百済

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百済
百濟
馬韓 346年? - 660年 唐
百済の国章
(国章)
百済の位置
三国時代後半の576年頃の半島
公用語 百済語
(古代朝鮮語のひとつ)
首都 慰礼城
(前18–475)

熊津
(476–538)

泗沘
(538–660)
346 - 375 近肖古王
641 - 660 義慈王
変遷
建国(『三国史記』による) 前18年
近肖古王の即位 346年
仏教導入 諸説あり
泗沘陥落 660年
百済
各種表記
ハングル 백제
漢字 百濟
発音 ペクチェ
日本語読み: くだら/ひゃくさい
ローマ字 Baekje/Paekche
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百済(くだら/ひゃくさい[1]、旧字体:百濟)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家4世紀前半[注釈 1] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における三国時代という。新羅を支援したによって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。

呼称[編集]

日本語における慣用呼称「クダラ」については『図書寮本類聚名義抄』(1081年)に「久太良」とあり、この「太」は清音のタを表わすことから本来はクラであって、クラと濁るのは後世の訛りであることがわかる。

クダラの語源については諸説がある。

鮎貝房之進の説では弁韓12国の中の古淳是国を現在の晋州だとした上で、晋州の古地名「居陀」に由来するという。
白鳥庫吉の説では百済の上古音[pak-tsan]の転訛という[注釈 2]
李寧煕の説では「大いなる国」を意味する朝鮮語「큰 나라 (クンナラ)」に由来するという[3]

他にも複数の説があるが、いずれの説も問題点を抱えており、定説といえるものは今のところ存在していない。

歴史[編集]

建国[編集]

百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している[2]。後に編纂された『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと、百済の建国は紀元前18年となり、韓国の学界では1976年に千寛宇李鍾旭らがこれを史実と定義して以来、現在でも有効な説の1つである[2]。ただし、李丙燾が1985年に3世紀後半の成立とする説を提唱して以来、3世紀後半に置く説が現在の韓国で最も有力な説となっている[2]。更に4世紀前半とする説もあるが[2]、どちらの場合でも、中央集権的な国家の出現は4世紀半ば以後のことと見られている[2]

漢城時代( –475年)[編集]

三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で見られる範囲(時期は375年頃)、右は日本の教科書で見られる範囲(時期は4 - 5世紀半ば)。半島西南部の支配には諸説がある。 三国時代の朝鮮半島左は韓国の教科書で見られる範囲(時期は375年頃)、右は日本の教科書で見られる範囲(時期は4 - 5世紀半ば)。半島西南部の支配には諸説がある。
三国時代の朝鮮半島
左は韓国の教科書で見られる範囲(時期は375年頃)、右は日本の教科書で見られる範囲(時期は4 - 5世紀半ば)。半島西南部の支配には諸説がある。

漢城を都とした百済の初期の歴史を記す史料は主として『三国史記』である。『三国史記』「百済本紀」の記事では、第12代契王以前の記録は伝説的・神話的な説話や後世の創作であることが疑われる記事が中心でありそこから歴史上の出来事を復元するのは困難である[4]4世紀近肖古王(『三国史記』によれば第13代)の治世下、371年高句麗平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた。この頃から百済は外国史料に登場しはじめる。平壌占領の翌年には百済の使者が初めて東晋に入朝し、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守として封建された[4][5][6]。ほぼ同時期に倭国との通交も始まり、七支刀(七枝刀 ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られたことが『日本書紀』に見える[7][8]。この刀は現存しており、銘文の分析から369年(近肖古王治世第24年)に作成されたと考えられている[注釈 3]。同じく『日本書紀』に見える百済の照古王は近肖古王を指すと考えられる。また、『三国史記』によれば近肖古王の治世に博士高興が百済に文字を伝え、初めて記録がされるようになったという[4][10]。これらから、近肖古王の治世は百済が朝鮮半島における有力な国家の1つとして台頭する画期であり、国家体制が整備された時代と見なされている[4]

第15代枕流王の治世には南朝を経由して西域の僧侶摩羅難陀が百済に渡り、王から丁重な歓待を受けた。翌年には彼のために漢城(漢山)に仏寺が建設され、これが公式には最初の百済への仏教伝来とされている[11]

高句麗と百済の戦争[編集]

漢城時代の百済は北側で勢力を拡大する高句麗と武力衝突を繰り返した。391年広開土王(好太王)が高句麗王に即位すると、彼は以前に百済が占領した領土の奪回を図り、396年には漢江以北、大同江以南の地域が高句麗に奪回された[11]。高句麗の圧力が増大する中、倭国からの支援が求められたと見られ、阿莘王6年(397年)には太子腆支が倭国へ人質として出され、引き換えに倭国の軍事的な介入が行われたと見られる。この間の事情は広開土王碑文に詳しく、それによれば391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。しかし399年に百済王が誓約を破り倭国と和通したため、翌400年には新羅へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した倭を撃退、407年にも百済へ出兵して6城を奪ったという[12]。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが[注釈 4]、百済と高句麗が倭国も交えて長期に渡り戦いを続けていたこと自体は間違いがない。

高句麗の長寿王は奪回した平壌に427年に遷都し、本格的に朝鮮半島方面への経営に乗り出した[15]。華北の北魏との関係が安定するといよいよ百済に対する圧力は強まり、455年以後、高句麗による百済への侵攻が繰り返された[16]。これに対して百済は、この頃に高句麗の影響力の低減を目指していた新羅と結び、蓋鹵王の18年(472年)には北魏にも高句麗攻撃を要請した[17]

醜類漸盛,遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱踧,若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國
醜類(高句麗)はようやく隆盛になり、ついに(我が百済を)侵略するようになりました。(このように)怨みを重ね禍いを連ねること三十余年になり、(百済は)財力も戦力も使いはたし、しだいに弱り苦しんでいます。もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く、(その慈愛が)はてしなく遠くまで及ぶのでしたら、速やかに一人の将軍を派遣して、臣の国を救ってください。
-『三国史記』百済本紀/蓋鹵王18年 井上秀雄訳[18]

しかし、中国が南北朝時代にあった当時、百済は伝統的に中国の南朝と通交しており、北魏は高句麗がより熱心に遣使していることに触れ、百済への支援は提供されなかった。蓋鹵王21年(475年)には高句麗の長寿王が自ら率いた大軍によって王都漢城を包囲され、7日間の包囲の果てに敗勢が決定的となった。蓋鹵王は脱出を試みたが捕縛され殺害された[19]。漢城陥落は『三国史記』と『日本書紀』、そして書紀が引用する『百済記』で言及されている。

二十一年,秋九月,麗王巨璉,帥兵三萬,來圍王都漢城,王閉城門,不能出戰,麗人分兵爲四道夾攻,又乘風縱火,焚燒城門,人心危懼,或有欲出降者,王窘不知所圖,領數十騎,出門西走,麗人追而害之
二十一年(475年)秋九月、(高句)麗王巨璉(長寿王)は三万人の軍隊を率いて、王都の漢城を包囲した。王は城門を閉ざし、(城を出て)戦うことができなかった。麗軍は、軍隊を分けて、四つの街道を通って、挟み撃ちにした。また風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、(城内の)人たちはあやぶみ懼れ、あるものは(城を)出て降伏しようとする者もいた。王は追い詰められてどうしてよいかわからず、(ついに、)数十騎を率いて(城)門を出、西方に逃走した。麗軍が(王を)追撃して、これを殺害した。
-『三国史記』百済本紀/蓋鹵王21年 井上秀雄訳[18]

廿年冬,高麗王,大發軍兵,伐盡百濟,爰有小許遺衆,聚居倉下,兵糧既盡,憂泣茲深...百濟記云,蓋鹵王乙卯年冬,狛大軍來,攻大城七日七夜,王城降陷,遂失尉禮,國王及大后,王子等,皆沒敵手
(雄略天皇)二十年冬、高(句)麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。その時少しばかりの生き残りが倉下(へすおと)に集っていた。食料も尽き憂え泣くのみであった。...百済記に云わく「蓋鹵王の乙卯年冬、狛(高句麗)の大軍が来た。大城を攻めること七日七夜、王城は陥落し遂に尉礼(百済)の国を失った。王及び大后王子たちは皆、敵の手に没した。」
-『日本書紀』巻14/大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)/20年冬

学者の中にはこの時一度百済は滅亡したと評する者もおり[19]、そうでなくても首都失陥は百済の歴史上重大な出来事であり、現代では475年を百済史の区切りとしている。

中期:熊津時代(475–538年)[編集]

王都漢城を失った475年当時、王子文周は救援を求めるために新羅に派遣されていた。彼は新羅の援軍を連れて帰還したが、既に漢城は陥落しており、翌月に文周王として即位した。彼は都を南方の熊津(現・忠清南道公州市)に遷し、百済を復興した[20][21]。この時、高句麗から逃れた中央の貴族たちが熊津に流入し、王族と共に中央の主要官職を抑えていた解氏なども加わっていた[20]。文周王は王弟昆支を内臣佐平解仇を兵官佐平にあてたが、昆支が死ぬと解仇が実権を握り、478年には解仇によって暗殺された[20]。太子三斤が即位したが、わずかに13歳であり、軍事的、政治的な権限は完全に解仇の手に渡った[20]。にも関わらず、翌年には解仇が恩率(第二等官位)燕信とともに反乱を起こしたため、別の貴族真氏によってこれを討伐した[22]

