席[41]。同月、杉浦重剛、病気のため院長辞任[110]
- 5月、東亜同文会が支援する南京の三江師範学堂に派遣され[116]、初代総教習に就任、両江学務処参議を兼任する。崔[117]は、張之洞の依頼を受けた近衛篤麿の推挙による任命、月俸は謙二郎が四百元、菅虎雄三百元としている。同学堂は後の南京大学等の起源とされ[118]、東南大学[119]が示す集合写真に、張之洞と魏光燾の間、中央やや後に謙二郎が写る。日本人教習は、菅虎雄 松原俊造 志田勝民 大森千蔵 安藤安 岸達仲 那部武二 柳原又熊 杉田稔 亘理寛之助[117]、岸を欠き、郡部武二 柳原叉二とする資料[120]もある。岸は岸廉一と一致する[121]。
- 7月2日、漱石の菅虎雄宛書簡「君ハ時々菊謙ト議論スル相ダナ両方トモ剛情ダカラ面白イダロウ」、追伸「菊謙ヘヨロシク、アイツ四百元ノ月俸デ大得意ダロウ」[62]。
- 9月14日、漱石の菅虎雄宛書簡「菊池は矢張元気であらう是へも無沙汰をして居るから君からよろしく頼むよ」[62]。
- 訪れた佐佐木信綱に落合直文の死去を知らせる[122]。
- 1904年(明治37年)4月、菅虎雄と共に恤兵寄付金を拠出。肩書等は三江師範学堂正七位、菅は第一高等学校教授従六位同前。一時帰国、7月17日と8月21日、杉浦重剛を訪問[123]。
- 12月の文部省『教育ノ効果ニ関スル取調』[10]では、三江師範学堂教習 菅虎雄、南京高等師範学堂 菊池謙次郎とある。
- 誇張、脚色があるが、『野沢如洋:豪侠画人』[10]の抜粋要約を示す。
- 清側主催の西太后の万寿節祝宴への日本人招待客決定を岡部領事と共に依頼され、才を評価した如洋を招待、意見の違う領事と対立する。大晦日夕、同窓の石井工学士、如洋と飲み始め、如洋と朝8時前まで激論、「後で飲み直して続きをやろう」と快心の笑いを漏らし、9時に大礼服で学堂の新年式に出る。数日後、三寸背の高い岡部に酒を奢られた後、袋叩きにされ、如洋に助けを求める。素行不良の岸廉一を追い払う。
1905年(明治38年、光緒31年)10月、中国側当局の要請による高等師範設置計画、優級師範学堂への昇格推進に、中国人の知的水準を疑問視する多くの日本人教習が反対[117][124]、または、謙二郎の独断専行的な運営に対する[116]、多くの日本人教習との対立が表面化、東亜同文会も収拾に当たるが、外交問題に発展、総教習の下に副教習を置く等の清側の和解案を教習側強硬派が拒否[125]、翌年3月、当局が謙二郎以下全員を解雇し紛争は終わる。後任の松本孝次郎は両江師範学堂への改組昇格を果たす[117]が、日本人教習と抗争を抱える事となる[126]。
- 1906年(明治39年、光緒32年)2月1日、「やまと新聞」が「三江学堂総教習菊池夫人」と記す[127]。4月、パリで三江学堂の謙二郎に触れた文書が出版される[128]。5月26日、博愛丸にて元教習の柳原と共に帰国の途につく[125]。清での教育推進は杉浦重剛の意志でもあり、謙二郎と同じく重剛の門下にあった菅虎雄も謙二郎と同調していた事がうかがえる[123]。
- 6月頃、重剛が記す。寄懐菊地學士在水戸 近帰自清国[123]
- 回顧西遊星六周、知君幾渡大江流、申江春色南京月、不識猶牽殘夢不.
