慕容恪

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慕容 恪(ぼよう かく、不詳[1] - 367年5月)は、五胡十六国時代前燕政治家武将である。太原桓王。元恭鮮卑慕容部の出身であり、昌黎郡棘城県(現在の遼寧省義県の北西)の人。慕容皝の第4子で、兄に慕容儁、弟に慕容垂慕容徳がいる。前燕の中原進出に大きく貢献し、全盛期を築き上げた。後世の人より五胡十六国随一の名将であると評される[2]

生涯[編集]

若き日[編集]

幼い頃から慎み深く思いやりがあり、思慮深く物怖じしない性格であった。また、子供とは思えないほどの度量の広さも持ち合わせていたという。しかし、母の高氏は父の慕容皝からの寵愛は受けられず、慕容恪自身も父から目を掛けられていなかった。[3]。15歳で身長が八尺七寸(約2m)になり、雄々しい性格と武勇を持つようになり、天下の趨勢をよく論じた。この頃になると、慕容皝は彼の才器に気が付き、次第に重用されるようになった。慕容恪は一軍を与えられ、父の征伐に幾度も従軍し、戦場において奇策を交えながら臨機応変に戦い、大いに功績を上げた[3]

頭角を現す[編集]

338年5月、後趙石虎が数十万といわれる大軍を前燕に侵攻させ、本拠地の棘城を包囲した。後趙軍は四方から一斉に攻撃を開始したが、慕輿根らが昼夜力戦したため、十日余りの後に諦めて退却を始めた。慕容恪は二千の兵を率いて城を出ると、撤退する後趙軍に奇襲をかけた。後趙の諸軍は散々に打ち破られ、兜を棄てて逃げ散った。この戦いで彼は三万人以上殺すか生け捕りにした。[4]

338年12月段部の首領段遼が、密雲山から後趙へ降伏の使者を派遣したため、石虎は征東将軍の麻秋に三万の兵を与えて段遼を迎えに行かせた。だが、段遼は途中で心変わりして前燕にも密かに降伏の使者を派遣した。慕容皝は自身で軍を率いて段遼を迎えに来るとともに、麻秋を攻撃するため、密かに段遼と連絡を取って、慕容恪に七千の精鋭兵を率いて密雲山に伏兵として潜伏させた。進軍してきた麻秋の軍は三蔵口において、慕容部の軍に打ち破られて大打撃を受け、陽裕を生け捕りにされた。麻秋の軍はは兵卒の六、七割方が戦死し、麻秋は馬を棄てて逃走した[4]

遼東征伐へ[編集]

339年冬、慕容皝に命じられ、弟の慕容覇(後の慕容垂)とともに宇文部の別部を攻撃した[4]

341年10月度遼将軍となり、遼東の鎮守を任された。慕容恪は平郭に駐屯すると、幾度も高句麗の軍を破り、大いに勢威を示した。高句麗は彼の武勇に恐れをなし、積極的に事を構えようとはしなくなった[3][4]

344年2月、慕容皝は宇文部逸豆帰討伐の為、親征を行った。前鋒将軍は慕容翰、副将は劉佩とし、慕容恪、慕容軍、慕容覇(後の慕容垂)及び折衝将軍慕輿根に兵を与え、三道に分けて進軍させた。逸豆帰は、南羅大の渉夜干へ精鋭を与えて迎撃させたが、渉夜干は敗れて斬り殺された。逸豆帰は漠北へ逃走を図り、高句麗へ亡命した。こうして、宇文部は散亡した。この戦勝により、前燕は領土を千里余り広げた[5]

345年10月、慕容恪は高句麗討伐に向かい、南蘇城を陥落させると、守備兵を留め置いて帰還した[5]

346年1月、慕容儁と共に一万七千の騎兵を率いて、夫余の討伐に向かった。慕容儁は陣中で指示を行うのみで、戦場の一切は慕容恪に任せられた。彼は自ら最前線に赴くと、矢石に身を晒し鋒を手にして戦場を駆け回り、向かう所敵無しであった。この戦いで夫余を降し、王と部落5万人余りを捕虜として連行した[5]

