前燕

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前燕
慕容部
冉魏
337年 - 370年 前秦
前燕の位置
前燕と周辺国。
公用語 鮮卑語、漢語(中国語
首都 棘城龍城
燕王→皇帝
337年 - 348年 慕容皝
348年 - 360年慕容儁
360年 - 370年慕容暐
変遷
建国 337年
東晋より自立352年
前秦によって滅亡370年

前燕(ぜんえん、拼音:Qiányàn、337年 - 370年)は、中国五胡十六国時代鮮卑慕容部の大人慕容皝によって建てられた国。国号はだが、同時代にを国号とする国が複数あるため、最初期に建てられたこの国を前燕と呼んで区別している。正式に自立したのは慕容儁が帝位に即いた352年であるが、慕容皝が燕王を自称した337年を建国年としている。事実上前燕の基盤を築いたのは慕容廆であるため、彼の時代より詳述する。

歴史[編集]

前史[編集]

慕容部の始祖は莫護跋といい、が建国されて間もない頃、諸部族を率いて遼西に割拠するようになった。莫護跋の死後、慕容木延慕容渉帰と代を経たが、彼らは一貫して魏晋朝廷に対しては従属し、征伐に従っては幾度も戦功を重ね、朝廷より率義王や鮮卑単于に封じられている。また、慕容渉帰の時代には遼東の北へ移住し、次第に漢人の風習に合わせるようになった。

281年10月、慕容渉帰は突如として西晋から離反すると、昌黎郡をしばしば侵略するようになり、西晋より討伐を受けるようになった。

283年、慕容渉帰が死ぬと弟の慕容耐が位を簒奪したが、285年慕容部の民は慕容耐を殺害し、慕容渉帰の嫡男である慕容廆を迎え入れ、位を継がせた。

慕容廆もまた父と同様に西晋とは対立し、遼西へ攻め入って多数の人民を殺戮した。これにより幽州軍より討伐を受けて大敗を喫したが、これに懲りずに連年に渡り昌黎へ襲来しては、略奪を繰り返した。さらには夫余へも攻め入り、夫余王依慮を自害に追いやると、その国城を滅ぼして1万人余りを鹵獲した。286年には遼東へも侵攻したが、西晋の東夷校尉何龕より討伐を受け、敗れて配下の孫丁が討ち取られた。

黎明期[編集]

西晋に従属[編集]

289年、慕容廆は方針を転換して西晋への帰順を決断すると、武帝より鮮卑都督に任じられた。また、遼東が僻地であった事から本拠地を徒河の青山に移し、さらに294年には棘城に移った。慕容廆は農業と養蚕に力を入れ、西晋と同じ法律や制度を整え、社会の安定と勢力の拡充に努めた。301年7月にはの地で大水が起こると、慕容廆は食糧庫を開放して人民を救い、恵帝より称賛を受けて命服を下賜されている。

当時、遼東・遼西地方には宇文部段部高句麗を始めとした諸勢力がひしめきあっており、彼らからしばしば侵攻略奪を受けていた。慕容廆は段部単于の娘を娶って姻戚関係を結び、融和を図った。また、の地において勢力を拡大している拓跋部の大人拓跋猗盧とも修好を深めた。妻の段氏との間には、慕容皝慕容仁慕容昭の三子をもうけた。

302年、宇文部の将軍宇文素延が慕容部の諸部を襲撃すると、慕容廆は自ら迎撃して破った。宇文素延が再び10万の兵を率いて棘城を包囲すると、慕容廆はまたもこれを破り、追撃を掛けて1万人を捕縛するか討ち取った。遼東人の孟暉は宇文部より離反し、数千家を引き連れて慕容廆に帰順した。

307年、慕容廆は鮮卑大単于を自称し、西晋には従属しつつも実質的には独自行動をとった。

309年鮮卑素喜連木丸津が乱を起こすと、この難を避けて多くの流民がやって来たので、慕容廆は流民達へ備品を渡し、移住を望む者へは定住を許可して慰撫に努めた。311年、慕容廆は庶長子の慕容翰に素喜連らを討伐させると、その部族を吸収して棘城に移すと共に、新たに遼東郡を設置した。こうして遼東の治安秩序の回復に成功し、その威徳は大いに広まった。

313年愍帝が長安で即位すると、慕容廆を鎮軍将軍に任じ、昌黎・遼東の二国公に封じた。4月、幽州刺史王浚が慕容廆と拓跋猗盧に段部討伐を持ち掛けると、慕容廆はこれに応じて慕容翰を派遣した。慕容翰は徒河・新城を攻略したが、拓跋部が敗れたので攻略を中止した。

この時期、楽浪帯方の2郡に割拠していた張統王遵が慕容廆へ帰順した。これにより慕容廆は楽浪を勢力下に入れ、楽浪郡を設置した。

当時、中原は相次ぐ乱により荒廃しており、多くの民が幽州へ流れてきていた。慕容廆の政事は公正で人物を重んじたので、士民の多くが彼の下へ身を寄せた。この時、前燕の中核を為す裴嶷陽耽黄泓宋該皇甫真封奕封裕游邃魯昌といった面々も陣営に引き入れている。慕容廆は俊才な者を抜擢し、その才能に適した職務を与えたので、大いに発展した。

東晋より冊封[編集]

317年3月に司馬睿(後の元帝)が晋王を名乗ると、慕容廆を仮節・散騎常侍・都督遼左雑夷流人諸軍事・龍驤将軍・大単于に任じ、昌黎公に封じた。慕容廆は司馬睿を正統と認めていなかったので、当初これに応じなかったが、魯昌や高詡は司馬睿を奉じてその後ろ盾を得るよう進言すると、慕容廆は同意して使者を建業へ派遣した。318年3月、司馬睿は皇帝に即位すると、再び慕容廆へ使者を派遣して龍驤将軍・大単于に任じ、昌黎公に封じた。慕容廆は昌黎公については辞退し、その他に任官については受け入れた。

この時期、龍驤長史游邃に府朝の儀法を制定させ、長史裴嶷に軍国の謀略を任せた。裴嶷は弱小の部族を次第に併呑し、慕容廆の勢力を拡大させた。

319年、遼東を統治する平州刺史・東夷校尉崔毖は慕容廆の存在を妬み、高句麗・宇文部・段部と密かに連携して討伐の兵を挙げた。三国が棘城に迫ると慕容廆は籠城し、離間工作を行って宇文部と高句麗・段部の間に不和を生じさせ、二国を退却させた。宇文部の首領宇文遜昵延だけは数10万といわれる兵で棘城攻撃を継続し、さらに数千騎を派遣して徒河を守る慕容翰を襲撃させた。慕容翰は敵軍を誘い出して伏兵をもって大勝を挙げると、勢いのままに棘城へ進撃した。慕容廆は慕容皝・裴嶷と共に出撃すると、慕容翰に呼応して宇文部軍を挟撃した。これにより、宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、慕容廆は敵兵の尽くを捕虜とし、更に宇文部が持っていた皇帝の玉璽三紐を手に入れた。崔毖は大いに恐れ、遼東城を放棄して高句麗へ逃げたので、慕容廆はその兵を尽く吸収した。こうして遼東を完全に支配下に入れると、宇文部から奪った玉璽を携えて江東へ使者を派遣し、戦果を報告させた。