水戸にて[編集]
1907年(明治40年)ローマ字の国字化への反対論[129]を記す。 兄直一郎、茨城県六等(年30)県獣医(手当年800)種畜場技師正七位水戸市上市大坂町[130]、9月14日、死去[131]。
1908年(明治41年)2月水戸市教育会初代会長[132]、4月水戸中学校長事務取扱[133][21]、6月県立図書館長事務取扱兼務[134]。森正隆が私財を投じ設立、初代校長も務めた私立茨城盲唖学校(後の茨城県立盲学校・同水戸聾学校[135])商議員を兼務[136]。 校紀弛緩が問題化しており、校長就任は政友会系の森知事の叩頭百拝とされる程[137]の要請による[133][24]。綱紀粛正、教員の資質向上、学業重視の改革を行い、当初、生徒から畏敬はされたが親しまれる面は少なく[133]、森田美比[6]もこの時は厳格主義をもって臨んだとする。
選手制度と称する、野球等の特定選手への試験や授業出席免除、成績優遇、遠征諸費用支給、応援等特別扱いを廃止、一方、陸上運動会と端艇競漕、庭球野球柔道撃剣の毎年開催を定め、多くの生徒の運動実践を推進、学年別代表選手による対外試合を推奨、出場機会の少なかった下級生にも機会を作る。寄宿舎の門限を短縮し昼休みを延長する。生徒の劇場・料理店へ立入を禁じるが、音楽演奏会、学術講演会は除外する。
英字紙の記事に和訳を添え毎日掲示、校内文芸誌「知道」の発行を毎半年から毎月に変更、生徒の書画・文の投稿の奨励等、学力向上と情操教育にも注力する。匿名投稿は禁止、雅号での投稿は認める[21]。後、盲目校長の為に野球が弱くなったと中傷される[138]。
- 7月、徳川慶喜揮毫の「至誠一貫」、佐藤進揮毫の「堅忍力行」を校是として定める[24][3]。
- 9月、漱石が贈物の礼と著作『草合』を送るとの葉書を出す[62]。住所は釜神町、後に公営住宅の敷地となる。
- 11月11日、校歌撰。22日、創立記念式で、師範学校長 県庁高等官 新聞記者を前に、生徒の劇場立入禁止への新聞の批判に対する反論演説を行う[21]。
1909年(明治42年)教頭兼舎監に奥太一郎の弟[82]で意気相投じたクリスチャンの[139]伊庭菊次郎[140]、後の教頭、庄司萬太郎は前年に東京帝国大学史学科を卒業[141]した水戸浸礼基督教会執事[142]と、宗教に拘らない人材を揃える。
- 7月、菊池仙湖『和漢乱詩』[10]が、田岡嶺雲への病床慰問第二集の大町桂月 樋口竜峡編『寄る波』に載る[143]。
- 10月、自ら祭主となって、藤田東湖(没後)五十五年祭を行う[144]。
- 横山健堂は、関東連合教育会の際の東湖祭[145]講演で、三宅雪嶺が「(菊池)委員長の顔は痩せている」と揶揄した[146]、東湖の評伝では謙二郎の著作が最好とし[147]、後に旧師の一人とした謙二郎の年賀状について記す[148]。
- 健堂の友人の久木東海男は、謙二郎が全校生徒に新聞記者となりて気を吐くの志望者なきかと言ったと記す[149]。
- 水戸市教育会会長として、『東湖先生之半面』[150]を校閲。編『東湖全集』[151] 。
- 1910年(明治43年)『水戸名勝誌』[10]では、水戸中学校のみ、校長名以外に学校を評価する記述がある。
1911年(明治44年)2月13日、常総新聞連載記事が基の『水戸中学:附茨城県学事年表』が出版される[21]。 著者に内容を見ずに序文を書けと言われたと序文に書き、仙湖 菊池謙二郎識と記す。奥付に明治43年とあるが、序文等の内容は明治44年発行を示す。著者は出版に際し坂仲輔知事以下県庁の協力を得たと記す。
- 2月18日、南朝正統論の立場から、南北朝正閏論、南北朝分立論を掲げる、尋常小学校の教師用資料を改めるよう[144]、文部大臣に建議書を送り[152]、内田周平が岩本平蔵と謙二郎に出京を促す[153]。
- 8月、伊庭菊次郎、梅花女学校校長就任のため「菊池校長其他が強いて留めるのを退け」辞任。2年後、新設の梅花高等女学校校長も兼任する[139]。
野球の弊害と改善[編集]
9月4日、東京朝日新聞の連載特集「野球と其害毒」に、謙二郎の中学在籍時の下級生で、忠三郎の同学年の[21]永井道明が発言が載る。永井は、後日の読売新聞社主催「野球問題演説会」で「少数の者のすることを見て、悦んで居ると云ふやうな国は亡びる」「その運動は何であらうとも」「成べく多数の者に行わせる」[154]とし、選手制度を批判する。
7日、嘉納治五郎が「我体育会では」「野球もやらせて居るが」「特殊な選手を作って試合を行わしむるごときはせぬ」「弊害を見ぬ」「然るに」「野球選手の対抗試合や国外旅行の如き」「興行に等しき事をなし」「体育の旨意に離る」「野球選手を作る学校では何と心得ているか」「いかに或る特殊の運動家を作ったからとて、他の大多数の学生がヤクザでは何んにもならぬ」「常陸山一人を出したからとて他の者が劣っていては誇るに足るまい」等[155]とし、選手制度を批判する。
9日、謙二郎の『野球の弊害と改善』が載る[155]。氏名等が明確な発言者は28人[60]である。 まず、「野球其物に罪なし」[156]とし、野球全否定論、野球自体への反対論の誤りを明確に指摘、「野球ほど快活で面白いものはない」と野球を肯定、次に、多くの弊害の元の選手制度[157]を批判[21]、弊害助長は「第一に早稲田や慶応の如き私立大学」とし[158]、自身の実践改善例[21]を示す。最後に、弊害助長の第二は新聞雑誌とする[155]。後に文部省の会議で、特定の選手の運動場占有に対し、各学年平等に行えるようにすべきと主張し支持される[159]。
