大懿皇后

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大懿皇后(だいいこうごう、? - 245年)は、三国時代の大帝孫権の夫人(側室)。徐州琅邪郡の出身。姓は王夫人と呼ばれた。孫休の母の王夫人(敬懐皇后)とは別人である。父は王盧九。子は孫和。呉の4代皇帝である孫皓の祖母。

生涯[編集]

選を経て後宮に入った。孫権の王夫人への寵愛ぶりは、歩夫人に次ぐものであったという。黄武3年(224年)に孫和を生んだ。

赤烏5年(242年)、孫和が皇太子になると、母の王夫人を皇后に立てるべきという意見が広がった。孫権は皇后を立てる意思がなかったため、これを拒絶した。その一方で、皇太子の生母として重んじられ、他の寵姫たちはみな地方に遠ざけられるようになった。

孫魯班(全公主)と仲が悪かった。そこで魯班は少しずつ悪口を吹き込むようになり、孫権が病臥になると「王夫人は病状に関心を持たない上に、嬉しそうな顔をしておりました」と言った。このため孫権も彼女に厳しく当たるようになってしまい、王夫人は憂悶のうちに死去することになった。

孫皓は即位すると、王氏に大懿皇后の諡号を贈って追尊し、王氏の3人の弟を列侯に封じた。

小説『三国志演義』では、孫権の次男になった孫和の母という設定になっている。

参考文献[編集]