呂布
| 呂布 | |
|---|---|
|
清朝期の呂布の版画 | |
| 後漢 左将軍・温侯 | |
| 出生 |
不詳 并州五原郡九原県 |
| 死去 |
建安3年12月24日癸酉(199年2月7日) 徐州下邳郡下邳県 |
| 拼音 | Lǚ Bù |
| 字 | 奉先 |
| 別名 | 飛将 |
| 主君 | 丁原→董卓→献帝→袁術→袁紹→張楊→独立勢力 |
呂 布(りょふ - 建安3年12月24日癸酉〈199年2月7日〉[1])は、中国後漢末期の武将。字は奉先。并州五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区包頭市)の人。
剛勇をもって知られた。最初は丁原に仕えたが、彼を殺害して董卓に仕え、後に董卓も殺害して放浪した。身を寄せた劉備を裏切り徐州を乗っ取るも、最後には曹操に敗れて処刑された。後代の小説『三国志演義』では三国時代最強の人物として描かれる[2]。
事跡
[編集]董卓政権下
[編集]勇猛さと武芸の腕前を買われ、并州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿(会計係[3])に任じて、よく親しみ優待した[4][5]。
中平6年(189年)、霊帝が死去し、十常侍と呼ばれる宦官勢力と外戚である何進とが政争を繰り広げる中、丁原は宦官殺害を目論む何進の命によって、首都の洛陽北部に位置する孟津に火を放ち[6]、後に執金吾に任命された[7][5]。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された[8][9]。

何進の死後、洛陽に入城した董卓は丁原の軍勢を得たく思い、彼からの信頼が厚い呂布を誘って裏切らせ、殺害させた[10][注釈 1]。呂布は董卓から非常に重用され、彼と父子の契りを結んだ[12][5]。後には騎都尉、中郎将に累進して、都亭侯に封じられた[12][5]。呂布は腕力が強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢の李広になぞらえて「飛将」と呼ばれたという[13][5]。
永漢元年(189年)9月、董卓は何太后の影響下にある少帝を廃し、新たに献帝を擁立した[14]。何太后は数日後に殺された[14][15]。初平元年(190年)1月、董卓に反発する関東諸将が挙兵した[16]。董卓はこれに対して、廃位して弘農王となっていた劉辯(少帝)を殺し[16][17]、2月には長安へと遷都した[12][18]。董卓自身は依然として洛陽に留まっていた[12][19]。
初平2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに際し、呂布と東郡太守の胡軫をそれぞれ騎督・大督として討伐にあたらせた。しかし胡軫は「いま行軍するにあたって、青綬[注釈 2]を一人斬るべきだ。そうすれば軍は整い揃うだろう」と触れまわっていた。これを恨んだ呂布は「賊が来た」と偽情報を与え、統率が乱れた最中に孫堅の追撃を受けて敗北した[22][23](陽人の戦い)。董卓は洛陽を放棄して長安まで退き、呂布は洛陽で孫堅と再戦したが敗れた[24]。
董卓暗殺と三日天下
[編集]呂布は董卓と父子の関係を結んでおり、常に董卓の傍らにあって護衛をしていたが[25][5]、些細なことで腹を立てた董卓に手戟を投げつけられたことがあり、密かに恨んでいた[22][5]。『典略』によれば、董卓は酔うと呂布を罵り、刀剣で斬りつけたともいう[22][26]。また董卓の侍女と密通していたため[27][注釈 3]、それが露顕することを恐れて不安に思っていた[29][5]。
董卓が実権を掌握し朝廷を牛耳る傍ら、司徒の王允は、士孫瑞、黄琬とともに董卓暗殺を企てた[30][31]。ある時、呂布が交友のある王允を訪ね、董卓に殺されかけたことを話すと、王允は呂布に董卓暗殺計画を打ち明けた[29]。呂布は当初、董卓とは父子であると言って固辞したものの、王允に「貴君の姓は呂であり、もとより〔董卓は〕骨肉(肉親)ではない。今は憂死する暇もないのに、何をもって父子と謂うのか」と説得され、暗殺に加わった[29][5][注釈 4]。
初平3年(192年)4月、董卓が献帝の病の快癒を祝うため宮門に入ろうとすると、詔書を懐に忍ばせた呂布は李粛ら十余名を偽衛子として待機させ、董卓の入門を阻んだ。驚いた董卓に呼ばれた呂布は、詔であることを告げて董卓を殺害した。董卓の親族は三族皆殺しとなり、董卓派は皆処刑された[25][18]。
董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握した。呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、仮節を与えられた[32][注釈 5]。しかし董卓を殺したことで呂布は董卓派の涼州人に恨まれていると思い、彼らを恐れて憎んだ[33][5][注釈 6]。また王允からは壮健と見なされる傍ら[4][5]、軽んじられ将軍ではなく剣客としての待遇を受けていたため[35]、不満を覚えていた[36]。一方、董卓麾下の郭汜・李傕ら涼州の軍勢は、呂布の予想通り王允ら并州人を憎み、長安を攻めた[33][5]。呂布は郭汜を一騎討ちで破るも[37][38]、防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布は王允を助けようとしたが叶わず[39]、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した[40]。
中原を彷徨う
[編集]呂布は、袁氏一族の仇である董卓を討ったことを感謝しているだろうと思い、袁術を頼ったが受け入れられず、次に袁紹のもとに身を寄せた[41][注釈 7]。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、愛馬の赤兎に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越が指揮する数十騎が1日に3、4度も突撃しては首級を得、十日あまり連戦してついに張燕軍を撃破した[42][43]。『曹瞞伝』によれば、呂布は当時、赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と人々に語られたという[44][45][注釈 8]。自らの功績を恃んだ呂布はさらに兵力の補充を袁紹に要求したが、それに応えられなかった腹いせに呂布の将兵が略奪を行なったため、袁紹の忌むところとなった。呂布が不安で洛陽に戻りたがっていることを耳にした袁紹は、承制して領司隷校尉とさせる傍ら、呂布のもとへ刺客を送った。しかし自らを謀ろうとしているのではないかと怪しんだ呂布は、帳の中で箏を掻き鳴らさせ、その間に脱出した[47][48]。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたという[38][注釈 9]。
冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内の張楊を頼ったが、張楊は長安の意向を受け、諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が「私は卿(きみ)の州里〔の人間〕だ。卿が私を殺せば、卿の弱みとなる。私を売れば、すぐに郭汜・李傕の爵寵を得ることができるだろう」と告げると、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちをなだめるため、呂布を潁川太守に任命したという[33][38][注釈 10]。

張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超と陳宮は呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。
張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇を捕虜とするも、韓浩によって奪還された[52]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧・程昱・棗祗・薛悌等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。
曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略を取り[53]、曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破した[19][54]。しかし旱魃と蝗害によって兵糧が不足し、呂布は曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。
その後、呂布は1年以上にわたり激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に太刀打ちできず袁紹軍の協力を受けた曹操軍に[55][56]、1万余りを率いて向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。曹操最大の危機はこれで終わった[57]。
徐州を支配
[編集]徐州の劉備の元を訪れた呂布は、劉備を敬って「私と卿は同じ辺境出身の人間だ。関東での挙兵を見て私は董卓を誅したく思い、董卓を殺して東に赴いたのだが、関東諸将は私を安んじてくれず、ただみな私を殺そうとしてくるのだ」と言った[27]。そして自身の妻の寝台に劉備を座らせると彼女から劉備に対して挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ[27]。劉備は呂布の言葉に一貫性がないのを見てとり、内心彼を不愉快に思った[27][58]。
まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、呂布はその隙を突いて、劉備の拠る下邳を奪い取り、その妻子を捕虜にした[41][5][59]。行き場をなくした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史とし、自らは徐州刺史を名乗った[注釈 11]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆させようとしたが、呂布がすんでのところで逃れたため失敗した[38]。袁術は呂布が自らに害をなすことを恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせることを提案した。呂布もそれを承認したという[61]。

その後、袁術が紀霊らに歩騎あわせて3万の指揮を任せ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた[62]。配下の諸将が「将軍は常に劉備を殺そうとしていました。今は袁術の手を借りるべきです」と述べるのに対し、呂布は「そうではない。もし袁術が劉備を破れば、北には泰山諸将が連なる。私は袁術の包囲のもとに置かれるのだから、〔劉備を〕救わざるを得ない」と、袁術と臧覇ら泰山諸将による包囲を警戒した[63]。呂布は歩兵1000、騎兵200余りを率いて、劉備・袁術を調停した[62]。呂布は、「玄徳(劉備)は私の弟である。弟が諸君によって困らされているから助けに来たのだ。私は争いを好まない性分で、ただ人々を和解させるのを好むというだけのことだ」と言い、門番に命じて軍営の門に戟を立たせると、続けて「諸君は私が戟を射るのをご覧になり、当たったならば兵を引き、当たらなければ引き続き勝負をつけるのもよい」と告げて戟を射当てた[62]。諸将はみな「将軍は天威である」と驚き、その翌日に両軍は停戦したという[62][5]。
劉備は後に小沛に戻って1万の兵を集めたため、これを疎んだ呂布は劉備を攻撃して破り、小沛を陥落させた[64]。劉備は逃走して曹操を頼り[64]、援助を受けて再び小沛に至った[59]。
呂布は徐州にいた頃、河東にいた献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧がなかったので救援を送れず、かわりに使者を送った。朝廷は呂布を使持節・平東将軍・徐州牧・平陶侯に任命した[38]。
最期
[編集]その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪の諫言を受けた呂布は、袁術が最初自分を迎えなかったのを恨んで韓胤を捕え[5][注釈 12]、書簡と共に曹操に送った。この時呂布が徐州牧に就任したという異説がある[66][67]。その後、使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍の指揮を委ね、連携して呂布を攻撃した。呂布は3000余りの兵しか持っていなかったために陳珪を責めたが[68]、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、張勲軍のほとんどを殲滅し、袁術軍側の大将だった橋蕤を捕えた[69][注釈 13]。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した[71]。