- 安部磯雄が批評[160]するが、野球擁護は、新渡戸稲造に反論しない理由、サンドーの鉄亜鈴の繰返しも多く、長い。野球全否定論者を含め、名前を挙げ批評したのは、謙二郎のみである。
- 選手制度擁護では、「水戸の菊池校長」が、早慶を(選手制度ではなく)野球の弊害を助長した張本人と言ったと創作、野球普及は選手制度の御蔭、「水戸中学校長の意見」では、野球が盛んにならない、週3回の対外試合で技量が向上するので練習不要、運動場占有もそれだけ、「菊池校長」「水戸の菊池校長」が、五六十人位に野球をやらせろというなら等と発言を創作、(中学校の数倍の人数と運動場の)早慶とも実行、水戸野球選手の上京を見て憤慨した「菊池校長」は、学校万能主義の人らしい、遠征は立派な修学旅行とする。水戸野球選手の上京時、清にいた謙二郎の談話に「憤慨」の内容はない。
- 安部は海外遠征に一軍選手のみ最上級の船室利用で引率、相手側には収益ではなく入場料の3分の2を要求[161]、後に滝沢又市は、選手制度弊害の一つ、賎劣野卑な野次を日本に最初に輸入したのも、その下劣なことに気づき禁止の急先鋒になったのも安部と記す[162]。
- 中村[60]も、子規と菊池仙湖の野球の件 岩岡保作 インブリー事件 水戸中学校長に触れているが、仙湖と校長が同一人物等の言及はない。
- 翌年1月12日「布哇殖民」紙[127]は「早大野球部の改革」とし、早稲田では野球に伴う弊害が多く、野球の価値を下げ、中学選手等にも非学生的行為に流れる者があり、弊風一掃の為種種建議してきたが、早慶戦復活も慶應側に拒絶され、遂に行動を一新、改革の最初に選手制度の完全廃止決定の旨を記す。が、1906年に安部による応援団解散後の早慶戦中断は20年に及ぶ[60]。
教育活動[編集]
10月、茨城県教育会代議員として関東教育連合会に出席する[163]。
1912年(明治45年 大正元年)2月19日、政友会の後援で代議士選に出馬との噂を「日布時事」が記す[127]。
- 5月、全国中学校校長会議で文部省諮問委員会委員長として、中学校での法制経済と唱歌の科目削減の答申原案を報告[165]、翌年10月、歴史科を全廃し他の科目に併合、多岐にわたる学習科目を減らすよう主張する[166]。
- 9月、任水戸中学校長を西園寺公望が奏する。正七位[167]二級俸[41]。
- 1913年(大正2年 46歳)尋常中学校期の卒業生武石浩玻死去、水戸駅に遺骨を迎える[168]。銅像が校内に建立され[169]、12月21日の除幕式で建設総務として式辞を述べ、除幕は浩玻の甥「信行氏(九つ)」、祝辞は岡田県知事、竹下二十七旅団長等と翌年1月12日「日布時事」[127]が書く。
- 1914年(大正3年 47歳)3月~翌年3月、茨城県立図書館館長兼務、後も同館委員を務める[134]。
- 5月より発行の『国史叢書』[170]の編纂に加わる。
- 10月18日日曜、水戸市教育会の招きで講演に訪れた井上圓了が「正午、水戸駅に着し、環翠亭にて、旧友菊池謙次郎氏、立見四郎氏と会食」と記す[171]。環翠亭は三ノ丸所在。
1915年(大正4年 48歳)9月30日、漱石が再び講演を断り謝る書簡を送る[62]。住所は上梅香。
- 1916年(大正5年 49歳)『茨城民友』に「男らしい男」の一人として掲載される[172]。
- 12月9日、夏目漱石死去。
1917年(大正6年 50歳)3月14日水曜昼、水戸駅に北条時敬を迎え、晴光亭で昼食を馳走、偕楽園等を案内、柴田屋まで送り、翌日駅で見送る[173]。10月17日「布哇報知」[127]に、井芹経平、川田正澂と共に中等学校の三大教育家と記される。後、井芹は「明治から大正に亘って水戸の菊池謙次郎先生とともに全日本中等学校長の双璧と謳われた」とされる[174]。
- 11月10日、茨城県立図書館開会式において、文部大臣祝辞(代読)、県知事告辞等の後、式の最後に県立学校長総代として祝辞を述べる[175]。『教育年鑑. 大正7年』[10]の縣教育会に会長兼任の知事氏名記載があり、水戸市教育会は空欄である。
1918年(大正7年 51歳)2月4日、秋山真之死去。
- 6月、高等官四等待遇従六位[41]。11月、陸軍大演習に伴い他約220名十と共に、天皇から賜餞される[176]。
- 『弘道館記述儀:訳註』の編纂に携る[10]。発行元は川又書店。
- 1919年(大正8年)3月末、茨城県教育会理事に就任[41]。5月、矢野恒太は、静岡県の高官が、水戸の中学校は殆ど理想、校長が飛離れて立派な人で教員生徒の総てから非常な尊敬を受け、成績非常に優良としたと記す[177]。
- この頃、全国中学校長会で、議長杉浦重剛の、文部省の徳性教育への批判的な意見を支持、「やかましやの菊地(謙次郎)などはまっさきに、一体文部省では現在の校長教員そのものの徳性が涵養されて居ると認めるのですかなどとやりだした。」と後に重剛が語る[111]。同様に、白坂栄彦と共に、毎年の中学校長会議に何か問題を持ち出して牛耳る、二人には皆一目置いているとされる[178]。