この時の反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によるならば2,500名あまりであり、反乱した解仇側の兵力は不明であるがこれと大差ないものと見られている[22]。この兵力の少なさは、漢城周辺を失った百済がいかに弱体化していたかを証明しているものであろう[22]

479年東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めた。一つは漢城時代に権勢をふるった解氏、真氏などの伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり[23]、今一つは南方地域への拡大である[23]。東城王は新羅と結んで高句麗の軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図った[23]

権力闘争の中で東城王が暗殺された後、501年に即位したのが武寧王である。彼は1971年に発見された武寧王陵から多様な副葬品が出土した事で名高い。熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王は南朝および倭国との関係を深め、更に領内の支配強化を目指した[24]。彼は領内に22の拠点を定め、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、南西方面での勢力拡張を図った[24]。『日本書紀』には、この頃に日本から百済へ任那四県[注釈 5]を割譲したという記録があり、これは百済の政策と関係するものと考えられている[24]。ただしこの頃に実際に倭国が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方が強い[注釈 6]513年には伽耶地方の有力国伴跛から己汶帯沙を奪い[26][24]、朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った[27]

武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝のに新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を付庸していることを語り、倭国へは南方進出の了解や軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた[27]。以後、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく[27]

伽耶争奪と遷都[編集]

武寧王の跡を継いだ聖王は回復した国力を背景に538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した[28][29]泗沘は熊津と同じく錦江沿いにある都市であるが、山に迫る要害の地であり防御に適した熊津に対し、泗沘は錦江下流域の沖積平野を見下ろす丘陵地帯であり、水陸の交通の要衝であった[28]。国号も南扶余と改められた。この国号は国際的に定着することはなかったが、百済には高句麗と同じく扶余を祖とするという伝承があり、高句麗への対抗意識を明瞭にした国号であった[29]

また、伽耶地方では百済が西側から勢力を広げる一方、同じく伽耶の東方から勢力を拡張していた新羅との間で軋轢が生まれた。更に伽耶地方を一種の藩屏と見做す倭国、生き残りを図る伽耶諸国の間で複雑な外交が繰り広げられたと考えられる[30]。伽耶地方の中心的国家であった金官国524年に始まった新羅の伽耶地方侵攻に対し、倭国へ救援要請を行った。これを受けた倭国は近江毛野臣を派遣したが、527年九州で発生した磐井の乱により渡海できず、到着は529年になった。同じく伽耶の一国である安羅に到着した毛野臣は調停を目指して百済と新羅の双方に参会を求めたが、百済側は新羅共々、倭国の調停に大きな期待を置いておらず[31]、毛野臣は最終的に有効な手段を講じることはできずに終わり、532年には金官国が滅亡した。一方、安羅は倭国に頼るのを諦め毛野臣を排除するとともに、百済に援軍を要請し、結果531年に百済軍が安羅に駐屯することとなった[30][31]

後期:泗沘時代(538–642年)[編集]

新羅との対立[編集]

伽耶を巡って新羅との利害関係の不一致が顕在化する一方、北側では550年頃、国境地帯の城の奪い合いを切っ掛けに百済は高句麗と全面的な衝突に入り、百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』に見える[32][33]551年には一時的にかつての都、漢城を高句麗から奪回することに成功した[29]。しかし翌552年、理由不明ながら百済は漢城の放棄に追い込まれた[29][32]。変わって新羅が漁夫の利を得る形で漢城を占領した[29][32]。このことは百済と新羅の関係を決定的に悪化させたと推定される[32]

新羅の強大化と外交関係[編集]

新羅に対抗するため、聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国へ先進文物を提供する一方で、見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。大伽耶、倭国からの援軍を得た聖王は554年に新羅の函山(管山)城を攻撃したが、伏兵にあって戦死した[34][35]

十五年,秋七月,修築明活城,百濟王明禯加良,來攻管山城,軍主角干于德伊耽知等,逆戰失利,新州軍主金武力,以州兵赴之,及交戰,裨將三年山郡高干都刀,急撃殺百濟王,於是,諸軍乘勝,大克之,斬佐平四人士卒二萬九千六百人,匹馬無反者
(真興王)十五年(554年)秋七月、明活城を修繕した。(この月)百済王明禯(聖王)は加羅と連合して管山城を攻撃してきた。軍主の角干の于徳や伊飡の耽知らがこれを迎え撃ったが、戦いに敗れた。(そこで)新州軍主の金武力が州兵を率いて救援に向かった。戦闘がはじまると、副将の三年山郡の高干の都刀が奇襲攻撃で百済王を殺した。かくして諸軍が勝ちに乗じて、大いに(この連合軍を)討ち負かし、佐平四人、士率二万九千六百人を切り殺し、一匹の馬も帰るものがなかった。
-『三国史記』新羅本紀/真興王15年/秋7月 井上秀雄訳[36]

百済では新たに威徳王が即位したが、国王戦死の失態は百済に大きな打撃を与え、王権の混乱を招き、更に562年までに伽耶地方の大半が新羅の手に落ちることとなった[37][30][35]。威徳王は王弟恵を倭国に派遣し、親百済政策の維持と援軍の出兵を働きかけているが、倭国の有力者蘇我稲目は親百済姿勢は維持したものの国内を重視し、援軍の派兵には同意しなかった[35]

とは言え、新羅の強大化は百済のみならず、倭国にとっても好ましいものとは映らなかったため、伽耶地方の制圧を巡り倭と新羅の関係は悪化し、伽耶では倭と新羅の小競り合いが発生していた[35]。百済も伽耶地方の奪回を目指したため倭国との伝統的な協力関係は維持された[35]。しかし、新羅が「任那の調(みまなのみつき)」を倭国に送付するようになると[注釈 7]、倭国は当面これに満足し、百済が577年に新羅に侵攻した際には軍事援助は得られなかった[39]

威徳王は結局伽耶の奪回を果たすことはできず、579年を最後に新羅への積極策を改め、以後武力行動に慎重になった[39]

隋唐の成立と朝鮮半島情勢[編集]

589年が中国を統一し、長きに渡って続いた南北朝時代が終わると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。百済は既に588年には隋の高句麗征討に参加し、589年にはいち早く使者を建てて隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努めた[40]。しかし、隋軍を撃退した高句麗は百済領への侵攻を行うようになり、百済は隋に対して高句麗征討を要請した[40]

一方で新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、更に倭国とも協力した。602年に百済は新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)を攻撃し、倭国は「任那の調」の実施を求めて591年602年筑紫への駐兵を行い新羅への軍事的圧力をかけた。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見える[41]

北方では、高句麗が突厥との同盟を意図したことから関係が悪化していた隋が、611年613年614年の3回に渡りに高句麗への遠征を行ったがこれを制圧することはできなかった[42][40]。度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から618年には隋朝が倒れ、にとって代わられた。百済は611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領した[40]

624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けている。唐は三国に対して自制と和解を求めて圧力をかけたため、朝鮮半島情勢は一端小康状態を迎えた[43]

百済滅亡[編集]

642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となった[44]。この年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える事に成功した。この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にあり、百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成することができた[44]。この時百済は後に新羅王となる金春秋の娘婿らとその子供を全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えた[45][44]。翌643年には高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した[44]。義慈王は国内でも専制的な体制の構築を目指し、独裁権の強化と反対派の粛清を進めたと見られることが記録から読み取れる[44][46]

同じ642年には高句麗でも泉蓋蘇文がクーデターにより実権を握り、新羅でもやはり同じ年、善徳女王を中心として金春秋、金庾信の3名の結束による権力体制が成立した[44]。倭国では舒明天皇が死に皇極天皇が即位するとともに蘇我蝦夷蘇我入鹿親子が実権を握り、「陵(みささぎ)」と称する墓の建設を開始している[44][46]。こうして642年を境に各国で権力の集中が進んだ。

百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返した[47]。これを受けた唐は、高句麗征討においてその同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、遂に660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ向けて差し向けた。呼応した新羅も金庾信の指揮の下出兵した[47][48]

660年3月唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始した。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、有効な戦略を打ち立てることはできなかった[48]。個別の戦闘では奮闘した例もあったものの、結局7月には王都泗沘が占領され、義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏した[48]。一部の百済の廷臣は新羅および渤海靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した[注釈 8]

百済復興運動[編集]

唐軍の主力が旧百済領を離れると鬼室福信黒歯常之、僧道(どうちん)などの百済遺臣が反乱をおこした[49]。また百済滅亡を知った倭国でも、朝鮮半島からの文物の導入ルートの途絶の懸念や、百済への勢力拡張などの目論見から、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った[49][48]

帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵した。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い[49][48]。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させ、豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降った[49]。こうして百済は完全に滅亡した。