慕容廆は将軍張統に高句麗の将軍如奴子が守る河城を急襲させ、如奴子を生け捕りにして千家余りを捕らえた。高句麗美川王は度々兵を派遣して遼東を襲撃したが、慕容廆は慕容翰・慕容仁に阻ませた。後に美川王が和睦を請うと、慕容翰らを撤退させた。

322年、慕容廆は嫡男の慕容皝を段部領の令支に侵攻させ、名馬や宝物を略奪した。だが、翌年には講和した。

323年、後趙の石勒が使者を派遣して慕容廆と同盟を求めたが、慕容廆は東晋を奉じていたのでこれを拒絶し、使者を捕えて東晋朝廷に送った。石勒はこれに激怒し、325年1月に宇文乞得亀を仲間に引き込んで慕容廆を攻撃させると、慕容廆は慕容皝・裴嶷・慕容仁に迎撃を命じた。宇文乞得亀は澆洛水に布陣すると、兄の宇文悉跋堆に慕容仁を攻めさせたが、慕容仁はこれを破って宇文悉跋堆を斬り殺し、慕容皝と共に宇文乞得亀を攻めて大勝した。この戦勝により重宝を尽く獲得し、鹵獲した畜産は百万を数え、数万の民が帰順した。

慕容廆は東晋の臣下として昇進を重ね、320年3月には監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じられ、2千戸を加増された。さらに321年12月には持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州に任じられ、遼東公に冊封された。また、丹書鉄券を下賜され、海東(勃海以東)の統治権を与えられ、正式に官僚を置く事を許された。326年には侍中を加えられて位は特進となり、330年には開府儀同三司を加えられたが、これについては固辞した。

慕容廆は次第に諸侯王の地位を欲するようになり、331年には東晋の太尉陶侃へ使者を派遣し、自らを燕王に封じて大将軍に任じるよう朝廷に働きかける様に要請したが、陶侃は遠回しにこれを拒絶した。333年5月、慕容廆は王位を得られぬまま病没した。

慕容仁の反乱[編集]

333年6月、後を継いだ慕容皝は東晋朝廷より平州刺史に任じられ、慕容廆の後任として認められ、部内の統治を命じられた。だが、慕容皝は庶兄の慕容翰・弟の慕容仁・慕容昭とかねてより不和を生じており、10月に慕容翰は禍を恐れて段部へ亡命してしまった。さらに11月、平郭にいる慕容仁は慕容皝の誅殺を目論んで密かに兵を挙げ、棘城内にいる慕容昭もまたこれに協力し、内から呼応する手はずとなった。だが、この謀略は事前に慕容皝に漏れ、慕容皝は慕容昭に自害を命じると共に、玄菟郡太守高詡・建武将軍慕容幼慕容稚・広威将軍慕容軍・寧遠将軍慕容汗らに兵5千を与えて慕容仁討伐を命じた。だが、討伐軍は汶城の北で慕容仁に敗れ、慕容幼・慕容稚・慕容軍らは捕らえられた。さらに、遼東では前の大司農孫機襄平県令王永らが遼東城を挙げて慕容仁に呼応したので、慕容仁は遼東の殆どを領有するようになり、段部の首領段遼鮮卑の諸部はみな慕容仁と結託した。334年4月には慕容仁は車騎将軍・平州刺史・遼東公を自称した。

334年8月、東晋朝廷は慕容皝を鎮軍大将軍・平州刺史・大単于に任じ、遼東公に封じ、持節・都督・承制封拝(百官の任用と爵位の授与の権限)は父の慕容廆と同一としたが、派遣された使者は向かう途上で慕容仁に拘束されてしまい、慕容皝の下に至るのは1年後となった。11月、慕容皝は遼東討伐の兵を挙げ、自ら軍を率いて襄平を陥落させた。居就県令劉程は降伏して城を明け渡し、新昌出身の張衡は県令を捕えて降伏した。こうして遼東を攻略すると、慕容仁が任じた守将を処断し、遼東の豪族を棘城に移住させ、和陽武次西楽の三県を設置してから帰還した。

336年1月、慕容皝は慕容仁討伐に向かうと、高詡の勧めにより凍結した海を進んで平郭城を奇襲した。慕容仁はその襲来を全く予想しておらず、大いに動揺した。慕容皝はこれを撃破してその身柄を抑えた。慕容皝は慕容仁を殺した後、軍を返した。こうして2年以上に渡って続いた反乱は鎮圧された。

段部・宇文部を圧倒[編集]

慕容皝は慕容仁と争っている最中も、宇文部・段部を始めとした諸部族との抗争に明け暮れていた。

334年1月、白狼には鮮卑族の木堤が、平岡山には烏桓悉羅侯が割拠していたが、司馬封奕・揚威将軍淑虞に討伐させた。さらに、材官将軍劉佩乙連にいる段部を攻めさせたが、これは失敗した。2月には段部は反攻に転じ、首領段遼が自ら徒河に襲来したが、慕容皝は張萌に迎撃させてこれを破った。段遼は再び軍を派遣して弟段蘭と慕容翰を柳城に侵攻させると、都尉石琮がこれを撃退した。だが、10日余りすると段蘭と慕容翰はまたも侵攻し、柳城を包囲した。慕容皝は寧遠将軍慕容汗と封奕らに千騎余りを与えて救援を命じたが、慕容汗は軽率に軍を進め、柳城の北にある牛尾谷で段蘭軍に大敗を喫した。柳城はこの間も攻撃を受け、段蘭は20日に渡って四方から昼夜問わず柳城を攻めたが、石琮は機を見て出撃して敵軍を大破し、首級千五百を挙げて段蘭を退却させた。

335年、封奕に命じて宇文別部の渉夜干を強襲させた。封奕は多くの資産を鹵獲し、さらに追撃を掛けて来た宇文部軍を返り討ちにした。

336年6月、段遼配下の李詠武興に夜襲を掛けたが、雨だったので途中で中止し、都尉張萌は退却中の李詠軍に追撃を掛けてこれを生け捕った。段蘭が数万を率いて曲水亭まで進んで柳城攻撃の準備を始めると、宇文部に首領宇文逸豆帰もまた安晋へ侵攻し、段蘭に呼応した。慕容皝が5万の兵を率いて柳城に進軍すると、段蘭も宇文逸豆帰も退却した。慕容皝は封奕に軽騎兵でもって追撃させ、兵糧や軍需物資を回収した。7月、段遼はまたも騎兵を率いて襲来すると、慕容皝はこれを予期して予め封奕を馬兜山に伏兵として配しており、共に段遼軍を挟撃して大いに撃ち破り。将軍栄保を討ち取った。9月、世子の慕容儁に段部の諸城を、封奕に宇文別部を攻めさせ、いずれも大勝を収めた。