348年9月、慕容皝が死に次男の慕容儁が後を継いだ。慕容皝は臨終の際、慕容儁に向けて「中原はいまだ統一できておらず、大事の途上にある。恪は智勇共に申し分ない。儁よ、恪を重く用い覇業の助けとせよ。」と残した[3]。慕容儁は遺言に従って慕容恪を親任した[6]

349年4月、慕容儁によって、輔国将軍に任じられる[6]

前燕の柱石[編集]

冉魏撃破[編集]

350年冉閔が後趙の皇族らを殺害し、で帝位に就いて冉魏を建国した。2月、慕容儁が大混乱に陥っていた後趙の討伐に向かうと、慕容恪はその先鋒となった。慕容儁の軍は、薊、范陽などを攻略した[6]

351年8月、慕容恪は冉魏の勢力圏である中山を攻撃した。中山郡太守侯龕は籠城して動く気配が無かったため、常山を迂回して九門へ陣を布いた。すると、趙郡太守李邽が郡を挙げて降伏してきたので、これを厚く慰撫した。そして、引き返して中山を包囲しようとしたところ、李邽への厚遇を知った侯龕も降伏した。中山へ入った慕容恪は、降伏した冉魏の将帥と土豪達数十家を薊へ移住させたが、それ以外の者は安撫した。彼の軍は規律が非常に厳しく、わずかほども軍令を犯すことは無かったという[7]

352年4月、慕容恪は後趙を滅ぼして華北最大の勢力となった冉魏討伐のために軍を起こした。冉閔は安喜に陣を布いていたので、慕容恪もこれに向かった。冉閔は恐れて常山に移動すると、慕容恪は追撃し、魏昌の廉台(現在の河北省無極県の東)にて両軍は対峙した。前燕軍は十戦を交えたが、冉魏軍の守りは固く一度も打ち破ることは出来なかった。元々、前燕にも冉閔の勇名は轟いており、率いる兵も精鋭揃いだったため、前燕軍の兵卒は初めて恐れを抱いた。そこで慕容恪は各陣地を巡回し「冉閔は勇猛果敢な人物であるが、無策であり一夫の敵に過ぎない。その士卒は飢えと疲労に苦しんでいる。武器は立派に見えるが、その実用い難く使い物にならない。撃破するなど容易いことである。」と激励して回ったため、兵卒は士気を取り戻した[7]

冉魏軍には歩兵が多く前燕軍には騎兵が多かったため、冉閔は戦場を林の中へ持ち込もうとしていた。慕容恪の参軍高開は「林の中では我等は不利です。軽騎を派遣して、速やかに敵を捕捉させましょう。そして負けたふりをして退却し、敵を平地へ誘い込んだ後、全軍で攻撃するのです。」と献策すると、慕容恪はこれに従った。冉魏軍が策にはまって平地へ誘い出てくると、慕容恪は全軍を三隊に分けて諸将へ「敵は勢いに乗っている。その上、兵力で劣ることも知っているので、必死の勢いで攻めてくるであろう。よって、我が率いる中軍は、陣を厚く集中させて敵を待ち受ける。合戦になるのを待ってから、お前たちは両側から敵を挟撃せよ。そうすれば必ず勝てるであろう。」と命じた。そして、射撃の巧い鮮卑五千人を選ぶと、鉄の鎖で馬を結んで方陣の前方に配置した。冉閔は前燕軍を攻め立てて三百余りの首を斬ると、その勢いのまま全軍を挙げて敵の本陣へ突撃した。しかし、陣の先頭には鎖で繋がれた騎兵達が陣取っていたため、突入できずにとまどっていると、前燕軍の両翼がこれを挟撃して魏軍を大いに破った。冉閔は幾重にも包囲されてしまい、これを突破して東へ逃走を図ったが、前燕軍に捕らえられた。冉閔の他にも、董閏張温を捕らえて皆、薊へ送った。冉閔の子の冉操は魯口へ逃げた。

慕容恪は滹沱に駐屯すると、冉魏の将である蘇彦は将の金光に騎兵数千を与えて慕容恪を攻撃させたが、慕容恪はこれを撃破して金光を斬った。蘇彦は大いに恐れ、并州へ逃走した。慕容恪が進軍して常山へ到達すると、段勤は慕容覇が本拠地である繹幕に攻めてきたこともあって、戦意を喪失して降伏を申し出た。その後、慕容恪は慕容儁の命により中山を鎮守した[7][8]