唐による半島支配と新羅による統一[編集]

唐は高句麗の都があった平壌安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年には劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だった扶余隆韓国語版を熊津都督に任じ[50]、翌年の665年8月には唐は就利山において扶余隆と新羅の文武王に劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた[50]

後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の遼東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残された新羅(鶏林州都督府楽浪郡王)を羈縻体制に組み入れ「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れて居り、後年実行に移されて居る[51]

唐の支配に反発した新羅は、建前上は唐の臣下という立ち位置を維持しつつ、「百済と新羅は共に唐の領土なのであり、そこに国境はない」という論理の下、百済・高句麗の遺民を蜂起させつつ領土を蚕食する一方で、唐へは謝罪使を派遣するという方法で支配地を広げた[50]。唐側では繰り返される新羅の領土拡張と謝罪使に対し、新羅王の王位剥奪の問題にまで発展したのもの、西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となり、物理的に遥かなる遠方に位置する上に、経営が赤字だった朝鮮半島を放棄せざるを得なくなり、最終的に百済の故地は新羅の支配下に入った[50]

言語[編集]

古代朝鮮半島の言語資料は乏しく、古代の朝鮮半島の言語についてわかっていることは少ない。以下韓国語学者の李基文韓国語版の著作に基づき概略を記すが、1960年代から70年代の研究であり、内容が現代の学説と一致しない可能性があることに注意されたい。

百済語の資料は古代朝鮮半島の3国の言語の中で最も少なく、現在得られる情報は『三国史記』「地理誌」から得られる地名の分析によるものが主である[52]。現代ではこれらの情報から特徴的な地名や、わずかな数の語彙を復元できるに留まり、百済語の文法や形態について実態を明らかにすることは不可能である[52]

李基文は、百済語を新羅語と比較した場合の特徴として、この言語が馬韓語の継続であって原則的に新羅語と非常に近しい存在であったこと、その語彙は新羅語及び中世朝鮮語のそれと大体一致すること、新羅語と異なり語末母音を保存する傾向があったと推定されることなどを分析している[52]

また、中国史書の記述に基づき、高句麗、夫余沃沮などからなる夫余系諸語の存在を想定し、百済支配層の言語がこの扶余系諸語であることを推定している。その論拠として、『梁書』百済伝には百済の言語について以下のような簡潔な言及がある。

今言語服章略與高麗同
現在、(その)言語・衣装は高(句)麗とほぼ同じである。
-『梁書』/百済伝、井上秀雄他訳注[53]

一方で、現在知ることができる百済語と新羅語が概ね一致すること、新羅語と高句麗語に相違点が目立つことを指摘し、その上で百済では支配層が夫余系言語を、被支配層が韓系言語を使用していたと推定している[52]

そして、『周書』は、百済王の姓は夫余で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。李基文はこれを、支配層が使用した夫余系諸語と被支配層が韓系諸語の違いを端的に表すものであるとしている[52]

ただし、夫余系諸語と想定される言語のうち、具体的な記録が残るのは高句麗語のみであり、しかも少数の単語に限られるため、その実態は不明である[52]。歴史学の分野においては、井上秀雄や武田幸男ら、多くの朝鮮史学者は百済について説明する際に、この種の説明を採用してはいない。

建国神話[編集]

百済の建国神話は『三国史記』「百済本紀」の冒頭に記されて伝わっている。それによれば、鄒牟(朱蒙)という人物が北扶余から卒本扶余の地へ逃れた当時、扶余王には3人の娘がいたが男児がいなかった。扶余王は朱蒙を見て非凡であると評し、次女を嫁がせた。そしてしばらく後、扶余王が死ぬと朱蒙が王となり2人の子を儲けた。兄を沸流といい、弟を温祚と言った。しかし、朱蒙が北扶余にいた頃の息子が朱蒙の太子となったため、沸流と温祚はこの太子との対立を恐れ、10人の家臣や百姓[注釈 9]と共に南方に旅立った。

一行が漢山へとたどり着くと、10人の家臣たちはこの地こそ都にすべき土地であると主張したが、沸流は海辺への居住を希望したためこの意見を無視し、人々を分けて弥鄒忽(仁川)に移動しそこに住んだ。温祚は家臣たちに従い河南の慰礼城を都とし、10人の家臣の助力があったことにちなんで国号を十済とした。この時前漢成帝の鴻嘉3年(前18年)であった。沸流が選んだ移住地は土地が湿り水は塩分が強く、安らかに暮らすことができなかった。沸流は自分の決定を恥じて死んでしまい、彼の家臣たちは全て慰礼城に帰属した。彼らが慰礼城に移る際、百姓が楽しみ従ったことに由来し国号を百済と改めた。温祚王は高句麗と同じく扶余から出ているため、扶余を氏の名前とした[55]

上記が『三国史記』本文にある百済建国神話の概略である。一方で同書は分注で異伝を載せている。それによれば、百済の始祖は沸流王であり、その父の名は優台と言い、北扶余王解扶婁の庶孫であった。優台の妻は召西奴といい、彼らの間に長男の沸流、次男の温祚が生まれた。優台死後、召西奴は卒本で暮らすようになった。その後朱蒙という人物が扶余にいられなくなり卒本へ逃れてくると、朱蒙はこの地に都を作り国号を高句麗とした。そして召西奴を娶り王妃とした。朱蒙は沸流ら兄弟を自分の子のように遇したが、扶余にいた頃の息子である孺留が卒本に来ると、彼が太子となり朱蒙死後に王となった。沸流はこれを不満とし、温祚と共に家臣たちを率いて南方に移り、漢江を渡り弥鄒忽に到着するとそこに住み百済を建国した[56]

この『三国史記』「百済本紀/温祚王紀」分注にある高句麗の建国説話は、「高句麗本紀/東明王(朱蒙)紀」のそれとは所伝が異なり、「高句麗本紀」では朱蒙が扶余から何かし沸流国の松譲王との弁論や弓術を競った末、優位を認めさせて高句麗を建国する[57]。古代史研究者の高寛敏は『三国史記』の原典史料の研究において、「百済本紀」本文・分注の神話は共に百済史料の系譜を引いた記録であると分析する[58]。本文の神話は『三国史記』の原資料となった『旧三国史』が百済史料に基づいて記述した物を原典としていると推定している[58]。また、分注の神話も同じく百済史料に源流を持つが、高句麗の第2代王の名前を孺留とし、「高句麗本紀」の類利に比べ悪字を用いていること、百済始祖を沸流と温祚の兄弟と朱蒙の関係を養子とすることで百済王と高句麗王の血縁関係を否定するなど、高句麗により敵対的な説話であるという点に特徴を持っているとする[58]

歴史節で述べた通り、一般に『三国史記』「百済本紀」の第12代契王以前の記録は伝説的・神話的であると見られ、史実とは見なされない[4]。また、百済の国号の起源説話についても、馬韓の伯済国と同音であることから事実とは考えられず、元来は「大村」「大城」などの意味と推定される[59]。なお、百済神話のように始祖王が異境に流離し建国をする神話は高句麗神話や日本神話にも見られ、これらを史実の反映とみて民族や王家の移動を考える説もある[54]

中国の記録における起源説話[編集]

中国歴代の史書には百済の起源について様々な記録が残されているが、その記述する説話は多様である。代表的な物を以下に挙げる。

中国史書の記述
出典 本文
『宋書』卷九十七・列傳第五十七(百濟國條) 百濟國、本與高驪倶在遼東之東千餘里、其後高驪略有遼東、百濟略有遼西。百濟所治、謂之晉平郡晉平縣。

百済国ははじめは高(句)麗とともに遼東(群治)の東方千余里のところにあった。その後高(句)麗は遼東を占領し、百済は遼西を占領した。(この)百済の出先機関のあった所は、これを晋平郡晋平県という[60]

『梁書』卷五十四・列傳第四十八(百濟條) 百濟者、其先東夷有三韓國、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國、馬韓有五十四國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸、百濟即其一也。後漸強大、兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東、晉世句驪既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣、自置百濟郡。

百済はそのはじまりが東夷の三韓国(の中の一国)である。(三韓国とは)一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といった。弁韓と辰韓には、それぞれ十二国があり、馬韓には五十四国があった。(そのうちの)大国には一万戸以上、小国では数千戸の家があり、総計で十数万戸があった。百済は、その中の一国(伯済国)である。その後次第に強大となり、(近隣の)諸小国を併合した。百済国は、もと(高)句麗とともに遼東の東にいた。晋の時代に(高)句麗が遼東を侵略して(その地を)支配すると、百済も遼西・晋平の二郡の地方を占領し、みずから百済郡を設置した[53]

『周書』卷四十九・列傳第四十一 異域上(百濟條) 百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方。

百済(国)は、そのはじまりが、おそらく馬韓の属国(の一つ)であり、(その王家は)夫余系の種族と思われる。仇台という者がおり、帯方(郡の地域)に建国した[61]

