甘寧

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甘寧
三国志演義の甘寧の肖像画
三国志演義の甘寧の肖像画

西陵太守・折衝将軍・升城督
出生 不詳
益州巴郡臨江県
死去 建安20年(215年
ピン音 Gān Níng
興覇
別名 神号:昭毅武惠遺愛靈顯王
主君 霊帝→独自勢力 → 黄祖孫権

甘 寧(かん ねい、生年不詳[1] - 215年[2])は、中国後漢末期の武将。孫権に仕えた。興覇(こうは)。益州巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)の出身。子は甘瓌・甘述(『晋書』「甘卓伝」)。孫は甘昌(『晋書「甘卓伝」』)。曾孫は甘卓(『晋書』「甘卓伝」)。『三国志志に伝がある。

経歴[編集]

孫権に従う以前[編集]

先祖は南陽郡の人であったが、巴郡に移住してきたという(『呉書』)[3]。甘寧は計掾(会計報告係)に推挙され、蜀郡の丞となったが、ほどなくして官を棄て、家に帰った(『呉書』)。

若い頃より気概があって遊侠を好み、不良の若者を集めて徒党を組み、派手に武装をさせ、彼らの頭領となった。仲間たちは皆、羽飾りを背負い、鈴を常に携えていたので、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったという。派手な装いで外出し、陸路や水路を闊歩した(『呉書』)。人に出会った時は、地方の長官だろうと自分達を盛大に歓待させ、そうしない者には手下を使って財産を奪わせた。また自分が属する地方の長官の領内で犯罪があれば摘発と制裁を行った。 このような生活が20年ほど続いたが、あるとき、乱暴を止め、いくつか書物を読むようになったという。

194年興平元年)、劉焉が没し、子の劉璋が跡を継いだ際、李傕漢中に派遣した扈瑁に呼応した劉璋の将軍である沈弥らと共に、劉璋に反逆したが敗れ、荊州へ逃亡した人物の中に甘寧という人名がある(蜀志「劉焉伝」の注に引く『英雄記』)。

甘寧は荊州の劉表に身を寄せて南陽に住まうようになった。しかし、任用されなかったので、劉表の部下の江夏太守黄祖の元に身を寄せたが、一般の食客としての扱いであった。『呉書』では、以下のように説明されている。

甘寧は手下や食客800名を連れた上で身を寄せたが劉表は文を重んじ武を軽視したため、甘寧は任用されなかった。甘寧は劉表が大成せずやがて滅んでしまうだろうと確信し、巻き添えを避けるため江東に移ろうとしたという。しかし、劉表の部下の江夏太守黄祖の軍勢が夏口に駐屯していたため通過できず、そのまま黄祖の下に留まった。冷遇されたまま3年ほど経過した。後に黄祖の軍の将として、対立する孫権の軍に敗れた黄祖を救援し、その殿を務め、追跡してきた孫権の将である凌操を討ち取るなどの手柄を立てたが、甘寧の待遇はその後も変わらなかった。

都督である蘇飛は甘寧を重用するよう黄祖に諫言したが、黄祖はかえって甘寧の食客を引き抜こうとし、甘寧の食客らは減少していった。甘寧は黄祖の陣営を離反することが出来ずに悶々としていたが、蘇飛の助けにより邾(ちゅ)県の長に推挙され、黄祖の下を離れることができた。甘寧は、かつての食客や新たに部下となった者達数100人を引き連れて、県に向かった。

やがて甘寧はそこを出奔し、孫権に降った。

孫権配下として[編集]

甘寧が身を寄せると、周瑜呂蒙が連名で推薦した為、孫権は旧臣同様に甘寧を遇する事にした。この際、甘寧は、まず劉表と黄祖を討って荊州を押さえ、さらに巴蜀(益州)をも攻め、天下に覇を唱えるという「天下二分の計」ともいえる戦略を提言した。国内の反乱を心配する張昭はこれに反対したが、甘寧は張昭に堂々と反論し、孫権も甘寧の言葉を気に入り、杯を与えて信頼を示した。

