劉惇
劉 惇(りゅう とん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の人物。字は子仁。平原郡の人。天文に明るく、占数に通じている事から、南中国一帯で有名になった。「八絶(江南八絶)」[1]の一人。 『三国志』呉志 に伝がある。
生涯[編集]
世の中が混乱してきた事から、故郷を離れ、廬陵に移り住み、孫輔に仕えた。水害や旱害、賊徒の侵入がある時には、いつも事前にその時期をきっかりと予言したが、当たらないという事は無かった。孫輔は、劉惇のこうした能力を高く買って、彼を軍師に任じ、軍の将士達もみな彼を敬い仕えて、彼を「神明」と呼んだ。
建安年間に、孫権が豫章に在った時に、星に異変が現れた。この事について、孫権が劉惇に尋ねると、劉惇は言った。「災禍が丹陽にございます。」孫権が言った。「どんな災禍であろう?」劉惇が答えて言った。「客が主人を圧迫するのでございます。これこれの日にきっと知らせてやってまいりましょう。」この時、辺洪(辺鴻)が反乱を起こして孫翊を殺害しており、劉惇が言った通りにその知らせが入った。
劉惇はさまざまな術に通じていたが、特に太乙の術に明るく、その術をくまなく発揮させて、微妙な要点を極めていた。著書百余篇があり、有名な儒者の刁玄も彼の非凡さを称賛した。劉惇自身も自分の術を大切にして秘め隠し、人には知らせなかった為、世の中の人はその術の内容をはっきりと知る事はできなかった[2]。