魯口攻略[編集]

352年7月、冉操を匿っていた元後趙の将王午は安国王と自称し、魯口(現在の河北省饒陽県)に拠って前燕に対立する構えを見せた。

8月、慕容恪は、封奕陽騖を引き連れて王午の攻撃に向かった。王午は籠城を図ったため、城外の食糧を略奪して兵糧攻めを取った。

10月、慕容恪軍は安平に陣を布き、兵糧を蓄えて城攻めの準備を整えた。この時、中山の蘇林が無極にて挙兵し、天子と自称した。慕容恪は蘇林討伐の為に魯口から引き返すと、援軍として派遣された慕輿根と共に蘇林軍を攻撃し、これを斬り殺した。同じ時期、王午は配下の将軍秦興に殺され、その秦興も呂護に殺された。呂護は安国王と自称し魯口を守った[7]

352年11月、慕容儁が皇帝に即位すると、慕容恪は侍中に任じられた[8]

353年3月、常山の李犢が兵数千を集めると、反旗を翻して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容儁は李犢の討伐を慕容恪に命じると、彼はすぐさまこれを降伏させた。その後、東に向かい、魯口の呂護を攻撃した。11月、慕容軍・慕容彪らとともに、慕容覇を「大きな任務を統べるべき才能がある」と推挙した。慕容覇は、安東将軍・冀州刺史に任じられ、常山を鎮守することとなった。この時には、衛将軍に就任していた。

354年3月に魯口を包囲した上で攻め降し、呂護は野王に逃走した。これにより前燕の領土はさらに拡大した。

同年4月、慕容儁により、慕容恪は太原王に封じられると共に、大司馬、侍中、仮節、大都督、録尚書事を拝命した[7]

段部討伐[編集]

段部の首領である段龕は、冉閔の乱が起こった際、混乱に乗じて令支から兵を率いて南下を開始、東の広固(現在の山東省青州市の北西)に拠点を構え、勢力を大きく広げていた。段龕は自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れて鎮北将軍に任命されていた。

355年10月、段龕は慕容儁に書簡を送り、皇帝に即位したことを強く非難したため、慕容儁は激怒した。11月、慕容儁は慕容恪を撫軍将軍に任じて段龕の討伐を命じ、陽騖・慕容塵を随行させた。また、慕容儁は段龕が一地方で強大な勢力を持っていたので、慕容恪へ「もし段龕が軍を派遣して河で拒んで渡る事が出来なかったならば、代わりに呂護を攻めてから還るのだ」と告げた。12月、慕容恪は軍を分けて軽騎兵のみを先に黄河北岸に到達させると、敵の状況を探りながら慎重に渡河を行った。段龕の弟段羆は、慕容恪は用兵に巧みでその兵の士気は盛んであるため、河を渡り切る前に攻撃すべきだと主張したが容れられなかった。段羆は頑なまでに求めたため、段龕は怒って段羆を斬り殺した[9]

356年1月、慕容恪は渡河を終えると、広固まで百余里の所まで軍を進めた。これに対して段龕は、兵三万を率いて済水の南で迎え撃った。慕容恪は段龕軍を大いに撃ち破り、弟の段欽を捕らえ、右長史袁範らを討ち取った。段龕配下の斉王友辟閭蔚もまた傷を負ったが、慕容恪は彼が賢人である事を聞いていたので、人を派遣して救おうとしたが、果たせなかった、ここにおいてその兵はほとんどが降伏した。段龕は広固に逃げ戻ったため、そのまま軍を進め、広固を包囲するに至った。

