夫余

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夫余
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xxxx年 - xxxx年 高句麗
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夫余の位置
首都 不明
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
現在中華人民共和国の旗 中国
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
大韓民国の旗 韓国
ロシアの旗 ロシア

夫余(ふよ、拼音: Fúyú朝鮮語: 부여正字体:夫餘)は、現在の中国東北部満洲)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1] とも表記される。

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歴史[編集]

建国神話[編集]

アジアの始祖神話は、その始祖がどのように生まれたかによって、いくつかの類型があり、始祖がで生まれたという卵生神話、箱舟に乗って漂流してきたという箱舟漂流神話、などの動物から生まれたという獣祖神話、雷光日光などにあたって妊娠して生まれたという感精神話がある[2]。始祖神話を類型化し、それぞれが一定範囲に分布し、その分布が類型によって異なり、類型によって、文化境域が設定できることを指摘したのは、三品彰英であり、卵生神話は、インドネシア台湾など南方に分布、北限は朝鮮半島にまでおよび、新羅金官加耶高句麗にみられる[2]。箱舟漂流神話は黄海東シナ海南シナ海縁辺に分布する南方海洋神話である。獣祖神話は、モンゴル突厥など北アジアに分布し、感精神話はもっとも普遍的で、漢人の始祖神話はほとんどこれに属するが、その場合、雷電・星辰によるものが多く、日光によるものに限れば、満洲蒙古諸族が分布の中心となる。その中間的なものが、天降りの霊物によるもので、殷始祖のように玄鳥の卵を飲んで、というものがそれに含まれ、漢人と満洲・蒙古諸族とに等しく分布する。夫余の始祖神話は、卵のような大きさの氣が降ってきた、というものであり、感精神話の中間的な、天降りの霊物による類型に属し、卵があらわれるが、卵生ではない。高句麗は、日光感精神話と卵生神話の両要素をもち、満洲・蒙古的要素と、南方的要素との複合形態といえ、その意味では、夫余とは大きく異なる[2]

魏志』東夷伝・夫餘に「昔、北方に高離の国というものがあった。その王の侍婢が妊娠した。〔そのため〕王はその侍婢を殺そうとした。〔それに対して〕侍婢は、『卵のような〔大きさの〕霊気がわたしに降りて参りまして、そのために妊娠したのです』といった。そのご子を生んだ。王は、その子を溷(便所)の中に棄てたが、〔溷の下で飼っている〕が口でそれに息をふきかけた。〔そこで今度は〕馬小屋に移したところ、馬が息をふきかけ、死なないようにした。王は天の子ではないかと思った。そこでその母に命令して養わせた。東明と名づけた。いつも馬を牧畜させた。東明は弓矢がうまかった。王はその国を奪われるのではないかと恐れ、東明を殺そうとした。東明は南に逃げて施掩水までやってくると、弓で水面をたたいた。〔すると〕が浮かんで橋をつくり、東明は渡ることができた。そこで魚鼈はばらばらになり、追手の兵は渡ることができなかった。東明はこうして夫餘の地に都を置き、王となった。」とある[3]。一方、『史記』巻四・周本紀に「周の后稷、名は棄。其の母、有邰氏の女にして、姜原と曰う。姜原、帝嚳の元妃と為る。姜原、野に出で、巨人の跡を見、心に忻然として說び、之を踐まんと欲す。之を踐むや、身動き、孕める者の如し。居ること期にして子を生む。不祥なりと以為い、之を隘巷に棄つ。 馬牛過る者皆な辟けて踐まず。 徙して之を林中に置く。適會、山林人多し。之を遷して渠中の冰上に棄つ。飛鳥、其の翼を以て之を覆薦す。姜原以て神と為し、遂に收養して長ぜしむ。初め之を棄てんと欲す。因りて名づけて棄と曰う。」という牛馬が避け、鳥が羽で覆って守った、という周始祖后稷の神話が記載してある。内藤湖南は、夫余と后稷の神話が酷似していることを指摘しているが、「此の類似を以て、夫餘其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも、支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず」といい、同様の神話が、三国時代康僧会が訳した『六度集経中国語版』にもあることを指摘し、「此種の伝説の播敷も頗る広き者なることを知るべし」とする[2]

魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁が治めていたがのちに太陽神の解慕漱が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。高句麗の建国説話によれば、始祖朱蒙河伯の娘が日光に感じて生まれ、夫余王に養われて成長したが、その王子らに憎まれたので、迫害を避けて南に逃れ、高句麗を建てたというが、建国説話で示された夫余との継承関係が、高句麗が夫余を征服して東北アジア北部の覇者となることの正統性を担保するものだったことはいうまでもなく、したがって、単に夫余の継承者といっているのではなく、夫余の系譜に自らを位置づけたものである[4]李成市は、「白鳥庫吉氏は、朱蒙伝説は高句麗が夫余族によって取り囲まれた長寿王の時代に、夫余の始祖を自国の始祖とすることによって夫余族に安堵を与えるために作られたとしたが、それに一定の修正を加え、さらに当時の状況に即して具体化すれば、高句麗の建国伝説は、やはり当時の高句麗をとりまく国際環境に対処すべく、すぐれて政治的な戦略として創作されたと見てよい。とくに三世紀末には鮮卑族慕容氏の夫余侵攻によって、夫余族の沃沮地域への南下があったが、そのような大規模な民族移動を背景に、高句麗で朱蒙伝説を創作することは、『内には新附の夫余族との融合をはかり、外にはと敵対していた当時にあって、夫余の旧領域占有の正当性と歴史的根拠を主張する恰好のイデオロギーになりえたと思う』と述べた[5]」「従来、高句麗王の出自は建国伝説の冒頭に記されたとおり、夫余族であることは疑いのない史実とみなされてきた。しかし、すでに指摘したように、これは高句麗を取り巻く状況をにらんだうえで標榜された戦略とみるべきであって、安易な史実との接合は許されない。高句麗王族の出自を夫余族とすることには少しく慎重でなければならないのである[6]」と述べている。

夫余、高句麗、百済の建国伝説は、各国の始祖が生まれた国で迫害を受けて逃亡し、大河を越えて新しい土地で王となるという構成において全く一致しており、建国の始祖は外来者という点で共通している[7]。夫余の場合は、王が外来者であるということがとりわけ強調されている[7]。ここに見られる夫余の建国伝説は、陳寿の本文(夫余王は、自ら濊族の土地に亡命してきたと言っているが、そもそも、それは理由のあることだ)に対して、劉宋元嘉年間裴松之が『魏略』を引用し、注記として『三国志』に加えたものであり、夫余の王は外来者である、という本文に確かな根拠を付与するために、高句麗の朱蒙が夫余出自であるという建国伝説がもち出されており、それゆえ夫余の建国伝説は、王が外来者であることを端的に物語るものとして宋代の裴松之にすら意識されていたことが理解できる[7]

昔北方有槀離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如雞子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙嘘之,徙至馬閑,馬以氣嘘之,不死。王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓撃水,魚鱉浮爲橋,東明得度,魚鱉乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。

昔、北夷の槀離之国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。 — 三国志、巻三〇

内藤湖南は、夫余の建国者である東明王が生まれた国家である橐離国は、松花江支流に居住していたダウール族であると指摘している[8][9]

建国以前[編集]

夫余が建国する以前のこの地には(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「濊城」、周囲約800m、前漢初期には存在、現在の黒龍江省ハルビン市賓県)も発見されている。

蒼海郡の設置と廃止

元朔元年(紀元前128年)秋、匈奴遼西郡に侵入してその太守を殺害し、漁陽郡雁門郡にも侵入して都尉を破り、3千人余りも殺害した。これに対し、漢は将軍の衛青を雁門郡から、将軍の李息代郡から派遣し、千人分の捕虜と首級を得た。この一件に際して東夷の薉(わい、濊)の君主の南閭(なんりょ)ら28万人が漢に降ったため、そこに蒼海郡を設置した。元朔3年(紀元前126年)春、蒼海郡を廃止した[10]

漢代[編集]

始建国元年(9年)秋、王莽を建てると異民族に対する蔑視政策を執ったため、周辺諸国は離反し、夫余も離反した[11]

建武年間(25年 - 56年)、東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった。建武25年(49年)10月、夫余王が遣使を送って朝貢したので、光武帝はこれを厚くもてなした[12]

安帝永初5年(111年)3月、夫余王は歩騎7千人から8千人を率いて玄菟郡を寇抄し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した[13]