この後、呂布は莒城の蕭建を手紙で投降させたが[38]、独立勢力の臧覇によって莒城が落された。それを受けた呂布は高順の諫めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言うことを聞いていつも口にする誤りを改めるようにと常に諫めていたが、呂布はその意見を採用せず[72]、陳宮らの反乱後には高順の兵を取り上げて縁戚の魏続に与えた[47]。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させた[38]。
建安3年(198年 - 199年)、呂布はまた袁術と通じ、高順を派遣して小沛の劉備を陥落させると、臧覇らが呂布に従った[73][19]。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ(下邳の戦い)。陳宮は曹操軍が彭城を落とすと献策したが、呂布は聞き入れなかった[74]。10月、彭城を屠って下邳に到達した曹操と三度戦うも全て敗北し、籠城した[19][75]。曹操は疲弊した軍を憂え、一度は撤退を考えたが[19]、荀攸・郭嘉の考案した計を採用し、沂水・泗水の水を城内に流し入れて落城させた[41][76]。侯成らは陳宮たちを捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降した。呂布はこの時、部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下たちは遂行できなかったという[47][77]。
投降した呂布は捕縛され、曹操の前に連行された。呂布が「私は諸将を厚遇してきたというのに、彼らは危急の際においてみな私に叛いたのだ」と述べるのに対し、曹操が「卿は妻に背いて諸将の妻を関係を持とうとしていたのに、何をもって厚遇したと言うのか」と指摘すると、呂布は黙ったままだったという[27]。「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれ」と言う呂布に対して、曹操は「虎を縛るのにきつくしないわけにはいかない」と答えた。呂布がさらに「明公(曹操)の悩みの種はこの私だけであり、それが服した今、天下に憂うことはない。明公が歩兵の指揮を執り、私が騎兵の指揮を執れば、天下は定まるというものだ」と語った[78]。疑念を抱いた曹操に対し、劉備が進み出て「明公は、呂布が丁建陽(丁原)・董太師(董卓)になしたことをご覧にならなかったのですか」と諫めると、曹操は頷いた[79]。呂布は劉備を指差し「この野郎[注釈 14]こそが一番信用ならんのだ!」と主張したが[50]、縛り首にされた[79][注釈 15]。陳宮・高順は曹操による助命を拒み、同様に処刑された。呂布らの首は晒された上で許に送られ、後に埋葬された[5]。
評価
[編集]「驍猛だが、無謀でよく人を猜忌する」とあるように[5]、賞賛の対象は勇猛さに限られ、性格上の欠点を指摘されることが多い[83]。また忠義に欠ける様相は、中国の伝統的な価値観である儒教理念と相反するものであったため、史官からは厳しい評価を受けた[84]。
同世代の評価
[編集]後世の評価
[編集]フィクションや民間伝承
[編集]中国では古くから、雑劇や京劇、『三国志平話』、『三国志演義』などで呂布が描写されてきた。ある神話では呂布の方天画戟が龍の化身であるとする。また、民間伝承では呂布は呂良と黄氏という親子の第四子として生まれたとされるが、その時黄氏は虎に襲われる夢を見、呂布が生まれた瞬間に山が崩壊する。呂布の目は精悍で、自ら臍の緒を切って立ち上がったという。また、雑劇や京劇では美男子、才子として描かれ、貂蝉との悲恋を演ずることも多い[97]。
『三国志平話』
[編集]『平話』以前においては、呂布は飛将という呼称と「轅門射戟」の逸話を除き、武勇をことさらに語られることは多くなかった[98]。しかし元代の雑劇や「三英戦呂布」(後述)のエピソードが加えられた『平話』では、呂布が突出した武力を持つ者として描かれるようになり、そのようなイメージは『演義』においてさらに発展した[98]。『平話』における呂布の得物が画戟であることには、彼の武力を表現する意図があるという[47][注釈 17]。
一方、『平話』において呂布は小人として印象づけられる[98]。呂布が丁原殺害について「主公(丁原)は度々私を辱めていた。それゆえ丁丞相を殺したというのが本当だ」と弁解する傍ら、丁原の召使たちからは「この者(呂布)は別段の理由があってことを為したのではありません。丁丞相の持つ馬一匹のために、丞相を殺したのです」という証言が与えられる[47][99]。これは『演義』における「董卓が赤兎馬で呂布を買収する」というエピソードの原型と見ることができる[47]。また董卓殺害の原因は董卓に妻を奪われたことが原因とされ、好色なイメージが加えられている[98]。さらに降伏の場面は、張飛・関羽などに捕らえられた後に降伏を迫られるという展開になっている[84]。
『三国志演義』
[編集]
呂布は『演義』において、身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、金の冠や華やかな袍を身につけ、煌びやかな鎧を着た豪壮な武者として描かれる[100][注釈 18]。派手なだけでなく兜を着用しない呂布の軍装は、彼の強さを表現する一環となっている[101]。また『演義』諸版本の挿画では、呂布の風貌は登場する場面や挿画を手がけた画工によって変化し、ひげのある姿とない姿とが混在していたが[102][注釈 19]、16世紀末に至ると、場面にかかわりなくひげのない姿で描かれるようになった[104]。呂布が美形として描かれた要因としては、出身地に由来する騎馬遊牧民族のイメージ、とりわけそのエキゾチックな一面に焦点を当てられたことが考えられる[105][注釈 20]。
呂布は作中随一の武勇を誇るが[108]、その驍勇ぶりが特に際立つ描写として、ただ一騎で数万を蹂躙し、張飛と一騎打ちを演じ、さらに関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が描かれた虎牢関の戦いが挙げられる[108][注釈 21]。