2月、諸将が慕容恪に速攻を勧めたが、これに慕容恪は 「軍勢を用いるには緩急を見極めることが最も肝要である。お互いの軍勢が均衡しており、敵に強力な援軍があって背後を突かれる危険がある場合には、急攻した方がよいであろう。その速さこそが、大利であると言える。我が軍の方が敵より優勢であり、外からの救援が無く、力でもって制する事が出来る場合は、軍を留めて撃って出ずに時を待てばいい。兵法の言う十囲五攻は、この事を言っているのだ。段龕は配下の将兵と恩で結しており、兵の心もまだ離れていない。済南の戦いにおいては、段龕の兵は精強であったが、単に無策であったために敗北に至ったまでである。しかし今は、要害の地を更に固めており、軍の上下は心をひとつにしている。それでも攻守の勢は倍しているが故、軍の常法の通りに進めればよいのである。このまま攻撃に出れば、大した時間を掛けずに攻略することができるであろうが、恐らく我が士兵に少なからず損害が出てしまうであろう。出征して以来、兵は安寧を取る事が出来ないままだ。私はいつもそれが気がかりで、忘寝したことすら忘れるくらいだ。人命を軽んじてはならない。ここは持久戦とする。」と答えた。諸将は皆、「我らの及ぶところではありません」と言い、慕容恪の見識の深さに感心し、軍中の兵卒はこれを聞くと皆感動した。慕容恪は深い塹壕を掘ると共に、土塁を堅固に仕立て、さらに畑を耕した。段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕が任命した徐州刺史王騰・索頭単于の薛雲らは軍を挙げて降伏した。慕容恪は王騰に今まで通りの職務を任せ、陽都を鎮守させた。

8月、段龕は東晋に使者を派遣して救援を求めた。穆帝は北中郎将の荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍の強勢に恐れをなし、琅邪に至った所で、それ以上は進軍しなかった。この時、王騰が鄄城に進攻していたが、荀羨はその隙を突いて陽都を攻め破って王騰の首級を挙げると、広固の救援には赴かずに軍を返した。広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であり、追い詰められた段龕は城から打って出たが、慕容恪は囲里においてこれを破った。段龕は退却を図ったが、慕容恪は予め兵を分けて諸々の門に配しており、散々に打ち破った。段龕自身はかろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。これにより城中の士気は激減した。

11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭すると、前燕から反逆して段龕に帰順していた朱禿を薊に送った。慕容恪は広固に入ると、まずは民心の安定に努めた。こうして斉の地を尽く領有すると、鮮卑や羯族三千戸余りを薊に移住させた。慕容塵に広固を守らせ、慕容恪は軍を返して帰還した。これにより、段部は滅亡した[9]

河南へ侵攻[編集]

358年8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が北伐を敢行し、前燕領の東郡を攻撃した。慕容恪はこれの迎撃に当たり、諸葛攸の軍と数度の戦闘を繰り広げ、大敗させた。慕容恪は、進軍を続けて河南へと至り、守宰を置いた[9]

359年10月、東晋の北中郎将謝万は、梁宋に軍を進めてこれを占領していたが、友軍の郗曇が退いたこともあって、慕容恪に恐れをなして逃走した。許昌、潁川、譙、沛を尽く前燕の領有するところとなり、後に帰還した。これにより前燕の支配地域は黄河以南にも及び、東晋には大きな脅威となった[9][8]

幼主の補佐[編集]

同年、12月、慕容儁が病を発して床に伏せがちになると、慕容恪を呼び出した。「私の病気は、もはや治る事はないであろう。短命でこの身を終えることになろうとは、悔やんでも悔やみきれぬ。未だ二寇(東晋、前秦)の脅威は除かれておらず、太子の景茂(慕容暐の字)もまだまだ幼少であり、この多難な時代を乗り切れるとは思えない。そこで、の宣公に倣って、社稷を汝に任せようと考えている(宣公は自らの子與夷ではなく、弟の穆公を後継ぎとした)。」 と述べ、慕容恪に帝位を譲ろうとした。慕容恪は 「太子はまだ幼いとは言え、天より聡聖を与えられております。必ずや聡明な君主となるでしょう。正統を乱してはいけません。」 とこれを辞退する旨の答えを返すと、慕容儁は 「兄弟の間で、どうしてうわべを飾る必要があるのか。」 と怒った。この言葉に慕容恪は 「陛下がもし、この恪を天下の任に堪え得る者とお考えであるならば、どうして幼主を補佐できる事と思われないのでしょう」と、後継に立つより補佐に回る事を求めた。この言葉を聞くと慕容儁は大層喜び、「もし汝が、周公のように事を行ってくれるのであれば、憂うることなど何もない(周公旦は、甥である周朝第2代王の成王が幼少の時に摂政となったが、成人すると政権を返して臣下の地位に戻った)。李績は清方にして忠亮な男であるから大事を任せられるだろう。李績と協力して景茂を盛り立ててほしい。」 と述べた[9][10]

