夫余

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夫余(ふよ、拼音: Fúyú旧字体:夫餘)は、現在の中国東北部満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。

2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。
4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。

歴史[編集]

建国以前[編集]

夫余が建国する以前のこの地には(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「濊城」、周囲約800m、前漢初期には存在、黒龍江省賓県)も発見されている。

蒼海郡の設置

元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴遼西郡に侵入してその太守を殺害し、漁陽郡雁門郡にも侵入して都尉を破り、3千人余りも殺害した。これに対し、漢は将軍の衛青を雁門郡から、将軍の李息代郡から派遣し、千人分の捕虜と首級を得た。この一件に際して東夷薉(穢 わい)国君主の南閭(なんりょ)等28万人が漢に降ったため、そこに蒼海郡を設置した。元朔3年(紀元前126年)春、蒼海郡を廃止した。[2]

建国神話[編集]

『論衡』(『後漢書』東夷伝、『魏略』)に「昔、北夷の索離国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。」という記述がある。[3]

また『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。

『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁が治めていたがのちに太陽神の解慕漱が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。

漢代[編集]

始建国元年(9年)秋、王莽を建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、周辺諸国は離反し、夫余も離反した。[4]

建武年間(25年 - 56年)、東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった。建武25年(49年)10月、夫余王が遣使を送って朝貢したので、光武帝はこれを厚くもてなした。[5]

安帝永初5年(111年)3月、夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。[6]

永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌122年(延光元年)、また高句麗が馬韓濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。[7]

順帝永和元年(136年)、夫余王は京師(洛陽)に来朝した。[8]

桓帝延熹4年(161年)、夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守公孫域によって撃破され、千余名が斬首された。[9]

霊帝熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。[10]

夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。[11]

[12]

三国時代[編集]

魏の黄初元年(220年)、夫余が魏に朝貢した際、その君主は「夫余単于」と呼ばれた[13]

尉仇台が死ぬと、簡位居が立った。簡位居には適子がいなかったが、孽子の麻余という者がいた。位居が死ぬと、諸加(諸大臣)は共に麻余を立てた。牛加(ぎゅうか:官名)の兄の子である位居は大使(たいし:官名)となり、善政をしいたため、国人はこれに附き、年々中国に遣使を送って朝貢した。

正始年間(240年 - 249年)、幽州刺史毌丘倹は高句麗を討伐し、玄菟太守の王頎を夫余に遣わした。大使の位居は大加(たいか:官名)を遣わして王頎らを郊外で出迎えさせるとともに、軍糧を供えた。時に、季父(おじ)の牛加に二心があったため、位居は季父父子を殺して財産を没収して帳簿に記録し、使者を派遣してその帳簿を官に送った。麻余が死ぬと、まだ6歳である子の依慮が立って王になった。[14]

夫余王の王印には「濊王之印」と刻まれており、国内には「濊城という名の故城」があることから、もともとは濊(穢)族の地であったことがわかる[15]

西晋時代[編集]

武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵賈沈を遣わして兵を送り、今の遼寧省開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。[16]

東晋時代[編集]

初め夫余は鹿山に住んでいたが、百済の侵入に遭って部落が衰え散ったので、西の前燕の近くに移住した。東晋永和2年(346年)正月、前燕の慕容皝は嫡男の慕容儁慕容恪ら7千騎に夫余を襲撃させた。夫余王の玄と部落5万人余りが捕虜として連行されたが、夫余王の玄は鎮軍将軍を拝命し、慕容皝の娘を娶ることができた。[17]

滅亡[編集]

夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅ぼされた。

夫余族の苗裔(北夫余)は豆莫婁国と称して代まで続いた。

地理[編集]

夫余は長城の北にあり、玄菟から千余里はなれている。南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接している。北には弱水がある。国の広さは2千里四方ある。

戸数は8万戸あり、人々は定住生活をしている。城郭や宮室、倉庫、牢獄があり、山や丘や広い沢が多く、東夷地域では最も広い平坦な所である(トンペイ平原)。土地は五穀を育てるのに適しているが、五果はできない。

習俗[編集]

衣食住[編集]

国内では白の衣服を尊重し、白布の大きな袂の袍や袴を着て革鞜を履く。国外に出るときは、絹織物、繍、錦織、毛織物などを身につけ金銀で飾る。大人は、その上に狐、狸、狖(黒猿)、白貂、黒貂などの皮をまとい、金銀で帽子を飾っている。

食飲は俎豆(そとう:食器、作法)を用い、宴会で酒杯を受けたり酒杯を返すときも、その立ち居振舞いは謙虚である。

殷歴の正月には、天を祭り、国中で大会を開き、連日飲食して歌舞する。この祭を「迎鼓」という。この時には刑罰を行なわず、囚人を解放する。

ただし、髪形の風習は述べられていない。 [18]

政治体制[編集]

国には統一的な君王がいる。古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、あるいは王を替えるべきだと言い、あるいは王を殺すべきだとした。

