史渙

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史渙
後漢
列侯・中領軍
出生 生年不詳
豫州沛国
死去 建安14年(209年
拼音 Shi Huan
公劉
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史 渙(し かん、? - 209年)は、中国後漢時代末期の武将。公劉豫州沛国(現在の江蘇省沛県を中心とする地域)の人。子は史静。

人物[編集]

生涯[編集]

若い頃は任侠の徒にして勇敢であり、忠義と武勇によって著名であった。曹操が初めて旗揚げした時から客分として随行し、行中軍校尉の地位に就いた。遠征時には常に諸将を監督し、曹操からの信頼も厚かった。

建安4年(199年)、袁紹と合流しようとしていた眭固を、曹仁らと共に撃破し、その軍勢を手中に収めることに成功した[1]

建安5年(200年)、官渡の戦いで曹操は荀攸の計略を用い、史渙と徐晃韓猛の輸送隊を攻撃させた。史渙らは数千輌の穀物輸送車を焼き払い、袁紹軍は多くの兵糧を失った[2]

建安12年(207年)、曹操が柳城の袁尚らを討伐しようとした際、遠征して敵地に深く進入することは万全の計画ではないと考え、同僚の韓浩に曹操を諌めようと相談を持ちかけた。しかし韓浩から、「我々2人は中軍の指揮官であるから、士気を削いではならない」と逆に諌められた。

史渙は中領軍まで出世し、列侯に封じられた。建安14年(209年)に死去し、子の史静が後を継いだ。

演義での史渙[編集]

小説『三国志演義』では、倉亭の戦いで袁尚と一騎討ちの末、討ち取られる設定になっている。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『三国志』魏書武帝紀。
  2. ^ 『三国志』魏書荀攸伝。