337年3月、段部の本拠地である乙連城の東に好城を築き、将軍蘭勃を派遣して段部を威圧した。また、曲水にも城を築き、蘭勃を援護させた。乙連では飢饉が深刻となり、段遼は穀物を輸送しようとしたが、蘭勃はこれを奪い取った。段遼は将軍段屈雲に興国城を攻めさせると、慕容皝の子である慕容遵は五官水上でこれを撃ち破り、敗残兵を尽く捕虜とした。

建国期[編集]

前燕樹立[編集]

337年10月、封奕を始めとした群臣の勧めに従い、慕容皝は燕王に即位し、境内に恩赦を下した。これが前燕の建国である。封奕を相国韓寿司馬とし、陽騖李洪・宋該・石琮・皇甫真らを列卿将帥とした。文昌殿(道教の神仙である文昌帝君を祀る宮殿)を建立し、外出の際には金根車(皇帝の乗る車駕の一種)を六頭の馬で牽引させ、さらに警蹕(声を挙げて人払いをさせる事)を行わせた。また、妻の段氏を王后に、世子の慕容儁を太子に立てた。これらは全て魏の武帝曹操や、西晋の文帝司馬昭の故事に倣ったものであった。

後趙との抗争[編集]

338年1月、慕容皝は後趙石虎の下に使者を派遣し、称藩する代わりに段部を共に討つ事を持ち掛けると、石虎はこれに応じて兵を挙げた。3月、慕容皝もまた兵を挙げて令支以北の諸城を攻撃すると、迎撃に出た将軍段蘭に奇襲を掛けて大勝し、数千の首級を挙げ、五千戸余りを手に入れた。石虎が徐無まで侵攻すると、段遼は本基地の令支を放棄して逃亡し、石虎はそのまま令支を占拠した。こうして段部の勢力を散亡させる事に成功したが、慕容皝は石虎とは合流せずに軍を返してしまったので、石虎はこれを名目に前燕へ侵攻を開始した。5月、石虎襲来により郡県の諸部は多数寝返り、36の城が降伏した。本拠地の棘城には数十万の兵が四方から襲来し、10日余りに渡って威圧を掛けた。慕容皝は一度は城を捨てて退却しようと考えたが、慕輿根鞠彭らは十日余りに渡って決死の防戦を続け、後趙軍を退却させた。慕容皝は慕容恪に騎兵二千を与えて退却中の後趙軍に奇襲を掛け、散々に打ち破って三万を超える首級を挙げた。

12月、密雲山に逃れていた段遼が後趙へ降伏の使者を派遣すると、石虎は征東将軍麻秋に3万の兵を与えて段遼を迎えに行かせた。だが、段遼は密かに慕容皝とも通じており、慕容皝は麻秋を攻撃するため慕容恪を派遣した。慕容恪は七千の精鋭を率いて麻秋軍を奇襲し、大いに破って司馬陽裕・将軍鮮于亮を生け捕りにした。後趙軍は兵卒の六、七割方が戦死し、麻秋は馬を棄てて逃走し、慕容恪は段遼とその民を連れて帰還した。以後、段遼は前燕に仕えたが、後に謀叛を起こそうとしたので、慕容皝は配下の数十人と共に誅殺して首を後趙へと送った。

339年4月、前軍師慕容評・広威将軍慕容軍・折衝将軍慕輿根・蕩寇将軍慕輿泥は後趙の石成らが守る遼西を攻め、千家余りを引き連れて帰還した。石成らは追撃を掛けるも、慕容評は撃ち破り、呼延晃張支の首級を挙げた。その後、石成は前燕領の凡城を攻めたが失敗し、進路を変えて広城を攻め落とした。

11月、慕容皝は高句麗征伐に向かって新城まで軍を進めたが、故国原王が和平を請うと聞き入れて帰還させた。340年2月、故国原王の世子が人質として前燕へ入朝した。

10月、慕容皝は騎兵2万を率いて後趙へ侵攻し、西に進んで城を落とし、さらに高陽まで至った。進軍の途上で穀物を焼き払い、幽州・冀州から3万戸余りを引き連れてから帰還した。

東晋より追認[編集]

慕容皝は燕王を称してはいたものの、あくまで自称であり、東晋朝廷からは承認を得られていなかった。338年4月には東晋より使者が到来し、慕容皝は征北大将軍・幽州牧・領平州刺史・散騎常侍となって1万戸を加増され、持節・都督・単于・遼東公は以前通りであったが、燕王の称号については何も述べられなかった。10月、慕容皝は長史劉祥を建康に派遣して後趙を破った事の戦勝報告を行い、また王を名乗った事について申し開きを行った。さらに、共に大軍を興して中原を平定しようと請うた。340年1月、慕容皝は東晋へ上表し、外戚の庾冰庾翼を重用しないよう述べ、庾冰にも書を送って分を弁えるよう固く忠告した。庾冰は慕容皝の存在を大いに恐れ、何充らと共に燕王の称号を認める様に上奏した。

341年1月、慕容皝は陽裕・唐柱らに命じて柳城の北に城を築かせ、宗廟と宮殿を建てて龍城と名付けた。また、柳城県を龍城県と改めた。

2月、東晋朝廷は大鴻臚郭希に節を持たせて前燕へ派遣し、慕容皝を侍中・大都督・河北諸軍事・大将軍に任じ、燕王に封じた。こうして、自称であった燕王の地位は正式なものとなった。その他の官爵は以前通りとされた。また、功臣百人余りが爵位を下賜された。

342年10月、慕容皝は棘城から龍城に遷都した。

諸勢力併呑[編集]

かつて、庶兄の慕容翰は慕容皝と不和を生じて段部に亡命したが、段部が滅ぼされると宇文部に逃れていた。340年2月に慕容翰が前燕に帰還を果たすと、慕容皝は大いに喜び、以来彼を厚く恩遇するようになった。

342年11月、慕容翰と謀議し、高句麗征伐を決断した。慕容翰の献策に従い、慕容皝自らは四万の兵を率い、慕容翰・慕容覇を先鋒として敢えて険阻である南道より奇襲を仕掛け、長史王寓には一万五千を与えて広い北道を進ませた。高句麗の故国原王は北道が主力軍であると思い込んでおり、弟へ五万の精鋭兵を与えて北道を防衛させ、自らは残った弱兵を率いて南道へ出た。前燕軍は慕容翰・鮮于亮らの奮戦により、南道の高句麗軍を大破し、勝ちに乗じて丸都へ突入した。故国原王は単騎で逃亡し、慕容皝は故国原王の父である美川王の墓を暴いて屍を奪い、さらに母妻や珍宝を奪った。さらに男女五万人を捕虜とし、宮殿を焼き払って丸都を破壊すると帰国した。343年2月、故国原王は弟を慕容皝の下へと派遣し、臣下となって貢物を献上することを約束した。これにより美川王の屍を返還してやったが、母の周氏は人質として留め置いた。

同月、宇文部の相莫浅渾が前燕を攻めたが、慕容皝は一切迎撃しなかったので、莫浅渾は敵が恐れていると思い、警備を全くしなくなった。慕容皝はこれを見て慕容翰へ出撃を命じ、慕容翰はこれを散々に打ち破り、兵卒の大半を捕らえた。