『隋書』卷八十一・列傳第四十六(百濟條) 百濟之先、出自高麗國。其國王有一侍婢、忽懷孕、王欲殺之、婢云、有物狀如雞子、來感於我、故有娠也。王舍之。後遂生一男、棄之廁溷、久而不死、以為神、命養之、名曰東明。及長、高麗王忌之、東明懼、逃至淹水、夫餘人共奉之。東明之後、有仇臺者、篤於仁信、始立其國於帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟。

百済(王)の(先)祖は、高(句)麗の出身である。(高句麗の)国王には、召使の女が一人いた。(ところが、この下女が)とつぜん妊娠した。(そこで高句麗)王はこの女を殺そうとした。(すると)下女は、「卵のような形をしたものでございました。(それが)やってきて私に感応し、そのため(私は)妊娠してしまいました。」と言った。(王は)、この下女を許した。その後(女は)とうとう一人の男の子を生んだ。(王は)この子を便所に棄てたが、長い間、死ななかった。そこで(この子を)神だと考え、養うように命じ、その名を東明とつけた。(東明が)成長すると、高(句)麗王は(東明を)忌み嫌った。東明は(殺されるのを)懼れて、(その地を)逃れて、淹水にやって来た。夫余の人々は、みな(この東明に)仕えた。東明の子孫に仇台というものがいて、慈愛と真心をもって(人々に)接し、はじめて帯方(郡)の故地に国を建てた。漢の遼東太守の公孫度は娘を仇台の妻とした。(仇台の勢力は)次第に盛んとなり、東夷の(中の)強国となった。最初、百家で海を済ったので、それに因んで(国号を)百済といった[62]

国際関係[編集]

中国との関係[編集]

百済が勃興した土地である漢城周辺は、馬韓諸国中楽浪郡帯方郡に最も近い位置にある地域の1つであり、その立地が百済の成長に寄与したであろう。帯方郡に近接した伯済国は帯方郡の強い影響下で発展し、高句麗が楽浪郡を排撃したころ、伯済国を中心とする馬韓も帯方郡を攻撃したが、これにより、この地域一帯で土着化した楽浪遺民・帯方遺民や新たな中国系流民が4世紀の百済の発展に寄与したことが推察され[63]369年371年の対高句麗戦勝利後に、百済は東晋及び倭国との外交を展開したが、東晋との外交にはこれらの楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士の関与が指摘され、倭国との外交樹立を記念して製作された七支刀は、これらの楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士の手になることが推定されている[64]

百済と中国王朝の通交を記す記録の中で最も古い出来事に触れている記事は372年東晋への朝貢記事である[65]。これは同時に百済について記した最初の確実な国外記録でもある。当時の王である近肖古王は前年に高句麗から平壌を奪い高句麗王を戦死させて一躍有力勢力として台頭しはじめており、それを背景に東晋への遣使を行った[65]。この遣使により鎮東将軍領楽浪太守として冊封された。以後、百済は南朝を中心に歴代の中国王朝への朝貢を行い、その国際的地位の向上を目指した[65]387年には太子余暉が東晋から冊封を受け、416年には東晋に取って代わったから、腆支王が使持節・百済諸軍事・鎮東将軍・百済王とされ、間もなく鎮東大将軍に進号した[65]

これら、最初の朝貢記録のある372年から、漢城が高句麗に奪われ一時滅亡する475年までの漢城時代において、百済と中国王朝の通交は記録に残るものだけで20回にも及び[66]、また当時の百済領内の遺跡からは弁韓や辰韓諸国に比べ遥かに多くの中国製陶磁器が出土している。中国製陶磁器は王城や祭祀遺跡、生活跡などから満遍なく発見されており、百済では広く中国製陶磁器が受容されていたことがわかる[67]。これらの中国製陶磁器は中央権力によりある程度まとめて搬入され、その後地方に伝達された可能性もあり、その場合には中央権力の地位を強化する威信材の役割を果たした可能性もある[67]。南朝への継続的な入朝と冊封は、国内における権威付けにおいても重要であったと考えられる[68]

漢城が陥落した後熊津で再興した後も変わらず活発な交渉が行われていた[69]。熊津時代は中国からの正式な冊封が行われる頻度が高くなり、考古学的にも最も中国(南朝)の影響が強く見られる時期となる[69]。この時期の百済における中国文化の影響を顕著に示すのが武寧王陵であり、墓形式や副葬品など、南朝文化の要素が色濃く見られるものとなっている[70][71]

589年に隋が統一王朝を築き、南北朝時代が終焉を迎えると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。百済(および高句麗)は隋が統一事業を達成する前から新羅や倭国に先んじて隋への入朝を開始しており、隋がを滅ぼした際には、済州島に漂着した軍艦からこの情報を得て、すぐさま祝賀使を送り、隋側の好感情を引き出すことに成功した[72]。その後、長年対立を続けてきた高句麗に対する遠征を隋に繰り返し要請し、実際に隋が高句麗征討に乗り出した際には協力を申し出てそれを支援した[72]

3度にわたる高句麗遠征が失敗に終わった後、中国では隋が倒れ新たに唐が成立した(618年)。百済は624年には高句麗、新羅などと同じく唐に入朝した[73]。唐は当初三国へ自制と和解を求め圧力をかけたが、645年頃には対高句麗で積極策に転じ、高句麗への遠征を繰り返した[74]。百済はその間に新羅に大勝し、その領土を大きく削ったが、数次にわたる対高句麗戦が不首尾に終わった唐が、状況の打開策として新羅からの救援要請を入れて百済への遠征を決定したことが、最終的に百済の滅亡へと繋がることになった[74]

倭国との関係[編集]

百済と倭国との関係については『日本書紀』を中心に多様な記録が存在する。『日本書紀』の記録によれば、百済と倭国の間で最初に通交が持たれたのは神功皇后の46年(366年[注釈 10]、伽耶諸国の1つである卓淳国の王が、百済が倭国との通交を求めていることを倭国の使者に伝え、これを受けた倭側は百済へ使者を派遣したことから国交が始まったとされる[75]。これに続きいわゆる三韓征伐によって百済、高句麗、新羅が日本への朝貢を約したとされるが、これらは現代においては通常、史実とは見なされない[76]。卓淳国を仲介にして百済との国交が始まったという記事についても、その史実性を正確に求めるのは困難である。ただし、その地理的関係から、伽耶諸国を介して百済と倭国の関係が始まったことは概ね認めて良いとされる[76][77]

現在残る記録から、倭国は伝統的に朝鮮半島南部への勢力拡大を希求し、百済に対しても上位者として振る舞おうとしたことがわかる。この時代を描写する重要な同時代史料が広開土王碑文として知られる高句麗の記録であり、これによれば391年以来、倭は渡海して百済・新羅を「臣民」としたが、396年に高句麗が百済を破ってこれを「奴客」としたという。更に399年百済が再び倭と通じたが、翌400年には高句麗が新羅に駐留する倭軍を撃破し、404年には帯方に侵入した「倭寇」を高句麗が撃退したと伝える[78]。これに対応すると考えられる『三国史記』の記録が、百済から倭へ太子の腆支を人質に出して好を結んだという阿莘王6年(397年)の記事であり、『日本書紀』にも応神天皇8年(277年⇒干支二運修正397年)の記録が引用する『百済記』に百済から倭へ王子直支(腆支)を遣わして好を修めたという記録がある[79]。腆支王は即位時には倭国から派遣された100の護衛に伴われて帰国したという[79]。このように複数の史料が相互に整合性の高い記録を残していることから、この一連の記録の信頼性は高いと考えられている[80][13][81]。また、倭国の姿勢を記録した今一つの記録が歴代南朝の史書である。いわゆる倭の五王として知られる歴代の倭王たちは、438年倭王が「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王」の承認を要求し、451年に南朝は倭王に対して倭本国、新羅、任那秦韓、慕韓の軍事的支配権を承認したが、南朝と国交のある百済だけは承認せず[82][83][84]倭王は百済に対する軍事的支配権の承認を繰り返し要求したことが記録されている[85]

ただし、倭の五王による百済への軍事権承認要請が最終的に南朝から承認されることはなかった点は重要であり、坂元義種の理解によると、四征・四鎮・四安将軍号については序列がみられ、四安将軍→四鎮将軍→四征将軍と昇進するため、序列は高い方から、高句麗王(征東将軍)→百済王(鎮東将軍)→倭王(安東将軍)となり、東夷の諸王に正式に除正された地位では、常に高句麗を最上位とし、続いて百済、最後に倭という南朝の序列は南北朝時代を通じて変わることがなかった[85][68]。ただし坂元義種は、南朝が倭王の百済に対する軍事的支配権を承認しなかったのは、北魏を封じ込めるために国際政策上百済を重視したからであり、「南朝が、最強の敵国北魏を締めつける国際的封鎖連環のなかに百済をがっちりとはめこんで、その弱化を認めまいとする、南朝の国際政策」と指摘[86]、南朝が倭王の席次や軍号が百済王より下位であるから百済に対する軍事的支配権を承認しなかったという主張は、南朝は倭王の軍号を高めて百済の上位にすることはいくらでも可能(南朝は倭王を百済王の上位にしたうえで倭王の百済に対する軍事的支配権を承認することが出来る)であることから「本末転倒した主張」と述べている[86]