それと同時に、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺し、王允の連環計の餌食となるなど、私利利欲に目がくらみ道義を忘れる上に謀略にも疎いといった負の側面も描かれる[108]。また『平話』とは異なり、部下たちに裏切られたり、処刑の間際に劉備に助けを求め、生にしがみつく様子を張遼に叱責されたりする描写によって、不仁不義のみならず、命を惜しみ死を恐れる様子が強調される[84]。『演義』にはこのように人物造形を単純化する傾向が見られるが、呂布の場合、叛服常ならない呂布と「義人」として尊ばれる関羽との対比がなされ、後者を称揚する手段にもなっている[84]。
一方、後藤裕也によれば、呂布には袁術と劉備の衝突時に優れた見識を示す面もあるほか[110]、史実と同様に劉備の妻子を二度も保護し[111]、貂蝉や厳氏といった女性たちの意見を重視する情の厚さも窺える[112]。『演義』の呂布は、自分の心に素直な「少年」らしい英雄としても捉えられる[113]。
関連人物
[編集]- 親族
- 所属配下
- 同盟関係
- その他
関連作品
[編集]- 映画
- 『三国志 呂布 鬼神伝』(2020年、演:チャールズ・リン)
- 『新解釈・三國志』(2020年、演:城田優)
- テレビドラマ
- 小説
- 塚本靑史『呂布 猛将伝』(徳間書店、2010年。ISBN 9784198630423)
- 漫画
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ レイフ・ド・クレスピニーは、董卓が丁原の影響力に懸念を抱いたためだとする[10]。陳亮は、董卓は当時手勢が少なく、丁原が強力な并州兵を擁していることを危ぶんだためだと論じている[11]。
- ↑ 呂布のこと。騎都尉は秩比二千石の官職で、銀印青綬を授けられる[20][21]。
- ↑ 上谷浩一は、この逸話が『三国志演義』に登場する王允の養女貂蝉(架空人物)の物語のもとになったと見なしている[28]。
- ↑ ミランダ・ブラウンとレイフ・ド・クレスピニーは、董卓と呂布の父子関係は、下女の存在で破られる程度には脆いものだったと述べている[29]。上谷浩一は、長安への遷都をはじめ、董卓が本来の軍事基盤である涼州に近い地点に拠点を移すことで、并州人である呂布は、武力により得ていた自分の権勢が崩れることを恐れたのではないかとする[28]。
- ↑ 『三国志』魏書呂布伝では「奮威將軍,假節,儀比三司,進封溫侯」とある。
- ↑ 王允や呂布はもともと、董卓の部曲については赦免を検討していたという[34]。
- ↑ 『後漢書』呂布伝では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとされる。
- ↑ 竹内真彦は、この「人中有呂布,馬中有赤兎」という評語は「布」と「兔」とで押韻されており、そのような響きの良いフレーズは後漢時代の記録に散見されるため、この逸話をもって呂布の武勇を特別視する所以とすべきではないと述べる[46]。
- ↑ なお略奪事件については、臧洪が陳琳への返書で「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけであり、死刑に値する人物であっただろうか」と述べている[49][50]。
- ↑ 『後漢書』は『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹の順に身を寄せた後に張邈と会ったとする[51]。
- ↑ 『後漢書』呂布伝では袁術の依頼で徐州を攻め、その後徐州牧を名乗ったとされる[60]。
- ↑ 『後漢書』では、呂布は袁術をもとから怨んでいたために使者を捕えたとする[65]。
- ↑ 『三国志』呉志「孫討逆伝」が引く『江表伝』には、呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功したという記録もある[70]。
- ↑ 『英雄記』および『後漢書』においては「大耳」という修飾が加わる[80][81]。
- ↑ 『献帝春秋』によると、呂布は曹操の賓客になっていた劉備に命乞いの口利きを頼み、曹操もまた助命しようとしていたが、王必がそれを制したことで処刑されたという[82]。
- ↑ ただし、これに続けて「もししばらくの間彼を迎えて、共に兖州を牧し、天下の形勢を見て、時事の変遷を待つならば、縦横の時期となるだろう」と述べたように、陳宮が想定していたのは呂布の一時的な利用である[85]。このことに関しては、程昱らにも「陳宮らは勢いでかりそめに合しており、相共に主君たることはできない」と指摘されている[85][87]。
- ↑ 漢代において、画戟は主に儀仗として使用されていた[47]。また「方天画戟」は武器として用いられるようになった唐代以後のことで、さらに使用難度が極めて高かった[47]。
- ↑ 現存する版本のうち最も古いものである葉逢春本では、呂布は一丈の身長に加え、十囲もの腰回りをした眉目秀麗な巨漢として描かれていたが、毛宗崗の編纂が入った版本では、このような具体的な風貌に関する描写は削除されている[100]。
- ↑ 『演義』の挿画においてひげの生えた呂布を描くものは、ひげのある呂布の挿画がある『平話』のイメージに影響されたと考えられる[103]。葉逢春本では、初登場から貂蝉との恋愛が描かれる時期周辺まではひげのない姿で、それ以降は主にひげの生えた風貌で描かれていた[102]。また当時の恋愛劇では、男主人公を美男に描くのが一般的だった[101]。
- ↑ これと対照的に、燕と呼ばれる地域出身の張飛には、騎馬遊牧民族の厳めしいイメージが与えられた[106]。また『演義』以前に成立した雑劇や『平話』では、呂布と張飛が一対一で戦い、張飛が勝利するという筋書きが存在した[107]。
- ↑ 渡邉義浩は、虎牢関の戦いは虚構ではあるとはいえ、この戦いの描写に史実の呂布の強さが集約されているとする[109]。
出典
[編集]- ↑
(中国語) 『後漢書』巻9献帝紀建安三年, ウィキソースより閲覧, "[建安三年]十二月癸酉,曹操擊呂布於徐州,斬之。"西暦換算は 兩千年中西暦轉換 にて。西暦換算だと建安3年は198年1月26日から199年2月13日まであり、199年にずれ込む。 - ↑ 竹内 2019, p. 67.