欧米視察[編集]
8月1日~欧米視察[179][41]。 出発前の6月13日、サンフランシスコの「新世界」[127]は「知事を擲った今東湖君も来る」とし、気骨稜稜、今東湖と呼ばれるのは東湖の研究によってではなく、某中学校長時代の宴席で無礼なりとの廉を以て地方長官たる知事の頭をしこたま擲ったため等と記す。
- 8月1日正午、横浜を天洋丸で出航、港外で一日停泊する。
- 12日朝、ホノルル着。横浜からの日程は「官報」と照合の上、12日「日布時事」[127]による。同紙は「欧米に於ける戦後教育視察のため天洋丸にて渡米の途」とし、生徒は新しいものが好きなだけで危険思想にかぶれてはいないと断言、高等学校長を断り中学校長になった人等記す。
- 13日、「日布時事」[127]、「中学校長会議の席上文部省の訓告に質問を試みるだけの人だけに頗る風変りの処がある老先生非常に蟻が好きで」「暑いのに態々蟻狩りをやって歩ひてた」。天洋丸朝10時出帆。
- 19日早朝、天洋丸の一等船客としてサンフランシスコ着と翌日の「新世界」[127]が書く。極端な楽観論者とし、「デモクラシーの何だのと云う所謂思想家は売名の徒だよ」「吾輩も現状打破の要は認める」等の談話、水戸に開校予定の高等学校校長に擬せられている有力な教育家、水戸烈公の衣鉢を継ぐ人、当地に一週間ほど滞在、訪欧し戦後のドイツも視察予定と記す。
- 20日、「日米」[127][180]は、所謂水戸学派の流れを汲んだ現代教育家中の一奇人、省内切っての奇骨漢、半白髯の老骨に似合わずナカナカ元気とし、「新世界」と同様の談話を載せるが、水戸高等学校長に擬せられているという噂を軽く否定と書く。22日「新世界」[127]は紀洋丸乗船の実業家が、水戸中学校長の意見に反対した旨を記す。
- 22日正午、ロサンジェルスに向け出発と翌日の「日米」が記す[180]。
- 9月17日水曜、学務視察のためニューヨークに来ると「紐育新報」が記す[127]。同紙は水・土曜の発行のため、日時詳細は不明である。
- 10月29日水曜、水戸中学校長菊池謙治郎氏がボストンに来ると「紐育新報」が記す[127]。
1920年(大正9年)7月上旬帰国。定期試験廃止、評価の軟化、処罰の軽減化等の民主主義的教育方法を採用[6]、自主的な学習重視の学校改革を行い、生徒から、高校から転任した超中学校長級の人、信望も絶大、慈父等と言われるようになる[133]。帰国を7月7日とする資料[3]は出発を8月4日としており、正確な帰国日は不明である。一級俸 四等待遇正六位[182]。
舌禍事件[編集]
1920年(大正9年)12月24日[133][183][144]、いはらき新聞社主催で『国民道徳と個人道徳』と題し講演を行う。内容は速記録ではなく文責在記者として同紙に連載される。 講演では、従来の個人道徳の説き方が対他関係に偏り過ぎ外形を取り繕うものであると批判、「欧米の長」を採り、自主自立自発自治自張の諸徳を養う事に努力すべきとする[144]。
1921年(大正10年)1月5日、「茨城神道団」が講演内容を不謹慎とし、調査を決議、文責者名を削除、記事を改竄、非難のビラを水戸市内でまき、「舌禍事件」[133][144]「舌禍問題」[181]となる。中心は県内務部長守屋源次郎で「舌禍事件なるものも守屋サイドからの難癖で、菊池という敵対勢力をつぶそうという政治的暴力であったといえよう」ともされる[183]。 10日、水戸の名士会で再度講演を行う[144]。小久保喜七ら政友会代議士10名と守屋は、力石雄一郎県知事、文部大臣等政府中央にも校長処分を要請する[184]。 守屋らの画策で、事件は全国的に知られるが、後藤新平 中村是公も知るばかりか、知事自ら両者に書簡を送ってしまう[185]。
2月5日、事件は衆議院予算委員会で取り上げられ[133]、文部省から厳重な照会を受け、内務省警保局長から厳しく問質された県当局は[144]、謙二郎辞職を画策、忠三郎を呼出し説得工作を行うが、市村瓚次郎は軽々に辞職しないよう忠三郎に伝言を託し、知事が辞職は謙二郎のためと言うと、忠三郎は説得を拒否、謙二郎も相手により態度を変える知事に激怒、知事が困るなら辞めるが、自分が困るのは構わぬと一時辞職を拒絶する[185]。8日、謙二郎が県当局者に同情[144]、診断書を添付、病気事由とする辞表提出[133]、9日、依願免職発令[133][186]。 2月11日、生徒は紀元節式典日に校長の出校がなく、校庭で同盟休校を決議、12日午後、講堂での告別式で謙二郎が訣別への衷情を告げ壇上で泣き伏すと生徒も慟哭[133]、絶大な支持を示す[24]。 13日、生徒が復職要求のビラを市内で散布、代表の知事への請願も拒否されると、同盟休校に突入。15日、新聞一紙[187]は知事の水中二年の息子も上級生が止める中、泣いて血判を押したと伝え、別項で「小久保何とか云う老朽無為の議員抔が大口叩くから面倒に及ぶ。今時の教育家に無理解な老人共が横槍を入れる資格は更に無い。」と記す[185]。20日、釈明演説。生徒 保護者と話合いも重ね、自宅前での演説に生徒が応じ[133]、21日8時「他の何人の勧告をも容るる事は出来ぬが、菊池先生から復校の勧告あるが為に」先生の意に従うとする生徒が謙二郎の自宅前で万歳三唱し登校予定、と3月13日「日米」が記す[127]。 地元支持者は多く、茨城女子短期大学[172]は、水戸の歌人、小松原暁子が「水戸中学の盟休」として詠んだ六首中の三首を示している。