344年1月、慕容皝は宇文部討伐の兵を興し、慕容翰を前鋒将軍として副将を劉佩とした。さらに慕容軍・慕容恪・慕容覇・慕輿根にも兵を与え、三道より進軍させた。宇文部の首領宇文逸豆帰は南羅大の渉夜干に精鋭兵を与えて慕容翰を攻撃させたが、慕容翰は慕容覇と共にこれを破り、渉夜干を討ち取った。宇文部の兵はこれを大いに恐れ、戦わずして逃潰してしまった。前燕軍は勝ちに乗じて進撃し、遂に都城を攻略した。宇文逸豆帰は逃げ出し、漠北にて亡くなった。こうして、宇文部は滅亡し、慕容皝は五千戸を超える住民を昌黎へ強制移住させ、渉夜干の居城を威徳城と改名した。この戦勝で前燕は領土を千里以上広げ、中国の東北方面に確固たる地盤を築いた。

10月、慕容恪が高句麗の南蘇を攻め、これを陥落させた。その後、守備兵を置いてから帰還した。

346年1月、慕容皝は世子の慕容儁と慕容恪に騎兵一万七千を与えて、夫余の討伐に向かわせた。この戦いで夫余を滅ぼし、夫余王の玄王と部落5万人余りを捕虜として連行し、慕容皝の娘を玄王に娶らせた。

慕容皝の治世[編集]

345年、慕容皝は境内に大赦を下し、龍城に宮殿を新たに作ると、和龍と名付けた。この時期、旱魃が続いたので、百姓に租税を返還した。慕容皝は漢族の流民を積極的に受け入れ、前燕は人口が増えて大いに発展した。

かつての宮殿の東に学び舎を建てると、大臣の子弟を官学生とし、一般の者からも才覚有る者を取り立てた。慕容皝自身も書物を好んでいたので、自ら『太上章』を著して『急就篇』に取って代わらせ、さらに『典誡』十五篇を著して宗族諸子の教科書とした。また、自ら講義する事もあり、学生の試験にも自ら臨み、その中で経書に精通した者を近侍として抜擢した。次第に学生の数は多くなり、遂に千人余りに達した。

348年9月、慕容皝は狩猟の最中に馬から転倒して重傷を負い、乗輿に乗って宮殿に戻ると、嫡男の慕容儁を呼び寄せて後事を託した。その後、しばらくして亡くなった。

全盛期[編集]

中原へ進出[編集]

348年11月、慕容儁が燕王の位を継ぎ、元年と改元すると、境内に大赦を下した。

349年4月、東晋穆帝は前燕へ使者を派遣し、慕容儁を使持節・侍中大都督・河北諸軍事・幽冀并平四州牧・大将軍・大単于に任じ、燕王に封じ、慕容廆・慕容皝の後継として承認した。

350年2月、後趙の大将軍冉閔は後趙の皇族を虐殺すると、自らで帝位に即いて国号を「大魏」と定めた。この混乱を好機と見た慕容儁は三軍を率いて征伐を決行した。前鋒都督慕容覇が三徑まで到達すると、安楽の守将鄧恒は逃亡して後趙の幽州刺史王午の守る薊城を頼ったので、慕容覇(慕容垂)は安楽を占領して北平の兵糧を確保した。3月、慕容儁は無終へと軍を進めると、王午と鄧恒は魯口まで逃亡し、将軍王佗に数千の兵を与えて薊城を守らせた。慕容儁は薊城を攻め落として王佗を処断すると、薊城を攻略の拠点とした。これ以降、中原の民は次々と彼の下に集うようになった。前燕軍は次いで范陽を攻め落とすと、さらに魯口へ侵攻した。清梁まで進撃した時、鄧恒配下の将軍鹿勃早より夜襲を受けたが、慕容覇は奮戦してこれを阻んだ。さらに、慕輿根は内史李洪と共に鹿勃早を撃破し、追撃を掛けて数千の兵をほぼ全滅させた。慕容儁は勝利を収めたものの、敵が未だ強勢であると判断し、薊まで一時撤退した。

9月、冀州へ進んで章武河間を攻略した。また、慕容評を勃海へ派遣し、数千の兵を伴って高城を保っていた賈堅を降した。慕容儁は賈堅を楽陵郡太守に任じ、引き続き高城の統治を任せた。

当時、襄国では後趙の残党である石祗が帝位に即いて冉閔に対抗していたが、冉閔は10万の兵で襄国を包囲していた。351年2月、石祗は張挙伝国璽を持たせて前燕へ派遣し、救援を求めた。慕容儁はこれを容れ、禦難将軍悦綰に兵3万を与えて救援に向かわせた。3月、悦綰は冉魏軍に迫ると、同じく救援に到来した姚弋仲の子姚襄・後趙の汝陰王石琨と共に三方から攻撃し、さらに石祗は後方から撃った。これにより冉魏軍は大敗を喫し、戦死者は10万人を超えた。

4月、慕容儁は封奕に冉魏の勃海郡太守逄約討伐を命じ、昌黎郡太守高開に冉魏の幽州刺史劉準と豪族の封放討伐を命じた。封奕は使者を派遣して会見を求め、これに応じた逄約を不意打ちで捕らえた。高開は勃海へ到達すると、劉準・封放はいずれも降伏して彼を迎え入れた。慕容儁は封放を勃海郡太守に、劉準を左司馬に、逄約を参軍事に任じた。だが、逄約は勃海へ逃亡すると、11月にかつての部下をかき集めて再び前燕へ反旗を翻した。賈堅は使者を派遣して利害を説くと、彼の部下は次第に離散し、進退窮まった逄約は東晋へ亡命した。

8月、慕容恪は中山へ侵攻し、中山郡太守侯龕と趙郡太守李邽を降伏させた。慕容評は魯口の王午を攻め、迎撃に出てきた将軍鄭生を撃破し、その首級を挙げた。

冉魏を滅ぼす[編集]

352年1月、冉閔は襄国を攻略し、石祗を殺害して皇帝を称していた劉顕を討伐した。また、後趙の立義将軍であった段勤は冉閔の乱に乗じ、胡人数万を従えて繹幕に割拠すると、趙帝を称した。

4月、慕容儁は慕容覇らを繹慕に派遣して段勤を攻撃させ、さらに慕容恪・封奕・参軍高開らに冉魏討伐を命じた。慕容儁自らは中山に軍を進めて、両軍の後援となった。慕容恪は魏昌の廉台において冉閔と交戦すると、大いに苦しめられたものの、敢えて敗れた振りをして本陣に誘い込み、これを挟撃して大いに破った。これにより、冉閔を捕らえて皆、薊へ送った。その後、慕容恪は冉魏の将軍蘇亥より攻撃を受けたが、返り討ちにして配下の金光を討ち取り、蘇亥を并州へ敗走させた。やがて冉閔の身柄が薊に到着すると、慕容儁は境内に大赦を下した。慕容儁は冉閔を三百回に渡り鞭打ち、その後龍城へ送ると、翌月に処刑した。