官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加,牛加,豬加,狗加の諸加があり、諸加はそれぞれ四出道を守り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配していた。

諸加の下には大使,大使者,使者の諸使がある。邑落には豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農、下戸と呼ばれる隷属農民や奴隷、奴僕と呼ばれる奴隷がいる。 [19]

産業[編集]

夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量の鉄製農具が見つかるなど、農業技術や器具は同時代の東夷の中で最も発達していた。また、金銀を豊富に産出する土地であり、金属を糸状に加工して飾り付けるなど、金銀の加工に関しては非常に高い水準だったとされる。紡績に関しても養蚕が営まれ絹や繍・綵など様々な種類の絹織物が作られたほか、麻織物や毛織物が作られ東夷の中で最も発達していたとされる。

また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出し、珠の大きなものは酸棗(やまなつめ)ほどもある。『魏略』には、国は賑わい富んでいるとあり、その頃が最盛期だったとみられる。 [20]

武器[編集]

弓矢,刀,矛を兵器としている。家々には自分たちの鎧や刀剣類を所蔵している。 [21]

刑罰[編集]

刑罰は厳しく、人を殺せば死刑となり、その家族は奴婢にされる。盗みは盗んだ物の12倍を償わせる。男女が私通したり、婦人が妬んだりすれば、すべて死刑にされる。妬みによる罪をもっとも憎んでおり、その罪により死刑にされると、死骸は国の南の山上にさらされ、腐爛するまで放置される。死骸が腐爛したのち、その婦人の家人がその死骸を引き取りたいと望んで牛馬を連れていけば、死骸を与える。 [22]

婚姻[編集]

兄が死んだ場合、兄嫁を弟が妻とする。これは匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である。 [23]

葬祭[編集]

有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。その亡くなった者を祭るのに「生」と「熟」がある。喪主は速やかなるを欲せずして他人がこれを強制し、常に諍引してこれを節とする。男女は皆純白の喪服を着用し、婦人は布面衣(布製のベール)を着用し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす。これらのことは大体中国と似ている。 [24]

その他の風俗[編集]

人々は体格が非常に大きく、性格は勇敢で、謹み深く親切であり、あまり他国へは侵略しない。

通訳が言葉を伝える時、みな跪いて両手を地につけ、小声で話をする。

戦争を始めるときは天を祭り、牛を殺してその蹄を見て開戦の吉凶を占う。蹄が開いていれば「凶」、蹄が合わさっていれば「吉」である。戦争になれば、諸加はすすんで戦う。下戸は食糧を担いで諸加に従い、諸加は下戸の荷う食糧を飲食する。 [25]

言語系統[編集]

中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[26]沃沮もほぼ同じとされる[27]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[28]と記される。ここで2つの言語系統が存在することがわかるが、夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、現在に至ってもよくわかっていない。

  • ツングース+モンゴル語系説…比較言語学的研究により、穢貊系(濊系、扶余系)の語彙[30]の多くがツングース系の語彙と共通し、かつモンゴル系の語彙も含むことから、夫余・高句麗語はツングース系をベースとしたモンゴル系との混成語であるとする説[31]。これに対し、粛慎系の言語はモンゴル系などが混じっていない「純ツングース系」とされる。
  • 夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説[32]。しかし、村山七郎や清瀬義三郎則府は、高句麗語と朝鮮語は遠いことを示すと共に、日本語と近縁の言語とし[33]、そもそも高句麗語の存在や不正確さも指摘している[34]
  • モンゴル語系説…北夫余の故地に在った豆莫婁の言語は、東胡系とする室韋庫莫奚契丹と同じであることが『魏書』に記されており、『新唐書』にある北夫余の末裔を自称した達末婁が同じ国であるため、言語的にも末裔であればこれらの言語系統はモンゴル系になる。しかし支配層と民衆の言語が異なる可能性もある。
  • 古シベリア(古アジア)系説…中国史書の記述(上記)から粛慎系の言語系統と濊系の言語系統が異なると判断し、粛慎系をツングース系と仮定すれば、濊系は古アジア系となる説[35]

歴代君主[編集]

夫余王国
  • 夫台(安帝の時代~桓帝の時代)
  • 尉仇台(献帝の時代)…夫台の子
  • 簡位居…尉仇台の次
  • 麻余…簡位居の次
  • 依慮(曹芳の時代 - 285年)…麻余の次
夫余後王国
  1. 依羅王(285年 - ?)…依慮の次
  2. 蔚王
  3. 玄王 (? - 346年 - ?)
  4. 居王

トーテム[編集]

川崎真治は自著で、「混成民族、夫余説」を唱えた[36]。夫余では馬、牛、猪、狗をそれぞれトーテムとする民族が混住しており、馬トーテム族は北方騎馬民族アルタイ人であり、牛トーテム族はシュメール人の子孫、狗トーテム族は印欧語アーリア人で、猪トーテム族は原シナ人(漢民族)であったという。