坂元義種の主張について石井正敏は、倭王が百済王よりも下位であるなら、上位である鎮東(大)将軍である百済の軍事的支配権を、下位である安東(大)将軍である倭王が執拗に要求しているのは何故かという素朴な疑問が付きまとうことを指摘している[87]。南朝から冊封され、希望する官爵を自称し、除正を求めるだけでなく、部下にも南朝の将軍号を仮授した上で除正を求めている倭王が、南朝の官爵制度を理解していないとは考えられないことから[88]、百済の軍事的支配権を主張した倭王は安東(大)将軍でも「都督百済諸軍事」号要求は可能であると認識していたと考えざるを得ず、何故なら倭王が、自らの安東(大)将軍が百済王の鎮東(大)将軍よりも下位であり、「都督百済諸軍事」要求が不当な要求であると認識していたなら、百済王と同等の鎮東(大)将軍、さらに上位の征東(大)将軍を自称し、除正を要求する或いは承認されないことを承知の上でも自称するはずであり、それは高句麗との対決を明確にした倭王は、高句麗王と同等の待遇である「開府儀同三司」を自称し、除正を求めていることからも裏付けられる[89]。 

坂元義種は、百済王に鎮東将軍が授与された40年後に高句麗王に百済王よりも上位である征東将軍が授与されていることから、任官の先後が、軍号の上下を決定するものではないと主張している[90]

義熙九年(四一三)、東晋は数十年ぶりに使者を送ってきた高句麗王に征東将軍を授けたが、この将軍号は百済王の鎮東将軍よりも上位のものであった。なお、この間、百済王は咸安二年(三七二)に余句が、太元十一年(三八六)には余暉が、それぞれ鎮東将軍に任命され、また咸安二年・太元九年の朝貢も知られている。このことは、対中交渉の時期や交渉回数の多寡、あるいは任官時期のあとさきが、かならずしも任官内容を決定するものではないことを示しているといえよう。つまり、任官内容を決定するものは、中国王朝の国際政策や諸国に対する国際的評価などであったと思う。

— 『倭の五王-空白の五世紀-』、1981年、p175

この坂元義種の主張について石井正敏は、高句麗王が南朝から将軍号を授与された初見は413年であるが、第16代高句麗王故国原王が355年に前燕に遣使して征東大将軍を授与されていること、また、高句麗王が336年と343年に東晋に朝貢しており、『晋書』には冊封の有無は記されていないが、同一の王(故国原王)による2度の朝貢に際して、朝貢しておきながら、見返りである官爵を求めなかったとは考え難いことから、少なくとも2度目の朝貢では軍号を授与されていたことは考えられ、また東晋・宋が、いつ朝貢するかも分からない高句麗のために東方将軍号の最上位を空席にして待っていたとも考え難く[91]、高句麗に先行して朝貢した百済に征東将軍を授与するのが自然であるにもかかわらず、百済王に鎮東将軍が授与されたことは、336年乃至343年の朝貢に際して高句麗王に征東将軍を授与されている可能性が高く[92]、このことから軍号授与は、高句麗→百済→倭の順となり、高句麗、百済、倭に対する東方将軍号は、南朝への入貢順に東方将軍号の上位から授与されたのであり、高句麗王、百済王、倭王に上下優劣があるという主張には従えず、倭王は南北朝時代を通じて安東大将軍を自称するに留まり、鎮東(大)将軍、征東(大)将軍を要求しなかったのは、百済の軍事的支配権要求は安東(大)将軍で十分かつ安東(大)将軍は鎮東(大)将軍に劣るとは認識していなかったからであり、そして実際にその軍号で「都督百済諸軍事」号を得られると理解していたからであり、したがって安東(大)将軍のままで「都督百済諸軍事」号を要求したことも問題なかったことを指摘[93]、また、倭王による「都督百済諸軍事」号要求は、百済領は一地域二軍事権の対象外であり、制度上許可できないため、南朝が「都督百済諸軍事」号を倭王に承認しなかったのは、すでに百済王に「都督百済諸軍事」号を授与していたからであり、倭王の軍号が百済王の軍号に劣るからという理由に基づくものではないことも指摘している[94]

従って現在では、上記のように多くの学者によって5世紀の百済と倭国の関係についての『広開土王碑文』や『日本書紀』『三国史記』の記録の重要性は高く評価されるが、「臣民とした」などの記録についてはそれを強調しない立場を取る学者が多く[要出典]、しばしば百済と倭との「連盟[81]」や「救援[80]」「日本に従ったり[82]」「日本に従属的[82]」のように表現される。

隋書』東夷伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこには新羅人、高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」とあり、倭国軍事同盟を結んでいた百済には、倭人の住民も多かった[95][96]

時代が進むと、百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団がでてくるが、これは倭国との連携が強化されたことと関わり、百済は楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込むことにより、発展を遂げた[64]

帰化人[編集]

建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場する。

百済滅亡により、百済王と王族貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。また、彼らの子孫が後に日本名を貰い正式に帰化し、さらにその6代後の子孫が高野新笠として桓武天皇の母となったという説がある。

豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。

『日本書紀』には、『百済記』や『百済新撰』など早くから散逸した百済の史書からの引用がある。百済からの文化財には、軍事的援助の謝礼として、中国より伝来したという石上神宮に伝わる七支刀がある。また倭国から伝わった勾玉や刀剣等の装飾品が再度倭国に返還された。

奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

兵庫県神戸市には扶余系の墓にちなんだ唐柩の地名が残る。

宮崎県東臼杵郡美郷町には、滅んだ百済から逃れてきた王族が彼の地に亡命したという伝承があり、百済王一族を慰める「師走祭り」という例大祭が神門神社などで行なわれている。禎­嘉王が美郷町南郷区に、その子の福智王が約90キロメートル離­れた木城町に住んでいたと­いい、死後それぞれが神として祀られるようになったもので、例祭当日には村民が参加して、父を祀る神門神社と子を祀る比木神社の間で親子の対面を再現する。[97]

美郷町の「西の正倉院」には、神門神社で出土した鏡や「師走祭り」に関する資料が展示されている。

[編集]

『周書』百済伝によれば、王を表す固有の語として「於羅瑕(支配層=扶余=百済語による号)」と「吉支(被支配層=韓系百済語による呼称)」の二種があり、王妃は「於陸」と呼ばれていたという。「吉支」は『日本書紀』古訓に見える「百済王」の和訓「くだらのこにきし」の「こにきし」がこれに相当すると考えられている。

扶余族の東明伝説に因んで、百済の王族は姓を扶余(ブヨ)と名乗った。だが、5世紀後半からは中国風に一字姓の余(ヨ)も名乗るようになっており、扶余姓と余姓を併用するようになっている。この併用の習慣は百済の滅亡まで続くことになる。

官制[編集]

『三国史記』によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官名が見られる。これは高句麗における最高官位と同名だが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。

佐平制[編集]

百済では第8代の古尓王の27年(260年)に、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15階の官、あわせて16階からなる官制が整備されたと伝わるが、実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位:384年 - 385年)の頃と考えられている。第18代の腆支王の4年(407年)には六佐平の上に上佐平の官位を置いている。上佐平は軍事統帥権と国内行政権を総括するもので「宰相」に相当し、また伝説時代の「左輔・右輔」にも相当する。『日本書紀』には大佐平、上佐平、中佐平、下佐平も見え、上・中・下の佐平を総称して「三佐平」といった。大佐平は全権を委ねられた王世子で摂政のようなものらしい。

周書』百済伝には、佐平(左平)の定員は5名だったこと、各官職の帯の色は、七品が紫、八品が皁、九品が赤、十品が青、十一品・十二品が黄、十三品以下は白だったこと、三品以下は定員がなかったことなどを伝えている。

官位
  1. 佐平(さへい)- 一品官。その担当する職務によって、6種類に種別されている。
    1. 内臣佐平(ないしんさへい) - 宣納(王命の伝達)の担当
    2. 内頭佐平(ないとうさへい) - 庫蔵(財政)の担当
    3. 内法佐平(ないほうさへい) - 礼儀(儀式)の担当
    4. 衛士佐平(えいしさへい) - 宿衛兵(王の禁軍、近衛兵)の担当
    5. 朝廷佐平(ちょうていさへい) - 刑獄(司法)の担当
    6. 兵官佐平(へいかんさへい) - 外兵馬(対外軍事)の担当
  2. 達率(たつそつ)- 二品官
  3. 恩率(おんそつ)- 三品官
  4. 徳率(とくそつ)- 四品官
  5. 扞率(かんそつ)- 五品官
  6. 奈率(なそつ)- 六品官
  7. 将徳(しょうとく)- 七品官
  8. 施徳(しとく)- 八品官
  9. 固徳(ことく)- 九品官
  10. 季徳(きとく)- 十品官
  11. 対徳(たいとく)- 十一品官
  12. 文督(ぶんとく)- 十二品官
  13. 武督(ぶとく)- 十三品官
  14. 佐軍(さぐん)- 十四品官
  15. 振武(しんぶ)- 十五品官
  16. 克虞(こくぐ)- 十六品官
官庁
  1. 内官 - 前内部、穀内部、内ケイ部(ケイは「𢈴」=まだれ〈广〉に京)、外ケイ部、馬部、刀部、功徳部、薬部、木部、法部、後宮部
  2. 外官 - 司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舎部、綢部、日官部、市部