永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年建光元年)、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌122年延光元年)、また高句麗が馬韓濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った[13]

順帝永和元年(136年)、夫余王は京師(洛陽)に来朝した[14]

桓帝延熹4年(161年)、夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守公孫琙によって撃破され、千余名が斬首された[15]

霊帝熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた[15]

夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした[16][17]

三国時代[編集]

黄初元年(220年)、夫余が魏に朝貢した際、その君主は「夫余単于」と呼ばれた[18]

尉仇台が死ぬと、簡位居が立った。簡位居には適子がいなかったが、孽子の麻余という者がいた。位居が死ぬと、諸加(諸大臣)はともに麻余を立てた。牛加(ぎゅうか:官名)の兄の子である位居は大使(たいし:官名)となり、善政をしいたため、国人はこれに附き、年々中国に遣使を送って朝貢した。

正始年間(240年 - 249年)、幽州刺史毌丘倹は高句麗を討伐し、玄菟太守の王頎を夫余に遣わした。大使の位居は大加(たいか:官名)を遣わして王頎らを郊外で出迎えさせるとともに、軍糧を供えた。時に、季父(おじ)の牛加に二心があったため、位居は季父父子を殺して財産を没収して帳簿に記録し、使者を派遣してその帳簿を官に送った。麻余が死ぬと、まだ6歳である子の依慮が立って王になった[19]

夫余王の王印には「濊王之印」と刻まれており、国内には「濊城という名の故城」があることから、もともとは濊族の地であったことがわかる[20]

西晋時代[編集]

武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵賈沈を遣わして兵を送り、現在の遼寧省鉄嶺市開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた[21]

東晋時代[編集]

初め夫余は鹿山に住んでいたが、百済の侵入に遭って部落が衰え散ったので、西の前燕の近くに移住した。東晋永和2年(346年)正月、前燕の慕容皝は嫡男の慕容儁慕容恪ら7千騎に夫余を襲撃させた。夫余王の玄王と部落5万人余りが捕虜として連行されたが、夫余王の玄王は鎮軍将軍を拝命し、慕容皝の娘を娶ることができた[22]

滅亡[編集]

夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅ぼされた。

夫余族の苗裔(北夫余)は豆莫婁国と称して代まで続いた。

地理[編集]

夫余は長城の北にあり、玄菟から千余里はなれている。南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接している。北には弱水がある。国の広さは2千里四方ある。

戸数は8万戸あり、人々は定住生活をしている。城郭や宮室・倉庫・牢獄があり、山や丘や広い沢が多く、東夷地域では最も広い平坦な所である(トンペイ平原)。土地は五穀を育てるのに適しているが、五果はできない。

考古学上は、夫余は吉林省第二松花江流域を中心として展開した西団山文化に続く泡子沿類型に相当すると考えられている[23][24][25]泡子沿類型に先行する西団山文化の範囲は吉林省吉林長春四平の各地区及び遼寧省撫順地区とされている[26]。境界としては凡そ北は拉林河、東は咸虎嶺、南は揮発河、西は遼河で囲まれる範囲であり、北西では松嫩平原には達しないとされている[27]

政治[編集]

国には統一的な君王がいる。古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、あるいは王を替えるべきだと言い、あるいは王を殺すべきだとした。

官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加・牛加・豬加・狗加の諸加があり、諸加はそれぞれ四出道を守り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配していた。

諸加の下には大使・大使者・使者の諸使がある。邑落には豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農、下戸と呼ばれる隷属農民や奴隷・奴僕と呼ばれる奴隷がいる[28]

習俗[編集]

衣食住[編集]

国内では白の衣服を尊重し、白布の大きな袂の袍や袴を着て革鞜を履く。国外に出るときは、絹織物・繡・錦織・毛織物などを身につけ金銀で飾る。大人は、その上に狐・狸・狖(黒猿)・白貂・黒貂などの皮をまとい、金銀で帽子を飾っている。

食飲は俎豆(そとう:食器、作法)を用い、宴会で酒杯を受けたり酒杯を返すときも、その立ち居振舞いは謙虚である。

陰暦の正月には、天を祭り、国中で大会を開き、連日飲食して歌舞する。この祭を「迎鼓」という。この時には刑罰を行なわず、囚人を解放する。

ただし、髪形の風習は述べられていない[28]