同時期、慕容覇もまた繹幕へ進出すると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。

同月、慕容評と中尉侯龕に精鋭騎兵1万を与え、冉魏の本拠地である鄴を包囲させた。冉魏の大将軍蒋幹皇太子冉智は籠城して徹底抗戦の構えを見せたが、城外の兵は尽く慕容評に降伏した。5月、兵糧攻めにより鄴城内では食糧が欠乏し、窮した蒋幹は東晋に称藩して援軍を要請した。これを聞いた慕容儁は広威将軍慕容軍・殿中将軍慕輿根・右司馬皇甫真らに2万の兵を与え、慕容評に加勢させた。6月、東晋の将軍戴施が救援に到来すると、蒋幹は精鋭五千と東晋の兵を率いて城から出撃したが、慕容評はこれを撃破して4千の首級を挙げた。蒋幹は鄴城へ逃げ戻った。

8月、冉魏の長水校尉馬願らは城門を開いて前燕軍を招き入れ、戴施と蒋幹は倉垣へ逃走した。慕容評は董皇后・皇太子冉智・太尉申鍾司空條枚らを捕らえ、乗輿・服御と共に薊へ送った。慕容儁は事業の神格化を図る為、董皇后が伝国璽を献上したと嘘の宣言を行い、董皇后を贈璽君に封じ、冉智を海賓候に封じ、申鍾を大将軍右長史に任じた。354年9月、黄門侍郎宋斌らが冉智を盟主として謀反を為そうとしているとある者が密告したので、慕容儁は彼らを誅殺した。

皇帝に即位[編集]

352年11月、前燕の群臣が再び慕容儁へ帝位に即くよう勧めると、慕容儁はこれに同意した。また、前燕の歴史で始めて百官を設置し、国相封奕を太尉に、慕容恪を侍中に、左長史陽騖を尚書令に、右司馬皇甫真を尚書左僕射に、典書令張希を右僕射に、宋活(宋晃)を中書監に、韓恒中書令に任じ、他の官員も各々功績に応じて官爵を授けた。

その後、慕容儁は日を選んで皇帝位へ即くと、境内に大赦を下した。伝国璽を得た事を大義名分(実際には偽物であった)とし、年号を元璽と改元した。これにより、東晋との従属関係は終わりを告げた。

353年2月、夫人の可足渾氏を皇后に、世子の慕容曄を皇太子に立て、龍城から薊城へ正式に遷都した。354年4月、前燕の皇族を各々諸侯王に封じ、慕容恪を大司馬・侍中・大都督・録尚書事に、慕容評を司徒・驃騎将軍に、陽騖を司空・尚書令に任じた。

魯口攻略[編集]

352年8月、慕容恪・封奕・陽騖に兵を与え、安国王を称して魯口に割拠する王午の討伐に向かわせた。慕容恪らが王午軍を撃ち破ると、王午は籠城を図ると共に冉操を前燕軍へ送った。その為、慕容恪らは城外の食糧を略奪して兵糧攻めを取った。慕容恪らは安平に陣を布き、兵糧を蓄えて魯口攻略の準備を整えていたが、中山出身の蘇林が無極にて挙兵し、天子と自称した。慕容恪は蘇林討伐の為に魯口から引き返すと、慕容儁は慕輿根を援軍として派遣し、共に蘇林軍を攻撃させ、これを斬り殺した。同じ時期、王午は配下の将軍秦興に殺され、その秦興も呂護に殺された。呂護は安国王と自称し魯口を守った。

353年3月、常山の李犢が数千の兵を集めると、前燕に反旗を翻して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容儁は李犢の討伐を慕容恪に命じると、慕容恪はすぐさまこれを降伏させ、さらに東へ進んで魯口の呂護討伐に向かった。

354年2月、慕容恪は魯口を包囲した。3月、呂護は野王へと逃走を図ったが、前軍将軍悦綰が追撃してこれを捕らえた。呂護は弟を派遣して前燕に謝罪し、慕容儁はこれを許して河内郡太守に任じ、野王の統治を認めた。

広固攻略[編集]

段部の首領である段龕は冉閔の乱が起こった際、混乱に乗じて令支から兵を率いて南下を開始し、東の広固に拠点を構え、勢力を大きく広げていた。段龕は自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れて鎮北将軍に任じられていた。

354年10月、段龕は慕容儁に書簡を送り、皇帝に即位したことを強く非難したた。11月、激怒した慕容儁は慕容恪に段龕討伐を命じ、陽騖・慕容塵を随行させた。356年1月、慕容恪が広固に逼迫すると、段龕は兵三万を率いて淄水で迎え撃ったが、慕容恪はこれを大破して弟の段欽を捕らえ、兵のほとんどを捕虜とした。そのまま軍を進め、広固を包囲した。2月、慕容恪は長期戦の構えを取ると共に、段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らを帰順させた。慕容恪は王騰に今まで通りの職務を任せ、陽都を鎮守させた。8月、段龕は東晋に救援を要請し、穆帝はこれに応じて北中郎将・徐州刺史荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪に至った所で進軍を止めた。この時、王騰が鄄城に進攻していたが、荀羨はその隙を突いて陽都を攻め、長雨に乗じてこれを攻略し、王騰の首級を挙げた。慕容恪が糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は城から打って出たが、慕容恪は囲里においてこれを破った。段龕は退却を図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配しており、散々に打ち破った。段龕自身はかろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。これにより城中の士気は激減した。11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭した。慕容儁は段龕を許して伏順将軍に任じ、斉の地に住まう鮮卑や羯族三千戸余りを薊に移住させた。荀羨は段龕の敗北を知ると下邳に撤退したが、汴城を守備していた前燕の将軍慕容蘭は荀羨を攻め、これを討ち取った。

後趙残党の掃討[編集]

357年5月、撫軍将軍慕容垂・中軍将軍慕容虔・護軍将軍平熙に歩兵騎兵合わせて8万を与え、塞北に拠っている丁零討伐に向かわせた。慕容垂らはこれを大破し、討ち取るか捕らえた者は10万余りを数え、13万匹の馬を鹵獲し、牛羊は億万を数えた。

後趙の配下であった李歴・張平・高昌・馮鴦らは各々前燕に帰順していたが、同時に前秦・東晋にも称藩して爵位を授かっていおり、事実上自立していた。特に張平は新興・雁門・西河・太原・上党・上郡を領有し、城砦は300を超え、10万戸余りを従えて前秦・前燕に匹敵する第3勢力となっていた。

358年2月、上党の馮鴦が前燕に反旗を翻すと、司徒慕容評に討伐を命じたが、慕容評はなかなか攻め下せずにいた。3月、慕容儁は領軍将軍慕輿根に慕容評の加勢を命じた。慕輿根が慕容評と共に急攻を決行すると、馮鴦はその配下との間に互いに疑いを生じ、上党を放棄して野王の呂護を頼り、その兵は皆降伏した。