22日、衆議院で思想問題に関し「水戸中学の菊地校長の如き飛んでもない犠牲者が出て」と言及される[188]。病床の後藤新平が、忠三郎に「皇室中心主義者と知られたる」謙二郎が、辞職に至れりとは怪訝に堪えず其の真相如何と述べ、謙二郎に責任転嫁する知事の書簡を見せる[185]。 23日「日布時事」25日「日米」[127]は「旧道徳打破を叫び中学校長大問題を惹起」とし、「今東湖」菊池謙二郎氏が帰朝後思想を一変等、守谷等の主張に近い形で事件を記す。生一本の人、全国中学校長会議で「普通学務局長村上氏」の演説時『馬鹿野郎』と大喝、校長連の度肝を抜いた奇行家で熱心の余り極端になったとも記す(大正7年の公文書[85]では学務局の村上書記官)。25日、与謝野晶子が支持、小久保を「野蛮な代議士」とする[189]。 28日、貴族院予算総会で謙二郎を批判する形で取り上げられる[190]。
3月5日「胡麻鹽(塩)頭を撫でつけ山羊髯を生やして鹽瀬(羽二重)五つ紋に袴を着けた品よき中老の紳士」謙二郎が国会の国民党第二控室 に迎えられ、新人議員6人と意見交換、落着いた態度で、演説中傷ビラには「私の知らぬ過激な用語が」ある、水戸では問題にならなかったが東京の政友会代議士が騒いだ、政友会は嫌いで小山田信蔵にはいつも反対している等述べる。質問に、脅迫状は一通もない、再び校長にはならないが、教師・生徒は心配、自分は水戸で麦飯でも食っていく、言論の自由は尊重して貰いたい旨答える。議員3名は6日に謙二郎と共に水戸に行き、菊池問題の為に獅子吼する予定と4月6日「日米」が記す[127]。 13日、大阪毎日新聞が生徒と謙二郎擁護の社説を載せる[185]。 15、24日、貴族院分科会等で、中村是公が質問、文相の考えと県側の責任を糺す。主査は岡田良平[185]、是公は、謙二郎には敬称をつけ、忠三郎は自分の友達と言い呼び捨てにする。 26日、文相は衆議院議員への答弁[191]で、辞職は病気のため、政府は十分な釈明を聞いておらず的確な断定ではないが、校長も周密な注意を欠いた、新聞記事すべてが事実ではない等とする。
4月14日から「布哇報知」が「水戸中学の騒動と菊池校長」と題する連載小説風の特集を組む[127]。
- 最後に「排斥の旗頭は政友系の札つき」、謙二郎が釈明演説で辞表提出経緯を述べると、約1800の聴衆が嵐のような拍手、大衆が外で取り囲み熱狂的に支持、小山田等政友会の野心、小久保の守屋を使った「醜運動」で校長を辞職させたが、事実は謙二郎の勝、生徒も「後任校長が菊池先生に劣る人物であったら又一騒ぎ」等と記す。
25日、著作『危険視せられし道徳論と辞職顛末』[185]。反論の外、相手方の意見、神道団の連中が「彼は学者であるから言い負かされるから行かぬ」と言ったと守屋から直接聞いた事等も記す。
1922年(大正11年 55歳)3月5日、「水戸においてなお畏敬の対象とされた」謙二郎を会長とする水戸市教育会が手塚岸衛、中島義一を招き、自由教育講演会を主催[193]、県は知事となった守屋の下、自由の一切を認めず、教員の聴講禁止等、抑圧する。水戸市の調査等の結果、文部省勅任参事官が、自由教育を適当な教育方法で、自由教育に対する県の解釈を遺憾、守屋の聴講禁止は甚だ無用な心配とし、前勅任参事官も同様に茨城県当局を批判する[133][144][194]。文部省は守屋の県内外での数々の自由教育に対する過度の抑圧・干渉[183]についても批判する[144]。「不当な権力の介入に対して毅然とした態度で抵抗した点において、菊池謙二郎は高く評価されねばならない」[144]。 1923年(大正12年)、守屋、県知事を休職、依願退職[41]。
衆議院議員、歴史学者として[編集]
1924年(大正13年 57歳)3月、守屋辞職から5箇月弱、次の藤沼庄平知事が会長を兼ね県庁内に本部を置く県教育会編の『茨城大観』[10]に水戸出身の現代の有名な学者として、早稲田大学学長鹽澤昌貞と共に嘗て第二高等学校長をしたとして名前が載る。『湊町要覧』[10]では、文学士とだけある。
水戸市教育会長辞任[132]、歴史研究に打込めるようになったはずが、支持者に担がれ衆院選に出馬、水戸市内の医師団、士族団、水高生徒を含む水中出身者が支援、戸別訪問では「菊池です」の一語だけで選挙民が平身低頭したとされる[6]。水高の同盟休校当時の生徒は80名[195]である。 三宅雪嶺が後援会「仙湖会」を創り、発会式でいばらき新聞主筆に、謙二郎が犬養毅と田尻稲次郎に似ていると世間では言うが、犬養と田尻は似ておらず、間に謙二郎を入れると両方に似ていて面白い、性質も何れもツムジ曲りだが、謙二郎は悪いツムジ曲りではないと言う[196]。
5月、第15回衆議院議員総選挙に無所属で当選[197]。 以降、治安維持法に反対し、教育の充実、政界浄化に尽力する[6]。
- 21日~「日米」[127]、東湖の再来、年齢は五十の阪を越しているが、偉大なる人格は十二分に認められず今日に至り、壇上にその巨躯を運び侠骨稜々たる古武士的風格、「固陋にして眼腔の小なる官憲」「矮小陋劣の人物たる時の茨城県知事守屋源次郎」側の行為が逆に彼を全国的に知らしめ、床次氏の知遇を笠に着た横暴な守屋氏とは相反目、二者とも立候補し一は見事に当選、一は悲惨なる敗北を遂げ、真の教育者の菊池氏が議会に送られた事を悦ぶ。実際の対立候補は憲政会の2人[6]、得票数は謙二郎1033、他2人は合計663、守屋はあまりの不人気に出馬も諦めたとされる[198]。