- ↑ 渡邉 2009, p. 67.
- 1 2 方 2000, p. 17.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 『三国志』巻7呂布伝
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻69何進伝, ウィキソースより閲覧, "[袁]紹等又為畫策,多召四方猛將及諸豪傑,使並引兵向京城,以脅[何]太后。[何]進然之。[...]遂西召前將軍董卓屯關中上林苑,又使府掾太山王匡東發其郡強弩,并召東郡太守橋瑁屯城皋,使武猛都尉丁原燒孟津,火照城中,皆以誅宦官為言。太后猶不從。" - ↑ de Crespigny 2007, p. 144.
- ↑ de Crespigny 2007, p. 312.
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻78張讓・趙忠伝, ウィキソースより閲覧, "[中平]六年,帝崩。中軍校尉袁紹說大將軍何進,令誅中官以悅天下。謀泄,[張]讓、[趙]忠等因進入省,遂共殺進。而紹勒兵斬忠,捕宦官無少長悉斬之。讓等數十人劫質天子走河上。追急,讓等悲哭辭曰:「臣等殄滅,天下亂矣。惟陛下自愛!」皆投河而死。" - 1 2 de Crespigny 2007, p. 624.
- ↑ 陳 1995, pp. 114–115.
- 1 2 3 4 陳 1995, p. 115.
- ↑ 竹内 2019, p. 68; 方 2000, p. 28.
- 1 2 陳 1995, p. 110.
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻9献帝紀, ウィキソースより閲覧, "中平六年四月,少帝即位,封帝爲勃海王,徙封陳留王。九月甲戌,即皇帝位,年九歲。遷皇太后於永安宮。大赦天下。改昭寧爲永漢。丙子,董卓殺皇太后何氏。" - 1 2 陳 1995, p. 116.
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻9献帝紀, ウィキソースより閲覧, "初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。辛亥,大赦天下。癸酉,董卓殺弘農王。" - 1 2 『三国志』巻6董卓伝
- 1 2 3 4 5 『三国志』巻1武帝紀
- ↑ 方 2000, pp. 22–23.
- ↑
(中国語) 『漢書』巻19百官公卿表上, ウィキソースより閲覧, "宣帝令中郎將、騎都尉監羽林,秩比二千石。";"凡吏秩比二千石以上,皆銀印青綬[...]。" - 1 2 3 方 2000, p. 23.
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻72董卓伝李賢注, ウィキソースより閲覧, "《九州春秋》曰:「[董]卓以東郡太守胡軫為大督,呂布為騎督。軫性急,豫宣言『今此行也,要當斬一青綬,乃整齊耳』。布等惡之,宣言相警云『賊至』,軍衆大亂奔走。」" - ↑
(中国語) 『後漢書』巻72董卓伝, ウィキソースより閲覧, "明年,孫堅收合散卒,進屯梁縣之陽人。[董]卓遣將胡軫、呂布攻之,布與軫不相能,軍中自驚恐,士卒散亂。堅追擊之,軫、布敗走。卓遣將李傕詣堅求和,堅拒絕不受,進軍大谷,距洛九十里。卓自出與堅戰於諸陵墓閒,卓敗走,却屯黽池,聚兵於陝。堅進洛陽宣陽城門,更擊呂布,布復破走。" - 1 2 de Crespigny 2007, p. 158.
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(中国語) 『太平御覧』巻55地部二十, ウィキソースより閲覧, "《典略》曰[...]又曰:董卓雖親愛呂布,然時醉則駡,以刀劍擊之,不中而後止,布恐終被害,乃私與司徒王允及尚書令土孫端謀養死士于窟室。[初平]三年四月,天子疾瘳,卓詣宮賀,布先置死士以邀之,卓嚴駕出,馬躓不肯行,心怪之欲還,布勸使行,到宮門入掖門,死士交戟刺卓墮車,顧布所在,布下馬曰:「有詔。」遂殺之。" - 1 2 3 4 5 張 2018, p. 53.
- 1 2 上谷 2008, p. 97.
- 1 2 3 4 Brown, Miranda; de Crespigny, Rafe (2009). “Adoption in Han China”. Journal of the Economic and Social History of the Orient 52 (2): 229–266. p. 253.
- ↑ 陳 1995, p. 117.
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻66王允伝, ウィキソースより閲覧, "[王]允見卓禍毒方深,篡逆已兆,密與司隸校尉黃琬、尚書鄭公業等謀共誅之。" - ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[王]允以[呂]布為奮威將軍,假節,儀同三司,封溫侯。" - 1 2 3 方 2000, p. 25.
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(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[王]允初議赦卓部曲,呂布亦數勸之。既而疑曰:「此輩無罪,從其主耳。今若名為惡逆而特赦之,適足使其自疑,非所以安之之道也。」" - ↑ 方 2000, pp. 17–18.
