劉表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
劉表
後漢
荊州、鎮南将軍、仮節、儀同三司、督交揚益三州、成武侯
出生 漢安元年(142年144年)?
兗州山陽郡高平県
(現:山東省河南省の境目)
死去 建安13年(208年)8月
享年67(65?)
荊州襄陽郡
ピン音 Liu Biao
景升(けいしょう)
主君 何進→独立勢力

劉 表(りゅう ひょう、漢安元年(142年) ? - 建安13年(208年)8月)は、中国後漢末期の政治家・儒学者。景升(けいしょう)。兗州山陽郡高平県[1]の人。前漢景帝の第4子の魯恭王劉余の第6子の郁桹侯劉驕の子孫[2]。後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。

生涯[編集]

劉表は若い頃大学で儒学を勉強しており、崇高な声望を得た。党錮の禁において、劉表は清流派の党人の中で「八及[3]と称されており、禁錮の刑(官職追放)となった。熹平5年(176年)、霊帝から追われる身となった張倹の逃亡を助け、自らも追われる身となった。黄巾の乱により党錮の禁が解除された中平元年(184年)に大将軍何進に招かれ、後に北軍中侯に転任した。

霊帝死後に詔勅によって荊州刺史王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった[4]。 しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁蒯越蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治める事に成功した。[5](後に州治を宜城近くの襄陽[6]に移している。)

初平元年(190年)、各地で反董卓の義兵が挙げられると、劉表もこれに加わった。

初平3年(192年[7])、袁術の意を受けた孫堅が荊州に侵入した。劉表は黄祖に命じてこれを防ぎ、袁紹と同盟して対抗した。黄祖は苦戦したが孫堅を討ち取り、荊州を守り抜いた。(襄陽の戦い

初平4年(193年)、らが実権を掌握する朝廷から、劉表は仮節・鎮南将軍・荊州牧に任じられ、また成武侯に封じられた。同年、袁術と曹操が争うと、袁術の糧道を断ち、袁紹と協調関係にあった曹操を支援した[8]

張済が食料不足により荊州の穣城を攻撃したが、流れ矢に当たって死んだ。劉表は「張済は困窮したから荊州に来たのに、私が礼を尽くさなかったから戦争をすることになってしまった。これは私の本意ではない」と言い、旧張済軍を受け入れた。旧張済軍はこの言葉を聞いて劉表に服従した。

その後、曹操と袁紹は敵対するようになる。劉表は引き続き袁紹に与して、旧張済軍の張繍と同盟を結び、曹操と戦った。

建安3年(198年)、曹操が張繍の駐屯する穣県[9]を攻囲した。劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かすと、張繍とともに挟撃しこれを破った。しかし敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかって両軍とも敗れた。

建安4年(199年)11月、張繍は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。

建安5年(200年)、官渡の戦いに際して劉表は袁紹から救援を要請された。これに先立って、長沙太守張羨桓階の提案に従い、長江・湘江一帯の住民を扇動して劉表に背いていた。劉表は張羨を討つべく自ら出征しており、結局袁紹に援軍を送らなかった。韓嵩劉先・蒯越らは、袁紹ではなく曹操に味方するよう劉表へ進言したが、これを拒否した。その後、張羨は病死し子の張懌が反乱を続けたが、劉表は反乱を鎮圧し、長江の南岸を勢力圏に組み入れた[10]

建安6年(201年)、汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。劉表は劉備を新野[11]に駐屯させ、曹操への備えとした。

建安8年(203年)、曹操が荊州へ侵攻し西平に駐屯した。すると、まもなく河北では袁譚袁尚が争うようになった。曹操は袁譚と同盟を結び、袁尚を攻撃するために撤退した。この戦いの前後に、劉表は劉備を博望に派遣し、夏侯惇于禁らの率いる軍を退けている。

建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった。

建安13年(208年)、曹操が荊州に侵攻を開始。劉表は曹操が荊州入りする直前に病死した。享年67(65の説あり)[12]

劉表の死後、庶子の劉琮が家督を継いだが、州を挙げて曹操に降伏した。劉表の兵は曹操に吸収された後、文聘が率いることとなった。長子の劉琦は劉備に荊州牧として擁立されたが、翌年死去した。

人物・逸話[編集]

容貌[編集]

身の丈8尺余りとされ、威厳のある風貌だったという。

治績など[編集]

  • 劉表は政治に長けており、また戦続きの土地から安全な荊州に逃れてきた人々も相俟って、荊州は急速に発展した。また、その逃れてきた人々の中には名士の存在もあり、荊州には優れた人材が集まった。劉表は学問を奨励し、宋忠司馬徽などといった学者も育った。
  • 儒学者で党人であった王暢に師事し、劉表自身も若い頃から儒学者として知られ、「八俊」「八交(あるいは八顧)」「八友」の一人に数えられる。

[編集]

三国志』魏書劉表傳

陳寿的評論
「劉表は威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、江南に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、はかりごとを好みながら決断力に欠けていた。良い人物がいてもこれを用いることが出来ず、良い言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えない」

なお、陳寿は袁紹と劉表を似た者と考えていたらしく、上の評をこの2人に対して送っている。曹操や孫権の後継ぎ争いでも、庶子を後継に立てることを諌めるための悪例として、袁紹と劉表はしばしば引き合いに出された。しかし史書に登場する限りで、劉表の臣下は大半が劉琮を後継者として認め、一方の劉琦は劉備を頼っただけであった。この点、兄弟が直接争った袁紹一族とは異なっている。

宗族[編集]

[編集]