日本との関係[編集]

扶余諸語が日本語と同系であるとする説に関連して、夫余の王族が日本に渡来し大和朝廷の前身になったとする説も存在する[37]

脚注[編集]

  1. ^ 扶餘(扶余)の語は五代十国時代以降の史書(『旧唐書』、『新唐書』、『旧五代史』、『宋史』、『三国史記』など)から使われるようになったものであり、実際に夫余国として存在した南北朝時代までの呼び名としては夫餘(夫余)である。
  2. ^ 『漢書』武帝紀
  3. ^ 『後漢書』東夷列伝
  4. ^ 『漢書』王莽伝
  5. ^ 『後漢書』光武帝紀
  6. ^ 『後漢書』安帝紀
  7. ^ 『後漢書』安帝紀
  8. ^ 『後漢書』順帝紀
  9. ^ 『後漢書』東夷列伝
  10. ^ 『後漢書』東夷列伝
  11. ^ 『三国志』烏丸鮮卑東夷伝
  12. ^ 『後漢書』本紀、東夷列伝
  13. ^ 『三国志』魏書文帝紀「濊貊、扶餘單于、焉耆、于闐王皆各遣使奉獻。」
  14. ^ 『三国志』魏書東夷伝
  15. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝、『晋書』四夷伝
  16. ^ 『晋書』四夷伝
  17. ^ 『資治通鑑』巻第九十七 、『晋書』載記第九
  18. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  19. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  20. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  21. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  22. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  23. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  24. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  25. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  26. ^ 三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同」、『後漢書』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
  27. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 東沃沮「其言語與句麗大同,時時小異。」濊「言語法俗大抵與句麗同,衣服有異。」、『後漢書』東夷列伝 東沃沮「言語、食飲、居處、衣服有似句驪。」濊「耆舊自謂與句驪同種,言語法俗大抵相類。」
  28. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 挹婁「其人形似夫餘,言語不與夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝 挹婁「人形似夫餘,而言語各異」
  29. ^
    • シロコゴロフ、川久保悌郎田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
    • 白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『穢貊は果たして何民族と見做すべきか』穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
    • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
    • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
    • 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
    • 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
    • 浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
    • 村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
    • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
    • 護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
    • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
    • 黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
    • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
    • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
    • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
    • 長野正孝『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
    • 宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
    • 豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』(2016年、彩図社)p9「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」
    • 薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句魔」
    • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
    • 酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
    • 渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
    • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
    • 青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
    • 成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
    • 沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
    • 白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
    • 水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
    • 小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
    • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃阻などもツングース系の民族だといわれている。」
    • 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」
  30. ^ 中国史書にわずかに見える漢文語彙。
  31. ^ 白鳥庫吉「穢貊は果たして何民族と見做すべきか」(『白鳥庫吉全集 第4巻』1970年、岩波書店)「穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
  32. ^ 三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p169「彼(李基文)によると、アルタイ諸語と朝鮮語の間に動名詞語尾と若干の曲用語尾について一致が見られるという。また、語彙の比較においては、かなりの一致が朝鮮語とアルタイ諸語に共通して見出され、そのうち、朝鮮語とツングース諸語の間に語彙の一致がもっとも多く、ついでモンゴル諸語との間にも興味深い一致が見出され、チュルク語との間には一致するものが非常に少ないという。(中略)こうした状況のなかで、李基文は『三国史記』所載の高句麗地名からかなりの語彙を抽出し「高句麗語」としてとらえ、朝鮮語、日本語、ツングース語との比較を試みた(1966年)。そして、高句麗語が、朝鮮語(新羅、中世語)と著しい語彙の一致をみせ、日本語とも多くの共通語をもち、ツングース語とも若干の一致例をみせるとし、アルタイ祖語が原始夫餘・原始韓共通語とテュルク、モンゴル、ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫餘語とに分かれ、ついで原始夫餘語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとして、高句麗語は日本語と朝鮮語との親縁関係をつなぐミッシング・リングの位置を占めると主張した。《梅田博之》《李基文「韓国語形成史」(『韓国文化史大系Ⅴ.言語・文化史』)ソウル1967 p21-122、李基文「高句麗の言語とその特徴」(『白山学報』4号)1968(中村完訳、『韓』第10号 東京韓国研究院 1972;池田次郎・大野晋編『論集 日本文化の起源5 日本人種論・言語学』平凡社 1973 p594-627)》」
  33. ^ 清瀬義三郎則府『日本語学とアルタイ語学』(明治書院、1991年)
  34. ^ 金東昭(訳:栗田英二)『韓国語変遷史』(明石書店、2003年)、金芳漢『韓国語の系統』(三一書房、1985年)
  35. ^ 朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』(1996年、東方書店)
  36. ^ 川崎真治『混血の神々 日本人と日本語の起源』(1973年)
  37. ^ 澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)

参考文献[編集]

関連項目[編集]