- 30日「日布時事」[127]、菊池謙次郎氏は演説会三四回、金も出さず、戸別訪問などもせずに中立で政敵二人の得点の数倍で当選。
- 書籍では、「硬骨中学校長」舌禍事件を起こし中岡艮一の為に気を吐き、高等学校長の椅子を惜しげもなく投げ捨て中学校長になった変り者、髯の恰好からヤギと言われ、誰が送ったか本物のヤギを鶏と一緒に大事に飼っている[199]、人格一点張の模範的人物、当市における大人気物、真に区民の徳望に立脚し理想的に選出、杉浦重剛の人格に私淑、今東湖と呼ばれ尊敬厚く、市内青年に奉り上げられ立候補[200]、腹で教育してきた菊池先生、一厘の金も使はず、一回の個別訪問もせず競争者を遙か谷底に蹴落し等、一方、政治家としての技量は心配、大学時代漱石と是公と謙二郎が三角同盟を作って独身の誓ひを立てたとある[201]。
- 7月、教育改善拡張に関し質問を行う[202]。
- 1925年(大正14年)3月、衆議院本会議等で治安維持法反対の質問を行う[203]。
- 高島米峰は、水戸での講演後、謙二郎に「聖徳太子の偉い事は分ったが、佛教が人生に必要だと云う点は分らぬ」と言われ、「貴方の様な縁なき衆生は駄目です」と言って、汽車で帰ったとする[204]が、高島は井上圓了を恩師としており[205]、前述の謙二郎が圓了を講演に招いた話と矛盾がある。
- 5月28日木曜、東京湾での日本海海戦二十周年記念行事に両院議員を含む約1150名の一人として招待され、長門または山城に乗艦する[206]。
- 1926年(大正15年)2月、婦人参政関係の建議案に賛成[207]。政治道徳と文政に関し質問を行う[208]。
- 9月3日「満州日日新聞」[127]、31日安奉線より来奉瀋陽館。
- 1927年(昭和2年 60歳)3月1日、中村是公死去。
- 5月25日、NHKラジオ講演『水戸黄門の事業と性格』[209]。8月19日正六位[41]。
- 男性の礼服に羽織袴を認めないのは不当であるとし、衆議院に建議書を提出する。各新聞が「嘲笑をもって迎えつつあるに拘わらず」、支持者も現れる[210]。
1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で落選[6]。宮武茂平編『普選第一次敗将の語らひ』へ寄稿[10]。
- 6月、著作『義公略伝』[10]、巻末に義公生誕三百年記念会長茨城県知事森岡二朗による発刊の趣旨説明がある。
- 7月15日、義公生誕三百年記念事業の一環として東京で『謎の義公』と題し講演を行う。24日には小久保等が講演、続く晩餐会にも謙二郎は参加せず、忠三郎が出席する。[211]。
- 子規が好んで用いた菊池仙湖の号で『豫備門時代の子規』を書く[30]。
1929年(昭和4年)3月、作詞した東茨城郡上伊勢畑尋常小学校校歌が同校唱歌として認可される[41]。大日本史旧稿の付箋の筆者について、「史学雑誌」上で友人三浦周行と論戦を行う[212]。12月17日、水戸での素人芸術作品展に出品、ほか飛田周山等[213]。
11月16日、陸軍演習のための茨城県庁舎内の大本営で、県内各界功労者26人中の教育功労者の1人として昭和天皇に単独拝謁、記念の菓子を下賜される。18日、陸軍側を除く、要人等861名中の名望家153名の1人として、天皇臨席の水高校庭での賜餞の宴会に参入する。 住所本籍とも水戸市上市梅香、正六位勲四等。資性強直所信ヲ徹セズンバ止マザルノ概アリ博学能弁等とある[132]。
- 1932年(昭和7年)忠三郎死去[2]。茨城県教育会の出版物の指導助言を行う[214]。
- 5月9日、愛郷塾の橘孝三郎のよき後援者とされるが、官民合同の座談会または送別会での橘の激烈な挨拶所信に激しく反駁[215]、色をなして叱正する[216]。橘は水中で「校長菊地謙次郎先生」に落第させられたにも関らず恩師と仰ぎ、村治派盟主に望まれた時は、謙二郎の意見を容れて断り、「未だに」「先生の書斎を訪れて教を請うてゐる」とされる[217]。後に橘は謙二郎を、水戸学の史学の泰斗、二高の校長だったんでね中学の校長になど、なるひとでないんだ、とする[133]。
- 9月27日、正六位勲四等[41]。
- 1933年(昭和8年)秋山真之への追悼『追憶片々』[26]。
1934年(昭和9年)8月、県教育会の依頼で、阿部嘉七県知事の挨拶の後、700余名の小学校教師に3日連続で午前中『弘道館記』の講義を行う。9日「いはらき」紙掲載の投書「仙湖翁礼賛」では「痩身矮躯」とある[6]。
- 9月8日付「日米」[127]12日付「加州毎日」[127]はイギリス人リチャード・ポンソンビー博士が『弘道館記』を英訳、「水戸学の権威者水戸市の菊池仙湖翁」等に検閲を依頼、本が完成しイギリスで出版予定と記す。
- 1935年(昭和10年)『幽谷全集』編纂[10]。
- 5月、徳川圀順とともに「葵会」の背後ノ人物とされる[218]。「葵会」は一般右翼団体とされているが、実際は神社参拝等を行う団体と記されている。この時点での徳川圀順との親密な関係が示唆される。