  • 蔡氏(正室) - 蔡瑁の姉。
  • 陳氏(『演義』)

[編集]

(従子・族子)[編集]

劉表に仕えた主な人物[編集]

  • 伊籍 - 山陽郡の人。劉備が荊州にいた頃、常に行き来して頼りにした。劉表死後は劉備に従い、後に蜀科の制定に加わる。
  • 王威 - 曹操を捕らえて覇権を狙うよう劉琮に進言したが、退けられた
  • 王粲 - 建安の七子。容貌が醜く、劉表には尊重されなかった。劉表の死後、劉琮に曹操への帰順を勧めた
  • 王儁 - 袁紹と同盟を結ぶ劉表を諌めたが、退けられた
  • 蒯越- 劉表を補佐した汝陽県令(のち章陵太守)。劉表が死ぬと、劉琮に曹操への帰順を勧めた
  • 蒯良 - 南郡中廬の人。蒯越や蔡瑁と共に劉表に招かれた
  • 霍峻 - 劉表の命で、亡くなった兄の霍篤が集めた私兵を統率した。劉表の死後、劉備に帰順した
  • 韓嵩 - 従事中郎。曹操の下に派遣された後、劉表に背信を疑われ、監禁された
  • 黄祖 - 江夏太守。孫堅の侵入を退けた後、その子である孫権との戦いで敗れ、戦死した
  • 黄忠 - 劉表によって中郎将に任じられ、長沙郡の攸県を守った。劉備が長沙を平定すると、彼に臣従した
  • 蔡瑁 - 劉表の義弟(妻の弟)。姪婿にあたる劉琮を後継に立てるよう、劉表に強く勧めた
  • 向朗 - 劉表によって臨沮の県長に任じられる。劉表の死後、劉備に帰順した
  • 宋忠 - 『後定・五経章句』を編纂した学者。劉琮が降伏することを劉備に伝えた
  • 張允 - 蔡瑁の外戚。蔡瑁と共に、劉琮を後継に立てるよう、劉表に勧めた
  • 趙戩 - 字を叔茂といい、京兆郡長陵県の人。劉表は彼を賓客としてもてなした。曹操が荊州を平定した際、手を執って、「なんと、出会うのが遅かったことよ」と言った。
  • 鄧義 - 治中。諫言を劉表が聞き入れなかったため、病気を理由に辞職した。曹操が荊州を平定した後、召されて侍中となった
  • 杜夔 - 劉表の命で天子のための楽団を編成した。劉琮の降伏に伴い、曹操に臣従した
  • 潘濬 - 劉表に招かれ江夏郡の従事に任ぜられた。後に劉備に従うが、関羽の敗死後は孫権に帰順し重用された。呉書に伝が存在する。潘濬の妻の兄は蒋琬である。
  • 傅巽 - 東曹掾。劉表の死後、劉琮に曹操への帰順を勧め、その功で曹操にも重用された
  • 文聘 - 荊州北方を守備した大将。劉琮の降伏に伴い、曹操に臣従したが、荊州を守れなかったことを涙した
  • 龐季 - 襄陽に割拠した張虎陳生を降伏させた
  • 劉先 - 別駕。韓嵩と共に、劉表に曹操に従うよう進言した
  • 劉望之 - 従事。侍中となったの兄。名声高かったが劉表に直言を吐き、処刑された

脚注[編集]

  1. ^ 現在の山東省済南市魚台県東北
  2. ^ 范曄後漢書』劉表伝より。陳寿三国志』劉表伝には一切記されていない。
  3. ^ 後漢書』党錮伝。『後漢書』劉表伝では「八顧」。『三国志』魏志劉表伝では「八俊」。
  4. ^ 『三国志』及び裴松之の注釈には、劉表に詔勅を下ったのがいつのことであり、詔勅を下したのは誰であるのかは明記されていない。
    関連する記述
    『三国志』魏書武帝紀などによると、霊帝の死去は189年4月の事であり、後漢朝廷の実権を掌握していた何進も、同年8月に宦官らによって殺害されている。
    『後漢書』劉表伝によると、劉表に荊州刺史就任の詔勅が下ったのは、190年、荊州刺史王叡が孫堅によって殺害された後の事になっている。
    『三国志』呉書孫破慮討逆伝によると、王叡は孫堅によって殺害されるまで荊州刺史の任にある。同伝・注『王氏譜』によってもそれは同じである事が確認出来る。
    『三国志』魏書董卓伝によると、190年当時、朝廷の実権を握っていたのは董卓となっている。
    『三国志』蜀書劉焉伝・注『続漢書』によると、劉表が荊州牧になった時期を劉焉が益州牧となった188年だとする。裴松之はこの記述に対して、劉表が荊州の長官となったのは、霊帝死後、王叡が孫堅によって殺された後だとする推測を述べている。
  5. ^ 三国志』魏書劉表伝・注司馬彪著『戦略』の記述
  6. ^ 現在の湖北省襄陽市北部にあたる。
  7. ^ 初平2年(191年)の説もある
  8. ^ 『『三国志』武帝紀の記述。
  9. ^ 河南省南陽周辺。
  10. ^ 陳寿は劉表のこのような姿勢を、『三国志』魏書劉表伝の本文中において「劉表は袁紹には“援軍を送る”と約束しながら派兵せず、かといって太祖(曹操)に組するでもなく、長江・漢水流域を抑えつつ、天下の動向を観察していた」と記している。
  11. ^ 現在の河南省南陽市新野県
  12. ^ この説を採ると、劉表の生年は144年という計算になる。

出典[編集]