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(中国語) 『後漢書』巻66王允伝, ウィキソースより閲覧, "而[王允]素輕[呂]布,以劍客遇之。布亦負其功勞,多自誇伐,既失意望,漸不相平。" - ↑ ビジュアル三国志 2013, p. 73.
- 1 2 3 4 5 6 7 『三国志』巻7呂布伝注引『英雄記』
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻66王允伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布駐馬青瑣門外,招[王]允曰:「公可以去乎?」允曰:「若蒙社稷之靈,上安國家,吾之願也。如其不獲,則奉身以死之。朝廷幼少,恃我而已,臨難苟免,吾不忍也。努力謝關東諸公,勤以國家為念。」" - ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[王]允既不赦涼州人,由是[董]卓將李傕等遂相結,還攻長安。[呂]布與傕戰,敗,乃將數百騎,以卓頭系馬鞍,走出武關,奔南陽。" - 1 2 3 渡邉 2009, p. 69.
- 1 2 巫・許 2025, p. 5.
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(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布常禦良馬,號曰赤菟,能馳城飛塹,與其健將成廉、魏越等數十騎馳突燕陣,一日或至三四,皆斬首而出。連戰十餘日,遂破燕軍。" - 1 2 3 4 方 2000, p. 28.
- ↑ 『三国志』巻7呂布伝注引『曹瞞伝』
- ↑ 竹内 2019, p. 69.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 唐 2017, p. 56.
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(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布既恃其功,更請兵於紹,紹不許,而將士多暴橫,紹患之。布不自安,因求還洛陽。紹聽之,承製使領司隸校尉,遣壯士送布而陰使殺之。布疑其圖己,乃使人鼓箏於帳中,潛自遁出。夜中兵起,而布已亡。" - ↑ 宮内 2016, p. 68.
- 1 2 『三国志』巻7臧洪伝
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布與傕戰,敗,乃將數百騎,以卓頭系馬鞍,走出武關,奔南陽。袁術待之甚厚。布自恃殺卓,有德袁氏,遂恣兵抄掠。術患之。布不安,復去從張楊於河內。時李傕等購募求布急,楊下諸將皆欲圖之。布懼,謂楊曰:「與卿州里,今見殺,其功未必多。不如生賣布,可大得傕等爵寵。」楊以為然。有頃,布得走投袁紹,紹與布擊張燕于常山。[...]道經陳留,太守張邈遣使迎之,相待甚厚,臨別把臂言誓。" - ↑ 『三国志』巻9夏侯惇伝
- ↑ 台湾三軍大学 編著『中国歴代戦争史』中信出版集团、2012年、69頁。ISBN 9784062585323。
- ↑ 魏書III(1993)・程昱伝p.15「太祖與呂布戰于濮陽、數不利」
- ↑ 後漢書(2004)・袁紹伝p.537「謝承後漢書曰、操囲呂布於濮陽、為布所破、投紹。紹哀之、乃給兵五千人、還取兗州」
- ↑ 渡邉 2000, p. 70.
- ↑ 渡邉 2014, p. 20.
- ↑ 『三国志』巻7張邈伝注引『英雄記』
- 1 2 『三国志』巻32先主伝
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(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "時,劉備領徐州,居下邳,與袁術相拒於淮上。術欲引[呂]布擊備,乃與布書曰:「術舉兵詣闕,未能屠裂董卓。將軍誅卓,為術報恥,功一也。昔金元休南至封丘,為曹操所敗。將軍伐之,令術復明目於遐邇,功二也。術生年以來,不聞天下有劉備,備乃舉兵與術對戰。憑將軍威靈,得以破備,功三也。將軍有三大功在術,術雖不敏,奉以死生。將軍連年攻戰,軍糧苦少,今送米二十萬斛。非唯此止,當駱驛复致。凡所短長亦唯命。 」布得書大悅,即勒兵襲下邳,獲備妻子。" - ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布自號徐州牧。[袁]術懼布為己害,為子求婚,布復許之。" - 1 2 3 4 朱・辺 2007, p. 22.
- ↑ 単 2025, p. 170.
- 1 2 3 張 2018, p. 54.
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[袁]術遣韓胤以僭號事告[呂]布,因求迎婦,布遣女隨之。沛相陳珪恐術報布成姻,則徐、楊合從,為難未已。於是往說布曰:「曹公奉迎天子,輔贊國政,將軍宜與協助同策謀,共存大計。今與袁術結姻,必受不義之名,將有累卵之危矣。」布亦素怨術,而女已在塗,乃追還絕婚,執胤送許,曹操殺之。" - ↑ 呉書I(1993) ・孫討逆伝p.48「江表伝曰、建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守」又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合嘘偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧温侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行呉郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討」策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、乃使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍」
- ↑ 呉書II(1993)・張紘伝p.10「呉書曰:紘與張昭並與參謀、常令一人居守、一人從征討、後呂布襲取徐州、因爲之牧、不欲令紘與策從事」(1993)
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "袁術怒[呂]布殺韓胤,遣其大將張勛、橋蕤等與韓暹、楊奉連勢,步騎數万,七道攻布。布時兵有三千,馬四百匹,懼其不敵,謂陳珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」" - ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布用[陳]珪策,與[韓]暹、[楊]奉書曰:「二將軍親拔大駕,而布手殺董卓,俱立功名,當垂竹帛。今袁術造逆,宜共誅討,奈何與賊還來伐布?可因今者同力破術,為國除害,建功天下,此時不可失也。」又許破術兵,悉以軍資與之。暹、奉大喜,遂共擊勳等於下邳,大破之,生禽橋蕤,餘眾潰走,其所殺傷、墯水死者殆盡。" - ↑ 呉書I(1993)・孫討逆伝p.48「江表伝曰、建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守」又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合嘘偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧温侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行呉郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討」策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、乃使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍。
- ↑ 『三国志』巻6袁術伝
- ↑ ビジュアル三国志 2013, p. 118.