産業[編集]

夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量の鉄製農具が見つかるなど、農業技術や器具は同時代の東夷の中で最も発達していた。また、金銀を豊富に産出する土地であり、金属を糸状に加工して飾り付けるなど、金銀の加工に関しては非常に高い水準だったとされる。紡績に関しても養蚕が営まれ絹や繡・綵など様々な種類の絹織物が作られたほか、麻織物や毛織物が作られ東夷の中で最も発達していたとされる。

また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉・貂・狖・美珠を産出し、珠の大きなものは酸棗(やまなつめ)ほどもある。『魏略』には、国は賑わい富んでいるとあり、その頃が最盛期だったとみられる[28]

武器[編集]

弓矢・刀・矛を兵器としている。家々には自分たちの鎧や刀剣類を所蔵している[28]

刑罰[編集]

刑罰は厳しく、人を殺せば死刑となり、その家族は奴婢にされる。盗みは盗んだ物の12倍を償わせる。男女が私通したり、婦人が妬んだりすれば、すべて死刑にされる。妬みによる罪をもっとも憎んでおり、その罪により死刑にされると、死骸は国の南の山上にさらされ、腐爛するまで放置される。死骸が腐爛したのち、その婦人の家人がその死骸を引き取りたいと望んで牛馬を連れていけば、死骸を与える[28]

婚姻[編集]

兄が死んだ場合、兄嫁を弟が妻とする。これは匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である[28]

葬礼[編集]

有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。その亡くなった者を祭るのに「生」と「熟」がある。喪主は速やかなるを欲せずして他人がこれを強制し、常に諍引してこれを節とする。男女は皆純白の喪服を着用し、婦人は布面衣(布製のベール)を着用し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす。これらのことは大体中国と似ている[28]

祭祀[編集]

魏志』東夷伝・高句麗に「十月に天を祭り、國中がみな集まる。それを名づけて東盟といっている」とある。三品彰英「朱蒙神話と高句麗王の祭政」は、「この東盟の祭儀は、岩屋(隧)の神を王都の東郊の水辺に迎える祭礼で、国王みずからが親祭した国家的大祭であり、その一大行列には貴族大官が美しく着飾って参加したという」「この十月に行なわれた高句麗の東盟祭が収穫祭であることはいうまでもない。『宋史』列伝高麗条に『國東に穴有り、歳神と号す。常に十月望日を以て迎祭す』と記しているように、東盟の祭神は歳神すなわち穀神であったことを伝えている」「『魏志』の記事によれば、この祭の神は常には隧穴の中にあり、祭礼の時に至って迎えられて国都の郊外に移されるという、いわゆる迎神渡御の行事であった」とする[29]。一方、三田村泰助「朱蒙伝説とツングース文化の性格」は、発生史的にみると、そうは断定できない、とする[29]。すなわち、韓伝に「五月に種をまき、訖って鬼神を祭る」「十月に農功が終わると、亦たこのような行事をなす」とあり、後者は秋の収穫祭で、前後の記事は春秋における農耕行事を記しているとみることができるが、そうした韓族の場合と異なり、ツングース系民族の祭儀については、農耕行事に結びつけた記述をとっておらず、高句麗と同種の濊族は「十月の節、天を祭り、昼夜歌舞飲酒す。これを名づけて舞天となす」とあり、夫余は「の正月を以て天を祭り、國中大いに會し、連日飲食歌舞す。名づけて迎鼓という」とあり、高句麗・濊では10月となっているが、夫余では正月で、『後漢書』では「臘月を以て天を祭る」とあるから、12月の臘祭の義と解せられ、臘祭とは冬至の後、歳の終わりを以て禽獣を猟し、先祖のをするもので、漢人では古くからあり、狩猟時代の遺制とみられ、夫余系民族の祭天の祭儀は、発生的には冬祭の義に解すべきではなかろうか、とする[29]田中俊明は、「臘祭自体の発生史的検討は別にして、漢族の臘祭を受容したとした場合に、夫餘ではどうであったかが問題である。夫餘は、単純に狩猟民とはいえず、そうした発生史的意義も含めて受容したのかどうか。さらに高句麗の場合、それ自体に、臘祭に結びつくような記述はなく、ただ高句麗と夫餘との一般的な理解にもとづく関係から、夫餘に通じるものとみるだけのことで、ほんらい一〇月の祭儀であったとすれば、臘祭とは無関係の、やはり収穫祭とみるのが穏当であろう」と指摘する[29]