208年建安13年)、甘寧は黄祖攻めに従軍した。江夏で黄祖を討ち破った際、かつての恩人であった蘇飛は生け捕られてしまったが、蘇飛はこっそり人を遣わして甘寧に助命を願った。甘寧もまた蘇飛の恩を忘れず、孫権の前で頭を打ち付けて涙ながらに蘇飛の助命を嘆願したため、孫権はこれを容れている(『呉書』)。孫権は黄祖の軍を吸収すると、甘寧に兵士を与えて当口に駐屯させた。

劉表の勢力を吸収した曹操と孫権が戦った赤壁の戦いでは周瑜に随行して曹操を烏林で打ち破り、続いて南郡の曹仁攻略に参加した。甘寧はまず夷陵を奪取すべきとの計略を立て、すぐに手勢1000人程を以って陥落させたが、逆に曹仁から5000から6000の兵士を繰り出されて包囲された。甘寧は猛攻に何日も耐え、平然と談笑して屈しなかった。使者を出して周瑜に状況を知らせたところ、周瑜は呂蒙の計略(「呂蒙伝」を参照)を採用し、凌統だけを留守に残し、その他の諸将を率いて甘寧を救援し囲みを解いた。決戦の末、曹仁は江陵から撤退した。

213年(建安18年)[4] に曹操が濡須へ侵攻(濡須口の戦い)した際には、甘寧は前部督となった。孫権は甘寧に特別に酒と米を与えた。甘寧は100人ほど集め、酒食を振舞うと、曹操の陣営に夜半奇襲をかけることを提言した。このとき、渋る部下の都督に対し「お前は自分を何だと心得ている。殿がお前を俺より大事だとでも思っているのか。将軍である俺ですら死を覚悟しているのにお前一人が何故命を惜しむのか」と号をかけ、兵士にまでも自らの酌で酒を振舞って隊を鼓舞したという。こうして結成した決死隊により夜襲をかけると敵兵は混乱し、動揺して引き下がった。[5]

214年(建安19年)、曹操の揚州における拠点である皖城攻撃に従軍した際には、呂蒙により升城督(攻城隊長)に任命され、城壁をよじのぼって官吏兵士を先導し、あっさりと敵将の朱光を捕らえた。論功行賞の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、この時に折衝将軍を拝命した。

215年(建安20年)、孫権と劉備が荊州返還を巡って緊張状態になると、魯粛に随行して長沙の益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢3万を号し、精鋭5000人を以って夜半に上流の浅瀬を押えると喧伝した。甘寧はこのとき、300人の兵士を率いていたが、あと500人の兵士を与えてくれれば、関羽の動きを止めるか、さもなくば捕らえることができると進言した。魯粛は甘寧に1000人の選抜兵を預けた。甘寧は夜中に出陣すると、それを聞いた関羽は軍営を瀬に築いたが(関羽瀬)、結局渡河を断念した。孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新・下雉の両県を領させた。

その年の七月以降に孫権は合肥を攻めたが、八月には撤退を決定する。この時孫権が、呂蒙・蒋欽・甘寧・凌統とわずかな手勢しか連れていないのを見て、合肥を守備していた曹操軍の張遼が急襲をかけてきた。甘寧は弓を引いて敵を射ち、凌統らとともに死闘を繰り広げ、なぜ音楽を鳴らさないのかと沈黙する鼓吹隊を怒鳴りつけた。孫権は甘寧の勇壮毅然とした様を褒め称えた。

甘寧はその年の冬に死去。孫権はその死を痛惜した。 子の甘瓌は罪を犯し、流罪先の会稽で病死した。[6]

『晋書』によると、その他の子として甘述がおり、甘昌・甘卓と続いた。甘卓は東晋の建国に尽力したが、後に王敦に討たれている。

人物[編集]

甘寧は粗暴で殺人を好んだものの、しかし爽快な人柄で優れた計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、彼らの方でもまた役に立ちたいと願った。

呂蒙とは親交が深く。また夏口の守備を任されていた孫皎の指揮下におかれたが、最初は年下の孫皎に軽く扱われたため激怒し、陸口の呂蒙の指揮下に変更してもらいたいと孫権に嘆願した。孫権は孫皎に訓戒を与えた(呉志「宗室伝」)。以後も親しく付き合った。