- ↑ 魏書II(1993)・荀攸伝p.272「魏書曰:議者云表、繡在後而還襲呂布、其危必也。攸以爲表、繡新破、勢不敢動。布驍猛、又恃袁術、若縱橫淮、泗間、豪傑必應之。今乘其初叛、衆心未一、往可破也。太祖曰「善」比行、布以敗劉備、而臧覇等應之」
- ↑ 『三国志』巻7呂布伝注引『献帝春秋』
- ↑ 魏書III(1993)・郭嘉伝p.27「征呂布、三戰破之。布退固守」
- ↑ 魏書II(1993)・荀攸伝p.27「攸與郭嘉、説曰「呂布、勇而無謀。今三戰皆北、其鋭気衰矣。三軍以將爲主、主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲。今及布氣之未復宮謀之未定、進急攻之、布可拔也」乃引沂泗、灌城。城潰、生禽布」
- ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布與麾下登白門樓。兵圍之急,令左右取其首詣[曹]操。左右不忍,乃下降。" - ↑ 方 2000, p. 29.
- 1 2 渡邉 2009, p. 70.
- ↑
(中国語) 『芸文類聚』巻17耳, ウィキソースより閲覧, "英雄記曰.曹公擒呂布.布顧劉備曰.玄德.卿為上坐客.我為降虜.繩縛我急.獨不可一言耶.操曰.縛虎不得不急.曹公欲緩之.備曰.不可.公不見布事丁建陽董太師乎.操憾之.布目備曰.大耳兒最叵信." - ↑
(中国語) 『後漢書』巻75呂布伝, ウィキソースより閲覧, "[呂]布目[劉]備曰:「大耳兒最叵信!」" - ↑ 『三国志』巻7張邈伝注引『献帝春秋』
- ↑ 方 2000, pp. 28–29; 巫・許 2025, p. 5.
- 1 2 3 4 5 6 唐 2017, p. 59.
- 1 2 3 方 2000, p. 26.
- 1 2 『三国志』巻7呂布伝附張邈伝
- 1 2 『三国志』巻14程昱伝
- ↑ 「狼子野心」『精選版 日本国語大辞典』。コトバンクより2026年1月14日閲覧。
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(中国語) 『春秋左氏伝』宣公四年, ウィキソースより閲覧, "諺曰.狼子野心.是乃狼也.其可畜乎." - ↑ 『三国志』巻10荀攸伝
- ↑ 『三国志』巻7評
- ↑
(中国語) 『何博士備論』魏論上, ウィキソースより閲覧, "昔者,東漢之微,豪傑並起而爭天下,人各操其所爭之資。蓋二袁以勢,呂布以勇,而曹公以智,劉備、孫權各挾乎智勇之微而不全者也。夫兵以勢舉者,勢傾則潰;戰以勇合者,勇竭則擒。唯能應之以智,則常以全強而制其二者之弊。是以袁、呂皆失,而曹公收之[...]。[...]呂布驍勇,轉鬥無前而爭袞州。方是之時,天下之窺曹公,疑不復振。而人之所以爭附而樂赴者,袁、呂而已。而曹公逡巡獨以其智起而應之,奮盈萬之旅,北摧袁紹而定燕、冀;合三縣之眾,東擒呂布而收濟袞;蹙袁術於淮左,仿徨無歸,遂以奔死。而曹公智畫之出,常若有餘,而不少困。彼之所謂勢與勇者,一旦潰敗,皆不勝支。然後天下始服曹公之為無敵,而以袁、呂為不足恃也。" - ↑ 『伝家集』巻67. 中国哲学書電子化計画. 2025年12月1日閲覧, "[呂]布者反覆亂人,非能輔佐漢室,而又彊暴無謀,敗亡有證。"
- ↑ 『続後漢書』巻8議. 中国哲学書電子化計画. 2025年12月1日閲覧, "呂布翻覆,虓猛而不知義。至於禽戮,乞解縛自效,豈天也哉。"
- ↑ 『魏武帝集』題詞. 中国哲学書電子化計画. 2025年12月1日閲覧, "孟德御軍三十餘年,手不捨書,兼草書亞崔張,音樂比桓蔡,圍棋埒王郭,復好養性,解方藥,周公所謂多才多藝,孟德誠有之。[...]漢末名人,文有孔融,武有呂布,孟德實兼其長,此兩人不死,殺孟德有餘。"
- ↑ “『三国志を抱く』マニア必見の秘話満載――“三国志”の真実についてプロ中のプロに訊く!(その2)”. ファミ通.com. KADOKAWA (2013年8月22日). 2025年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年12月1日閲覧。
- ↑ 渡邉 2014, p. 68.