その他の風俗[編集]

人々は体格が非常に大きく、性格は勇敢で、謹み深く親切であり、あまり他国へは侵略しない。

通訳が言葉を伝える時、みな跪いて両手を地につけ、小声で話をする。

戦争を始めるときは天を祭り、牛を殺してその蹄を見て開戦の吉凶を占う。蹄が開いていれば「凶」、蹄が合わさっていれば「吉」である。戦争になれば、諸加はすすんで戦う。下戸は食糧を担いで諸加に従い、諸加は下戸の荷う食糧を飲食する[28]

言語系統[編集]

中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[30]沃沮もほぼ同じとされる[31]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[32] と記される。夫余はツングース系という説が日本学界では広く受け入れられている[33]

百済との関係[編集]

百済建国には、いくつかの説がある。朝鮮史料三国史記』では、高句麗の始祖の朱蒙と夫余王族の娘との間に生まれた子が百済を建国したことになっている[34]。はじめ10人の家臣と共に建国したため、国号を「十済」としたが、百姓たちも建国に協力したので、「百済」となったとされる[34]。一方、中国史料隋書』百済伝は、もう少し現実的なことが記録されている。すなわち、夫余王の尉仇台が高句麗に国を滅ぼされて、百家とともに海を渡った(済海)ので、国号を「百済」としたと記されている[34]

夫余は、もと玄菟郡に所属していたが、公孫度が、海東に勢力をふるうようになり、その支配下に置かれるようになった。公孫度は、夫余王の尉仇台に娘を嫁わせて、鮮卑高句麗などを牽制させようとした[35]正始年間、毌丘倹は、高句麗を討って、玄菟大守を派遣して、夫余に至った。以後、夫余は中国王朝の支配下に入った[35]。この夫余は、のちの百済の建国に関わりがあるとされる。百済の温祚王朝は、夫余を姓とし、その王都も夫余と称している。かつて中国の東北地区にいた夫余が南下して、朝鮮半島の南西部に王朝を開いたことはおおよそ想像できるが、依拠する文献によって異同があり、いちがいには説明できない[35]。『三国史記』によると、百済の始祖の温祚王の父は、鄒牟あるいは朱蒙という[35]。朱蒙は、北夫余から逃れてきて、その土地の夫余王に非凡な才能を見込まれ、その王女を嫁わされ即位し、沸流温祚という二王子が生まれるが、かつて朱蒙が、北夫余にいたころ先妻の生ませた太子が現れたため、二人の王子は身の危険を察して、国を脱出して十人の臣下を連れて、南へ向かった。やがて、漢山に至り、負児嶽に登り、都すべき土地を探そうとし、兄の沸流は海辺に留まるが、十人の臣下は諌めて、都を定めるべきだと進言したが、沸流は承知せずに、弥鄒忽という場所へ行った。そこで、弟の温祚が慰礼城に即位して、百済を建国した[35]負児嶽弥鄒忽などの地名を現在の地名に比定するのは難しいが、朝鮮半島を縦断する夫余の南下を示す記録ではある。慰礼城が、大韓民国ソウル漢江の南の地域を指していることは、ほぼ異論のないところであり、ソウルオリンピック主競技場などがある江南に、初期百済の土城遺跡が保存されている[35]。これに関して、稲葉岩吉は「太康六年(285年)鮮卑の慕容氏に襲撃された扶餘の残黨は、長白山東沃沮に逃げこんだというから、それが轉出して帯方に入ったものが、即ち百済であろう」と指摘している[36]。 帯方とは、後漢末期楽浪郡から分割された一帯である[35]

日本との関係[編集]

夫余系騎馬民族が、南朝鮮を支配し、その後弁韓から日本列島に入り、大和朝廷の前身になったとする仮説江上波夫が提唱したが、今日ではほとんど否定されている。

韓国の学者で、東洋大学朝鮮語版金雲会教授は夫余王族が南方へ移動して百済王になり、さらにその子孫の百済王の近肖古王が日本に渡って応神天皇になったと主張している[34]。 これに対して宇山卓栄は、「前段の扶余の王族が百済をつくったというのは良いとしても、その子孫の百済王が応神天皇になったというのは荒唐無稽で根拠はありません」と評している[34]

