孟光

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孟 光(もう こう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は孝裕司隷河南郡洛陽県の人。大尉孟郁の一族。はじめ後漢に、後に蜀漢に仕えた。

「蜀書」、杜周杜許孟来尹李譙郤伝 - 孟光伝には、

「博学で古代の知識に詳しく、あらゆる書物を読破していたが、 最も「三史」(「史記」「漢書」「東観漢記」)の研究に意を注ぎ、漢王朝の古い制度に詳しかった。 「公羊春秋」を好み、「左氏春秋」には批判を浴びせ、来敏とこの両伝の「春秋」の解釈について優劣を議論すると、いつも孟光は大声で捲くし立てた。」

とする記述がある。秘書郎の郤正はたびたび孟光の下をたずねて学問上の疑義について質問した。またこのとき劉璿の皇太子としてのあるべき姿を論じて郤正を感心させている。

また、大官に就いていたものの直言を憚らなかったようであり、そのため宮中においては気に入られず出世は遅れ鐔承、裴儁は年功の上では孟光の下であったものの位は先んじたとある。

上席であった大将軍費禕にも直言を重ね大赦令が出された折には満座の席でその責任を追及し、費禕はこれに対して恐縮しきりで彼に対して反論できずに謝罪した。

出来事 (年代順)[編集]

  • 霊帝の末年、講部吏となる。
  • 献帝長安遷都の折、益州に逃げ込み、劉焉父子から客礼をもって待遇される。
  • 劉備の益州平定後、議朗に任命され、許慈らとともに宮中制度の制定にあたる。
  • 群臣の一人として劉備に帝位に即位するように上表する。
  • 劉禅即位後、符節令・屯騎校尉・長楽少府となり大司農にまで昇進。
  • 延熙9年(246年)秋、大赦令が出されると、これを非難。
  • ある事件にひっかかり免官。
  • 九十余歳で亡くなる。

参考文献[編集]

「正史 三国志 5 蜀書」 (陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7