三韓

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三韓
Ancient Korea Taihougun.png
各種表記
ハングル 삼한
漢字 三韓
発音 サマ
(サ
日本語読み: さんかん
2000年式MR式 Samhan
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三韓(さんかん)は、1世紀から5世紀にかけての朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓弁韓辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。三韓の「韓」については語源が諸説あり、一定しない[1]7世紀頃からは 高句麗百済新羅三国を指す名称として意味が拡張して使われた。「三韓」という名称は、新羅が朝鮮半島を統一した後、中国では高句麗、新羅、百済の三国を三韓と呼んだ例[2]がある。

疆域[編集]

280年ごろに成立した中国史書『三国志』は、「韓」は朝鮮半島の中部を占め、朝鮮半島の南部でと接しており、馬韓・辰韓・弁韓の三種がある、と述べる。

韓在帶方之南,東西以海爲限,南與倭接,方可四千里。有三種,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。 — 三国志、巻三十、烏丸鮮卑東夷伝

432年に成立した中国史書『後漢書』は、馬韓は朝鮮半島中部の西海岸に位置して南方で倭と接し、辰韓は朝鮮半島中部の東海岸の北部、弁韓は半島中部の東海岸の南部を占め、南方で倭と接していたと述べる。

韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯济是其一國焉。大者萬餘户,小者數千家,各在山海間,地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。 — 後漢書、巻八十五

この両書にみえる、「朝鮮半島南部を占める倭」の実態については、さまざまな議論がある。

朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府

668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

馬韓[編集]

「慕韓」ともいう。馬韓は半島西部に位置し、52カ国に分かれていた。ほぼ後の百済、現在の忠清北道忠清南道に相当する。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。

1145年に成立した朝鮮史書『三国史記』は、百済が建国してまもない紀元前6年、ほぼ今の錦江が百済と馬韓の国境だったが、9年、百済は馬韓を滅ぼしてその全領土を併合した、とする。

313年高句麗によって帯方郡が滅亡すると百済は強大化し、馬韓の北部から現京畿道にかけての地域を支配して漢城に都をおき、はじめて百済王余句が中国に朝貢した。475年、高句麗によって漢城が陥落し、百済はいったん滅亡するが、熊津を都として復興し、馬韓南部や伽耶任那地域に勢力を伸ばした。

辰韓[編集]

辰韓は古の辰国である。「秦韓」とも書かれ、の遺民ともいわれる。12カ国に分かれていた。現在の慶尚道及び江原道南部の地域である。言語は馬韓と異なり弁韓と類同し、中国語とも類似していた[3]

辰韓の12カ国は辰王に属していたが、辰王は馬韓人であった。一方、白鳥庫吉は辰国は辰韓のことであり、辰王は辰韓王であるとした[4]三上次男は辰王は2世紀から3世紀頃に朝鮮半島南部に成立した一種の部族連合国家の君主であったと解釈している[4]

弁韓[編集]

12カ国に分かれていてそれぞれ王がいた。大雑把にのちの任那、現在の全羅南道の東部から慶尚南道の西部である。しかし魏志東夷伝には、辰韓と弁韓とは居住地が混在していたとされるので、岡田英弘は辰韓12国と弁韓12国は国々の所在地がモザイク状に入り混じっていて境界線が引けるような状態ではなかったと解釈している。『後漢書』弁辰伝によれば辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていた[5]

備考[編集]

  • 三韓の国内は諸小国に分立していたが、それぞれの諸小国には首長がおり、大きな首長を臣智といい、それに次ぐものを邑借と呼んだが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸小国の首長の立場から表現したものである[6]
  • 南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高句麗三国を三韓と呼ぶ例[7]があり、『日本書紀』もそれに倣っている[8]。朝鮮半島でも統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで三国を三韓と見て、自国を三韓と呼んだ。
  • 現在のような三韓論を主張したのは韓百謙が最初であり、実学者たちによって定立された。

脚注[編集]

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典』 - コトバンク
  2. ^ 魏書』陽固伝「東を遊覧しながら三韓を眺めた。」
  3. ^ 北史』新羅伝「其言語名物,有似中國人」という記述がある。『後漢書』『三国志』辰韓伝には、辰韓は秦の遺民の子孫とある。
  4. ^ a b 世界大百科事典辰国』 - コトバンク
  5. ^ 後漢書』弁辰伝「弁辰與辰韓雜居,城郭衣服皆同,言語風俗有異。」
  6. ^ 李成市 『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、18頁。ISBN 978-4000029032。"一方、半島南部には、韓族の馬韓五十余国、辰韓十二国、弁韓十二国の諸小国群が分立していた。馬韓諸国の首長層のうち、大きいものは臣智と称し、次のものを邑借といった。また弁辰の諸小国でも、首長層は各種の称号をもっていて、その最大のものはやはり臣智と称していた。この臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣にほかならず、それを諸国の首長の立場から表現したものであった。つまり、臣智の称号は、韓族の首長層の楽浪・帯方郡との関係のなかで発生したのであって、それ自体が楽浪・帯方郡と韓族諸小国との関係を物語る称号なのである。"。 
  7. ^ 旧唐書』百済伝
  8. ^ 日本書紀』では「三韓」は神功皇后紀以降 天武天皇紀下までに散見する[1]。皇極天皇紀では蘇我入鹿暗殺の直前 蘇我倉山田石川麻呂が「三韓」の上表文を読む場面等で記述され、孝徳天皇紀には大化四年二月に学問僧を「三韓」に遣わす記述とその注釈として「三韓とは高麗・百濟・新羅を謂う」と三韓の定義が記されている。

関連項目[編集]