あるとき、呂蒙の家で酒宴が催されたとき、凌統が剣を持って舞を始めると、甘寧も双戟を持って舞を始めた。呂蒙は剣と楯を持って2人の間に割り込んだ。孫権は凌統の気持ちの深さを知り、甘寧を半州に移してそこに駐屯させることにした。あるとき、甘寧の料理人が小さな失敗をして、呂蒙の下へ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧の激しい性格を知っていたので、決して料理人を殺さないと誓わせ、口添えした上で料理人を帰した。ところが、甘寧はこの料理人を樹に縛りつけた上で射殺してしまった。これには呂蒙も激怒して甘寧を処罰しようとしたところ、呂蒙の母は「天下の大局は難しいところに来ています。内輪もめをしている場合ではありますまい」と諌めたので、呂蒙は気持ちを改めて和解を持ちかけた。甘寧は涙ながらにこれを受け、事なきを得たという。

後世の信仰[編集]

北宋の時、973年に「褒国公」に追封された。この後は、「褒国武霊公」を加封された。南宋で、建炎四年(1130年)に「昭毅武惠遺愛靈顯王」として神格化された。祀る廟を建立させた、廟の前のカラスは「神鴉」と呼ばれる。妻の熊氏は「順佑夫人」に追封される。子女も追封される。

演義では[編集]

小説『三国志演義』では若い頃は徒党と組んで江湖一帯を縦横に荒らしまわり、「錦帆賊」と呼ばれる河賊であったとする。

やがて曹操が荊州に進出すると、甘寧は対決を主張。赤壁の戦いでは黄蓋の「苦肉の計」に闞沢に協力し、曹操を欺く計略に参加。偽って投降してきた蔡中を利用して、敵陣深くに潜り込んで火を放ち、さらに逃げる曹操に追いすがり損害を与える。

凌統とは黄祖征伐の後で命を狙われるなど仇敵視されていたが、のちの濡須口の戦いでは凌統の危機を救い、楽進を弓矢で退ける。このことを知った凌統がかつての恨みを水に流し、二人は固い親交を結ぶことになっている。

濡須へ侵攻した曹操に部下百名で夜襲をかけた場面では、同士討ちを防ぐためにあらかじめ兵士達の頭にガチョウの羽をつけさせ、兵士を1人も失わずに勝利を収めたという筋書きが付与されている。

最後は、劉備との夷陵の戦いにおいて病床の身を押して出陣し、劉備に協力した蛮将沙摩柯の矢を受け戦死している。

脚註[編集]

  1. ^ 20年の游侠生活から、甘寧の生年は西暦150年前後と推測される。
  2. ^ 建康実録』巻1「太祖上」(建安二十年)冬,折衝將軍、升城督甘寧卒。※建安20年の冬は西暦215年11月9日から西暦216年2月5日までのため、没年は216年の可能性もある。
  3. ^ 『晋書』巻70 列伝第40甘卓伝では、甘寧の祖は甘茂とする(原文「“甘卓字季思,丹楊人,秦丞相茂之後也。曾祖寧,為吳將”」)。
  4. ^ 『江表伝』にみえる孫権が甘寧を張遼と比べた逸話(「孟德有張遼,孤有興霸,足相敵也。」)と時系列が一致しないが『江表伝』の記述は信頼性が薄く、三国志本文の配置を入れ替えてまで解釈すべきではないと考える。
  5. ^ 「江表伝」に拠れば、孫権は「あのじじい(曹操)はびっくりしましたか? 度胸試しに過ぎない」と笑っている、軍勢2000人を加増した。このとき、「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる。うまく釣り合っているものだ」と甘寧の武勇と豪胆さを賞賛したという
  6. ^ 「潘璋伝」に「璋部下司馬馬忠禽羽,并羽子平、都督趙累等。權即分宜都至秭歸二縣為固陵郡,拜璋為太守、振威將軍,封溧陽侯。甘寧卒,又并其軍。劉備出夷陵,璋與陵遜并力拒之,璋部下斬備護軍馮習等,所殺傷甚眾,拜平北將軍、襄陽太守。」とあり、前後の時系列から甘寧の死は建安25年頃とする見解がある。「甘寧卒」を(この頃に甘寧が死んだので)と解釈する場合『建康実録』の記載とは一致しない。おそらくは甘寧の死後に甘寧の兵を継承したであろう甘瓌についての記載を省いた結果、時系列に齟齬が発生したと解釈する。

関連項目[編集]