9月、慕容儁は慕容評に并州の張平討伐を、司空陽騖に東燕の高昌討伐を、楽安王慕容臧に濮の李歴の討伐をそれぞれ命じた。陽騖は黎陽において高昌の別軍を攻めたが、攻略出来なかった。慕容臧は李歴を撃破し、李歴は滎陽に逃走してその配下はみな降伏した。慕容評が并州に進むと、100を超える城砦が降伏した。また、張平配下の征西将軍諸葛驤・鎮北将軍蘇象・寧東将軍喬庶・鎮南将軍石賢らは138の城砦を明け渡して慕容儁に帰順した。慕容儁は大いに喜び、みな元の官爵のまま職務に当たらせた。また、尚書右僕射悦綰を安西将軍・領護匈奴中郎将・并州刺史に任じ、降伏した城砦の慰撫に当たらせた。張平は三千の兵を率いて平陽へ逃走した。

359年7月、高昌は遂に前燕の攻勢に抗しきれなくなり、城を棄てて白馬から滎陽へ逃走した。

361年9月、并州に割拠する張平が平陽を攻撃すると、前燕の将軍段剛・韓苞が討ち取られた。さらに雁門も攻撃を受け、雁門郡太守単男は討死した。その後、張平は前秦から攻撃を受けると、前燕に謝罪して救援を請うたが、慕容暐は張平が離反を繰り返していたので、救援を送らなかった。遂に、張平は敗れて殺された。

東晋との戦い[編集]

358年10月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が東郡を攻撃し、武陽へ侵入した。慕容儁は慕容恪に迎撃を命じ、陽騖と慕容臧も従軍させた。慕容恪は諸葛攸を敗走させると、そのまま軍を進めて河南を攻略し、守宰を置いて帰還した。

359年、東晋の徐兗二州刺史荀羨が山茌を攻撃すると、泰山郡太守賈堅は奮戦するも生け捕りとなり、やがて憤死した。青州刺史慕容塵は司馬悦明を救援に派遣し、荀羨を大敗させて山茌を奪還した。

8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕を攻め、石門より侵入して黄河の小島に駐屯した。慕容儁は傅顔と慕容評に5万の歩兵・騎兵を与えて迎撃を命じ、傅顔らは東阿において諸葛攸を大敗させた。

10月、東晋は下蔡にいる将軍謝万と高平にいる郗曇に前燕討伐を命じた。だが、郗曇は病を理由に彭城へ撤退してしまい、謝万もまた前燕軍の盛いを恐れ、守備を放棄して帰還してしまった。これにより許昌・潁川・譙・沛の諸城は尽く前燕が領有するようになった。

前秦・東晋征伐を目論む[編集]

357年2月、前年度に皇太子の慕容曄が早世した事に伴い、嫡次子の慕容暐を皇太子に立て、境内に恩赦を下し、光寿元年と改元した。

12月、鄴へ遷都を行い、境内に大赦を下した。また、宮殿を修繕し、銅雀台を修復させた。

358年12月、慕容儁は前秦・東晋の併呑を目論むようになり、歩兵を150万まで増員して来春には鄴に集結させようとした。だが、百姓の負担になるとして武邑出身の劉貴が固く諫めると、慕容儁は戦の準備期間を1年伸ばし、翌年の冬に鄴に集結させるようにした。

慕容儁は顕賢里に小学を建て、王侯貴族の子らに学問を学ばせた。そして、問老年で病気に苦しんでいる者や、身寄りが無く生活の苦しい者を調査させ、穀帛を下賜した。

この時期、各地で盗賊が蜂起し、連日に渡って朝夕問わずに断続的に攻勢に晒された。慕容儁は賦税を緩和し、特別に禁令を設け、賊の情報を密告した者には奉車都尉を下賜すると発布した。これにより賊の首領である木穀和ら百人余りを捕らえる事に成功し、その首を刎ねた。

360年1月、前年より徴兵していた郡国の兵は予定通り鄴都に集結すると、慕容儁は大々的に閲兵を行い、大司馬慕容恪・司空陽騖に命じて征伐を敢行させようとした。だが、慕容儁は昨年より病に罹っており、ここにきて病状が悪化してしまい、取りやめとなった。死期を悟った慕容儁は、慕容恪・陽騖・慕容評・慕輿根らに輔政を委ねる遺詔を遺すと、やがて崩御した。嫡男の慕容暐が皇位を継承した。

慕輿根の乱[編集]

数日後、慕容暐は帝位に即くと、境内に大赦を下し、建熙と改元した。

2月、実母の可足渾氏を皇太后に立てた。また、慕容恪を太宰録尚書事に任じて朝政を主管させ、慕容評を太傅に、陽騖を太保に、慕輿根を太師に任じて朝政を輔佐させた。可足渾氏もまた政治に参画した。

慕輿根は密かに政権掌握を目論んでおり、まずは国を乱そうと考えて慕容恪へ向け、慕容暐と可足渾氏を排斥して自ら帝位に即くよう勧めたが、慕容恪は容れなかった。そのため、今度は慕容恪と慕容評の誅殺を考え、武衛将軍慕輿干と共に密かに謀略を練り、慕容暐と可足渾氏へ、慕容恪らが謀反を企てていると言上した。可足渾氏はこれに従おうとしたが、慕容暐は慕輿根の発言を疑ったので取りやめとなった。慕容恪と慕容評は密かに慕輿根の罪を奏上すると、侍中皇甫真・護軍傅顔に命じて慕輿根とその妻子・郎党を捕らえさせ、禁中で処断した。その後、大赦を下した。

野王攻略[編集]

361年2月、野王に割拠している河内郡太守呂護は密かに東晋へ帰順して前将軍冀州刺史に任じられ、東晋軍を招き入れて鄴の強襲を目論んだ。3月、このことが露見すると、慕容暐は慕容恪に5万の兵を与えて呂護討伐を命じ、皇甫真・傅顔も従軍させた。慕容恪は野王に到着すると、城を包囲して長期戦の構えを取った。

8月、数か月にわたる包囲により追い詰められた呂護は、配下の張興に精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興を討ち取った。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を掛けるも突破できず、慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛け、呂護を滎陽へ逃走させた。呂護の兵を鄴へ連行し、参軍梁琛を中書著作郎に抜擢した。

10月、呂護は再び前燕に帰順した。慕容暐はこれを認め、広州刺史に任じて以前通りに遇した。

洛陽制圧[編集]

362年1月、慕容暐は当時東晋の占領下にあった洛陽攻略を目論み、傅顔・呂護に兵を与えて河陰へ派遣した。傅顔らは勅勒を襲撃して大戦果を挙げた。2月、呂護は洛陽攻撃を開始した。3月、河南郡太守戴施は大いに恐れてへ逃走し、冠軍将軍陳祐は朝廷へ救援を要請した。5月、東晋の大司馬桓温は北中郎将庾希竟陵郡太守鄧遐に3千の水軍を与えて洛陽救援に向かわせた。

