王昶 (曹魏)

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王昶

王 昶(おう ちょう、? - 259年)は、中国三国時代の武将・政治家・学者。文舒并州太原郡晋陽県の人。父は王沢。伯父は王柔。従兄は王機。子は王渾(玄沖)・王深(道沖)・王淪(泰沖)・王湛(処沖)。甥(兄の子)は王黙(処静)・王沈。『三国志』の魏志に伝がある。父と伯父は、後漢郭泰(郭林宗)に認められ出世した人物である。

生涯[編集]

王昶は若い頃から同郡出身の王淩とともに名を知られ、年上であった王淩に弟分として仕えた。曹丕には太子時代から仕え、太子文学・太子中庶子に採り立てられた。魏が禅譲により成立すると、散騎侍郎から洛陽の典農校尉となり、田畑の開墾に功績を挙げたため、兗州刺史となった。曹叡(明帝)が即位すると揚烈将軍・関内侯となった。この時期に、法律や兵学についての著作に励み、子や甥の教育にも努めた。『治論』・『兵書』・『家誠』など、多くの著述がある。

青龍4年(236年)、賢人を求める詔勅が下されると、司馬懿に推挙された。正始年間、徐州方面に赴き武観亭侯となり、やがて征南将軍・仮節・都督荊豫二州諸軍事となり、荊州方面でと対峙する重職を担った。当時、荊州諸軍事の役所はにあったが、呉との前線である襄陽まで遠く交通に不便であったため、新野に移して水軍を訓練し、開墾をするなど農業生産に力を入れ、穀物を備蓄した。

曹爽が誅殺されると司馬懿は上奏し、臣下一同に対し国政について意見を募った。王昶は教育と人事を中心に五箇条からなる提言をした。

嘉平2年(250年)、呉が二宮の変以後弱体化していると主張し、呉征伐を上奏し実行した。新城太守州泰に巫・房陵方面、荊州刺史の王基に夷陵方面を攻撃させ、自身は江陵南郡)方面を攻撃し、圧倒的な兵力で三方面から呉に攻勢、呉の朱績を物量と兵器で敗走させた。さらに江陵城に逃げ込んだ敵を誘い出すために、撤兵する振りをしつつ、討ち取った敵の首を馬に括り付けてわざと敵軍を怒らせた。挑発に乗り出撃してきた朱績を伏兵により散々に破り、その将軍の鍾離茂・許旻らを斬った。その後、江陵城を包囲するも落とすことができず、撤退した。撤退時に朱績の追撃を受けて形勢不利に陥るも、諸葛融が約束を守らず援軍に来なかったことによって難を逃れた[1]。一方、呉の陸凱達が援軍に現れ、魏軍を退けた。[2]

州泰・王基もそれぞれに軍功を挙げた。この功績により征南大将軍・儀同三司に任命され、京陵侯に爵位を進めた。

司馬師が実権を握った時代には、胡遵諸葛誕毌丘倹陳泰と共に四方の都督の一人として名が挙がる存在であった(『晋書』景帝紀)。

嘉平4年(252年)、呉の孫権が死去すると胡遵や毌丘倹と謀り、再び征呉を計画し、三方向からの共同作戦の一環で再度江陵(南郡)を攻撃した。しかし、東興で胡遵と諸葛誕が呉の諸葛恪に敗れたため、武昌攻撃に赴いた毌丘倹と同様に陣を焼き払い撤退した(魏志「三少帝紀」が引く『漢晋春秋』・呉志「三嗣主伝」)(東興の戦い)。

正元2年(255年)、毌丘倹と文欽が反乱を起こした時は、兵を率いてこれに抵抗した功績で2人の子が列侯され、自身は驃騎将軍となった。

甘露2年(257年)、諸葛誕が反乱を起こした時は、江陵への攻勢を見せて朱績を牽制し、その勝利に貢献した。戦後、詔勅により食邑を千戸を加増され、以前と合わせて4千7百戸となり、持節と都督の地位のままで司空となった。

甘露4年(259年)に亡くなり、穆公とされた。

阮籍と会った時、彼の人物の大きさに感嘆したという逸話が残っている。子と共に甥を養育し、慎み深くあるように訓戒を与え、名と字もそれに因んだものとした記録がある。その際に魏諷のような謀反人だけではなく、旧知の郭奕劉楨の人となりをも批判した点が、裴松之により問題とされている。

小説『三国志演義』では、孫権死後の三方向への共同作戦の時に、名が挙がるのみである。

脚注[編集]

  1. ^ (呉書「朱績伝」)
  2. ^ (呉書「呉主伝」)