来敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

来 敏(らい びん、生没年不詳)は、中国三国時代蜀漢の学者。字は敬達荊州義陽郡新野県の人。父は来豔。子は来忠。

経歴[編集]

姓名 来敏
時代 後漢時代 - 三国時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 敬達(字)
本貫・出身地等 荊州義陽郡新野県
職官 典学校尉〔劉備〕→太子家令〔劉備〕

→虎賁中郎将蜀漢
丞相軍祭酒・補軍将軍〔蜀漢〕
大長秋〔蜀漢〕→光禄大夫〔蜀漢〕
→執慎将軍〔蜀漢〕

爵位・号等 -
陣営・所属等 劉璋劉備劉禅
家族・一族 父:来豔 子:来忠 義兄:黄琬

後漢来歙の末裔であり、父は霊帝の時代に司空にまで昇った。

『蜀書』杜周杜許孟来尹李譙郤伝 - 来敏伝には、

「書物を広く読み漁り、「左氏春秋」をよくし、「三倉」・「広雅」の訓詁学に最も詳しく、文字を校正する事を好んだ」

とする記述がある。

また、言葉に節度がなく、何度も免職や格下げにあったとされる。 しかし、来氏は荊州の名族であり、劉禅太子だった頃からの臣下であったため、何度でも復職できた。

諸葛亮集』には、諸葛亮が来敏を免職させるにあたって記した命令書が載っている。 内容を整理すると以下のようになる

来敏は年を経て老年に至ると、常軌を逸した行動をとるようになった。
自分より年の若い者が、自分を飛び越えて出世した事に対し、怨み事を並べ立てたため周囲から憎まれた。
他の論者達は、彼のそうした様子を批判していた。
劉備は彼の振る舞いを不愉快に思っていたが、劉巴が推挙した人物であり、国が興ったばかりの時であったため堪えていた。

これらの事があり、諸葛亮は彼が道徳を教化してくれると考え高官に迎えたことを後悔し、彼を免職に処した。

後に出陣前夜の費禕に対し、彼は別れの挨拶と称し囲碁の対局を羨望して、その胆力を試みたという。

97歳で亡くなった。

子は姜維参謀として参軍に任じられた。

出来事 (年代順)[編集]

  • 後漢末の大乱に遭遇し、姉(黄琬未亡人)について荊州に逃げる。
  • 黄琬が劉璋の祖母の甥だったので、姉弟揃って迎えられたのを機に劉璋の賓客となる。
  • 劉備の益州平定後、典学校尉となる。
  • 太子(劉禅)を立てるに及んで、(太子の)家令となる。
  • (劉禅)即位後、虎賁中郎将に任じられる。
  • 漢中にいた諸葛亮の要請で、軍祭酒・補軍将軍に就任するが事件にひっかかり職を去る。
  • 諸葛亮の死後、成都に戻り、大長秋となるが免職。
  • 官に戻り光禄大夫にまで昇進したが、過失を犯し退けられる。
  • 官の重さを自覚し自戒するよう、執慎将軍に任命される。
  • 景耀年間(258年 - 263年間)に97歳で亡くなる。

参考書籍[編集]