女真
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女真 | |||||||
中国語 | |||||||
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繁体字 | 女眞 | ||||||
簡体字 | 女真 | ||||||
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朝鮮語 | |||||||
ハングル | 여진 (南)/ 녀진 (北) | ||||||
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モンゴル語 | |||||||
モンゴル語 | ᠵᠥᠷᠴᡞᡨ Зүрчид (Jürchid) | ||||||
女真語 | |||||||
女真語 | ![]() | ||||||
契丹語 | |||||||
契丹語 | dʒuuldʒi (女直) | ||||||
満州語 | |||||||
満州語 | ᠵᡠᡧᡝᠨ jušen |
女真(女眞、じょしん、満州語: ᠵᡠᡧᡝᠨ 転写:jušen)は、女直(じょちょく)ともいい、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満洲にかけて居住していたツングース系民族。民族の聖地を長白山とする。10世紀ごろから記録に現れ、17世紀に「満洲」(「マンジュ」と発音)と改称した。「女真」の漢字は女真語の民族名「ジュシェン」(または「ジュルチン」)の当て字である。「女直」は遼興宗の諱(耶律宗真)に含まれる「真」の字を避けた(避諱)ため用いられるようになった[注釈 1]。金朝を滅ぼしたモンゴル帝国および元朝時代の漢文資料では「女直」の表記が多く見受けられ、同じくモンゴル帝国時代に編纂されたペルシア語の歴史書『集史』などでも金朝や女真人について言及される場合、「女直」の音写である جورچه jūrcha で呼ばれている。
金代以前[編集]
満洲の歴史 | |||||||||||||
箕子朝鮮 | 東胡 | 濊貊 沃沮 |
粛慎 | ||||||||||
燕 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
秦 | 遼西郡 | 遼東郡 | |||||||||||
前漢 | 遼西郡 | 遼東郡 | 衛氏朝鮮 | 匈奴 | |||||||||
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後漢 | 遼西郡 | 烏桓 | 鮮卑 | 挹婁 | |||||||||
遼東郡 | 高句麗 | ||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
魏 | 昌黎郡 | 公孫度 | |||||||||||
遼東郡 | |||||||||||||
玄菟郡 | |||||||||||||
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前秦 | 平州 | ||||||||||||
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北魏 | 営州 | 契丹 | 庫莫奚 | 室韋 | |||||||||
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北周 | 営州 | ||||||||||||
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燕郡 | |||||||||||||
遼西郡 | |||||||||||||
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五代十国 | 営州 | 契丹 | 渤海国 | 靺鞨 | |||||||||
遼 | 上京道 | 東丹 | 女真 | ||||||||||
中京道 | 定安 | ||||||||||||
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金 | 東京路 | ||||||||||||
上京路 | |||||||||||||
東遼 | 大真国 | ||||||||||||
元 | 遼陽行省 | ||||||||||||
明 | 遼東都司 | 奴児干都指揮使司 | |||||||||||
建州女真 | 海西女真 | 野人女真 | |||||||||||
清 | 満洲 | ||||||||||||
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女真は満洲に居住していた黒水靺鞨と呼ばれた集団の、彼ら自身の自称を当て字したものとされる[注釈 2]。主に農耕・漁労・牧畜・狩猟に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮を貿易していた。黒水部・粟末部など様々な部族が在り、長く統一される事がなかった。また10世紀後半から11世紀に掛けて頻発した高麗軍の入寇のうち、1019年の刀伊の入寇において対馬、九州の大宰府を襲った「刀伊」(朝鮮語で外様を意味する)という海賊集団は、女真系の一部族が主体だったと考えられている[2]。刀伊の構成員については高麗人や契丹人なども混じっていたと言われるが詳細は不明である。
歴史に現れて以来、遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれていた[注釈 3]。
金の興亡と満州への改称[編集]
12世紀はじめ完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立して金を建国した。金は、遼、北宋を滅ぼし中国の北半分を支配した。金の時代に、漢字や契丹文字の影響で女真文字をつくったが、元・明の間に忘れ去られた。やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真がモンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が歴史から姿を消し、中原から女真の集団は消滅した。
