士徽

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士徽

安遠将軍・九真太守
出生 延熹8年(165年
交州蒼梧郡広信県
死去 黄武5年(226年
交州交阯郡
拼音 Shì Huī
主君 孫権

士 徽(し き)は、後漢末期から三国にかけての武将。

生涯[編集]

士燮の三男。父の死後、交趾の統治を引き継いだ。孫権は交趾へ至る道が遠く険しいことから、交州合浦郡以北を分割して広州とし、呂岱を広州刺史に任じた。また、交州刺史には戴良中国語版を任じ、士徽は交趾太守に代わって安遠将軍・九真太守に任じられた。しかし、父の代から交州を治めていた士徽はこれに対して不満を持ち、戴良と共に、後任の交趾太守となった陳時の着任を阻止しようと、呉に対して反乱を起こした。孫権は呂岱らに軍を預けて鎮圧に向かわせたが、士徽の抵抗は頑強で、城を落とすことはできなかった。

反乱に加わらなかった従弟の士匡が遣わされて、降伏すれば孫権は許すと説得された。援軍の無い籠城戦には展望がないため、兄の士祗漢文版からも説得を受けた士徽は自らの命を保障してもらうという条件の下で兄弟揃って開城・降伏した。しかし、呂岱には許されず、士徽は兄の中国語版を除いた兄弟達と共に会見場で処刑されてしまった。その首は武昌で晒されたという。