文化[編集]

墳墓[編集]

扶餘陵山里出土百濟金銅大香爐

漢城時代の墳墓は、旧以前からある土壙墓石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に良く見られ高句麗とのつながりが確認できる。熊津時代には支配者層の墓は、積石塚に代わって石室墳や築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室墓の典型である。泗時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。

王都とは離れた全羅南道に百済の勢力が及んだのは5世紀末から6世紀初頭のことで、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっていた。これらは馬韓の勢力の名残と推定されているが、日本で見られる前方後円墳型の封土墳も多く見られ、の影響も確認できる。

仏教[編集]

仏教の受容は高句麗に遅れること10年で、枕流王元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、その翌年には漢山に寺を創建したことが伝わっているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかっていない。5世紀末以降になると、475年(文周王元年)に遷都した熊川(現公州)の寺院址では12寺が、538年(聖王16年)に遷都した泗(現扶余)では26寺が、そして全羅北道の益山郡では巨大な弥勒寺石塔が発掘されている。[98]

百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他の熊津時代の寺としては、公州市に水源寺址、西穴寺址、南寺址などがある。聖王は泗に遷都した後に、から『涅槃経』などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗時代の仏教の盛んな様子が『隋書』百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。

略譜
  • 384年(百済枕流王1年)、中国南朝の東晋より摩羅難陀が百済に仏教を伝える。
  • 385年(百済枕流王2年)、王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
  • 526年(百済聖王4年)、百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳する。
  • 541年(聖王19年)、百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。

漢字[編集]

4世紀後半の近肖古王の時代に博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に『論語』や千字文をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国からの文物の受容に熱心だったことが窺える。

遼西経略説・海外征伐説[編集]

百済が中国の遼西地方に進出したという、いわゆる「百済遼西経略説」(海外征伐説とも言う[99])は、『宋書』『梁書』などの南朝系史書から始まったものである。それによれば、(265年 - 420年)の時に高句麗が遼東を占領した後(404年以降)[注釈 11]に、『宋書』によれば百済もまた遼西地方を征服して晋平郡を設置した(『梁書』では、晋平郡と遼西郡の2郡を併合して百済郡[注釈 12]を置いた)という。また『南斉書』には百済の使臣が中国各地の郡県の太守を持っていたことが記録されている[100]

中国南朝の記述
出典 本文
『宋書』巻九十七・東夷百済国伝 百濟國,本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣[101]

百済国はもと高句麗とともに遼東郡の郡庁のある襄平(現在の中国の遼陽地方)の東一千余里のところにあった。その後高句麗はほぼ遼東郡を支配し、百済は遼西郡をほぼ支配した。このとき百済が根拠地としたところは晋平郡の晋平県である[102]

『南斉書』巻五十八・列伝第三十九 魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木幹那率衆襲擊虜軍,大破之[103]

魏は騎兵数十万人を動員して百済を攻撃し、その国境の中に攻めこんだ。東城王は沙法名、賛首流、解礼昆、木干那などを送って魏の大軍を大破した[104]

『梁書』巻五十四列伝四十八諸夷・東夷諸戎・百済 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡[105]

百済が遼西・晋平の二つの郡を占め、百済郡を設置した[106]

百済は馬韓の伯済国から興こり、他の馬韓諸国を統合したこと、この百済と遼西支配は地理的に遠距離であることから、百済と遼西を一体と考えることはできず、この疑問は早くに『梁書』から提出されていた[102]

実際に遼西地方を支配していた北朝系史書には関連記録が全く見られず、また『三国史記』をはじめ朝鮮史書にもそれに関する記事がなく、北燕の敗残兵による百済侵入事件や北魏の百済進攻が起こったこの時期に遼西に百済領が安定的に成立・存続する余地があるはずがなく[107]、韓国・北朝鮮以外の学界では主要な学説とは認められていない。井上秀雄によると、以来中国の学者たちは「奇妙な記事[102]」の解明に苦しんできており、一方日本の研究者は、百済の遼西侵略記事を「頭から誤伝」として斥け、「この記事をまったく取りあげ」ないという[108]

韓国の学界においても一般的には百済の遼西進出については否定的な見方が大勢だが[109]、近年もなお百済の遼西進出を事実とする説は提起されている[110]1981年大韓民国教育部長官安浩相朝鮮語: 안호상)が1檀君は実在の人物2檀君の領土は中国北京まで存在した3王倹城は中国遼寧省にあった4漢四郡中国北京にあった5百済は3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した6新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅国境は北京にあった7百済が日本文化を築いたという「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出したことがあり[111][112]、韓国の国史編纂委員会で編纂する『国史』教科書では、1990年までは百済が遼西を攻撃したと敍述していた。1990年以降は進出という表現を使って曖昧に表現しており、高校『国史』には、「また、百済は水軍を増強させて中国の遼西地方へ進出し、さらに山西地方と日本にまで進出する活発な対外活動を行った」と記述、図解している[113]

東北アジア歴史財団のヨン研究員は、高等『国史』が百済が中国の遼西・山東地方と日本の九州地方に進出したという記述は事実関係に問題が多いとして、「百済の九州地方進出は日本書紀神功記と七支刀銘文を根拠としているように見えるのに、これらの解釈は多くの問題点がある」「問題が多い日本書紀にそのまま従ったら、日本の百済進出であって百済の日本進出にならない。史料を利用する時、恣意的解釈は排除しなければならない」と批判している。中国の『宋書』と『梁書』を基礎にした中国遼西地方進出と百済郡設置も、通説にするには多くの問題点があるとして、中国前秦代に起きた事件が『宋書』と『梁書』には出ながら『魏書』にはないこと、百済が高句麗と絶えず戦争をしていた当時の情況を考慮すれば、水軍抜きで遼西地方を攻略したとは考えにくいとしている。ヨン委員は「中国史書にある、とそのまま信じたら、倭国戦で記録された百済と新羅が倭国を大国として仕えた、という内容もそのまま信じるしかない」「韓半島内部の発展過程など多様な側面を考慮して、史料の意味を把握する必要がある」と批判している[114]

水野俊平は、中国史書の記録だけを見るなら百済が中国に領土を領有していたことは確実であると考えがちであるが、「ところが事はそう簡単ではない」として、百済が遼西を領有していたとされる時期は、中国史書の記録から3世紀後半から5世紀前半に推定されるが、この時期は前燕前秦後燕南燕北魏などが遼西をめぐり角逐していた時期であり、五胡十六国南北朝の混乱期であっても、百済が割り込んで領有化する余力が有るとは考えられないこと[115]、 「百済が中国に領土を領有していた」記録は、百済と親密な関係にあった南朝の史書にのみ見られ、北朝の史書にはまったく見られず、さらに朝鮮史書の『三国史記』『三国遺事』、実際に遼西を支配していた北魏の『魏書』にも百済が遼西に進出したという記録は見られず、百済軍と北魏軍が衝突したとする『南斉書』の記録も、当事者の北魏の史書『魏書』には存在しないことから[116]、「学界では懐疑的」「歴史学界では広く認められているとは言いがたい」「韓国の学界では百済が中国大陸に領土を保有していたという主張は主流を占めているとは言いがたく」として[117][118][119]、百済と親密な関係にある南朝の史書が百済の主張する通りに記載したという指摘などとともに、『宋書』には、順帝倭王に「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の官爵号を与えたと記録されているが、これをもって倭が朝鮮を領有していた証拠とはならず、南朝の史書に見られる「百済遼西経略説」記事もそれと同じことを考える必要がある、と指摘している[120]

宮脇淳子は「平気で歴史を捏造する韓国歴史学会でもさすがに主流ではないトンデモ学説」であり[121]、百済が中国に領土を領有していたという主張が依拠する史書は、南斉南朝であり、南朝の史書の鮮卑北朝北魏に関する記述は伝聞程度でしかなく、『宋書』にはまだ列伝に百済国があるが、『南斉書』に至っては「蛮、東南夷」の僅か数頁に、高(句)麗も百済も加羅倭国も押し込めてあり、この程度の情報量を元ネタにして書かれた記述など信用できない、と評している[122]宮脇淳子は、当時は人々の国家への所属意識が低く、現在と比較して人々の移動は自由であり、朝鮮半島及び周辺には様々な国の人々が混在しており、中国と朝鮮は一つの経済圏として交易していたから、遼西地域に百済人が住み着いてコミュニティが形成されていても不自然ではなく、だからといってそれが百済領だと解釈するなら誤りであり、ロサンゼルスコリアンタウンが韓国領だと主張しているようなものと指摘している[122]