360年1月、慕容儁が崩御した。群臣たちはみな慕容恪に後を継ぐよう求めたが、彼は 「我が国には皇太子がおられる。私の出る幕ではない。」と固辞した。若年の慕容暐がその跡を継ぐと、太宰・録尚書事・行周公事に任命され、遺言どおり政務全般を司ることとなった。慕容評が太傅、慕輿根が太師となり、同じく朝廷の重鎮とされた。だが 慕輿根の性格は頑固で、過去の勲功をひけらかし、心中では慕容恪を見下しており、挙動には傲慢さが満ちていた。皇太后の可足渾氏は、政治に口出しを行っていたので、慕輿根はこれを契機に国を乱そうと考え、慕容恪に言った。「今、主君は幼く、母后は政治に深く介入しており、我らを遠ざけようとしております。殿下、どうか不足の事態に注意して下さい。それに、今の国を築いたのは殿下の功績であり、兄が死んで弟が受け継ぐのは古今の習わしでもあります(の時代の法であった)。先帝の埋葬が済んだら幼主を廃立して代わって王になられるのが宜しいかと思います。殿下自ら尊位に即くことで、大燕に無窮の幸福をもたらすことになりましょう」と。慕容恪は憤慨し、「お前は酔っているのか。何というたわけた事を言うのだ。私は先帝の遺詔を受けた身である。どうしてそのような事を考えることができようか。お前は先帝のお言葉を忘れたというのか。」と述べると、慕輿根はひどく恥入り、謝罪して退出した。この事件を、慕容恪が弟の慕容垂へ告げると、彼は誅殺を勧めた。しかし慕容恪は、「今、先帝が崩御されたばかりであり、晋も秦も我が国の隙を窺っている。そのような時に、宰相同士が殺し合ったら、国民からは幻滅され、晋・秦からは乗じられる。今は耐え忍ぶべきだ。」 と言った。秘書監の皇甫真は、「慕輿根という男は、根はもともと凡庸な者に過ぎないのが、先帝の厚恩を賜って、今の地位まで引き立てられたのです。しかしその本性は見識のない小人のままであり、それが先帝崩御以来日に日にひどくなっております。このままでは大乱へ至ります。あなたは周公のごとき地位にあるからには、社稷のことを考えて速やかにこれを謀るべきでしょう」と慕容恪へ言った。それでも、慕容恪は国内の混乱を考えて、これに従わなかった[11]

慕輿根は、武衛将軍の慕輿干と結託して慕容恪及び慕容評を誅殺して実権を奪おうと考えていた。そのため、可足渾氏と慕容暐へ向けて、「太宰と太傅が謀反を企てております。私が近衛兵を率いて彼らを誅殺することをお許しください。」と奉った。可足渾氏はこれに従おうとしたが、慕容暐が「二人は国家の忠臣です。先帝が選んで私たちを託したのです。そのような愚かな事はしません。それに、太師(慕輿根)こそが造反を考えている張本人でないとも限りません」 と述べたため、取りやめとなった。又、慕輿根は龍城を懐かしみ、可足渾氏と慕容暐へ向け、「今、天下は混迷し、外敵も一つではありません。この国難に当たり、龍城へ戻られるのが一番です。」と言い、還都を強行しようとした。これを聞いた慕容恪は、慕輿根の傲慢さが日増しにひどくなっていることを憂い、ついに誅殺することを決心した。慕容評と謀り、密かに慕輿根の罪状を奏上して、これを誅殺した。慕輿根の妻子・与党も罪に伏して誅されることとなったため、慕容恪は他の士民が妄動することが無いよう、民心を安んじさせる為に大赦を下した。宰相の一人が殺されたので内外の人々は恐々としたが、慕容恪は普段と変わらぬ態度と行動を取ったため、次第に人心は落ち着いていった。 出入りの時にも従者さえ連れずに一人で歩いたため、ある者が警備兵を連れるよう説いたが、慕容恪は言った。「人情は恐々としている。彼等を安堵させることが先決である。私がここで動揺していたら、一体誰が落ち着けるというのか。」と[11]