史料考証[編集]

魏志』夫余伝の後文において、耆老が登場し、伝世する玉璧などについて、「先代の賜わりし所なり」と言っており、この耆老の説は、現地に行った魏人が聞いたものとみられるが、の高句麗遠征に先だって玄菟太守王頎が夫余に派遣されたときとみるのが、可能性が高い。その伝世している宝物に印章があり、印文に「濊王之印」とあるといい、また濊城とよばれる古城もあり、それを通して、撰者は「この地は本来、濊・貊の地であって、夫余人は、そのなかで王になっているということである。だから、自ら『亡人』といっているのは、そもそも理由があることである」と述べている[37]。これは撰者の意見というべきものであるが、撰者の理解のように、夫余人は本来の濊の住地に流入してきた「亡人」と認めるべきかもしれない[37]。『魏略』にみえる夫余の始祖神話が、事実を背景にしているととらえれば、夫余人は北方から南下して濊の住地に流入してきた、ということになり、夫余の習俗に、との関わりがありそうなものがあることから、あるいは中国から流入してきた、とする理解もある[37]。また「亡人」説とは別に、濊族のなかから成長した一群を、夫余人と呼んだ、という可能性がないわけではなく、吉林市など、夫余初期の中心地における、夫余文化に先行する文化としての西団山文化などの解明がカギを握っている[37]

魏志』東夷伝には、「東夷での古くからの言い伝え(東夷の舊語)では、 高句麗は夫余の別種であるという。言語やいろいろなことは夫余と同じものが多いが、その性質・気性や衣服には、異なるものがある」とある[38]。しかし、「東夷の舊語」というのは、それほど信頼性のない伝聞であり、言語・諸事が夫余と同じものが多いというが、具体的に同じものについての言及はない[39]。夫余の習俗についてはよくわからないが、知りうるわずかな材料である墓制については、夫余が土坑墓であるのに対して、高句麗は積石塚であって、まったく異なり、性気・衣服に異なるものがあるとするが、表面的なものはともかく、民族的にどれほどの類縁制があるかどうかは、調査が必要である[39]

歴代君主[編集]

夫余王国
夫余後王国
  1. 依羅王(285年 - ?)…依慮の次
  2. 玄王 (? - 346年)
  3. 蔚王
  4. 孱王

脚注[編集]