朝鮮民族主義歴史学者申采浩は、百済は近仇首王東城王時代に遼西と山東前秦まで攻撃・領有したと主張しており[123]、『宋書』・『梁書』の百済の遼西進出記事、『南斉書』の百済の北魏撃退記事、『旧唐書』の百済関係記事を根拠に百済が近仇首王時代に遼西北京を奪って遼西郡晋平郡を設置し、東城王時代に北魏と戦い撃退し、中国の会稽郡付近を支配し、日本を植民地にしたと主張している[124]

朝鮮歴代で海を越えて領土を置いたのは百済の近仇首王と東聖王の二代だけである。東城王の時代には近仇首王の時代よりもさらに領土が広かったので、『旧唐書』の百済伝に百済の地理を記録して「西に海を越えて越州に至り、北に海を越えて高句麗に至り、南に海を越えて倭に至る」と記録されているが、越州は今の会稽であるから会稽付近はすべて百済の地であった。……高句麗の国境である遼水の西側-現在の奉天の西側がすべて百済の所有であるから『満洲源流考』に『錦州・義州・愛琿などがすべて百済の地だ』と述べているのはこれを指しているのだ。倭は現在の日本であるから、上に引用した『旧唐書』の二節によれば日本全国が百済の属国になっていたことは疑いの余地はない。百済が上の海外植民地をいつ失ったのかというと聖王の初年に高句麗に敗れ、末年に新羅に敗れて、国の勢いが衰退したので、このときに至って海外の植民地がほとんど没落したのである。

— 『朝鮮上古史』

申采浩の主張は、植民地下で安在鴻崔棟鄭寅普などに引き継がれ、解放後のさらに1960年代に再議論されるようになり、金庠基ソウル大学)は1967年発表論文「百済の遼西経略説に対して」において、近肖古王時代に百済が遼西に進出・活動したと主張したが、これらはの主張は申采浩の主張と同一のものであり、さらに金庠基の主張は、方善柱翰林大学)に引き継がれ、百済が遼西に進出することができた根拠を五胡十六国・南北朝の混乱に求めた[125]

韓国の在野史学系では、百済の遼西領有を認める方向にある。中でも大陸史観を唱える人々は、百済の位置を朝鮮半島西南部ではなく黄河と長江の間に比定して、百済の遼西領有が事実だと主張する。例えば、崔ジン『再び書く韓・日古代史』(大韓教科書、1996年)は、「海洋大帝国百済」章で、百済の領土は東城王時代に河北山東江蘇淅江、済州島、対馬を領有化したと主張しており[126]、それによると西暦100年頃に百済は日本の九州に進出して大和百済を建国して百済王族・応神王が檐魯として統治、紀元前18年に百済は中国に進出、遼東半島西部に外百済を設置、2世紀に揚子江河口に進出、成陽郡・広陵郡を設置、4世紀にその西方に領域拡大し晋平郡・遼西郡を設置、近仇首王時代に山東半島に進出、青丘を晋平郡・遼西郡とともに百済領とし、これらの百済領は572年まで存続したが、高句麗によって外百済が滅ぼされ、577年に北周北斉征服過程で青丘が滅亡、580年にによって揚子江河口の成陽郡・広陵郡が滅亡、百済は大和百済と連合したが、668年に百済が唐・新羅連合軍に敗北したため、大和百済は日本として独立したと主張している[127]金珊瑚大朝鮮帝国史』(東亜出版社、1994年)は、百済が中国と日本に百済領を領有していたという説を発展させ、6世紀初頭の百済領は中国沿岸部の外百済と朝鮮南西部と西日本に及んでいたと主張している[128]

百済の遼西領有説においては、その時期についても争点となっている。『梁書』によれば、遼西領有時期はの時代で、高句麗が遼東を占領した以後だが、高句麗と前燕が遼東の争奪戦を繰り広げたのは好太王(在位391–413年)の頃で、それが最終的に高句麗の手に落ちたのは404年[注釈 13]のこととみられている。ところが、この時期の百済は高句麗との戦争に敗北して58個の城を奪われており、遼西に進出する余力はなかったと考えられるため、それ以前に高句麗が385年[注釈 14]に一時的に遼東を占有した時に百済の遼西進出があったと見る学者もいる[110]。これに対し金庠基金哲埈井上秀雄らは百済の近肖古王371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配したと推測している。ただし井上秀雄は、領有や支配とは限らず遼西の小勢力との同盟という程度もありうる、とかなり控えめな想定もしている。それによると、東晋末期に遼東・遼西は政治的に混乱状態に陥り、百済は高句麗の広開土王長寿王の圧迫に苦しんだが、南朝から冊封され、高句麗と対峙、その一時期に遼西と政治的な連携もしくはその一部を支配した可能性、具体的には、百済は377年に北方の前秦にも朝貢して、北方の遼西に関心を持っており、前燕の崩壊後、政治的混乱に陥った遼東・遼西に371年の対高句麗戦の勝利の余勢から「一時的」に遼西を侵略するのは、可能性としては有りうるという[108]。ただし井上秀雄は、もっとも可能性が高いのは、南朝の宋は、対高句麗対抗勢力として百済を評価しており、高句麗が北朝と連携していることを牽制するために、百済の遼西侵略を誇大・誇張して取り上げる必要があったと述べている[108]。一方、申采浩近仇首王の時、鄭寅普責稽王汾西王の時に百済が遼西を領有したとみている。

韓国公共放送局KBSは、1996年9月15日にKBS1テレビ「日曜スペシャル 続武寧王陵、忘れられた地-百済22檐魯の秘密」というタイトルで[129]、「百済は、日本、中国、東南アジアにいたる海岸連邦国として存在していた」という内容のドキュメンタリーを放映したことがある[130]金完燮西尾幹二との対談で、このドキュメンタリーについて言及している。

日本は百済と密接な関係にありました。1995年にKBSテレビで長い間準備された百済に関するドキュメンタリーが放映されました。取材陣は三年間、日本と中国を取材してまわっています。そこに出ていたなかで、ひじょうに衝撃的だったことは、その当時の百済の領土を調べたところ、百済は朝鮮半島の南西地域、いまの全羅道とか忠清道にあった平凡な国ではないのです。中国の歴史書に残っている百済の領土を調べたところ、北京地方(山東地方)も百済の領土であったし、香港の西側にある広東省も百済の土地であったということを中国の学者もみんな知っていました。広東省に百済郷という地名が残っています。百済は、中国、台湾、フィリピン、東南アジアにいたる海岸連邦国として存在していたというのがKBSで放送された内容でした。それ以降、百済に五府二十二檐魯があったと韓国の学者たちは言っています。 またKBSのドキュメンタリーによると、檐魯のあったところでは、青銅の靴が出土しています。朝鮮半島では二つ出ているし、日本の九州に一つ、名古屋でも一つ発見されたと聞きました。KBSによると、檐魯の統治者の象徴ではないかということでした。

— 『日韓大討論』、扶桑社、p108-p110

金完燮の発言に対して、西尾幹二は「おっしゃりたい意味は百済は片足を朝鮮半島にかけていて、東アジア一帯に南にまで広がっていた大きな国だということでしょうか」と聞き返しており、水野俊平は「金完燮氏が随所で披瀝する『学説』に西尾氏が驚く場面がところどころにあって興味深い」「西尾幹二氏も、この奇想天外な話には驚いたらしく」「西尾氏は金氏がどうしてこんな突拍子もないことを言い出したのか、理解できない」「この『百済大帝国説』とも言える説こそ、『日本(人)の起源は百済(人)』『古代日本は百済の植民地』と拡大を続けてきた百済に関する偽史の発展形」と評している[131]。ちなみに百済が東南アジアを支配していたという主張は百済末期の将軍である黒歯常之墓誌に理由がある。墓誌には「黒歯常之は元々氏姓が王の氏姓である夫余氏だったが、先祖が黒歯に封じられ、その氏姓を黒歯にした」と記述されており、「黒歯」を「歯が黒い人」と解釈し、熱帯果樹を噛む習慣のある地域に派遣されたためと推定し、百済は東南アジアに領土を領有していたと結論するが、実は黒歯常之が東南アジアに封じられたとする根拠は『日本書紀』である[132]。『日本書紀』(欽明紀)にある百済が扶南の財宝やインドシナ半島産出の絨毯などを倭に贈ったという記事を理由にして、これらの地域の産出品が百済にあったということは百済がこの地域を支配していたという理屈であるが[133]、水野俊平は「これらの品物はいくらでも交易を通して入手できるもので、百済が東南アジアに檐魯を派遣して統治していた根拠にはならない。こうした論理が通用するなら正倉院の宝物を根拠に、古代日本がアジア全域を支配していたということになってまう」と述べている[134]

KBS1テレビ「日曜スペシャル 続武寧王陵、忘れられた地-百済22檐魯の秘密」の百済が倭を支配していたという主張の根拠は、『日本書紀』のイザナギイザナミの神話に檐魯が登場するから神代から檐魯が存在、「サラバ」という言葉は百済語で「生きてみろ」の意味、熊本の「クマ」は百済語の「熊(コム)」の意味、熊本県玉名(たまな)は「檐魯(タムロ)」に由来などである。番組の内容の要約は以下である[135]