慕容儁が死亡したとの報を聞くと、東晋の朝臣達は北伐の好機と勇み立った。だが、大司馬の桓温は言った。「慕容恪が政権を握った。かえって厄介になった。」と[11]

その後慕容恪は、慕容暐の補佐として朝廷において執政を開始した。360年3月、慕容儁を龍陵に埋葬し、景昭皇帝と諡した。慕容恪は、弟の慕容垂を使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・兗州牧・荊州刺史として梁国の蠡台を鎮守させ、孫希を并州刺史とし、傅顔を護軍将軍とした。また、自ら騎兵二万を率いて河南へ兵を動かし、淮河へ臨むと、国境付近に広がっていた動揺は全て収まったという。11月、李績を右僕射に推薦したが、慕容暐の反対に遭ったため、李績は用いられなかった[11]

361年方士の丁進は慕容暐の寵愛を受けていたが、慕容恪に媚びを売ろうとして慕容評を殺して政権を独占するよう説いた。慕容恪は激怒し上奏して丁進を捕え、これを斬った。

全盛期を築く[編集]

野王攻略[編集]

361年2月、野王(現在の河南省沁陽市)に一大勢力を築いていた呂護がその領民を率い、東晋へ降伏を求めたため、東晋は呂護を冀州刺史に任命した。呂護は、東晋の軍隊を引き入れて前燕の都である鄴を襲撃しようと目論んだ。3月、慕容恪は五万の兵を引き連れて呂護の討伐に向かい、皇甫真にも一万の兵を与えて従軍させた。野王城外に至ると、呂護は籠城した。前燕の護軍将軍傅顔は、軍費節減の為に速攻をかけることを進言したが、慕容恪は言った。「呂護は老獪な相手であり、どんな奇策を使うやも知れぬ。それにあの防備では容易に落とせそうもない上に、力攻めは被害が大きく多くの精鋭を殺すことになってしまう。敵には兵糧の蓄えが無く、救援の見込みもないのだから、我々はしっかりと防備を固め、兵卒に休養を取らせつつ、その間に離間工作を進めようと考えている。我々は疲れず、敵軍は日々勢いを無くしていくであろう。そうすれば三箇月も経たぬうちに陥せる。なんで多くの兵卒を殺せようか。」と[11]

包囲を始めて数箇月が経ち、追い詰められていた呂護は配下の張興を出撃させたが、傅顔により撃退され、張興は戦死した為、城内の士気はさらに下がった。食糧が尽きた呂護は、皇甫真の陣営へ夜襲を掛けたが、皇甫真は備えを十分にしていたため突破できなかった。慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛け、呂護の軍は大打撃を受け、呂護は妻子を棄てて滎陽へ逃げた。慕容恪は降伏した者へ食糧を供給した。呂護の兵卒は鄴へ連行したが、それ以外の者は束縛せず自由にさせた。また、呂護の参軍の梁琛を中書著作郎に抜擢した[11]

洛陽制圧[編集]

363年8月、慕容恪は東晋の勢力下にあった旧都洛陽の攻略準備に取りかかった。まず人を派遣し、士民を招納した。すると、遠近の砦が次々と帰順してきた。そこで彼は、司馬の悦希を盟津へ陣取らせ、豫州刺史の孫興を成皋へ陣取らせた[11]

364年2月、慕容恪は、呉王慕容垂と共に洛陽攻撃を開始した。諸将へ向け、「卿等は以前、私が積極的に攻撃を仕掛けないと不平を言っていた。今、洛陽城は力窮まり、容易に勝てるであろう。ここで畏懦して怠惰に流れてはならぬ。」と鼓舞し、全軍でもって総攻撃を掛けた。一か月の間猛攻を続けると、遂に3月に洛陽は陥落し、揚武将軍の沈勁沈充の子)を捕らえた。沈勁は自若として少しも畏れなかったので、慕容恪は気に入り、彼を釈放しようとした。しかし、中軍将軍の慕輿虔は、「沈勁は確かに奇士です。しかし、あの態度を見るに、二君に仕える人間ではありません。今、もし彼を釈放したら、必ず後の患いとなります。」と進言したため、諦めて処刑した[11]。これにより前燕はさらに領土を広げ、中原最大の勢力となった。