1936年(昭和11年)東京に転居(一時鎌倉在住)[6]。
- 揚二宅で(水戸)徳川家の依頼により『義公傳叢書』著述に努力する[219]。
- 著作『正気歌と回天詩』[10]。
- 1941年(昭和16年)8月9日、従五位[41]。
- 1943年(昭和18年)明治~昭和の著作、講演等の集成『水戸学論藪』[10]。
1945年(昭和20年 78歳)2月3日[220]、4年近くの闘病の後、寓居東京都小石川区高田老松町にて死去[6]。
- 1949年(昭和24年)1月31日『正気歌と回天詩』が宣伝用出版物の没収対象となる[41]
著作[編集]
- 『新体皇国史綱』(成美堂書店、1898年)
- 『藤田東湖伝』(金港堂、1899年)
- 『義公略伝』(義公生誕三百年記念会、1928年)
- 『水戸学論薮』(誠文堂新光社、1943年)
碑文・揮毫[編集]
- 『二名匠碑』撰文、1910年(明治43年)11月、水戸市偕楽園[49]
- 『桜川遺蹟碑』撰文、揮毫は徳川圀順、1917年(大正6年)、水戸市[221]
- 『幽蘭扇発』書揮毫、1926年(大正15年)、水戸市[222]
- 『巡幸永念之碑』揮毫、1929(昭和4年)、那珂市[223]
序文・題字[編集]
- 琴山生 (三島良太郎)『水戸中学 : 附・茨城県学事年表』序文、1911年(明治44年)[10]
- 大井徹翁『農人形の研究』序文、1916年(大正5年)、他一人は遠藤隆吉[10]
- 立林宮太郎『水戸学研究 再版』序文、1917年(大正6年)[10]
- 弘文社編『茨城人名辞書』序文、1930年(昭和5年)、題字は徳川圀順[10]
- 『現代社会要典』題字、1932年(昭和7年)、他一人は尾崎行雄[10]
家族[編集]
弟の菊池忠三郎 (1869年生)は、東京帝国大学法科政治科を卒業後、横浜正金銀行入社、1916年逓信大臣秘書官に転じ、内務大臣秘書官(1916-1918)、愛国生命保険取締役(1919-1924)を務めた。岳父に鈴木万次郎。子に広子、靖、滋[224]。
脚注[編集]
※国立国会図書館デジタルコレクションは、原則として、国立国会図書館と略記する。
- ^ a b c d e 津山郷土博物館 博物館だより26
- ^ a b 奥州市立後藤新平記念館令和二年度冬の企画展資料『シリーズ後藤新平人脈考③「菊池忠三郎」』企画展終了、著作権抵触のおそれがありリンクは行わない。
- ^ a b c d e f g 水戸一高ホームページ 著名人伝 制限があり引用も森田美比『菊池謙二郎』の記述内容に限定、リンクは行わない。
- ^ 国立国会図書館『茨城人物評伝』
- ^ 茨城県文化情報
- ^ a b c d e f g h i j k 茨城県教育友の会「教友いはらき」21号昭和55年2月15日「人生読本 水戸の菊池謙二郎 水戸市 森田美比」
- ^ 国立国会図書館 前田香径『明治大正の水戸を行く』いはらき新聞社 1959 個人送信サービスでの閲覧のため最小限の引用とする。
- ^ 国立国会図書館『水戸繁昌記』明29
- ^ 1921.4「布哇報知」Stanford University Hoover Institution Library & Archives 閲覧に制限がある。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 国立国会図書館
- ^ 国立国会図書館『渋沢栄一自叙伝』、『徳川昭武帯欧記録・第一』
- ^ 矢澤好幸『酪農乳業の発達史』一般社団法人Jミルク発行 (PDF)
- ^ 国立国会図書館 山本秋広『維新前夜の水戸藩』1961 同『明治初期の茨城』1967
- ^ 国立国会図書館『渋沢栄一渡仏日記』
- ^ 国立国会図書館『義人生田万の生涯と詩歌』
- ^ 国立国会図書館『国史研究三題』
- ^ a b 国立国会図書館『茨城人名辞書』昭和5 題字は徳川圀順 序は謙二郎
- ^ 国立国会図書館『大衆人事録 第5(昭和7年)版 タ-ワ之部』昭和7
- ^ 国立国会図書館 『人事興信録』大正4(1915)年1月『第4版』10年後の第『7版』で慎七郎の身分の相違があるが、子については一致する。
- ^ 国立国会図書館 栗田寛 他『栗里先生雑著 : 一五巻. 上』
- ^ a b c d e f g h i 国立国会図書館『水戸中学:附茨城県学事年表』
- ^ 水戸商工会議所ホームページ「歴史と伝統の東部巡り」アーカイヴ 2022年7月確認
- ^ 森田美比『菊池謙二郎』耕人社、1976年。 NCID BN00906025 。、著作権抵触の恐れがあり直接の抜粋引用は行わない。
- ^ a b c d e 茨城県ホームページ『輝く茨城の先人たち』
- ^ a b c d e f g h i j 国立国会図書館『友人子規』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 国立国会図書館 秋山真之会編『秋山真之』
- ^ a b 正岡子規『墨汁一滴』
- ^ 国立国会図書館『日本植物名彙』
- ^ a b c d e f g h i 国立国会図書館 正岡子規『子規全集』より『筆まかせ』
- ^ a b c d e f 国立国会図書館『子規言行録』
- ^ a b 正岡子規『筆まかせ』「清水則遠氏」