日本の九州地域は「檐魯」によって統治されていた地域である。宮崎県の南郷村には百済滅亡期に百済の王族が落ち延びてきたという伝説があるのだが、これは百済がこの地域を支配してきたためであると推定できる。また百済王の伝説と関連がある神社から銅鏡が出土しているが、これは百済の王族がこの地を支配していたという証拠である。百済は九州に「檐魯」を設置して王族を派遣し、支配していたのである。九州地方だけではなく、畿内にも「檐魯」が設置され、百済の王族が統治していた。その根拠は飛鳥地方に百済王をまつっている神社があることで、百済の第24代王・東城王と25代王・武寧王はこの地の統治者になった後に百済の王位に上がったと思われる。舟山古墳や峯ヶ塚古墳の出土遺物が百済の武寧王陵の出土遺物と似ているのも、この地が百済の支配を受けていたことを物語っている。

— 『韓vs日「偽史ワールド」』、小学館、p62-p63

水野俊平は、百済が日本に檐魯を派遣したという記録は朝鮮史料にも日本史料にも全く登場せず、陵墓・遺跡からの出土品・神話・地名からの推定も「古代日本が百済と密接な関係を持っていた根拠にはなっても、百済が日本を支配していた根拠には得ない」「かなり突拍子もない話」「まゆつば臭い話」として[136]、東城王と武寧王の在位期間は5世紀末から6世紀初頭であるから倭が百済の侯国になったのは遅くとも5世紀中葉となるが、その時期は百済が新羅と同盟(433年)して高句麗に対抗していたにもかかわらず、同時期に倭が新羅に侵攻を繰り返していたのはおかしい(『三国史記』の記録でも、5世紀初頭から6世紀にかけて倭が最も激しく新羅に侵攻した)、とこの主張の矛盾を指摘している。もし倭が百済の侯国であるなら支配していた倭が宗主国の同盟国新羅に侵攻を繰り返すことを放置することなどありえないはずだからである[137]

また百済の遼西領有説の出典である中国の史書は共通して百済伝の冒頭においてその建国・起源・発祥とのかかわりで述べており、解釈によっては夫余王の尉仇台が百済の創設者とも読めることから、遼西を経略したのは百済ではなく夫余であり、遼西経略も帯方における百済建国もともに、公孫氏との同盟下で同時期になされた夫余の対外発展の一環とみる説がある[注釈 15][独自研究?]

帰属の問題[編集]

帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」も参照のこと

中国は、百済は歴史上中国の一部であると主張している。

満州族の先祖である女真族と扶余族は同じツングース系民族であるともいわれることから、民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国の立場として、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と定義している[138]。また、中国の歴史学者の李大龍は「百済は扶余族が建てた国なので、百済は中国民族が建てた国だ」と主張している[139]。中国の教科書の記述では、高等教育出版社『世界古代史』に「古朝鮮・高句麗・扶余は韓国の歴史ではなく、韓国史の始まりは統一新羅から」との主旨で記述している。中国の100余りの大学で使用されている福建人民出版社『中国古代史』には「扶余・高句麗・沃沮・濊貊は中国・漢代の東北地区の少数民族だ」と記述している[140]

注釈[編集]

  1. ^ 日本の学界における通説では4世紀前半に成立するとする説が定着している[2]。韓国の歴史学界では『三国史記』の記載に基づく紀元前18年説が影響力を持つが、現在最も有力なのは3世紀後半説であり、更に諸説ある[2]。しかしいずれにせよ中央集権的な国家体制が構築されたのは4世紀半ば以後のことと見られている[2]
  2. ^ [pak-tsan]の頭音paが落ち、tsの子音は古代日本語になかったのでこれがt音に訛り、朝鮮語ではlとnが相互に交代する例が多いのでここもlに訛り、古代日本語では子音だけの発音がなく必ず母音がつく(mが「む」、nが「に」になる例)のでaがつき、結果[pak-tsan]が[k-tala]になったとした。
  3. ^ 浜田耕策山尾幸久の分析を踏まえたうえで、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを複製して倭王に贈ったと解釈し、この外交は当時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[9]
  4. ^ 広開土王碑を巡っては、特に倭国関係記事が集中する第2面を巡り、その信憑性を巡って長い議論が続けられてきた。現在ではこの一連の出来事に関連する記事は『三国史記』『日本書紀』にも言及があり、高句麗からの百済の離脱、百済から倭への人質や、それによる百済と倭の同盟など大筋で一致しており、その史料的価値は高いとされる[13]。これを巡る主要な議論については武田幸男「その後の広開土王碑研究」(1993)にまとめられている[14]
  5. ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、全羅南道の南東部であるという二つの有力な説が存在する[25]
  6. ^ 『日本書紀』は日本から百済への「割譲」とするが、『三国史記』に対応する記述はない。一方で、この地域では現代の考古学的調査によって日本列島に見られるものと類似する前方後円墳が発見される。研究動向としては、この時代に倭がこの地方に実質的な支配権を持っていたとする学者は少ない。武田幸男は百済がこれらの地域を掌握するにあたって倭側の了解を取り付けたものであろうとする[24]。また、朝鮮古代史研究者の田中俊明はこの地域を百済が実力で確保していったものと見、四県割譲記事は「日本書紀の筆法」と見る[26]
  7. ^ いわゆる「任那の調」はかつて任那が倭に献上していた(とされる)調を、その地を支配する新羅に対して代納することを倭が要求したもので、百済のみならず高句麗との対立も深まっていた新羅側が「任那使」を建ててこれを「献上」することで倭国との関係悪化を防ごうとしたものと解される。一般に当時「任那復興」を国策の一つとしていたが、現実的にそれを実現することが不可能であった倭国と、外交的孤立を避けようとした新羅の間で成立した政治的妥協の産物と見做される[38]
  8. ^ 「其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分、百濟之種遂絶。『旧唐書』東夷伝/百済
  9. ^ ここでいう百姓は「農民」の意味ではなく、家臣または有力者の意[54]
  10. ^ 『日本書紀』の紀年は特に雄略紀以前の年次が中国・朝鮮の歴史書と一致しない場合が多い。これは現代では『日本書紀』の編纂時に、4世紀に始まった中国・百済・伽耶との交渉開始を、干支を二運(120年)古く設定することで3世紀に引き上げる年次操作が行われていることがわかっている。神宮皇后46年を366年とするのはこの年次操作を修正した後の推定年次である。詳細は日本書紀の記事を参照。なお、神功皇后の実在は一般に疑わしいとされるが、ここでは本論から離れるため神功皇后の実在可能性の問題には触れない。これについての詳細は神功皇后の記事を参照。
  11. ^ 「晋の時」というのは『梁書』だが、より信頼性の高い『宋書』では時期を明確にしておらず、ただ文脈上漠然と建国当初のことと読み取れるだけである。
  12. ^ この「百済郡」という地名から「百済」という国名が起こったとも受け取れる。
  13. ^ 404年は百済ではの時代に相当する。
  14. ^ 百済では枕流王の時代に相当する。
  15. ^ この説の場合、公孫氏の滅亡とともに遼西領有は消滅し、百済も馬韓の一国に一時的に転落したということになる。

出典[編集]

  1. ^ 井上秀雄 「百済」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。
  2. ^ a b c d e f g h 朝鮮史研究入門 2011, pp. 53-54
  3. ^ 『もう1つの万葉集』 文藝春秋、1989年8月。ISBN 4-16-343560-3 ただしこの説は学術的には認められていない。ちなみに「大」の意味のクンは現代韓国語であり古代新羅語ではカンである。またなぜ百済を新羅語で呼んだ名称を新羅と敵対していたはずの日本書紀が採用しているのかについての説明もない。しかし井沢元彦は李寧煕の「万葉集は韓国語で読める」という意見は否定しているにもかかわらず「すべてを否定すべきではない」として百済の読みについての説は賛意を示しているが、如上の諸点についての説明も一切ないし具体的になぜ賛同できるのかの論拠も示していない。
  4. ^ a b c d e 井上 1972, p. 99.
  5. ^ 『晋書』帝紀凡十巻/巻九/帝紀第九/太宗簡文帝 昱/咸安二年
  6. ^ 『三国史記』百済本紀/第二/近肖古王/二十七年春正月
  7. ^ 木村 2005, p. 74.
  8. ^ 『日本書紀』巻第九/氣長足姫尊(神功皇后)/五十二年秋九月
  9. ^ 浜田耕策「4世紀の日韓関係」第1回日韓歴史共同研究2005年。財団法人日韓文化交流基金、第1回日韓歴史共同研究報告書で閲覧可能(2012年1月閲覧)。釈文については第1章第2節を参照。付録としてpp.58-63.に〈日本における「七支刀」研究文献目録〉を掲載。
  10. ^ 『三国史記』百済本紀/第二/近肖古王
  11. ^ a b 井上 1972, p. 101.
  12. ^ 森 1995, p. 30.
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参考文献[編集]

原典資料[編集]

二次資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]