慕容恪は余勢を駆って西進して前秦の領土まで軍を進めたので、前秦は大いに震え上がった。苻堅は自ら陜城へ出向き、前燕軍の侵攻に備えた。だが、慕容恪はこれ以上の転戦は危険であると判断し、前秦と事を構えずに鄴へ帰還した[11]

鄴へ戻った後に慕容恪は、かつて辟閭蔚を死なせたしまったこととともに、沈勁を帰順させることが出来ず殺してしまったことを天下に恥じると、語ったという[11]

366年3月、慕容評とともに、政務を慕容暐に返上するとともに辞職を求めたが、慕容暐によって許されなかった。

呉王推挙と死[編集]

367年4月、慕容恪は、慕容暐へ向けて言った。「呉王(慕容垂)の才覚は、私に十倍します。しかし先帝は、幼長の序列を重視して私を宰相となさったのです。私が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい。」と[12]

5月、慕容恪は病により重篤に陥った。慕容暐は自ら見舞いに出向き、後事を問うた。すると慕容恪は「恩に報いるには、賢人を薦めるのが最上であると言います。例え下賤の民でも、賢人ならば重く用いるべきです。ましてや近親の者なら尚更です。呉王は文武両道であり、管仲蕭何に劣りません。もしも陛下が彼を大任すれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう。」 と述べた[11]

慕容暐はまだ幼かったため、今後も太傅の慕容評が政務を司ると考えられていた。そのため慕容恪は、慕容暐と同様の進言を慕容評へも行った。だが、慕容評は猜疑心が強い男だったので、才覚のある人間を大司馬にしないのではないかと恐れた慕容恪は、慕容暐の庶兄の安楽王慕容臧に言った。「今、南には晋がおり、西には秦がいる。二国とも我が国を狙っており、我が国が隙を作れば、すぐにでも襲いかかって来るだろう。そこで、国の興廃は宰相にかかっている。中でも大司馬は、六軍を統率する重要な地位であり、それに見合う人物を得なければならない。私が死んだ後は、おそらくお前かが大司馬に推されるだろう。しかし、お前達は才覚があり明敏ではあるが、いかんせんまだ若く、多難の時節には力不足だ。呉王の慕容垂は天資の英傑であり、その知略は世を超絶している。もしもお前達が、大司馬の地位を奴に譲るならば、必ず四海を統一できる。ましてや外敵など、恐るるに足らん。よいか、身を慎め。利に溺れて害を忘れてはならん。ましてや、国家を忘れてはならんぞ。」と[11]

それだけ言い残し、一月余り後にこの世を去った。国中の人々は皆その死を痛惜したという。桓と諡された[11]

その後[編集]

慕容恪の死後、国の実権は慕容評が握ったが、慕容恪の遺言には従わず、次第に慕容垂は遠ざけられた。慕容垂は、慕容恪の死に乗じて侵攻してきた東晋軍を撃退するなど功績を重ねたが、さらに慕容評の恨みを買い、皇太后の可足渾氏にも疎まれたため、身の危険を感じて前秦の苻堅の下に亡命した[12]

その後前燕は、前秦の宰相王猛らの攻勢により徐々に劣勢に立たされ、まず洛陽が陥落した。そして、晋陽や上党など主だった都市も次々と攻められ、苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落した。慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕はあっけなく滅亡した。慕容恪の死からわずか3年のことであった。

慕容垂は前秦の将軍として前燕滅亡後も活躍し、晩年には後燕を建国することになる。

人物[編集]

政治家として[編集]

細かい事に口うるさく言わなかったが、朝廷における礼節だけは厳格に遵守した。何か事が起きた際は必ず慕容評と合議を行い、決して専横するようなことはなかった。名士と接する時は謙り、その才覚を量って適切な位へ付けた。官僚や朝臣に過失があっても表沙汰にはしないで、他のことに仮託してそれとなく揶揄した。そのため言われた人は大いに反省し、二度と行わないのが常であった。これによって、百官はその徳に教化され、罪を犯す者はほとんどいなくなった[3]