7月、救援軍の到来により、呂護は小平津まで軍を退いたが、流れ矢に当たって戦死した。

363年4月、慕容暐は寧東将軍慕容忠滎陽攻略を命じ、慕容忠は滎陽郡太守劉遠を魯陽へ逃走させた。5月、前燕軍が密城を攻略すると、劉遠はさらに江陵まで逃れた。

364年2月、慕容評と龍驤将軍李洪を河南へ侵攻させた。4月、李洪らは許昌・汝南を攻めて東晋軍を幾度も破り、潁川郡太守李福を戦死させた。朱斌は寿春へ逃走し、陳郡太守朱輔は彭城まで退却した。桓温は袁真を派遣して李洪を防がせ、自らは水軍を率いて合肥まで進出した。李洪は許昌・懸瓠・陳城を尽く攻め落とし、さらには汝南諸郡を制圧すると、1万戸余りを幽州・冀州に移らせた。

9月、洛陽の兵糧が尽きて援護も断たれると、陳祐は500人だけを冠軍長史沈勁に預けて洛陽を守らせ、逃走してしまった。これにより河南の諸々の砦は、全て前燕に降った。

365年2月、慕容恪は慕容垂と共に洛陽を攻撃した。3月、慕容恪は洛陽を陥落させ、沈勁の首級を挙げた。慕容恪は余勢を駆って西進して崤澠まで軍を進めると、前秦は大いに震え上がった。前秦君主苻堅は自ら陜城へ出向き、その侵攻に備えた。慕容暐は左中郎将慕容筑を仮節・征虜将軍・洛州刺史に任じて、洛陽を守らせた。また、慕容垂を都督荊揚洛徐豫雍益梁秦等十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任じ、兵1万を与えて魯陽を鎮守させた。

366年10月、撫軍将軍慕容厲に東晋の泰山郡太守諸葛攸を攻撃させた。慕容厲は諸葛攸を淮南へ退却させ、兗州の諸郡を陥落させると、守宰を置いて帰還した。12月、東晋の南陽督護趙億が宛ごと前燕へ帰順し、太守桓澹新野へ逃走した。これを受けて慕容暐は、南中郎将趙盤を魯陽から宛に移らせ、守備を命じた。367年2月、慕容厲は鎮北将軍慕容桓と共に漢南の勅勒を撃った。4月、慕容塵は竟陵へ侵攻したが、東晋の竟陵郡太守羅崇に撃ち破られた。東晋の右将軍桓豁は竟陵郡太守羅崇と共に宛に侵攻し、これを陥落させた。趙億は逃亡し、趙盤は魯陽へと退却した。桓豁は軽騎兵で趙盤を追撃させ、雉城で趙盤軍は追いつかれて潰滅させられた。趙盤は捕縛され、桓豁は宛に守備を配置してから帰還した。

衰退期[編集]

慕容評の執政[編集]

367年5月、慕容恪は病により亡くなった。これ以降、慕容評と可足渾皇太后が国政を担うようになった。慕容恪は賢人でよく慕容暐を補佐しながら前燕の勢力を徐々に南方に拡大させて全盛期を築き上げたが、彼の死により前燕は急速に弱体化の一途をたどる事となる。

7月、慕容厲らは勅勒を撃ち破り、牛馬数万頭を鹵獲した。だが、慕容厲は勅勒を討つために代国の国境を通った際、農地を荒らしたので、拓跋什翼犍の怒りを買ってしまった。8月、拓跋什翼犍は幽州軍を率いて雲中にいた平北将軍慕容泥を攻撃した。慕容泥は城を捨てて逃走し、振威将軍慕輿賀辛は戦死した。

368年、前年より前秦の晋公苻柳蒲坂で、趙公苻双上邽で、魏公苻廋陜城で、燕公苻武安定で、それぞれ苻堅に対する反乱を起こしており、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前秦は前燕の襲来を大いに警戒し、華陰に精兵を配した。前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして慕容暐へ出兵を請うたが、慕容評の猛反対に遭い果たせなかった。結局、反乱は王猛鄧羌張蚝楊安王鑒によって同年のうちに鎮圧された。

9月、太傅慕容評の執政以降、王侯貴族らが密かに多くの戸籍を隠し持つようになっていたので、慕容暐は僕射悦綰へこれらの摘発に専従させた。悦綰は事実を究明して厳格に摘発したので、公民を20万戸増員することが出来たが、慕容評を始めとした朝士はこれに大いに憤り、11月に慕容評の派遣した賊によって悦綰は暗殺された。

桓温の北伐[編集]

369年4月、東晋の大司馬桓温が江州刺史・南中郎桓沖、豫州刺史・西中郎袁真らを従え、5万を率いて前燕へ侵攻した。

6月、桓温は建威将軍檀玄湖陸を攻撃させ、これを陥落させて寧東将軍慕容忠を捕らえた。慕容暐は慕容厲に2万の兵を与えて迎撃させたが、慕容厲は黄墟で大敗を喫し、前燕の高平郡太守徐翻は郡ごと桓温に降伏した。さらに、桓温は鄧遐と朱序を林渚に派遣して前燕の将軍傅顔を破った。慕容暐はさらに楽安王慕容臧に迎撃させたが、桓温はこれも返り討ちにした。

7月、桓温は武陽に駐屯すると、前燕の元兗州刺史孫元が一族郎党を率いて桓温に呼応した。桓温はさらに枋頭まで進むと、慕容暐は慕容臧に代わって呉王慕容垂を総大将とし、征南将軍慕容徳・司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰を配下に付け、5万の兵を与えて桓温を防がせた。また、前秦へ虎牢以西の地を割譲する事を条件に、改めて援軍を要請した。8月、前秦は要請に応じ、将軍苟池・洛州刺史鄧羌へ2万の兵を与えて、洛陽から潁川へ派遣した。

悉羅騰は桓温配下の段思を攻撃して捕らえ、さらに虎賁中郎将染干津を派遣して、魏・趙方面へ侵攻していた李述を撃破して桓温の士気を削いだ。桓温は石門を開いて水運を通すため、袁真を譙梁攻略に向かわせたが、袁真はこれに失敗したので、次第に東晋軍の兵糧が底を突き始めた。

9月、慕容徳は蘭台治書侍御史劉当と共に1万5千の兵で石門に駐屯し、豫州刺史李邽は五千の兵で桓温の糧道を断った。また、慕容徳軍の先鋒慕容宙は東晋軍を誘き入れて伏兵を用いて大いに破った。

兵糧が不足しているのに加え、前秦から援軍が到来しているとの報を受けたので、桓温は舟を焼き払い、輜重や武具を放棄して陸路で退却を始めた。慕容垂は桓温軍に追撃を掛け、慕容徳と共に襄邑で挟撃して3万を討ち取った。前秦の将軍苟池も焦において桓温軍を攻撃し、桓温軍は1万の被害を受けた。こうして桓温の撃退に成功した。これ以降、前燕と前秦は修好を結ぶようになり、たびたび使者が往来するようになった。

腐敗政治の展開[編集]

桓温を撃退した事により、慕容垂の威名は大いに轟くようになり、慕容評は彼を忌避するようになった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を嫌っており、今回の戦功を不当に引き下げた。さらには慕容評と共に慕容垂誅殺を謀るようになった。その為、11月に慕容垂は難を避けて前秦に亡命した。

同月、前秦へ使者として派遣されていた給事黄門侍郎梁琛が鄴に帰還すると、梁琛は慕容暐と慕容評へ、洛陽・太原・壷関の守備を固めて前秦へ備える様に上疎したが、慕容評は一切取り合わず、軍備を増強しなかった。