- ^ a b c d e f g h i j k l m 国立国会図書館『子規全集』中「子規遺稿 子規書簡集」等 書簡出典詳細は日付により示すが「拾遺」を含め収録は書簡により巻が異なる。版により収録の違いもある。
- ^ 国立国会図書館 南方熊楠『南方随筆』1926
- ^ 国立国会図書館『職員録 明治32年(甲)』
- ^ 『南方熊楠を知る辞典』ウェブサイトがあるが、Wikipediaの基準未満の可能性がありリンクは行わない。
- ^ 玉村恭「人はなぜ謡の稽古に熱中するのか―夏目漱石と能 再考~稽古の現象学Ⅳ―」『上越教育大学研究紀要』第40巻第2号、2021年3月、687-703頁、ISSN 2435-9629、NAID 120007028897。
- ^ 南方熊楠顕彰館、『南方熊楠全集』9巻(平凡社)口絵、『南方熊楠アルバム』(八坂書房)p41下
- ^ 国立国会図書館『第一高等学校六十年史』
- ^ 『子規全集・別巻3』講談社・和田茂樹『子規の素顔』愛媛県文化振興財団
- ^ 国立公文書館 1887年3月『第一高等学校一覧. 明治19-20年』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 国立国会図書館『官報』官報発行より事項の日付を優先して示す。互いの重複も示す。
- ^ 国立国会図書館『愛媛県獣医学校始末』明25.9
- ^ 岩波文庫『漱石追想』
- ^ 国立国会図書館『漱石全集. 第十巻』、『満韓ところどころ』
- ^ a b 国立国会図書館 個人送信サービス 正岡子規全集 第5巻 改造社 昭和6-9 引用は検索画面で確認できる範囲とする。
- ^ 国立国会図書館柴田宵曲『子規居士』
- ^ 二次資料:千葉日報2008年12月4日『房総の作家』
- ^ 国立国会図書館 正岡子規『水戸紀行』
- ^ a b 水戸市立図書館・電子図書館「小林文庫」『五軒学区あれこれ』
- ^ 水戸市立図書館/デジタルアーカイブ「水戸の町名、常磐町一・二丁目」
- ^ 水戸市立図書館/デジタルアーカイブ『水戸市街改正略図』明治23年
- ^ 東北学院資料室
- ^ 水戸市立図書館蔵 天保2(1831)年『水藩画図』 天保12(1841)年以降『水戸城下絵図』
- ^ 茨城県立博物館 郷土文化研究会機関紙『郷土文化』第46号
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- ^ 国立国会図書館『寒山落木五』
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- ^ a b 国立国会図書館『向陵誌』1925
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- ^ 国立国会図書館『東京帝国大学一覧・明治23-24年』
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- ^ 国立国会図書館『東京帝国大学一覧 明治25-26年』
- ^ 国立国会図書館『漱石氏と私』
- ^ この件に関する出典は、群馬県立図書館蔵・子規『第六回文化大學遠足會の記』、後の出版時の序文、幣原坦『同窓餘影』高浜虚子『明治二十五年十一月』による。
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- ^ a b 国立国会図書館 横山健堂(達三)『旧藩と新人物』明44.9。横山は山口時代の生徒である
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- ^ コミュニティサイト「津山瓦版」2008年03月15日 Wikipediaの基準を満たさないおそれがありリンクは行わない。
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- ^ a b 福岡女学院大学名誉教授 原武哲『夏目漱石と奥太一郎』
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- ^ a b c d 国立公文書館 アジア歴史資料データベースを含む。
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- ^ 水戸市総合教育研究所、資料に関係者氏名多数表記のためリンクは行わない。
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- ^ 菊池忠三郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
関連項目[編集]
公職 | ||
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先代 福山義春 |
茨城県立水戸中学校長 1912年 - 1921年 校長事務取扱 1908年 - 1912年 |
次代 塚原末吉 |
先代 梅若誠太郎 |
千葉県尋常中学校長 1897年 - 1898年 |
次代 黒川雲登 |
先代 (新設) |
岡山県津山尋常中学校長 1895年 - 1897年 |
次代 土屋員安 |