公務を終えて帰宅した後は、表情を緩めて笑顔に戻り、家族に孝行を尽くした。また、書物をいつも手にし勉学に励んでいたという。

前燕の僕射悦綰は、慕容恪の死後、「慕容恪の政治は寛和を第一とし、民の多くがこれに従いました。『春秋』によれば『徳有る者は寛をもって衆人に臨み、猛はそれに次ぐ。』といいます。」と述べ、慕容恪を称えると共に、暗に現在の慕容評の統治を批判している[10][13]

司令官として[編集]

将と接する際、威圧的な態度で臨んで強制的に物事に当たらせるのではなく、信任する事によって人を動かす事に腐心した。士卒に対しては、概略をつかむ事に努めさせ、細かな規則で彼らを混乱させる事はしなかった。平時においては、将兵の中に法を破る者が出ても、不問に付した。しかし、盗賊の頭を捕えるとその首を軍中に晒して、本来罪を犯せばこうなるというのを見せつけて軍を戒めた。常に厳格に部下を統率して防御に当たらせたため、最後まで彼が敗戦を喫する事は無かった。

評価[編集]

前秦の王猛が鄴の統治に当たった際、それまでに横行していた略奪や乱暴狼藉は全て収まった。王猛の政治は寛大であり法令は簡潔であったため、民は落ち着き、生業に精を出せるようになった。彼等は互いに言い合った。「はからずも今日、太原王(慕容恪)の治世が甦るとは、思いもよらなかった。」と。それを聞いて、王猛は嘆息した。「慕容玄恭(慕容恪、玄恭は字)はまことに、一代の奇士であった。古き良き時代の遺愛を持っていた。」と述べ、太牢を設けて慕容恪を祀ったという[14]

北魏の宰相崔浩は、拓跋嗣(明元帝)との語らいの中で、「王猛が長く治国に当たっていたならば、苻堅にとっての管仲となったでしょう。慕容玄恭が長く少主を補佐していたならば、慕容にとっての霍光と成り得たでしょう。」と述べた[15]

唐代の史館が選んだ中国史上六十四名将の一人に選出されている(武廟六十四将)。他に五胡十六国で選ばれているのは王猛だけである[16]。また、『十七史百将伝』や『広名将伝』でも取り上げられ、高い評価を受けている。

子孫[編集]

子に慕容楷慕容紹慕容粛がいる。慕容楷は慕容垂が前秦に亡命した際にも付き従い、後の後燕建国に貢献している。慕容紹も同じく慕容垂に従って活躍している。

慕容粛は前秦が淝水の戦いに敗北して後に崩壊してゆく際、従兄弟である慕容暐に従い、苻堅暗殺を謀ったが発覚し処刑された。

東魏慕容紹宗は慕容恪の末裔といわれている。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ 晋書』「載記」では慕容恪が15歳で兵を授かったとあり、『資治通鑑』では慕容恪が軍を率いたと記録される最初の年が338年であるため、生年は324年以前と推測できる。
  2. ^ 《陳寅恪魏晋南北朝史講演録》:貴州人民出版社,2008年 による
  3. ^ a b c d e 『晋書』『慕容恪載記」巻111
  4. ^ a b c d 『資治通鑑』巻96
  5. ^ a b c 『資治通鑑』巻97
  6. ^ a b c 『資治通鑑』巻98
  7. ^ a b c d e 『資治通鑑』巻99
  8. ^ a b c 『晋書』「慕容儁載記」巻110
  9. ^ a b c d e 『資治通鑑』巻100
  10. ^ a b 『晋書』「慕容暐載記」巻110
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m 『資治通鑑』巻101
  12. ^ a b 『晋書』「慕容垂載記」巻123
  13. ^ 『慕容政権の支配構造の特質 : 政治過程の検討と支配層の分析を通して』:小林聡,1988年 による
  14. ^ 『資治通鑑』巻102
  15. ^ 『資治通鑑』巻118
  16. ^ 『新唐書』礼楽志 巻15 による

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

  • 『慕容政権の支配構造の特質 : 政治過程の検討と支配層の分析を通して』:小林聡,1988年[1]