一方、故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル、元に服属することになった。元代の女真は満洲から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。
元の滅亡後、女真はモンゴルから離れ、小集団ごとに明に服属した。また、朝鮮半島では高麗に変わって登場した李氏朝鮮が世宗の時代に朝鮮半島北部の女真居住地域を征伐し、平安道、咸鏡道に組み込まれ、半島北部からは女真人の姿は失われていった。15世紀から16世紀にかけて、満洲最南部の朝鮮に接する鴨緑江や豆満江流域の女真人たちは、たびたび李氏朝鮮に反撃を仕掛け、豆満江南岸地域の争奪を繰り返した。二度にわたる胡乱で、現在の北朝鮮北部に居た女真人は新たに入植して来ていた朝鮮人と共に中国に連行され、当地は無人の地となった。跡地には朝鮮人が入って来て、完全に朝鮮化された。
明は女真を部族ごとに衛所制によって編成し、部族長に官職と朝貢の権利を与えて間接統治を行った。明代後半には、女真は大きく2つのまとまった集団である建州女直(自称は「マンジュ」(満洲))5部・海西女直(自称は「フルン」)4部と、それより東方に住んでまとまりの弱い野人女直(この当時の野人女直は女真族の集団の中では最も勇猛だった)と呼ばれる4部からなっていた。16世紀末に建州女直から出たヌルハチはこれら13部族を統一して、1616年に後金を建てた。
1635年にホンタイジがモンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手すると、漢字としては蔑称のニュアンスを含む上に、モンゴル高原の契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)に民族名を満洲族(満洲民族の項参照)に改めさせた。また、それまでは女真族王朝である金の後裔として「後金」と名乗っていたが、民族名の変更に伴って翌1636年に国号も「清」に改めた。
女真との混血[編集]
女真は、高麗時代以降、朝鮮半島にも大量に南下し、朝鮮人と混血している。遺伝子の解析により、朝鮮人はツングース系民族と遺伝子上、近似関係にあることが証明されているが、この結果は朝鮮人の混血の歴史推移と一致している[3]。中国人もツングース系民族との遺伝子的近似性が証明されており、この結果もやはり、清朝のような女真族王朝が250年以上も中国を支配し、混血・同化が進んだという歴史推移に一致する[3]。朝鮮人と中国人はツングース系民族を介して、近似した民族となっている[3]。
宗教[編集]
白頭山周辺は、もともと濊・貊・粛慎が居住しており、彼らの聖地だった[要出典]。その後この地における濊貊の勢いが衰え、粛慎の流れを汲む女真がこの山を聖地とした。金は、1172年には山に住む神に「興国霊応王」の称号を贈り、1193年には「開天宏聖帝」と改めている[要出典]。
女真の出自をめぐる論争[編集]
『松漠紀聞』『満洲源流考』などのいくつかの中国史料には、女真完顔部の先祖であり、金朝の始祖である函普が「新羅人」あるいは「高麗より来た」と記録されている。これを根拠に韓国・北朝鮮では女真のルーツは朝鮮民族であるという主張がある[4][5][6][7][8]。しかしながら、史料解釈に問題があり、中国・日本などから批判されている。
年表[編集]
- 994年 高麗が女真を侵略し江東6州を占領。
- 1107年 高麗の尹瓘が女真を侵略し東北9城を築く。
- 1115年 女真が金を建国。
- 1125年 金が遼を滅ぼす。
- 1126年 金が北宋を滅ぼす。高麗が金に服属する。
- 1234年 モンゴルが金を滅ぼす。
- 1437年 李氏朝鮮が女真を侵略し六鎮(zh:东北六镇)を置く。
- 1443年 李氏朝鮮が女真を侵略し四郡(zh:西北四郡)を置く。
- 1616年 後金建国。
- 1636年 後金が清に改名。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ たんに「真」の字を「直」と書き誤った、という説もある。
- ^ 唐の時代に入朝した靺鞨人の名乗りが、女真の初見であると記録される。
- ^ 熟女真は黒水靺鞨に服属した渤海人のことで(渤海は建国当初から遼(契丹)に滅亡されるまで唐の文化を導入していた)、一方の生女真は粛慎から勿吉以降、ツングース本来の漁労や農耕,養豚,狩猟を生業としていた黒水靺鞨のことである。
出典[編集]
- ^ 金啓孮(1984)『女真文辞典』p.1
- ^ 鈴木哲雄「史研究最前線(17)高麗軍に救出された女性の証言--1019年の「女真海賊の侵攻」をめぐる日本と高麗」『歴史地理教育』693、歴史教育者協議会編、歴史教育者協議会、2005年12月。
- ^ a b c 宇山卓栄 (2022年6月22日). “韓国人は、漢民族に「臭穢不潔」と蔑まれたツングース系民族「濊」の末裔なのか”. 現代ビジネス. オリジナルの2022年6月22日時点におけるアーカイブ。
- ^ “韓・日・モンゴルの共通のルーツは「ジュシン族」”. 東亜日報. (2006年3月14日). オリジナルの2016年11月30日時点におけるアーカイブ。
- ^ “【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史”. 朝鮮日報. (2016年1月24日). オリジナルの2016年1月26日時点におけるアーカイブ。
- ^ “【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史”. 朝鮮日報. (2016年1月24日). オリジナルの2016年1月26日時点におけるアーカイブ。
- ^ “「金、清、韓国史に編入を」…東北工程対応策提案”. 中央日報. (2006年9月15日). オリジナルの2013年10月5日時点におけるアーカイブ。
- ^ “특별기획 만주대탐사 2부작 2부 금나라를 세운 아골타, 신라의 후예였다!”. 韓国放送公社. (2009年9月5日). オリジナルの2009年11月9日時点におけるアーカイブ。
参考書籍[編集]
- 孟森(中国語) 『満州開国史』上海古籍出版社、1992年。ISBN 7532512983。