当時、連年にわたり兵難が続き、国力は大いに疲弊した。また、皇太后可足渾氏は国政を乱し、慕容評は財貨を貪って飽くことが無かった。そのため、朝廷でも賄賂は横行し、官吏の推挙も賄賂によって決まったので、下々には怨嗟の声が溜まった。尚書左丞申紹はこの状況を憂えて、守宰の人選見直しと官吏の削減、また経費の節減と官吏への正しい賞罰を行うよう慕容暐へ上疏したが、聞き入れられなかった。

滅亡期[編集]

洛陽失陥[編集]

慕容暐は以前、虎牢以西の地を前秦へ割譲する約束をしたが、東晋軍が退却するとその土地を惜しんで約束を反故にした。苻堅はこれに激怒し、輔国将軍王猛・建威将軍梁成・洛州刺史鄧羌に3万の兵を与え、前燕へ侵攻させた。12月、前秦軍は洛州刺史慕容筑が守る洛陽に攻め込んだ。

370年1月、慕容暐は衛大将軍慕容臧に精鋭10万を与えて洛陽救援に向かわせたが、慕容筑は戦意喪失して洛陽を明け渡してしまった。慕容臧は石門において前秦軍を撃破して将軍楊猛を捕らえたが、王猛配下の梁成らの奇襲に遭い、滎陽において大敗を喫した。

慕容令の乱[編集]

慕容垂の子である慕容令は父と共に前秦に亡命していたが、単独で逃げ戻って来た。だが、慕容垂は未だに前秦で厚遇されていたので、慕容暐は彼を疑い、龍城の東北六百里にある沙城へ移させた。370年5月、誅殺を恐れた慕容令は数千の兵を擁して決起して牙門孟媯を殺害すると、城大の渉圭は大いに恐れて降伏し、慕容令はこれを側近とした。反乱軍はそのまま東方にある威徳城を襲撃し、城郎の慕容倉を殺害すると、威徳城を拠点とした。また、東西の諸砦へ檄文を発すると、大半がこれに呼応した。勢力を増大させた慕容令らは次いで龍城を襲撃すると、龍城の守将である勃海王慕容亮は城門を閉じて籠城した。ここで渉圭が寝返り、護衛兵を指揮して慕容令を攻撃したので、慕容令は単騎で逃げ、その配下は壊滅した。渉圭は慕容令を追撃し、遂に捕らえてこれを殺した。

前秦に敗北[編集]

苻堅は王猛を総大将に任じ、楊安・張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて、前燕討伐に向かわせた。

8月、王猛襲来の報が鄴に届くと、慕容暐は太傅慕容評に40万を超える兵を与えて救援を命じたが、慕容評は王猛を恐れ、潞川に軍を留めてそれ以上進まなかった。同月、王猛は壷関を陥落させ、前燕の上党郡太守慕容越を生け捕った。これにより、王猛軍が進んだ先の郡県は全て降伏し、前燕の民は震え上がった。9月、王猛は晋陽に進むと、張蚝に命じて地下道を掘らせて城内へ進入させ、城門を内から開いた。これを合図に王猛は楊安と共に城内に突入し、并州刺史慕容荘は捕えられた。10月、王猛は潞川に進軍して慕容評と対峙した。慕容評はこのような状況下でも山水資源を軍人へ売って銭を稼ぐ有様であり、王猛は游撃将軍郭慶に夜闇に乗じて間道から敵陣営の背後に回らせ、山の傍から火を放った。この火計により、慕容評軍の輜重は焼き尽くされた。この火は、鄴からも見える程凄まじかったと言う。さらに、王猛は渭原に布陣すると、鄧羌・張蚝・徐成らを慕容評の陣営へ突撃させた。慕容評はこれに抗しきれず、大敗を喫して5万を超える将兵を1日で失った。王猛はこの勝利に乗じてさらに追撃を掛けると、捕虜や戦死者の数は10万に上った。王猛はそのまま軍を進めると、遂に鄴を包囲した。11月、苻堅は自ら精鋭10万を率いて王猛と合流し、鄴の攻撃を開始した。前燕の散騎侍郎余蔚は反旗を翻して夫余・高句麗及び上党の民五百人余りを率い、鄴の北門を開けて前秦兵を招き入れた。これを聞いた慕容暐は急ぎ城を飛び出し、慕容評・慕容臧・慕容淵・左衛将軍孟高・殿中将軍艾朗らもまた城から逃亡して龍城へ向かった。苻堅は郭慶に追撃を命じ、郭慶は高陽で慕容暐を捕らえ、苻堅の下へと護送した。

郭慶は残党の追撃を続けて龍城まで進み、慕容評を捕らえて慕容桓を討ち取った。これにより、諸州の牧・守・六夷の軍などは尽く前秦へ降伏した。占領した領土は157郡、246万戸、999万人に及んだ。前燕の宮人や珍宝は褒賞として、前秦の将士に分け与えられた。

12月、慕容暐は前燕の后妃・王公・百官らと共に長安へ連行され、新興侯に封じられた。

その後、慕容暐は前秦に仕え、襄陽や寿春の攻略戦にも従軍したが、苻堅の暗殺を図った事により、宗族と共に殺害された。間もなく、叔父の慕容垂は後燕を、弟の慕容沖は西燕を建国する事となる。

国家体制と国勢[編集]

前燕は、華北の争乱により発生した漢人の流民や在地の漢人を積極的に受け入れることで官僚機構を構築、さらに中原の進んだ農耕技術や文化を導入して独自の政権を形成した[1]。また慕容暐の時代には太宰・太傅・太保・太師・太尉・大司馬・司徒・司空の八公を頂点とする中央の支配機構が構築され[2]、以後名実共に中国王朝化していった。

人口に関しては次の統計がある。中華統一を目指した慕容儁は歩兵150万人の徴兵を図っている(ただし慕容儁の急死で頓挫)[2]。また前秦が前燕を滅ぼした際に入手した前燕の戸籍によると、370年の前燕の人口は998万7935だったと記録されている[3]、これらの統計から、仮に王朝末期の争乱で多大の戦災者が出ていたとしても、前燕の全盛期における人口は1000万を猶に超えたであろうことは想像に難くない。

前燕の歴代君主[編集]

  1. 慕容廆…慕容儁が帝位に即くと、高祖宣武皇帝と追号された。
  2. 慕容皝(燕王:337年 - 348年)… 慕容儁が帝位に即くと、太祖文明皇帝と追号された。
  3. 慕容儁(燕王:348年 - 352年、皇帝:352年 - 360年)… 慕容暐が帝位に即くと、烈祖景昭皇帝と追号された。
  4. 慕容暐(皇帝:360年 - 370年)… 慕容徳が南燕を興すと、幽皇帝と追号された。

元号[編集]

  1. 元璽352年 - 357年
  2. 光寿(357年 - 360年
  3. 建熙(360年 - 370年

脚注[編集]

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  1. ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P72
  2. ^ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P75
  3. ^ 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P76

参考文献[編集]

関連項目[編集]