  1. ^ 扶餘(扶余)の語は『日本書紀継体天皇紀で初めて使われ、日本以外では五代十国時代以降の史書(『旧唐書』、『新唐書』、『旧五代史』、『宋史』、『三国史記』など)から使われるようになったものであり、実際に夫余国として存在した南北朝時代までの呼び名としては夫餘(夫余)である。
  2. ^ a b c d 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、380-381頁。 
  3. ^ 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、361頁。 
  4. ^ 古畑徹 『渤海国とは何か』吉川弘文館、2017年12月、154-155頁。ISBN 978-4642058582 
  5. ^ 李成市 『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、97-98頁。ISBN 978-4000029032 
  6. ^ 李成市 『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、108頁。ISBN 978-4000029032 
  7. ^ a b c 李成市 『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、98-99頁。ISBN 978-4000029032 
  8. ^ 李成市 『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、76頁。ISBN 978-4000029032 
  9. ^ 内藤湖南 『東北亜細亜諸国の開闢伝説』〈民族と歴史一 - 四〉1919年4月。"東北アジア諸国、すなわち東部蒙古より以東の各民族は、朝鮮・日本へかけて一の共通せる開国伝説をもっている。すなわち太陽もしくは何か或る物の霊気に感じて、処女が子を生み、それが国の元祖となったという説であって、時としてはその伝説が変形して、その内の一部分が失われ、もしくは他の部分が附加さるるという事があるけれども、その系統を考えると、だいたいにおいて一つの伝説の分化したものであるということを推断する事が出来る。その最も古く現れたのは、夫余国の開闢説であって、その記された書は王充の『論衡』である。『論衡』は西暦一世紀頃にできた書であるが、その吉験篇に、「北夷橐離國王侍婢有娠,王欲殺之。婢對曰。有氣大如雞子,從天而下,我故有娠。後產子,捐於豬溷中,豬以口氣噓之,不死。復徙置馬欄中,欲使馬借殺之,馬復以口氣噓之,不死。王疑以為天子,令其母收取奴畜之,名東明,令牧牛馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至掩水,以弓擊水,魚鱉浮為橋。東明得渡,魚鱉解散,追兵不得渡,因都王夫餘。故北夷有夫餘國焉。」とある。『三国志』の夫余伝に『魏略』を引いてあるのも、ほぼこれと同じ事で、『後漢書』の夫余伝も、文はやや異なるけれども、事は同じである。この中に橐離国とあるはダフール種族の事である。松花江に流れ込む河にノンニーという河があり、それと合流する河にタオル河がある(ノンニー河は嫩江(一名諾尼江)、タオル河は洮児江を指す)。そのタオル河附近に居住した民族がすなわちダフール種族で、すなわち橐離国である。また夫余国というのは、今日の長春辺から西北に向って存在した国で、この伝説はダフール、夫余両国に関係したものである。"。 
  10. ^ 『漢書』武帝紀
  11. ^ 『漢書』王莽伝
  12. ^ 『後漢書』光武帝紀
  13. ^ a b 『後漢書』安帝紀
  14. ^ 『後漢書』順帝紀
  15. ^ a b 『後漢書』東夷列伝
  16. ^ 『三国志』烏丸鮮卑東夷伝
  17. ^ 『後漢書』本紀・東夷列伝
  18. ^ 『三国志』魏書文帝紀「濊貊、扶餘單于、焉耆、于闐王皆各遣使奉献」
  19. ^ 『三国志』魏書東夷伝
  20. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝、『晋書』四夷伝
  21. ^ 『晋書』四夷伝
  22. ^ 『資治通鑑』巻第九十七、『晋書』載記第九
  23. ^ 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』1989年、山川出版社、202-203頁
  24. ^ 宮本一夫「考古学から見た夫余と沃沮 (共同研究 『三国志』魏書東夷伝の国際環境)」『国立歴史民俗博物館研究報告』第151巻、国立歴史民俗博物館、2009年3月、 99-127頁、 doi:10.15024/00001695ISSN 02867400NAID 120005748724
  25. ^ 木山克彦「紀元前後〜7 世紀における極東・サハリン・北海道北部の考古学的様相」新しいアイヌ史の構築 : 先史編・古代編・中世編、2012年3月。
  26. ^ 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』1989年、山川出版社、197-198頁
  27. ^ 三宅俊彦 (sep 1992). “西団山文化の墓葬に関する研究”. 駒沢史学 (駒沢大学歴史学研究室内駒沢史学会) 44: 30-55. ISSN 04506928. NAID 110007003006. 
  28. ^ a b c d e f g h 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝
  29. ^ a b c d 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、401頁。 
  30. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同」、『後漢書』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
  31. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝東沃沮「其言語與句麗大同,時時小異」、濊「言語法俗大抵與句麗同,衣服有異」、『後漢書』東夷列伝 東沃沮「言語、食飲、居處、衣服有似句驪」、濊「耆舊自謂與句驪同種,言語法俗大抵相類」
  32. ^ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝挹婁「其人形似夫餘,言語不與夫餘,句麗同」、『後漢書』東夷列伝挹婁「人形似夫餘,而言語各異」
  33. ^
  34. ^ a b c d e 宇山卓栄 (2022年6月22日). “韓国人は、漢民族に「臭穢不潔」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか”. 現代ビジネス. オリジナルの2022年6月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220622034853/https://gendai.ismedia.jp/articles/-/96612?page=2 
  35. ^ a b c d e f g 豊田有恒 (2001年3月30日). “魏志「東夷伝」における原初の北東アジア諸民族に関する論攷”. 北東アジア研究 1 (島根県立大学): p. -100-101. http://id.nii.ac.jp/1377/00001456/ 
  36. ^ 稲葉岩吉矢野仁一 『朝鮮史・満洲史』平凡社、1941年。 
  37. ^ a b c d 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、372-373頁。 
  38. ^ 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、384頁。 
  39. ^ a b 田中俊明 『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、397頁。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]