冉魏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
冉魏
大魏
後趙 350年 - 352年 前燕
冉魏の位置
冉魏の領域。
公用語 漢語(中国語
首都
皇帝
350年 - 352年 冉閔
変遷
建国 350年
前燕によって滅亡 352年

冉魏(ぜんぎ、拼音:Rǎnwèi、350年 - 352年)は、中国五胡十六国時代漢族冉閔によって建てられた国。国号は単にだが、複数の時代にを国号とする国があるために、冉閔の魏を冉魏と呼んで区別する。

概要[編集]

国都は後趙の混乱に乗じて建国した。

しかし、後趙石氏政権が、連年にわたって漢人を虐待したことへの反動として、漢民族至上主義に基づく、漢族のみの国家を目指したため、異民族の勢力圏にあった華北地方においてはその勢力基盤は脆弱で、支配領域は鄴周辺のわずかな地域に限定され、また後趙の残存勢力との争いにも国力を割かれることになり、後趙を滅ぼすことには成功するものの、建国のわずか3年後に前燕慕容儁らにより滅ぼされた。

あまりに早く滅亡したため、「五胡十六国」の一つには含まれない。

歴史[編集]

建国[編集]

東晋永和6年(350年)2月、石閔が石鑑を殺すと、司徒の申鍾,司空の郎闓ら48人は石閔に帝位に就くよう迫った。石閔はいったん李農に譲ろうとしたが、李農が固辞したため、南郊で皇帝の位に就き、改元して永興とし、国号を大魏と定め、ふたたび姓を冉氏に戻した。一方、石鑑の死を聞いた石祗襄国で帝位に就き、周辺の異民族や州郡の兵を招集して冉閔討伐をおこなった。そのため、冉閔は使者を臨江の東晋のもとへ送って援軍の要請をしたが、返事はなかった。

4月、石祗が石琨率いる10万を派遣して鄴を攻撃し、進んで邯鄲を占拠した。しかし、冉閔は邯鄲で石琨を大敗させ、続く蒼亭で張賀度らを大敗させる。11月、冉閔は10万を率いて襄国の石祗を攻撃した。

後趙との戦い[編集]

永興2年(351年)、襄国包囲から100日余りが経つと、石祗が皇帝の号を棄てて趙王と称した。一方で石祗は前燕慕容儁族の姚弋仲のもとへ使者を送って援軍を要請しており、姚弋仲は息子の姚襄を滆頭から、慕容儁は将軍の悦綰を龍城から、そして相国の石琨が冀州からと、3方向から計10万余の兵が石祗の援軍に駆け付けた。

3月、冉閔は車騎将軍の胡睦に長蘆で姚襄と戦わせ、将軍の孫威に黄丘で石琨と戦わせたが、2人とも敗れてしまう。石琨らの軍はさらに進軍してくるので、冉閔自らも出撃したが、姚襄,悦綰,石琨ら3軍の前に大敗し、冉閔はわずか10数騎で鄴に奔走した。この一連の戦乱のせいで、司州冀州は大飢饉となり、中原の人口は一気に減少し、土地も荒廃した。

後趙を滅ぼす[編集]

石祗は劉顕の7万に鄴を攻撃させた。しかし、冉閔は逆に劉顕軍を大敗させ、さらに追撃して陽平に追い詰めると3万余級を斬首した。劉顕は恐れて冉閔に請降し、石祗を殺すことで許しを請うことにした。さっそく劉顕は石祗ら10数人を殺して首を鄴に伝え、人質を送って命を請うた。冉閔は石祗の首を道端で焼かせた。

5月、冉閔の兗州刺史である劉啓は鄄城をもって東晋に帰順。7月、劉顕はふたたび衆を率いて鄴を攻撃したが、冉閔はこれを破った。帰還した劉顕は襄国で帝位に就いた。8月、冉閔の徐州刺史の周成,兗州刺史の魏統,豫州の冉遇,荊州刺史の楽弘は皆城をもって東晋に帰順した。平南将軍の高崇,征虜将軍の呂護は洛州刺史の鄭系を捕え、三河をもって東晋に帰順した。慕容彪は中山を攻め落とし、冉閔の寧北将軍である白同,幽州刺史の劉準を殺し、前燕の慕容儁に降った。

永興3年(352年)、劉顕が常山を攻撃したため、太守の蘇亥は冉閔に救援を求めた。冉閔は大将軍の蒋幹らを留めて太子の冉智を補佐して鄴を守らせ、自ら8千騎を率いて常山を救った。ここで劉顕の大司馬・清河王である劉寧が冉閔に降ったので、冉閔はその余衆を収めて劉顕を撃ち、これを敗るとともに襄国まで追撃した。時に劉顕の大将である曹伏駒が内応して開門させたため、冉閔は襄国に入ることができ、劉顕およびその公卿以下100余人を誅殺して襄国の宮室を焼き、その民衆を鄴に遷した。

滅亡[編集]

4月、慕容儁率いる前燕軍が幽,薊を降して冀州に至った。冉閔の軍は騎馬で出撃し、慕容恪と魏昌城で遭遇した。初めのうちは冉閔軍が優勢だったものの、慕容恪の鉄鎖攻撃によって冉閔軍は馬を失い、一気に壊滅。冉閔は前燕軍に捕えられて龍城に送られ、まもなく斬首された。

慕容儁は慕容評を遣わして鄴を包囲した。鄴の城内は飢餓で人間同士が食い合っている状態であった。冉閔の太子である冉智はまだ幼かったため、蒋幹は侍中の繆嵩,詹事の劉猗を遣わして東晋に帰順すると同時に、東晋に援軍を要請させた。しかし、東晋の濮陽郡太守である戴施が劉猗らを遮り、伝国璽を差し出すよう要求してきた。そこで劉猗らは戴施ら100余人とともに鄴に戻り、伝国璽を差し出した。伝国璽を手に入れた戴施はそれをすぐさま東晋の都に送り、東晋の穆帝に献上した。ここでようやく晋朝に伝国璽が返還される。時に長水校尉の馬願,龍驤将軍の田香は開門して慕容評に降り、前燕軍を鄴の城内に引き入れた。戴施,何融,蒋幹の3人は何とか脱出して倉垣に奔走したが、冉閔の妻である董氏,太子智,太尉の申鍾,司空の條攸,中書監の聶熊,司隸校尉の籍羆,中書令の李垣及び諸王公卿士は慕容評に捕えられて薊に送られてしまう。また、尚書令の王簡,左僕射の張乾,右僕射の郎粛は自殺した。

こうして冉魏は完全に滅亡した。

冉魏の皇帝[編集]

冉隆(祖父)と冉瞻(父)の諡号は冉閔によって追尊されたものなので、実際に帝位に就いたわけではない。

廟号・諡号 姓名 在位 元号
元皇帝 冉隆
烈祖高皇帝 冉瞻(石瞻)
1 武悼天王 冉閔 350年 - 352年 永興350年 - 352年

関連項目[編集]

脚注[編集]


参考資料[編集]

  • 晋書』(戴記第七 石季龍下、戴記第十 慕容儁)