- 1 2 3 4 唐 2017, p. 58.
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(中国語) 『三国志平話』巻上, ウィキソースより閲覧, "董卓坐定,遂問適來捉住者何人,姓甚名誰。言道:「某乃姓呂名布,字奉先。」「你為甚街上持戟殺人?」方欲詢問,有丁丞相家人言:「此人不為別事,為丁丞相一疋馬,故殺了丁丞相。」董卓問:「這馬怎生好馬?」其家奴再覆:「這馬非俗,渾身上下血點也似鮮紅,鬃尾如火,名為赤兔馬。丞相道,不是紅為赤兔馬,是射兔馬,旱地而行,如見兔子,不曾走了,不用馬關踏住,以此言赤兔馬。又言這馬若遇江河,如登平地,涉水而過。若至水中,不吃草料,食魚鱉。這馬日行一千里,負重八百餘斤,此馬非凡馬也。」道罷,呂布言曰:「非為馬殺主公。」布曰:「屢長主公常辱我,以此殺了丁丞相是實。」" - 1 2 上原 2024, pp. 158–159.
- 1 2 上原 2024, p. 159.
- 1 2 上原 2024, p. 161.
- ↑ 上原 2024, pp. 160, 162.
- ↑ 上原 2024, p. 164.
- ↑ 上原 2024, pp. 172–173.
- ↑ 上原 2024, p. 173.
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- 1 2 3 唐 2017, p. 57.
- ↑ 渡邉 2009, p. 66.
- ↑ 後藤 2014, pp. 108–109.
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- ↑ 後藤 2014, p. 144.
- ↑ 『三国志集解』何焯「然則布妻乃魏氏也」
- ↑ 渡邉義浩、仙石知子『「三国志」の女たち』山川出版社、2010年、204頁。ISBN 9784634640511。
- ↑ 巫・許 2025, p. 8.
- ↑ “気鋭作家陣の漫画が読める新コンテンツ! 日清食品グループ オンラインストアで「NISSIN MANGA (ニッシンマンガ)」をスタート!”. 日清食品. 日清食品グループ (2017年10月16日). 2025年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年12月1日閲覧。
- ↑ “名探偵呂布”. NISSIN MANGA. 日清食品グループ. 2021年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年12月1日閲覧。
参考文献
[編集]日本語文献
[編集]- 上谷浩一「呂布叛逆考 : 『三国志』研究ノート<2>」『東洋史訪』51巻、2008年、92–98頁、hdl:10132/2944。
- 上原究一「人中の呂布と錦の馬超——『三国志演義』のイケメン枠」『蘇州版画 東アジア印刷芸術の革新と東西交流』勉誠社〈アジア遊学〉、2024年、152–177頁。ISBN 9784585325413。
- 後藤裕也「呂布―少年英雄」『武将で読む 三国志演義読本』勉誠出版、2014年、35–146頁。ISBN 9784585290780。
- 竹内真彦「呂布「最強」への道程」『ユリイカ』 第51巻、第9号、青土社、2019年、66–72頁。ISBN 9784791703678。
- 宮内克浩「後漢・臧洪の絶交書について」『國學院雑誌』117巻11号、2016年、57–76頁、doi:10.57529/00000207。
- 渡邉義浩『三国志ナビ』新潮社〈新潮文庫〉、2014年。ISBN 9784101154503。
- 渡邉義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』講談社〈講談社選書メチエ〉、2012年。ISBN 9784062585323。
- 渡邉義浩『「三国志」武将34選』PHP研究所〈PHP文庫〉、2009年。ISBN 9784569672410。
- 渡邉義浩『図解雑学 三国志』ナツメ社、2000年。ISBN 9784816329265。
- 渡邉義浩 監修『ビジュアル三国志3000人:三国の覇者・軍師から時代を超えた三国志ゆかりの人物まで』世界文化社、2013年。ISBN 9784418132331。
中国語文献
[編集]- 陳勇「董卓進京述論」『中国史研究』第4期、1995年、109–121頁。
- 単敏捷『走向三国:漢末群雄割据史(190-220)』中華書局〈中華学術・近思〉、2025年。ISBN 9787101170733。
- 方詩銘『三国人物散論』上海古籍出版社、2000年。ISBN 9787532527557。
- 唐良鵬「論呂布形象単一化的演変過程」『重慶文理学院学報(社会科学版)』第4期、2017年、55–59頁、doi:10.19493/j.cnki.issn1673-8004.2017.04.009。
- 巫夢暁、許中栄「《三国演義》中的呂布範型及其文化意蘊」『湖北文理学院学報』第4期、2025年、5–9頁、doi:10.3969/j.issn.1009-2854.2025.04.001。
- 張寅瀟「呂布“軽狡反覆”辨析」『渤海大学学報』第6期、2018年、51–54, 75、doi:10.13831/j.cnki.issn.1672-8254.2018.06.011。
- 朱子彦、辺鋭「論呂布」『歴史教学問題』第3期、2007年、20–23頁。
英語文献
[編集]- de Crespigny, Rafe (2007). A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23-220 AD). Brill. doi:10.1163/ej.9789004156050.i-1311. ISBN 9789047411840
関連項目
[編集]- 裴儁(裴潜の弟)呂布と字が同じ。